三國志修正計画

三國志卷五十六 呉志十一/朱治朱然呂範朱桓傳

朱治

 朱治字君理、丹楊故鄣人也。初為縣吏、後察孝廉、州辟從事、隨孫堅征伐。中平五年、拜司馬、從討長沙・零・桂等三郡賊周朝・蘇馬等、有功、堅表治行都尉。從破董卓於陽人、入洛陽。表治行督軍校尉、特將歩騎、東助徐州牧陶謙討黄巾。

 朱治、字は君理。丹楊故鄣の人である。初め県吏となり、後に孝廉に察(あ)げられ、州が従事に辟し、孫堅の征伐に随った。

 孝廉から州従事との経歴から、郡ではそれなりに名の通った家門だった事が判ります。中平五年以前の孫堅の軍事というと、会稽の許昭討伐と黄巾討伐と張温の西征があります。許昭討伐の際に 「與州郡合討破之」 とあるので、朱治が随ったのはこの時かと思われますが、当時の朱治は17〜18歳なので、かなりのエリートでないと苦しいかもです。ちなみに孫堅の黄巾討伐は下邳丞としてスタートし、西征は朱儁の別部司馬からの抜擢なので、丹楊人が随うべき接点はありません。西征中に陶謙の配下から鞍替えした、という可能性は無きにしも非ずですが…。

中平五年(188)、司馬を拝命し、長沙・零陵・桂陽ら三郡の賊の周朝・蘇馬らを討つのに従って功があり、孫堅が朱治を上表して都尉を行(か)ねさせた。董卓を陽人で破るのに従い、洛陽に入った。上表によって朱治は督軍校尉を行ね、特に歩騎を率いて東の徐州牧陶謙が黄巾を討つのを助けた。

 袁術に従っている者の部将が陶謙を助けたという事は、陶謙が袁術と繋がっていたという一例証になります。特に朱治と陶謙には同郡のよしみもありますし。ただ、この陶謙の徐州牧が本当なら、陶謙が袁術から離れた後であり、朱治の“督軍校尉”からは陶謙に対する監察を感じさせます。

 會堅薨、治扶翼策、依就袁術。後知術政コ不立、乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春、辟治為掾、遷呉郡都尉。是時呉景已在丹楊、而策為術攻廬江、於是劉繇恐為袁・孫所并、遂搆嫌隙。而策家門盡在州下、治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟、所以供奉輔護、甚有恩紀。治從錢唐欲進到呉、呉郡太守許貢拒之於由拳、治與戰、大破之。貢南就山賊嚴白虎、治遂入郡、領太守事。策既走劉繇、東定會稽。

 孫堅が薨じると、朱治は孫策を扶翼し、袁術に依就させた。後に袁術の政事が徳で立たない事を知ると、孫策に江東に還って平定する事を勧めた。時に太傅馬日磾が寿春に在り、朱治を辟して掾とし、呉郡都尉に遷した。このとき呉景が已に丹楊に在り、孫策は袁術の為に廬江を攻めていた。劉繇は袁術・孫策に併合されるのを恐れ、かくて嫌隙を搆じた。孫策の家門は悉く揚州に在り、朱治はかくして人を曲阿に使わして太妃および孫権の兄弟を迎えさせ、供奉輔護し、甚だ恩紀があった。

 もともと劉繇の揚州刺史就任は寿春を奪った袁術を挫く目的があったので、赴任当初から袁術・孫策に対する敵意はMAXです。着任してから情勢が変化したわけではありません。劉繇は赴任早々に曲阿から呉景らを逐っているので、孫策の家族が曲阿を出たのはその直前でしょう。又た呉郡には許貢が太守を称して蟠居しているので、朱治は表立っては長江を渡る事ができません。

(劉繇を逐った後、)朱治は銭唐より(北に)進んで呉に到ろうとし、呉郡太守許貢は由拳(嘉興市区)でこれを拒いだ。朱治は戦ってこれを大破した。許貢は南の山賊の厳白虎に就き、朱治はかくて呉郡に入り、太守の事を兼領した。孫策は劉繇を走らせた後、東のかた会稽を定めた。

 劉繇を逐った後、朱治は孫策とはほぼ別行動を採っています。まさに“別軍”で、曹操における夏侯惇、劉備における関羽より独立性が高いです。しかも孫策にとっては父親以来の重鎮というだけでなく、最も心細い時に世話を焼いてくれ、しかも孫策自身の方向性を示したという貴重枠。

 權年十五、治舉為孝廉。後策薨、治與張昭等共尊奉權。建安七年、權表治為〔呉郡〕太守、行扶義將軍、割婁・由拳・無錫・毗陵為奉邑、置長吏。征討夷越、佐定東南、禽截黄巾餘類陳敗・萬秉等。黄武元年、封毗陵侯、領郡如故。二年、拜安國將軍、金印紫綬、徙封故鄣。

 孫権が齢十五の時、朱治が挙げて孝廉とした。後に孫策が薨じると、朱治は張昭らと共に孫権を尊奉した。

 あの孫権が朱治を重んじたメインの理由が並んでいます。孫権にとって朱治は、孫策に戦略を示した父兄以来の重臣というだけでなく、孝廉に挙げてくれた故将であり、孫策の死後に自分を積極的に支持してくれた人物でした。故将の重さは、袁譚が敗残の劉備を、故将であるが為に父子揃って丁重に丁重にお迎えせざるを得なかった事でも明らかです。しかも地元密着型の人で、呉郡・丹楊郡という江東の心臓部に対する影響力も絶大です。文人としての名声が基盤の張昭と違い、揶揄も無碍にもできません。
 ではあの孫権がそんなに殊勝でいられたのかというと、発散できない分だけ溜っていたようです。仲裁名人の諸葛瑾が処方箋を用意していました。孫権が朱治にムカついた原因は不明ですが、張昭と似たり寄ったりかと思われます。ひょっとしたら 「破虜・討逆殿であれば〜」 くらいは云ったのかもしれません。

建安七年(202)、孫権が上表して朱治を呉郡太守とし、扶義将軍を行ね、婁・由拳・無錫・毗陵を割いて奉邑とし、長吏を置いた。夷・山越を征討し、東南を定める事を佐け、黄巾の余類の陳敗・万秉らを禽え截った。
 黄武元年(222)、毗陵侯に封じられ、領郡は以前通りだった。二年、安国将軍を拝命し、金印紫綬(準三公の格式)であり、故鄣に徙封された。

 權歴位上將、及為呉王、治毎進見、權常親迎、執版交拜、饗宴贈賜、恩敬特隆、至從行吏、皆得奉贄私覿、其見異如此。
 初、權弟翊、性峭急、喜怒快意、治數責數、諭以道義。權從兄豫章太守賁、女為曹公子婦、及曹公破荊州、威震南土、賁畏懼、欲遣子入質。治聞之、求往見賁、為陳安危、賁由此遂止。

 孫権が上将を歴任して呉王になるに及び、朱治を進見する毎に孫権は親しく迎えるのが常で、版を執って交々に拝礼し、饗宴や贈賜の恩敬は特に隆盛だった。従者や行吏に至るまで、皆なが奉贄しての私的な通見ができ、その殊遇はこの通りだった。
 かねて孫権の弟の孫翊の性は峭急で、喜怒は快意(心のまま)、朱治はしばしば責数して道義で諭(さと)した。孫権の従兄で豫章太守孫賁の娘は曹操の子(曹彰)の婦人となったが、曹操が荊州を破るに及び、威は南土を震わせ、孫賁は畏懼して子を遣って入質させようとした。朱治はこれを聞くと、往って孫賁に通見を求め、安危を陳べ[1]、孫賁はこれによって遂に止めた。

 權常歎治憂勤王事。性儉約、雖在富貴、車服惟供事。權優異之、自令督軍御史典屬城文書、治領四縣租税而已。然公族子弟及呉四姓多出仕郡、郡吏常以千數、治率數年一遣詣王府、所遣數百人、毎歳時獻御、權答報過厚。是時丹楊深地、頻有姦叛、亦以年向老、思戀土風、自表屯故鄣、鎮撫山越。諸父老故人、莫不詣門、治皆引進、與共飲宴、郷黨以為榮。在故鄣歳餘、還呉。黄武三年卒、在郡三十一年、年六十九。

 孫権は朱治が王に事えて憂勤(懸命な奉仕)している事を常に歎じていた。性は倹約で、富貴であっても車服はただ供与物を用いた。孫権はこれを優異とし、自ら督軍・御史に命じて城の文書を典属させ、朱治には四県の租税だけを担当させた。

