三國志修正計画

三國志卷二十七 魏志二十七/徐胡二王傳 (一)

徐邈

 徐邈字景山、燕國薊人也。太祖平河朔、召為丞相軍謀掾、試守奉高令、入為東曹議令史。魏國初建、為尚書郎。時科禁酒、而邈私飲至於沈醉。校事趙達問以曹事、邈曰:「中聖人。」達白之太祖、太祖甚怒。度遼將軍鮮于輔進曰:「平日醉客謂酒清者為聖人、濁者為賢人、邈性脩慎、偶醉言耳。」竟坐得免刑。後領隴西太守、轉為南安。文帝踐阼、歴譙相、平陽・安平太守、潁川典農中郎將、所在著稱、賜爵關内侯。車駕幸許昌、問邈曰:「頗復中聖人不?」邈對曰:「昔子反斃於穀陽、御叔罰於飲酒、臣嗜同二子、不能自懲、時復中之。然宿瘤以醜見傳、而臣以醉見識。」帝大笑、顧左右曰:「名不虚立。」遷撫軍大將軍軍師。

 徐邈、字は景山。燕国薊の人である。曹操は河朔を平定すると、召して丞相軍謀掾とし、奉高令を試守させ、入れて東曹議令史とした。魏国が初めて建てられると、尚書郎となった。時に科(条令)で酒造を禁じていたが、徐邈は私かに飲んで沈酔するに至った。校事(糾察官)の趙達が曹事(職務)を問うと、徐邈は 「聖人(の教え)に中ったのだ」 。趙達がこれを曹操に白(もう)すと、曹操は甚だ怒った。度遼将軍鮮于輔が進言するには 「平日(平素)より酔客は酒の澄んだものを聖人、濁ったものを賢人と謂っております。徐邈の性は修慎であり、偶々酔って言っただけでしょう」 と。竟に坐したが刑を免じられた。後に隴西太守を兼領し、転じて南安太守となった。文帝が踐阼したのち譙相と平陽・安平太守、潁川典農中郎将を歴任し、所在で称賛が著しく、爵関内侯を賜った。車駕が許昌に行幸した時、徐邈に問うには 「頗復(相変わらず)にして聖人に中っているのか?」 。徐邈は対えて 「昔、子反は穀陽で斃れ、御叔は飲酒で刑罰されました[※]。臣は嗜みを二子と同じくし、自ら懲りる事ができず、時には復たこれに中っております。しかして宿瘤は醜いものとして伝えられておりますが、臣は酔いによって識られております」 。帝は大いに笑い、左右を顧みて 「名声とは虚しく立つものではない」 。撫軍大将軍軍師に遷った。

※ 子反は春秋楚の将。決戦前夜に泥酔して軍議に加われず、敗戦の責任を問われた。御叔は魯の大夫。国使が自宅に宿泊した際、泥酔して暴言を吐いた為に租税を倍加された。宿瘤は戦国斉の閩王の妃。王を輔けてその覇道を実現し、その死が湣王の没落の始まりとされるが、真偽は不明。
 因みに時の撫軍大将軍は司馬懿で、徐邈伝を読む場合は司馬氏との関わりを念頭に置く必要があります。というか、巻二十七の四氏はいずれも親司馬氏の有力者だったりします。

 明帝以涼州絶遠、南接蜀寇、以邈為涼州刺史、使持節領護羌校尉。至、値諸葛亮出祁山、隴右三郡反、邈輒遣參軍及金城太守等撃南安賊、破之。河右少雨、常苦乏穀、邈上脩武威・酒泉鹽池以收虜穀、又廣開水田、募貧民佃之、家家豐足、倉庫盈溢。乃支度州界軍用之餘、以市金帛犬馬、通供中國之費。以漸收斂民闔仗、藏之府庫。然後率以仁義、立學明訓、禁厚葬、斷淫祀、進善黜惡、風化大行、百姓歸心焉。西域流通、荒戎入貢、皆邈勳也。討叛羌柯吾有功、封都亭侯、邑三百戸、加建威將車。邈與羌・胡從事、不問小過;若犯大罪、先告部帥、使知、應死者乃斬以徇、是以信服畏威。賞賜皆散與將士、無入家者、妻子衣食不充;天子聞而嘉之、隨時供給其家。彈邪繩枉、州界肅清。

 明帝は涼州が絶遠で、南は蜀寇に接しているので、徐邈を涼州刺史・使持節・領護羌校尉とした。(現地に)至るや諸葛亮が祁山に出征し、隴右三郡が反くのに遭遇した。徐邈はただちに参軍および金城太守らを遣って南安の賊を撃たせ、これを破った。河右は雨が少なく、常に穀類の欠乏に苦しんでいたので、徐邈は上書して武威・酒泉の塩池を修築して(交易で?)胡虜の穀類を収め、又た広く水田を開き、貧民を募ってこれを佃(小作)とし、(かくて)家家は豊足し、倉庫は盈溢した。かくして州の界内での軍用の余剰を支度(準備)し、金帛犬馬と市易し、中国(中原)での費用に供した。こうして次第に民間の私杖(隠匿武器)を収斂し、府庫に収蔵した。そうした後に仁義によって率い、学舎を立てて訓えを明らかにし、厚葬を禁じ、淫祀を断ち、進善黜悪(勧善懲悪)して風化は大いに行なわれ、百姓は心を帰した。西域と流通し、荒戎(遠方の異種族)が入貢したのは皆な徐邈の勲である。

 諸葛亮の基本戦略は隴西を征服して河西を孤立させた後、河西を服従させて第二の兵站基地にする事にあったように思われます。このとき三郡最北の南安郡まで陥されれば涼州は孤立しかねず、徐邈が魏蜀の攻防に果した役割は極めて大きいものがありました。

 叛羌の柯吾を討って功があり、都亭侯に封じられて三百戸を食邑とし、建威将軍を加えられた。徐邈は羌・胡と従事した場合は小過は問わず、もし大罪を犯した場合は先ず部帥に告げて知らしめてから死罪に値する者を斬って徇らせ、このため信服されつつ威は畏れられた。賞賜は皆な将士に散じ、家に入れるものとて無く、妻子は衣食にすら不充分だった。天子は聞くとこれを嘉し、時節に随ってその家に供給した。邪悪を弾劾して枉法を縄(ただ)し、州界を粛清にした。

 正始元年、還為大司農。遷為司隸校尉、百寮敬憚之。公事去官。後為光祿大夫、數歳即拜司空、邈歎曰:「三公論道之官、無其人則缺、豈可以老病忝之哉?」遂固辭不受。嘉平元年、年七十八、以大夫薨于家、用公禮葬、諡曰穆侯。子武嗣。六年、朝廷追思清節之士、詔曰:「夫顯賢表コ、聖王所重;舉善而教、仲尼所美。故司空徐邈・征東將軍胡質・衞尉田豫皆服職前朝、歴事四世、出統戎馬、入贊庶政、忠清在公、憂國忘私、不營産業、身沒之後、家無餘財、朕甚嘉之。其賜邈等家穀二千斛、錢三十萬、布告天下。」

