三國志修正計画

三國志卷十八 魏志十八/二李臧文呂許典二龐閻傳 (一)

李典

 李典字曼成、山陽鉅野人也。典從父乾、有雄氣、合賓客數千家在乘氏。初平中、以衆隨太祖、破黄巾於壽張、又從撃袁術、征徐州。呂布之亂、太祖遣乾還乘氏、慰勞諸縣。布別駕薛蘭・治中李封招乾、欲倶叛、乾不聽、遂殺乾。太祖使乾子整將乾兵、與諸將撃蘭・封。蘭・封破、從平兗州諸縣有功、稍遷青州刺史。整卒、典徙潁陰令、為中郎將、將整軍、遷離狐太守。

 李典、字は曼成。山陽鉅野の人である。李典の従父(おじ)の李乾は雄気があり、賓客数千家を糾合して乗氏(山東省渮沢市巨野)に在った。初平年間に軍勢を率いて曹操に随い、寿張に黄巾を破り、又た袁術攻撃、徐州征伐に従った。呂布が造乱すると曹操は李乾を遣って乗氏に還し、諸県を慰労させた。呂布の別駕薛蘭・治中李封は李乾を招降して倶に叛かせようとしたが、李乾は聴かず、かくて李乾は殺された。
曹操は李乾の子の李整に李乾の兵を率いさせ、諸将と与に薛蘭・李封を撃たせた。兗州諸県の平定に従って功があり、稍(しだい)に青州刺史に遷った。

 乗氏の属する済陰郡は兗州でも東郡に隣接しているので、李氏が曹操に従ったのは曹操が兗州牧として迎えられて間もなくだと思われます。当時の曹操はまだまだ脆弱ですから、豪族に率いられた数千家の勢力はかなり頼りになったのではないでしょうか。呂布が別駕・治中を遣って抱き込みを図ったり、遙授とはいえ刺史職に任じたのも李氏の勢力の裏返しだと思われます。

 李整が卒し、李典は潁陰令に徙り、中郎将となって李整の軍を率い[1]、離狐太守[※]に遷った。

※ 離狐県(山東省渮沢市東明)一帯に臨時に置かれた郡だと思われます。

 時太祖與袁紹相拒官渡、典率宗族及部曲輸穀帛供軍。紹破、以典為裨將軍、屯安民。太祖撃譚・尚於黎陽、使典與程c等以船運軍糧。會尚遣魏郡太守高蕃將兵屯河上、絶水道、太祖敕典・c:「若船不得過、下從陸道。」典與諸將議曰:「蕃軍少甲而恃水、有懈怠之心、撃之必克。軍不内御;苟利國家、專之可也、宜亟撃之。」c亦以為然。遂北渡河、攻蕃、破之、水道得通。

 時に曹操は袁紹と官渡で相い拒ぎ、李典は宗族および部曲を率い穀帛を輸送して軍に供した。袁紹を破ると李典は裨将軍となり、安民に屯した。曹操は黎陽に袁譚・袁尚を撃つ際、李典に程cらと与に船で軍糧を運ばせた。おりしも袁尚が魏郡太守高蕃を遣って兵を率いて黄河の上(ほとり)に駐屯させ、水道を絶った。曹操は李典・程cに敕し 「もし船が通過できなければ下船して陸道より行け」 李典は諸将と議し 「高蕃の軍は甲兵が少なく河水を恃んでおり、懈怠の心がある。撃てばきっと勝てる。軍は幕内には御されないものだ。苟くも国家の利となるのなら専断してよいのだ。亟(すみやか)に撃つべきである」 程cも亦た然りとし、かくて北に黄河を渡り、高蕃を攻めてこれを破り、水道を通す事ができた。

劉表使劉備北侵、至葉、太祖遣典從夏侯惇拒之。備一旦燒屯去、惇率諸軍追撃之、典曰:「賊無故退、疑必有伏。南道狹窄、草木深、不可追也。」惇不聽、與于禁追之、典留守。惇等果入賊伏裏、戰不利、典往救、備望見救至、乃散退。從圍鄴、鄴定、與樂進圍高幹於壺關、撃管承於長廣、皆破之。遷捕虜將軍、封都亭侯。

 劉表が劉備に北侵させて葉県に至ると、曹操は李典を遣り夏侯惇に従ってこれを拒がせた。劉備は一旦(ある朝)に屯営を焼いて退去し、夏侯惇は諸軍を率いて追撃した。李典 「賊は理由なく退きました。きっと伏兵があるものと思われます。南道は狭窄で草木は深く、追ってはなりません」 夏侯惇は聴かず、于禁と与にこれを追い、李典は留まって守った。夏侯惇らは果たして賊の伏兵の裡に入り、戦は利あらず、李典は往って救った。劉備は救援の到来を望見すると散退した。鄴の攻囲に従い、鄴が平定されると楽進と与に壺関に高幹を攻囲し、長広に管承を撃ち、皆なこれを破った。捕虜将軍に遷り、都亭侯に封じられた。

 『演義』での諸葛亮のデビュー戦はおそらくこの一件の流用でしょう。袁兄弟を仲違いさせる為のダミー南征中の事だったとは…。それにしても夏侯惇らしからぬ軽挙ですが、ひょっとしてこっちが素なのかも。

典宗族部曲三千餘家、居乘氏、自請願徙詣魏郡。太祖笑曰:「卿欲慕耿純邪?」典謝曰:「典駑怯功微、而爵寵過厚、誠宜舉宗陳力;加以征伐未息、宜實郊遂之内、以制四方、非慕純也。」遂徙部曲宗族萬三千餘口居鄴。太祖嘉之、遷破虜將軍。
與張遼・樂進屯合肥、孫權率周圍之、遼欲奉教出戰。進・典・遼皆素不睦、遼恐其不從、典慨然曰:「此國家大事、顧君計何如耳、吾可以私憾而忘公義乎!」乃率周與遼破走權。摎W百戸、并前三百戸。

李典の宗族・部曲は三千余家を数え、乗氏に居していたが、自ら魏郡に徙される事を請願した。曹操は笑って 「卿は耿純[※]を慕おうというのか?」 李典は拝謝し 「典は駑才怯懦で功は微かであるのに爵寵は過厚です。まことに宗族を挙げて力を陳べねばなりません。しかも征伐は終息しておらず、郊遂の内(畿内二百里圏=魏郡)を充実させ、そうして四方を制しなければなりません。耿純を慕うのではありません」 曹操はこれを嘉して破虜将軍に遷した。

※ 耿純は東漢初期の豪族の当主。一族を挙げて光武帝に従軍し、光武帝の華北平定に目処が立つと率先して実権を返上して所領に就いた。
 李典の云う通り、耿純の時とは全く状況が違います。この時点での曹操と光武帝の支配圏は似ているかもしれませんが、往時に比べて中央の相対的な戦力は低く、曹操にとって統一の目処など遥か彼方です。一族を挙げて従軍している態の李典が、曹操の勢力圏として安定している筈の地元を棄てて曹操のお膝元に移住希望というなら、それは曹操の庇護を求めたんだと思われます。例えば、乗氏の一帯で曹操に近い名族クラスの有力者とトラブって、讒言で枉陥される前に移住してアリバイを強化しておこうな感じで。官渡以前に曹操に従った兗州人を当ってみると見えてくるものがあるんだろうか。

張遼・楽進と与に合肥に駐屯し、孫権が軍勢を率いてこれを囲むと、張遼は(曹操の)教令を奉じて出戦しようと考えた。楽進・李典・張遼は皆な平素より睦まず、張遼は両者が従わない事を恐れたが、李典は慨然として 「これは国家の大事だ。顧みるのは君の計略の如何のみで吾れが私憾によって公義を忘れるとお思いか!」 かくして張遼と与に軍勢を率いて孫権を破って退走させた。食邑百戸を増し、前と併せて三百戸となった。

 典好學問、貴儒雅、不與諸將爭功。敬賢士大夫、恂恂若不及、軍中稱其長者。年三十六薨、子禎嗣。文帝踐阼、追念合肥之功、搨邑百戸、賜典一子爵關内侯、邑百戸;諡典曰愍侯。

