朱治字君理、丹楊故鄣人也。初為縣吏、後察孝廉、州辟從事、隨孫堅征伐。中平五年、拜司馬、從討長沙・零・桂等三郡賊周朝・蘇馬等、有功、堅表治行都尉。從破董卓於陽人、入洛陽。表治行督軍校尉、特將歩騎、東助徐州牧陶謙討黄巾。
孝廉から州従事との経歴から、郡ではそれなりに名の通った家門だった事が判ります。中平五年以前の孫堅の軍事というと、会稽の許昭討伐と黄巾討伐と張温の西征があります。許昭討伐の際に 「與州郡合討破之」 とあるので、朱治が随ったのはこの時かと思われますが、当時の朱治は17〜18歳なので、かなりのエリートでないと苦しいかもです。ちなみに孫堅の黄巾討伐は下邳丞としてスタートし、西征は朱儁の別部司馬からの抜擢なので、丹楊人が随うべき接点はありません。西征中に陶謙の配下から鞍替えした、という可能性は無きにしも非ずですが…。
中平五年(188)、司馬を拝命し、長沙・零陵・桂陽ら三郡の賊の周朝・蘇馬らを討つのに従って功があり、孫堅が朱治を上表して都尉を行(か)ねさせた。董卓を陽人で破るのに従い、洛陽に入った。上表によって朱治は督軍校尉を行ね、特に歩騎を率いて東の徐州牧陶謙が黄巾を討つのを助けた。袁術に従っている者の部将が陶謙を助けたという事は、陶謙が袁術と繋がっていたという一例証になります。特に朱治と陶謙には同郡のよしみもありますし。ただ、この陶謙の徐州牧が本当なら、陶謙が袁術から離れた後であり、朱治の“督軍校尉”からは陶謙に対する監察を感じさせます。
會堅薨、治扶翼策、依就袁術。後知術政コ不立、乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春、辟治為掾、遷呉郡都尉。是時呉景已在丹楊、而策為術攻廬江、於是劉繇恐為袁・孫所并、遂搆嫌隙。而策家門盡在州下、治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟、所以供奉輔護、甚有恩紀。治從錢唐欲進到呉、呉郡太守許貢拒之於由拳、治與戰、大破之。貢南就山賊嚴白虎、治遂入郡、領太守事。策既走劉繇、東定會稽。
もともと劉繇の揚州刺史就任は寿春を奪った袁術を挫く目的があったので、赴任当初から袁術・孫策に対する敵意はMAXです。着任してから情勢が変化したわけではありません。劉繇は赴任早々に曲阿から呉景らを逐っているので、孫策の家族が曲阿を出たのはその直前でしょう。又た呉郡には許貢が太守を称して蟠居しているので、朱治は表立っては長江を渡る事ができません。
(劉繇を逐った後、)朱治は銭唐より(北に)進んで呉に到ろうとし、呉郡太守許貢は由拳(嘉興市区)でこれを拒いだ。朱治は戦ってこれを大破した。許貢は南の山賊の厳白虎に就き、朱治はかくて呉郡に入り、太守の事を兼領した。孫策は劉繇を走らせた後、東のかた会稽を定めた。劉繇を逐った後、朱治は孫策とはほぼ別行動を採っています。まさに“別軍”で、曹操における夏侯惇、劉備における関羽より独立性が高いです。しかも孫策にとっては父親以来の重鎮というだけでなく、最も心細い時に世話を焼いてくれ、しかも孫策自身の方向性を示したという貴重枠。
權年十五、治舉為孝廉。後策薨、治與張昭等共尊奉權。建安七年、權表治為〔呉郡〕太守、行扶義將軍、割婁・由拳・無錫・毗陵為奉邑、置長吏。征討夷越、佐定東南、禽截黄巾餘類陳敗・萬秉等。黄武元年、封毗陵侯、領郡如故。二年、拜安國將軍、金印紫綬、徙封故鄣。
