▽ 補注:東南アジア

カンボジア  ラオス  タイ  ミャンマー  三仏斉
 

カンボジア

扶南
 1世紀半頃にメコン=デルタに建てられた古王国。扶南は山を意味するクメール語の“プノム”に由来するという。 現地の女王と外来のバラモン僧との通婚で成立したと伝えられ、2世紀に新王朝を始めた范師蔓はベトナム南部〜チャオプラヤ川流域・マレー半島を支配したという。 嗣王の范旃は3世紀前半の人物で、インドのクシャーン朝や中国の呉国と国交し、4世紀半ばにクシャーン王族の竺旃檀が即位し、同世紀末にはインドのバラモン僧カウンディンヤが迎えられて新王朝を開いたという。 この頃にインドからの移民が増加して扶南のインド化が進展し、シヴァ派の信仰が盛行して仏教も僅かながら行なわれた。
 6世紀半頃よりメコン川中流域に抬頭した真臘に次第に圧迫されてナヴァナガラ(アンコール=ボレイ)に遷都したが、7世紀前半に滅ぼされた。

真臘
 チャンラ。メコン川流域に建てられたクメール人国家。 はじめメコン川中流域の部族連合体として扶南に隷属していたが、6世紀頃より自立の傾向を強め、7世紀前期に扶南を併呑してラオス南部〜コーチシナに及ぶ大国となり、トンレサップ湖南部東郊に国都イーシャナプラを営んだ。 8世紀初頃に内訌から連合体が崩壊して北部の陸真臘と南部の水真臘に分裂し、共に内部では離合盛衰があり、水真臘は8世紀後半頃にジャワのシャイレンドラ朝の支配下に置かれた。
   
アンコール朝 :9世紀初頭にジャヤ=ヴァルマンII世によって独立を回復し、再統合された真臘の王朝。 アンコール地方を王畿に定め、タイのチャオプラヤ川流域にも進出してモン族と抗争し、11世紀にはドヴァーラヴァティを崩壊させた。 海上交易で繁栄してアンコール=ワットに代表される多数の壮大な建造物と彫刻を築き、極盛期とされるジャヤ=ヴァルマンVII世の時代(1181〜1218?)にはアンコール=トムが造営され、チャンパを征服してコーチシナをも支配し、国都のヤショーダラプラは世界屈指の都市として「地上の楽土」とも称された。 以後は南下するタイ族に圧迫されて急速に衰え、1431年にはアユタヤ朝の攻勢でアンコール地方を放棄し、黎朝ベトナムの圧迫も加わってメコン川下流域を保つ小勢力に没落した。18世紀前期にベトナムの広南政権にメコン河口部を占領された事で実質的に独立を失った。

 
 

ラオス

ランサーン王国
 ランチャン王国とも。タイ族系ラオ族の政権。ランサーンは“百万頭の象”を意味し、南詔の余裔が建てたともいわれる。 14世紀にアンコール朝の支援で内訌が収拾されたのち1353年にシエントーン(ルアン=パバン)を国都とし、南部のチャンパサック方面までを支配して初めてラオス国家の形を示し、アンコール朝の影響で上座部仏教を信奉した。
 15世紀に入るとベトナムとの関係が悪化し、1479年には後黎朝の聖宗にルアン=パバンを陥されてシエンクワンを奪われた。 1520年に即位したポーティサラはタイのラーンナー王国と通婚し、ラーンナーの内訌の混迷化に対して王子のセタティラートをチェンマイ王として送り、短期間(1546〜50)ながらも連合王国体制が行なわれた。 程なくラーンナー王国はビルマのタウングー朝との係争地となり、ヴィエンチャン遷都(1560)アユタヤ朝との通婚などで対抗を図ったが、アユタヤの陥落とセタティラートの死後、1574年にヴィエンチャンを陥されてタウングー朝の管理下に置かれ、この時期にタウングー朝の支配を遁れたラオ族がチャンパサック地方に南下した。
 1603年に独立を回復し、内戦状態を収拾したスリニャ=ウォンサ(在:1638〜90)によって国内外が安定すると上座部仏教をはじめとする文化・文芸が隆盛したが、その死後は再び混乱し、18世紀初頭にアユタヤ朝の干渉もあってヴィエンチャン王国ルアン=パバン王国チャンパサック王国に分裂した。