 李典は学問を好んで儒雅を貴び、諸将とは功を争わなかった。賢士大夫を敬い、恂恂(恭謙)が及ばぬように振舞い、軍中では長者として称えられた。齢三十六で薨じ、子の李禎が嗣いだ。文帝が踐阼すると合肥の功を追念し、李禎の食邑を百戸増し、李典の一子に爵関内侯と食邑百戸を賜った。李典に愍侯と諡した。
[1] 李典は少時より好学で、兵事を楽しまず、かくして師に就いて『春秋左氏伝』を読み、博く群書を観た。曹操はこれを善しとし、そのため治民の政を試みた。 (『魏書』)

 李典の学問は『左伝』「博観群書」とあって、『礼』『書』には触れていないので、李氏は名族ではなく典型的な地方豪族だったようです。李典としては 「先生…、文官がやりたいです!」 な気分だったんでしょう。あ、この時代まだ文武官の区別は無いってツッコミは無しで。

 

李通

 李通字文達、江夏平春人也。以侠聞於江・汝之間。與其郡人陳恭共起兵於朗陵、衆多歸之。時有周直者、衆二千餘家、與恭・通外和内違。通欲圖殺直而恭難之。通知恭無斷、乃獨定策、與直克會、酒酣殺直。衆人大擾、通率恭誅其黨帥、盡并其營。後恭妻弟陳郃、殺恭而據其衆。通攻破郃軍、斬郃首以祭恭墓。又生禽黄巾大帥呉霸而降其屬。遭歳大饑、通傾家振施、與士分糟糠、皆爭為用、由是盜賊不敢犯。

 李通、字は文達。江夏平春の人である[1]。侠気によって長江・汝水の間で知られた。同郡の陳恭と共に朗陵(河南省駐馬店市確山)で起兵し、帰順する者が多かった。

 李典や臧霸・許褚・田疇らと同じで、郷里を離れたところで自警団を組織したら民衆に頼られて、というタイプですね。江汝の間も朗陵も汝南郡です。後の扱いを見た限りだと、立場的に臧霸が最も近そうです。あ、だから並べたのか。

このとき周直という者があって二千余家を集め、陳恭・李通とは外面で和して内心は違えていた。李通は周直を殺そうと考えたが、陳恭は難色を示した。李通は陳恭に決断が無いと知り、かくして独りで策を定め、周直と会合して酒酣(たけなわ)で周直を殺した。人々は大いに擾(みだ)れ、李通は陳恭を率いてその党帥を誅し御、その営を尽く併せた。後に陳恭の妻の弟の陳郃は陳恭を殺し、その軍勢を占拠した。李通は陳郃の軍を攻めて破り、陳郃の首を斬って陳恭の墓に祭った。又た黄巾の黄巾の大帥の呉霸を生け禽り、属する者を降した。大饑の歳に遭い、李通は家財を傾けて振施し、士卒と糟糠を分かち合ったので皆な争って役立とうとし、このため盗賊は敢えて犯さなかった。

 建安初、通舉衆詣太祖於許。拜通振威中郎將、屯汝南西界。太祖討張繍、劉表遣兵以助繍、太祖軍不利。通將兵夜詣太祖、太祖得以復戰、通為先登、大破繍軍。拜裨將軍、封建功侯。分汝南二縣、以通為陽安都尉。通妻伯父犯法、朗陵長趙儼收治、致之大辟。是時殺生之柄、決於牧守、通妻子號泣以請其命。通曰:「方與曹公戮力、義不以私廢公。」 嘉儼執憲不阿、與為親交。太祖與袁紹相拒於官渡。紹遣使拜通征南將軍、劉表亦陰招之、通皆拒焉。通親戚部曲流涕曰:「今孤危獨守、以失大援、亡可立而待也、不如亟從紹。」 通按劍以叱之曰:「曹公明哲、必定天下。紹雖彊盛、而任使無方、終為之虜耳。吾以死不貳。」即斬紹使、送印綬詣太祖。又撃郡賊瞿恭・江宮・沈成等、皆破殘其衆、送其首。遂定淮・汝之地。改封都亭侯、拜汝南太守。時賊張赤等五千餘家聚桃山、通攻破之。

 建安の初め、李通は手勢を挙げて許の曹操に詣った。李通を振威中郎将に拝し、汝南の西界に駐屯させた。曹操が張繍を討つと、劉表は兵を遣って張繍を助け、曹操の軍に利が無くなった。李通が兵を率いて夜間に曹操に詣ると、曹操は復た戦う事ができ、李通は先登となって大いに張繍の軍を破った。裨将軍に拝して建功侯に封じ、汝南の二県を分けて李通(の為に新郡を置いて)を陽安都尉とした。 李通の妻の伯父が法を犯し、朗陵長の趙儼が収捕して治(ただ)し、大辟(極刑)に致(あ)てた。当時、殺生の事柄は牧守が決するもので、李通の妻子は号泣して助命を請うた。李通 「今は曹公と力を戮(あわ)せているのだ。道義の上でも私によって公を廃せはしない」 趙儼が憲(律法)を執って阿らない事を嘉し、与に親交した。
曹操が官渡に袁紹を拒いだ時、袁紹は使者を遣って李通を征南将軍に拝し、劉表も亦た陰かに招いたが、李通は皆な拒んだ。李通の親戚・部曲は流涕し 「今、孤立した危機にあって独り守っております。大援も失(な)く、亡びを立って待つばかりです。亟やかに袁紹に従うに越した事はありません」 李通が剣を按じて叱咤するには 「曹公は明哲で、きっと天下を定めよう。袁紹は彊盛とはいえ、任じて使うのに方規がなく、結局は捕虜となるだけだ。吾れは死んでも貳心は持たぬ」 直ちに袁紹の使者を斬り、印綬を曹操に送った。又た郡の賊の瞿恭・江宮・沈成らを撃ち、皆な破ってその一党を残(ほろ)ぼし、その首を送った。とうとう淮・汝の地を平定し、都亭侯に改封されて汝南太守に拝された。 時に賊の張赤ら五千余家が桃山に聚っていたが、李通は攻めて破った。

 おお、官渡の役の当時の袁紹の行なった搦め手戦法の具体例です。沛国(譙)も潁川郡(許)も豫州ですが、両者に隣接している汝南郡は袁氏ゆかりの地ですから、有象無象の抵抗勢力がゴロゴロしていた筈で、曹操が夏侯惇や曹仁ら心腹を前線に連れて行かなかったのも頷けます。曹操が官渡で発見して焼却した書簡もそんな連中からの物が少なくなかった筈。汝南で李通が明確に親曹操を標榜していた事は、曹操にとって実戦力以上の意味があった事でしょう。 瞿恭らにしても曹操に抵抗したから“賊”なのであって、李通と社会的な立ち位置は同じです。汝南で叛いた劉辟なんかも黄巾とレッテル貼りされただけで、実は豪族の自警集団だったのかもしれません。

劉備與周瑜圍曹仁於江陵、別遣關羽絶北道。通率衆撃之、下馬拔鹿角入圍、且戰且前、以迎仁軍、勇冠諸將。通道得病薨、時年四十二。追摎W二百戸、并前四百戸。文帝踐阼、諡曰剛侯。詔曰:「昔袁紹之難、自許・蔡以南、人懷異心。通秉義不顧、使攜貳率服、朕甚嘉之。不幸早薨、子基雖已襲爵、未足酬其庸勳。基兄緒、前屯樊城、又有功。世篤其勞、其以基為奉義中郎將、緒平虜中郎將、以寵異焉。」