 正直申しまして、この措置を優遇扱いしていいのかどうか悩みます。文書行政の煩雑さから解放したと読み取れる一方で、采邑の財務以外の実権を奪ったとも読めるからです。ここは素直に、四県の租税以外は文書から解放されて朱治は命じるだけになった、と解釈しておきます。

公族の子弟および呉四姓の多くが郡庁に出仕し、郡吏は常に千を単位とし、朱治が数年に一たび遣って王府に詣らせる場合、遣るのは数百人であった。毎歳の時候の献御物に対し、孫権の答報は過分に厚かった。
この当時、丹楊の深地では頻りに姦者が叛き、亦た齢が老いに向かっている事もあって土風(郷土の風土)を思恋し、自ら上表して故鄣(湖州市安吉)に屯し、山越を鎮撫した。諸々の父老や故人(旧知)で門に詣らぬ者は莫く、朱治は皆な引進して共に飲宴し、郷党はこれを栄誉とした。故鄣に在ること歳余にして呉に還った。黄武三年(224)に卒したが、在郡三十一年であり、齢は六十九だった。

 子才、素為校尉領兵、既嗣父爵、遷偏將軍。才弟紀、權以策女妻之、亦以校尉領兵。紀弟緯・萬歳、皆早夭。才子琬、襲爵為將、至鎮西將軍。

 子の朱才は素より校尉として兵を領しており、父の爵を嗣いだ後、偏将軍に遷った[2]。朱才の弟の朱紀には、孫権は孫策の娘を妻(めあわ)せ、亦た校尉として領兵させた。朱紀の弟の朱緯・朱万歳は皆な早くに夭折した。朱才の子の朱琬は襲爵して将となり、鎮西将軍に至った。

 朱才が生まれる前、朱治は姉の子を養子に迎えていました。それが次項の朱然です。ちなみに朱琬は歩闡の乱に際し、晋の巴東監軍徐胤の水軍を禦ぐ任を担いました。

[1] 朱治が孫賁に説くには 「破虜将軍はかつて義兵を率いて入洛して董卓を討ち、名声は中夏に冠し、義士はこれを壮としました。討逆将軍が世を継ぎ、六郡を廓定(拓定)し、特に君侯が骨肉の至親であり、時勢の器だと考え、そのため漢朝に上表して大郡に剖符(割符/任命)し、将を兼ねて校尉を建てたのです。両府を関綜(総摂)し、栄誉は宗室の冠であり、遠近に仰視されました。しかも討虜将軍は聡明神武で、洪業(大業)を継承し、英雄を攬結(収攬)し、すべての世務を遂げ、軍衆は日々に盛んとなり、事業は日々に隆盛し、昔日の蕭王(光武帝)が河北に在った時でもこれ以上ではなく、必ずや王基を達成し、東南にて運気に応じるでしょう。そのため劉玄徳は遠方より腹心を示し、拯救されんことを求めました。これは天下が共に知る事であります。 前に東方で道路の言(世間の風聞)として聞いた処では、将軍には異趣があるとの事で、憮然としました。今、曹操は兵を恃み、漢室を傾覆して幼帝は流離し、百姓元元(万民)は未だに帰す所を知りません。しかも中国は蕭条として、或る場所では百里に炊煙は無く、城邑は空虚で、道には殣れた者が相い望み、士は外地で歎じ、婦女は家室で怨み、これに師旅が加わった事で飢饉となっております。これらから測るに、どうして長江を越えて我らと利を争えましょう? 将軍はこうした時にあって、骨肉の親に背き、万安の計に違え、同気の膚(兄弟)を割き、虎狼の口に啖われようとしておられる。一女子の為に慮図を改易し、毫釐によって機を失えば千里の差となります。惜しまずにはおられません!」 (『江表伝』)
[2] 朱才、字は君業。為人りは精敏で、騎射に善く、孫権は殊に愛し、常に游戯に侍従した。若くして父の任によって武衛校尉となり、兵を領して征伐に随従し、しばしば功捷(勝利の功)があった。本郡の議者は朱才が若くして栄貴の立場にあり、未だ郷党には留意していないとした。朱才は歎じ 「私は初めて将となった時、馬に跨り敵を踏み、自ら鋒を履めば名を揚げるに足ると考えていた。郷党が復た挙措を追迹していたとは知らなかった!」 こうして更めて節を折って恭謙となり、賓客に留意し、財を軽んじて義を貴び、施して報恩を望まず、又た兵法を学び、名声が遠近に聞こえるようになった。たまたま疾により卒した。 (『呉書』)
   

朱然

 朱然字義封、治姊子也、本姓施氏。初治未有子、然年十三、乃啓策乞以為嗣。策命丹楊郡以羊酒召然、然到呉、策優以禮賀。
 然嘗與權同學書、結恩愛。至權統事、以然為餘姚長、時年十九。後遷山陰令、加折衝校尉、督五縣。權奇其能、分丹楊為臨川郡、然為太守、授兵二千人。會山賊盛起、然平討、旬月而定。曹公出濡須、然備大塢及三關屯、拜偏將軍。建安二十四年、從討關羽、別與潘璋到臨沮禽羽、遷昭武將軍、封西安郷侯。

 朱然、字は義封。朱治の姊(姉)の子で、本姓は施氏である。朱治に未だ子が無かった当初、朱然は齢十三であり、かくして孫策に啓(もう)し、乞うて嗣子とした。孫策は丹楊郡に羊と酒にて朱然を召すよう命じ、朱然が呉に至ると、孫策は礼を以て賀して優遇した。
 朱然は嘗て孫権と同じく経書を学び、恩愛を結んだ。孫権が事を統べるに至り、朱然を餘姚県長とした。時に齢十九だった。

 ここから、朱然の凡その年齢が推察できます。最速でも200年に十九歳なので、朱治の養子になったのは194年以降となりますが、孫策がそれを仲介できる立場になるのは会稽太守を称した後でしょうから、195年以降となります。因みに陸遜が出仕したのは203年に21歳の時で、朱然と陸遜との年齢差は僅か一歳にすぎず、孫氏コミュニティでの立場は朱然が上、江東社会での立場は陸遜が上という、非常に微妙な優劣関係です。程普と周瑜の関係に比べ、年齢差の壁が無いだけもっとピリピリしていたかもです。劉備東征の時点での実績は家門の面でも個人の面でも朱然が上ですが、陸遜はなんと云っても外戚でございます。

後に山陰令に遷り、折衝校尉を加えられ、五県を督した。孫権はその能を奇とし、丹楊郡を分けて臨川郡とし、朱然を太守とし[1]、兵二千人を授けた。折しも山賊の起る事が盛んで、朱然が平討したところ旬月(ひと月)にして定まった。曹操が濡須に出征すると、朱然は大塢(濡須塢)および三関屯(東興関)で備え、偏将軍を拝命した。建安二十四年(219)、関羽を討つのに従い、別に潘璋と臨沮に到って関羽を禽え、昭武将軍に遷り、西安郷侯に封じられた。

 虎威將軍呂蒙病篤、權問曰:「卿如不起、誰可代者?」蒙對曰:「朱然膽守有餘、愚以為可任。」蒙卒、權假然節、鎮江陵。黄武元年、劉備舉兵攻宜都、然督五千人與陸遜并力拒備。然別攻破備前鋒、斷其後道、備遂破走。拜征北將軍、封永安侯。

 虎威将軍呂蒙の病いが篤くなると、孫権が問うた 「卿が起てなくなるようなら、誰が代りになるだろう?」 呂蒙が対えた 「朱然の胆守(胆力と実行力)は余りあり、愚考するに任せる事ができましょう」 呂蒙が卒し、孫権は朱然に節を仮し、江陵に鎮守させた。黄武元年(222)、劉備が兵を挙って宜都を攻めると、朱然は五千人を督して陸遜と力を併せて劉備を拒いだ。朱然は別に攻めて劉備の前鋒を破り、その後道を断ち、劉備はかくて破れ走った。征北将軍を拝命し、永安侯に封じられた。

 魏遣曹真・夏侯尚・張郃等攻江陵、魏文帝自住宛、為其勢援、連屯圍城。權遣將軍孫盛督萬人備州上、立圍塢、為然外救。郃渡兵攻盛、盛不能拒、即時卻退、郃據州上圍守、然中外斷絶。權遣潘璋・楊粲等解〔圍〕而圍不解。時然城中兵多腫病、堪戰者裁五千人。真等起土山、鑿地道、立樓櫓、臨城弓矢雨注、將士皆失色、然晏如而無恐意、方似剋m、伺闌ыU破兩屯。魏攻圍然凡六月日、未退。江陵令姚泰領兵備城北門、見外兵盛、城中人少、穀食欲盡、因與敵交通、謀為内應。垂發、事覺、然治戮泰。尚等不能克、乃徹攻退還。由是然名震於敵國、改封當陽侯。

