三國志修正計画

三國志卷四 魏志四/三少帝紀 (一)

斉王紀

 齊王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢;宮省事祕、莫有知其所由來者。青龍三年、立為齊王。景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。是日、即皇帝位、大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽・太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身、繼承鴻業、煢煢在疚、靡所控告。大將軍・太尉奉受末命、夾輔朕躬、司徒・司空・冢宰・元輔總率百寮、以寧社稷、其與羣卿大夫勉勗乃心、稱朕意焉。諸所興作宮室之役、皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上、免為良人。」二月、西域重譯獻火浣布、詔大將軍・太尉臨試以示百寮

 斉王、諱は芳、字は蘭卿。明帝には子が無く、斉王および秦王詢を養ったが、宮省では事を祕めてその由来を知る者は莫かった[1]

 三代目の由来が不明なのは西漢と同じです。西漢ではこのとき呂后が朝廷を牛耳っていました。今回、呂后は居ませんが立場的に曹爽がそんな感じです。乳幼児でもない天子の出生が不明なのは魏の史官がザルなのか、呂氏の役割を曹爽に負わせる政治的な意図なのか。

青龍三年(235)に立てて斉王とされた。景初三年正月丁亥朔(238年12月1日)、明帝は病が甚だしくなり、かくして立てて皇太子とした。この日、皇帝の位に即いて大赦し、皇后を尊んで皇太后とし、大将軍曹爽・太尉司馬懿が輔政した。
 司馬懿を侍中に遷して持節・都督中外諸郡・録尚書事とし、曹爽と各々兵三千人を統べて共に朝政を執らせ、交々殿中に宿衛させた。 (『晋書』)
詔 「朕は眇(かすか)な身であり、鴻業を継承し、煢煢(孤独の身)として疚(病)に在り、控告する先が靡(な)い。大将軍・太尉は終末の命令を奉受し、朕の躬を夾(はさ)み輔け、司徒・司空・冢宰・元輔は百寮を総率して社稷を寧んじ、群卿・大夫と与に勉め勗(はげ)み朕の意に称(かな)えよ。諸々の興作した宮室の役は皆な遺詔によって罷めよ。官の奴婢の六十歳以上は免じて良人とせよ」 二月、西域が翻訳を重ねて火浣布を献じ、詔して大将軍・太尉に臨試させて百寮に示した[2]

 丁丑詔曰:「太尉體道正直、盡忠三世、南擒孟達、西破蜀虜、東滅公孫淵、功蓋海内。昔周成建保傅之官、近漢顯宗崇寵ケ禹、所以優隆雋乂、必有尊也。其以太尉為太傅、持節統兵都督諸軍事如故。」三月、以征東將軍滿寵為太尉。夏六月、以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界、以故縱城為新沓縣以居徙民。秋七月、上始親臨朝、聽公卿奏事。八月、大赦。冬十月、鎮南將軍黄權為車騎將軍。
 十二月、詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正;雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正、其以建寅之月為正始元年正月、以建丑月為後十二月。」

 丁丑に詔した 「太尉は道を体現して正直(せいちょく)であり、三世に尽忠し、南は孟達を擒え、西は蜀虜を破り、東は公孫淵を滅ぼし、功は海内を蓋っている。昔、周成王が保傅の官を建て、近きは漢の顕宗(明帝)がケ禹を崇寵したのは、雋乂(俊賢)を優隆して尊ぶようにする為である。太尉を太傅とし、持節による統兵や諸軍の都督は故通りとせよ」

 一般に“司馬懿奪権の詔”というやつです。ここには記されていませんが、奏事に関与できる録尚書事の権限を外す事で、ただの重臣にしたものです。枢機に参与できなくなっただけで、軍事統帥権は失っていません。現に翌々年には軍を率いて出征しています。曹爽の意図はせいぜい、政権中枢を宗室で固めて曹氏による統制力を強化しようというものです。司馬懿を排除とか疎外とかの悪意は殆ど感じられません。
 また、朝廷では存在感を示さない司馬懿が軍事指揮官になると溌剌とするのも事実なので、意外と司馬懿の嗜好を尊重した措置だったのかも知れません。

 曹爽は帝に言上して司馬懿を大司馬に徙した。朝議にて歴代の大司馬が在任のまま歿する事が多いので、(忌んで)司馬懿を太傅とし、入殿不趨・賛拝不名・剣履上殿とした。 (『晋書』)
三月、征東将軍満寵を太尉とした。夏六月、遼東の東沓県の吏民が渡海して斉郡に居住し、そのため旧の縦城を新沓県として民を徙して居住させた。秋七月、上が始めて親しく臨朝し、公卿の奏事を聴いた。八月、大赦した。冬十月、鎮南将軍黄権を車騎将軍とした。
 十二月、詔 「烈祖明皇帝は正月に天下を棄背し、臣子は永らく忌日の哀を惟(おも)っており、復た夏正を用いよ。先帝の三統の義に違えるとはいえ、これも亦た礼制を変改する理由となる。又た夏正は暦数に於いて天正を得ており、(翌年の)建寅の月を正始元年正月とし、建丑月を後の十二月とせよ

 明帝が改訂した変な暦は3年で廃止されました。尤もこれは正月の置き場を立春月に戻しただけで、景初暦の天体の運行予測は継続です。

 正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放・侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌、以遼東汶・北豐縣民流徙渡海、規齊郡之西安・臨菑・昌國縣界為新汶・南豐縣、以居流民。
自去冬十二月至此月不雨。丙寅、詔令獄官亟平寃枉、理出輕微;羣公卿士讜言嘉謀、各悉乃心。夏四月、車騎將軍黄權薨。秋七月、詔曰:「易稱損上益下、節以制度、不傷財、不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物、將奚以為?今出黄金銀物百五十種、千八百餘斤、銷冶以供軍用」八月、車駕巡省洛陽界秋稼、賜高年力田各有差。

 正始元年正月、東倭が通訳を重ねて貢納した。 (『晋書』)
 正始元年(240)春二月乙丑、侍中・中書監劉放と侍中・中書令孫資に左右光禄大夫を加えた。丙戌、遼東の汶・北豊県の民が渡海して流徙し、斉郡の西安・臨菑・昌国県の境域を規(はか)って新汶・南豊県とし、流民を居住させた。
去る冬の十二月よりこの月に至るまで雨が降らなかった。丙寅、詔して獄官に亟(すみや)かに冤罪・枉法を平治し、軽微の罪を審理して出獄させ、群公・卿士は讜言(直言)嘉謀にて各々心を尽すよう命じた。夏四月、車騎将軍黄権が薨じた。秋七月、詔 「『易』では『損上益下』『節以制度、不傷財、不害民』とある。まさに今、百姓は不足して御府では金銀の雑物を多く作っているのはどうした事か?今、黄金や銀物の百五十種を出すこと千八百余斤。銷冶(鎔解)して軍用に供せよ」 八月、車駕が洛陽界隈の秋の収稼を巡察し、老齢者や勤農者に賜ること各々差があった。

 二年春二月、帝初通論語、使太常以太牢祭孔子於辟雍、以顏淵配。
 夏五月、呉將朱然等圍襄陽之樊城、太傅司馬宣王率衆拒之。六月辛丑、退。己卯、以征東將軍王淩為車騎將軍。冬十二月、南安郡地震。

 二年(241)春二月、帝が初めて『論語』に通講し、太常に太牢にて辟雍で孔子を祭らせ、顏淵を配(あわ)せ祭った。
 夏五月、呉の将軍の朱然らが襄陽郡の樊城を攻囲し、太傅司馬懿が軍勢を率いて拒いだ[3]。六月辛丑、(呉兵が)退いた。己卯、征東将軍王淩を車騎将軍とした。

 今回の呉の来攻は全jによる芍陂攻略がメインです。朱然の役割は究極的には陽動に過ぎません。王淩の車騎将軍昇任は、芍陂で最も活躍した事に対する行賞です。本紀は王朝の推移を把握するのに重宝ですが、意図的に抜かれている記事もあるので気が抜けません。

 七月、司馬懿の食邑を四県に増して一万戸とし、子弟十一人を皆な列侯とした。 (『晋書』)
冬十二月、南安郡に地震があった。

 三年春正月、東平王徽薨。三月、太尉滿寵薨。秋七月甲申、南安郡地震。乙酉、以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月、魏郡地震。

