三國志修正計画

三國志卷十七 魏志十七/張樂于張徐傳

張遼

 張遼字文遠、雁門馬邑人也。本聶壹之後、以避怨變姓。少為郡吏。漢末、并州刺史丁原以遼武力過人、召為從事、使將兵詣京都。何進遣詣河北募兵、得千餘人。還、進敗、以兵屬董卓。卓敗、以兵屬呂布、遷騎都尉。布為李傕所敗、從布東奔徐州、領魯相、時年二十八。

 張遼、字は文遠,雁門馬邑(山西省朔州市朔城区)の人である。本来は聶壱[※]の後裔で、怨みを避けて姓を変じたものである。

※ 聶壱は『史記』や『漢書』に聶翁壱とある馬邑地方の富豪。朝廷と謀って匈奴と密貿易を行ない、信用を得た後に馬邑城の明け渡しを偽って軍臣単于の要撃を策したが、直前に露見して失敗した。

少時に郡吏となり、漢末、幷州刺史丁原が張遼の武力が人を過(こ)えている事から召して従事とし、兵を率いて京都に詣らせた。何進が河北に遣って募兵させ、千余人を得て帰還したが、何進は敗れており、兵を率いたまま董卓に属した。

 幷州従事としての張遼の動きは、張楊と同じものと思われます。この時期、丁原は西園八校尉の筆頭となった蹇碩の要請に応じて麾下の武将を洛陽に派遣しています。張楊と張遼はその双璧かな?蹇碩の目に止まったのは張楊だったようですが。蹇碩を殺した何進は兵力増強のために諸将を地方に派遣しますが、酸棗に集った王匡も本来はそのクチです。張遼はどうやら早目に洛陽に帰還していたようです。

董卓が敗れると兵を率いて呂布に属し、騎都尉に遷った。呂布が李傕に敗れると呂布に従って徐州に東奔し、魯国相を領した。時に齢二十八だった。

太祖破呂布於下邳、遼將其衆降、拜中郎將、賜爵關内侯。數有戰功、遷裨將軍。袁紹破、別遣遼定魯國諸縣。與夏侯淵圍昌豨於東海、數月糧盡、議引軍還、遼謂淵曰:「數日已來、毎行諸圍、豨輒屬目視遼。又其射矢更稀、此必豨計猶豫、故不力戰。遼欲挑與語、儻可誘也?」乃使謂豨曰:「公有命、使遼傳之。」豨果下與遼語、遼為説「太祖神武、方以コ懷四方、先附者受大賞」。豨乃許降。遼遂單身上三公山、入豨家、拜妻子。豨歡喜、隨詣太祖。

曹操が下邳に呂布を破ると張遼はその軍勢を率いて降り、中郎将に拝されて爵関内侯を賜った。 しばしば戦功があって裨将軍に遷った。袁紹を破るとき、張遼を別に遣って魯国の諸県を平定させた。夏侯淵と与に東海に昌豨を囲み(劉備の離叛に応じたもの)、数月して軍糧が尽きると軍議で兵を引き帰還する事となった。張遼が夏侯淵に謂うには 「ここ数日、諸囲を巡視すると、昌豨はそのたび私を目視しています。又た矢を射かける事は全く稀で、これはきっと昌豨の計に猶予(ためらい)があり、だから力戦しないのです。どうか与に語る機会を戴きたい。誘う事ができるやもしれません」 かくして使者から昌豨に謂わせるには 「曹公の命令があった。張遼に伝えさせよう」 昌豨は果たして城を下りて与に張遼と語った。張遼は説いた 「曹操は神武であり、徳によって四方を懐って居られる。先附すれば大いに賞を受けられよう」 昌豨はかくして降伏を許した。張遼は単身で三公山に登り、昌豨の家に入って妻子を拝した。昌豨は歓喜し、随って曹操に詣った。

太祖遣豨還、責遼曰:「此非大將法也。」遼謝曰:「以明公威信著於四海、遼奉聖旨、豨必不敢害故也。」從討袁譚・袁尚於黎陽、有功、行中堅將軍。從攻尚於鄴、尚堅守不下。太祖還許、使遼與樂進拔陰安、徙其民河南。復從攻鄴、鄴破、遼別徇趙國・常山、招降縁山諸賊及K山孫輕等。從攻袁譚、譚破、別將徇海濱、破遼東賊柳毅等。還鄴、太祖自出迎遼、引共載、以遼為盪寇將軍。復別撃荊州、定江夏諸縣、還屯臨潁、封都亭侯。從征袁尚於柳城、卒與虜遇、遼勸太祖戰、氣甚奮、太祖壯之、自以所持麾授遼。遂撃、大破之、斬單于蹋頓。

曹操は昌豨を還らせてから張遼を責めた 「これは大将の作法ではない」 張遼は謝罪した 「明公の威信は四海に著れ、遼は聖旨を奉じておりました。昌豨はきっと害を加えないと考えたのです」 黎陽の袁譚・袁尚の討伐に従い、功があって行中堅将軍となった。鄴の袁尚攻撃に従ったが、袁尚は堅守して下らず、曹操は許に帰還し、張遼と楽進に陰安を抜かせ、その民を河南に徙した。復た鄴攻略に従い、鄴を破ると張遼は別に趙国・常山を徇(めぐ)り、縁山の諸賊および黒山の孫軽らを招降した。袁譚攻略に従い、袁譚が破れると別将として海浜を徇り、遼東の賊の柳毅らを破った。鄴に還ると曹操自ら張遼を出迎え、引いて共に(車に)載り、張遼を盪寇将軍とした。復た別将として荊州を撃って江夏の諸県を平定し、帰還して臨潁に駐屯し、都亭侯に封じられた。
柳城に袁尚討伐に従い、卒(にわか)に虜(烏桓)と遭遇すると張遼は曹操に交戦を勧め、気勢は甚だ奮って曹操はこれを壮とし、自らの麾(はた)を張遼に授けた。かくて撃って大破し、単于蹋頓を斬った[1]

 時荊州未定、復遣遼屯長社。臨發、軍中有謀反者、夜驚亂起火、一軍盡擾。遼謂左右曰:「勿動。是不一營盡反、必有造變者、欲以動亂人耳。」乃令軍中、其不反者安坐。遼將親兵數十人、中陳而立。有頃定、即得首謀者殺之。

 時に荊州は未だ平定されず、又た張遼を遣って長社(許昌市長葛)に駐屯させた。進発に臨んで軍中に謀反者があり、夜間に驚乱を生じて火を起し、一軍尽く擾(みだ)れた。張遼は左右に謂った 「動くな。これは一営が尽く反いたものではない。きっと造変者が有って人々を動乱させようとしているだけだ」 かくして軍中に布令し、反かない者には安坐させた。張遼は親兵数十人を率いて陣中に立ち、(騒動の)定まる頃合いに首謀者を得てこれを殺した。

陳蘭・梅成以氐六縣叛、太祖遣于禁・臧霸等討成、遼督張郃・牛蓋等討蘭。成偽降禁、禁還。成遂將其衆就蘭、轉入灊山。灊中有天柱山、高峻二十餘里、道險狹、歩徑裁通、蘭等壁其上。遼欲進、諸將曰:「兵少道險、難用深入。」遼曰:「此所謂一與一、勇者得前耳。」遂進到山下安營、攻之、斬蘭・成首、盡虜其衆。太祖論諸將功、曰:「登天山、履峻險、以取蘭・成、盪寇功也。」摎W、假節。

陳蘭・梅成が氐の六県[※]を以て叛き、曹操は于禁・臧霸らを遣って梅成を討たせ、張遼は張郃・牛蓋らを督して陳蘭を討った。

※ 造叛して獲えられた氐族が徙民された廬江地方の六県。例えば巴蛮などは伝統的に江夏に徙民されていて、黄巾の乱では趙慈に与しています。廬江地方は氐族の徙民先の定位置の一つだったと思われます。

 陳蘭はもとは袁術の部曲将で、同僚の雷薄と与に落ち目の袁術を見限って灊山に拠り、立ち行かなくなった袁術が頼ってきても撃退した人物です。曹操に帰順した件は劉馥伝を参照。その後も自治圏を認められていたと考えられます。この時の陳蘭らの造叛は、直接には赤壁の役が原因となったようです。雷薄と雷渚、梅乾と梅成の関係は不明です。

梅成は偽って于禁に降り、于禁は帰還した。梅成はかくて部衆を率いて陳蘭に就き、灊山(安徽省六安市霍山)に転入した。灊山には天柱山があり、高峻二十余里に亘り、道は險狭で歩行できる径が裁(わず)かに通じていた。陳蘭らはその上に壁(とりで)した。張遼が進もうとすると諸将は 「兵は少なく道は険しく、深入は困難です」 張遼 「これは所謂る一と一というものだ。勇者が前進できるだけだ」 かくて進んで山下に到達して営を安んじ、これを攻めて陳蘭・梅成の首を斬り、その軍勢を尽く捕虜とした。曹操は諸将の功を論じ 「天山に登り、峻険を履み、陳蘭・梅成の首を執ったのは張盪寇の功である」 封邑を増して節を仮した。

 この遠征はいつの事でしょうか。臧霸伝では曹操の南征の延長として、張郃伝では関中経略の前にありますから、建安十四年(209)夏の事になります。曹操が合肥に進駐し、揚州の郡県の長吏を任命した同じタイミングで。名目支配すら怪しかった揚州江北が、赤壁に乗じて叛旗を翻したので直接支配にようやっと着手した、という感じですね。結局これが成功しない事は呂蒙伝ほかで見られます。