あの孫権が朱治を重んじたメインの理由が並んでいます。孫権にとって朱治は、孫策に戦略を示した父兄以来の重臣というだけでなく、孝廉に挙げてくれた故将であり、孫策の死後に自分を積極的に支持してくれた人物でした。故将の重さは、袁譚が敗残の劉備を、故将であるが為に父子揃って丁重に丁重にお迎えせざるを得なかった事でも明らかです。しかも地元密着型の人で、呉郡・丹楊郡という江東の心臓部に対する影響力も絶大です。文人としての名声が基盤の張昭と違い、揶揄も無碍にもできません。
ではあの孫権がそんなに殊勝でいられたのかというと、発散できない分だけ溜っていたようです。仲裁名人の諸葛瑾が処方箋を用意していました。孫権が朱治にムカついた原因は不明ですが、張昭と似たり寄ったりかと思われます。ひょっとしたら 「破虜・討逆殿であれば〜」 くらいは云ったのかもしれません。
權歴位上將、及為呉王、治毎進見、權常親迎、執版交拜、饗宴贈賜、恩敬特隆、至從行吏、皆得奉贄私覿、其見異如此。
初、權弟翊、性峭急、喜怒快意、治數責數、諭以道義。權從兄豫章太守賁、女為曹公子婦、及曹公破荊州、威震南土、賁畏懼、欲遣子入質。治聞之、求往見賁、為陳安危、賁由此遂止。
權常歎治憂勤王事。性儉約、雖在富貴、車服惟供事。權優異之、自令督軍御史典屬城文書、治領四縣租税而已。然公族子弟及呉四姓多出仕郡、郡吏常以千數、治率數年一遣詣王府、所遣數百人、毎歳時獻御、權答報過厚。是時丹楊深地、頻有姦叛、亦以年向老、思戀土風、自表屯故鄣、鎮撫山越。諸父老故人、莫不詣門、治皆引進、與共飲宴、郷黨以為榮。在故鄣歳餘、還呉。黄武三年卒、在郡三十一年、年六十九。
正直申しまして、この措置を優遇扱いしていいのかどうか悩みます。文書行政の煩雑さから解放したと読み取れる一方で、采邑の財務以外の実権を奪ったとも読めるからです。ここは素直に、四県の租税以外は文書から解放されて朱治は命じるだけになった、と解釈しておきます。
公族の子弟および呉四姓の多くが郡庁に出仕し、郡吏は常に千を単位とし、朱治が数年に一たび遣って王府に詣らせる場合、遣るのは数百人であった。毎歳の時候の献御物に対し、孫権の答報は過分に厚かった。子才、素為校尉領兵、既嗣父爵、遷偏將軍。才弟紀、權以策女妻之、亦以校尉領兵。紀弟緯・萬歳、皆早夭。才子琬、襲爵為將、至鎮西將軍。
朱然字義封、治姊子也、本姓施氏。初治未有子、然年十三、乃啓策乞以為嗣。策命丹楊郡以羊酒召然、然到呉、策優以禮賀。
然嘗與權同學書、結恩愛。至權統事、以然為餘姚長、時年十九。後遷山陰令、加折衝校尉、督五縣。權奇其能、分丹楊為臨川郡、然為太守、授兵二千人。會山賊盛起、然平討、旬月而定。曹公出濡須、然備大塢及三關屯、拜偏將軍。建安二十四年、從討關羽、別與潘璋到臨沮禽羽、遷昭武將軍、封西安郷侯。
ここから、朱然の凡その年齢が推察できます。最速でも200年に十九歳なので、朱治の養子になったのは194年以降となりますが、孫策がそれを仲介できる立場になるのは会稽太守を称した後でしょうから、195年以降となります。因みに陸遜が出仕したのは203年に21歳の時で、朱然と陸遜との年齢差は僅か一歳にすぎず、孫氏コミュニティでの立場は朱然が上、江東社会での立場は陸遜が上という、非常に微妙な優劣関係です。程普と周瑜の関係に比べ、年齢差の壁が無いだけもっとピリピリしていたかもです。劉備東征の時点での実績は家門の面でも個人の面でも朱然が上ですが、陸遜はなんと云っても外戚でございます。