 三年(242)春正月、東平王曹徽が薨じた。三月、太尉満寵が薨じた。
 三月、司馬懿は広漕渠を開鑿して黄河を汴水に入れ、淮北を灌漑するよう上奏した。又た皖(安徽省安慶市潜山)の諸葛恪の討伐を建議した。 (『晋書』)

 当時、諸葛恪は六安に出動して人狩りしつつ寿春へのルートを調査しています。

秋七月甲申、南安郡に地震があった。乙酉、領軍将軍蔣済を太尉とした。冬十二月、魏郡に地震があった。

 四年春正月、帝加元服、賜羣臣各有差。夏四月乙卯、立皇后甄氏、大赦。五月朔、日有食之、既。秋七月、詔祀故大司馬曹真・曹休・征南大將軍夏侯尚・太常桓階・司空陳羣・太傅鍾繇・車騎將軍張郃・左將軍徐晃・前將軍張遼・右將軍樂進・太尉華歆・司徒王朗・驃騎將軍曹洪・征西將軍夏侯淵・後將軍朱靈・文聘・執金吾臧霸・破虜將軍李典・立義將軍龐コ・武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

 四年(243)春正月、帝が元服を加え、群臣に下賜すること各々差があった。夏四月乙卯、甄氏文昭后の弟の孫)を皇后に立て、大赦した。五月朔、日蝕があり、皆既だった。秋七月、詔して故人たる大司馬曹真・曹休・征南大将軍夏侯尚・太常桓階・司空陳羣・太傅鍾繇・車騎将軍張郃・左将軍徐晃・前将軍張遼・右将軍楽進・太尉華歆・司徒王朗・驃騎将軍曹洪・征西将軍夏侯淵・後将軍朱霊・文聘・執金吾臧霸・破虜将軍李典・立義将軍龐徳・武猛校尉典韋を太祖の廟庭で祀った。

 時の朝廷が魏の元勲として誰を重視しているかの一覧でもあります。夏侯惇・曹仁・程cは既に明帝の青龍元年に合祀され、翌年には遅ればせながら荀攸も祀られます。違和感があるのは郭嘉・許褚の名が無い事で、荀攸を合祀した際に裴松之も指摘しています。

 九月、司馬懿は諸軍を督して諸葛恪を撃ち、軍が舒に宿ると諸葛格は城を捨てて(柴桑に)遁走した。司馬懿は渠陂(運河と堤)を開鑿・修築して淮北に屯田を大いに興し、潁水の南北だけでも万余頃に達し、穀庫は相い望んで寿陽から京師に至るまで農官・屯兵が連属した。 (『晋書』)
冬十二月、倭国の女王の俾弥呼が遣使して奉献した。

 五年春二月、詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔、日有蝕之。五月癸巳、講尚書經通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顏淵配;賜太傳・大將軍及侍講者各有差。丙午、大將軍曹爽引軍還。秋八月、秦王詢薨。九月、鮮卑内附、置遼東屬國、立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯、詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。己酉、復秦國為京兆郡。十二月、司空崔林薨。

 五年(244)春二月、詔して大将軍曹爽に軍勢を率いて蜀を征伐させた。夏四月朔、日蝕があった。五月癸巳、『尚書経』の講義を通了し、太常に太牢にて辟雍で孔子を祀らせ、顔淵を合祀した。太傳・大将軍および侍講者に下賜して各々差があった。丙午、大将軍曹爽が軍を引き揚げ帰還した。
秋八月、秦王曹詢が薨じた。九月、鮮卑が内附し、遼東属国を置き東漢のものとは別)、昌黎県を立ててこれに居らせた。冬十一月癸卯、詔して故人の尚書令荀攸を太祖廟庭で祀った。己酉、復た秦国を京兆郡とした。十二月、司空崔林が薨じた[4]

 六年春二月丁卯、南安郡地震。丙子、以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月、儼薨。八月丁卯、以太常高柔為司空。癸巳、以左光祿大夫劉放為驃騎將軍、右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月、祫祭太祖廟、始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥、詔故司徒王朗所作易傳、令學者得以課試。乙亥、詔曰:「明日大會羣臣、其令太傅乘輿上殿。」

 六年(245)春二月丁卯、南安郡に地震があった。丙子、驃騎将軍趙儼を司空とし、夏六月に趙儼が薨じた。八月丁卯、太常高柔を司空とした。癸巳、左光禄大夫劉放を驃騎将軍とし、右光禄大夫孫資を衛将軍とした。
 八月、曹爽が中塁営・中堅営を毀ち、その兵を弟の中領軍曹羲に属させた。司馬懿は先帝の旧制だとして禁じたが聴かれなかった。 (『晋書』)
冬十一月、太祖廟に祫祭(祖宗を合祀)し、始めて前に論功した佐命の臣二十一人を祀った。
十二月辛亥、詔して故司徒王朗の作った『易伝』を学者の課試にするよう命じた。

 これまで主流だった鄭玄的解釈の『易』に対抗する、王朗的『易』を受験科目に採用しました。王朗易がどんなものかは王朗伝を読めば解るのかも知れませんが、はっきり云って学術のあれこれを検討するのは詔勅や上奏以上に性に合わないので、既存の資料から解釈します。
王朗の思想を知るには子の王粛にあたれば外れはしない筈。王粛の学問は反鄭玄。『中国文化史大事典』によれは、『礼』解釈を中心として鄭玄説を否定したらしい。漢魏禅譲が論拠とした鄭玄説を否定する事で、司馬氏を肯定したとかしないとか。易じゃないじゃん。ま、何にしても王粛礼は西晋の官学の主流となります。なんたって王粛は司馬昭の舅で、司馬炎には実の外祖父にあたります。旧来の価値観を否定して新風を提唱した点は、明帝や、何晏ら浮華の徒、竹林七賢にも通じ、これはこれで時代の潮流に従った人ではあります。
尚お、この時代の易学といえば寧ろ王粛らと対立した何晏王弼の方が有名で、こちらは『易』の儒学的解釈すら否定したものです。因みに王弼の学問は荊州学で、元を辿れば蔡邕に由来し、王粛と同じ豫州閥に連なります。一方の鄭玄は馬融に師事したとはいえ孔融と同じ青州閥系で、魏に入ってからの学問の修正が郷党意識に支えられていた事も無視できません。

乙亥、詔 「明日(正月朔)に大いに群臣を朝会させる際、太傅は乗輿にて上殿するように」

 七年春二月、幽州刺史毌丘儉討高句驪、夏五月、討濊貊、皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申、詔曰:「屬到市觀見所斥賣官奴婢、年皆七十、或癃疾殘病、所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之、進退無謂、其悉遣為良民。若有不能自存者、郡縣振給之。」
 己酉、詔曰:「吾乃當以十九日親祠、而昨出已見治道、得雨當復更治、徒棄功夫。毎念百姓力少役多、夙夜存心。道路但當期于通利、聞乃撾捶老小、務崇脩飾、疲困流離、以至哀歎、吾豈安乘此而行、致馨コ于宗廟邪?自今已後、明申勑之。」冬十二月、講禮記通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顏淵配。

 七年春正月、呉が柤中に寇し、夷・夏の住民万余家が賊を避けて沔水の北に渡った。曹爽はこれを強制送還し、司馬懿は反対したものの聴かれなかった。 (『晋書』)
 七年(246)春二月、幽州刺史毌丘倹が高句驪を討ち、夏五月には濊貊を討ち、皆な破った。韓の那奚ら数十国が各々種落を率いて詣降した。

 公孫淵討伐では協力的だった高句麗が、各種軋轢から反抗的となったので討った、というものです。高句麗による妨害が消えたので三韓の地の諸小国が魏に通貢するようになりました。そういえば邪馬台国の朝貢も公孫淵の敗滅で遼東の風通しが良くなった為でした。
朝貢する側にとって朝貢貿易の利点は貢物に数倍する恩賜と、宗主国の後ろ盾を示威できること。恩賜の使い途が無かったり、周辺勢力が宗主国の実力を理解していなかったりすると朝貢の旨味は激減です。高句麗や邪馬台国の対中外交が続かなかったのもその為でしょう。