 太祖既征孫權還、使遼與樂進・李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯、教與護軍薛悌、署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬衆圍合肥、乃共發教、教曰:「若孫權至者、張・李將軍出戰;樂將軍守護軍、勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰:「公遠征在外、比救至、彼破我必矣。是以教指及其未合逆撃之、折其盛勢、以安衆心、然後可守也。成敗之機、在此一戰、諸君何疑?」李典亦與遼同。於是遼夜募敢從之士、得八百人、椎牛饗將士、明日大戰。平旦、遼被甲持戟、先登陷陳、殺數十人、斬二將、大呼自名、衝壘入、至權麾下。權大驚、衆不知所為、走登高冢、以長戟自守。遼叱權下戰、權不敢動、望見遼所將衆少、乃聚圍遼數重。遼左右麾圍、直前急撃、圍開、遼將麾下數十人得出、餘衆號呼曰:「將軍棄我乎!」遼復還突圍、拔出餘衆。權人馬皆披靡、無敢當者。自旦戰至日中、呉人奪氣、還修守備、衆心乃安、諸將咸服。權守合肥十餘日、城不可拔、乃引退。遼率諸軍追撃、幾復獲權。太祖大壯遼、拜征東將軍。建安二十一年、太祖復征孫權、到合肥、循行遼戰處、歎息者良久。乃摎ノ兵、多留諸軍、徙屯居巣。

 曹操は(建安十九年の)孫権征伐から帰還する際、張遼に楽進・李典らと与に七千余人を率いて合肥に駐屯させた。 曹操は張魯に遠征したが、護軍薛悌に教令を与え、函の縁辺に 「賊至乃発」 と署(しる)していた。
 (建安二十年/215)俄かに孫権が十余万の軍兵を率いて合肥を囲んだ。かくして共に函を発(ひら)くと 「もし孫権が至れば、張・李将軍は出戦し、楽将軍は護軍を守って戦う勿れ」 とあった。諸将は皆な懐疑したが、張遼 「公は遠征して外に在り、救援の至る頃には彼奴はきっと我らを破っていよう。これは包囲の完成しないうちに逆撃してその盛勢を折(くじ)き、衆心を安んじて然る後に守れと教示したものだ。成敗の機はこの一戦に在る。諸君は何を狐疑するのか?」 李典も亦た張遼に賛同した。こうして張遼は夜に敢従の士を募って八百人を得、牛を椎(うちころ)して将士に饗し、明日に大いに戦わんとした。
平旦(夜明け)に張遼は被甲持戟して先登して陣を陥し、数十人を殺し、二将を斬り、自分の名を大呼しつつ塁を衝いて入り、孫権の麾(旗)の下に到達した。孫権は大いに驚き、その軍勢は為す所を知らず、(孫権は)走って高冢に登って長戟で自身を守った。張遼は孫権に下りて戦えと叱咤したが、孫権は動かず、張遼の率いる軍勢が少数だと望見すると、(兵を)聚めて張遼を数重に囲んだ。張遼は麾囲を左右し、ただ前を急(きび)しく撃ち、包囲を開いて張遼は麾下の数十人を率いて脱出できた。残された軍勢が 「将軍、我らを棄てるのですか!」 と呼号すると、張遼は復た還って包囲を突き、余衆を抜き出した。孫権の人馬は皆な披靡し、敢えて当ろうとする者はいなかった。明け方より戦って日中に至り、呉人は気勢を奪われ、(張遼は)還って守備を修めた。衆心はかくして安んじ、諸将は威に服した。孫権は合肥を看守すること十余日、城を抜けずに引き退いた。張遼は諸軍を率いて追撃し、孫権を獲えかけた。曹操は張遼を大いに壮とし、征東将軍に拝した[2]。(翌年の)建安二十一年(216)、曹操は復た孫権を征伐して合肥に到着し、張遼の戦った処を循行すると久しいあいだ歎息した。かくして張遼の兵を増し、多く諸軍を留め、居巣に屯所を徙させた。

 私が内心で“遼来の役”と呼んでいる、張遼好きにはたまらん一戦です。曹仁の江陵攻防と同工異曲の匂いもしますが、たまたま同じような事をしたんでしょうきっと。何故か魏志呉志ともに全体を総括した記事が無く、できれば「追撃、幾復獲權」についても張遼伝で詳しく扱ってほしかった。

 關羽圍曹仁於樊、會權稱藩、召遼及諸軍悉還救仁。遼未至、徐晃已破關羽、仁圍解。遼與太祖會摩陂。遼軍至、太祖乘輦出勞之、還屯陳郡。文帝即王位、轉前將軍。分封兄汎及一子列侯。孫權復叛、遣遼還屯合肥、進遼爵都郷侯。給遼母輿車、及兵馬送遼家詣屯、敕遼母至、導從出迎。所督諸軍將吏皆羅拜道側、觀者榮之。文帝踐阼、封晉陽侯、摎W千戸、并前二千六百戸。黄初二年、遼朝洛陽宮、文帝引遼會建始殿、親問破呉意状。帝歎息顧左右曰:「此亦古之召虎也。」為起第舍、又特為遼母作殿、以遼所從破呉軍應募歩卒、皆為虎賁。

 関羽が樊城に曹仁を攻囲した時、たまたま孫権が称藩したので張遼および諸軍を召して尽く曹仁の救援に還した。張遼が至る前に徐晃が関羽を破り、曹仁の包囲は解けた。張遼は曹操と摩陂で会同し、張遼の軍が至ると曹操は輦に乗って出て労った。還って陳郡に駐屯した。文帝が王位に即くと前将軍に転じ[3]、分けて兄の張汎および一子を列侯に封じた。孫権が復た叛くと張遼を遣って合肥に還屯させた。張遼の爵を都郷侯に進め、張遼の母に輿車を賜給し、兵馬で張遼の家族が屯に詣るのを送り、張遼の母が至ったら先導・扈従にて出迎える事を敕した。督する所の諸軍の将吏は皆な道側に羅(なら)んで拝し、観る者はこれを栄誉とした。 文帝は踐阼すると晋陽侯に封じ、食邑千戸を増して前と併せて二千六百戸となった。黄初二年(221)、張遼は洛陽宮に入朝し、文帝は張遼を引いて建始殿で接見し、親しく呉を破った状況を問うた。帝は歎息して左右を顧み 「これは古えの召虎[※]だ」と。(張遼の)為に第舍を起て、又た特に張遼の母の為に御殿を作り、張遼に従って呉を破った応募の歩卒を皆な虎賁とした。

※ 周の宣王の下にあって淮夷に遠征した召の穆公。

孫權復稱藩。遼還屯雍丘、得疾。帝遣侍中劉曄將太醫視疾、虎賁問消息、道路相屬。疾未瘳、帝迎遼就行在所、車駕親臨、執其手、賜以御衣、太官日送御食。疾小差、還屯。孫權復叛、帝遣遼乘舟、與曹休至海陵、臨江。權甚憚焉、敕諸將:「張遼雖病、不可當也、慎之!」是歳、遼與諸將破權將呂範。遼病篤、遂薨于江都。帝為流涕、諡曰剛侯。子虎嗣。
六年、帝追念遼・典在合肥之功、詔曰:「合肥之役、遼・典以歩卒八百、破賊十萬、自古用兵、未之有也。使賊至今奪氣、可謂國之爪牙矣。其分遼・典邑各百戸、賜一子爵關内侯。」虎為偏將軍、薨。子統嗣。

孫権が復た称藩した。張遼は雍丘に還屯した。疾を得ると帝は侍中劉曄に太医を率いさせ遣って視疾させ、虎賁は消息を問いに道路に相い属(つらな)った。疾が瘳えぬうちに帝は張遼を迎えて行在所に就かせ、車駕で親しく臨んでその手を執り、御衣を賜って太官に日々に御食を送らせた。疾が小差(小康)して還屯した。孫権が復た叛き、帝は張遼を遣って舟に乗り、曹休と海陵に至って長江に臨んだ。孫権は甚だ畏憚し、諸将に命じて 「張遼は病んでいるとはいえ当ってはならん。慎め!」 この歳、張遼は諸将と孫権の将軍の呂範を破った。張遼は病が篤くなり、とうとう江都で薨じた。帝は流涕し、剛侯と諡した。

 イイハナシダナーっぽく締めようとしていますが、そもそも病中の張遼を無理くり行在所に呼びつけて、いろいろ特典賜って自己満に浸ってめちゃくちゃ気遣わせて心身疲弊させたのがイケナイんじゃないでしょうかね。壁に穴開けてこっそり覗くくらいの気配りは出来ないんでしょうか。それはそれで怖いですが。そもそも張遼の麾下の虎賁抜擢も、張遼軍の核を引き抜いて弱体化させる措置でもあり、文帝の好意として手放しで認めるのも躊躇われます。 最後の南征も報復戦なうえに出征中に危篤になったっぽいし…。私の曹丕嫌いの成分の28%くらいはここが原因です。ほか43%くらいは関連、于禁・王忠が9%ずつくらいですね。

子の張虎が嗣いだ。黄初六年、帝は張遼・李典の合肥の功を追念し、詔した 「合肥の役では張遼・李典が歩卒八百で賊十万を破った。古来より兵を用いてこの様な事を聞いたことが無い。今に至るも賊の気を奪っており、国の爪牙と謂うものである。張遼・李典の食邑から各々百戸を分け、一子に爵関内侯を賜わる」 張虎は偏将軍となった。薨じると子の張統が嗣いだ。
[1] 曹操が柳城に遠征しようとすると、張遼は諫めた 「許は天下の会同するところで、今、許には天子が在られます。公が遠く北征し、もし劉表が劉備を遣って許を襲わせ、ここに拠って四方に号令すれば公から時の勢は去ってしまいますぞ」 曹操の考えでは劉表はきっと劉備に任せられないと思い、かくて行なった。 (『傅子』)
[2] 孫盛曰く:そもそも兵事とは間違いなく詭道であり、奇と正とが相い補うものだ。もし将に命じて出征させれば、轂を推して権を委ね、或いは率然之形に頼り、或いは掎角之勢に憑き、群帥が不和である事は棄師之道に他ならない。合肥の守りに於いては県城は弱く援兵は無く、専ら勇者に任せれば戦を好んで生存の患となり、専ら怯者に任せれば心に懼れて保ち難い。且つ敵は多くく味方は寡勢で、(敵は)必らず貪墯の心を懐くものだ。致命の兵で貪墯の卒を撃つのだから、勢いとして必ず勝つものだ。勝った後に守れば、守りはきっと固くなるものだ。だから魏武は方員(円や方形)から推選し、異同を以て参じさせ、密教によってその用途を調節し伸ばしたのだ。事が起こって応じた事は符契を合せたようだ(ぴったりだ)。絶妙なことだ!
[3] 王は張遼に帛千匹、穀万斛を賜った。 (『魏書』)
 