 魏が曹真夏侯尚張郃らを遣って江陵を攻めさせ、魏文帝は自ら宛に駐まってその形勢は支援を為し、屯を連ねて城を囲んだ。孫権は将軍の孫盛を遣って万人を督して中洲の上で備えさせ、囲塢を立てて朱然を外から救援させた。張郃は兵を渡して孫盛を攻め、孫盛は拒げずに即時に退却し、張郃が洲上の囲に拠って守り、そうして中と外とを断絶した。孫権は潘璋・楊粲らを遣って包囲を解かせようとしたものの包囲は解けなった。このとき朱然の城中の兵は多く腫を病み、戦に堪えられる者は裁(わず)かに五千人だった。曹真らは土山を起し、地道を穿ち、楼櫓を立て、城に臨んで弓矢を雨と注ぎ、将士は皆な色を失ったが、朱然は晏如として恐れる様子が無く、吏士を(はげ)まし、間隙を伺って両(ふた)つの屯を攻めて破った。
魏は朱然を攻囲して凡そ六月となっても、未だ退かなかった。江陵令姚泰は兵を領して城の北門に備えていたが、外の兵が盛んであり、城中の人が少なく穀食が尽きようとしているのを見ると、敵と交通して内応しようと謀った。実行しようとした処で事が発覚し、朱然は姚泰を治めて戮した。夏侯尚らは克てず、かくして攻撃を徹去して退還した。これにより朱然の名は敵国を震わせ、当陽侯に改封された。

 六年五年、權自率衆攻石陽、及至旋師、潘璋斷後。夜出錯亂、敵追撃璋、璋不能禁。然即還住拒敵、使前船得引極遠、徐乃後發。黄龍元年、拜車騎將軍・右護軍、領兗州牧。頃之、以兗州在蜀分、解牧職。

 五年(226)、孫権自ら軍兵を率いて石陽を攻め、師を旋還するに至り、潘璋が後追を断った。夜間に錯乱が出来し、敵が潘璋を追撃した処、潘璋は禁じる事ができなかった。朱然は即座に還って敵を拒ぎ、前んだ船が極遠に引き揚げられるようさせてから、徐ろに後発した。黄龍元年(229)、車騎将軍・右護軍を拝命し、兗州牧を兼領した。暫くして、兗州が蜀の分配となり、牧職を解かれた。

 嘉禾三年、權與蜀克期大舉、權自向新城、然與全j各受斧鉞、為左右督。會吏士疾病、故未攻而退。

 嘉禾三年(234)、孫権は蜀と期を克(さだ)めて大挙し、孫権自ら合肥新城に向かい、朱然と全jとは各々が斧鉞を受け、左右督となった。折しも吏士(の多く)が疾を病み、そのため攻めきらぬうちに退いた。

 赤烏五年四年、征柤中、魏將蒲忠・胡質各將數千人、忠要遮險隘、圖斷然後、質為忠繼援。時然所督兵將先四出、聞問不暇收合、便將帳下見兵八百人逆掩。忠戰不利、質等皆退。九年、復征柤中、魏將李興等聞然深入、率歩騎六千斷然後道、然夜出逆之、軍以勝反。先是、歸義馬茂懷姦、覺誅、權深忿之。然臨行上疏曰:「馬茂小子、敢負恩養。臣今奉天威、事蒙克捷、欲令所獲、震耀遠近、方舟塞江、使足可觀、以解上下之忿。惟陛下識臣先言、責臣後效。」權時抑表不出。然既獻捷、羣臣上賀、權乃舉酒作樂、而出然表曰:「此家前初有表、孤以為難必、今果如其言、可謂明於見事也。」遣使拜然為左大司馬・右軍師。

 赤烏四年(241)、柤中を征した[2]。魏将の蒲忠・胡質が各々数千人を率い、蒲忠は険隘の要衝を遮って朱然の後を断とうと図り、胡質は蒲忠に継いで支援していた。時に朱然の督する兵は先んじて四方に出ており、問(音信)を聞いても収合する暇も無く、そこで帳下の兵八百人を率いて逆(むか)えて掩撃した。蒲忠は戦って利が無く、胡質らも皆な退いた[3]
九年(246)、復た柤中を征し、魏将の李興らは朱然が深入したと聞くと、歩騎六千を率いて朱然の後道を断ったが、朱然は夜間に出て逆撃し、軍が勝ってから反転した。
 これより先、帰義(将軍?)馬茂が姦計を懐き、発覚して誅したものの、孫権はこれを深く忿恚した。朱然は行軍に臨んで上疏するには 「馬茂の小子(豎子)は恩養に負きました。臣は今や天威を奉じ、事が(天威を)蒙って克捷したなら、獲たものによって遠近を震耀させ、舟にて長江を塞いで充分に観せ、こうして上下の忿恚を解かせたいと存じます。どうか陛下には臣の先の言葉を識り、臣の後の効(あかし)を責(もと)められんことを」
孫権はこのとき上表を抑えて出さなかった。朱然が捷報を献じた後、群臣が賀を上言すると、孫権は酒を挙げて楽を作してから朱然の上表を出し、「この人からは前初に上表があり、孤はきっと困難だろうと思ったが、今その言葉通りに果たした。事を見るのに明かだと謂って良かろう」。遣使して朱然を拝して左大司馬・右軍師とした。

 然長不盈七尺、氣候分明、内行脩求A其所文采、惟施軍器、餘皆質素。終日欽欽、常在戰場、臨急膽定、尤過絶人、雖世無事、毎朝夕嚴鼓、兵在營者、咸行裝就隊、以此玩敵、使不知所備、故出輒有功。諸葛瑾子融・歩隲子協、雖各襲任、權特復使然總為大督。又陸遜亦〔卒〕、功臣名將存者惟然、莫與比隆。寢疾二年、後漸搏ト、權晝為減膳、夜為不寐、中使醫藥口食之物、相望於道。然毎遣使表疾病消息、權輒召見、口自問訊、入賜酒食、出送布帛。自創業功臣疾病、權意之所鍾、呂蒙・淩統最重、然其次矣。年六十八、赤烏十二年卒、權素服舉哀、為之感慟。子績嗣。

 朱然の身長は七尺(156cm)に盈たなかったが、気候は分明で、内行(私生活)は廉潔を修め、文彩はただ軍器に施すだけで、その他は皆な質素だった。

 これは呉将の特徴なんでしょうか。呂範・賀斉・呂蒙など、呉志では軍器への修飾に言及する事が散見されます。諸葛瑾伝では 「融父兄質素、雖在軍旅、身無彩飾」 と、軍を飾らない方が珍しいという書き方をされています。

終日欽欽とし、常に戦場にあっては急場に臨んで胆が定まるのは最も人に過絶(卓絶)し、世に事が無くとも毎朝夕に鼓を厳しくし、営に在る兵は咸な軍装して隊列に就き、こうして敵を玩んで備えるべきを分らせず、そのため出撃するたびに功があった。諸葛瑾の子の諸葛融と歩隲の子の歩協は、各々父の任を襲いだとはいえ、孫権は特に復た朱然に総べさせて大督とした。又た陸遜も亦た卒した為、功臣の名将で生存するのはただ朱然だけとなり、隆んなこと比肩する者は莫かった。
 寝疾(病臥)すること二年、後にいよいよ篤くなる事が増し、孫権は昼に膳を減じ、夜には寐ず、宮中から医薬や口食の物を使わし、(使者は)道に相い望んだ(連なった)。朱然は遣使の毎に疾病を消息し、孫権はそのたび召見して口ずから自ら問訊し、入るには酒食を賜わり、出るには布帛を送った。創業より功臣で疾を病み、孫権が意を鍾(あた)えたのは呂蒙淩統が最も重く、朱然はその次だった。齢六十八で赤烏十二年(249)に卒し、孫権は素服で哀哭を挙げ、この為に感情を慟(なげ)かせた。子の朱績が嗣いだ。
施績