秋八月戊申、詔 「属到(近頃)、市で斥売されている官奴婢を観ると、齢は皆な七十ほどで、癃疾(老衰)や残病(半病人)が居たりと、所謂る天の民の困窮者というもので、しかも官はその力が竭(尽)きたとして復たこれを鬻(ひさ)いでいる。進退とも謂(いわれ)は無い(売買の是非を論じること自体無意味だ)。悉くを良民(の籍)に遣り、もし自存できぬ者があれば郡県は振給せよ。」[5]
 己酉、詔 「吾れは十九日に親しく祠ろうと思うが、過日に外出した際に既に道が整備されているのを見た。雨が降れば復た更に整備され、徒に功夫(労力)を棄てるものである。毎に百姓の力が少なく役が多い事を念い、夙夜(昼夜)に心に存(と)めている。道路とはただ通行の利便を期すものである。聞けば老人や小人に撾捶(鞭打)し、(路の)修飾を崇び務め、(百姓は)疲労困憊して流離し、哀歎するに至っているという。吾れはどうしてそのような路に乗って行き、宗廟に馨徳を報致できようか?これより以後、明らかにこれを命じる」 冬十二月、『礼記』の講義を通了し、太常に太牢にて辟雍で孔子を祀らせ、顔淵を合祀した[6]

 八年春二月朔、日有蝕之。夏五月、分河東之汾北十縣為平陽郡。
 秋七月、尚書何晏奏曰:「善為國者必先治其身、治其身者慎其所習。所習正則其身正、其身正則不令而行;所習不正則其身不正、其身不正則雖令不從。是故為人君者、所與游必擇正人、所觀覽必察正象、放鄭聲而弗聽、遠佞人而弗近、然後邪心不生而正道可弘也。季末闇主、不知損益、斥遠君子、引近小人、忠良疏遠、便辟褻狎、亂生近暱、譬之社鼠;考其昏明、所積以然、故聖賢諄諄以為至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』、言慎所近也、周公戒成王曰『其朋其朋』、言慎所與也。書云:『一人有慶、兆民ョ之。』可自今以後、御幸式乾殿及游豫後園、皆大臣侍從、因從容戲宴、兼省文書、詢謀政事、講論經義、為萬世法。」
冬十二月、散騎常侍諫議大夫孔乂奏曰:「禮、天子之宮、有斲礱之制、無朱丹之飾、宜循禮復古。今天下已平、君臣之分明、陛下但當不懈于位、平公正之心、審賞罰以使之。可絶後園習騎乘馬、出必御輦乘車、天下之福、臣子之願也。」晏・乂咸因闕以進規諫。

 八年(247)春二月朔、日蝕があった。
 四月、曹爽らが太后を永寧宮に遷し、朝政を専断し、兄弟で禁兵を典り、朋党を立ててしばしば制度を改めた。五月、司馬懿は禁じることが出来ずに曹爽と不和となり、病を称して政事に参与しなくなった。 (『晋書』)

 兄弟での典禁兵はウソです。少なくとも中護軍には司馬師が就いています。まだトドメを刺していない政敵の息子を軍の要職に就けるこの不自然さ。司馬懿の隠居が真っ当な理由によるものか、司馬懿と司馬師が不和でないと成り立ちません。

夏五月、河東郡の汾北の十県を分けて平陽郡とした。

 晋の平陽郡は平陽・楊・端氏・永安・蒲子・狐讐・襄陵・絳邑・濩沢・臨汾・北屈・皮氏県で構成。

 秋七月、尚書何晏が上奏した

「善く国を為す者は必ず先ずその身を治め、その身を治める者は習う所(日常の行動)を慎み、習う所が正しければその身は正しく、その身が正しければ命じなくとも行なわれるとか。習う所が正しくなければその身は正しからず、その身が正しくなければ命令しても従われません。このため人君たる者は交遊にも必ず正しき人を択び、観覧にも必ず正しき事象を察し、鄭声(淫靡な楽)を放逐して聴かず、佞人を遠ざけて近づけず、しかる後に邪心を生じさせずに正道を弘るものです。季末の闇主はその損益を知らず、君子を斥遠して小人を引近し、忠良を疏遠にして褻狎を辟(め)し、乱が近暱(近臣)より生じました。譬えるなら社の鼠であります。人君の昏と明を考察するに、累積を以てそのようになるのであり、だから聖賢は諄諄(慎み深く)として至極の思慮を為すのです。舜が禹を戒めた 『鄰哉鄰哉』 とは近親に慎む事を言い、周公が成王を戒めた 『其朋其朋』 とは与にする者に慎む事を言ったのです。『書経』では 『一人(天子)に慶事あれば、兆民がこれに頼る』 と云います。今より以後、式乾殿への御幸および後園での游行には大臣を皆な侍従させ、従容として戯宴する際には同時に文書を省み、政事を詢謀(諮問)し、経書の意義を講論して万世の法となされますよう」 宮中どこでも大臣を随行させ、折々に諮問できるようになさい。

冬十二月、散騎常侍・諫議大夫の孔乂が上奏した

「『礼』では天子の宮(の装飾)に斲礱(彫刻と研磨)の制はありますが、朱丹による装飾の事はありません。『礼』に循って復古されるのが妥当です。今、天下は既に平らぎ、君臣の分は明らかで、陛下はただ(天子の)位の事を怠らず、公正の心を平らぎ、賞罰を審らかにして行使なさいますよう。後園で騎乗を習い馬に乗る事を絶やし、出るには必ず輦を御し車に乗られませ。(これぞ)天下の福であり臣子もこれを願うものであります 柱の朱塗りや、馬に乗ってはイケマセン。」 。

何晏・孔乂は咸な闕(欠点)について規諫を進言したものである。

 九年春二月、衞將軍中書令孫資、癸巳、驃騎將軍中書監劉放、三月甲午、司徒衞臻、各遜位、以侯就第、位特進。四月、以司空高柔為司徒;光祿大夫徐邈為司空、固辭不受。秋九月、以車騎將軍王淩為司空。冬十月、大風發屋折樹。

 九年(248)春二月、衛将軍・中書令の孫資が、癸巳に驃騎将軍・中書監の劉放が、三月甲午に司徒衛臻が各々位を遜(ゆず)り、諸侯として第宅に就いて特進に位した。四月、司空高柔を司徒とした。光禄大夫徐邈を司空としたが、固辞して受けなかった。秋九月、車騎将軍王淩を司空とした。冬十月、大風が家屋を発き樹木を折った。

 曹爽らによる宗室強化が更に推進されたようですが、曹氏と縁の深い衛臻まで致仕している点が無視できません。衛臻伝では 「曹爽の接近を避けた」 とあります。これが名族の一員としての行動だとすれば、高柔と違って後ろ盾のない非名族の徐邈が司空就任を拒否ったのも一種の派閥表明となり、曹氏に対する支持率が結構ヤバかった事が想像されます。

 嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽・爽弟中領軍羲・武衞將軍訓・散騎常侍彦官、以侯就第。戊戌、有司奏收黄門張當付廷尉、考實其辭、爽與謀不軌。又尚書丁謐・ケ颺・何晏・司隸校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範皆與爽通姦謀、夷三族。語在爽傳。丙午、大赦。丁未、以太傅司馬宣王為丞相、固讓乃止。

 嘉平元年(249)春正月甲午、車駕が高平陵に謁した[7]。太傅司馬懿が大将軍曹爽・曹爽の弟の中領軍曹羲・武衛将軍曹訓・散騎常侍曹彦の官を免じ、列侯として第宅に就く事を上奏した。
 司馬懿は曹爽を誅しようという時、謀を秘めて司馬師とだけ図り、直前まで司馬昭にも知らせなかった。知らせた後に覗わせると、司馬師は常の如くであり、司馬昭は落ち着かない様子だった。この時、司馬師は中護軍であり、かねて養っていた死兵三千人を率いて司馬門に駐屯し、司馬懿は闕下に布陣した。司徒高柔を仮節・行大将軍事として曹爽の兵営を兼領させ、太僕王観を行中領軍として曹羲の兵営を統摂させた。 (『晋書』文帝紀・宣帝紀)

 潮目が好さげなので、ここでちょっと司馬父子の比較をしてみたかったのですが、さすがにスペースが足りません。結論だけ云うと、司馬懿はどうも朝廷での謀事は苦手なようで、対曹爽の兵変は司馬師が主導し、司馬懿は寧ろ従犯ではないかと。曹丕の時代から、司馬懿は朝廷に入った途端に精彩を欠いていますし、そもそもこの時点で隠棲している司馬懿より中護軍の司馬師の方が実権は大きいです。

戊戌、有司が上奏するには、黄門張当を収捕して廷尉に送付し、その辞述を考実(拷問によって実獲)したところ、曹爽と与に不軌を謀っており、又た尚書丁謐・ケ颺・何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範は皆な曹爽に通じて姦悪を謀っていたので三族を夷(たいら)げた。語は曹爽伝に在る。
丙午、大赦した。丁未、太傅司馬懿を丞相としたが、固譲によって停止した[8]