楽進

 樂進字文謙、陽平衞國人也。容貌短小、以膽烈從太祖、為帳下吏。遣還本郡募兵、得千餘人、還為軍假司馬・陷陳都尉。從撃呂布於濮陽、張超於雍丘、橋蕤於苦、皆先登有功、封廣昌亭侯。從征張繍於安衆、圍呂布於下邳、破別將、撃眭固於射犬、攻劉備於沛、皆破之、拜討寇校尉。渡河攻獲嘉、還、從撃袁紹於官渡、力戰、斬紹將淳于瓊。從撃譚・尚於黎陽、斬其大將嚴敬、行遊撃將軍。別撃黄巾、破之、定樂安郡。從圍鄴、鄴定、從撃袁譚於南皮、先登、入譚東門。譚敗、別攻雍奴、破之。建安十一年、太祖表漢帝、稱進及于禁・張遼曰:「武力既弘、計略周備、質忠性一、守執節義、毎臨戰攻、常為督率、奮強突固、無堅不陷、自援枹鼓、手不知倦。又遣別征、統御師旅、撫衆則和、奉令無犯、當敵制決、靡有遺失。論功紀用、宜各顯寵。」於是禁為虎威;進、折衝;遼、盪寇將軍。

 楽進、字は文謙。陽平衛国の人である。

陽平郡は黄初二年(221)に魏郡の東部に新設された郡。濮陽〜聊城にかけての一帯。衛国は中国wikiによれば河南省濮陽市清豊とあるので漢末の東郡の頓丘ですかね。曹操が袁紹から東郡太守にしてもらった時期の参陣者ってことで、陳宮らと同期になります。

容貌は短小で、烈しい胆気で曹操に従い、帳下の吏となった。本郡に遣還されて募兵し、千余人を得て還ると軍の仮司馬・陥陣都尉とされた。濮陽の呂布、雍丘の張超、苦の橋蕤攻撃に従い、皆な先登の功があり、広昌亭侯に封じられた。安衆の張繍征伐や下邳の呂布攻囲に従って別将を破り、射犬聚に眭固を撃ち、沛に劉備を攻めて皆なこれを破り、討寇校尉に拝された。黄河を渡って獲嘉を攻め、帰還し、官渡に袁紹攻撃に従って力戦し、袁紹の将軍の淳于瓊を斬った。黎陽に袁譚・袁尚攻撃に従い、その大将の厳敬を斬り、行遊撃将軍となった。別に黄巾を撃ってこれを破り、楽安郡(山東省浜州市博興)を平定した。鄴攻囲に従い、鄴が平定されると南皮(河北省滄州市)に袁譚攻撃に従い、先登して袁譚の(南皮城の)東門に入った。袁譚が敗れ、別に雍奴(河北省廊坊市安次区)を攻めてこれを破った。
建安十一年(206)、曹操は漢帝に上表し、楽進および于禁、張遼を称えて 「武力は弘(おお)きく、計略は周ねく備わり、質は忠にして性は一途、節義を守執し、戦攻に臨む毎に督率となり、強きに奮い固きに突し、堅きを陥さざるは無く、自ら枹と鼓とを援(ひ)いて手は倦む事を知りません。又た別に征途に遣り、師旅を統御し、軍勢を慰撫すれば和協し、令を奉じて犯さず、敵に当っては勝機を制し、遺失する事がありません。功を論じ用を紀(しる)し、どうか各々に寵を顕さんことを」 こうして于禁は虎威将軍、楽進は折衝将軍、張遼は盪寇将軍となった。

 進別征高幹、從北道入上黨、回出其後。幹等還守壺關、連戰斬首。幹堅守未下、會太祖自征之、乃拔。太祖征管承、軍淳于、遣進與李典撃之。承破走、逃入海島、海濱平、荊州未服、遣屯陽翟。後從平荊州、留屯襄陽、撃關羽・蘇非等、皆走之、南郡諸郡山谷蠻夷詣進降。又討劉備臨沮長杜普・旌陽長梁大、皆大破之。後從征孫權、假進節。太祖還、留進與張遼・李典屯合肥、摎W五百、并前凡千二百戸。以進數有功、分五百戸、封一子列侯;進遷右將軍。建安二十三年薨、諡曰威侯。子綝嗣。綝果毅有父風、官至揚州刺史。諸葛誕反、掩襲殺綝、詔悼惜之、追贈衞尉、諡曰愍侯。子肇嗣。

 楽進は別軍として高幹を征伐し、北道より上党郡(山西省長治市)に入り、迂回してその背後に出た。高幹らは還って壺関を守ったが、(楽進は)連戦して首を斬った。高幹は堅守して下らず、おりしも曹操自らこれを征伐し、かくして抜いた。曹操が管承を征伐して淳于(山東省濰坊市安丘)に駐軍すると、楽進と李典を遣ってこれを撃たせた。管承は破れ、敗走して海島に逃入し、海浜は平定された。
荊州が服属しないので遣って陽翟に駐屯した。後に荊州平定に従い、留まって襄陽に駐屯し、関羽・蘇非らを撃って皆なこれを敗走させ、南郡の諸群山谷の蛮夷が楽進に詣って降った。又た劉備の臨沮長の杜普・旌陽長の梁大を討って皆なこれを大破した。

 蘇非って、あの蘇飛でしょうか。甘寧の恩人の。まぁ追及しても無益なので放置しますが。ほか、文聘伝には 「文聘は楽進と与に尋口に関羽を討ち」、先主伝で劉備が劉璋に送った書簡に 「楽進は青泥にあって関羽と相い拒ぎ」 とあり、これらは臨沮・旌陽を攻略した一環の作戦かと思われます。

後に孫権征伐に従い、楽進は節を仮された。曹操は帰還する際に楽進を張遼・李典と与に留めて合肥に駐屯させ、食邑五百を増して前と併せて凡そ千二百戸となった。楽進のしばしばの功によって、五百戸を分けて一子を列侯に封じ、進位して右将軍に遷った。建安二十三年(218)に薨じ、威侯と諡された。

 楽進の扱いはどうにも 「張遼の下」 という印象が拭いきれないのは『演義』から入った人間の悪い点ですが、官爵の推移などを見た限りだと評価は張遼よりやや上のようで、異姓としては于禁とほぼ同格。これは建安十一年の上表でも明らかです。曹丕の即位前にリタイヤした事、曹操直属として働いたために武勲が隠れてしまっている事が原因ではないかと思われます。似たような立ち位置の于禁にしても、黄巾処罰と関羽に捕まった以後のエピソードが無ければ記録量は楽進と大差有りませんし、張郃も曹操の直下を離れるまでの記録は悲しいほど少ないです。

子の楽綝が嗣いだ。楽綝は果敢剛毅で父の風があり、官は揚州刺史に至った。諸葛誕が反き、掩(たちま)ち襲って楽綝を殺した。詔してこれを悼惜し、衛尉を追贈して愍侯と諡した。子の楽肇が嗣いだ。
 

于禁

 于禁字文則、泰山鉅平人也。黄巾起、鮑信招合徒衆、禁附從焉。及太祖領兗州、禁與其黨倶詣為都伯、屬將軍王朗。朗異之、薦禁才任大將軍。太祖召見與語、拜軍司馬、使將兵詣徐州、攻廣威、拔之、拜陷陳都尉。從討呂布於濮陽、別破布二營於城南、又別將破高雅於須昌。從攻壽張・定陶・離狐、圍張超於雍丘、皆拔之。從征黄巾劉辟・黄邵等、屯版梁、邵等夜襲太祖營、禁帥麾下撃破之、斬(辟)邵等、盡降其衆。遷平虜校尉。從圍橋蕤於苦、斬蕤等四將。從至宛、降張繍。

 于禁、字は文則。泰山鉅平の人である。黄巾が起ち、鮑信が徒衆を招合したときに于禁は附従した。

 青州黄巾が蜂起した同じ頃、鮑信は何進の命令で郷里で募兵しているので、于禁はこれに応募したのでしょう。黄巾の蜂起は後付けです。

曹操が兗州刺史を兼領すると、于禁はその党衆と倶に詣って都伯となり(都伯は什長の上)、将軍の王朗に属した(件の王朗とは別人)。王朗はこれを異才とし、薦挙して于禁の才は大将軍に任ずるに足るとした。曹操は召見して与に語ると軍司馬に拝し、兵を率いて徐州に詣らせた。広威を攻めてこれを抜き、陥陣都尉に拝された。

 陥陣とは勇将・猛将に好んで附けられる名号で、楽進も同じ官が与えられています。雑号将軍ならぬ雑号都尉。呂布麾下の勇将の高順も自分の部隊を陥陣営と号しています。

濮陽に呂布討伐に従い、別軍として城南の呂布の二営を破り、又た別将として須昌に高雅を破った。寿張・定陶・離狐攻略や雍丘の張超攻囲に従い、皆なこれを抜いた。黄巾の劉辟・黄邵らの征伐に従って版梁に駐屯し、黄邵らが曹操の営に夜襲したが、于禁は麾下を帥いてこれを撃破し、黄邵らを斬ってその軍勢を尽く降した。平虜校尉に遷った。苦(河南省周口市鹿邑)に橋蕤の攻囲に従い、橋蕤ら四将を斬った。従って宛に至り、張繍を降した。