 績字公緒、以父任為郎、後拜建忠都尉。叔父才卒、績領其兵、隨太常潘濬討五溪、以膽力稱。遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。魯王霸注意交績、嘗至其廨、就之坐、欲與結好、績下地住立、辭而不當。然卒、績襲業、拜平魏將軍、樂郷督。明年、魏征南將軍王昶率衆攻江陵城、不克而退。績與奮威將軍諸葛融書曰:「昶遠來疲困、馬無所食、力屈而走、此天助也。今追之力少、可引兵相繼、吾欲破之於前、足下乘之於後、豈一人之功哉、宜同斷金之義。」融答許績。績便引兵及昶於紀南、紀南去城三十里、績先戰勝而融不進、績後失利。權深嘉績、盛責怒融、融兄大將軍恪貴重、故融得不廢。初績與恪・融不平、及此事變、為隙益甚。建興元年、遷鎮東將軍。二年春、恪向新城、要績并力、而留置半州、使融兼其任。冬、恪・融被害、績復還樂郷、假節。太平二年、拜驃騎將軍。孫綝秉政、大臣疑貳、績恐呉必擾亂、而中國乘釁、乃密書結蜀、使為并兼之慮。蜀遣右將軍閻宇將兵五千、摧鋳骼轣A以須績之後命。永安初、遷上大將軍・都護、督自巴丘上迄西陵。元興元年、就拜左大司馬。初、然為治行喪竟、乞復本姓、權不許、績以五鳳中表還為施氏、建衡二年卒。

 朱績、字は公緒。父の朱然の任によって郎となり、後に建忠都尉を拝命した。叔父の朱才が卒すると、朱績がその兵を領し、太常潘濬が五溪を討つのに随い、胆力を称えられた。偏将軍・営下督に遷り、盜賊の事を兼領し、法を保持して傾かなかった。魯王孫霸は朱績との交誼に意を注ぎ、嘗てその廨(役所)に至り、坐に就くと好誼を結ぼうとしたが、朱績は地に下ってから立ち、辞退して当らなかった。
 朱然が卒すると朱績がその業を襲ぎ、平魏将軍・楽郷督(荊州市松滋東郊)を拝命した。
明年(250)、魏の征南将軍王昶が軍兵を率いて江陵城を攻めたが、克てずに退いた。朱績は奮威将軍諸葛融に書簡を与えて 「王昶は遠来して疲労困憊し、馬には食糧とて無く、力が屈して敗走したが、これは天助であります。今、これを追うには力が少なく、兵を率いて相継いで頂きたい。私が前んでこれを破るので、足下がこれに乗じて後(つづ)けば、どうして一人の功となりましょう。どうか断金の義と同じく(緊密に)していただきたい」 諸葛融は朱績に許認する事を答えた。朱績はただちに兵を率いて紀南で王昶に及んだ。紀南は江陵城を去ること三十里で、朱績は先に戦って勝ったが、諸葛融は進まず、朱績はその後に利を失った。孫権は深く朱績を嘉し、諸葛融を責怒すること盛んだったが、諸葛融の兄の大将軍諸葛恪は貴顕重臣であり、そのため諸葛融は廃されずに済んだ。かねて朱績と諸葛恪・諸葛融は平らかではなかったが、この事変に及んで隙は益々甚だしくなった。

 この両者の不和の原因らしきものは不明ですが、普通に考えれば、荊州牧の嗣子たる身で南郡太守の節度を受ける事に不満で、その子に対して意趣返しをし、個人の反目が家同士の対立になった、となります。ですが私は素直じゃないので、わざわざ魯王との件に触れている点を強調し、太子派の朱家と魯王派の諸葛兄弟の対立と捉えたいと思います。例えば東興の役の時、魯王派に分類される呂拠はいたく諸葛恪に信頼されていますし。ええ、牽強付会ですとも。

 建興元年(252)、鎮東将軍に遷った。二年春、諸葛恪は合肥新城に向かうと、朱績に力を併せる事を要請したが、(朱績が到ると)半州に留め置き、諸葛融にその任を兼ねさせた。冬、諸葛恪・諸葛融が害されると、朱績は復た楽郷に還り、節を仮された。太平二年(257)、驃騎将軍を拝命した。孫綝は秉政すると大臣の弐心を疑った。朱績は呉が必ず擾乱し、中国が釁(すき)に乗じるであろうと恐れ、かくして密書にて蜀と結び、併兼の慮[※]を為させた。蜀は右将軍閻宇を遣って兵五千を率いさせ、白帝の守備を増し、朱績の以後の命令を須(ま)たせた。永安の初め、上大将軍・都護に遷り、巴丘より上流の西陵までを督した。元興元年(264)、左大司馬を拝命して就いた。

※ 魏による兼併に対する配慮。筑摩本では 「牽制を依頼した」 としています。イザとなったら蜀に荊州を兼併することを依頼した、とも読めてしまいますが、その場合は朱績が中央にどれだけ失望していたかが鍵になります。憶測する材料は極めて限られていますが、蜀が 「以須績之後命」 というのが非常に意味深です。因みにやや後の事ですが、元帝紀では 「懐疑自猜、深見忌悪」 と、朱績と孫皓の抜き差しならない関係が魏から指摘されています。

 嘗て朱然は朱治の喪を竟(お)えると、本姓に復する事を乞うたが、孫権は許さなかった。朱績は五鳳中(254〜56)の上表によって施氏に還り、建衡二年(270)に卒した。
[1] 裴松之が調べた処、この郡は程なく罷め、今の臨川郡ではない。
[2] 柤中は上黄の界内にあり、襄陽を(西に)去ること一百五十里。魏の時に夷王の梅敷の兄弟三人があり、部曲の万余家がここに屯し、中盧(襄陽市南漳東郊)・宜城(襄陽市)の西の山地の鄢・沔水の二谷の中に分布していた。土地は平らで敞(ひろ)く、桑・麻に適し、水田・陸田とも良質で、沔南の膏腴・沃壌の地であり、これを柤中と謂った。 (『襄陽記』)
[3] 『魏書』及び『江表伝』は云う。朱然は(魏の)景初元年(237)・正始二年(241)の再度に出征して寇を為し、胡質・蒲忠が破られたのは景初元年だと。魏志は『魏書』を承け、依拠に違えて胡質らが朱然に破られた事を説かず、ただ朱然が退いたとのみ云っている。呉志では、赤烏五年は魏の正始三年であるが、魏将蒲忠が朱然と戦い、蒲忠が不利となって胡質らが皆な退いたと説いている。魏少帝紀および孫権伝を調べるに、この歳は揃って事は無く、これは陳寿が呉の嘉禾六年(237)を誤って赤烏五年としただけなのだ。 (孫氏『異同評』)

 孫盛さんにはドヤっている処を申し訳ないんですがー、正始二年/赤烏四年に朱然の柤中攻略がある事を指摘しておきながら、敢えて景初元年/嘉禾六年の記事を持ってきたのは何故? 確かに朱然と胡質の交戦記事はありますが、場所が江夏である以上、赤烏の柤中攻略を一年間違えたと考える方が自然ではないでしょうか? 戦況的にも赤烏四年の方が合っているっぽいですし。
 ちなみに、この正始二年/赤烏四年の軍事は、所謂る全jの芍陂の役がメインで、朱然は司馬懿の出征に直面すると、病身の諸葛瑾が指揮する柤中の友軍を収容しつつ撤退戦を展開したものと思われます。

   

呂範

 呂範字子衡、汝南細陽人也。少為縣吏、有容觀姿貌。邑人劉氏、家富女美、範求之。女母嫌、欲勿與、劉氏曰:「觀呂子衡寧當久貧者邪?」遂與之婚。後避亂壽春、孫策見而異之、範遂自委昵、將私客百人歸策。時太妃在江都、策遣範迎之。徐州牧陶謙謂範為袁氏覘候、諷縣掠考範、範親客健兒簒取以歸。時唯範與孫河常從策、跋渉辛苦、危難不避、策亦親戚待之、毎與升堂、飲宴於太妃前。

 呂範、字は子衡。汝南細陽の人である。若くして県吏となり、姿貌には観るべきものがあった。邑人の劉氏は家が富み娘は美しく、呂範はこれを求めた。娘の母は嫌って与えまいとしたが、劉氏は 「呂子衡を観るに、久しく貧しいままであろうか?」 と、かくてこれに与えて通婚した。後に寿春に乱を避け、孫策を見てこれを異とし、呂範はかくて自ら委昵(昵懇)となり、私客百人を率いて孫策に帰した。時に呉太妃は江都に在り、孫策は呂範を遣って迎えさせた。徐州牧陶謙は呂範が袁氏の為に覘候(偵察)したと考え、県に諷して呂範を掠拷させ、呂範の親しい食客や健児が簒取して帰った。この当時はただ呂範と孫河だけが常に孫策に従い、跋渉辛苦して危難を避けず、孫策も亦た親戚として待遇し、与に堂に昇る毎に太妃の前で飲宴した。