後に山陰令に遷り、折衝校尉を加えられ、五県を督した。孫権はその能を奇とし、丹楊郡を分けて臨川郡とし、朱然を太守とし[1]、兵二千人を授けた。折しも山賊の起る事が盛んで、朱然が平討したところ旬月(ひと月)にして定まった。曹操が濡須に出征すると、朱然は大塢(濡須塢)および三関屯(東興関)で備え、偏将軍を拝命した。建安二十四年(219)、関羽を討つのに従い、別に潘璋と臨沮に到って関羽を禽え、昭武将軍に遷り、西安郷侯に封じられた。虎威將軍呂蒙病篤、權問曰:「卿如不起、誰可代者?」蒙對曰:「朱然膽守有餘、愚以為可任。」蒙卒、權假然節、鎮江陵。黄武元年、劉備舉兵攻宜都、然督五千人與陸遜并力拒備。然別攻破備前鋒、斷其後道、備遂破走。拜征北將軍、封永安侯。
魏遣曹真・夏侯尚・張郃等攻江陵、魏文帝自住宛、為其勢援、連屯圍城。權遣將軍孫盛督萬人備州上、立圍塢、為然外救。郃渡兵攻盛、盛不能拒、即時卻退、郃據州上圍守、然中外斷絶。權遣潘璋・楊粲等解〔圍〕而圍不解。時然城中兵多腫病、堪戰者裁五千人。真等起土山、鑿地道、立樓櫓、臨城弓矢雨注、將士皆失色、然晏如而無恐意、方似剋m、伺闌ыU破兩屯。魏攻圍然凡六月日、未退。江陵令姚泰領兵備城北門、見外兵盛、城中人少、穀食欲盡、因與敵交通、謀為内應。垂發、事覺、然治戮泰。尚等不能克、乃徹攻退還。由是然名震於敵國、改封當陽侯。
六年五年、權自率衆攻石陽、及至旋師、潘璋斷後。夜出錯亂、敵追撃璋、璋不能禁。然即還住拒敵、使前船得引極遠、徐乃後發。黄龍元年、拜車騎將軍・右護軍、領兗州牧。頃之、以兗州在蜀分、解牧職。
嘉禾三年、權與蜀克期大舉、權自向新城、然與全j各受斧鉞、為左右督。會吏士疾病、故未攻而退。
赤烏五年四年、征柤中、魏將蒲忠・胡質各將數千人、忠要遮險隘、圖斷然後、質為忠繼援。時然所督兵將先四出、聞問不暇收合、便將帳下見兵八百人逆掩。忠戰不利、質等皆退。九年、復征柤中、魏將李興等聞然深入、率歩騎六千斷然後道、然夜出逆之、軍以勝反。先是、歸義馬茂懷姦、覺誅、權深忿之。然臨行上疏曰:「馬茂小子、敢負恩養。臣今奉天威、事蒙克捷、欲令所獲、震耀遠近、方舟塞江、使足可觀、以解上下之忿。惟陛下識臣先言、責臣後效。」權時抑表不出。然既獻捷、羣臣上賀、權乃舉酒作樂、而出然表曰:「此家前初有表、孤以為難必、今果如其言、可謂明於見事也。」遣使拜然為左大司馬・右軍師。
然長不盈七尺、氣候分明、内行脩求A其所文采、惟施軍器、餘皆質素。終日欽欽、常在戰場、臨急膽定、尤過絶人、雖世無事、毎朝夕嚴鼓、兵在營者、咸行裝就隊、以此玩敵、使不知所備、故出輒有功。諸葛瑾子融・歩隲子協、雖各襲任、權特復使然總為大督。又陸遜亦〔卒〕、功臣名將存者惟然、莫與比隆。寢疾二年、後漸搏ト、權晝為減膳、夜為不寐、中使醫藥口食之物、相望於道。然毎遣使表疾病消息、權輒召見、口自問訊、入賜酒食、出送布帛。自創業功臣疾病、權意之所鍾、呂蒙・淩統最重、然其次矣。年六十八、赤烏十二年卒、權素服舉哀、為之感慟。子績嗣。