繍復叛、太祖與戰不利、軍敗、還舞陰。是時軍亂、各闕s求太祖、禁獨勒所將數百人、且戰且引、雖有死傷不相離。虜追稍緩、禁徐整行隊、鳴鼓而還。未至太祖所、道見十餘人被創裸走、禁問其故、曰:「為青州兵所劫。」初、黄巾降、號青州兵、太祖ェ之、故敢因縁為略。禁怒、令其衆曰:「青州兵同屬曹公、而還為賊乎!」乃討之、數之以罪。青州兵遽走詣太祖自訴。禁既至、先立營壘、不時謁太祖。或謂禁:「青州兵已訴君矣、宜促詣公辨之。」禁曰:「今賊在後、追至無時、不先為備、何以待敵?且公聰明、譖訴何縁!」徐鑿塹安營訖、乃入謁、具陳其状。太祖ス、謂禁曰:「淯水之難,吾其急也,將軍在亂能整,討暴堅壘,有不可動之節,雖古名將,何以加之!」於是録禁前後功,封益壽亭侯。復從攻張繍於穰,禽呂布於下邳,別與史渙・曹仁攻眭固於射犬,破斬之。

張繍が復た叛き、曹操は戦って不利となり、軍は敗れて舞陰に還屯した。このとき軍が混乱し、各々が間道を行きつつ曹操を探し求めた。于禁は独り麾下の数百人を率い、且つ戦い且つ退き、死傷者があったとはいえ互いに離れなかった。賊虜の追撃がやや緩むと、于禁は徐(おもむろ)に行隊を整え、鼓を鳴らして帰還した。曹操の所に至る前の道中で十余人が被創裸走しているのを見、于禁がその理由を問うたところ 「青州兵に劫掠されました」 と。以前に黄巾が降り、青州兵と号したが、曹操はこれを寛容に遇し、そのため縁に因って略奪したものである。于禁は怒り、その麾下に号令し 「青州兵は同じく曹公に属している。賊に還ったか!」 かくしてこれを討ち、その罪を数(せ)めた。青州兵は遽(あわて)走って曹操に詣って訴えた。

 于禁と青州兵の確執を考えてみます。于禁が最初に属したのは鮑信。その鮑信を殺したのが青州黄巾。于禁は曹操によって初めて立身しましたが、鮑信に対する恩と仕打ちを忘れてはいない筈 ―― と、青州兵の方では思っていても不思議はありません。青州兵に劫掠されたのが兗州兵だったと仮定しての妄想でした。

于禁は到着すると先ず営塁を立て、すぐには曹操に拝謁しなかった。于禁に謂う者があった 「青州兵はもう君に訴えました。どうか促(と)く公に詣って弁明して下さい」 于禁 「今、賊は後方に在り、追撃が至るのはすぐだ。先ず備えをしなければどうやって敵を待つのだ?且つ公は聡明である。譖訴など何の縁(よるべ)になろう!」 徐に塹壕を鑿って営を安んじ訖(お)え、かくして入謁し、具(つぶさ)にその状況を陳べた。曹操は悦んで于禁に謂うには 「淯水之難では吾れは危急であった。将軍は乱戦に在って能く軍を整え、暴を討って塁を堅め、動かし難い節義が有る。古えの名将といえどこれに加えるものなどあろうか!」 こうして于禁の前後の功を録し、益寿亭侯に封じた。復た穣に張繍攻略に従い、下邳に呂布を禽え、別軍として史渙・曹仁と与に射犬聚に眭固を攻め、破ってこれを斬った。

 太祖初征袁紹、紹兵盛、禁願為先登。太祖壯之、乃遣歩卒二千人、使禁將、守延津以拒紹、太祖引軍還官渡。劉備以徐州叛、太祖東征之。紹攻禁、禁堅守、紹不能拔。復與樂進等將歩騎五千、撃紹別營、從延津西南縁河至汲・獲嘉二縣、焚燒保聚三十餘屯、斬首獲生各數千、降紹將何茂・王摩等二十餘人。太祖復使禁別將屯原武、撃紹別營於杜氏津、破之。遷裨將軍、後從還官渡。太祖與紹連營、起土山相對。紹射營中、士卒多死傷、軍中懼。禁督守土山、力戰、氣益奮。紹破、遷偏將軍。冀州平。昌豨復叛、遣禁征之。禁急進攻豨;豨與禁有舊、詣禁降。諸將皆以為豨已降、當送詣太祖、禁曰:「諸君不知公常令乎!圍而後降者不赦。夫奉法行令、事上之節也。豨雖舊友、禁可失節乎!」自臨與豨決、隕涕而斬之。是時太祖軍淳于、聞而歎曰:「豨降不詣吾而歸禁、豈非命耶!」益重禁。東海平、拜禁虎威將軍。後與臧霸等攻梅成、張遼・張郃等討陳蘭。禁到、成舉衆三千餘人降。既降復叛、其衆奔蘭。遼等與蘭相持、軍食少、禁運糧前後相屬、遼遂斬蘭・成。摎W二百戸、并前千二百戸。

 曹操が袁紹を征伐した当初、袁紹の兵は盛んだった。于禁は先登となる事を願い、曹操はこれを壮として歩卒二千人を遣って于禁に率いさせ、延津を守って袁紹を拒がせた。曹操は軍を引いて官渡に帰還し、劉備が徐州を以て叛くと曹操はこれに東征した。袁紹は于禁を攻め、于禁は堅く守り、袁紹は抜くことが出来なかった。

 袁紹が二千の兵に撃退されている事が、「袁紹は子の病気を気にして小手先の出兵をした」 論の発祥となったようですが、翌月には大軍が黄河まで南下しているので、于禁に撃退されたのは前鋒の先遣隊とも考えられます。袁紹が田豊の大号令に同意しなかったのは、即座に大兵を動かせるだけの準備ができていなかったからじゃないですか? そもそも袁紹は公孫瓚を滅ぼした直後で、進言、即実行できる状況じゃなかったのかも知れませんし、袁紹にしても曹操討伐は予定外だったのかも知れません。

復た楽進らと与に歩騎五千を率いて袁紹の別営を撃ち、延津より黄河沿いに西南して汲・獲嘉の二県に至り、保聚三十余屯を焚焼し、斬首・捕虜は各々数千あり、何茂・王摩ら袁紹の将軍二十余人を降した。曹操は復た于禁を別将として原武(河南省新郷市原陽)に駐屯させ、杜氏津の袁紹の別営を撃ってこれを破った。裨将軍に遷り、この後、曹操に従って官渡に還った。曹操は袁紹と営を連ね、土山を起して相対したが、袁紹が営中に射かけさせて士卒が多く死傷し、軍中は懼れた。于禁は土山の守備を督し、力戦して気勢は益々奮った。袁紹を破ると偏将軍に遷った。
冀州が平定され、昌豨が復た叛くと于禁を遣ってこれを征伐させ、于禁は急進して昌豨を攻めた。昌豨は于禁と旧交があり、于禁に詣って降った。諸将が皆な、昌豨が降ったからには護送して曹操に詣るべきとしたが、于禁は 「諸君は公の常令を知らんのか!包囲後に降った者は赦さないとあるのを。そも法を奉じて令を行なうのが上に仕える者の節である。昌豨は旧友とはいえ、節を失ってなるものか!」 自ら臨んで昌豨と決別し、涕を隕としてこれを斬った。この時、曹操は淳于に駐軍していたが、聞いてから歎息し 「昌豨が降るのに吾れに詣らず于禁に帰したのは天命であろうか!」 益々于禁を重んじた[1]

 さて、この昌豨ですが、臧霸らと同じ泰山群賊の一人で、呂布の討滅で曹操に降り、東海地方に自治圏を認められたものです。200年に劉備の造叛に応じて曹操に叛き、この時は于禁が伐っても下せず、夏侯淵が増援に出され、張遼の説得に応じて于禁の軍門に降っています。于禁との交誼はこの時からでしょう。二度目の造叛の理由は不分明ですが、袁氏が滅ぼされたら緩衝役の自分達も自治領没収されたうえ難癖つけられて殺される、といったあたりでしょうか。
 昌豨の事は臧霸伝にも殆どありません。意図的に抹消したんじゃないかって程に。ですが一連の離叛の為に同僚の孫観らより露出度は高目になっています。この二度目の造叛の結果、206年の事として、昌豨が治めていたと思われる昌慮郡が廃止されています。

東海が平定され、于禁は虎威将軍に拝された。後に臧霸らと梅成を攻め、張遼・張郃らは陳蘭を討った。于禁が到ると梅成は手勢の三千余人を挙げて降ったが、その後に復た叛き、その兵は陳蘭に奔った。張遼らは陳蘭と相対峙したが、軍食は少なく、于禁が運糧して前後相い属(つづ)き、張遼はかくて陳蘭・梅成を斬った。食邑二百戸を増し、前と併せて千二百戸となった。

 張遼伝をご覧ください。于禁の脇の甘さが戦況を長引かせ、ペナルティとして運糧担当になった模様です。それをいかにも于禁の功績の様に操作するのが史家の筆力。

是時、禁與張遼・樂進・張郃・徐晃倶為名將、太祖毎征伐、咸遞行為軍鋒、還為後拒;而禁持軍嚴整、得賊財物、無所私入、由是賞賜特重。然以法御下、不甚得士衆心。太祖常恨朱靈、欲奪其營。以禁有威重、遣禁將數十騎、齎令書、徑詣靈營奪其軍、靈及其部衆莫敢動;乃以靈為禁部下督、衆皆震服、其見憚如此。遷左將軍、假節鉞、分邑五百戸、封一子列侯。

この時、于禁と張遼・楽進・張郃・徐晃は倶に名将とされ、曹操は征伐の毎に咸な遞(こもごも)行きては軍鋒となり、還っては後拒となった。そして于禁は軍を保持すること厳整で、賊から得た財物は一切私入せず、そのため賞賜は特に重かったが、法によって下を御したために士卒の心は得られなかった。 曹操は常(かつ)て朱霊を恨み、その営を奪おうと考え、于禁の威が重いことから于禁に数十騎を率いさせて遣り、令書を齎し、朱霊の営に詣らせてその軍を奪わせた。朱霊およびその部衆で敢えて動く者は莫く、かくして朱霊を于禁の部の下督としたが、軍勢は皆な震え服属した。(于禁が)憚られるのはこの様であった。左将軍に遷って節鉞を仮され、食邑五百戸を分けて一子を列侯に封じた。