 後從策攻破廬江、還倶東渡、到江・當利、破張英・于麋、下小丹楊・湖孰、領湖孰相。策定秣陵・曲阿、收笮融・劉繇餘衆、摧ヘ兵二千、騎五十匹。後領宛陵令、討破丹楊賊、還呉、遷都督。

 後に孫策が廬江を攻破するのに従い、還って倶に東渡し、横江・当利に到って張英・于麋を破り、小丹楊・湖孰を下し、湖孰相を兼領した。孫策は秣陵・曲阿を定めて笮融・劉繇の余衆を収めると、呂範に兵二千と騎馬五十匹を増した。後に宛陵令を領ね、丹楊の賊を討破し、呉に還って都督に遷った[1]

 ここでの“督”は駐留軍を指揮する督ではなく、孫策直属の部隊長を指します。

 是時下邳陳瑀自號呉郡太守、住海西、與彊族嚴白虎交通。策自將討虎、別遣範與徐逸攻瑀於海西、梟其大將陳牧。又從攻祖郎於陵陽、太史慈於勇里。七縣平定、拜征虜中郎將、征江夏、還平鄱陽。
 策薨、奔喪于呉。後權復征江夏、範與張昭留守。
 曹公至赤壁、與周瑜等倶拒破之、拜裨將軍、領彭澤太守、以彭澤・柴桑・歴陽歴陵為奉邑。劉備詣京見權、範密請留備。後遷平南將軍、屯柴桑。

 このとき下邳の陳瑀は自ら呉郡太守と号し、海西(宿遷市沭陽)に駐まり、(呉郡の)彊族の厳白虎と交通していた。孫策は自ら率いて厳白虎を討ち、別に呂範と徐逸を遣って海西に陳瑀を攻めさせ、その大将の陳牧を梟首した[2]。又た陵陽に祖郎を、勇里に太史慈を攻めるのに従った。七県が平定されると、征虜中郎将を拝命し、江夏を征伐し、還って鄱陽を平らげた。
 孫策が薨じると、呉での喪に奔った。後に孫権が復た江夏を征伐した時、呂範は張昭と留守した。
 曹操が赤壁に至ると、周瑜らと倶に拒いで破り、裨将軍を拝命し、彭沢太守を領ね、彭沢・柴桑・歴陵を奉邑とした。劉備が京に詣って孫権に通見すると、呂範は劉備を留める事を密かに請うた。後に平南将軍に遷って柴桑に屯した。

 權討關羽、過範館、謂曰:「昔早從卿言、無此勞也。今當上取之、卿為我守建業。」權破羽還。都武昌、拜範建威將軍、封宛陵侯、領丹楊太守、治建業、督扶州以下至海、轉以溧陽・懷安・寧國為奉邑。

 孫権は関羽を討つ際、呂範の館を過ぎ、謂うには 「昔の早くに卿の言葉に従っておれば、この苦労は無かった。今から遡上してこれを取るゆえ、卿は我が為に建業を守ってくれ」 孫権は関羽を破って還った。(黄初二年/221に)武昌を都とし、呂範を建威将軍に拝命して宛陵侯に封じ、領丹楊太守として建業にて治めさせ、扶州(濡須?)より下流の海に至るまでを督させ、転じて溧陽・懐安・寧国を奉邑とした。

 扶州がよく判りませんが、賀斉の 「督扶州以上至皖」 と恐らくセットではないかと思われ、両者の勢力等を考えると、扶州は濡須の辺りではないかと思われます。

 曹休・張遼・臧霸等來伐、範督徐盛・全j・孫韶等、以舟師拒休等於洞口。遷前將軍、假節、改封南昌侯。時遭大風、船人覆溺、死者數千、還軍、拜揚州牧

 曹休・張遼・臧霸らが来伐すると、呂範は前将軍に遷り、節を仮され、揚州牧を拝命した。徐盛全j・孫韶らを督し、舟師にて曹休らを洞口で拒いだ。時に大風に遭い、船は覆り人は溺れ、死者は数千だった。軍を還し、南昌侯に改封された。

 原文は割と謎な一節なので、改編しました。原文通りだと、戦前に進封され、船団を喪うという大敗を喫したのに揚州牧に叙されるという、なかなかアクロバティックな措置です。この洞口の役は 「江上での対峙中に大風で呂範らの船団が覆滅したが、賀斉らの来援と全j・徐盛らの機動戦で渡江を防いだ」 というのが全体の流れで、呂範が褒賞されるような戦況ではありません。最も違和感があるのが改封南昌侯で、丹楊郡で敵を防ぐのに豫章に改封する意味が解りませんし、そもそも開戦に先立って改封というのが異常です。これも満寵伝同様に、バラけた竹簡の復元ミスでしょうか。戦後、南昌侯への改封と並行して領丹楊太守も解かれたと思われます。因みに揚州牧は、曹休伝から誤記した可能性が濃厚です。

 性好威儀、州民如陸遜・全j及貴公子、皆脩敬虔肅、不敢輕脱。其居處服飾、於時奢靡、然勤事奉法、故權ス其忠、不怪其侈。
 初策使範典主財計、權時年少、私從有求、範必關白、不敢專許、當時以此見望。權守陽羨長、有所私用、策或料覆、功曹周谷輒為傅著簿書、使無譴問。權臨時ス之、及後統事、以範忠誠、厚見信任、以谷能欺更簿書、不用也。

 性は威儀を好み、州民の陸遜・全jの如きから貴公子に及ぶまで、皆な敬意を修めて虔粛(謙粛)であり、軽脱しようとはしなかった。その居処や服飾はその当時では奢靡で、しかし事を勤めては法を奉じ、そのため孫権はその忠を悦び、その奢侈を怪(不届き)とはしなかった[3]
 孫策が呂範に主財計を典らせた当初、孫権は時に年少であり、私かに来て(融通を)求めたが、呂範は必ず関白(上言)し、独断で許すことはせず、当時はこれによって怨望された。孫権が陽羨県長を守した時、私用した事があり、孫策が或るとき料覆(監査)する際には、功曹の周谷がそのたび簿書に伝著(改竄)し、譴問されないようにした。孫権はこの時はこれを悦んだが、後に事を統べるに及び、呂範は忠誠だとして厚く信任され、周谷は簿書を欺更した事で用いられなかった。

 黄武七年、範遷大司馬、印綬未下、疾卒。權素服舉哀、遣使者追贈印綬。及還都建業、權過範墓呼曰:「子衡!」言及流涕、祀以太牢。範長子先卒、次子據嗣。

 黄武七年(228)、呂範は大司馬に遷ったが、印綬が未だ下らぬうちに疾にて卒した。孫権は素服して哀哭を挙げ、使者を遣って印綬を追贈した。建業に還都するに及び、孫権は呂範の墓を過ぎて 「子衡よ!」 と呼ばわり、言葉とともに流涕し、太牢にて祀った[4]。呂範の長子は先んじて卒しており、次子の呂拠が嗣いだ。
呂拠

 據字世議、以父任為郎、後範寢疾、拜副軍校尉、佐領軍事。範卒、遷安軍中郎將。數討山賊、諸深惡劇地、所撃皆破。隨太常潘濬討五谿、復有功。朱然攻樊、據與朱異破城外圍、還拜偏將軍、入補馬閑右部督、遷越騎校尉。太元元年、大風、江水溢流、漸淹城門、權使視水、獨見據使人取大船以備害。權嘉之、拜盪魏將軍。權寢疾、以據為太子右部督。太子即位、拜右將軍。魏出東興、據赴討有功。明年、孫峻殺諸葛恪、遷據為驃騎將軍、平西宮事。五鳳二年、假節、與峻等襲壽春、還遇魏將曹珍、破之於高亭。太平元年、帥師侵魏、未及淮、聞孫峻死、以從弟綝自代、據大怒、引軍還、欲廢綝。綝聞之、使中書奉詔、詔文欽・劉纂・唐咨等使取據、又遣從兄〔憲〕以都下兵逆據於江都。左右勸據降魏、據曰:「恥為叛臣。」遂自殺。夷三族。

