齊王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢;宮省事祕、莫有知其所由來者。青龍三年、立為齊王。景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。是日、即皇帝位、大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽・太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身、繼承鴻業、煢煢在疚、靡所控告。大將軍・太尉奉受末命、夾輔朕躬、司徒・司空・冢宰・元輔總率百寮、以寧社稷、其與羣卿大夫勉勗乃心、稱朕意焉。諸所興作宮室之役、皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上、免為良人。」二月、西域重譯獻火浣布、詔大將軍・太尉臨試以示百寮
三代目の由来が不明なのは西漢と同じです。西漢ではこのとき呂后が朝廷を牛耳っていました。今回、呂后は居ませんが立場的に曹爽がそんな感じです。乳幼児でもない天子の出生が不明なのは魏の史官がザルなのか、呂氏の役割を曹爽に負わせる政治的な意図なのか。
青龍三年(235)に立てて斉王とされた。景初三年正月丁亥朔(238年12月1日)、明帝は病が甚だしくなり、かくして立てて皇太子とした。この日、皇帝の位に即いて大赦し、皇后を尊んで皇太后とし、大将軍曹爽・太尉司馬懿が輔政した。 丁丑詔曰:「太尉體道正直、盡忠三世、南擒孟達、西破蜀虜、東滅公孫淵、功蓋海内。昔周成建保傅之官、近漢顯宗崇寵ケ禹、所以優隆雋乂、必有尊也。其以太尉為太傅、持節統兵都督諸軍事如故。」三月、以征東將軍滿寵為太尉。夏六月、以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界、以故縱城為新沓縣以居徙民。秋七月、上始親臨朝、聽公卿奏事。八月、大赦。冬十月、鎮南將軍黄權為車騎將軍。
十二月、詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正;雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正、其以建寅之月為正始元年正月、以建丑月為後十二月。」
一般に“司馬懿奪権の詔”というやつです。ここには記されていませんが、奏事に関与できる録尚書事の権限を外す事で、ただの重臣にしたものです。枢機に参与できなくなっただけで、軍事統帥権は失っていません。現に翌々年には軍を率いて出征しています。曹爽の意図はせいぜい、政権中枢を宗室で固めて曹氏による統制力を強化しようというものです。司馬懿を排除とか疎外とかの悪意は殆ど感じられません。
また、朝廷では存在感を示さない司馬懿が軍事指揮官になると溌剌とするのも事実なので、意外と司馬懿の嗜好を尊重した措置だったのかも知れません。
明帝が改訂した変な暦は3年で廃止されました。尤もこれは正月の置き場を立春月に戻しただけで、景初暦の天体の運行予測は継続です。
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放・侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌、以遼東汶・北豐縣民流徙渡海、規齊郡之西安・臨菑・昌國縣界為新汶・南豐縣、以居流民。
自去冬十二月至此月不雨。丙寅、詔令獄官亟平寃枉、理出輕微;羣公卿士讜言嘉謀、各悉乃心。夏四月、車騎將軍黄權薨。秋七月、詔曰:「易稱損上益下、節以制度、不傷財、不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物、將奚以為?今出黄金銀物百五十種、千八百餘斤、銷冶以供軍用」八月、車駕巡省洛陽界秋稼、賜高年力田各有差。
二年春二月、帝初通論語、使太常以太牢祭孔子於辟雍、以顏淵配。
夏五月、呉將朱然等圍襄陽之樊城、太傅司馬宣王率衆拒之。六月辛丑、退。己卯、以征東將軍王淩為車騎將軍。冬十二月、南安郡地震。
今回の呉の来攻は全jによる芍陂攻略がメインです。朱然の役割は究極的には陽動に過ぎません。王淩の車騎将軍昇任は、芍陂で最も活躍した事に対する行賞です。本紀は王朝の推移を把握するのに重宝ですが、意図的に抜かれている記事もあるので気が抜けません。
三年春正月、東平王徽薨。三月、太尉滿寵薨。秋七月甲申、南安郡地震。乙酉、以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月、魏郡地震。