これは呉将の特徴なんでしょうか。呂範・賀斉・呂蒙など、呉志では軍器への修飾に言及する事が散見されます。諸葛瑾伝では 「融父兄質素、雖在軍旅、身無彩飾」 と、軍を飾らない方が珍しいという書き方をされています。
終日欽欽とし、常に戦場にあっては急場に臨んで胆が定まるのは最も人に過絶(卓絶)し、世に事が無くとも毎朝夕に鼓を厳しくし、営に在る兵は咸な軍装して隊列に就き、こうして敵を玩んで備えるべきを分らせず、そのため出撃するたびに功があった。諸葛瑾の子の諸葛融と歩隲の子の歩協は、各々父の任を襲いだとはいえ、孫権は特に復た朱然に総べさせて大督とした。又た陸遜も亦た卒した為、功臣の名将で生存するのはただ朱然だけとなり、隆んなこと比肩する者は莫かった。績字公緒、以父任為郎、後拜建忠都尉。叔父才卒、績領其兵、隨太常潘濬討五溪、以膽力稱。遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。魯王霸注意交績、嘗至其廨、就之坐、欲與結好、績下地住立、辭而不當。然卒、績襲業、拜平魏將軍、樂郷督。明年、魏征南將軍王昶率衆攻江陵城、不克而退。績與奮威將軍諸葛融書曰:「昶遠來疲困、馬無所食、力屈而走、此天助也。今追之力少、可引兵相繼、吾欲破之於前、足下乘之於後、豈一人之功哉、宜同斷金之義。」融答許績。績便引兵及昶於紀南、紀南去城三十里、績先戰勝而融不進、績後失利。權深嘉績、盛責怒融、融兄大將軍恪貴重、故融得不廢。初績與恪・融不平、及此事變、為隙益甚。建興元年、遷鎮東將軍。二年春、恪向新城、要績并力、而留置半州、使融兼其任。冬、恪・融被害、績復還樂郷、假節。太平二年、拜驃騎將軍。孫綝秉政、大臣疑貳、績恐呉必擾亂、而中國乘釁、乃密書結蜀、使為并兼之慮。蜀遣右將軍閻宇將兵五千、摧鋳骼轣A以須績之後命。永安初、遷上大將軍・都護、督自巴丘上迄西陵。元興元年、就拜左大司馬。初、然為治行喪竟、乞復本姓、權不許、績以五鳳中表還為施氏、建衡二年卒。
この両者の不和の原因らしきものは不明ですが、普通に考えれば、荊州牧の嗣子たる身で南郡太守の節度を受ける事に不満で、その子に対して意趣返しをし、個人の反目が家同士の対立になった、となります。ですが私は素直じゃないので、わざわざ魯王との件に触れている点を強調し、太子派の朱家と魯王派の諸葛兄弟の対立と捉えたいと思います。例えば東興の役の時、魯王派に分類される呂拠はいたく諸葛恪に信頼されていますし。ええ、牽強付会ですとも。
建興元年(252)、鎮東将軍に遷った。二年春、諸葛恪は合肥新城に向かうと、朱績に力を併せる事を要請したが、(朱績が到ると)半州に留め置き、諸葛融にその任を兼ねさせた。冬、諸葛恪・諸葛融が害されると、朱績は復た楽郷に還り、節を仮された。太平二年(257)、驃騎将軍を拝命した。孫綝は秉政すると大臣の弐心を疑った。朱績は呉が必ず擾乱し、中国が釁(すき)に乗じるであろうと恐れ、かくして密書にて蜀と結び、併兼の慮[※]を為させた。蜀は右将軍閻宇を遣って兵五千を率いさせ、白帝の守備を増し、朱績の以後の命令を須(ま)たせた。永安の初め、上大将軍・都護に遷り、巴丘より上流の西陵までを督した。元興元年(264)、左大司馬を拝命して就いた。※ 魏による兼併に対する配慮。筑摩本では 「牽制を依頼した」 としています。イザとなったら蜀に荊州を兼併することを依頼した、とも読めてしまいますが、その場合は朱績が中央にどれだけ失望していたかが鍵になります。憶測する材料は極めて限られていますが、蜀が 「以須績之後命」 というのが非常に意味深です。因みにやや後の事ですが、元帝紀では 「懐疑自猜、深見忌悪」 と、朱績と孫皓の抜き差しならない関係が魏から指摘されています。