 呂拠、字は世議。父の任により郎となり、後に呂範が寝疾(病臥)すると副軍校尉を拝命し、軍事を佐領した。呂範が卒し、安軍中郎将に遷った。しばしば山賊を討ち、諸々の深い悪劇の地も撃てば皆な破った。太常潘濬が五谿を討つのに(朱績らと倶に)随い、復た功があった。朱然が樊を攻めた時、呂拠と朱異とで城外の囲を破り、還って偏将軍を拝命し、入って馬閑右部督に補され、越騎校尉に遷った。太元元年(251)、大風があって江水が溢流し、ようよう城門を淹った時、孫権は水を視察させたが、独り呂拠が人に大船を取らせて害に備えているのを見た。孫権はこれを嘉し、盪魏将軍に拝した。
 孫権は寝疾すると、呂拠を太子右部督とした。太子が即位すると右将軍を拝命した。魏が東興に出征すると、呂拠は(諸葛恪に従って)赴討して功があった。明年(253)、孫峻は諸葛恪を殺すと、呂拠を遷して驃騎将軍とし、西宮(武昌)の事を平理させた。五鳳二年(255)、(毌丘倹の乱に応じる際に)節を仮され、孫峻らと寿春を襲い、還る際に魏将の曹珍に遇い、高亭で破った。
 太平元年(256)、師を帥いて魏を侵したが、未だ淮河に及ばずして、孫峻が死んで従弟の孫綝が自ら代ったと聞き、呂拠は大いに怒り、軍を率いて還り、孫綝を廃そうとした。孫綝はこれを聞くと、中書に詔書を奉じさせ、文欽・劉纂・唐咨らに詔して呂拠を取らせ、又た従兄の孫憲を遣って都下の兵で江都に呂拠を逆撃させた。左右の者は呂拠に魏に降る事を勧めたが、呂拠は 「叛臣となるのは恥だ」 と自殺した。三族が夷(ほろぼ)された。

 滕二孫伝では、呂拠と滕胤が共謀して孫綝に反抗しと、ほぼ確定的に記されています。

[1] 孫策がくつろいで呂範とだけ棊を囲んだ折に、呂範は 「今、将軍の事業は日々に拡大し、士衆は日々に盛んです。私は遠くに在って、綱紀が猶お整っていないと聞いております。願わくば暫く都督を領し、将軍と部隊の事を分ちたいものです」 孫策 「子衡よ、卿は既に士大夫であり、加えて手下には已に大衆を有し、外に功を立てている。どうして復た小職に屈し、軍中の細砕の事を知(治)める事をさせられようか!」 呂範 「そうではありません。今、本土を捨てて将軍に託しているのは妻子の為ではありません。世務を遂げようとするのは、同舟にて渉海するようなもので、一事でも堅牢でなければ、即ち倶に敗滅しましょう。これも亦た私の為の計略で、ただ将軍の為だけではありません」 孫策は笑い、答えは無かった。呂範は退出すると褠(袷)を釈いて袴褶を着用し、鞭を執り、閣下に詣って事を言上するには、自ら都督を領すと称した。孫策はかくして伝(割符)を授け、衆事を委ねた。これより軍中は粛睦とし、威禁は大いに行なわれた。 (『江表伝』)
[2] 初平三年(192)、揚州刺史陳禕が死に、袁術は陳瑀に揚州牧を所領させた。後に袁術が封丘で曹操に敗られると、南人が陳瑀に叛き、陳瑀はこれを拒いだ。袁術は陰陵に走り、好辞にて陳瑀にへり下った。陳瑀は権謀を知らず、しかも又た怯懦であり、即座には袁術を攻めなかった。袁術は淮北にて兵を集めて寿春に向かった。陳瑀は懼れ、その弟の陳公琰を使者として袁術に和を請じさせた。袁術はこれを執えて進み、陳瑀は下邳に走帰した。 (『九州春秋』)

 これは袁術伝の注の『英雄記』を修飾したものに過ぎません。

[3] 呂範と賀斉とが奢麗誇綺し、服飾は王者に僭擬していると告発する人があった。孫権 「昔、管仲の礼を越える事を桓公は優遇してこれを容認したが、覇業を損いはしなかった。今、子衡・公苗の身には夷吾の過失は無く、ただその器械の精なるを好み、舟車を厳整しているだけだ。これは軍容を作すのに適足したものでどうして治を損う事になろうか?」 告げた者は再びは言おうとしなかった。 (『江表伝』)
[4] 孫権が建業に移都した当初、将相文武と大いに宴会した時、厳oに謂うには 「孤は昔、魯子敬を歎じてケ禹に比し、呂子衡を呉漢に並べた。聞けば卿ら諸人は未だこの論を納得していないとか。今ではどうか?」 厳oは席を退き 「臣は未だに旨趣を理解しておりません。魯粛・呂範が饒かに受けているのは、褒歎が実質を過ぎていると考えます」
孫権 「昔、ケ仲華が光武帝にまみえた当初は、光武帝が更始帝の使命を受けて河北を撫した時で、行大司馬事というだけで、未だ帝王たるの志は無かった。ケ禹は復漢の業を勧めたが、これはケ禹が初めて議の端緒を開いたものだ。魯子敬は英爽にして殊略があり、孤と始めて一語を与にするや、たちまち大計に及び、これはケ禹と相い似ており、だから比したのだ。呂子衡は忠篤亮直で、性は豪奢を好むとはいえ、公事を憂う事を先とし、それは損失というに足りない。袁術を避けて自ら兄に帰し、兄が大将とし、別に部曲を領していたが、わざわざ兄の事を憂えて都督たらんと乞い、護軍の修整に努め、加えて慎み勤め、呉漢と類似しており、だから並べたのだ。皆な旨趣があっての事で、孤の私心ではないのだ」
厳oはかくして服した。 (『江表伝』)
 

朱桓

 朱桓字休穆、呉郡呉人也。孫權為將軍、桓給事幕府、除餘姚長。往遇疫癘、穀食荒貴、桓分部良吏、隱親醫藥、飱粥相繼、士民感戴之。遷盪寇校尉、授兵二千人、使部伍呉・會二郡、鳩合遺散、期年之閨A得萬餘人。後丹楊・鄱陽山賊蜂起、攻沒城郭、殺略長吏、處處屯聚。桓督領諸將、周旋赴討、應皆平定。稍遷裨將軍、封新城亭侯。

 朱桓、字は休穆。呉郡呉の人である。孫権が将軍になると、朱桓は幕府に給事し、餘姚県長に叙された。往くと疫癘に遇い、穀食が荒貴(騰貴)したが、朱桓は部下の良吏を分遣し、親しく医薬を手配し、飱粥(炊き出し)を相継ぎ、士民は感動してこれを戴いた。盪寇校尉に遷り、兵二千人を授かり、呉・会の二郡で部伍(部隊編成)させ、遺散を鳩合(糾合)し、期年(満一年)の間に万余人を得た。後に丹楊・鄱陽で山賊が蜂起し、城郭を攻没して長吏を殺略し、処々に屯聚した。朱桓は領下の諸将を督し、周く旋り赴いて討ち、皆な応時(即座)に平定した。ようようして裨将軍に遷り、新城亭侯に封じられた。

 後代周泰為濡須督。黄武元年、魏使大司馬曹仁歩騎數萬向濡須、仁欲以兵襲取州上、偽先揚聲、欲東攻羨溪。桓分兵將赴羨溪、既發、卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵、兵未到而仁奄至。時桓手下及所部兵、在者五千人、諸將業業、各有懼心、桓喩之曰:「凡兩軍交對、勝負在將、不在衆寡。諸君聞曹仁用兵行師、孰與桓邪?兵法所以稱客倍而主人半者、謂倶在平原、無城池之守、又謂士衆勇怯齊等故耳。今人既非智勇、加其士卒甚怯、又千里歩渉、人馬罷困、桓與諸軍、共據高城、南臨大江、北背山陵、以逸待勞、為主制客、此百戰百勝之勢也。雖曹丕自來、尚不足憂、況仁等邪!」桓因偃旗鼓、外示虚弱、以誘致仁。仁果遣其子泰攻濡須城、分遣將軍常雕督諸葛虔・王雙等、乘油船別襲中洲。中洲者、部曲妻子所在也。仁自將萬人留橐皋、復為泰等後拒。桓部兵將攻取油船、或別撃雕等、桓等身自拒泰、燒營而退、遂梟雕、生虜雙、送武昌、臨陳斬溺、死者千餘。權嘉桓功、封嘉興侯、遷奮武將軍、領彭城相。