ヴィエンチャン王国  ▲
 ルアン=パバン王国が分離した後のランサーン王国。ルアン=パバン制圧の要請に応じたアユタヤ朝の圧力によって王国の分割を承認し、1713年にはチャンパサック王国にも独立された。 対立関係にあるタイのトンブリー朝とビルマのコンバウン朝の双方に通誼し、そのためビルマ軍を撃退したトンブリー朝によって1777年に征服・属領化された。 タイのチャクリ朝に支持されたセタティラートIII世の治世(1803〜29)で最盛期を迎えて多くの造営事業が興されたが、バンコック侵攻計画が露見し、ヴィエンチャンは徹底的に破壊されて主権はタイに接収された。

ルアン=パバン王国
 1706年にランサーン王国から分離し、1778年にヴィエンチャンを滅ぼしたタイのトンブリー朝に征服・属領化された。 19世紀後期にパンゼー(雲南ムスリム)の残党や黒旗軍の来冦が続いて1887年にはヴィエンチャンが劫掠され、王族がフランスに庇護された事でフランスによる保護国化が進み、宗主権を主張するタイがフランスに敗れた仏泰戦争(1893)でフランスの保護国となった。
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 第二次大戦中の日本軍の進出に乗じて独立が宣言され、日本の敗戦で国王が撤回したのち独立派/自由ラオス党が臨時政府を組織してタイで抵抗を続けた。 ラオス王国は1949.07にフランス連合内での独立(外交・防衛の放棄)を認められ、プーマ王子ら自由ラオスの穏健派が王国政府に合流し、強硬派はパテト=ラオ政府を樹立して1951年よりカンボジア・ベトナムの反仏派とインドシナ合同民族統一戦線を結成して反仏ゲリラ戦を開始した。 ラオスは1953.10にフランスからの完全独立を獲得し、全外国軍の撤退と共に、パテト=ラオ軍の北部2県への撤収と軍事権・行政権の王国政府への移管が定められた。
 以後はアメリカの進出が著しく、親米的な王国政府と反米派が糾合されたNLHS(パテト=ラオが主力)の内戦状態に陥り、ベトナムと併行してアメリカによる空爆なども行なわれた。 アメリカ軍がベトナムから撤退した翌年(1974)に暫定国民連合政府が発足し、1975年に大規模デモで右派の主導体制が崩壊して王制の廃止と共和制への移行が決した。

チャンパサック王国
 ヴィエンチャン王国から分離したラオス南部の政権。 17世紀末のランサーン王国の内訌で敗れた王族が拠り、ラオスの弱体化を図るアユタヤ朝の干渉で1713年に独立した。 1779年にタイのトンブリー朝によって属領化され、1815年の内乱で王統が絶えるとヴィエンチャン王国の王子を国王に迎えたが、ヴィエンチャン王国の離叛に与して廃された後はタイによる統制が強化された。 1893年の仏泰戦争の後はフランスが宗主国となり、1899年に仏領インドシナ連邦に編入されてチャンパサック王は県知事として存続が認められた。

シエンクワン王国
 アンナン山脈北麓のジャール平原に営まれた政権。 ランサーン王国内の藩王国として存続していたが、18世紀末に西山朝ベトナムに伐たれてその朝貢国となり、ヴィエンチャン王国が廃された後はタイのチャクリ朝が宗主権を主張してベトナムとの係争が続いた。 仏泰戦争の後、1899年にベトナムとラオスに分割されてインドシナ連邦に編入された。

 
 

タイ

ドヴァーラヴァティー
 6世紀頃から史料に現れる、チャオプラヤ川下流域のモン族を中心とした都市連合。 上座部仏教を信奉し、海上交易によって栄えたと考えられている。 伝承ではB300年頃に建てられたスワンナプーム王国を発祥とし、B200頃にインド=マウリア朝のアショーカ王との交渉で仏教を受容したという。 中国の資料によって存在が確認されたが、スマトラのシュリーヴィジャヤの進出以降は中国に消息が伝わらず、ドヴァーラヴァティ―洋式の美術品の分布から盛時にはコラート地方にも勢力を及ぼし、11世紀頃にアンコール朝の進出やタイ族の南下などで崩壊したと考えられている。