 司馬氏が秉権する端緒となったこの事件ですが、『晋書』本紀で補ってみると、司馬懿と司馬師の共同作業だった事が判ります。事前準備として司馬懿は痴呆症のフリ、司馬師は死兵の養成と埋伏。どうも司馬師の方が具体的に準備していたように見えます。もうちょっと内幕事情とか載ってると良かったんですが。

 夏四月乙丑、改年。丙子、太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯、以司空王淩為太尉。庚子、以司隸校尉孫禮為司空。

 夏四月乙丑、年号を(嘉平と)改めた。丙子、太尉蔣済が薨じた。冬十二月辛卯、司空王淩を太尉とした。庚子、司隸校尉孫礼を司空とした。

 二年夏五月、以征西將軍郭淮為車騎將軍。冬十月、以特進孫資為驃騎將軍。 十一月、司空孫禮薨。十二月甲辰、東海王霖薨。乙未、征南將軍王昶渡江、掩攻呉、破之

 二年春正月、洛陽に(司馬氏の)廟を立てることを司馬懿に命じ、子の司馬肜を平楽亭侯に、司馬倫を安楽亭侯に封じた。司馬懿が久しく病臥して朝請の任に耐えられないので、大事のある毎に天子が親しく臨邸して諮問する事とした。 (『晋書』)
 二年(250)夏五月、征西将軍郭淮を車騎将軍とした。冬十月、特進孫資を驃騎将軍とした。 十一月、司空孫礼が薨じた。十二月甲辰、東海王曹霖が薨じた。乙未、征南将軍王昶が長江を渡り、掩(たちまち/不意)に呉を攻めて撃退された。

 三年春正月、荊州刺史王基・新城太守〔州泰〕攻呉、破之、降者數千口。二月、置南郡之夷陵縣以居降附。
三月、以尚書令司馬孚為司空。四月甲申、以征南將軍王昶為征南大將軍。壬辰、大赦。丙午、聞太尉王淩謀廢帝、立楚王彪、太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅、淩自殺。六月、彪賜死。秋七月壬戌、皇后甄氏崩。辛未、以司空司馬孚為太尉。戊寅、太傅司馬宣王薨、以衞將軍司馬景王為撫軍大將軍、録尚書事。乙未、葬懷甄后於太清陵。庚子、驃騎將軍孫資薨。
十一月、有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者、更以官為次、太傅司馬宣王功高爵尊、最在上。十二月、以光祿勳鄭沖為司空。

 三年(251)春正月、荊州刺史王基・新城太守州泰が呉を攻めて破り、投降者が数千人あった。二月、南郡の夷陵県に降附者の居処を置いた。
三月、尚書令司馬孚を司空とした。四月甲申、征南将軍王昶を征南大将軍とした。壬辰、大赦した。
丙午、太尉王淩が廃帝の事と楚王曹彪の擁立を謀っていると聞き、太傅司馬懿が王淩に東征した。五月甲寅、王淩が自殺した。六月、曹彪に死を賜った。
秋七月壬戌、皇后甄氏が崩じた。辛未、司空司馬孚を太尉とした。戊寅、太傅司馬懿が薨じ、衛将軍司馬師を撫軍大将軍・録尚書事とした。乙未、懐甄后を太清陵に葬った。庚子、驃騎将軍孫資が薨じた。
十一月、有司が上奏するには、諸功臣で太祖廟での合祀に対応した者を更めて官職の席次に依り、太傅司馬懿は功高く爵位が尊貴なので最も上に在らせるようにと。十二月、光禄勲鄭沖を司空とした。

 四年春正月癸卯、以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月、立皇后張氏、大赦。夏五月、魚二、見於武庫屋上。冬十一月、詔征南大將軍王昶・征東將軍胡遵・鎮南將軍毌丘儉等征呉。十二月、呉大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。

 四年(252)春正月癸卯、撫軍大将軍司馬師を大将軍とした。
 この時、諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰・胡遵らが四方を都督し、王基・州泰・ケ艾・石苞らが州郡を典り、盧毓・李豊が選挙を掌り、傅嘏・虞松が計謀に参与し、鍾会・夏侯玄・王粛・陳本・孟康・趙鄷・張緝らが朝議に預かっていた。 (『晋書』)
二月、皇后に張氏を立て、大赦した。夏五月、魚二匹が武庫の屋上に出見した[9]。 冬十一月、詔して征南大将軍王昶・征東将軍胡遵・鎮南将軍毌丘倹らに呉を征伐させた。

 この出征は呉の国喪に乗じたものですが、四月に孫権が歿した事は意図的にスルーされています。中華帝国たるものが喪に乗じて侵攻したなんて書けるわけありません。 『晋書』に至っては五月の呉による合肥攻略に対処した事になっていて、孫権の喪中に出征した呉が悪の権化となっています。

十二月、呉の大将軍諸葛恪が拒戦(防戦)し、大いに東関に大軍を破った。(魏軍は)利あらず帰還した[10]

 五年夏四月、大赦。五月、呉太傅諸葛恪圍合肥新城、詔太尉司馬孚拒之。秋七月、恪退還。

 五年(253)夏四月、大赦した。五月、呉の太傅諸葛恪が合肥新城を囲み、詔して太尉司馬孚に拒がせた[11]。秋七月、諸葛恪が退還した[12]
 五月、呉将の諸葛恪が合肥新城を攻囲した。司馬師は(合肥の)毌丘倹・文欽に出撃を禁じ、数月して呉兵が退くところへ伏兵を設けて大破した。 (『晋書』)

 八月、詔曰:「故中郎西平郭脩、砥節詩s、秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡、為所執略。往歳偽大將軍費禕驅率羣衆、陰圖闚[門+兪]、道經漢壽、請會衆賓、脩於廣坐之中手刃撃禕、勇過聶政、功逾介子、可謂殺身成仁、釋生取義者矣。夫追加褒寵、所以表揚忠義;祚及後胤、所以奬勸將來。其追封脩為長樂郷侯、食邑千戸、諡曰威侯;子襲爵、加拜奉車都尉;賜銀千鉼、絹千匹、以光寵存亡、永垂來世焉。」
 自帝即位至于是歳、郡國縣道多所置省、俄或還復、不可勝紀。

 八月、詔 「故の中郎である西平の郭脩は、節を砥(みが)き行ないを(みが)き、心を秉(まも)って回(そむ)かなかった。かの者は蜀将姜維が郭脩の郡を寇鈔した際に執略された。往年に偽大将軍費禕が軍勢を駆り率いて陰かに闚[門+兪](窺覦/不遜な大望)を図り、道を漢寿(広元市元壩区)に経(と)って衆賓と嚥会した折、郭脩は広坐(満座)の中で手ずから費禕を刃で撃った。勇は聶政に過ぎ、功は傅介子を逾(こ)え、身を殺して仁を成したと謂うもので、生を釈(す)てて義を取った者である。追って褒寵を加えるのは、忠義を表彰し称揚する為である。祚(天恩)を後胤に及ぼすのは、将来に(忠義を)奨勧する為である。郭脩を長楽郷侯に追封し、食邑を千戸、諡を威侯とする。子に襲爵させ、加えるに奉車都尉に拝せ。銀千鉼、絹千匹を賜い、存と亡とに恩寵を光(あきら)かにし、永く後来の世に(範を)垂れよ」[13]
 帝が即位してよりこの歳に至るまで、郡・国・県・道の多くを置き、省き、或いは復置し、記すに勝(た)えない。

 六年春二月己丑、鎮東將軍毌丘儉上言:「昔諸葛恪圍合肥新城、城中遣士劉整出圍傳消息、為賊所得、考問所傳、語整曰:『諸葛公欲活汝、汝可具服。』整罵曰:『死狗、此何言也!我當必死為魏國鬼、不苟求活、逐汝去也。欲殺我者、便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息、或以語恪、恪遣馬騎尋圍跡索、得像還。四五人〔靮〕頭面縛、將繞城表、勑語像、使大呼、言『大軍已還洛、不如早降。』像不從其言、更大呼城中曰:『大軍近在圍外、壯士努力!』賊以刀築其口、使不得言、像遂大呼、令城中聞知。整・像為兵、能守義執節、子弟宜有差異。」詔曰:「夫顯爵所以褒元功、重賞所以寵烈士。整・像召募通使、越蹈重圍、冒突白刃、輕身守信、不幸見獲、抗節彌氏A揚六軍之大勢、安城守之懼心、臨難不顧、畢志傳命。昔解楊執楚、有隕無貳、齊路中大夫以死成命、方之整・像、所不能加。今追賜整・像爵關中侯、各除士名、使子襲爵、如部曲將死事科。」