 後に周泰に代って濡須督となった。黄武元年(222)、魏が大司馬曹仁に歩騎数万で濡須に向かわせた。曹仁は兵にて中洲を襲取しようとし、偽って先んじて揚声(喧伝)するには、東のかた羨溪を攻めよう、と。朱桓は兵を分けて羨溪に赴かせようとし、発した後、たちまち曹仁が軍を進めて濡須を距てること七十里であるとの問(音信)があった。朱桓は遣使して羨溪の兵を追って還したが、兵が未だ到らぬうちに曹仁が奄(たちま)ち至った。時に朱桓の手下および部隊の兵で、そこに在る者は五千人で、諸将は兢々とし、各々に懼心があった。朱桓が喩すには

「凡そ両軍が交々対峙した時、勝負は将に在り、衆寡に在るのではない。諸君が聞いている曹仁の用兵や行師は、私とは孰れが優っていようか? 兵法が称している“客は倍にして、主人は半ば”というのは、倶に平原に在り、城池の守りが無い場合を謂うのだ。又た士衆の勇怯が斉等である場合を謂うのだ。今、人は既に智勇ではなく、加えてその士卒は甚だ怯懦で、又た千里を歩渉して人馬とも罷労困憊している。私と諸軍とは共に高城に拠り、南は大江に臨み、北は山陵を背にし、逸を以て労を待ち、主となって客を制している。これぞ百戦百勝の形勢である。曹丕が自ら来ようとも、尚お憂うには足りない。ましてや曹仁らなどでは!」

朱桓は旗鼓を偃(ふ)せ、外には虚弱を示して曹仁を誘致した。曹仁は果たしてその子の曹泰を遣って濡須城を攻めさせ、将軍の常雕を分遣して諸葛虔・王双らを督させ、油船に乗せて別に中洲を襲わせた。中洲には部曲の妻子が在った。曹仁自ら万人を率いて橐皋(拓皋/合肥市巣湖北郊)に留まり、復た曹泰らの後方を拒いだ。朱桓は部兵に油船を攻取させ、或る者には別に常雕らを撃たせ、朱桓らは自身で曹泰を拒ぎ、営を焼いてから退き、かくて常雕を梟首し、王双を生虜して武昌に送り、戦陣に臨んで斬溺した死者は千余だった。孫権は朱桓の功を嘉し、嘉興侯に封じ、奮武将軍に遷し、彭城相を兼領させた。

 黄武七年、鄱陽太守周魴譎誘魏大司馬曹休、休將歩騎十萬至皖城以迎魴。時陸遜為元帥、全j與桓為左右督、各督三萬人撃休。休知見欺、當引軍還、自負衆盛、邀於一戰。桓進計曰:「休本以親戚見任、非智勇名將也。今戰必敗、敗必走、走當由夾石・挂車、此兩道皆險阨、若以萬兵柴路、則彼衆可盡、而休可生虜、臣請將所部以斷之。若蒙天威、得以休自效、便可乘勝長驅、進取壽春、割有淮南、以規許・洛、此萬世一時、不可失也。」權先與陸遜議、遜以為不可、故計不施行。

 黄武七年(228)、鄱陽太守周魴が魏の大司馬曹休を譎誘し、曹休は歩騎十万を率いて皖城に至り、周魴を迎えようとした。このとき陸遜が元帥となり、全jと朱桓とが左右督を為し、各々三万人を督して曹休を撃った。曹休は欺かれたと知り、軍を率いて還ろうとしたが、自ら軍兵が盛んな事を恃負し、一戦で邀撃しようとした。朱桓が計略を進言するには

「曹休は本々は親戚として任されたもので、智勇の名将ではありません。今戦えば必ず敗れ、敗れれば必ず退走し、退走には夾石・挂車を経由するでしょう。この両道は皆な険阻を阨し、もし万兵で路を柴(ふさ)げば、かの軍兵を尽くす事ができ、曹休を生虜できましょう。どうか臣に部曲兵を率いてこれを断たせていただきたい。もし天威を蒙り、曹休を以て自ら効とする事ができたなら、ただちに勝ちに乗じて長躯し、進んで寿春を取り、淮南を割有し、こうして許・洛を規(はか)るのです。これぞ万世一時(の好機)であり、失ってはなりません」

孫権は先に陸遜と議しており、陸遜がならぬとしたので計は施行されなかった。

 黄龍元年、拜桓前將軍、領青州牧、假節。嘉禾六年、魏廬江主簿呂習請大兵自迎、欲開門為應。桓與衞將軍全j倶以師迎。既至、事露、軍當引還。城外有溪水、去城一里所、廣三十餘丈、深者八九尺、淺者半之、諸軍勒兵渡去、桓自斷後。時廬江太守李膺整嚴兵騎、欲須諸軍半渡、因迫撃之。及見桓節蓋在後、卒不敢出、其見憚如此。
 是時全j為督、權又令偏將軍胡綜宣傳詔命、參與軍事。j以軍出無獲、議欲部分諸將、有所掩襲。桓素氣高、恥見部伍、乃往見j、問行意、感激發怒、與j校計。j欲自解、因曰:「上自令胡綜為督、綜意以為宜爾。」桓愈恚恨、還乃使人呼綜。綜至軍門、桓出迎之、顧謂左右曰:「我縱手、汝等各自去。」有一人旁出、語綜使還。桓出、不見綜、知左右所為、因斫殺之。桓佐軍進諫、刺殺佐軍、遂託狂發、詣建業治病。權惜其功能、故不罪。使子異攝領部曲、令醫視護、數月復遣還中洲。權自出祖送、謂曰:「今寇虜尚存、王塗未一、孤當與君共定天下、欲令君督五萬人專當一面、以圖進取、想君疾未復發也。」桓曰: 「天授陛下聖姿、當君臨四海、猥重任臣、以除姦逆、臣疾當自愈。」

 黄龍元年(229)、朱桓は前将軍を拝命し、青州牧を領ね、節を仮された。
 嘉禾六年(237)、魏の廬江主簿呂習が請うには、大兵にて自身を迎えれば開門して応じようと。朱桓は衛将軍全jと倶に師にて迎えた。至った後に(詐降である)事が露われ、軍は引き還す事になった。城外には溪水があり、城を去ること一里の所で、広さは三十余丈、深さは八・九尺、浅瀬ではその半ばだった。諸軍は兵を勒(ひき)いて渡去し、朱桓は自ら後追を断った。時に廬江太守李膺は兵騎を厳しく整え、諸軍が半ば渡ったら迫って撃とうとしていた。朱桓の節・蓋が後部に在るのを見ると、ついに出撃しようとはしなかった。その憚られている様はこの通りだった。
 この時は全jが督であり、孫権は又た偏将軍胡綜に命じて詔命を宣べ伝えさせ、軍事に参与させた。全jは軍を出しながら獲るものが無かった事から、議して諸将を分けて掩襲(急襲)させようとした。朱桓は素より気位が高く、部伍として扱われる事を恥じ、かくして往って全jに見(まみ)え、その意向を問うたが、感情が激発して怒り、全jに計策を校(ただ)した。全jは納得させようとして 「上は自ら胡綜を督とするよう命じられた。胡綜の意であるので納得するのだ」 朱桓は愈々恚恨し、還ると人に胡綜を呼ばせた。胡綜が軍門に至ると朱桓は出迎えようとし、顧みて左右に謂うには 「俺の縦手(勝手にする事)だから、汝らは各々去っておれ」。旁から一人が出て、胡綜に語って還らせた。朱桓が出ると胡綜は見えず、左右の者のせいだと知り、このためこれを斫殺(斬殺)した。朱桓の佐軍が進んで諫めると佐軍を刺殺した。かくて狂発に託し、建業に詣って治病した。孫権はその功と能を惜しみ、そのため罪とはしなかった[1]

 日頃の行いが〜、の典型でしょう。胡綜と面談しようとした朱桓の真意は不明です。あの朱桓が怒りながら 「縦手」 と云えば殺す気だと理解されても已む無しですが、朱桓もそこまでバカじゃない筈です。詰問するか、矯詔だと云って監禁するか、せいぜいぶん殴るくらいではないですか? なのに周りが気を遣いすぎるもんだから、変にキレて刀を振り回してしまったようにも見えます。時に朱桓は六十歳。因みに全j伝ではこの時の軍事自体が無かった事になっています。

 子の朱異に部曲を摂領させ、医者に命じて視護(看護)させ、数月して復た遣って中洲に還らせた。孫権は自ら祖送(送別会)に出て謂うには 「今、寇虜は尚おも存在し、王途は未だ合一されていない。孤は君と共に天下を定めるべく、君に五万人を督して専ら一方面を担当させ、進取を図らせたい。(そうすれば)君の疾も再びは発すまい」 朱桓 「天は陛下に聖姿を授け、君は四海に臨まれようとしております。猥りに臣を重任されて姦逆を除こうとしておられる。臣の疾も自ずと癒えましょう」[2]