 建安二十四年、太祖在長安、使曹仁討關羽於樊、又遣禁助仁。秋、大霖雨、漢水溢、平地水數丈、禁等七軍皆沒。禁與諸將登高望水、無所回避、羽乘大船就攻禁等、禁遂降、惟龐悳不屈節而死。太祖聞之、哀歎者久之、曰:「吾知禁三十年、何意臨危處難、反不如龐悳邪!」會孫權禽羽、獲其衆、禁復在呉。文帝踐阼、權稱藩、遣禁還。帝引見禁、鬚髮皓白、形容顇顦、泣涕頓首。帝慰諭以荀林父・孟明視故事、拜為安遠將軍。欲遣使呉、先令北詣鄴謁高陵。帝使豫於陵屋畫關羽戰克・龐悳憤怒・禁降服之状。禁見、慚恚發病薨。子圭嗣封益壽亭侯。諡禁曰詞。

 建安二十四年(219)、曹操は長安に在り、曹仁を樊にて関羽を討たせ、又た于禁を遣って曹仁を助けさせた。秋、大いに霖雨があり、漢水が溢れて平地に水が数十丈となり、于禁ら七軍は皆な水没した。于禁は諸将と高きに登って水を望見したが、回避する所がなく、関羽は大船に乗って于禁らを攻めた。于禁はかくて降り、惟だ龐悳が節を屈げずに死んだ。曹操はこれを聞くと哀歎すること久しく 「吾れが于禁を知ってから三十年になるが、意(おも)いもしなかったぞ。危に臨み難に対処するのにかえって龐悳にも及ばぬとは!」 たまたま孫権が関羽を禽え、その軍勢を獲り、于禁は復た呉に在った。文帝が踐阼し、孫権は称藩すると于禁を遣って還した。帝は于禁を引見したところ、鬚髮は皓白となり、形容は顇顦(憔悴)し、泣涕頓首した。帝は荀林父・孟明視の故事を以て慰諭し[2]、拝して安遠将軍とした。呉への使者に遣ろうとし、先ず北のかた鄴に詣って高陵に拝謁させた。帝は予め陵墓の建屋に関羽が戦勝し、龐悳が憤怒し、于禁が降伏している状況を描かせていた。于禁は見ると慚恚から発病して薨じた。子の于圭が嗣いで益寿亭侯に封じられた。于禁に諡して詞とした。
[1] 裴松之が思うに、「圍而後降、法雖不赦」とあるが、囚えてから護送しても命令に違えた事にはならない。于禁は旧交の為に万一を希冀せず、ほしいままにその好殺の心によって衆人の議に背いた。終には降虜となり、死して悪諡を加えられたのも当然であろう。
[2] 詔制 「昔、荀林父は邲で敗績し、孟明は殽で軍を喪ったが、秦・晋は更迭せず、その位を復した。その後、晋は北狄の地を得、秦は西戎の覇者となった。区々たる小国でも猶おこの様なのだ。ましてや万乗の国であるぞ?樊城の敗戦は水災が暴至したもので戦の咎ではない。よって于禁らの官を復す」 (『魏書』)
 

張郃

 張郃字儁乂、河間鄚人也。漢末應募討黄巾、為軍司馬、屬韓馥。馥敗、以兵歸袁紹。紹以郃為校尉、使拒公孫瓚。瓚破、郃功多、遷寧國中郎將。太祖與袁紹相拒於官渡、紹遣將淳于瓊等督運屯烏巣、太祖自將急撃之。郃説紹曰:「曹公兵精、往必破瓊等;瓊等破、則將軍事去矣、宜急引兵救之。」郭圖曰:「郃計非也。不如攻其本營、勢必還、此為不救而自解也。」郃曰:「曹公營固、攻之必不拔、若瓊等見禽、吾屬盡為虜矣。」紹但遣輕騎救瓊、而以重兵攻太祖營、不能下。太祖果破瓊等、紹軍潰。圖慚、又更譖郃曰:「郃快軍敗、出言不遜。」郃懼、乃歸太祖。

 張郃、字は儁乂。河間鄚(河北省滄州市任丘)の人である。漢末に黄巾討伐に応募し、軍司馬となって韓馥に属し、韓馥が敗れると兵を率いて袁紹に帰順した。

 河間郡は冀州の所属ですが、この黄巾は位置的に張純・張挙の事かもしれません。因みに韓馥が冀州牧に就いたのは189年。それにしても張遼といい張郃といい、「以兵属○○」と強調されているのが面白いところです。当時の武人はなによりもまず兵力を従えて参加してナンボだったんでしょう。楽進も自前の兵団が用意できてから武将として活動していますし。それを考えると于禁の昇進はレアだったんですね。

袁紹は張郃を校尉とし、公孫瓚を拒がせた。公孫瓚を破るにあたって張郃の功は多く、寧国中郎将に遷った。曹操が袁紹と官渡で相拒いだ時[1]、袁紹は将軍の淳于瓊らを遣って督運として烏巣(延津/河南省新郷市)に駐屯させ、曹操は自ら率いてこれを急(きび)しく撃った。張郃が袁紹に説くには 「曹公の兵は精強で、往けばきっと淳于瓊らは破れましょう。淳于瓊らが破られれば将軍の大事は去ってしまいます。どうか急ぎ兵を率いてこれをお救い下さい」 郭図 「張郃の計は宜しくありません。その本営を攻める方が宜しい。(そうすれば)勢いとしてきっと還ります。救わずとも自ずと解けます」 張郃 「曹公は営を固めており、攻めてもきっと抜けますまい。もし淳于瓊らが禽われれば吾らは尽く捕虜となりましょう」 袁紹はただ軽騎を遣って淳于瓊を救援させ、そして重装兵で曹操の本営を攻めたが下す事が出来なかった。曹操は果たして淳于瓊らを破り、袁紹の軍は潰えた。郭図は慚じ、又た更めて張郃を譖った 「張郃は軍が敗れて快哉しており、その言辞は不遜です」 張郃は懼れ、かくして曹操に帰順した[2]

 太祖得郃甚喜、謂曰:「昔子胥不早寤、自使身危、豈若微子去殷・韓信歸漢邪?」拜郃偏將軍、封都亭侯。授以衆、從攻鄴、拔之。又從撃袁譚於渤海、別將軍圍雍奴、大破之。從討柳城、與張遼倶為軍鋒、以功遷平狄將軍。別征東萊、討管承、又與張遼討陳蘭・梅成等、破之。從破馬超・韓遂於渭南。圍安定、降楊秋。與夏侯淵討鄜賊梁興及武都氐。又破馬超、平宋建。

 曹操は張郃を得ると甚だ喜んで謂った 「昔、伍子胥は早くに寤(さと)らずに自ら身を危うくした。(張郃の行ないは)微子が殷を去り、韓信が漢に帰したようなものではないか?」 張郃を偏将軍に拝し、都亭侯に封じた。軍勢を授けられ、鄴攻略に従ってこれを抜き、又た渤海に袁譚攻撃に従い、別に軍を率いて(楽進と共に)雍奴を囲み、これを大破した。柳城討伐に従い、張遼と倶に軍鋒となり、功によって平狄将軍に遷った。別に東萊を征伐して管承を討ち、又た張遼と与に陳蘭・梅成らを討って破った。渭南に馬超・韓遂らの撃破に従い、安定を囲んで楊秋を降した。夏侯淵と与に鄜の賊の梁興および武都氐を討ち、又た馬超を破り、宋建を平定した。

 結構あっさり目ですが、夏侯淵伝にあるように、馬超の追討や宋建平定では夏侯淵の先鋒として大活躍です。羌族の本拠地の青海湖方面にまで遠征しています。

太祖征張魯、先遣郃督諸軍討興和氐王竇茂。太祖從散關入漢中、又先遣郃督歩卒五千於前通路。至陽平、魯降、太祖還、留郃與夏侯淵等守漢中、拒劉備。郃別督諸軍、降巴東・巴西二郡、徙其民於漢中。進軍宕渠、為備將張飛所拒、引還南鄭。拜盪寇將軍。劉備屯陽平、郃屯廣石。備以精卒萬餘、分為十部、夜急攻郃。郃率親兵搏戰、備不能克。其後備於走馬谷燒都圍、淵救火、從他道與備相遇、交戰、短兵接刃。淵遂沒、郃還陽平。當是時、新失元帥、恐為備所乘、三軍皆失色。淵司馬郭淮乃令衆曰:「張將軍、國家名將、劉備所憚;今日事急、非張將軍不能安也。」遂推郃為軍主。郃出、勒兵安陳、諸將皆受郃節度、衆心乃定。太祖在長安、遣使假郃節。太祖遂自至漢中、劉備保高山不敢戰。太祖乃引出漢中諸軍、郃還屯陳倉。

曹操が張魯を征伐するのに、張郃を先遣として諸軍を督して興和の氐王の竇茂を討たせた。曹操は散関より漢中に入り、又た張郃を先遣として歩卒五千を督して前行させ、路を通じさせた。陽平に至り、張魯が降り、曹操は帰還するとき張郃を夏侯淵らと与に留めて漢中を守らせ、劉備を拒がせた。 張郃は別に諸軍を督し、巴東・巴西二郡を降してその民を漢中に徙したが、宕渠(四川省達州市渠県)に進軍すると劉備の将軍の張飛に拒がれて軍を引き、南鄭に帰還した。盪寇将軍に拝された。
劉備が陽平に駐屯すると、張郃は広石に進屯した。劉備は精兵万余を十部に分け、夜間に急しく張郃を攻めた。張郃は親しく兵を率いて搏戦し、劉備は克つことが出来なかった。その後、劉備は走馬谷の都囲(軍営)を焼き、夏侯淵が救済したが、他道からする劉備と遭遇し、交戦となった。短兵(短武器)は刃を接し、夏侯淵はとうとう戦歿し、張郃は陽平に還った[3]。この時、元帥を失ったばかりの所へ劉備が乗ずる事を恐れ、三軍は皆な色を失った。夏侯淵の司馬の郭淮はかくして軍勢に布令し 「張将軍は国家の名将であって劉備も憚っている。今日の事は急であり、張将軍でなければ安んずる事はできない」 かくて張郃を推して軍主とした。張郃は(営)を出ると兵を勒(おさ)えて陣を安んじ、諸将は皆な張郃の節度を受け、衆心はかくて鎮定した。曹操は長安に在り、使者を遣って張郃に節を仮した。曹操は長安より漢中に至ったが、劉備は高山に堡して敢えて戦わず、曹操はかくして漢中の諸軍を引いて出で、張郃は陳倉に還屯した。