ラヴォー王国
 7世紀前期に真臘の影響でドヴァーラヴァティから独立した、チャオプラヤ川下流域東岸のロッブリーの政権。10世紀にアンコール朝に征服され、11世紀に入るとビルマのパガン朝との係争地となった。

ハリプンチャイ王国  ▲
 ハリブンジャヤとも。8世紀頃にチャオプラヤ川上流域のラムプーン地方に建てられたモン族の王国。 ラヴォー王国からの移民が建国したとも伝えられ、10世紀頃よりロッブリーの帰属をアンコール朝と争ったものの敗れ、1023年にはラムプーンに侵攻された。 11世紀半ばにはコレラと思われる疫病が流行して衰退し、これよりタイ族の南下が始まって1281年にラーンナー王国に滅ぼされた。 ドヴァーラヴァティ―とハリプンチャイ王国の崩壊によって、モン族の主流はペグ―(バゴー)を中心とした下ビルマに遷った。

ラーンナー王国  1259〜1558
 チェンマイ王国とも。 チェンセン地方で勢力を培ったタイ族が南遷し、チャオプラヤ川上流部に建てた政権。1281年にハリプンチャイ王国を滅ぼした事で先進的なモン族文化を摂取し、後にラーンナー文化と呼ばれる仏教を基盤とした独自の文化を形成した。 1296年にチェンマイを王都とし、14世紀頃より仏教文化が栄え、15世紀にはタイ北部一帯の征服を進めてスコータイを巡ってアユタヤ朝との角逐も始まり、又た後黎朝ベトナムに逐われたランサーン王子を庇護して王国の復興を支援した。 16世紀に外征の失敗と内訌で急衰し、1558年にビルマのタウングー朝に征服された。
 ビルマの支配下で諸都市の自立化が進み、ビルマとタイの係争の中でチェンマイ王家の自立性は殆ど失われ、1599年よりチェンセンを中心とする北部とチェンマイを中心とする南部に分治された。 1774年にタイのタークシン王に通誼して自治を大幅に回復し、以後もチャクリ朝の朝貢国としてタイの中央集権政策が進められる20世紀初頭まで存続した。

スコータイ朝  1238?〜1438
 タイ族最初の王朝。中国語資料では以後のタイ王国はシャムを音写した“暹羅”で表記される。 13世紀前半にアンコール朝からスコータイを掠取し、1238年頃に自立した。 チャオプラヤ川中流域を支配し、13世紀末頃のラーマ=カムヘンの治世にはマレー半島中部に及ぶ大国となり、中国元朝との国交を樹立してタイ文字も定められ、1292年には最初のタイ語碑文も建立された。 同王の死後は急衰してウートン侯(アユタヤ朝)をはじめ諸藩の自立が進み、14世紀後期のリタイ王(マハー=ターンマラーチャI世)は一時的な出家によって王権と仏教を結びつけるダルマ=ラージャ(ターンマラーチャ)思想や、バラモン教を交えて因果応報・前世功徳を強調するタイ独特の所謂る三界論を確立して権威の補助とした。 1378年にはスコータイを失ってピッサヌローク侯に没落し、1438年に継嗣が絶えるとアユタヤ朝より王統を迎えて実質的に吸収された。主要都市を中心とした各地方の独立性が強く、スコータイ王は個人的な交誼を紐帯とした為に王の資質によってその勢力圏は大きく消長した。