 正始元年(240)、還って大司農となった。遷って司隸校尉となると、百寮は敬い憚った。公事によって官を去った。後に光禄大夫となり、数歳して(正始九年に)司空に拝されたが、徐邈は歎じて 「三公とは論道官(道理を論じる官)であり、対応する人が無ければ缺員(欠員)とするものだ。どうして老病の身でこれを忝くできようか?」 。かくて固辞して受けなかった。嘉平元年(249)、齢七十八で光禄大夫として家で薨じた。三公の礼を用いて葬られ、穆侯と諡された。子の徐武が嗣いだ。

 正始年間といえば曹爽らの執政時代で、司馬懿の療病に象徴されるように、名士派主流は消極的ながらも政権に対しては非協力的でした。事実、徐邈が司空を辞退した直前には、司馬懿の隠居を追うように孫資・劉放・衛臻らが官位を返上しています

六年(254)、朝廷は清節の士を追思し、詔して曰く 「賢者を顕彰し、有徳者を表彰するのは聖王が重んじるものである。善を挙げて教化するのは仲尼が賛美している。故人たる司空徐邈・征東将軍胡質・衛尉田豫は皆な前朝で職務に服事し、四世に歴事し、出でては戎馬を統べ、入っては庶政を翼賛し、忠清を公務に置き、国事を憂えて私事を忘れ、産業を営まず、身が歿した後は家には余財とて無く、朕は甚だこれを嘉するものである。徐邈らの家に穀二千斛・銭三十万を賜い、天下に布告するものである」 。

邈同郡韓觀曼游、有鑒識器幹、與邈齊名、而在孫禮・盧毓先、為豫州刺史、甚有治功、卒官。盧欽著書、稱邈曰:「徐公志高行求A才博氣猛。其施之也、高而不狷、去ァ不介、博而守約、猛而能ェ。聖人以清為難、而徐公之所易也。」或問欽:「徐公當武帝之時、人以為通、自在涼州及還京師、人以為介、何也?」欽答曰:「往者毛孝先・崔季珪等用事、貴清素之士、于時皆變易車服以求名高、而徐公不改其常、故人以為通。比來天下奢靡、轉相倣效、而徐公雅尚自若、不與俗同、故前日之通、乃今日之介也。是世人之無常、而徐公之有常也。」

 徐邈の同郡の韓観曼游は鑑識と器幹(人物鑑識眼と幹事の器)があり、(州郡では)徐邈と名声を斉しくし、孫礼盧毓の上位に置かれた。豫州刺史となり、甚だ治功があり、官のまま卒した[1]
 盧欽が著書で徐邈を称えるには 「徐公は志は高く行いは渠窒ナ、才は博く気力は猛強だった。その施行する所は高潔であっても狷介ではなく、博くありながら簡約を守り、猛々しくも寛容であれた。聖人は清廉を困難としたが、徐公にとっては容易であった」 と。或る者が盧欽に問うには 「徐公は武帝の時代に通人(粋人)とされたのに、涼州より京師に還るに及んで狷介だとされました。どうしてでしょう?」 。盧欽が答えるには 「往時には毛孝先崔季珪らが公事に用(はたら)き、清廉簡素の士を貴んだ。(そのため)当時は皆な車服を(質素に)変易して名を高める事を求めたが、徐公は常態を改めなかった。ゆえに人は通人としたのだ。この頃は天下は奢靡となって倣効(模倣)し合う風潮に転じたが、徐公の雅心(平素の心)は尚も自若とし、世俗とは同じくしなかった。ゆえに前日には通としたものが、今日には介となったのだ。これは世人には常態というものが無く、徐公には常態があったという事だ」。
 
[1] 黄門侍郎杜恕が上表して称えるには 「韓観・王昶はまことに兼才の人で、高官として重きを任うことはただ三州には留まりません」 (『魏名臣奏』)
 

胡質

 胡質字文コ、楚國壽春人也。少與蔣濟・朱績倶知名於江・淮間、仕州郡。&#x蔣;濟為別駕、使見太祖。太祖問曰:「胡通達、長者也、寧有子孫不?」濟曰:「有子曰質、規模大略不及於父、至於精良綜事過之。」太祖即召質為頓丘令。縣民郭政通於從妹、殺其夫程他、郡吏馮諒繋獄為證。政與妹皆耐掠隱抵、諒不勝痛、自誣、當反其罪。質至官、察其情色、更詳其事檢驗具服。

 胡質、字は文徳。楚国寿春の人である。若くして蔣済・朱績と倶に江淮の間に名を知られ、州郡に出仕した。蔣済が別駕となって使者として曹操に見(まみ)えた折、曹操が問うには 「胡通達は長者であったが、子孫はあるかどうか?」 。蔣済 「胡質という子があります。規模大略(品行と識見)は父に及びませんが、精良にして事を綜すべるに至っては父を越えましょう」 [1]。曹操は即座に胡質を召して頓丘令とした。
県民の郭政が従妹と姦通してその夫の程他を殺した件で、(告発した)郡吏の馮諒を獄に繋いで証言させた。郭政と従妹とは拷掠に耐えて抵触該当する事案を隠したが、馮諒は痛みに勝えず、自らを誣して反ってその罪に当てられた。胡質は官に至ると、その情色(意心と顔色)を観察し、更めて事件を詳らかにし、検験(検査証明)したので倶に服した。

 入為丞相東曹議令史、州請為治中。將軍張遼與其護軍武周有隙。遼見刺史温恢求請質、質辭以疾。遼出謂質曰:「僕委意於君、何以相辜如此?」質曰:「古人之交也、取多知其不貪、奔北知其不怯、聞流言而不信、故可終也。武伯南身為雅士、往者將軍稱之不容於口、今以睚眦之恨、乃成嫌隙。況質才薄、豈能終好?是以不願也。」遼感言、復與周平。

 入朝して丞相東曹議令史となり、州が請うたので治中となった。将軍張遼はその護軍の武周と隙があった。張遼は(揚州刺史)温恢に見(まみ)えて胡質を求請した処、胡質は疾病を理由に辞退した。張遼は出かけて胡質に謂うには 「僕は君に意を委ねているのに、どうしてそのように辜(そむ)くのか?」 。胡質
「古人の交わりとは、多くを取ってもそれが貪っての事ではないと知り、奔北(逃走)しても怯懦ではないと知り[※1]、流言を聞いても信じない[※2]といったもので、ゆえに終(まっと)うできたのです。武伯南(武周)は雅士であり、往時には将軍は包み隠さずこれを称えていたのに、今や睚眦(睨まれた程度の僅かな事)の恨みから嫌隙を成しております。ましてや私は才薄く、どうして好誼を終うできましょう? だから(交際を)願わぬのです」 。

※1 管鮑の交わりの事。春秋時代の管仲と鮑叔の交友の故事による。管仲が卑賤だった時、鮑叔と共に産業を行なうと利益の過半を取り、又た敗戦に際しては率先して逃れ還ったが、いずれも老母の為である事を理解していた鮑叔は管仲を非難しなかった。
※2 『礼記』儒行篇にある、儒者の交友の一例。

張遼はその言葉に感じ入り、再び武周と平らかになった[2]