 陽平関を押さえられると漢中の保持は困難という判断でしょう。そういえば張魯も陽平関を失って漢中を放棄していました。漢中は南鄭単体ではなく、関塞を含めた盆地全体を押さえないと機能しない土地なんですね。うっかり忘れてしまいがちですが。

 文帝即王位、以郃為左將軍、進爵都郷侯。及踐阼、進封鄚侯。詔郃與曹真討安定盧水胡及東羌、召郃與真並朝許宮、遣南與夏侯尚撃江陵。郃別督諸軍渡江、取洲上屯塢。明帝即位、遣南屯荊州、與司馬宣王撃孫權別將劉阿等、追至祁口、交戰、破之。諸葛亮出祁山。加郃位特進、遣督諸軍、拒亮將馬謖於街亭。謖依阻南山、不下據城。郃絶其汲道、撃、大破之。南安・天水・安定郡反應亮、郃皆破平之。詔曰:「賊亮以巴蜀之衆、當虓虎之師。將軍被堅執鋭、所向克定、朕甚嘉之。益邑千戸、并前四千三百戸。」

 文帝は王位に即くと張郃を左将軍とし、都郷侯に爵を進め、踐阼によって鄚侯に進封した。張郃に曹真と与に安定の盧水胡および東羌を討つ事を詔命し、(ついで孫権が反くと)張郃を曹真と共に召して許宮に参朝させ、南に遣って夏侯尚と与に江陵を撃たせた。張郃は別に諸軍を督して長江を渡り、中洲の上の屯塢を取った。

 文帝の意地がかかった大規模な南征の一環で、当初優勢だったものの長期戦に陥り、遠征する側が不利になるセオリーに長江の増水も加わって撤退しています。東方では洞浦の役として一応は呉軍を大破していますが、江南に橋頭堡を築く事は出来ず、言葉を選ぶと 「勝っただけで何も得られなかった」 戦いです。

明帝が即位し、南に遣って荊州に駐屯させ、司馬懿と与に孫権の別将の劉阿らを撃ち、追って祁口に至り、交戦してこれを破った。
(太和二年/228)諸葛亮が祁山(甘粛省隴南市礼県)に出ると、張郃に位特進を加え、(曹真の副として)遣って諸軍を督して街亭(甘粛省秦安県隴城鎮)に諸葛亮の将軍の馬謖を拒がせた。馬謖は南山の険阻に依り、城に拠って下りなかったが、張郃はその汲水道を絶ち、撃ってこれを大破した。南安・天水・安定郡は諸葛亮に応じて反いていたが、張郃は皆な破って平定した。詔があり 「賊の諸葛亮は巴蜀の兵を以て(我らが)虓虎の師に当った。将軍は被堅執鋭(鎧を着け武器を執り)して向かう所勝ち定めた。朕は甚だこれを嘉する。食邑千戸を益し、前と併せて四千三百戸とする」

司馬宣王治水軍於荊州、欲順沔入江伐呉、詔郃督關中諸軍往受節度。至荊州、會冬水淺、大船不得行、乃還屯方城。諸葛亮復出、急攻陳倉、帝驛馬召郃到京都。帝自幸河南城、置酒送郃、遣南北軍士三萬及分遣武衞・虎賁使衞郃、因問郃曰:「遲將軍到、亮得無已得陳倉乎!」郃知亮縣軍無穀、不能久攻、對曰:「比臣未到、亮已走矣;屈指計亮糧不至十日。」郃晨夜進至南鄭、亮退。詔郃還京都、拜征西車騎將軍。

司馬懿が荊州で水軍を治め(調練し)、沔水(漢水)に順い長江に入って呉を伐とうとした際、張郃に命じて関中諸軍を督して往って(司馬懿の)節度を受けさせた。荊州に到ると、おりしも冬で水深は浅く、大船は航行できず、かくして方城(河南省南陽市)に還屯した。
(同年冬、)諸葛亮が復た出征し、急しく陳倉を攻めた。帝は駅馬で張郃を召して京都に到らせた。帝は自ら河南城に行幸し、置酒して張郃を送り、南北軍の兵士三万を遣り、および武衛・虎賁から分遣して張郃を護衛させ、こうして張郃に問うには 「将軍の到着が遅れてしまい、諸葛亮が已に陳倉を得ているという事はあるまいか!」 張郃は諸葛亮が軍を懸隔の地に置いて穀糧が無く、久しく攻め続ける事が出来ないと察しており、対えるには 「臣が到達する前に諸葛亮は退走しておりましょう。指を屈して諸葛亮の糧を計りますに十日も掛かりますまい」 張郃は晨夜兼行で進んで南鄭に至り、諸葛亮は退いた。張郃を京都に還し、征西車騎将軍に拝した。

 あー、コレ難物ですよねー征西車騎将軍。もっと後の南朝になると車騎将軍が完全に位階を示すだけの加官になって他の将軍号との掛け持ちもアリになるんですが、この当時はまだありません。似たような事例は斉王曹芳を退位させる際の勧進文に 「行西征安東将軍」 というのがありますが、一応“行”征西将軍となっています。脱字があって征西護軍兼車騎将軍とか行西征車騎将軍とか、征西護軍から車騎将軍に遷ったんじゃないかとも思いますが、『華陽国志』でも征西車騎将軍とあるんだそうな。『晋書』宣帝紀では太和五年(231)の事ではありますが「車騎将軍張郃」とあります。この陳倉の役の後、死後も官位の追贈は無いようなので、この太和元年に叙されたのは車騎将軍なんだと思われます。なんで征西なんて書かれたんでしょう。
 文帝の治世の張郃の軍歴は、曹真の副将といっても過言ではないくらいコンビ率が高いです。明帝が即位し、曹真が西面担当になった後は中央軍の大将として荊州への増援にも加わっていますが、有事率は荊州より関右の方が高く、その後も曹真と絡む機会が多いです。しかも曹真と司馬懿が連動して漢中に進攻したりと、この時期は荊州軍と関中軍の連動性が高いです。

 郃識變數、善處營陳、料戰勢地形、無不如計、自諸葛亮皆憚之。郃雖武將而愛樂儒士、嘗薦同郷卑湛經明行修、詔曰:「昔祭遵為將、奏置五經大夫、居軍中、與諸生雅歌投壺。今將軍外勒戎旅、内存國朝。朕嘉將軍之意、今擢湛為博士。」

 張郃は変数(臨機応変の策略)を識り、軍営・布陣の処置に善く、戦勢や地形を料って計策通りにならない事が無く、諸葛亮以下、皆な憚った。張郃は武将ではあったものの儒士を愛楽し、嘗て同郷の卑湛を経に明るく行ないを修めているとして推した事があった。詔 「昔、祭遵は将軍となり、五経大夫を置くことを上奏し、軍中に居ては諸生(儒学生)と与に雅歌投壺したという。今、将軍は外に戎旅を勒いつつ内(心)は国朝に在る。朕は将軍の意志を嘉し、今、卑湛を抜擢して博士とする」

 諸葛亮復出祁山、詔郃督諸將西至略陽、亮還保祁山、郃追至木門、與亮軍交戰、飛矢中郃右膝、薨、諡曰壯侯。子雄嗣。郃前後征伐有功、明帝分郃戸、封郃四子列侯。賜小子爵關内侯。

 (太和五年/231、)諸葛亮が復た祁山に進出すると、張郃に詔して諸将を督して西のかた略陽に至らせた。諸葛亮は還って祁山を保った。張郃は追って木門に至り、諸葛亮の軍と交戦し、飛矢が張郃の右膝に中り、薨じた[4]。壮侯と諡され、子の張雄が嗣いだ。張郃には前後の征伐の功があり、明帝は張郃の封戸を分け、張郃の四子を列侯に封じ、小子に爵関内侯を賜った。
[1] 張郃が袁紹に説くには 「公は連勝しておられるが、曹公とは戦ってはなりません。密かに軽騎兵を遣ってその南方を鈔絶させればその兵は自ずと敗れます」 袁紹は従わなかった。 (『漢晋春秋』)

 同様の事は沮授・田豊らも口にしていましたね。つまりこれは冀州出身者の共通見解なんでしょう。実際にそうだったのか、記述者がそう言わせているのかは知りません。又た曹操との対陣が始まった後にこの作戦を実行して成功していませんから、必ずしも 「袁紹は良策を棄てて凡策を採った」 とは云えないと思います。

[2] 裴松之が武帝紀および袁紹伝を調べたところ、どちらも袁紹は張郃・高覧に曹操の本営を攻めさせ、張郃らは淳于瓊の敗北を聞いて来降し、袁紹の軍勢はこうして大いに潰えた。これは則ち張郃らが降った後に袁紹軍が壊滅したという事だ。張郃伝では袁紹軍が先ず潰え、郭図が懼れて譖り、その後に曹操に帰順したとあり、錯綜していて同じではない。

 そりゃまー曹魏の重鎮になって名誉の戦死を遂げる人の伝記ですから、張郃が降ったせいで袁紹軍が壊滅した的な記述は避けるんじゃないですかねー。裴松之は『晋記』も撰しているので史家の筆法を知らない訳ではない筈で、それでもこう噛みつくのは陳寿に対する批判精神でしょうか。
 それは兎も角。淳于瓊が敗れ、張郃が降った事で袁紹軍が瓦解したという事が、袁紹軍での両者のウェイトを示しています。特に張郃は公孫瓚討伐の功績ナンバー2らしいですし(ナンバー1は麹義、曹操の喜びようも理解できます。