 六年(254)春二月己丑、鎮東将軍毌丘倹が上言した

「昔、諸葛恪が合肥新城を囲んだ折、城中から兵士の劉整を遣って囲みを出て消息を伝えさせた処、賊の得る所となって伝言について拷問されました。劉整に語るには 『諸葛公は汝を活かしたく思っている。汝は具(つぶさ)に服(もう)せ』 劉整は罵り 『死狗めが何を言っておる!我は死んでも必ず魏国の(幽)鬼となるのだ。どうして生など求めよう。(鬼となって)逐って汝らを去らせようぞ。殺したくばさっさと殺せ』 と、ついに他を辞述しませんでした。又た兵士鄭像を遣って城を出て消息を伝えさせた処、諸葛恪に語る者があり、諸葛恪は騎馬を遣って営囲を尋ねて足跡を索(さぐ)らせ、鄭像を得て還りました。四五人で靮頭面縛(手綱で後ろ手に拘束)して城の表を繞らせ、鄭像に語らるに大声で呼ばわって『大軍は既に洛陽に還った。早々に降ったがよいぞ』と言わせようとした処、鄭像はその言葉に従わず、更めて大声で城中に呼ばわるには 『大軍は攻囲のすぐ外に来ている。壮士は力めて努めよ!』 と。賊は刀でその口を築(つ)いて復た言えなくしたが、鄭像は大声で呼ばわり、城中に聞かせ知らしめました。劉整・鄭像は(一介の)兵士であるのに能く義を守って節を執りました。子弟に宜しく差異(特別)(の恩寵)がありますよう」

「爵を顕かにするのは元功(大功)を褒賞する為であり、賞を重くするのは烈士を寵遇する為である。劉整・鄭像は召募にて通使となり、重囲を越踏して白刃を冒突した。軽き身で信を守り、不幸にして獲えられ、節を抗(まも)って彌(いよいよ)(きび)しく、六軍の大勢を昂揚して城守の懼心を安んじ、難に臨んで顧みず、志を畢(まっとう)して命令を伝えた。昔、解楊は楚に執われ、隕(落命)して貳心は無く、斉の路中大夫[※]は死を以て命令を達成した。それでも劉整・鄭像には加えるものはあるまい。今、追って劉整・鄭像に爵関中侯を賜い、各々を士の名簿から除き、子に襲爵させて部曲将の死亡事の科(条文)の通りにせよ」

※ 西漢の路卬。斉孝王の臣。呉楚の乱で臨淄が包囲されると長安への使命を果たしたが、帰還の途上で執われた。城内への長安陥落の通達とと降伏勧告を条件に助命されたところ、城外から呉王の敗滅と援軍の到来を告げて殺された。

 庚戌、中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣、以太常夏侯玄為大將軍。事覺、諸所連及者皆伏誅。辛亥、大赦。三月、廢皇后張氏。夏四月、立皇后王氏、大赦。五月、封后父奉車都尉王夔為廣明郷侯・光祿大夫、位特進、妻田氏為宣陽郷君。
秋九月、大將軍司馬景王將謀廢帝、以聞皇太后。甲戌、太后令曰:「皇帝芳春秋已長、不親萬機、耽淫内寵、沈漫女コ、日延倡優、縱其醜謔;迎六宮家人留止内房、毀人倫之敍、亂男女之節;恭孝日虧、悖慠滋甚、不可以承天緒、奉宗廟。使兼太尉高柔奉策、用一元大武告于宗廟、遣芳歸藩于齊、以避皇位。」是日遷居別宮、年二十三。使者持節送衞、營齊王宮於河内〔之〕重門、制度皆如藩國之禮。丁丑、令曰:「東海王霖、高祖文皇帝之子。霖之諸子、與國至親、高貴郷公髦有大成之量、其以為明皇帝嗣。」

 庚戌、中書令李豊が皇后の父の光禄大夫張緝らと、大臣(司馬師ら)を廃易して太常夏侯玄を大将軍にしようと謀った。事が発覚し、諸々の連及した者は皆な誅に伏した。辛亥、大赦した。三月、皇后張氏(張緝の娘)を廃した。夏四月、皇后に王氏を立て、大赦した。五月、后父の奉車都尉王夔を封じて広明郷侯とし、光禄大夫として位は特進とし、妻の田氏を宣陽郷君とした。
秋九月、大将軍司馬師が廃帝の事を謀り、皇太后に上聞した[14]。 甲戌、太后の令

「皇帝曹芳は春秋已長(元服済み)だのに万機に親しまず、内宮の寵妃に耽淫して女徳(女色)に沈漫し、日々倡優を延(はべ)らせ、その醜謔を縦(ほしいまま)にしている。六宮(皇后および五貴人)の家人を迎えて内房に留止し、人倫の秩序を毀ち、男女の節を乱し、恭孝は日々に虧(欠)け、悖慠(悖道傲慢)なこと滋(しげ)く甚しく、天緒を承け、宗廟を奉ずることは出来ない。兼太尉高柔に策(命令書)を奉じさせ、一元[※]を用いて宗廟で大武帝に告げ、曹芳を斉に帰藩させて皇位を避けさせよ」[15]

この日、遷って別宮に居した。齢は二十三だった。使者が持節にて送衛し、斉王の宮殿を河内の重門に営み、制度は皆な藩国の礼の通りだった[16]。丁丑、皇太后令 「東海王曹霖は高祖文皇帝の子である。曹霖の諸子は国家とは至親であり、(そのうちの)高貴郷公曹髦には大成の器量がある。明皇帝の継嗣とせよ」[17]

※ 筑摩版では犠牲の牛。元は首の意味があるので、一頭の首?

 
[1] 任城王曹楷曹彰の嗣子)の子だとも云う。 (『魏氏春秋』)
[2] 斯調国に火州があり、南海の中に在る。そこには野火があり、春夏に自ずと生じ、秋冬に自ずと消える。その中には木が生え、しかも消えることが無く、枝皮は更に活生し、秋冬に火が消えると皆な枯瘁する。その地の習俗としては冬の毎にその皮を採って布とし、色は小や青黒く、もし塵垢で汚れても、火中に投ずればたちまち鮮明となった。 (『異物志』)
―― 漢桓帝の時、大将軍梁冀が火浣布で単衣を作り、賓客と大いに宴会をする毎に争酒を偽って杯を落してこれを汚し、怒ったふりで衣を解いて 「これを焼け」 と云った。布は火を得ると煒曄赫然とし、焼けることは凡百の布の如く、垢が尽き火が消滅すると粲然として潔白であり、(漂白用の)灰水を用いたようだった。 (『傅子』)
―― 崑崙の麓には火炎の山があり、山には鳥獣草木があって皆な火炎の中で生きていた。このため火浣布とは、この山の草木の皮枲か鳥獣の毛であろうか。漢の世に西域は旧からこの布を献上していたが、中間に久しく絶え、魏初の時人はその有無を疑った。文帝が思うに火の性とは酷烈で生の気を含まず、これを『典論』に著してこれがそうではない事(火浣布が存在しない事)を明らかにし、智者がこれを聴く事を絶えさせようとした。明帝が立つと三公に詔し 「先帝は昔に『典論』を著し、不朽の格言である。石に刻んで廟門の外および太学に石経と与に並べ、永らく来世に示せ」 このとき西域の使者が至って火浣布を献上し、ここに石刊よりこの論を滅し、天下に笑われた。 (『捜神記』)
―― 裴松之が昔に征西軍に従って洛陽に至ったおり、旧物を歴観し、『典論』の石が太学に尚おも存在しているのを見た。しかし廟門の外には無く、諸々の長老に問うた処、晋初の受禅では魏の廟を用い、この石を太学に移したので、両処の地に立っていたのではないと云った。この言葉はそうではないと窃かに考える。
―― 南の荒服(中原から最遠の地域)の外に火山があり、長さ三十里、広さ五十里。その中に生えているのは皆な不燃の木で、昼夜で火焼し、暴風でも猛くはならず、猛雨でも消滅しない。火中に鼠があって重さは百斤、毛の長は二尺余、細いこと糸の如く、これで布を作った。常に火中に居り、色は銅赤で、外に出る時々に白くなる。水に逐って浴びさせると即死し、その毛を綴り、織って布とした。 (東方朔『神異経』)
[3] 呉将の全jが芍陂に寇し、朱然・孫倫が五万人で樊城を囲み、諸葛瑾・歩隲が柤中に寇した。全jが破れ敗走した後も、樊城の攻囲は急(きび)しかった。司馬懿は 「柤中の住民と夷族十万は沔水(漢水)の南に隔てられ、流離して主は無く、樊城が攻囲されて歴月しても解かれない。これは危うい事です。私自身による討伐を請うものです」 ある議者が言うには 「賊は遠方から樊城を攻囲して抜けず、堅城の下で挫け、自ずと破れる形勢にあります。どうか長策によって制御されますよう」 司馬懿 「軍志にはこうある。“将が御す事ができている縻軍といい、その任ができていない事を覆軍という”と。今、疆埸(辺境)が騷動して民心は疑惑し、これは社稷の大いに憂うものである」
六月、諸軍を督して南征し、車駕は津陽城の門外に見送った。司馬懿は南方が暑溼(暑湿)で持久には宜しくないとして軽騎で挑ませ、朱然は敢えて動かなかった。ここに諸軍に布令して休息・洗沐させ、精鋭を簡抜して先登を募り、号令をかけて必攻の勢を示した。朱然らはこれを聞き、かくして夜間に遁走した。追討して(襄陽東郊の)三州口に至り、大いに殺獲した。 (干宝『晋紀』)