 太祖辟為丞相屬。黄初中、徙吏部郎、為常山太守、遷任東莞。士盧顯為人所殺、質曰:「此士無讎而有少妻、所以死乎!」悉見其比居年少、書吏李若見問而色動、遂窮詰情状。若即自首、罪人斯得。毎軍功賞賜、皆散之於衆、無入家者。在郡九年、吏民便安、將士用命。
 遷荊州刺史、加振威將軍、賜爵關内侯。呉大將朱然圍樊城、質輕軍赴之。議者皆以為賊盛不可迫、質曰:「樊城卑下、兵少、故當進軍為之外援;不然、危矣。」遂勒兵臨圍、城中乃安。遷征東將軍、假節都督青・徐諸軍事。廣農積穀、有兼年之儲、置東征臺、且佃且守。又通渠諸郡、利舟楫、嚴設備以待敵。海邊無事。

 曹操が辟して丞相の曹属とした。黄初中(220〜26)に吏部郎に徙り、常山太守となり、遷って東莞太守に任じられた。士人の盧顕が人に殺された処、胡質は 「この士には讐とて無いが、年少の妻がいる。死の理由だ!」 と。その近隣に居住する年少者を悉く見、書吏の李若が問われた時に顔色が動揺したので、情状を窮詰(追及)した。李若は即座に自首(自白)し、罪人をこうして得た。軍功で賞賜される毎に皆な人々にこれを散じ、家に入るものは無かった。郡に在ること九年、吏民は安んじ、将士は命令に用(はたら)いた。
 荊州刺史に遷り、振威将軍を加えられ、爵関内侯を賜った。呉の大将の朱然が樊城を囲むと、胡質は軽装の軍で赴いた。議者の皆なは賊が盛んで迫るべきでないとしたが、胡質は 「樊城の地は卑下(湿った低地)で兵は少なく、ゆえに軍を進めて外援を為さねばならぬ。そうしないと危うい」 。かくて兵を勒(ととの)えて囲営に臨み、城中はかくして安んじた。征東将軍に遷り、仮節・都督青徐諸軍事とされた。農事を広めて穀糧を積み、兼年(二年分)の儲(たくわ)えを有し、東征台が置かれると佃(小作)させつつ守った。又た渠(水路)を諸郡に通じて舟楫の利とし、厳しく備えを設けて敵を待った。(そのため)海辺では事が無かった。

 文帝の黄初六年(225)に、「従陸道幸徐。九月、築東巡台」 とあります。ただし朱然による樊城攻囲が明言されているのは呉の赤烏四年(241)の事なので、東征台は文帝の東巡台とは別物のようです。
 胡質と朱然の交戦については、明帝紀景初元年(237)に 「朱然が江夏を囲み、荊州刺史胡質らに撃退された」 とあり、又た朱然伝には 「赤烏五年四年(241)に柤中に出征し、退路を断とうとした蒲忠・胡質を撃退した」 旨があります。この赤烏年間の軍事については、孫盛が『異同評』で熱弁を奮っていたりします。ちなみに朱然伝には、当然ながら景初元年の敗戦についての言及はありません。

 性沉實内察、不以其節檢物、所在見思。嘉平二年薨、家無餘財、惟有賜衣書篋而已。軍師以聞、追進封陽陵亭侯、邑百戸、諡曰貞侯。子威嗣。六年、詔書褒述質清行、賜其家錢穀。語在徐邈傳。威、咸熙中官至徐州刺史、有殊績、歴三郡守、所在有名。卒於安定。

 性は沉実内察(沈着篤実で内省的)で、自身の節行を以て(他者を)検束(拘束)するような事はしなかったので、所在で思慕された。嘉平二年(250)に薨じた時、家に余財は無く、ただ賜物の衣服と書簡の篋(はこ)があるだけだった。軍師が上聞し、追って陽陵亭侯に進封され、百戸を食邑とし、貞侯と諡された。子の胡威が嗣いだ。六年(254)、詔書にて胡質の清行を褒述し、その家に銭・穀を賜った。物語は徐邈伝に在る。
 胡威は咸熙中(264〜65)に徐州刺史に至って[3]殊績があり、三郡の太守を歴任して、所在で名声があった。安定で卒した。
 
[1] 『胡氏譜』を調べた処、胡通達の名は敏で、方正として徴されている。
[2] 武周、字は伯南。沛国竹邑の人である。官位は光禄大夫に至った。子は武陔、字は元夏である。
 武陔および二弟の武韶・武茂は皆な総角(童子の髪型)の時分より称えられ、揃って器望(器量と期待)があり、郷人の諸父であっても優劣を判別できなかった。時に同郡の劉公栄(劉昶)は知人の才(人物鑑識眼)で知られ、あるとき武周を造(たず)ねた。武周が謂うには 「卿には知人の明がある。三児を卿に見せたいと思うが、卿は高下を識別し、郭泰・許子将(共に漢末の人物評の大家)に倣っていただけまいか?」 と。劉公栄はかくして自ら武陔兄弟に詣り、共に語り合い、その挙動を観察した。出てきて武周に語るには 「君の三子は皆な国士だ。元夏の器量は最も優れ、輔佐の風があり、仕官して力を展べれば亜公(二品官)となるだろう。叔夏・季夏とて常伯・納言(常侍・尚書)以下ではありますまい」 と。
 武陔は若くして官に出仕し、内外の職を歴任し、泰始の初めに吏部尚書となり、左僕射・右光禄大夫・開府儀同三司に遷り、官のまま卒した。武陔は魏に在って已に大臣となっており、もとより(晋室の)佐命の数には入っておらず、遜譲の意思を懐き、已むを得ず位に居た。ゆえに官職に在っても荷う任とて無く、夙夜に恭謙を思うだけだった。終始に潔癖を全うし、当世で美談とされた。
 武韶は二官の吏部郎を歴任し、『山濤啓事』は武韶の清白にして誠実な事を称えている。散騎常侍として終った。 武茂は侍中・尚書に至った。潁川の荀トは司馬懿の外孫にして武帝の姑子(父の姉妹の子)であり、貴戚であることを恃んで武茂に交際を求めた。武茂は拒んで答えず、これによって怒らせた。元康元年(291)に楊駿が誅されたが、荀トは時に尚書僕射であり、武茂が楊駿の姨弟(妻の姉妹の子)である事を以て楊駿の党に陥し、かくて枉陥されて殺された。人々は咸な冤罪として痛んだ。 (虞預『晋書』)
[3] 胡威、字は伯虎。若くして志尚(高い志)があり、操を清白に(はげ)ました。胡質が荊州刺史になると、胡威は京都より省(たず)ねた。家は貧しく、車馬童僕とて無く、胡威は自ら驢馬を駆って単行し、父に拝見した。廐中に停まること十余日にして帰京を告げた。辞去するに臨み、胡質は絹一疋を路中の糧として賜った。胡威は跪き 「大人は清白です。どのようにこの絹を得られたのでしょう?」 。胡質 「これは吾が俸禄の余剰である。ゆえに汝の糧とするのだ」 。胡威はこれを受領し、辞去して帰った。客舍に至る毎に、自身で驢馬を放牧して取樵炊爨(伐薪炊飯)し、食事を畢えると復た旅に随って道を進んだ。往還ともこの通りだった。 胡質の帳下督は(胡威とは)平素より互いに識らなかったが、胡威が帰ろうとする時に先んじて休暇を請うて家に還り、陰かに装束して百余里でこれを要(むか)え、こうして伴侶となり、事毎にその経営を佐助し、又た稀には飲食を進め、行くこと数百里だった。胡威は訝疑し、密かに誘導して問うて督である事を知ると、前に賜った絹を取り出し、答謝して帰らせた。後に他の音信のついでに具さに胡質に申した。胡質はその督を一百の杖罰とし、吏籍から除名した。父子ともに清慎なのはこの通りだった。これによって名・誉とも著聞し、宰牧(刺史職)を歴任した。
 晋武帝に謁見を賜わると、辺事について論じ、言葉は平生の事に及んだ。帝はその父の清廉な事を歎じ、胡威に謂うには 「卿は父の清廉と比べて孰れが清廉か?」 と。胡威が対えるには 「臣は及びません」。帝 「何を以て及ばないとするのか?」 。対えて 「臣の父は清廉を人が知るのを恐れたもので、臣は清廉を人に知られぬのを恐れるものです。これで臣が遠く及ばぬのです」 。官は前将軍・青州刺史に至った。太康元年(280)に卒し、鎮東将軍を追贈された。胡威の弟の胡羆は字を季象といい、征南将軍となり、胡威の子の胡奕は字を次孫といい、平東将軍となり、ともに潔癖な行ないで世に名を垂れた。 (『晋陽秋』)
 