嘗て朱然は朱治の喪を竟(お)えると、本姓に復する事を乞うたが、孫権は許さなかった。朱績は五鳳中(254〜56)の上表によって施氏に還り、建衡二年(270)に卒した。 孫盛さんにはドヤっている処を申し訳ないんですがー、正始二年/赤烏四年に朱然の柤中攻略がある事を指摘しておきながら、敢えて景初元年/嘉禾六年の記事を持ってきたのは何故? 確かに朱然と胡質の交戦記事はありますが、場所が江夏である以上、赤烏の柤中攻略を一年間違えたと考える方が自然ではないでしょうか? 戦況的にも赤烏四年の方が合っているっぽいですし。
ちなみに、この正始二年/赤烏四年の軍事は、所謂る全jの芍陂の役がメインで、朱然は司馬懿の出征に直面すると、病身の諸葛瑾が指揮する柤中の友軍を収容しつつ撤退戦を展開したものと思われます。
呂範字子衡、汝南細陽人也。少為縣吏、有容觀姿貌。邑人劉氏、家富女美、範求之。女母嫌、欲勿與、劉氏曰:「觀呂子衡寧當久貧者邪?」遂與之婚。後避亂壽春、孫策見而異之、範遂自委昵、將私客百人歸策。時太妃在江都、策遣範迎之。徐州牧陶謙謂範為袁氏覘候、諷縣掠考範、範親客健兒簒取以歸。時唯範與孫河常從策、跋渉辛苦、危難不避、策亦親戚待之、毎與升堂、飲宴於太妃前。
後從策攻破廬江、還倶東渡、到江・當利、破張英・于麋、下小丹楊・湖孰、領湖孰相。策定秣陵・曲阿、收笮融・劉繇餘衆、摧ヘ兵二千、騎五十匹。後領宛陵令、討破丹楊賊、還呉、遷都督。
ここでの“督”は駐留軍を指揮する督ではなく、孫策直属の部隊長を指します。
是時下邳陳瑀自號呉郡太守、住海西、與彊族嚴白虎交通。策自將討虎、別遣範與徐逸攻瑀於海西、梟其大將陳牧。又從攻祖郎於陵陽、太史慈於勇里。七縣平定、拜征虜中郎將、征江夏、還平鄱陽。
策薨、奔喪于呉。後權復征江夏、範與張昭留守。
曹公至赤壁、與周瑜等倶拒破之、拜裨將軍、領彭澤太守、以彭澤・柴桑・歴陽歴陵為奉邑。劉備詣京見權、範密請留備。後遷平南將軍、屯柴桑。
權討關羽、過範館、謂曰:「昔早從卿言、無此勞也。今當上取之、卿為我守建業。」權破羽還。都武昌、拜範建威將軍、封宛陵侯、領丹楊太守、治建業、督扶州以下至海、轉以溧陽・懷安・寧國為奉邑。
扶州がよく判りませんが、賀斉の 「督扶州以上至皖」 と恐らくセットではないかと思われ、両者の勢力等を考えると、扶州は濡須の辺りではないかと思われます。 ➤
曹休・張遼・臧霸等來伐、範督徐盛・全j・孫韶等、以舟師拒休等於洞口。遷前將軍、假節、改封南昌侯。時遭大風、船人覆溺、死者數千、還軍、拜揚州牧。
原文は割と謎な一節なので、改編しました。原文通りだと、戦前に進封され、船団を喪うという大敗を喫したのに揚州牧に叙されるという、なかなかアクロバティックな措置です。この洞口の役は 「江上での対峙中に大風で呂範らの船団が覆滅したが、賀斉らの来援と全j・徐盛らの機動戦で渡江を防いだ」 というのが全体の流れで、呂範が褒賞されるような戦況ではありません。最も違和感があるのが改封南昌侯で、丹楊郡で敵を防ぐのに豫章に改封する意味が解りませんし、そもそも開戦に先立って改封というのが異常です。これも満寵伝同様に、バラけた竹簡の復元ミスでしょうか。戦後、南昌侯への改封と並行して領丹楊太守も解かれたと思われます。因みに揚州牧は、曹休伝から誤記した可能性が濃厚です。