 芍陂の役に代表されるこの呉の大攻勢は、呉としては珍しく能動的な行動でした。呉志を併せて考えると、諸葛瑾が出征の疲労で陣歿し、朱然が指揮権をまとめて後退する中で、赤烏五年(242)に追撃する魏軍を柤中で破ったようです。柤中の地についてはその朱然伝に 「襄陽を離れること百五十里、宜城と中廬(襄陽市区)の西方かつ漢水の南、谷間の平坦地」 とあり、谷城県の界隈ではないかと思われます。

[4] 裴松之が思うに、魏氏の配饗が荀ケに及ばないのは、その末年に異議を称え、又た官位も魏臣でなかったからであろう。程cを昇せて郭嘉を遺し、鍾繇を先にして荀攸を後にした趣旨は欠けて未だ詳らかではない。徐他の謀逆に許褚が心動(動悸)したのは忠誠の極至であること遠き金日磾[※]と同じであり、くわえて潼関の危難は許褚が居らねば救済できず、許褚の功烈は典韋に勝るものがあった。今、典韋を祀って許褚に及ばないのは、又た理解の達しないものである。

※ 匈奴の休屠王の世子として漢武帝に近侍し、胸騒ぎによって馬通・馬何羅の造叛を妨げて武帝を救った。因みに漢末に許昌で曹操に叛いた金禕の祖。

[5] 裴松之が調べたところ、帝が即位した当初の詔で 「官奴婢六十以上免為良人」 というものがあった。既にこの詔があり、永制のものとするのが妥当である。七・八年間で復た齢七十の者を売買し、しかも七十歳の奴婢および癃疾や残病などは全て售之物(売り物)にはならないのに、これを市で鬻ぐというのは皆な難解なことである。
[6] この年、呉将の朱然が柤中に入り、斬獲は数千だった。柤中の民・吏の万余家が(避難して)沔水(漢水)を渡った。司馬懿が曹爽に謂うには 「もしただちに送還を命令すれば、必らず復た寇されるので仮措置として留めるのが宜しい」 曹爽 「今、沔南の守りを修治せずに民を沔北に留めるのは長策ではない」 司馬懿 「そうではない。凡そ物を安寧の地に置けば安定し、危難の地に置けば危うくなるのだ。だから兵書にも、成敗とは形であり安危とは勢であるというのだ。形と勢とは衆を制御する要であり、審らかにしないという事はないのだ。もし賊の二万人が沔水を断ち、三万人が沔南の(駐留)諸軍と対峙し、一万人が上陸して柤中を鈔掠したなら、君はどのように救おうというのか?」 曹爽は聴かず、結局は帰還させた。朱然は後に襲ってこれを破った。
袁淮が曹爽に言った

「呉楚の民は脃弱寡能(脆弱無能)で英才・大賢をその土地に出さず、技を比べ力を量るに中国を相い争うに足りません。だのに上世より常に中国の患であるのは、長江・漢水を池として舟楫を用具とし、有利なら上陸して鈔掠し、不利なら水に入り、攻めようにも道は遠く、中国の長ずる技を用いようが無いからであります。孫権は十数年このかた江北で大いに畋(狩り=演習)し、甲兵(鎧武器)を繕治してその守禦に精進し、しばしば出て盜竊し、敢えて水上から遠ざかり、陸に宿って土地を平らげております。これこそ中国の願聞するものであります。兵を用いる者は飽を以て飢を待ち、逸を以て労を撃つ事を貴しとします。師(戦)は久しきを欲せず、行軍は遠きを欲せず、守りが少なければ固守し、力を専らにすれば彊力となります。まさに今は淮河・漢水以南を捐て、退卻して呉兵を避けるのが妥当です。もし賊が水を離れて中央に入居し、辺境を侵したならその苦手に随って中国の長技を用いることが出来ましょう。もし敢えて来なければ辺境は安寧を得て鈔盜の憂いは無くなります。我が国は富み、兵を彊くし、政は修まり民は一となり、その国を陵拉するのも遠くはなくなりましょう。今、襄陽は漢水の南に孤立し、賊は漢水に循って遡上しております。(江北との通行を)断って不通とし、一戦して勝てば攻めずに自ずと降服します。このためこれを置いても国にとって無益であり、これを亡くしても辱とするに足りません。江夏以東、淮南諸郡は三后(武帝・文帝・明帝)以来、亡くしたのはどれ程でしょう。賊の疆界に近く鈔掠しやすい為ではありませんか! もし淮南の住民を淮北に徙し、その間を遠く絶てば、民人は安楽となり、どうして鳴吠の驚(鶏が鳴き犬が吠える驚倒の騒動)がありましょうか?」

結局は徙さなかった。 (習鑿歯『漢晋春秋』)

 淮南からの徙民は建安年間に曹操が実行して失敗した政策です。その後、曹氏は淮南の維持に失敗してこの地の回復にえらい年月と労力を費やしました。ここでまた棄てるなど中華帝国として容認できるものではありません。中華帝国とは恥を利に優先させるもので、淮南の重さは朔方や隴西・河西とは比較になりません。曹丕や曹叡が拘った 「あるべき中華帝国像」 を無視る袁淮は超現実主義なのか典型的な行政屋なのか。淮南の放棄を容認するには“中華”概念の縮小が必要となり、それは能動ではなく受動でなければなりません。「断腸の思いで棄地した」と。例えば異民族に京師を奪われて江東に逼塞するような事態とか。

[7] 高平陵は洛水の南の大石山に在り、洛城を去ること九十里である。 (孫盛『魏世譜』)
[8] 詔して太常王粛を使者として冊命にて太傅を丞相とし、食邑を増すこと万戸、奏事には名を称さぬこと漢の霍光の故事の通りとした。太傅が上書して辞譲するには 「臣は親しく顧命をうけ、憂いは深く負責は重く、天威に憑頼して姦凶を摧弊しましたが、贖罪を幸いとして功は論ずるに足りません。又た三公の官は聖王の制定したもので、典礼にも著されています。丞相とは秦の政(始皇帝)に始まり、漢氏もこれに由来して復た変改しませんでした。今、三公の官は皆な備わり、ほしいままに復た臣を寵し、先典に違越し、聖明の経典を革めるのは秦漢の路を襲ぐもので、異人(優秀者)に対してでも臣が是正するものであります。ましてや臣の身に当てられて固く争わなければ四方の議者は臣をどのように謂いましょう!」 書を十余通上奏し、詔してこれを聴許した。
復た九錫の礼を加えようとしたところ、太傅が又た言うには 「太祖には大功大徳があり、漢氏が崇重したために九錫を加えました。これは歴代でも特異の事であり、後代の君臣が議すべき事ではありません」 又た辞退して受けなかった。 (孔衍『漢魏春秋』)
[9] かつて孫権は東興隄を築いて巣湖を堰き止めた。後に淮南を征服すると壊して再びは修復しなかった。この歳、諸葛恪は軍を帥いて更めて隄で左右の山を結び、(隄を)挟んで両城を築いて全端・留略にこれを守らせ、軍を引き揚げて帰還した。諸葛誕が司馬師に言うには 「人を誘致しても人に誘致されない者とはこれを謂うのです。今、呉の内侵を理由に文舒(王昶)を江陵に逼らせ、仲恭(毌丘倹)を武昌に向わせ、呉の上流を封鎖してから精鋭を簡抜して両城を攻めれば、救援の至る頃には大いに(勝利を)獲られましょう」 司馬師はこれに従った。 (『漢晋春秋』)
[10] 毌丘倹・王昶は東軍が敗れたと聞き、各々屯営を焼いて退走した。朝廷は諸将を貶黜しようとしたが、司馬師は 「我は公休(諸葛誕)の言葉を聴かずにこの事態に至った。これは我が過ちであり、諸将をどうして罰せよう?」 悉く赦した。時に司馬昭は監軍として諸軍を統べ、司馬昭の爵を削るだけにした。