劉備が周瑜と与に江陵に曹仁を囲み、別に関羽を遣って北道を絶たせたが、李通は手勢を率いてこれを撃った。下馬して鹿角を抜いて包囲に入り、且つ戦い且つ前進して曹仁の軍を迎え、勇は諸将の冠(筆頭)だった。李通は道中で病を得て薨じた。時に齢四十二だった。追って食邑を二百戸増し、前と併せて四百戸となった。
文帝は踐阼すると剛侯と諡し、詔して 「昔、袁紹の難では許・蔡より以南の人は異心を懐いた。李通は義を秉って顧みず、弐心を攜(たずさ)える者を率服させた。朕はこれを甚だ嘉する。不幸にして早くに薨じ、子の李基は襲爵したとはいえその庸勲に酬賞が足りていない。李基の兄の李緒は以前に樊城に駐屯し、又た功があった。世はその労を篤しとしており、そこで李基を奉義中郎将とし、李緒を平虜中郎将とし、特異な恩寵とする」[2]
[1] 李通、小字は万億といった。 (『魏略』)
[2] 李緒の子の李秉は字を玄冑といい、儁才があって当時にあって貴ばれ、官は秦州刺史に至った。李秉が嘗て司馬昭の問いに答えたが、それに因んで『家誡』を為した。そこでは

「昔、先帝に侍って坐していた折、三人の長吏が倶に謁見した事があった。退出に臨んで上が云うには 『官長となったからには清潔・謹慎・勤励たれ。この三者を修めておれば、治められない事を憂患する必要があろうか?』 共に詔を受けた。退出した後、上は我らを顧みて曰うには 『誡めとはこの様であるべきだと思うが、どうだ?』 侍坐する賢者たちで賛善せぬ者は莫かった。
上が又た問うには 『已むを得ぬ場合には、三者のどれを先とする?』 或る者が対えるには 『清をこそ根本とします』 次いで復た私に問うたので、対えるには 『清と慎の道は互いに補助して成り立ちますが、已むを得ないのであれば慎をこそ大事とします。そも清潔な者は謹慎とは限りませんが、謹慎な者は必ず清潔であります。これは仁者には必ず勇気があり、勇者が必ずしも仁気を持っていないのと同様です。『易』には“括嚢無咎(智嚢を括って物云わねば咎めず)、“藉用白茅(敷物に白茅を用いる)とあるのは、いずれも謹慎を至上とするものです』 と。
上は 『卿の言は尤もだ。近世で能く謹慎な者として誰を挙げる?』 諸人は各々対える所を知らなかったので、私は故太尉荀景倩・尚書董仲連・僕射王公仲を謹慎者だとした[※]
上は 『この人らは朝夕温恭で、事を執っては慎みがあり、亦た各々謹慎ではある。だが天下の至慎なら阮嗣宗(阮籍)を措いて他にあるまい!彼と語る毎にその言辞は玄遠で、しかもこれまで時事を評論したり人物を臧否(批評)した事を聞いた事が無い。真に至慎と謂うものであろう』
 私は常々、この言葉を明誡とするに足るものと考えている。凡そ人が事を行なうには、年少より身を立て、慎まないという事があってはならず、軽々しく人を評論してはならず、軽々しく時事を説いてはならない。このようにすれば悔吝するような事は生じず、患禍が至る事はあるまい」

とある。 (王隠『晋書』)
―― 李秉の子の李重は、字を茂曾といった。少時より名を知られ、吏部郎・平陽太守を歴任した。
―― 李重は清潔高尚を称えられた。相国の趙王司馬倫が李重の声望を以て右司馬とした。李重は司馬倫が乱を為そうとしている事から病を称して就かなかった。司馬倫は迫って已まず、李重はかくて自活(生存)を断念し、困篤(重篤)となってから扶曳(介助され杖を曳き)して受拜し、数日で卒して散騎常侍を贈られた。李重の二人の弟は、李尚は字を茂仲、李矩は字を茂約といい、永嘉年間に共に郡を典った。李矩は江州刺史に至った。李重の子の李式は字を景則といい、官は侍中に至った。 (晋諸公賛』)

※ 荀景倩は荀ケの嗣子の荀の事。董仲連・王公仲については不明。荀が太尉になったのは晩年、晋が成立した後で、当然司馬昭より後に歿しているので、李秉の記憶も王隠の検証も信用できません。

 

臧霸

 臧霸字宣高、泰山華人也。父戒、為縣獄掾、據法不聽太守欲所私殺。太守大怒、令收戒詣府、時送者百餘人。霸年十八、將客數十人徑於費西山中要奪之、送者莫敢動、因與父倶亡命東海、由是以勇壯聞。黄巾起、霸從陶謙撃破之、拜騎都尉。遂收兵於徐州、與孫觀・呉敦・尹禮等並聚衆、霸為帥、屯於開陽。太祖之討呂布也、霸等將兵助布。既禽布、霸自匿。太祖募索得霸、見而ス之、使霸招呉敦・尹禮・孫觀・觀兄康等、皆詣太祖。太祖以霸為琅邪相、敦利城・禮東莞・觀北海・康城陽太守、割青・徐二州、委之於霸。太祖之在兗州、以徐翕・毛暉為將。兗州亂、翕・暉皆叛。後兗州定、翕・暉亡命投霸。太祖語劉備、令語霸送二人首。霸謂備曰:「霸所以能自立者、以不為此也。霸受公生全之恩、不敢違命。然王霸之君可以義告、願將軍為之辭。」備以霸言白太祖、太祖歎息、謂霸曰:「此古人之事而君能行之、孤之願也。」乃皆以翕・暉為郡守。

 臧霸、字は宣高。泰山華の人である。父の臧戒は県の獄掾となり、法に拠って太守が私心から殺そうとするものを聴かなかった。太守は大怒して臧戒を収捕して公府に詣らせた。時に護送は百余人であったが、臧霸は齢十八にして賓客数十人を率いて費西の山中で要撃して奪い、護送者で敢えて動く者は無く、父と倶に東海に亡命した。これによって勇壮を以て知られた。黄巾が起こると、臧霸は陶謙に従ってこれを撃破し、騎都尉に拝された。かくて徐州で兵を収集し、孫観・呉敦・尹礼らと共に手勢を聚め、臧霸が帥となって開陽(琅邪郡治/山東省臨沂市区)に駐屯した。 曹操が呂布を討った時、臧覇らは兵を率いて呂布を助けた。呂布が禽われると臧覇は匿れたが、曹操は捜索を募って臧覇を得、接見して悦んだ。臧霸に呉敦・尹礼・孫観・孫観の兄の孫康らを招降させ、皆な曹操に詣った。曹操は臧覇を琅邪国相とし、呉敦を利城の・尹礼を東莞の・孫観を北海の・孫康を城陽の太守とし、青・徐二州を割いて臧覇らに委ねた。

 城陽郡・利城郡と、ここには記されていない昌慮郡が青徐二州から割かれて臧覇らに委ねられた自治圏です。昌慮太守の昌豨は臧霸らの同朋ですが、早々に叛いた為か臧霸伝からは抹消されています。

曹操は兗州にあって徐翕・毛暉を将軍としたが、兗州が乱れると徐翕・毛暉は皆な叛いた。兗州が平際された後、徐翕・毛暉は亡命して臧霸に投じた。曹操は劉備に語り、臧霸に二人の首を送らせるよう語らせた。臧霸が劉備に謂うには 「霸が能く自立できている理由は、この様な事(亡命者を裏切るような不信義)をしないからです。霸は曹公に生全の恩を受け、命令に違えるつもりはありません。ですが王覇の君主には義を告げて良いとか。願わくば将軍よ、(我らの為に)弁辞していただきたい」 劉備が臧霸の言辞を曹操に白(もう)すと、曹操は歎息して臧霸に謂った 「これ(亡命者隠匿)は古人の事であるが、君が能く行なったのは孤の願いである」 かくして徐翕・毛暉を皆な郡守とした。

 思わぬところで劉備が絡んできました。これで陶謙が曹操と揉める以前に、臧霸と諸葛氏との交誼が暗示されていれば更に面白いのですが、開陽と陽都ではちょっと無理ですか。それはそうと、徐翕・毛暉の扱いが于禁vs昌豨と比較するまでもなく、随分と寛大なものになっています。やはりこの頃になっても兗州は曹操にとってアウェー感が強く、現地有力者の繋ぎ止めに必死だったという事でしょう。