[3] 夏侯淵は都督といえど、劉備は張郃を憚って夏侯淵を与し易しとした。夏侯淵を殺した劉備は 「首魁を手に入れるのだ。こんな事でどうする!」 (『魏略』)
[4] 諸葛亮の軍が退くと、司馬懿は張郃に追わせた。張郃 「軍法では、囲城には必ず出路を開け、帰軍は追う勿れとあります」 司馬懿は聴かなかった。張郃は已むを得ず、かくて進んだ。蜀軍は高きに登って伏兵を布き、弓弩乱発して矢が張郃の腿に中った。 (『魏略』)

 ですよねー。どう考えてもこの状況で張郃は追うキャラではないし、司馬懿は追わせる才じゃない。陳寿が張郃の褒めを直前に置いたのも、張郃が帰師を追う粗忽者じゃないって事を暗示したんだと思います。この辺りの事は陳舜臣氏も指摘していますが、司馬懿が最大の競争相手を始末したってのが有り得そうです。権勢欲とかじゃなく失脚予防のために。

 

徐晃

 徐晃字公明、河東楊人也。為郡吏、從車騎將軍楊奉討賊有功、拜騎都尉。李傕・郭之亂長安也、晃説奉、令與天子還洛陽、奉從其計。天子渡河至安邑、封晃都亭侯。及到洛陽、韓暹・董承日爭鬬、晃説奉令歸太祖;奉欲從之、後悔。太祖討奉於梁、晃遂歸太祖。

 徐晃、字は公明。河東楊の人である。郡吏となり、車騎将軍楊奉の討賊に従って功があり、騎都尉に拝された。李傕・郭が長安を擾乱すると、徐晃は楊奉に天子と与に洛陽に帰還するよう説き、楊奉はその計に従った。天子が黄河を渡って安邑に至ると、徐晃を都亭侯に封じた。洛陽に到着すると韓暹董承は日々に争鬬し、徐晃は楊奉に対し曹操に帰順するよう説き、楊奉は従おうとしたものの後に悔いた。曹操が梁に楊奉を討ち、徐晃はかくて曹操に帰順した。

 太祖授晃兵、使撃卷・原武賊、破之、拜裨將軍。從征呂布、別降布將趙庶・李鄒等。與史渙斬眭固於河内。從破劉備、又從破顏良、拔白馬、進至延津、破文醜、拜偏將軍。與曹洪撃㶏彊賊祝臂、破之、又與史渙撃袁紹運車於故市、功最多、封都亭侯。太祖既圍鄴、破邯鄲、易陽令韓範偽以城降而拒守、太祖遣晃攻之。晃至、飛矢城中、為陳成敗。範悔、晃輒降之。既而言於太祖曰:「二袁未破、諸城未下者傾耳而聽、今日滅易陽、明日皆以死守、恐河北無定時也。願公降易陽以示諸城、則莫不望風。」太祖善之。別討毛城、設伏兵掩撃、破三屯。從破袁譚於南皮、討平原叛賊、克之。從征蹋頓、拜野將軍。

 曹操は徐晃に兵を授けて巻・原武の賊を撃たせ、これを破って裨将軍に拝された。呂布の征伐に従い、別に呂布の将軍の趙庶・李鄒らを降した。史渙と与に河内に眭固を斬り、劉備の討破に従い、又た顔良の討破に従い、白馬を抜き、進んで延津に至り、文醜を破り、偏将軍に拝された。曹洪と与に㶏彊の賊の祝臂を撃ってこれを破り、又た史渙と与に故市に袁紹の運車を撃ち、功が最も多く都亭侯に封じられた。

 都亭侯には安邑で既に封じられています。安邑のは強請同然で、しかも強請した側が逆賊になったから無効化したとか?筑摩版の補注にも指摘がありました。『集解』に二説あるそうです。一つは前のは曹操を介していないから無効?それは暴論すぎです。一つは二度目のは○亭侯の誤記。まぁ割とどーでもいいです。

曹操が鄴を攻囲し、邯鄲を破った後、易陽令韓範は城を挙げて偽り降ってから拒守し、曹操は徐晃を遣ってこれを攻めた。徐晃は至ると城中に矢を飛ばし、(矢文で)成敗を陳べた。韓範は悔い、徐晃は輒(ただち)にこれを降した。その後に曹操に言うには 「二袁は未だ破れておらず、諸城の未だ下らぬ者は耳を傾けて聴いております。今日易陽を滅ぼせば、明日は皆なが死守し、河北の定まる時が無くなるのを恐れます。願わくば公よ、易陽の降伏を諸城にお示しください。そうすれば風を望まぬ者は莫くなりましょう」 曹操はこれを善しとした。別に毛城を討ち、伏兵を設けて掩撃し、三屯を破った。南皮に袁譚の討破に従い、平原の叛賊を討ち、これに克った。蹋頓遠征に従い、横野将軍に拝された。

從征荊州、別屯樊、討中廬・臨沮・宜城賊。又與滿寵討關羽於漢津、與曹仁撃周瑜於江陵。十五年、討太原反者、圍大陵、拔之、斬賊帥商曜。
韓遂・馬超等反關右、遣晃屯汾陰以撫河東、賜牛酒、令上先人墓。太祖至潼關、恐不得渡、召問晃。晃曰:「公盛兵於此、而賊不復別守蒲阪、知其無謀也。今假臣精兵渡蒲坂津、為軍先置、以截其裏、賊可擒也。」太祖曰:「善。」使晃以歩騎四千人渡津。作塹柵未成、賊梁興夜將歩騎五千餘人攻晃、晃撃走之、太祖軍得渡。遂破超等、使晃與夏侯淵平隃麋・汧諸氐、與太祖會安定。太祖還鄴、使晃與夏侯淵平鄜・夏陽餘賊、斬梁興、降三千餘戸。從征張魯。別遣晃討攻櫝・仇夷諸山氐、皆降之。遷平寇將軍。解將軍張順圍。撃賊陳福等三十餘屯、皆破之。

荊州征伐に従い、別に樊に駐屯し、中廬・臨沮・宜城の賊を討った。又た滿寵と与に漢津に関羽を討ち、曹仁と与に江陵に周瑜を撃った。 建安十五年(210)、太原で反いた者を討ち、大陵を囲んでこれを抜き、賊帥の商曜を斬った。
 韓遂・馬超らが関右で反いた時、徐晃を遣って汾陰に駐屯して河東を慰撫させ、牛酒を賜って先人の墓に奉上させた。曹操は潼関に至ると(黄河を)渡れない事を恐れ、徐晃を召して問うた。徐晃 「公はここで兵を盛んにしておられており、賊は復た別けて蒲阪を守る事をせず、その謀が無いのが知れております。今、臣が精兵を仮りて[1]蒲坂津を渡り、軍先となって置き、その背後を截ちます。賊を擒えましょう」 曹操 「善し」 徐晃に歩騎四千人で渡津させた。塹壕・防柵を作って完成しないうち、賊の梁興が夜間に歩騎五千余人を率いて徐晃を攻めたが、徐晃は撃って敗走させ、曹操の軍は渡る事ができた。かくて馬超らを破り、徐晃に夏侯淵らと与に隃麋・汧の諸氐を鎮定させた。曹操と安定で会同した。曹操は鄴に帰還し、徐晃に夏侯淵と与に鄜(陝西省延安市富県)・夏陽(陝西省渭南市韓城)の余賊を討平させた。梁興を斬り、三千余戸を降した。張魯征伐に従った。別に徐晃を遣って櫝・仇夷の諸山の氐を攻めさせ、皆な降した。平寇将軍に遷った。将軍張順への包囲を解かせ、賊の陳福らの三十余屯を討ち、皆なこれを破った。

 太祖還鄴、留晃與夏侯淵拒劉備於陽平。備遣陳式等十餘營絶馬鳴閣道、晃別征破之、賊自投山谷、多死者。太祖聞、甚喜、假晃節、令曰:「此閣道、漢中之險要咽喉也。劉備欲斷絶外内、以取漢中。將軍一舉、克奪賊計、善之善者也。」太祖遂自至陽平、引出漢中諸軍。復遣晃助曹仁討關羽、屯宛。會漢水暴隘、于禁等沒。羽圍仁於樊、又圍將軍呂常於襄陽。晃所將多新卒、以羽難與爭鋒、遂前至陽陵陂屯。 太祖復還、遣將軍徐商・呂建等詣晃、令曰:「須兵馬集至、乃倶前。」賊屯偃城。晃到、詭道作都塹、示欲截其後、賊燒屯走。晃得偃城、兩面連營、稍前、去賊圍三丈所。未攻、太祖前後遣殷署・朱蓋等凡十二營詣晃。賊圍頭有屯、又別屯四冢。晃揚聲當攻圍頭屯、而密攻四冢。羽見四冢欲壞、自將歩騎五千出戰、晃撃之、退走、遂追陷與倶入圍、破之、或自投沔水死。 太祖令曰:「賊圍塹鹿角十重、將軍致戰全勝、遂陷賊圍、多斬首虜。吾用兵三十餘年、及所聞古之善用兵者、未有長驅徑入敵圍者也。且樊・襄陽之在圍、過於莒・即墨、將軍之功、踰孫武・穰苴。」晃振旅還摩陂、太祖迎晃七里、置酒大會。太祖舉巵酒勸晃、且勞之曰:「全樊・襄陽、將軍之功也。」時諸軍皆集、太祖案行諸營、士卒咸離陳觀、而晃軍營整齊、將士駐陳不動。太祖歎曰:「徐將軍可謂有周亞夫之風矣。」