四年春正月、帝加元服、賜羣臣各有差。夏四月乙卯、立皇后甄氏、大赦。五月朔、日有食之、既。秋七月、詔祀故大司馬曹真・曹休・征南大將軍夏侯尚・太常桓階・司空陳羣・太傅鍾繇・車騎將軍張郃・左將軍徐晃・前將軍張遼・右將軍樂進・太尉華歆・司徒王朗・驃騎將軍曹洪・征西將軍夏侯淵・後將軍朱靈・文聘・執金吾臧霸・破虜將軍李典・立義將軍龐コ・武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
時の朝廷が魏の元勲として誰を重視しているかの一覧でもあります。夏侯惇・曹仁・程cは既に明帝の青龍元年に合祀され、翌年には遅ればせながら荀攸も祀られます。違和感があるのは郭嘉・許褚の名が無い事で、荀攸を合祀した際に裴松之も指摘しています。
五年春二月、詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔、日有蝕之。五月癸巳、講尚書經通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顏淵配;賜太傳・大將軍及侍講者各有差。丙午、大將軍曹爽引軍還。秋八月、秦王詢薨。九月、鮮卑内附、置遼東屬國、立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯、詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。己酉、復秦國為京兆郡。十二月、司空崔林薨。
六年春二月丁卯、南安郡地震。丙子、以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月、儼薨。八月丁卯、以太常高柔為司空。癸巳、以左光祿大夫劉放為驃騎將軍、右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月、祫祭太祖廟、始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥、詔故司徒王朗所作易傳、令學者得以課試。乙亥、詔曰:「明日大會羣臣、其令太傅乘輿上殿。」
これまで主流だった鄭玄的解釈の『易』に対抗する、王朗的『易』を受験科目に採用しました。王朗易がどんなものかは王朗伝を読めば解るのかも知れませんが、はっきり云って学術のあれこれを検討するのは詔勅や上奏以上に性に合わないので、既存の資料から解釈します。
王朗の思想を知るには子の王粛にあたれば外れはしない筈。王粛の学問は反鄭玄。『中国文化史大事典』によれは、『礼』解釈を中心として鄭玄説を否定したらしい。漢魏禅譲が論拠とした鄭玄説を否定する事で、司馬氏を肯定したとかしないとか。易じゃないじゃん。ま、何にしても王粛礼は西晋の官学の主流となります。なんたって王粛は司馬昭の舅で、司馬炎には実の外祖父にあたります。旧来の価値観を否定して新風を提唱した点は、明帝や、何晏ら浮華の徒、竹林七賢にも通じ、これはこれで時代の潮流に従った人ではあります。
尚お、この時代の易学といえば寧ろ王粛らと対立した何晏や王弼の方が有名で、こちらは『易』の儒学的解釈すら否定したものです。因みに王弼の学問は荊州学で、元を辿れば蔡邕に由来し、王粛と同じ豫州閥に連なります。一方の鄭玄は馬融に師事したとはいえ孔融と同じ青州閥系で、魏に入ってからの学問の修正が郷党意識に支えられていた事も無視できません。
七年春二月、幽州刺史毌丘儉討高句驪、夏五月、討濊貊、皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申、詔曰:「屬到市觀見所斥賣官奴婢、年皆七十、或癃疾殘病、所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之、進退無謂、其悉遣為良民。若有不能自存者、郡縣振給之。」
己酉、詔曰:「吾乃當以十九日親祠、而昨出已見治道、得雨當復更治、徒棄功夫。毎念百姓力少役多、夙夜存心。道路但當期于通利、聞乃撾捶老小、務崇脩飾、疲困流離、以至哀歎、吾豈安乘此而行、致馨コ于宗廟邪?自今已後、明申勑之。」冬十二月、講禮記通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顏淵配。
公孫淵討伐では協力的だった高句麗が、各種軋轢から反抗的となったので討った、というものです。高句麗による妨害が消えたので三韓の地の諸小国が魏に通貢するようになりました。そういえば邪馬台国の朝貢も公孫淵の敗滅で遼東の風通しが良くなった為でした。
朝貢する側にとって朝貢貿易の利点は貢物に数倍する恩賜と、宗主国の後ろ盾を示威できること。恩賜の使い途が無かったり、周辺勢力が宗主国の実力を理解していなかったりすると朝貢の旨味は激減です。高句麗や邪馬台国の対中外交が続かなかったのもその為でしょう。