時太祖方與袁紹相拒、而霸數以精兵入青州、故太祖得專事紹、不以東方為念。太祖破袁譚於南皮、霸等會賀。霸因求遣子弟及諸將父兄家屬詣鄴、太祖曰:「諸君忠孝、豈復在是!昔蕭何遣子弟入侍、而高祖不拒、耿純焚室輿櫬以從、而光武不逆、吾將何以易之哉!」東州擾攘、霸等執義征暴、清定海岱、功莫大焉、封列侯。霸為都亭侯、加威虜將軍。又與于禁討昌豨、與夏侯淵討黄巾餘賊徐和等、有功、遷徐州刺史。沛國(公)武周為下邳令、霸敬異周、身詣令舍。部從事謥詷不法、周得其罪、便收考竟、霸益以善周。

時に曹操は袁紹と相い拒ぎ、臧霸はしばしば精兵を率いて青州に侵入し、そのため曹操は袁紹に専念する事ができ、東方を念わずにいられた。

 曹操は袁紹との対峙で、官渡・汝南・青州の三面作戦を強いられていた事が伺えます。袁紹の死後も、袁氏の居城として鄴を戦略目標にはしていますが、純軍事的には袁尚より袁譚を警戒していた節が見られますし、我々が思っていた以上に臧霸らの役割は重かったのかもしれません。

曹操が南皮に袁譚を破ると、臧覇らと会同して慶賀した。臧覇はこの時、子弟および諸将の父兄の家属を鄴に詣らせたいと求めた。曹操 「諸君の忠孝はここにもあったか!昔、蕭何は子弟を遣って入侍させたが、高祖は拒まず、耿純は屋室を焚き櫬(ひつぎ)を輿(かつ)いで従ったが、光武帝は逆らわなかった。吾れがどうしてそれを軽んじようか!」 東州が擾攘すると臧霸らは道義を執って暴乱を征伐し、海岱(渤海と泰山=青州)が清定となるのに功が莫大だったので列侯に封じた。臧覇を都亭侯とし、威虜将軍を加えた。又た于禁と与に昌豨を討ち、夏侯淵と与に黄巾の余賊の徐和らを討ち、功があって徐州刺史に遷った。 沛国公武周が下邳令となり、臧覇は異(こと)に武周を崇敬し、自ら県令の宿舎に詣った。部従事が謥詷(軽薄)不法であり武周がその罪状を得、便(たちま)ち収捕・考竟したが、臧霸は益々武周を善しとした。

從討孫權、先登、再入巣湖、攻居巣、破之。張遼之討陳蘭、霸別遣至皖、討呉將韓當、使權不得救蘭。當遣兵逆霸、霸與戰於逢龍、當復遣兵邀霸於夾石、與戰破之、還屯舒。權遣數萬人乘船屯舒口、分兵救蘭、聞霸軍在舒、遁還。霸夜追之、比明、行百餘里、邀賊前後撃之。賊窘急、不得上船、赴水者甚衆。由是賊不得救蘭、遼遂破之。霸從討孫權於濡須口、與張遼為前鋒、行遇霖雨、大軍先及、水遂長、賊船稍進、將士皆不安。遼欲去、霸止之曰:「公明於利鈍、寧肯捐吾等邪?」明日果有令。遼至、以語太祖。太祖善之、拜揚威將軍、假節。後權乞降、太祖還、留霸與夏侯惇等屯居巣。

孫権討伐に従って先登し、再び巣湖に入り、居巣を攻めてこれを破った。張遼が陳蘭を討つと、臧覇を別に遣って皖に至らせた。呉将の韓当を討ち、孫権が陳蘭を救えないようにした。韓当は兵を遣って臧覇を逆撃したが、臧覇は逢龍に戦い、韓当は復た兵を遣って夾石で臧覇を邀撃させたが、戦ってこれを破り、舒(安徽省合肥市廬江)に還屯した。孫権は数万人を乗船させて遣って舒口に駐屯させ、兵を分けて陳蘭を救わせたが、臧霸の軍が舒に在ると聞くと遁れて還った。臧霸は夜に追走し、明け方頃には百余里を行って賊を前後から邀撃した。賊は急(きび)しく窘(せま)られて上船できず、水中に赴く者が甚だ衆(おお)かった。このため賊は陳蘭を救援できず、張遼はかくてこれを破った。

 上記の「従討孫権」は張遼伝でも考えましたが、建安十四年(209)の夏頃の事になります。

(建安二十二年、)臧覇は濡須口に孫権の討伐に従い、張遼と与に前鋒となった。行きて霖雨に遇い、(孫権の)大軍が先に来ており[※]、水が膨長して賊の船は稍進(漸進)し、将士は皆な不安となった。張遼は退去を考えたが、臧覇は止めて 「曹公は利鈍に明らかです。どうして吾らを捐てることを肯んじましょうか?」 明日に果たして(撤退の)命令があった。張遼は帰還すると曹操にこの事を語った。曹操はこれを善しとし、揚威将軍に拝して節を仮した。後に孫権は降伏を乞い、曹操は帰還し、臧覇を夏侯惇らと留めて居巣に駐屯させた。

※ 筑摩版では『太平御覧』に従って「大軍先反=大軍が先に引き返し」としています。

 文帝即王位、遷鎮東將軍、進爵武安郷侯、都督青州諸軍事。及踐阼、進封開陽侯、徙封良成侯。與曹休討呉賊、破呂範於洞浦、徴為執金吾、位特進。毎有軍事、帝常咨訪焉。明帝即位、摎W五百、并前三千五百戸。薨、諡曰威侯。子艾嗣。艾官至青州刺史・少府。艾薨、諡曰恭侯。子權嗣。霸前後有功、封子三人列侯、賜一人爵關内侯。

 文帝が王位に即くと、鎮東将軍に遷って武安郷侯に進爵し、青州の諸軍事を都督し、踐阼によって開陽侯に進封され、(後に)良成侯に徙封された。曹休と与に呉賊を討ち、洞浦に呂範を破り、徴されて執金吾となって特進に位した。有事の毎に帝は常に諮訪した[1]。 明帝が即位すると食邑を五百増され、前と併せて三千五百戸となった。薨じると威侯と諡された。子の臧艾が嗣いだ[2]。臧艾の官は青州刺史・少府に至った。臧艾は薨じると恭侯と諡された。子の臧権が嗣いだ。臧霸の前後の功によってこの三人を列侯に封じ、一人に爵関内侯を賜った[3]

而孫觀亦至青州刺史、假節、從太祖討孫權、戰被創、薨。子毓嗣、亦至青州刺史。

そして孫観も亦た青州刺史に至り、節を仮され、曹操の孫権討伐に従って戦で創を被り、薨じた。子の孫毓が嗣ぎ、亦た青州刺史に至った[4]
[1] 臧霸は一名を奴寇と謂った。孫観の一名は嬰子、呉敦の一名は黯奴、尹礼の一名は盧児と謂った。建安二十四年(219)、臧覇は別軍を遣って洛陽に居らせた。曹操が崩じたおり、臧覇の麾下と青州兵は天下が乱れるものと考えて皆な鼓を鳴らして勝手に去った。
文帝が即位すると曹休を都督青徐州とした。臧霸が曹休に謂った 「国家は未だに霸の言葉を聴き入れません!もし霸に歩騎万余を仮していただければきっと能く江表を横行しましょうに」 曹休はこれを帝に上言した。帝は臧霸の軍が以前に勝手に去ったことで猜疑しており、今もその意が勇壮な事はこの様であった!かくて東巡し、臧霸を来朝させてその兵を奪った。 (『魏略』)
[2] 臧艾は少時より才能と道理によって称えられ、黄門郎となり、郡守を歴任した。 (『魏書』)
[3] 臧霸の一子の臧舜は字を太伯といい、晋で散騎常侍となった。『武帝百官名』に見える。この『百官名』は誰人の撰かは知られていないが、全てに題目があり、臧舜を 「才は優れて伸びやかであり、時宜を識り翼賛した」 と称えている。
[4]
孫観