アユタヤ朝  1350〜1767
 タイ族のウートン侯スコータイ朝から独立した後、チャオプラヤ川の中〜下流域を征服してアユタヤを王都に定めたもの。 上座部仏教を国教とした一方で、ヒンドゥー経典をも参考にタイの慣習法を成文化(三印法典)した。 15世紀前期にはカンボジアのアンコール地方を征服して東南アジアの大国に発展し、マラッカ王国が独立した後もマレー半島北部を維持して海上交易が盛行し、1511年にポルトガル人が来訪してよりヨーロッパ諸国との交渉も始まって外国人も積極的に登用した。 1535年にポルトガル人傭兵を用いて侵攻してよりビルマとの攻伐が激化し、1564・69年にアユタヤを陥されてビルマの属国となり、スコータイ家のサンペットI世がアユタヤ総督とされた。
 1574年にサンペットI世の子のナレースワンが蜂起して失地回復を進め、しばしばビルマを伐ってタンルイン川以東を併せ、避戦傾向が顕著となったポルトガル人傭兵に代って日本人傭兵が重用されるようになった(〜1630)。 1663年にビルマを逃れたモン族の集団を庇護した為にビルマとの抗争が再燃し、内訌に新興のコンバウン朝の攻勢が加わり、1767年にアユタヤが陥されて徹底的に破壊され、タイはビルマによって分割支配された。
 ポルトガルが東洋から撤退した後はオランダが進出し、17世紀初頭になるとイギリス人の商業活動が認められ、オランダがチャオプラヤ川の封鎖を強行した後は事態の打開に尽力したフランスの勢力が伸長した。 伝統的に華僑の発言力が強く、1630年には政治勢力に成長していた山田長政を統領とする日本人勢力が潰滅され、フランスの躍進に対しても1688年より鎖国を以て応じたが、サンペットIX世の時代(1709〜33)に鎖国は解除された。

トンブリー朝  1767〜1782
 ターク太守のタークシンがチャオプラヤ川の河口部に興した王朝。 タークシンとはターク太守の俗称で、本名は鄭昭といい、中国の潮州を本貫として母をタイ人とする華僑。 タークシンはビルマのコンバウン朝によってアユタヤが陥されるとトンブリーに拠って自立し、清緬戦争でビルマ軍がタイから撤退した事に乗じて1770年頃までにマレー半島やアンコール地方を含む失地を殆ど回復し、北部のラーンナー地方やカンボジア・ラオスに対する主権も回復した。 1777年にはハティエン(メコン=デルタ西方地区)を征服し、しばしばビルマにも遠征軍を発したが、晩年には精神を病んで兇暴となり、1780年に廃されたのちカンボジア遠征から帰還したラーマI世に処刑された。

チャクリ朝  1782〜 ▲
 バンコック朝・ラタナコーシン朝とも。トンブリー朝の将軍だったラーマI世が輿望に押されて簒奪し、トンブリー東郊に造営した新都バンコックに奠都したもの。 アユタヤ朝の再興を標榜した。 英緬戦争(1826〜85)が始まると欧米との国交が開かれ、又たビルマの外圧が払拭された事でカンボジアの征服が図られたが、ベトナムに敗れて共管地として妥協した。 阿片戦争(1840)や第二次英緬戦争(1852)の後はヨーロッパ諸国の進出が露骨となった一方で欧米の文物の流入も増し、ラーマV世(在:1866〜1910)の中央集権を軸とした近代化改革(チャクリ改革)に結実した。 この間、属国のルアン=パバン王国の保護を誤った為にフランスによるラオスの保護国化が進行し、仏泰戦争(1893)で敗れてラオスに対する宗主権を放棄した。 以後、雲南ルートを模索するイギリス・フランス両国が武力衝突を回避する為にタイは緩衝国として独立を保ち、20世紀に入ると現在の国境線がほぼ確定した。
 建国当初から王室が鄭氏を称するなど華僑の勢力が強く、イギリス・フランスによる領土・経済面での侵略もあってタイ人の窮乏化は深刻となり、ラーマVI世の時(1910〜25)に鄭姓や華僑優遇を撤廃するなど国粋主義が宣揚されたが、放漫財政から絶対王制に対する反撥も醸成され、立憲派のラーマVII世の時に王党派に対する人民党のクーデターで立憲君主制に移行した。 第二次大戦では日本と同盟して失地回復を図ったが、その一方で抗日運動“自由タイ運動”を黙認した為、戦後は敗戦国に列する事を免れた。 戦後は軍事クーデターが続き、麻薬栽培の禁止やインフラの整備・外資の導入などで高い経済成長を遂げた反面でラオス内戦への介入などが行なわれ、又た東南アジアで貴重な親米国として国際的にも重視された。

 
 