王昶

 王昶字文舒、太原晉陽人也。少與同郡王淩倶知名。淩年長、昶兄事之。文帝在東宮、昶為太子文學、遷中庶子。文帝踐阼、徙散騎侍郎、為洛陽典農。時都畿樹木成林、昶斫開荒萊、勤勸百姓、墾田特多。遷兗州刺史。明帝即位、加揚烈將軍、賜爵關内侯。昶雖在外任、心存朝廷、以為魏承秦・漢之弊、法制苛碎、不大釐改國典以準先王之風、而望治化復興、不可得也。乃著治論、略依古制而合於時務者二十餘篇、又著兵書十餘篇、言奇正之用、青龍中奏之。

 王昶、字は文舒。太原晋陽の人である[1]。若くして同郡の王淩と倶に名を知られ、王淩が年長なので、王昶が兄事した。曹丕が東宮に在った時、王昶は太子文学となり、中庶子に遷った。文帝が踐阼すると散騎侍郎に徙り、洛陽典農都尉となった。時に都畿の樹木は林を形成しており、王昶は荒莱(荒蕪地)の斫開(開拓)を百姓に勧勤したので、墾田が特に多かった。兗州刺史に遷った。明帝が即位すると揚烈将軍を加えられ、爵関内侯を賜った。王昶は外任に在ったとはいえ、心は朝廷に存り、魏が秦・漢の弊政を承けて法制が苛砕で、大いに国典を釐改(整理改修)して先王の風紀に準じなければ、政治教化の復興は望んでも得られぬと考えた。かくして『治論』を著し、あらまし古制に依拠しつつ時務に合致するものは二十余篇であり、又た『兵書』十余篇を著して奇と正の用(はたら)きを言い[2]、青龍中に上奏した。

 其為兄子及子作名字、皆依謙實、以見其意、故兄子默字處靜、沈字處道、其子渾字玄沖、深字道沖。遂書戒之曰:
夫人為子之道、莫大於寶身全行、以顯父母。此三者人知其善、而或危身破家、陷于滅亡之禍者、何也?由所祖習非其道也。夫孝敬仁義、百行之首、行之而立、身之本也。孝敬則宗族安之、仁義則郷黨重之、此行成於内、名著于外者矣。人若不篤於至行、而背本逐末、以陷浮華焉、以成朋黨焉;浮華則有虚偽之累、朋黨則有彼此之患。此二者之戒、昭然著明、而循覆車滋衆、逐末彌甚、皆由惑當時之譽、昧目前之利故也。夫富貴聲名、人情所樂、而君子或得而不處、何也?惡不由其道耳。患人知進而不知退、知欲而不知足、故有困辱之累、悔吝之咨。語曰:「如不知足、則失所欲。」故知足之足常足矣。覽往事之成敗、察將來之吉凶、未有干名要利、欲而不厭、而能保世持家、永全福祿者也。欲使汝曹立身行己、遵儒者之教、履道家之言、故以玄默沖虚為名、欲使汝曹顧名思義、不敢違越也。古者盤杅有銘、几杖有誡、俯仰察焉、用無過行;況在己名、可不戒之哉!夫物速成則疾亡、晩就則善終。朝華之草、夕而零落;松柏之茂、隆寒不衰。是以大雅君子惡速成、戒闕黨也。若范匄對秦客而武子撃之折其委笄、惡其掩人也。夫人有善鮮不自伐、有能者寡不自矜;伐則掩人、矜則陵人。掩人者人亦掩之、陵人者人亦陵之。故三郤為戮于晉、王叔負罪於周、不惟矜善自伐好爭之咎乎?故君子不自稱、非以讓人、惡其蓋人也。夫能屈以為伸、讓以為得、弱以為彊、鮮不遂矣。夫毀譽、愛惡之原而禍福之機也、是以聖人慎之。孔子曰:「吾之於人、誰毀誰譽;如有所譽、必有所試。」又曰:「子貢方人。賜也賢乎哉、我則不暇。」以聖人之コ、猶尚如此、況庸庸之徒而輕毀譽哉?
 昔伏波將軍馬援戒其兄子、言:「聞人之惡、當如聞父母之名;耳可得而聞、口不可得而言也。」斯戒至矣。人或毀己、當退而求之於身。若己有可毀之行、則彼言當矣;若己無可毀之行、則彼言妄矣。當則無怨于彼、妄則無害於身、又何反報焉? 且聞人毀己而忿者、惡醜聲之加人也、人報者滋甚、不如默而自脩己也。諺曰:「救寒莫如重裘、止謗莫如自脩。」斯言信矣。若與是非之士、凶險之人、近猶不可、況與對校乎?其害深矣。夫虚偽之人、言不根道、行不顧言、其為浮淺較可識別;而世人惑焉、猶不檢之以言行也。近濟陰魏諷・山陽曹偉皆以傾邪敗沒、熒惑當世、挾持姦慝、驅動後生。雖刑於鈇鉞、大為烱戒、然所汗染、固以衆矣。可不慎與!
 若夫山林之士、夷・叔之倫、甘長飢於首陽、安赴火於緜山、雖可以激貪勵俗、然聖人不可為、吾亦不願也。今汝先人世有冠冕、惟仁義為名、守慎為稱、孝悌於閨門、務學於師友。吾與時人從事、雖出處不同、然各有所取。潁川郭伯益、好尚通達、敏而有知。其為人弘曠不足、輕貴有餘;得其人重之如山、不得其人忽之如草。吾以所知親之昵之、不願兒子為之。北海徐偉長、不治名高、不求苟得、澹然自守、惟道是務。其有所是非、則託古人以見其意、當時無所褒貶。吾敬之重之、願兒子師之。東平劉公幹、博學有高才、誠節有大意、然性行不均、少所拘忌、得失足以相補。吾愛之重之、不願兒子慕之。樂安任昭先、淳粹履道、内敏外恕、推遜恭讓、處不避洿、怯而義勇、在朝忘身。吾友之善之、願兒子遵之。若引而伸之、觸類而長之、汝其庶幾舉一隅耳。及其用財先九族、其施舍務周急、其出入存故老、其論議貴無貶、其進仕尚忠節、其取人務實道、其處世戒驕淫、其貧賤慎無戚、其進退念合宜、其行事加九思、如此而已。吾復何憂哉?