性好威儀、州民如陸遜・全j及貴公子、皆脩敬虔肅、不敢輕脱。其居處服飾、於時奢靡、然勤事奉法、故權ス其忠、不怪其侈。
初策使範典主財計、權時年少、私從有求、範必關白、不敢專許、當時以此見望。權守陽羨長、有所私用、策或料覆、功曹周谷輒為傅著簿書、使無譴問。權臨時ス之、及後統事、以範忠誠、厚見信任、以谷能欺更簿書、不用也。
黄武七年、範遷大司馬、印綬未下、疾卒。權素服舉哀、遣使者追贈印綬。及還都建業、權過範墓呼曰:「子衡!」言及流涕、祀以太牢。範長子先卒、次子據嗣。
據字世議、以父任為郎、後範寢疾、拜副軍校尉、佐領軍事。範卒、遷安軍中郎將。數討山賊、諸深惡劇地、所撃皆破。隨太常潘濬討五谿、復有功。朱然攻樊、據與朱異破城外圍、還拜偏將軍、入補馬閑右部督、遷越騎校尉。太元元年、大風、江水溢流、漸淹城門、權使視水、獨見據使人取大船以備害。權嘉之、拜盪魏將軍。權寢疾、以據為太子右部督。太子即位、拜右將軍。魏出東興、據赴討有功。明年、孫峻殺諸葛恪、遷據為驃騎將軍、平西宮事。五鳳二年、假節、與峻等襲壽春、還遇魏將曹珍、破之於高亭。太平元年、帥師侵魏、未及淮、聞孫峻死、以從弟綝自代、據大怒、引軍還、欲廢綝。綝聞之、使中書奉詔、詔文欽・劉纂・唐咨等使取據、又遣從兄〔憲〕以都下兵逆據於江都。左右勸據降魏、據曰:「恥為叛臣。」遂自殺。夷三族。
滕二孫伝では、呂拠と滕胤が共謀して孫綝に反抗しと、ほぼ確定的に記されています。
これは袁術伝の注の『英雄記』を修飾したものに過ぎません。
朱桓字休穆、呉郡呉人也。孫權為將軍、桓給事幕府、除餘姚長。往遇疫癘、穀食荒貴、桓分部良吏、隱親醫藥、飱粥相繼、士民感戴之。遷盪寇校尉、授兵二千人、使部伍呉・會二郡、鳩合遺散、期年之閨A得萬餘人。後丹楊・鄱陽山賊蜂起、攻沒城郭、殺略長吏、處處屯聚。桓督領諸將、周旋赴討、應皆平定。稍遷裨將軍、封新城亭侯。
後代周泰為濡須督。黄武元年、魏使大司馬曹仁歩騎數萬向濡須、仁欲以兵襲取州上、偽先揚聲、欲東攻羨溪。桓分兵將赴羨溪、既發、卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵、兵未到而仁奄至。時桓手下及所部兵、在者五千人、諸將業業、各有懼心、桓喩之曰:「凡兩軍交對、勝負在將、不在衆寡。諸君聞曹仁用兵行師、孰與桓邪?兵法所以稱客倍而主人半者、謂倶在平原、無城池之守、又謂士衆勇怯齊等故耳。今人既非智勇、加其士卒甚怯、又千里歩渉、人馬罷困、桓與諸軍、共據高城、南臨大江、北背山陵、以逸待勞、為主制客、此百戰百勝之勢也。雖曹丕自來、尚不足憂、況仁等邪!」桓因偃旗鼓、外示虚弱、以誘致仁。仁果遣其子泰攻濡須城、分遣將軍常雕督諸葛虔・王雙等、乘油船別襲中洲。中洲者、部曲妻子所在也。仁自將萬人留橐皋、復為泰等後拒。桓部兵將攻取油船、或別撃雕等、桓等身自拒泰、燒營而退、遂梟雕、生虜雙、送武昌、臨陳斬溺、死者千餘。權嘉桓功、封嘉興侯、遷奮武將軍、領彭城相。