ミャンマー

驃国
 下ビルマのプローム(ピエー)に都した、チベット=ビルマ語族系のピュー族の古王国。 2世紀頃には中国でも知られ、唐代中国に仏教音楽を伝えた事でも知られる。盛時にはビルマ全域に及ぶ連合政体を形成して真臘南詔と接し、18属国、9城鎮、298邑落を擁したと伝えられる。9世紀頃に南詔の侵攻で崩壊した。

パガン朝  1044〜1314
 上ビルマのパガンに興った、ビルマ族による最初の王朝。 東方のシャン族を征服して雲南王国を撃退し、ペグ―(バゴー)をはじめとする下ビルマのモン族系の諸王国を征服した事でモン族文化を摂取し、上座部仏教を導入するなどビルマ文化の基礎を築いた。 アラカンやマレー半島北部にも進出してアンコール朝とも攻伐し、国内では多くの寺院を建立して仏教王朝とも称された。 中国宋朝に入貢したものの元朝への朝貢は拒んで1287年にはパガンを陥され、この頃より王国の分解とシャン族のミンザイン王国による傀儡化が進んで1314年に滅ぼされた。

ミンザイン王国  〜1364?
 パガンに東接したチャウセー平原のシャン族政権。 13世紀末にはパガン朝とは別に中国元朝に朝貢して王位を認められ、程なくパガン朝を傀儡化して1314年に王権を譲渡された。 都市国家連合だったらしく、1312年にピンヤを王都としたものの1315年以降は対岸のサガーインが並立し、1364年にムンマオ王国に滅ぼされた。

ムンマオ王国  〜1442?
 タンルイン川以西に拡がったタイ族(大タイ/大百夷/タイヤイ)のうち、マオ=シャン族による王国。 モンゴルによる大理王国パガン朝の衰退によってシュエリー川上流のセラン(ムセ)に自立し、交易路の掌握で成長して盛時にはミンザイン王国を崩壊させ、シャン高原〜アッサム地方に及ぶ広範な小邦連合を形成した。 14世紀後期には内訌から求心力を失い、頻りに雲南を侵したため15世紀入るとしばしば明朝に伐たれ、1442年の大敗とアヴァ朝による攻勢で崩壊した。

アヴァ朝  1364〜1555 ▲
 上ビルマのシャン族の王朝ミンザイン王国が内訌とムンマオ王国の侵攻で壊滅した後、王族によってアヴァに再興された政権。 諸都市に対する統制力は弱く、亦た1422年頃までは下ビルマのペグ―朝との抗争が絶えず、その後は内訌と諸都市の叛抗に忙殺され、1442年にムンマオ王国を大破した明朝に討破された。 これより諸都市の自立化が顕著となり、殊に北部のシャン族都市モーニンと南部のタウングーが抬頭し、タウングーと結んでモーニンに相対したものの1527年にはアヴァが陥され、モーニンの王子がアヴァ王とされた。 モーニンは内訌とタウングーとの抗争で1542年に没落し、アヴァ政権も仏教弾圧で民心を失ったのち内訌状態に陥り、1555年にタウングー朝に征服された。

ペグ―朝  1281〜1530
 シャン族のパガン朝から独立した下ビルマのモン族の政権。 1281年にマルダバン(モッタマ)で独立してより諸都市の征服を進め、1287年にペグ―を征服して下ビルマを統合した。1369年よりペグ―(バゴー)を王都としたが、程なく上ビルマのアヴァ朝との抗争が始まり、15世紀後期に和睦が成って貿易と上座部仏教が盛行したものの、1530年にタウングー朝に征服された。
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 ペグ―はタラーインとも呼ばれ、6〜7世紀頃にモン族のタトーン王国の植民都市として興されたという。 1056年にパガン朝に征服されたが、パガン朝の衰亡に乗じて自立し、1287年にモン族のマルダバン王国(ペグ―朝)に征服された。 1369年よりペグ―朝・タウングー朝を通じて概ね(1369〜1530、1539〜99、1613〜34)王都とされた。