 兄の子および子の為に諱名と字名を作したが、皆な謙虚と質実に依拠してその意を見(あらわ)した。ゆえに兄子の王黙の字は処静、王沈の字は処道で、子の王渾の字は玄沖、王深の字は道沖とした。かくて書簡で戒めるには:
 子の道とは、身を宝とし、行ないを全うし、父母の名を顕かにするより大きいものは莫い。この三者を善事と知りながら、身を危うくしたり家を破る者がいるのは何故か? 習う根本が道に外れているからである。孝・敬・仁・義は行動の根本であり、孝・敬なら宗族を安んじ、仁・義なら郷党が重んじ、内なる行ないが完成されれば名声は外に著明となる。行ないを軽んじ、根本に背いて末節を追えば浮華に陥り、朋党を形成する事になる。浮華であれば虚偽の累害があり、朋党には敵党の患がある。この二者の戒めは昭然著明としているのに、覆車に循う者がいよいよ多く、末節を追うことがいよいよ甚だしいのは、すべて当世の声誉に惑い、目前の利に眩んでいるからなのだ。富貴や声名は人の情として楽(よろこ)ぶものだが、君子が受けない場合があるのは何故か? 道義に由来しないのを悪むからである。人は進むを知って退くを知らず、欲するを知って足りるを知らず、ゆえに困辱(困苦屈辱)の累害や悔吝の咨(なげ)きがあるのだ。諺も“足るを知らねば欲するものを失う”と言い、ゆえに足ることの満足を知っていれば常に充足していられるのだ。過去の成敗を閲覧して将来の吉凶を察すれば、未だ名・利を求め、欲して飽かぬ者で、家を保持して永らく福禄を全うできた者などいないのだ。汝らには行ないによって身を立て、儒者の教えに遵い、道家の言葉を踏襲させたいのだ。ゆえに玄・黙・沖・虚[※]をその諱名とし、汝らには名を顧みて字義を思い、違えぬようにしてもらいたいのだ。

※ 玄黙は深沈として寡黙なこと、沖虚は虚心な様。

古えには盤杅・几杖(大皿と湯呑み、机と杖=日常の用具)にも銘や誡言があり、俯仰する毎に察して過失無きようにしたのだ。ましてや己が名にそれがあれば、戒めずにおれようか!
 物とは速成ならば亡ぶのも疾く、晩く就けば終りを善くするものだ。朝華の草は夕には零落し、(成長の遅い)松柏は繁茂すれば、寒冬にも衰えぬものだ。このため大雅なる君子は速成を悪み、闕党を戒めたのだ[※1]。范匄が秦客に対えた行為に、范武子が撃ってその委笄(委貌冠の簪)を折ったのも、人を掩うのを悪んだからだ[3]。善行を伐(ほこ)らぬ人は鮮なく、能を矜らぬ者は寡なく、伐れば人を掩い、矜れば人を凌轢するもの。人を掩う者を人も亦た掩い、人を凌轢する者を人も亦た凌轢するもの。ゆえに三郤が晋で刑戮され、王叔[※2]が周で罪を負ったのは、ただ善を矜り自らを伐って争いを好んだ咎ではなかろうか? ゆえに君子が自らを称えないのは謙譲からではなく、人を蓋うのを悪むからである。屈する事によって伸び、謙譲する事で得、弱きを以て強くなれれば、遂げられぬ事は鮮ない。

※1 『論語』の 「闕党の童子、命を将(おこな)う。或るひと之を問いて曰く、益する者か。子曰く、吾れその位に居るを見たるなり。その先生と並び行けるを見たるなり。益を求むる者に非ざるなり。速やかに成らんことを欲する者なり」 より。闕党は闕という名の郷邑。将命とは取次ぎ担当。童子が出しゃばって先生=先達の仕事を担当しているが、有能だから使っているわけではなく、本人が背伸びをしているのだ、という程の意味。
※2 周の卿士の王叔陳生。霊王の時に後進の伯輿と権を争い、霊王が伯輿を支持した事を怒って出奔した。霊王の請和を拒み、晋に事の曲直を訴えたが、証拠をそろえる事ができずにそのまま晋に亡命した。

毀と誉とは愛憎の原因にして禍福の契機であり、このため聖人は慎んだのだ。孔子曰く“私が人に対して誰かを毀(そし)ったり誉めたりしようか。誉める場合は必ず試用してからだ”と。又た曰く“子貢は人を方(くら)べる。賜(子貢)はなんと賢いのだ。私にはそんな暇は無いのに”と。聖人の徳を以てしても猶おこの通りなのだ。ましてや庸庸たる徒輩が軽々しく毀誉できようか?
 昔、伏波将軍馬援はその兄子(おい)を戒めて言うには “人の悪点を聞く場合、父母の諱名を聞く如くにしなければならない。耳にしようとも、口にしてはならない”と。至言である[4]。己れを毀る人がいた場合、退いて我が身に(欠点を)求めるべきである。もし己れに毀られる行ないがあれば、彼の者の言葉は当っており、もし己れに毀られる行ないが無ければ、彼の者の言葉は妄言にすぎない。当っていれば彼の者を怨む事は無く、妄言なら我が身には害は無い。どうして反報(報復)しようか? しかも人が己れを毀るのを聞いて忿るのは、醜声を人が加えるのを悪むからだが、報復とはいよいよ甚だしくなるものだから、黙して己れを修身するにこした事はないのだ。諺でも“寒さから救うには裘(けごろも)を重ねるに勝る事は莫く、誹謗を止めるには修身するに勝る事は莫い” と言っている。この言葉は信実である。是非の士(批評家)や凶険の人の如きには、近づいてすらならない。ましてや対校(批評合戦)なんぞはどうなのか? その害毒は深いのだ。虚偽の人の言葉とは道理に根ざさず、行ないは言葉を顧みないもので、浮浅な行為は較(あらま)し識別できるが、世人は惑わされ、猶おその言行から検(しら)べようとしないのだ。近くは済陰の魏諷・山陽の曹偉などは皆な邪に傾いて敗没こそしたが、当世の熒惑(兇星)として姦慝(姦邪)を挟持(抱負)し、後生(後進)を駆り動かした。鈇鉞で処刑されて大いに烱(あきら)かな戒めを為したとはいえ、汗染(汚染)した者はまことに衆(おお)かった。慎まねばならぬ[5]
 かの山林の士たる伯夷・叔斉の倫(ともがら)が、長らく首陽山で飢えるのに甘んじ、安んじて緜山で火に赴いたが如きは[※]、貪欲を激(う)って世俗を励ますとはいえ、聖人の行ないではなく、私も亦た願わぬ。今、汝らの先人は歴世の冠冕(官人)だったが、ただ仁義を名とし、謹慎を守ることを称(ほまれ)とし、閨門(家庭内)では孝悌であり、師友に学ぶ事に務めてきた。私は時人と与に従事し、出処進退は同じでないとはいえ、各々に取るべき点があった。