 孫観、字は仲台。泰山の人である。臧霸と倶に起ち、黄巾を討ち、騎都尉に拝された。曹操が呂布を破ると臧霸に孫観兄弟を招降させ、皆な厚遇された。臧霸と倶に戦伐し、孫観は常に先登し、青州・徐州の群賊を征定して功は臧霸に次ぎ、呂都亭侯に封じられた。(兄の)孫康は亦た功によって列侯に封じられた。曹操と南皮で会同し、子弟を遣って鄴に居らせ、孫観を偏将軍に拝し、青州刺史に遷した。濡須口に孫権征伐に従い、節を仮された。孫権を攻め、流れ矢に中って左足を負傷したが、力戦して顧みず、曹操が労うには 「将軍の被創は深重であるのに猛気は益々奮い、国の為にはその身を愛すべきではないか?」 振威将軍に遷ったが、傷は甚だ重く、とうとう卒した。 (『魏書』)
 

文聘

 文聘字仲業、南陽宛人也、為劉表大將、使禦北方。表死、其子j立。太祖征荊州、j舉州降、呼聘欲與倶、聘曰:「聘不能全州、當待罪而已。」太祖濟漢、聘乃詣太祖、太祖問曰:「來何遲邪?」聘曰:「先日不能輔弼劉荊州以奉國家、荊州雖沒、常願據守漢川、保全土境、生不負於孤弱、死無愧於地下、而計不得已、以至於此。實懷悲慚、無顏早見耳。」遂欷歔流涕。太祖為之愴然曰:「仲業、卿真忠臣也。」厚禮待之。授聘兵、使與曹純追討劉備於長阪。太祖先定荊州、江夏與呉接、民心不安、乃以聘為江夏太守、使典北兵、委以邊事、賜爵關内侯。與樂進討關羽於尋口、有功、進封延壽亭侯、加討逆將軍。又攻羽輜重於漢津、燒其船於荊城。文帝踐阼、進爵長安郷侯、假節。與夏侯尚圍江陵、使聘別屯沔口、止石梵、自當一隊、禦賊有功、遷後將軍、封新野侯。孫權以五萬衆自圍聘於石陽、甚急、聘堅守不動、權住二十餘日乃解去。聘追撃破之。摎W五百戸、并前千九百戸。

 文聘、字は仲業。南陽宛の人である。劉表の大将となり、北方を防禦した。劉表が死んでその子の劉jが立った。曹操が荊州を征伐すると、劉jは州を挙げて降り、文聘に呼び掛けて行動を与にしようとした。文聘 「聘は州を全うする事ができず、ただ罪を待つだけです」 曹操が漢水を済(わた)り、文聘はかくして曹操に詣った。曹操が問うた 「随分と遅かったではないか?」 文聘 「先日、劉荊州を輔弼して国家に奉じる事ができませんでした。荊州が没したとはいえ、常に漢川に拠守して土境を保全し、生きては孤弱(劉j)に負(そむ)かず、死しては地下(劉表)に愧ないよう願ってまいりましたが、計策は已に得られず、かくて此処に至りました。まことに悲慚を懐き、早々に謁見する顔が無かったのです」 かくて欷歔(啜り泣き)流涕した。曹操はこのため愴然とし 「仲業よ、卿は真の忠臣であるぞ!」 厚く礼待した。文聘に兵を授け、曹純と与に長阪に劉備を追討させた。
曹操は先ず荊州を平定したが、江夏は呉と接して民心は安定せず、かくして文聘を江夏太守として北兵を典らせ、以て辺事を委ね、爵関内侯を賜った[1]。楽進と与に尋口に関羽を討ち、功があって延寿亭侯に進封され、討逆将軍が加えられた。
 又た漢津に関羽の輜重を攻め、荊城にその船を焼いた。 文帝が踐阼すると長安郷侯に進爵され、節を仮された。夏侯尚と与に江陵を囲み、文聘を別に沔口(夏口)に駐屯させた。石梵に止まり、一隊に当り、賊を禦いで功があり、後将軍に遷って新野侯に封じられた。
 孫権が五万の軍勢で自ら石陽に文聘を攻囲し、甚だ急しかったが、文聘は堅守して動じず、孫権が二十余日で包囲を解き退去すると、文聘は追撃してこれを破った[2]。食邑五百戸を増し、前と併せて千九百戸となった。

 もう少し年次を記してほしいものです。尋口で関羽を討った事は、楽進が臨沮・旌陽を攻略した事に関連するか、劉備が葭萌関から動く時の口実にした 「楽進と関羽が青泥で対峙している」 時か、全て同一作戦かでしょう。楽進は214年には合肥に異動になるので、それ以前の事になります。
 漢津は“漢水の渡津”という事で具体的な場所は判りませんが、昇進記事を挟んでいる以上は尋口での事とは別件だと思われます。しかも江夏太守が荊城(江陵城?)にまで出張るというのは孫権との関係が修復されていて、しかも関羽の防御線が崩れていないと困難なので、関羽が襄樊攻略の為に江陵の兵を北上させた後、ひょっとしたら襄樊から撤退した後のことかもです。
 石城の攻防は呉が曹丕の死に乗じたもので、魏の黄初七年・呉の黄武五年(226)にあたります。

 聘在江夏數十年、有威恩、名震敵國、賊不敢侵。分聘戸邑封聘子岱為列侯、又賜聘從子厚爵關内侯。聘薨、諡曰壯侯。岱又先亡、聘養子休嗣。卒、子武嗣。
 嘉平中、譙郡桓禺為江夏太守、清儉有威惠、名亞於聘。

 文聘は江夏に数十年在って恩威があり、名は敵国を震わせ、賊は敢えて侵攻しなかった。

 「賊不敢侵」をどこまで信用するかは措いておいて、文聘は忠烈な武人というだけではなさそうです。文聘が着任した当時の江夏は黄祖の戦死と荊州の降伏が重なって安定とは程遠い状態にあった筈です。しかも対孫権の最前線。そんな所に地縁に乏しい文聘が来て大過なく統治し、太守として充分に及第点をクリアしているのですから、武人としてよりもむしろ統治官能力に長けていたようです。

文聘の戸邑を分けて文聘の子の文岱を封じて列侯とし、又た文聘の従子(おい)の文厚に爵関内侯を賜った。文聘が薨じて壮侯と諡した。文岱は又た先んじて亡くなっており、文聘の養子の文休が嗣いだ。卒して子の文武が嗣いだ。
 嘉平年間(249〜54)、譙郡の桓禺は江夏太守となり、清倹で威惠があって名声は文聘に亜いだ。
[1] 孫盛曰く、父を輔け君主に仕え、忠孝の道は同一である。臧霸は少時に孝と烈とで称えられ、文聘は垂泣の誠を著した。このため魏武は同一にまみえ、二方面の任を委ねた。壮武の者が倉卒の間(騒乱)で見知されただけではないのだ!
[2] 孫権は嘗て自ら数万の軍勢を率いて至った。時に大雨があり、城柵は崩壊し、人民は田野に散在して未だ補治しきれていなかった。文聘は孫権が到来したと聞くと、対処する所を知らず、かくして潜黙してこれを疑わせる方が良いと思い定め、城中の人に姿を見せぬよう命じ、自身は官舎に臥して起きなかった。孫権は果たして疑い、その部下に語るには 「北方ではこの人を忠臣とし、だからこそこの郡を委ねたのだ。今、我れが至っても動かないとは、密計が無いのであればきっと外からの救援がある筈だ」 かくて敢えて攻めずに退去した。 (『魏略』)
―― 『魏略』のこの語は本伝とは反している。
 