 今回の作戦は諸葛誕の進言だった筈。『漢晋春秋』の中で自己矛盾しています。この時に出征をやんわり諫めたのは傅嘏。『原文の 「我不聴公休、以至於此」 の“不”が衍字なのか諸葛誕には別に諫言があったのか?』と筑摩版でも注意があります。因みに傅嘏伝では、討呉を要請したのは王昶・胡遵・毌丘倹となっています。南は征鎮将軍が連名なのに、東は征将軍だけなのが気になるといえば気になります。諸葛誕は司馬氏の姻戚ですから、三将軍とは別の特別ルートで進言したとか?

この歳、雍州刺史陳泰が幷州との合力で胡を討伐する敕を求め、司馬師はこれに従った。(軍が)集まる前に雁門・新興の二郡では遠征の兵役であることに驚いて反いた。司馬師は又た朝廷の群士に謝罪し 「これは我が過ちだ。玄伯の責任ではない!」 かくて魏人は愧じかつ悦び、人々は報恩せんと思った。 (『漢晋春秋』)
―― 習鑿歯曰く、司馬大将軍は二敗を己が過ちとし、(結果として)過ちは消されて功業は隆盛した。智と謂うものである。民が敗北を忘れ、下が報恩の事を思うなら、安康すまいと望もうとも得られようか?もし敗北を過失として諱み、咎を万物に帰し、常にその功を執ってその過ちを隠せば、上下は離心して賢愚は解体する。これにより楚は再び敗れ、晋は再び克ったもので、誤謬の甚だしいものである! 君人たる者は苟くもこのような道理を統べて国を御し、かくて朝廷には政事の疵は無く、身に誤り留めることも無く、行ないに失敗があっても名は揚がり、兵事に頓挫しても戦では勝ち、百敗しようとも宜しきに在るのだ。ましてや再度の敗北など!

 尤もらしい事を云っていますが、この時に恩を受けた二人とも反司馬氏になりますよ? 諸葛誕が造叛するのは周知の事ですが、陳泰だって曹髦弑逆を批判して賈充の処刑を主張します。どちらも魏臣として当然ではありますが、司馬師の恩は司馬氏全体には波及しなかった事になります。習鑿歯が褒め讃えるようなスケールの話ではなくなりますが。

[11] この時、姜維も亦た進出して狄道を囲んだ。司馬師が虞松に問うには 「今、東西とも有事であり、二方は皆な急(きび)しく、諸将は意気を沮喪している。どうしたものか?」
虞松 「昔、周亜夫は昌邑を堅壁して呉楚は自ずと敗れました。事には弱きに似て彊く、或いは彊きに似て弱いものがあり、洞察しない訳には参りません。今、諸葛恪はその鋭衆を悉し、肆暴(ほしいままに横行)するに足るのに新城に坐して守り、一戦を欲しているだけです。もし城を攻めても抜けず、戦を請うても叶わなければ、師は疲老して衆は疲れ、勢いとして自ずと退走しましょう。諸将がただちには進まないのは公の利であります。姜維には重兵があって諸葛格に呼応して懸隔に軍事を行ない、我らの麦を食糧に充て、深根(長期駐留)の寇ではありません。且つ我らが力を併せて東し、西方がきっと空虚になったとして径進したのです。今、もし関中の諸軍を倍道(倍の行軍速度)で急赴させ、その不意(思わざる)に出れば殆ぼ退走させられましょう」
司馬師 「善し!」
 かくして郭淮・陳泰に関中の軍勢を挙って狄道の囲みを解かせた。敕して毌丘倹らには兵を按撫して守備し、新城(一帯の事)は呉に委ねた。姜維は郭淮が兵を進めたと聞くと軍食が少なかった為に退いて隴西の辺界に屯した。 (『漢晋春秋』)
[12] この時、張特が新城を守っていた。
―― 張特、字は子産。涿郡の人である。以前に領牙門将軍として鎮東将軍諸葛誕に給事し、諸葛誕は能とはせず、遣って護軍に還そうと考えていた。たまたま毌丘倹が諸葛誕に代り、張特を合肥新城に屯守させた。諸葛恪が城を囲むと、張特は将軍楽方らと与に三軍(全軍)の手勢を併せて三千人があり、吏兵で疾病および戦死者は過半となり、しかも諸葛恪は土山を起して急しく攻め、城が陥落して守れなくなる寸前だった。張特はかくして呉人に言うには 「今、我らには復た戦おうとの心は無い。しかし魏法では攻められて百日を過ぎても救援が至らなければ、降っても家族は連坐しないのだ。敵を受けてより既に九十余日である。この城中には本来は四千余人がいたが、戦死者は既に過半となり、城が陥たとしても尚お半数は降伏を願っていない。我はこれより還って互いに語り、善悪(賛成者と反対者)を分けて条名(箇条書き)し、明日早くに名簿を送ろう。我が印綬を持参したのでこれを信としてもらいたい」 かくしてその印綬を投じて与えた。呉人はその言辞を聴いて印綬を取らず、そして攻めなかった。暫くして張特は還り、かくして夜間に諸々の家屋を徹去して柵の材料とし、城壁の欠処を補修して二重にした。明日、呉人に謂うには 「我らにはただ鬭死があるだけだ!」 呉人は大いに怒り、進んでこれを攻めたが抜くことができず、かくて引き揚げ去った。朝廷はこれを嘉して雑号将軍を加え、列侯に封じ、又た安豊太守に遷した。 (『魏略』)
[13] 郭脩は字を孝先といい、素より業績と行ないがあり、西州で著名だった。姜維が劫掠しても郭脩は屈せず、劉禅が左将軍とした。郭脩は劉禅を刺殺しようとしたものの親しく近づくことが出来ず、慶賀の毎に拝しつつ前進したものの劉禅の左右に遮られて果たせず、そのため費禕を殺したのである。 (『魏氏春秋』)

 郭脩は蜀志の一部で郭循となっています。何となく字が似ていて間違えたんでしょう。郭脩の厚遇は魏が孫壹に施した投降の呼び水としての過剰な恩賜と同じですが、魏と違って蜀のような辺境の弱小国が官位で釣ったところで効果の程は知れています。この場合は魏の在官を狙ったというより隴西の地元豪族を対象にしたと見るべきでしょう。何しろ隴西の取り込みは荊州を失った後の蜀の国策でもありますので。それにしても中郎を左将軍って…。

―― 裴松之が思うに、古えの生を捨てて義を取る者にも必ず道理が存在し、或る者は恩に感応して徳を懐き、命を抛って悔いず、或る者は(国の)利害の機に遇い発奮し、機会に応えた。詔が称えた聶政・介子はこれである。事はこの類いでなければ、妄作に陥るものである。魏は蜀とは敵国とはいえ、趙襄子が智伯を滅ぼしたような仇ではなく、燕の太子丹が(直面した)危亡の急でもない。しかも劉禅は凡下の主で、費禕は中才の宰相であり、二人の存亡など(国の)興喪には全く無関係である。郭脩が魏に在った時は西州の男子に過ぎなかった。蜀に獲われた始めは節を守って辱められないという事ができず、魏に対しても又た食禄の責(報恩の義務)などは無く、時の主に使われたわけでもなく、しかも理由もなく規規然として(尤もらしく)必要もない所で身を潰したのだ。義として加えるものなど無く、功を立てたわけでもなく、所謂る“折柳樊圃(柳を折って田圃の柵にするような無茶)”であり、狂とはこの様な事を謂うのだ。
[14] この秋、姜維が隴右に寇した。時に安東将軍司馬昭は許昌に鎮していたが、姜維を撃つ為に徴還されて京師に至り、帝は平楽観で軍の通過に臨んだ。中領軍許允は左右の小臣と謀り、司馬昭の挨拶に乗じてこれを殺し、その軍兵を率いて大将軍を退けようとした。既に御前で詔を書きあげており、司馬昭が入ってきた時、帝はちょうど粟を食べていた。優人(俳優)の雲午らは囃して 「青頭雞、青頭雞」 と。青頭雞とは鴨である[※]。帝は懼れて敢えて発令せず、司馬昭は軍を率いて入城した。司馬師はこれにより廃帝の事を謀った。 (『魏晋世語』および『魏氏春秋』)