※ 晋文公の家臣、介子推の事。文公が即位した時、暗に褒賞を求める狐偃と同列する事を慙じて隠棲し、後に文公に出仕を求められると母を伴って緜山に逃れた。下山を促すために文公が山を焼かせても、留まって焚死したという俗説がある。

潁川の郭伯益[6]は通達人(風流人)たることを好尚(嗜好)し、敏く知識もあった。その為人りは弘曠(寛容さ)に不足し、軽視と尊重とが極端で、気に入ればその人を重んじること山の如く、気に入らなければその人を忽(おろそ)かにすること草の如くだった。私はこれと知親(親密)だったので昵懇したが、子供らがこうするのは願わぬ。 北海の徐偉長は名を高める事を治めず、苟(いたず)らに得る事を求めず、澹然(淡白)たる態度を保ち、ただ道を履む事を務めとしている。その是非の判断は古人に託してその意を示し、現世を褒貶する事は無い。私は彼を敬重しており、子供らには彼を師とする事を願う。 東平の劉公幹は博学にして高い才気があり、その志節には大意があったが、その性と行ないとは均質さに欠け、拘忌(自制や遠慮)する事が少なく、得失は補い合うに充分(差引きゼロ)だった。私は彼を愛し重んじたが、子供らが彼を慕うのは願わぬ[7]。 楽安の任昭先[8]は淳粋にして道を履み、内実は明敏にして外面は寛恕で、推遜恭譲にして住まうに洿(けが)れを避けず、怯懦でありながら義には勇敢で、朝廷に在ってはその身を気に掛けない。私は彼と友善しており、子供らが彼に遵うのを願う。 引用してこれを伸展し、類似に触れて成長する如くに、汝らは一隅を挙げるだけで理解するだろう。財を用いるに及んでは九族を先にし、施舎(施恵)は急を周(すく)うに務め、出入りの際には故老を存(たず)ね、論議では貶めざるを貴び、進仕(出仕)しては忠節を尚び、人の採取には実・道を務めとし、処世では驕淫を戒め、貧賎にあっては戚(うれ)えぬよう謹慎し、進退に於いては合宜(道理に適う)を念い、事を行なうに際しては九思を加えよ。この様にしてさえくれれば、私は何を憂えようか?

 以上、若干は端折りましたが、敢えてほぼ全訳しました。勢いで。王昶が馬援に憧れている事は何となく察せられましたが、文章はやや冗長で、締めとして“已(〜さえ)”とか書きつつ結構注文が多かったりしています。時期が時期だけに、公開前提で書いた日記と同類でしょう。本文の前後関係から明帝の主旨に沿って青龍年間に書かれたものかと思われますが、意外と隠れ反曹爽派として正始年間に書いたものだとしても違和感はありません。

 青龍四年、詔「欲得有才智文章、謀慮淵深、料遠若近、視昧而察、籌不虚運、策弗徒發、端一小心、清脩密靜、乾乾不解、志尚在公者、無限年齒、勿拘貴賤、卿校已上各舉一人」。太尉司馬宣王以昶應選。正始中、轉在徐州、封武觀亭侯、遷征南將軍、假節都督荊・豫諸軍事。昶以為國有常衆、戰無常勝;地有常險、守無常勢。今屯宛、去襄陽三百餘里、諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴、乃表徙治新野、習水軍于二州三州、廣農墾殖、倉穀盈積。

 青龍四年(236)、詔して 「文章(紋彩)たる才智、淵深たる謀慮、遠きを料ること近きが如く、昧(瞑)きを視て明察し、籌計の運用は虚しからず、策は徒らに発すること弗く、端一(純直)にして小心、清修密静(品行清潔で静謐)にして乾乾不懈(精進を続けて懈らず)、志を公事に置く事を尚ぶ者を得たい。年歯を制限せず、貴賤に拘ってはならない。卿校(九卿と校尉)以上は各々一人を挙げるように」 。太尉司馬懿は王昶を薦挙に該当させた。

 なぜ司馬懿が同州人でもない王昶を挙げたのか。この時期、明帝は太后の死によって専制君主化し、朝廷では名士出身の三公九卿より寒門出の内官の発言力が強まりつつありました。臨終時の明帝の混乱ぶりを見るに、最終的には朝廷を親族経営して名士勢力を抑え込もうとしていたように思えます。対する名士司馬懿ですが、同僚である司徒董昭・司空陳羣は老齢から棺桶に片足突っ込んでいる状態で、しかも司馬懿は宮廷活動が苦手です。名士であり弁も立ちそうな王昶を挙げ、名士の繋がりを強め、明帝の構想に対抗しようとしたのではないかと思われます。

正始中(240〜49)、転じて徐州に在任し、武観亭侯に封じられ、征南将軍に遷って仮節・都督荊豫諸軍事となった。王昶が考えるに 「国には定まった軍兵があるが、戦さには常勝という事は無く、地勢には定まった険阻はあるが、守備には不変の勢いというものは無い。今は宛に駐屯し、襄陽を去ること三百余里であり、諸軍は散屯し、船は宣池に在り、危急があっても相い赴くのに不充分だ」 と。かくして上表して新野に治所を徙し、(襄陽東郊の)三州口[※]で水軍を習練し、農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。

※ 宛と新野はともに荊州に属しているので、筑摩訳に従って二州ではなく三州口としました。
 で、これまで宛に駐屯していた軍というのは、主に揚州(合肥)と荊州(江陵)の危急に備える為に置かれた中央軍で、謂わば南面総司令部とでも謂うべきものです。これを荊州寄りの新野に遷したという事は、南面管区が荊州方面と揚州方面に二分された事に他ならず、屯田によって各地の生産力が回復したからこそ可能となった措置でしょう。南面管区の分割によって東方では寿春の軍事基地化が進みましたが、後に揚州で連発した兵乱が中央を震撼させた素地もこれによるものです。

 嘉平初、太傅司馬宣王既誅曹爽、乃奏博問大臣得失。昶陳治略五事:其一、欲崇道篤學、抑絶浮華、使國子入太學而脩庠序;其二、欲用考試、考試猶準繩也、未有舍準繩而意正曲直、廢黜陟而空論能否也;其三、欲令居官者久於其職、有治績則就揶ハ賜爵;其四、欲約官實祿、勵以廉恥、不使與百姓爭利;其五、欲絶侈靡、務崇節儉、令衣服有章、上下有敍、儲穀畜帛、反民於樸。詔書褒讚。因使撰百官考課事、昶以為唐虞雖有黜陟之文、而考課之法不垂。周制冢宰之職、大計羣吏之治而誅賞、又無校比之制。由此言之、聖主明於任賢、略舉黜陟之體、以委達官之長、而總其統紀、故能否可得而知也。其大指如此。