呂虔

 呂虔字子恪、任城人也。太祖在兗州、聞虔有膽策、以為從事、將家兵守湖陸。〔襄賁〕校尉杜松部民Q母等作亂、與昌豨通。太祖以虔代松。虔到、招誘Q母渠率及同惡數十人、賜酒食。簡壯士伏其側、虔察Q母等皆醉、使伏兵盡格殺之。撫其餘衆、羣賊乃平。太祖以虔領泰山太守。郡接山海、世亂、聞民人多藏竄。袁紹所置中郎將郭祖・公孫犢等數十輩、保山為寇、百姓苦之。虔將家兵到郡、開恩信、祖等黨屬皆降服、諸山中亡匿者盡出安土業。簡其彊者補戰士、泰山由是遂有精兵、冠名州郡。濟南黄巾徐和等、所在劫長吏、攻城邑。虔引兵與夏侯淵會撃之、前後數十戰、斬首獲生數千人。太祖使督青州諸郡兵以討東萊羣賊李條等、有功。太祖令曰:「夫有其志、必成其事、蓋烈士之所徇也。卿在郡以來、禽姦討暴、百姓獲安、躬蹈矢石、所征輒克。昔寇恂立名於汝・潁、耿弇建策於青・兗、古今一也。」舉茂才、加騎都尉、典郡如故。虔在泰山十數年、甚有威惠。文帝即王位、加裨將軍、封益壽亭侯、遷徐州刺史、加威虜將軍。請琅邪王祥為別駕、民事一以委之、世多其能任賢。討利城叛賊、斬獲有功。明帝即位、徙封萬年亭侯、摎W二百、并前六百戸。虔薨、子翻嗣。翻薨、子桂嗣。

 呂虔、字は子恪。任城の人である。曹操は兗州にあった折、呂虔に胆力と策略があると聞いて従事とし、家兵を率いて湖陸を守らせた。(東海郡の)襄賁校尉杜松の部民のQ母らが乱を作し、昌豨に通じた。曹操は呂虔を杜松に代えた。呂虔は到着するとQ母と渠率(頭目)および同調した悪人数十人を招誘して酒食を賜い、簡抜した壮士をその側に伏せておいた。呂虔はQ母らが皆な酔ったと察すると伏兵に尽く格殺させ、その余衆を慰撫して群賊は平らいだ。曹操は呂虔を領泰山太守とした。泰山郡は山海に接し、世の乱れで民人の多くが藏竄していると聞こえていた。袁紹が置いた中郎将郭祖・公孫犢ら数十人が山に堡して寇掠し、百姓はこれに苦しんだ。呂虔は家兵を率いて郡に到着すると恩信を開き、郭祖らの党属は皆な降伏し、諸々の山中に亡匿した者は尽く出て土業に安んじた。その中から彊者を簡抜して戦士を補い、泰山はこれより精兵を有し、その名は州郡の冠となった。

 泰山郡は袁譚が拠っていた平原に隣接している、謂わば対袁氏戦線の東方での最前線です。役割的には臧霸らと同じで連動する事もあったかもしれませんが、呂虔は曹操にとっては子飼いに近く、どちらかと謂うと臧霸らに対するお目付け役だったものと思われます。わざわざ 「将家兵」 とある点が気になりますが。後に実質的な青州都督と見做され、さらには茂才に挙げられた点を見ても他の武将連とは一線を画しているように見えます。

済南黄巾の徐和らが所在の長吏を劫掠し、城邑を攻めた。呂虔は兵を率い、夏侯淵と会同して賊を撃ち、前後数十戦して斬首獲生は数千人にもなった。曹操は青州諸郡の兵を督し東萊の群賊の李條らを討たせ、功があった。曹操が布令するには 「志があってその事を必ず成すというのは、烈士の徇(もとめ)る所であろう。卿が郡にあって以来、禽姦討暴して百姓は安寧を獲た。躬は矢石を踏み、征するたびに勝った。昔、寇恂が汝・潁に名を立て、耿弇が青・兗に策を建てた事と古今同一である」 茂才に挙げ、騎都尉を加え、故のまま郡を典った。 呂虔が泰山にあること十数年、甚だ威恵があった。文帝が王位に即くと裨将軍を加えて益寿亭侯に封じ、徐州刺史に遷して威虜将軍を加えた。琅邪の王祥を請うて別駕とし、民の事一切を委ね、世の多くが賢者を任じた事を能とした[1]。利城の叛賊を討ち、斬獲の功があった。明帝が即位すると万年亭侯に徙封され、食邑二百を増して前と併せて六百戸となった。呂虔が薨じ、子の呂翻が嗣ぎ、呂翻が薨じて子の呂桂が嗣いだ。
[1] 王祥、字は休徴。性は至孝で、後母が苛虐して事毎に王祥を危害しようとしたが、王祥には孝養を怠る気色が無かった。盛寒の月に後母が曰った 「生魚を食したいものだ」 王祥は脱衣して冰を剖って求めようとした。少しして堅冰が解け、魚が躍り出たので奉じて供した。時人は孝心に感応したのだろうと思った。供養すること三十余年。母が歿してから出仕し、淳誠貞粋によって時代に尊重された。 (孫盛『雑語』)
―― 王祥が始めて出仕した時に齢は五十を過ぎており、稍遷して司隸校尉に至った。高貴郷公が太学に入ると王祥を三老とし、司空・太尉に遷した。司馬昭が晋王となり、司空荀は王祥に敬意を尽す事を強要したが、王祥は従わなかった。その語は三少帝紀に在る。晋武帝が踐阼すると王祥を拝して太保とし、睢陵公に封じた。泰始四年(268)に齢八十九で薨じた。
王祥の弟の王覧は字を玄通といい、光禄大夫となった。『晋諸公賛』では王覧を率直簡素で至高の行ないが有ると称えている。王覧の子孫は繁衍し、頗る賢才が相い係累し、奕世(累代)の盛は古今に稀である。 (王隠『晋書』)

 出ましたよ王祥。遥か昔に道徳の授業で読んだ記憶があります。季札子が墓に剣を奉じた話とセットで。至孝だったけど魏には忠臣じゃなかったんだ、へー。それはさて措き、王戎王衍王導王羲之らを輩出した琅邪王氏ですよ。劉表の前任者で、孫堅に殺された荊州刺史王叡の従子。司馬炎の下でいつの間にか上公に至っている所を見ると、表面には出てこなかっただけで青州屈指の名族として知られていたんでしょう。

 

許褚

 許褚字仲康、譙國譙人也。長八尺餘、腰大十圍、容貌雄毅、勇力絶人。漢末、聚少年 及宗族數千家、共堅壁以禦寇。時汝南葛陂賊萬餘人攻褚壁、褚衆少不敵、力戰疲極。兵矢盡、乃令壁中男女、聚治石如杅斗者置四隅。褚飛石擲之、所値皆摧碎。賊不敢進。糧乏、偽與賊和、以牛與賊易食、賊來取牛、牛輒奔還。褚乃出陳前、一手逆曳牛尾、行百餘歩。賊衆驚、遂不敢取牛而走。由是淮・汝・陳・梁間、聞皆畏憚之。

 許褚、字は仲康。譙国譙の人である。身長は八尺余、腰大は十囲(5尺)、容貌は雄毅で勇力は絶人だった。漢末に少年および宗族数千家を聚め、共に塁壁を堅めて寇掠を禦いだ。時に汝南葛陂の賊の万余人が許褚の塁壁を攻め、許褚の手勢は少なくて敵わず、力戦して疲弊極まった。兵器・矢石が尽きると壁中の男女に杅斗大の石を聚めて四隅に置かせた。許褚は石を飛ばして擲げ、値(あた)る所は皆な摧碎し、賊は敢えて進まなかった。糧が欠乏すると偽って賊と和し、牛を賊に与えて食と易えた。賊が来て牛を引き取ったが、牛は輒(たちま)ち奔還した為、許褚は陣前に出て片手で牛の尾を逆曳し、行くこと百余歩。賊の軍勢は驚き、かくて敢えて牛を受け取ろうとはせずに退走した。このため淮・汝・陳・梁の間(豫州では、伝聞して皆な畏憚した。