 曹操は鄴に帰還し、徐晃を夏侯淵らと留めて陽平に劉備を拒がせた。劉備は陳式ら十余営を遣って馬鳴閣(四川省広元市青川県の道を絶ったが、徐晃は別に征伐してこれを破り、賊は自ら山谷に投じて多くが死んだ。曹操は聞くと甚だ喜び、徐晃に節を仮し、布令した 「此の閣道は漢中の険要にして咽喉である。劉備は断って内外を絶ち、漢中を取ろうとした。将軍は一挙によって克って賊の計画を奪った。善のうちの善というものだ」 曹操はかくて自ら陽平に至り、引いて漢中から諸軍を出した。
又た徐晃を遣って曹仁が関羽を討つのを助けさせ、宛に駐屯させた。おりしも漢水が暴溢し、于禁らが水没した。関羽は樊に曹仁を囲み、又た将軍呂常を襄陽に囲んだ。徐晃の率いる所は新卒が多く、そのため関羽と争鋒する事が困難で、かくて前進して陽陵陂に至って駐屯した。曹操は復た帰還すると将軍徐商・呂建らを遣って徐晃に詣らせ、布令するには 「兵馬が集まり至れば、速やかに倶に前進せよ」 賊は偃城に駐屯しており、徐晃は到着すると詭道として塹壕を作り、その背後を截とうとする姿勢を示した。賊は屯営を焼いて退走した。徐晃は偃城を得ると両面に営を連ね、ようやく前進して賊の包囲から三丈の所に至った。攻める前に曹操は前後して殷署・朱蓋ら凡そ十二営を遣って徐晃に詣らせた。賊は囲頭に屯営があり、又た別に四冢に駐屯していた(偃城は樊城の北三里に位置し、囲頭・四冢とも樊城近郊の集落)。徐晃は囲頭屯を攻めるとの声を揚げ、そして密かに四冢を攻めた。関羽は四冢が潰滅しかかっているのを望見すると自ら歩騎五千を率いて出戦したが、徐晃はこれを撃って退走させ、かくて追撃しつつ倶に包囲に進入し、これを破った。自ら沔水に投じて死ぬ者もあった。
曹操が布令した 「賊の包囲は塹壕・鹿角が十重もあったが、将軍は致戦して全勝し、かくて賊の包囲を陥し、多くを斬首・捕虜とした。吾れは兵を用いて三十余年になるが、聞き及ぶ中で古えの善く兵を用いる者でも、未だに長躯して敵の包囲に径入した者などはいない。且つ樊・襄陽が包囲に在る状況は、過去の莒・即墨以上であり、将軍の功は孫武司馬穰苴を踰(こ)えるものである」
徐晃は振旅(凱旋)して摩陂に帰還し、曹操は徐晃を迎えること七里、置酒大会した(大宴席を張った)。曹操は巵酒を挙げて徐晃に勧め、且つ労って 「樊・襄陽を全うしたのは将軍の功である」 時に諸軍が皆な集結していた。曹操は諸営を案行し、士卒は咸な陣を離れて観ていたが、徐晃の軍営は整斉とし、将兵は陣に駐まって動かなかった。曹操は歎じ 「徐将軍には周亜夫の風があると謂えよう」

 文帝即王位、以晃為右將軍、進封逯郷侯。及踐阼、進封楊侯。與夏侯尚討劉備於上庸、破之。以晃鎮陽平、徙封陽平侯。明帝即位、拒呉將諸葛瑾於襄陽。摎W二百、并前三千一百戸。病篤、遺令斂以時服。
 性儉約畏慎、將軍常遠斥候、先為不可勝、然後戰、追奔爭利、士不暇食。常歎曰:「古人患不遭明君、今幸遇之、常以功自効、何用私譽為!」終不廣交援。太和元年薨、諡曰壯侯。子蓋嗣。蓋薨、子霸嗣。明帝分晃戸、封晃子孫二人列侯。

 文帝が王位に即くと、徐晃を右将軍として逯郷侯に進封し、踐阼に及んで楊侯に進封した。夏侯尚と与に上庸に劉備を討ち、これを破った。徐晃を陽平に鎮守させ、陽平侯に徙封した。明帝が即位し、呉の将軍の諸葛瑾を襄陽に拒いだ。食邑二百を増し、前と併せて三千一百戸となった。病が篤くなり、時服によって納棺する事を遺言した。
 性は倹約で畏れ慎み、軍を率いては常に斥候を遠くに出し、先ず勝てない場合に備え、その後に戦い、追奔して勝利を争う場合は兵士は食事の暇がなかった。常々歎息し 「古人は明君に遭わない事を患(うれ)えたが、今、幸いにして遭遇した。常に自(こころ)を効(つ)くす事を功績とし、どうして個人の誉れのために為そうか!」 最後まで交援を広くしなかった。太和元年(227)に薨じ、壮侯と諡された。子の徐蓋が嗣ぎ、徐蓋が薨じて子の徐霸が嗣いだ。明帝は徐晃の封戸を分け、徐晃の子と孫の二人を列侯に封じた。
朱霊

 初、清河朱靈為袁紹將。太祖之征陶謙、紹使靈督三營助太祖、戰有功。紹所遣諸將各罷歸、靈曰:「靈觀人多矣、無若曹公者、此乃真明主也。今已遇、復何之?」遂留不去。所將士卒慕之、皆隨靈留。靈後遂為好將、名亞晃等、至後將軍、封高唐亭侯。

 嘗て、清河の朱霊は袁紹の将軍だった。曹操が陶謙を征伐した時、袁紹は朱霊に三営を督して曹操を助けさせ、戦に功があった。袁紹の派遣した諸将は各々罷帰したが、朱霊は 「霊は多くの人を観てきたが、曹公を超える者は無かった。この人こそ真明主である。今、遇ってしまったのに復た(還って)どうする?」 かくて留まって去らなかった。率いる所の将士もこれを慕い、皆な朱霊に随って留まった。朱霊は後に好(よ)き将軍となり、名は徐晃らに亜ぎ、後将軍に至って高唐亭侯に封じられた[2]

 朱霊は228年の石亭の役で、曹休を救った事が満寵伝で確認できます。

[1] 裴松之が云う。調べると徐晃はこの時はまだ臣と称する立場にはない。伝写した者の誤りであろう。
[2] 嘗て、清河の季雍は鄃を以て袁紹に叛いて公孫瓚に降り、公孫瓚は兵を遣ってこれを護衛させた。袁紹は朱霊を遣ってこれを攻めた。朱霊の家は城中に在り、瓚では朱霊の母と弟を城壁の上に置き、朱霊を誘い呼んだ。朱霊は城に望んで涕泣したが 「丈夫たるもの一たび身を人に出せば、どうして復た家を顧みようか!」 かくて力戦してこれを抜き、季雍を生け擒ったものの朱霊の家族は皆な死んだ。 (『九州春秋』)
―― 朱霊、字は文博。曹操が冀州を平定した後、朱霊に新兵五千人と騎馬千匹を率いて遣って許南を守らせた。曹操が戒めるには 「冀州の新兵はしばしばェ緩(の法)を承け、暫くは整斉して見えるが、心中は尚お怏怏としている。卿の名声はかねて威厳がある。善く道義によって彼らにェくせよ。さもないと変事が起こるぞ」 朱霊が陽翟に至ると、中郎将程昂らが果たして反き、ただちに楊昂を斬って状況を上聞した。曹操は手書して 「軍事中に危険を為す者が生じる理由は、外は敵国と対峙し、内に姦悪を謀って不測の変事がある場合だ。昔、ケ禹が光武帝の軍を中分して西行した時、宗歆・馮愔の難があり、後に二十四騎のみを率いて洛陽に帰還したが、ケ禹はどうしてこれによって(威信を)減損したであろうか?来たる書は懇惻(ねんごろ)で、多くの咎過を自身に引いているが、かならずしも云うとおりではあるまい」
文帝が即位すると朱霊を鄃侯に封じ、その戸邑を増した。詔があった 「将軍は先帝の天命を佐け、兵を典って歴年になる。威名は方叔・邵虎(ともに周宣王の功臣)を超え、功は絳侯灌衛を踰えている。図籍が美とする所であっても加えるものはあるまい?朕は天命を受け、帝として海内を有し、元功の将軍・社稷の臣は皆な、朕と福を同じくし慶を共にするもので、これを無窮に伝える者である。今、鄃侯に封じた。富貴となって故郷に帰らないのは夜に繍を着て行くようなものではないか。もし平素よりの志望があれば、願勿難言(遠慮なく申せ)」 朱霊は謝し 「清河の高唐(山東省徳州市斉河)が宿願であります」 こうして高唐侯に更封された。薨じると威侯と諡された。 (『魏書』)

結局、于禁伝にあった 「太祖常恨朱靈」 は判らずじまいでした。恐らく、許南の守備がらみだろうとは推測できます。朱霊は徐晃伝に附録されてはいますが、タイプとしては于禁タイプのようです。軍律主義。寛く扱えと云われたのに締め付けたから叛かれた。曹操の訓戒は曖昧だし、軍律違反ではないから罰せられない。けれど曹操としては自分の言葉を蔑ろにした行為は面白かろう筈がない。こんな所では?
朱霊にしても云い分はあります。徐州の時こそ平和移籍でしたが、袁紹軍にとっては結果的に裏切者。唯でさえ反感が漲っている相手を統率するんですから、厳しく接しないと舐められる。そんな判断だったのでは?それにしても曹操の徐州侵略に袁紹が積極的に関わっていたというのは収穫でした。それも結構な兵力が派遣されていた様子で。兗州の造叛の事といい、当時の曹操軍の基盤はまだまだ脆弱だったんでしょうね。

 

 評曰:太祖建茲武功、而時之良將、五子為先。于禁最號毅重、然弗克其終。張郃以巧變為稱、樂進以驍果顯名、而鑒其行事、未副所聞。或注記有遺漏、未如張遼・徐晃之備詳也。

 評に曰く:太祖はかく武功を建て、時の良将として五子を先とした。于禁は最も毅重と号されたが、その終りを克(な)さなかった。張郃は巧変を称えられ、楽進は驍果で名を顕したが、その行事を鑒みると評判の裏付けが乏しい。注記に遺漏があって張遼や徐晃の備詳に及ばないのであろう。

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