 嘉平の初(249)、太傅司馬懿は曹爽を誅すると、上奏して博く大臣に得失を問うた。王昶は治略五事を陳べた。
其一、道義を崇び学問を篤くする事。浮華を抑絶し、国子(諸侯・公卿の子弟)には太学に入らせて庠序(郷校)(制度)を修整すること。
其二、考試(考課=勤務評定)を機能させる事。考試とは準縄(規矩=規範)のようなもので、未だに準縄を捨てて曲直を正そうと意(おも)い、黜陟の法を廃して能と否とを論ずることなど有り得なかった。
其三、官をその職に久しく置かせる事。治績があれば現地で位を増し爵を賜う事。
其四、官を省約して秩禄を充実させる事。廉恥の心を励まして百姓を利を争わせない事。
其五、侈靡を禁絶して節倹を崇ぶに務めること。衣服には(位階に応じた)章飾を着けさせる事で上下とも序列を持たせ、儲穀・蓄帛(穀・布の備蓄)して民を質樸(質朴)に返すこと。
詔書で褒讚された。これによって『百官考課事』が撰修された。
 王昶が考えるに 「唐虞には黜陟(罷免と降格)の文章があるとはいえ、考課の方法は垂(つた)えられていない。周は冢宰の職を制定し、大いに群吏の治績を計って誅賞したが、又た校比(考課)の制度は無かった。これによって言うなら、聖主は賢者の任用を明確にして黜陟の根幹をあらまし示し、(運用は)達官貴人の長に委ね、その統紀を総べたのだ。ゆえに能否を知ることができたのだ」 。その大旨はこの通りだった。

 二年、昶奏:「孫權流放良臣、適庶分爭、可乘釁而制呉・蜀;白帝・夷陵之間、黔・巫・秭歸・房陵皆在江北、民夷與新城郡接、可襲取也。」乃遣新城太守州泰襲巫・秭歸・房陵、荊州刺史王基詣夷陵、昶詣江陵、兩岸引竹絙為橋、渡水撃之。賊奔南岸、鑿七道並來攻。於是昶使積弩同時倶發、賊大將施績夜遁入江陵城、追斬數百級。昶欲引致平地與合戰、乃先遣五軍案大道發還、使賊望見以喜之、以所獲鎧馬甲首、馳環城以怒之、設伏兵以待之。績果追軍、與戰、克之。績遁走、斬其將鍾離茂・許旻、收其甲首旗鼓珍寶器仗、振旅而還。王基・州泰皆有功。於是遷昶征南大將軍・儀同三司、進封京陵侯。毌丘儉・文欽作亂、引兵拒儉・欽有功、封二子亭侯・關内侯、進位驃騎將軍。諸葛誕反、昶據夾石以逼江陵、持施績・全熙使不得東。誕既誅、詔曰:「昔孫臏佐趙、直湊大梁。西兵驟進、亦所以成東征之勢也。」摎W千戸、并前四千七百戸、遷司空、持節・都督如故。甘露四年薨、諡曰穆侯。子渾嗣、咸熙中為越騎校尉。

 二年(250)、王昶が上奏するには 「孫権は良臣を配流放逐し、嫡庶が分れ争っており、釁(すき)に乗じて呉・蜀を制するべきです。白帝と夷陵の間の、黔・巫・秭帰・房陵は皆な江北に在り、民夷ともに新城郡と接しており、襲取できましょう」 と。
かくして新城太守州泰を遣って巫・秭帰・房陵を襲わせ、荊州刺史王基を夷陵に詣らせ、王昶を江陵に詣らせ、両岸から竹の絙(くみひも)を引いて橋とし、渡水してこれを撃った。賊は南岸に奔り、七道を開鑿して揃って来攻した。ここに王昶は積弩を同時に倶に発射させ、賊の大将の施績は夜間に江陵城に遁入し、追撃して数百の首級を斬った。王昶は平地に引致して合戦したく思い、かくして先ず五軍を遣って大道を調べて還らせ、賊に望見させて喜ばせ、獲た鎧馬甲首に城の周囲を馳せさせてこれを怒らせた上、伏兵を設けて待った。施績が果たして軍を追ったので、戦って克った。施績は遁走し、その将の鍾離茂・許旻を斬り、その甲首や旗鼓・珍宝・器仗を接収して、軍旅を賑わせて還った。

 この戦いは、魏志・呉志ともに自国が勝ったと主張しています。施績伝での戦況を併せて考えると、諸葛融の怠慢もあって野戦では王昶が勝ったものの、当初の目的である江北諸城や江陵の襲取は果たせず、呉の辛勝といった処の様です。

王基・州泰にも皆な功があった。ここに王昶は征南大将軍・儀同三司に遷り、京陵侯に進封された。毌丘倹・文欽が乱を作すと、兵を引率して毌丘倹・文欽を拒ぐのに功があり、二子が亭侯・関内侯に封じられ、(自身は)驃騎将軍に進位した。諸葛誕が反くと、王昶は夾石に拠って江陵に逼り、施績・全熙と対峙して東行させなかった。諸葛誕が誅された後、詔にて 「昔、孫臏は趙を佐け、直ちに大梁に湊(あつま)った[※]。西兵が驟(すみや)かに進み、亦た東征の形勢を達成した理由である」 。

※ 趙が魏に攻められた時、孫臏は援兵を率いて魏都の大梁を急襲し、急ぎの旋還で疲弊した魏兵を大破した。所謂る囲魏救趙の策。

食邑千戸を増し、前と併せて四千七百戸となり、司空に遷り、持節・都督は以前通りだった。甘露四年(259)に薨じ、穆侯と諡された曰。子の王渾が嗣ぎ、咸熙中(264〜65)に越騎校尉となった[9]
 
[1] 『王氏譜』を調べた処、王昶の伯父の王柔は字を叔優といい、父の王澤は字を季道といった。
―― 王叔優・王季道は幼少の時、郭林宗に知人の鑒(人物鑑識眼)があると聞き、共に往って伺候し、才・行に適した途を問うて処すべき事業を請うた。郭林宗は笑って 「卿ら二人はともに二千石の才である。とはいえ叔優は仕官によって顕らかとなるべきで、季道は経術(儒学)によって進官するのが宜しく、もし才に違えて務めを易えれば、至らぬ事もあるだろう」 。叔優らはその言葉に従った。叔優は北中郎将、季道は代郡太守に至った。 (『郭林宗伝』)
[2] 兵は正法によって合戦し、奇を以て勝つ。奇と正とは還っては生じ合い、端が無く循環するようなものだ。 (『孫子兵法』)
[3] 范文子(范燮)が日暮れてから朝廷を退くと、(父の)范武子が 「どうして暮くなったのか?」 と。対えて 「秦からの客で朝廷で廋辞(隠喩)を用いる者があり、大夫にも対応できる者が莫く、私は三つが解りました」 。武子は怒り 「大夫は解らなかったのではなく、父兄に謙譲しただけなのだ。汝のような童っぱが三度も朝廷で人を掩うとは。私がいなくな(ってお前が国政に携わるようにな)れば、晋国は程なく亡びよう」 。これを杖で撃ち、その委笄を折った。 (『国語』)
―― 裴松之が調べた処、(『国語』が記す様に、)秦の客に対えたのは范燮である。これを范匄と云っているのは、おそらく誤りなのだ。
[4] 裴松之が考えるに、馬援のこの誡めは、切至(懇切)の言、不刊(不朽)の訓と謂うべきものである。凡そ人の過失を道(かた)るのは、居室で愆(あやま)りを謂うようなもので、人が知らない事を自ら発している事になる。行為の如きなら、得失は已に世に暴かれており、その善悪によって誡めにでき、これを前者に比べれば愈(すぐ)れている。しかし馬援の誡めは龍伯高の美点を称え、杜季良の悪点を言うもので、(その評価を)時の君主に徹(とど)かせる事態を招致し、杜季良はそのため敗れた[※]。言葉が人を傷うことこれより大きいものがあろうか? その誡めとは自ずと違伐(矛盾)し合っている。