タウングー朝  1486〜1752
 下ビルマに興されたビルマ族の王朝。アヴァ朝から自立した後も通婚を保って16世紀初頭にはチャウセ平原を獲得し、ポルトガル傭兵を用いてタイに進出する一方で1530年にペグ―朝を、1555年にはアヴァ朝を滅ぼし、北ビルマやシャン高原、東インドにも進出した。 1558年にラーンナー王国を、1564年にはアユタヤ朝を降してタイ全土を属国化したが、王の才腕に依存した未熟な治国体制から16世紀末には分裂状態に陥った。 17世紀初頭に混乱が収拾されて上ビルマやシャン高原も回復されたが、イギリス東インド会社の進出が始まり、1740年よりイギリスと結んだペグー政権が勃興し、1752年に滅ぼされた。

コンバウン朝  1752〜1885
 タウングー朝が滅ぼされた後、モン族(ペグー政権)の支配を拒んで興された。 1756年にペグー政権を滅ぼしてビルマを再統合し、次いで1767年にタイのアユタヤ朝を征服したが、シップソーンパンナの宗主権を清朝と争って清緬戦争(1765〜69)を惹起し、清軍を悉く撃退したもののその間にトンブリー朝によってタイの支配権を失った。 又た18世紀末よりアラカンを征服してマニプールやアッサムの支配を進めた事でイギリス東インド会社と衝突し、1824年より3度に及ぶ英緬戦争の末に王都マンダレーが陥され、翌年(1886)に英領インドに併合された。

 
 

シュリーヴィジャヤ王国
 スマトラ島東南部に勃興し、7世紀半頃に急速に興隆した勢力。大乗仏教が盛行し、中国では室利仏逝と記された。パレンバンを王都とし、マラッカ海峡の両岸を押さえて海上交易路を掌握し、海港都市を統べる海洋王国として発展した。 8世紀後期にはマレー半島中部のリゴール(ナコンシータマラート)にも支配を及ぼしたが、この頃には南シナ海の制海権はジャワのシャイレンドラ王家に移っていたと考えられる
   
シャイレンドラ朝 :7世紀頃にジャワ中部に興った、大乗仏教を信奉した王朝。シャイレンドラとはサンスクリット語で“山の王家”を意味し、扶南との関係や、クメール族の仏教信奉への影響も指摘される。中国の資料では訶陵国と記された。 8世紀半頃より南シナ海で最も有力な海上勢力となり、775年にはマレー半島中部のナコンシータンマラートにも支配を及ぼしていた。唐の代宗の大暦2年(767)にハノイの安南都護府を襲った崑崙闍婆軍はシャイレンドラ朝に比定され、又たジャワ中部にボロブドゥール遺跡を造営した王朝としても知られる。
 9世紀に入るとジャワではヒンドゥー教勢力が優勢となり、シュリーヴィジャヤ王家との通婚で打開を図ったものの程なくジャワを逐われ、シュリーヴィジャヤに迎えられて王統が保たれた。 シャイレンドラ朝シュリーヴィジャヤは中国では“三仏斉”と表記され、アラブ=ムスリムの海上交易の発展と伴に最盛期を迎えた。 11世紀に入って制海権を争うインドのチョーラ朝やジャワのクディリ朝に伐たれて凋落し、王都をジャンビやムラユに西漸させた後のパレンバンは旧港と呼ばれて中国人系の海賊の巣窟となり、15世紀前半にジャワのマジャパヒト朝に滅ぼされた。

マジャパヒト朝  1293〜
 ジャワのシンガサリ朝の王婿のヴィジャヤが、元軍を撃退して島東のマジャパヒトに開いた王朝。元朝との冊封関係を樹立して交易で繁栄し、宰相のガジャ=マダの執政期(1328〜64)にはシュリーヴィジャヤを滅ぼしてマラッカ海峡・スンダ海峡を制圧し、海上交易路を独占した。 ガジャ=マダの死後は内訌から分裂し、マラッカ王国が明朝の南海船団の寄港地となった事で一帯の主港としての機能を著しく損なった。 又た15世紀にはイスラム教の進出で各地にイスラム政権が樹立され、15世紀末〜16世紀初頃にドゥマク王国に滅ぼされた。
 ドゥマク王国はムスリム系華僑の建国とも、マジャパヒト王室の分国とも伝えられるが、15世紀半頃にはイスラム教を奉じ、ジャワ島北部のムスリム諸国の盟主になっていたと考えられている。頻繁な外征で16世紀半頃に衰亡した。
△ 補注:東南アジア

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