 太祖徇淮・汝、褚以衆歸太祖。太祖見而壯之曰:「此吾樊噲也。」即日拜都尉、引入宿衞。諸從褚侠客、皆以為虎士。從征張繍、先登、斬首萬計、遷校尉。從討袁紹於官渡。時常從士徐他等謀為逆、以褚常侍左右、憚之不敢發。伺褚休下日、他等懷刀入。褚至下舍心動、即還侍。他等不知、入帳見褚、大驚愕。他色變、褚覺之、即撃殺他等。太祖益親信之、出入同行、不離左右。從圍鄴、力戰有功、賜爵關内侯。

 曹操が淮・汝を徇ると、許褚は手勢を以て曹操に帰順した。曹操は観ると壮士として 「これは吾が樊噲である」 と即日に都尉に拝し、引いて宿衛に入れ、諸々の許褚に従っていた侠客を皆な虎士とした。

 曹操が豫州を経略した時期は、思いつく限りだと袁術討伐がらみです。第一次が初平四年(193)、南陽から進出してきた袁術を追撃した時。第二次が建安元年(196)、陳相袁嗣を降し、汝南・潁川の黄巾を討伐した時。恐らく建安の方でしょう。そういえば豫州黄巾とされる劉辟らは袁術と結びついていました。袁術が黄巾を使って譙に嫌がらせをする構図で、許褚が曹操に従ったのは自然な流れです。ま、実際に黄巾なのか便宜上黄巾と呼んでいるだけなのかは知りませんが。因みに曹操はこの半年後に献帝を許に迎え、翌年には張繍の件で大失敗です。

張繍征伐に従い、先登して斬首は万を計り、校尉に遷った。官渡に袁紹討伐に従った。時にかねて従士の徐他らが叛逆を謀っていたが、許褚が常に左右に侍衛していた為に憚って敢えて実行しなかった。許褚の休下の日を伺い、徐他らは刀を懐に(幕中に)入った。許褚は下がって宿舎に至ると心動(胸騒ぎ)し、即座に還って侍衛した。徐他らは知らずに帳に入って許褚を見ると大いに驚愕した。徐他らの顔色が変じると許褚はこれを覚り、即座に徐他らを撃殺した。曹操は益々これを親信し、出入に同行させて左右から離さなかった。鄴の攻囲に従って力戦して功があり、爵関内侯を賜った。

從討韓遂・馬超於潼關。太祖將北渡、臨濟河、先渡兵、獨與褚及虎士百餘人留南岸斷後。超將歩騎萬餘人、來奔太祖軍、矢下如雨。褚白太祖、賊來多、今兵渡已盡、宜去、乃扶太祖上船。賊戰急、軍爭濟、船重欲沒。褚斬攀船者、左手舉馬鞍蔽太祖。船工為流矢所中死、褚右手並泝船、僅乃得渡。是日、微褚幾危。其後太祖與遂・超等單馬會語、左右皆不得從、唯將褚。超負其力、陰欲前突太祖、素聞褚勇、疑從騎是褚。乃問太祖曰:「公有虎侯者安在?」太祖顧指褚、褚瞋目盼之。超不敢動、乃各罷。後數日會戰、大破超等、褚身斬首級、遷武衞中郎將。武衞之號、自此始也。軍中以褚力如虎而癡、故號曰虎癡;是以超問虎侯、至今天下稱焉、皆謂其姓名也。

潼関に韓遂・馬超の討伐に従った。曹操が北渡しようと黄河の渡河に臨み、先に兵を渡して独り許褚および虎士百余人と南岸に留まって後背を断っていた。馬超が歩騎万余人を率いて曹操の軍に来攻し、矢は雨の如く下った。許褚が曹操に白すには、賊は多く兵は尽く渡ったので去った方が良いとし、かくして曹操を扶けて船に上げた。賊の戦は急しく、軍士は争って済ろうとし、船は重さから水没しそうになった。許褚は船に挙がる者を斬り、左手で馬鞍を挙げて曹操を蔽った。船頭が流れ矢に中って死ぬと、許褚は右手で船を泝(遡上)させ、どうにか渡る事ができた。この日は許褚がいなければ危うい所だった。 その後、曹操は韓遂・馬超らと単騎で会談する事となり、左右は皆な扈従させず、ただ許褚のみを率いた。馬超はその力を自負し、陰かに曹操に突撃しようとしていたが、かねて許褚の勇武を聞いており、従騎が許褚ではないかと疑った。かくして曹操に問うに 「公には虎侯なる者があるというが、いずこに?」 曹操は顧みて許褚を指すと、許褚目を瞋らせて盼んだ。馬超は敢えて動かず、各々引き揚げた。後に数日して会戦し、馬超らを大破し、許褚は自ら首級を斬り、武衛中郎将に遷った。“武衛”の号はこれより始まる。軍中では許褚の力が虎の如くで癡(ほう)けている為、虎癡と号した。そのため馬超は虎侯と問い、今では天下でこれを称え、皆なその姓名だと謂っている。

 褚性謹慎奉法、質重少言。曹仁自荊州來朝謁、太祖未出、入與褚相見於殿外。仁呼褚入便坐語、褚曰:「王將出。」便還入殿、仁意恨之。或以責褚曰:「征南宗室重臣、降意呼君、君何故辭?」褚曰:「彼雖親重、外藩也。褚備内臣、衆談足矣、入室何私乎?」太祖聞、愈愛待之、遷中堅將軍。太祖崩、褚號泣歐血。文帝踐阼、進封萬歳亭侯、遷武衞將軍、都督中軍宿衞禁兵、甚親近焉。初、褚所將為虎士者從征伐、太祖以為皆壯士也、同日拜為將、其後以功為將軍封侯者數十人、都尉・校尉百餘人、皆劍客也。明帝即位、進〔封〕牟郷侯、邑七百戸、賜子爵一人關内侯。褚薨、諡曰壯侯。子儀嗣。褚兄定、亦以軍功(封)為振威將軍、都督徼道虎賁。太和中、帝思褚忠孝、下詔褒贊、復賜褚子孫二人爵關内侯。儀為鍾會所殺。泰始初、子綜嗣。

 許褚は性は謹慎で法を奉じ、質朴重厚で言辞は少なかった。曹仁が荊州より謁見に来朝し、曹操が出御する前に入り、許褚と殿外で出会った。曹仁は許褚を呼び入って坐語しようとしたが、許褚は 「王はまもなく出御されましょう」 と便(たちま)ち還って入殿し、曹仁は心中これを恨んだ。ある者が許褚を責めるには 「征南将軍は宗室の重臣であるのに、降意(遜って)して君を呼んだのだ。どうして辞退したのだ?」 許褚 「彼は親族の重鎮とはいえ外藩である。褚は内臣に備(つら)なり、衆談(集会での会談)で足ります。入室して何を私交しましょう?」 曹操は聞くと愈々愛待し、中堅将軍に遷した。 曹操が崩じると許褚は号泣嘔血した。文帝は踐阼すると万歳亭侯に進封して武衛将軍に遷し、中軍の宿衛の禁兵を都督させ、甚だ親近させた。

 魏の中軍のうちの首都駐留軍で武衛将軍は宿衛兵の中核を担いますが、どうやら許褚発祥のようです。ちなみに中堅将軍も武衛将軍に亜ぐ要職となります。

かつて許褚が率いて虎士となった者は征伐に従い、曹操は皆な壮士だとして同日に将校に拝し、その後に軍功によって将軍となり封侯された者は数十人となり、都尉・校尉は百余人であり、皆な剣客だった。明帝は即位すると牟郷侯に進封して食邑七百戸とし、一人の子に爵関内侯を賜った。許褚は薨じると壮侯と諡された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄の許定は亦た軍功によって振威将軍となり、徼道(巡幸道の巡回)の虎賁を都督した。太和中に帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒賛し、復た許褚の子と孫の二人に爵関内侯を賜った。許儀は鍾会に殺されたが、泰始の初めに子の許綜が嗣いだ。