 桓性護前、恥為人下、毎臨敵交戰、節度不得自由、輒嗔恚憤激。然輕財貴義、兼以彊識、與人一面、數十年不忘、部曲萬口、妻子盡識之。愛養吏士、贍護六親、俸祿産業、皆與共分。及桓疾困、舉營憂戚。年六十二、赤烏元年卒。吏士男女、無不號慕。又家無餘財、權賜鹽五千斛以周喪事。子異嗣。

 朱桓の性は護前(前過を護って改めず)で、人の下になる事を恥じ、敵に臨んで交戦する毎に、節度の自由を得られぬと、そのたび嗔恚憤激した。しかし財を軽んじて義を貴び、しかも彊識(記憶力が強い)で、一面識した人を数十年しても忘れず、部曲は万口であったが、妻子を尽く識っていた。吏士を愛養し、六親を贍護(充分な援助)し、俸禄や産業は皆な共に分与した。朱桓が疾に困(くる)しむに及び、営を挙げて憂戚した。齢六十二で赤烏元年(238)に卒した。吏士や男女で号泣して慕わぬ者は無かった。又た家には余財は無く、孫権は塩五千斛を賜って喪事を周(お)えさせた。子の朱異が嗣いだ。

 朱桓の属した呉県朱氏は、後に“呉邑四姓”に数えられるほどの名家となりますが、朱桓の履歴自体は周泰などの叩き上げと大差なく、名家の風は微塵もありません。同族の朱拠も五十歩百歩の印象ですが、こちらには士大夫の風があり、何より孫呉の外戚として赫々たる家なので、そちらが本家なのでしょう。
 ところで筑摩『三国志』ほかでは朱桓の享年は赤烏二年という事になっています。どなたか元情報を下さいませんでしょうか。

朱異

 異字季文、以父任除郎、後拜騎都尉、代桓領兵。赤烏四年、隨朱然攻魏樊城、建計破其外圍、還拜偏將軍。魏廬江太守文欽營住六安、多設屯砦、置諸道要、以招誘亡叛、為邊寇害。異乃身率其手下二千人、掩破欽七屯、斬首數百、遷揚武將軍。權與論攻戰、辭對稱意。權謂異從父驃騎將軍據曰:「本知季文(&#x;) 〔膽〕定、見之復過所聞。」十三年、文欽詐降、密書與異、欲令自迎。異表呈欽書、因陳其偽、不可便迎。權詔曰:「方今北土未一、欽云欲歸命、宜且迎之。若嫌其有譎者、但當設計網以羅之、盛重兵以防之耳。」乃遣呂據督二萬人、與異并力、至北界、欽果不降。建興元年、遷鎮南將軍。是歳魏遣胡遵・諸葛誕等出東興、異督水軍攻浮梁、壞之、魏軍大破。太平二年、假節、為大都督、救壽春圍、不解。還軍、為孫綝所枉害。

 朱異、字は季文。父の任によって郎に叙され[3]、後に騎都尉を拝命し、朱桓に代って兵を領した。赤烏四年(241)、朱然に随って魏の樊城を攻め、計を建てて(呂拠と倶に)その外囲を破り、還って偏将軍を拝命した。魏の廬江太守文欽が六安に営を駐め、多く屯砦を設けて諸道の要衝に置き、こうして亡命や背叛者を招誘し、辺境の寇害を為した。朱異はかくして身ずからその手下二千人を率い、掩(やにわ)に文欽の七屯を破り、数百を斬首し、揚武将軍に遷った。
 孫権と攻戦の事を論じ、辞対が意に称(かな)った。孫権が朱異の従父の驃騎将軍朱拠に謂うには 「もとより季文の胆が定まっているのは知っていたが、見れば復た聞きしに優るものだった」
十三年(250)、文欽が詐降し、密書を朱異に与え、自分を迎えるよう求めてきた。朱異は文欽の書簡を表呈してその偽りを陳べ、ただちには迎えるべきでないとした。孫権は詔して 「まさに今、北土は未だ合一されず、文欽が帰命したいと云うのなら、迎えるべきであろう。もし譎計を嫌疑するなら、ただ計を設けて網で羅(おお)い、重兵を盛んにして防げばいいだけではないか」 かくして呂拠を遣って二万人を督させ、朱異と併力して北界に至らせた。文欽は果たして降らなかった。
 建興元年(252)、鎮南将軍に遷った。この歳、魏が胡遵・諸葛誕らを遣って東興に出征し、朱異は水軍を督して浮梁(浮橋)を攻め、これを壊し、魏軍を大破した[4]。太平二年(257)、節を仮され、大都督となって寿春の囲みを救ったが、解けなかった。(孫綝の意に背いて)軍を還し、孫綝に枉害された[5]
[1] 孫盛曰く:『書経』は云う。「臣は威福を作らず。威福を作れば、凶を家に及ぼし、害を国に及ぼす」 と。朱桓の賊忍(惨忍)さは殆ど虎狼と同じである。人君でも猶お為してはならないのに、ましてや将相ではどうか? 俚諺は 「一夫(の心)を得て一国を失う」 と。罪をほしいままにする事と刑を欠く事と、失うのは孰れが大であろう!
[2] 朱桓は觴を奉じつつ 「臣は遠く去ろうとしており、願わくば陛下の鬚を一捋(一撫で)させて頂ければ悔恨する事はありません」 孫権は几に馮いて席を前めた。朱桓は御前に進んで鬚を捋でつつ 「臣は今日、まことに虎鬚を捋でたと謂ってよろしいでしょう」 孫権は大いに笑った。 (『呉録』)

 読んでいる方も大いに嗤わせて頂きました。ジジイがジジイの髭を撫でて おべんちゃら を云っている、実に微笑ましくもない、想像したくもない場面です。書く方も載せる方も何考えてんだ。

[3] 張惇の子の張純と張儼および朱異は倶に童少だった頃、往って驃騎将軍朱拠にまみえた。朱拠は三人の才名を聞いており、これを試そうとし、「老鄙は相聞して飢渇すること甚だしかった。騕䮍(名馬の名)は迅驟(駿足)を功とし、鷹隼は軽疾を妙とする。私の為に各々一物を賦し、それから坐ってくれ」 と告げた。張儼は犬を賦して 「守れば威があり、出れば獲物があり、韓盧・宋鵲は名を竹帛に書かれている」と。張純は敷物を賦して 「席(蒲製)は冬に設け、簟(竹製)は夏に施す。揖譲して坐すのは君子にこそ適っている」と。朱異は弩を賦し 「南嶽の幹、鍾山の銅、機に応じて命中し、高墉の隼を獲物とする」と。三人各々がその目に見たものに随って賦し、皆な成った後に坐した。朱拠は大いに歓悦した。 (『文士伝』)
[4] 朱異は又た諸葛恪が合肥新城を攻囲するのに随った。城が抜けなかった後、朱異らは皆な速やかに豫章に還るのが妥当で、石頭城を襲えば数日を過ぎずに抜けると言った。諸葛恪は書簡によって異を明らかにした。朱異は書簡を地に投げて 「我が計を用いずに傒子[※]の言葉を用いようとは!」 諸葛格は大いに怒り、立ちどころにその兵を奪い、かくて廃されて建業に還った。 (『呉書』)

※ 筑摩本では“罪人の子”。諸葛恪を“谿蛮”だと罵ったとの解釈もあるが、その根拠は不明。

[5] 孫綝が朱異に会見を要請したので往こうとした処、陸抗が恐れてこれを制止した。朱異 「子通は家人に過ぎない。何を疑う事があろう!」 かくて往った。孫綝は坐中で力士に取り押さえさせた。朱異 「私は呉国の忠臣だ。何の罪がある?」 かくして拉ぎ殺した。 (『呉書』)
 

 評曰:朱治・呂範以舊臣任用、朱然・朱桓以勇烈著聞、呂據・朱異・施績咸有將領之才、克紹堂構。若範・桓之越隘、得以吉終、至於據・異無此之尤而反罹殃者、所遇之時殊也。

 評に曰く:朱治・呂範は旧臣として任用され、朱然・朱桓は勇烈で著聞し、呂拠・朱異・施績は咸な将領の才があり、よく堂構(家勲)を継紹した。呂範・朱桓は越隘でありながら吉終できたが、呂拠・朱異に至ってはこのような尤(とが)がなかったのに却って殃(わざわい)に罹った。遭遇した時が異なったからであろう。

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