※ 馬援が甥を戒めた書状は、親友の龍伯高と杜季良を譬えに引き、堅実な龍伯高を模しても義侠の人として慕われている杜季良に倣わぬよう諭したものです。後に杜季良は罷免されますが、原因は馬援の手紙ではなく、あくまでも公法風紀を乱す事が問題とされたものでした。この手紙が上覧されたのは杜季良の処罰後で、結果、龍伯高が太守に抜擢された一方、杜季良と交際を続けていた貴顕子弟が譴責されました。譴責された側が馬援を逆恨みし、その讒言で馬援の死後に馬家が没落するという余禄が伴います。

[5] 黄初中、孫権が章表を通じた。曹偉は白衣(布衣のなり)のまま江辺に至り、孫権と文書を交して賄賂を求め、その資によって京師と交結しようとした。ゆえに誅した。 (『世語』)
[6] 郭伯益の諱名は奕といい、郭嘉の子である。
[7] 裴松之が考えるに、王文舒は馬文淵に擬し、人の失点を顕らさまに言ったのだ。魏諷・曹偉は悪逆の事に陥ちたのだから、著らさまに誡めとしても、いささかも尤(とが)めるべくはない。郭伯益・劉公幹の如きに至っては、その人は皆な往生して善悪の評価が定まっているとはいえ、昔には交友したのであり、今になって毀るのは妥当ではなく、しかも翰墨(文書)によって形として永らく後葉(後世)に伝える行為は、旧交に対しては久要(古い誓い)の義に違え、子孫に対しては人の前世の悪点を揚げている。鄙人(裴松之)が懐うに、決して採取しないものだ。善いかな、東方朔が子を誡めるのに、首陽(に隠棲した伯夷・叔斉の処世)を拙しとして柳下恵[※]を工みとし、古人に旨を寄せて時の人を傷なわないのは。馬援・王昶に比べて何と遠き事だろうか!

※ 柳下恵は魯の賢大夫。自身は清直だったが、君主の賢愚、朝廷の清濁を問わず仕え、ひたすら職責と行節を全うした。自身の潔癖さを他人にも求め、居処を厳選した伯夷と比較される。

[8] 任昭先の諱名は嘏。
―― 任嘏は楽安博昌の人。歴世の著姓であり、夙に智と人格が成熟し、ゆえに郷人はこれを語るに 「蔣氏の翁、任氏の童」 と。
父の任旐は字を子旟といい、至行によって称えられていた。漢末に黄巾賊が起こり、天下は饑荒して人民は相い食らった。寇賊は博昌に到って任旐の姓字を聞くと、謂い合うには 「かねて聞く処では、任子旟は天下の賢人だ。今、賊となったとはいえ、その郷に入ってよいものか?」 かくて相い帥いて去った。これによって名声は遠近に聞こえ、州郡が揃って招いて孝廉に挙げ、酸棗令・祝阿令を歴任した。

 いきなり妙な話になっていますが、遠来の黄巾が、かねて名声を耳にしていたのに、彼らが避けた事でようやく州郡に認識されたと言っています。歴世の著姓であったとしても、せいぜい県レベルのちょっと名士に過ぎず、この件で門地ではなく任旐本人が注目されるようになったというあたりでしょうか。

任嘏が八歳で母を喪った時、号泣の声は絶えず、自然な哀情は成人と同じで、ゆえに幼くして至性だと称えられた。齢十四で学び始め、疑義については二度は問わず、三年のうちに五経を誦し、皆なその意義を究め、群言(群書)を兼包(包摂)して綜覧せぬものは無く、当時の学ぶ者は神童と呼号した。荒乱に遇った後は家が貧しかったので魚を売り、官が魚に課税すると魚価は数倍に騰貴したが、任嘏が代金を取るのは以前通りだった。又た人と共に生口を買った時、各々が八匹分を雇(か)った[※]。後に生口の家主が贖いに来たが、時価は六十匹に値した。共に買った者は時価によって贖金を取ろうとしたが、任嘏は本来の価の八匹分を取った。共に買った者は慚じ、亦た本来の価を取って還した。

※ 筑摩本では生口を家畜=牲口と訳しています。単位が“匹”なのでそれもアリかと思いましたが、“雇”で支払いを意味したり、生口の旧主を“家”と書いたりしているので、生口はオーソドックスに奴婢の事を、匹は布帛の単位を指していると思われます。

近隣に居住する者が勝手に任嘏の土地数十畝を耕して播種した。人が任嘏に語った処、任嘏は 「私自身が借したのです」 と。耕作者はこれを聞くと、慚じて陳謝して土地を還した。邑中に争訟があると、皆な任嘏に詣って質し、その後に意を厭(しず)めた。子弟に順わぬ者があると、父兄が竊かに責めるには 「汝の所行が任君に知られてもいいのか!」 と。その礼教が感化するのはおおよそ皆なこの通りだった。

 以上、司馬彪の『続漢書』にある曹節の逸話とソックリの出来です。他にも同じようなエピソードを持つ人を何かで読んだ気がしますが、隠士に対する記号的な逸話なのでしょう。

 折しも曹操は創業にあたって海内の至徳者を召し、任嘏はその薦挙に該当し、臨菑侯庶子・相国東曹属・尚書郎となった。文帝の時、黄門侍郎となった。忠言を奉納する毎に手書した原本を懐中にし、書が(上に)帰すまで封をしなかった。帝はその淑慎を嘉し、東郡・趙郡・河東の太守を累遷させたが、所在で教化が行なわれ、(離任後も)余教の風が遺された。任嘏の為人りは淳粋凱悌(純粋柔和)で、己れを虚しくすること足りない点があるかのようで、恭敬なこと畏れるものがあるかのようだった。身を修め義を履むこと何れも沈黙潜行したのでその美は顕われず、ゆえに時人で称える者は少なかった。著書は三十八篇、凡そ四万余言。任嘏が卒した後、もとの下吏である東郡の程威・趙国の劉固・河東の上官崇らがその行ない及び著書を記録して上奏した。詔が秘書に下され、群言(諸書)を総採させた。 (『別伝』)
[9] 『晋書』を調べた処、王渾は越騎校尉の時に晋に入り、累ねて方面の任に居り、平呉に功があって一子は江陵侯に封じられ、(自身の)位は司空に至った。
 王渾の子の王済は字を武子といい、雋才にして令名・名望があり、河南尹・太僕となった。早くに卒し、驃騎将軍を追贈された。王渾の弟の王深は冀州刺史となった。王深の弟の王湛は字を処沖といい、汝南太守となった。王湛の子の王承は字を安期といい、東海内史となった。王承の子の王述は字を懐祖といい、尚書令・衛将軍となった。王述の子の王坦之は字を文度といい、北中郎将や徐兗二州刺史となった。王昶の諸子の中で王湛が最も有徳との声誉があり、王承も亦た自ら名士を自任し、王述および王坦之も共に世に名を顕わし重んじられ、当時は盛門と云われた。王湛より以下の事跡は『晋陽秋』に見られる。
 

Top