「凡そ両軍が交々対峙した時、勝負は将に在り、衆寡に在るのではない。諸君が聞いている曹仁の用兵や行師は、私とは孰れが優っていようか? 兵法が称している“客は倍にして、主人は半ば”というのは、倶に平原に在り、城池の守りが無い場合を謂うのだ。又た士衆の勇怯が斉等である場合を謂うのだ。今、人は既に智勇ではなく、加えてその士卒は甚だ怯懦で、又た千里を歩渉して人馬とも罷労困憊している。私と諸軍とは共に高城に拠り、南は大江に臨み、北は山陵を背にし、逸を以て労を待ち、主となって客を制している。これぞ百戦百勝の形勢である。曹丕が自ら来ようとも、尚お憂うには足りない。ましてや曹仁らなどでは!」
朱桓は旗鼓を偃(ふ)せ、外には虚弱を示して曹仁を誘致した。曹仁は果たしてその子の曹泰を遣って濡須城を攻めさせ、将軍の常雕を分遣して諸葛虔・王双らを督させ、油船に乗せて別に中洲を襲わせた。中洲には部曲の妻子が在った。曹仁自ら万人を率いて橐皋(拓皋/合肥市巣湖北郊)に留まり、復た曹泰らの後方を拒いだ。朱桓は部兵に油船を攻取させ、或る者には別に常雕らを撃たせ、朱桓らは自身で曹泰を拒ぎ、営を焼いてから退き、かくて常雕を梟首し、王双を生虜して武昌に送り、戦陣に臨んで斬溺した死者は千余だった。孫権は朱桓の功を嘉し、嘉興侯に封じ、奮武将軍に遷し、彭城相を兼領させた。黄武七年、鄱陽太守周魴譎誘魏大司馬曹休、休將歩騎十萬至皖城以迎魴。時陸遜為元帥、全j與桓為左右督、各督三萬人撃休。休知見欺、當引軍還、自負衆盛、邀於一戰。桓進計曰:「休本以親戚見任、非智勇名將也。今戰必敗、敗必走、走當由夾石・挂車、此兩道皆險阨、若以萬兵柴路、則彼衆可盡、而休可生虜、臣請將所部以斷之。若蒙天威、得以休自效、便可乘勝長驅、進取壽春、割有淮南、以規許・洛、此萬世一時、不可失也。」權先與陸遜議、遜以為不可、故計不施行。
「曹休は本々は親戚として任されたもので、智勇の名将ではありません。今戦えば必ず敗れ、敗れれば必ず退走し、退走には夾石・挂車を経由するでしょう。この両道は皆な険阻を阨し、もし万兵で路を柴(ふさ)げば、かの軍兵を尽くす事ができ、曹休を生虜できましょう。どうか臣に部曲兵を率いてこれを断たせていただきたい。もし天威を蒙り、曹休を以て自ら効とする事ができたなら、ただちに勝ちに乗じて長躯し、進んで寿春を取り、淮南を割有し、こうして許・洛を規(はか)るのです。これぞ万世一時(の好機)であり、失ってはなりません」
孫権は先に陸遜と議しており、陸遜がならぬとしたので計は施行されなかった。 黄龍元年、拜桓前將軍、領青州牧、假節。嘉禾六年、魏廬江主簿呂習請大兵自迎、欲開門為應。桓與衞將軍全j倶以師迎。既至、事露、軍當引還。城外有溪水、去城一里所、廣三十餘丈、深者八九尺、淺者半之、諸軍勒兵渡去、桓自斷後。時廬江太守李膺整嚴兵騎、欲須諸軍半渡、因迫撃之。及見桓節蓋在後、卒不敢出、其見憚如此。
是時全j為督、權又令偏將軍胡綜宣傳詔命、參與軍事。j以軍出無獲、議欲部分諸將、有所掩襲。桓素氣高、恥見部伍、乃往見j、問行意、感激發怒、與j校計。j欲自解、因曰:「上自令胡綜為督、綜意以為宜爾。」桓愈恚恨、還乃使人呼綜。綜至軍門、桓出迎之、顧謂左右曰:「我縱手、汝等各自去。」有一人旁出、語綜使還。桓出、不見綜、知左右所為、因斫殺之。桓佐軍進諫、刺殺佐軍、遂託狂發、詣建業治病。權惜其功能、故不罪。使子異攝領部曲、令醫視護、數月復遣還中洲。權自出祖送、謂曰:「今寇虜尚存、王塗未一、孤當與君共定天下、欲令君督五萬人專當一面、以圖進取、想君疾未復發也。」桓曰: 「天授陛下聖姿、當君臨四海、猥重任臣、以除姦逆、臣疾當自愈。」