典韋

 典韋、陳留己吾人也。形貌魁梧、旅力過人、有志節任侠。襄邑劉氏與睢陽李永為讎、韋為報之。永故富春長、備衞甚謹。韋乘車載雞酒、偽為候者、門開、懷匕首入殺永、并殺其妻、徐出、取車上刀戟、歩〔去〕。永居近市、一市盡駭。追者數百、莫敢近。行四五里、遇其伴、轉戰得脱。由是為豪傑所識。初平中、張邈舉義兵、韋為士、屬司馬趙寵。牙門旗長大、人莫能勝、韋一手建之、寵異其才力。後屬夏侯惇、數斬首有功、拜司馬。

 典韋は陳留己吾の人である。形貌は魁梧で膂力は人に過ぎ、志節と任侠があった。襄邑の劉氏は睢陽の李永とは讐を結んでいたが、典韋は劉氏の為に報復した。李永は故の富春県長で、護衛を備えて甚だ警戒していた。典韋は車に乗り雞酒を載せ、候者だと偽って門を開かせ、匕首を懐に入って李永を殺し、併せてその妻を殺し、徐ろに出ると車上の刀戟を取って歩き去った。李永の居宅は市に近く、一市は尽く震駭し、追撃者は数百人あったものの敢えて近づく者は莫かった。行くこと四・五里でその伴づれと遇い、転戦して脱出できた。これによって豪傑に識られた。初平中に張邈が義兵を挙げると典韋は士卒となり、司馬の趙寵に属した。牙門旗は長大で、能く挙げる人が莫かったが、典韋は片手でこれを建て、趙寵はその才力を異とした。 後に夏侯惇に属し、しばしば斬首して功があって司馬に拝された。

 曹操が挙兵した場所が己吾。時の陳留太守が張邈。汴水の役に先立って、張邈が曹操に兵を割いています。その兵力は不明ですが、“張邈の部将としての曹操”という構図すら浮かびます。典韋が曹操に出会ったのもこの時ではないでしょうか。そのまま張邈に返さなかった事になりますが、しばらくは夏侯惇の将校として従軍していたようです。

太祖討呂布於濮陽。布有別屯在濮陽西四五十里、太祖夜襲、比明破之。未及還、會布救兵至、三面掉戰。時布身自搏戰、自旦至日昳數十合、相持急。太祖募陷陳、韋先占、將應募者數十人、皆重衣兩鎧、棄楯、但持長矛撩戟。時西面又急、韋進當之、賊弓弩亂發、矢至如雨、韋不視、謂等人曰:「虜來十歩、乃白之。」等人曰:「十歩矣。」又曰:「五歩乃白。」等人懼、疾言「虜至矣」!韋手持十餘戟、大呼起、所抵無不應手倒者。布衆退。會日暮、太祖乃得引去。拜韋都尉、引置左右、將親兵數百人、常繞大帳。韋既壯武、其所將皆選卒、毎戰鬬、常先登陷陳。遷為校尉。性忠至謹重、常晝立侍終日、夜宿帳左右、稀歸私寢。好酒食、飲噉兼人、毎賜食於前、大飲長歠、左右相屬、數人益乃供、太祖壯之。韋好持大雙戟與長刀等、軍中為之語曰:「帳下壯士有典君、提一雙戟八十斤。」

曹操が濮陽に呂布を討った時、呂布の別屯が濮陽の西四・五十里にあり、曹操が夜襲して明け方頃に破った事があった。帰還前に呂布の救兵が至り、三面で掉戦した。時に呂布自身が搏戦し、明方より日昳(午後)まで数十合し、互いに急しかった。曹操が陥陣の士を募ると典韋が先ず占(つ)き、応募者数十人を率い、皆な二両の鎧を重ねて着衣し、楯を棄て、ただ長矛を持ち戟を撩(からげ)た。時に西面が又た急しく、典韋は進んでこれに当った。賊は弓弩を乱発して矢は雨の如く至ったが、典韋は視ずに同行者に謂うには 「虜が十歩に来たら白せ」 同行者 「十歩!」 又た曰った 「五歩で白せ」 同行者は懼れて早口で 「来ました!」 典韋は手に十余戟を持ち、大きく呼(おめ)いて起ち、抵てるところ手に応じて倒れない者は無く、呂布の軍勢は退いた。たまたま日が暮れ、曹操はかくして退去することができた。典韋を都尉に拝し、引いて左右に置き、親衛兵数百人を率いて常に大帳を繞らせた。
典韋は壮武であり、率いるのは皆な選抜された士卒で、戦鬬の毎に常に先登して陥陣し、遷って校尉となった。性は忠至謹重で、常に昼は終日に立侍し、夜は帳の左右に宿衛し、私宅に帰って寝る事は稀だった。酒食を好み、飲噉は人の倍で、御前で食を賜る毎に大いに飲んで長らく歠(すす)り、左右で互いに給仕して数人に益して供し、曹操はこれを壮とした。典韋は好んで大双戟を長刀などと持ち、軍中ではそのため 「帳下壮士有典君、提一双戟八十斤」 と語った。

 太祖征荊州、至宛、張繍迎降。太祖甚ス、延繍及其將帥、置酒高會。太祖行酒、韋持大斧立後、刃徑尺、太祖所至之前、韋輒舉斧目之。竟酒、繍及其將帥莫敢仰視。後十餘日、繍反、襲太祖營、太祖出戰不利、輕騎引去。韋戰於門中、賊不得入。兵遂散從他門並入。時韋校尚有十餘人、皆殊死戰、無不一當十。賊前後至稍多、韋以長戟左右撃之、一叉入、輒十餘矛摧。左右死傷者略盡。韋被數十創、短兵接戰、賊前搏之。韋雙挾兩賊撃殺之、餘賊不敢前。韋復前突賊、殺數人、創重發、瞋目大罵而死。賊乃敢前、取其頭、傳觀之、覆軍就視其躯。太祖退住舞陰、聞韋死、為流涕、募闔鞫エ喪、親自臨哭之、遣歸葬襄邑、拜子滿為郎中。車駕毎過、常祠以中牢。太祖思韋、拜滿為司馬、引自近。文帝即王位、以滿為都尉、賜爵關内侯。

 曹操が荊州を征伐して宛に至ると、張繍が迎えて降った。曹操は甚だ喜び、張繍およびその将帥を延(まね)いて置酒高会した。曹操が酒を行(めぐ)り、典韋は大斧を持って後に立ち、刃径は一尺あって、曹操が至る所の前では典韋はそのつど斧を挙げてこれを目(み)た。酒が竟(お)わり、張繍およびその将帥で敢えて仰視する者は莫かった。後十余日して張繍が反き、曹操の営を襲撃し、曹操は出て戦ったが利あらず、軽騎を引いて退去した。典韋は門中に戦い、賊は侵入できず、兵はかくて散じて他門より一斉に侵入した。時に典韋の将校は尚お十余人あり、皆な殊に死戦して一を以て十に当らない者は無かった。賊は前後に漸増し、典韋は長戟で左右を撃ち、一叉が入るとそのたび十余矛が摧かれた。左右の死傷者も略(ほぼ)尽きた。典韋は数十創を被り、短兵で接戦し、賊は前んでこれを搏った。典韋は双脇に両の賊を挟んでこれを撃殺し、余賊は敢えて前まなかった。典韋は復た前んで賊に突し、数人を殺し、創は重く発き、目を瞋らせて大いに罵って死んだ。賊は敢えて(恐る恐る)前んでその頭を取り、伝えてこれを観、軍を覆(あ)げてその躯を視に就った。
曹操は舞陰まで退き、典韋の死を聞くと流涕し、その喪(遺骸)を間取(盗み取る)する者を募り、自ら親しく臨んで哭礼し、遣って襄邑に帰葬させた。

 典韋墓と呼ばれるものが安徽省の柘皋(合肥市巣湖北郊)にあるそうです。全く整備されておらず、清流も無いのにその周辺だけ蛍が群棲しているという不思議がありますが、そもそもなぜ典韋がここに葬られた事になっているのかが非常に謎です。どなたか由来を教えてください。

子の典満を拝して郎中とした。車駕が過ぎる毎に常に中牢を以て祠った。曹操は典韋を追思し、典満を拝して司馬とし、引いて自身に近侍させた。文帝が王位に即くと典満を都尉とし、爵関内侯を賜った。
 

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