※ 鴨の発音は押と同じで押印を意味し、司馬昭誅殺の詔勅への花押を暗喩したものです。

―― 裴松之が夏侯玄伝および『魏略』を調べたところ、許允はこの年の春に李豊の事に連坐している。李豊は既に誅され、許允は鎮北将軍に出されて出発する前に官物を放散した咎で廷尉に収付され、楽浪に徙されて追って殺された。許允がこの秋に領軍となってこの謀議を建てる事はだから出来ないのだ。
[15] この日、司馬師が皇太后令を承けて公卿や中朝の大臣に会議を命じると、群臣は色を失った。 司馬師は流涕しつつ 「皇太后令はこのとおりだ。諸君、王室をどうすべきか!」 咸な 「昔、伊尹は太甲を放逐して殷を寧んじ、霍光は昌邑王を廃して漢を安んじました。臨機の措置によって社稷を定めて四海を救済するのは古えの二代で行なわれたもので、明公が今に行なうべきものです。今日の事はただ明公の命令があるだけです」 司馬師 「諸君が私に重任を望もうというのなら、私はどうして避けようか?」 ここに群臣と共に永寧宮に上奏した

「守尚書令太尉長社侯の司馬孚(司馬懿の弟)、大将軍武陽侯の司馬師、司徒万歳亭侯の高柔、司空文陽亭侯の鄭沖(『晋書』列伝の筆頭)、行征西安東将軍新城侯の司馬昭、光禄大夫関内侯の孫邕、太常の晏、衛尉昌邑侯の満偉(満寵の子)、太僕の庾嶷、廷尉定陵侯の鍾毓(鍾繇の子)、大鴻臚の魯芝、大司農の王祥(『晋書』列伝の筆頭)、少府の鄭袤鄭泰の子)、永寧衛尉の何驕A永寧太僕の張閣、大長秋の尹模、司隸校尉潁昌侯の何曾(『晋書』列伝の筆頭)、河南尹蘭陵侯の王粛(司馬昭の舅)、城門校尉の慮、中護軍永安亭侯の司馬望(司馬懿の甥)、武衛将軍安寿亭侯の曹演、中堅将軍平原侯の郭徳、中塁将軍昌武亭侯の荀廙、屯騎校尉関内侯の武陔、歩兵校尉臨晋侯の郭建、射声校尉安陽郷侯の甄温、越騎校尉睢陽侯の初、長水校尉関内侯の徐超、侍中の鄭小同・(荀ケの子)・趙酆、博平侯の華表、侍中・中書監安陽亭侯の韋誕(韋康の弟)、散騎常侍の司馬瓌(司馬孚の子)・王儀、関内侯の郭芝(太后の従父)、尚書僕射・光禄大夫高楽亭侯の盧毓、尚書関内侯の王観・傅嘏、長合郷侯の袁亮、崔賛・陳騫(陳矯の子)、中書令の孟康(郭太皇太后の外戚)、御史中丞のツ、博士の範・庾峻(庾嶷の甥)ら稽首言:
陛下は女色に耽溺して学業を蔑み、芸人の郭懐・袁信らや保林官の李華・劉勲を親族の女性と殿中で乱交させ、これを見物しています。これを注意した清商令令狐景を弾弓で撃ち焙烙にかけました。郃陽君(皇太后の母)の喪中でも慎まず、気に入った女性を見かけては清商署(音楽署)に預け、これを注意した清商丞龐熙を弾弓で撃つ始末です。しまいには令狐景・龐熙も諂媚してしまって皇太后にも平気で嘘を吐かせ、好き放題には際限がありません。帝の昏淫は人倫に悖り、恭孝は廃れ、凶徳は盛んになるばかりです。臣らは天下が傾覆して社稷が失墜するのを予防する為に霍光を手本にする事を提案します。皇帝の璽綬を没収して斉国に帰しましょう」

奏可。 (『魏書』)

 随分と内容の弱い廃黜の勧進です。霍光に倣うにしても、肝心の天子の蛮行が昌邑王に比べて随分と大人しいものになっています。曹芳の場合は土木の縮小や官奴の解放などを布令してしまっているので、この程度しか理由に出来なかったのでしょう。司馬昭としては美事はすべて司馬兄弟の働きかけって事にしても良さそうなものですが、それが通用しない程度には曹芳の聡明さは公認されていたという事でしょうか。

[16] 司馬師が帝を廃す為に郭芝を入宮させて太后に建白しようとした時、太后は帝と対座していた。郭芝が帝に謂うには 「大将軍は陛下を廃して彭城王曹拠を立てようとしております」 帝は座を起って去った。太后は悦ばなかった。
郭芝 「太后は子を教導できませんでした。今、大将軍の意志はすでに成り、又た城外に兵を整えて非常事に備えています。ただその旨に順うだけで、何を復た言う事がありましょう!」 太后 「私は大将軍に会って説明したい事があります」 郭芝 「どうして会えましょうか?ただ速やかに璽綬を(帝から)取られるべきです」 太后の意志は挫け、かくして傍の侍御に璽綬を取ってこさせて座の側らに置いた。郭芝は出て司馬師に報告し、司馬師は甚だ歓んだ。
 又た使者を遣って(帝に)斉王の印綬を授け、(宮中から)出して西宮に就かせようとした。帝は命令を受けると王車に載り、太后と別れて垂涕した。太極殿を南に出た当初は群臣の送別者は数十人で、太尉司馬孚は悲しみに堪えぬ様子で、他も多くが流涕していた。王が出た後、司馬師は又た使者に璽綬を請わせた。太后 「彭城王は私の季叔(末の叔父)です。今、来て立てば私は(立場として)どうなりましょう!しかも明皇帝の後嗣は絶えてしまいませぬか?私は高貴郷公こそ文皇帝の長孫であり、明皇帝の弟子なので、礼に於いても小宗(分家)が大宗(本家)を継ぐ事があるという義に適うと考えます。この事を詳らかに討議してもらいたい」
司馬師はかくして更めて群臣を召集し、皇太后の令を示し、かくして高貴郷公の迎立に定まった。この時、太常が既に発つこと二日であり、温県で璽綬を待っていた。

 太后を蚊帳の外に置いておいて準備万端整え、後は璽綬を受け取って即、彭城王を擁立という段取りだったとですね?それにしても洛陽から彭城王を迎えに行くのに、なぜ温で待機していたのでしょう?いくら温が司馬氏の本拠地とはいえ、随分と中途半端な場所で待機していたものです。洛陽すら信頼できないというのなら、それが現時点での司馬氏の統制力の限界となります。腹心の質と量では魏公直前の曹操の方がずっと上な印象です。そりゃあ太后が抵抗してみせるのも無理はありません。

事が定まり、又た璽綬を請うた。太后が令した 「私は高貴郷公を見知っており、小時の公を識っています。明日、私自身で璽綬を手ずから授けたく思います」 (『魏略』)
[17] 司馬師は復た群臣と共に永寧宮に奏した 「臣らは聞いております。人道とは親族に親しむが故に祖宗を尊び、祖宗を尊ぶが故に宗家を敬うと。『礼』では大宗に嗣子が無ければ支家の子の賢者を択び、人を後ぐ者となればその(人の)子となると。東海定王の子の高貴郷公は文皇帝の孫で、正統を承け、烈祖明皇帝の後を嗣ぐに妥当です。率土有頼、万邦幸甚。臣請う。公を徴して洛陽宮に詣らせん事を」 上奏は裁可された。中護軍司馬望・兼太常の河南尹王粛を持節とし、少府鄭袤・尚書袁亮・侍中華表らと法駕(天子の車駕)を奉じさせて(陽平郡の)元城(邯鄲市大名)に公を迎えた。 (『魏書』)
―― 晋が受禅すると斉王を封じて邵陵県公とした。齢四十三で泰始十年(274)に薨じ、諡は詞といった。 (『魏世譜』)


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