日頃の行いが〜、の典型でしょう。胡綜と面談しようとした朱桓の真意は不明です。あの朱桓が怒りながら 「縦手」 と云えば殺す気だと理解されても已む無しですが、朱桓もそこまでバカじゃない筈です。詰問するか、矯詔だと云って監禁するか、せいぜいぶん殴るくらいではないですか? なのに周りが気を遣いすぎるもんだから、変にキレて刀を振り回してしまったようにも見えます。時に朱桓は六十歳。因みに全j伝ではこの時の軍事自体が無かった事になっています。
子の朱異に部曲を摂領させ、医者に命じて視護(看護)させ、数月して復た遣って中洲に還らせた。孫権は自ら祖送(送別会)に出て謂うには 「今、寇虜は尚おも存在し、王途は未だ合一されていない。孤は君と共に天下を定めるべく、君に五万人を督して専ら一方面を担当させ、進取を図らせたい。(そうすれば)君の疾も再びは発すまい」 朱桓 「天は陛下に聖姿を授け、君は四海に臨まれようとしております。猥りに臣を重任されて姦逆を除こうとしておられる。臣の疾も自ずと癒えましょう」[2]桓性護前、恥為人下、毎臨敵交戰、節度不得自由、輒嗔恚憤激。然輕財貴義、兼以彊識、與人一面、數十年不忘、部曲萬口、妻子盡識之。愛養吏士、贍護六親、俸祿産業、皆與共分。及桓疾困、舉營憂戚。年六十二、赤烏元年卒。吏士男女、無不號慕。又家無餘財、權賜鹽五千斛以周喪事。子異嗣。
朱桓の属した呉県朱氏は、後に“呉邑四姓”に数えられるほどの名家となりますが、朱桓の履歴自体は周泰などの叩き上げと大差なく、名家の風は微塵もありません。同族の朱拠も五十歩百歩の印象ですが、こちらには士大夫の風があり、何より孫呉の外戚として赫々たる家なので、そちらが本家なのでしょう。
ところで筑摩『三国志』ほかでは朱桓の享年は赤烏二年という事になっています。どなたか元情報を下さいませんでしょうか。
異字季文、以父任除郎、後拜騎都尉、代桓領兵。赤烏四年、隨朱然攻魏樊城、建計破其外圍、還拜偏將軍。魏廬江太守文欽營住六安、多設屯砦、置諸道要、以招誘亡叛、為邊寇害。異乃身率其手下二千人、掩破欽七屯、斬首數百、遷揚武將軍。權與論攻戰、辭對稱意。權謂異從父驃騎將軍據曰:「本知季文() 〔膽〕定、見之復過所聞。」十三年、文欽詐降、密書與異、欲令自迎。異表呈欽書、因陳其偽、不可便迎。權詔曰:「方今北土未一、欽云欲歸命、宜且迎之。若嫌其有譎者、但當設計網以羅之、盛重兵以防之耳。」乃遣呂據督二萬人、與異并力、至北界、欽果不降。建興元年、遷鎮南將軍。是歳魏遣胡遵・諸葛誕等出東興、異督水軍攻浮梁、壞之、魏軍大破。太平二年、假節、為大都督、救壽春圍、不解。還軍、為孫綝所枉害。
読んでいる方も大いに嗤わせて頂きました。ジジイがジジイの髭を撫でて おべんちゃら を云っている、実に微笑ましくもない、想像したくもない場面です。書く方も載せる方も何考えてんだ。
※ 筑摩本では“罪人の子”。諸葛恪を“谿蛮”だと罵ったとの解釈もあるが、その根拠は不明。
評曰:朱治・呂範以舊臣任用、朱然・朱桓以勇烈著聞、呂據・朱異・施績咸有將領之才、克紹堂構。若範・桓之越隘、得以吉終、至於據・異無此之尤而反罹殃者、所遇之時殊也。