八年春二月朔、日有蝕之。夏五月、分河東之汾北十縣為平陽郡。
秋七月、尚書何晏奏曰:「善為國者必先治其身、治其身者慎其所習。所習正則其身正、其身正則不令而行;所習不正則其身不正、其身不正則雖令不從。是故為人君者、所與游必擇正人、所觀覽必察正象、放鄭聲而弗聽、遠佞人而弗近、然後邪心不生而正道可弘也。季末闇主、不知損益、斥遠君子、引近小人、忠良疏遠、便辟褻狎、亂生近暱、譬之社鼠;考其昏明、所積以然、故聖賢諄諄以為至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』、言慎所近也、周公戒成王曰『其朋其朋』、言慎所與也。書云:『一人有慶、兆民ョ之。』可自今以後、御幸式乾殿及游豫後園、皆大臣侍從、因從容戲宴、兼省文書、詢謀政事、講論經義、為萬世法。」
冬十二月、散騎常侍諫議大夫孔乂奏曰:「禮、天子之宮、有斲礱之制、無朱丹之飾、宜循禮復古。今天下已平、君臣之分明、陛下但當不懈于位、平公正之心、審賞罰以使之。可絶後園習騎乘馬、出必御輦乘車、天下之福、臣子之願也。」晏・乂咸因闕以進規諫。
兄弟での典禁兵はウソです。少なくとも中護軍には司馬師が就いています。まだトドメを刺していない政敵の息子を軍の要職に就けるこの不自然さ。司馬懿の隠居が真っ当な理由によるものか、司馬懿と司馬師が不和でないと成り立ちません。
晋の平陽郡は平陽・楊・端氏・永安・蒲子・狐讐・襄陵・絳邑・濩沢・臨汾・北屈・皮氏県で構成。
秋七月、尚書何晏が上奏した「善く国を為す者は必ず先ずその身を治め、その身を治める者は習う所(日常の行動)を慎み、習う所が正しければその身は正しく、その身が正しければ命じなくとも行なわれるとか。習う所が正しくなければその身は正しからず、その身が正しくなければ命令しても従われません。このため人君たる者は交遊にも必ず正しき人を択び、観覧にも必ず正しき事象を察し、鄭声(淫靡な楽)を放逐して聴かず、佞人を遠ざけて近づけず、しかる後に邪心を生じさせずに正道を弘るものです。季末の闇主はその損益を知らず、君子を斥遠して小人を引近し、忠良を疏遠にして褻狎を辟(め)し、乱が近暱(近臣)より生じました。譬えるなら社の鼠であります。人君の昏と明を考察するに、累積を以てそのようになるのであり、だから聖賢は諄諄(慎み深く)として至極の思慮を為すのです。舜が禹を戒めた 『鄰哉鄰哉』 とは近親に慎む事を言い、周公が成王を戒めた 『其朋其朋』 とは与にする者に慎む事を言ったのです。『書経』では 『一人(天子)に慶事あれば、兆民がこれに頼る』 と云います。今より以後、式乾殿への御幸および後園での游行には大臣を皆な侍従させ、従容として戯宴する際には同時に文書を省み、政事を詢謀(諮問)し、経書の意義を講論して万世の法となされますよう」 宮中どこでも大臣を随行させ、折々に諮問できるようになさい。
冬十二月、散騎常侍・諫議大夫の孔乂が上奏した「『礼』では天子の宮(の装飾)に斲礱(彫刻と研磨)の制はありますが、朱丹による装飾の事はありません。『礼』に循って復古されるのが妥当です。今、天下は既に平らぎ、君臣の分は明らかで、陛下はただ(天子の)位の事を怠らず、公正の心を平らぎ、賞罰を審らかにして行使なさいますよう。後園で騎乗を習い馬に乗る事を絶やし、出るには必ず輦を御し車に乗られませ。(これぞ)天下の福であり臣子もこれを願うものであります 柱の朱塗りや、馬に乗ってはイケマセン。」 。
何晏・孔乂は咸な闕(欠点)について規諫を進言したものである。九年春二月、衞將軍中書令孫資、癸巳、驃騎將軍中書監劉放、三月甲午、司徒衞臻、各遜位、以侯就第、位特進。四月、以司空高柔為司徒;光祿大夫徐邈為司空、固辭不受。秋九月、以車騎將軍王淩為司空。冬十月、大風發屋折樹。
曹爽らによる宗室強化が更に推進されたようですが、曹氏と縁の深い衛臻まで致仕している点が無視できません。衛臻伝では 「曹爽の接近を避けた」 とあります。これが名族の一員としての行動だとすれば、高柔と違って後ろ盾のない非名族の徐邈が司空就任を拒否ったのも一種の派閥表明となり、曹氏に対する支持率が結構ヤバかった事が想像されます。
嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽・爽弟中領軍羲・武衞將軍訓・散騎常侍彦官、以侯就第。戊戌、有司奏收黄門張當付廷尉、考實其辭、爽與謀不軌。又尚書丁謐・ケ颺・何晏・司隸校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範皆與爽通姦謀、夷三族。語在爽傳。丙午、大赦。丁未、以太傅司馬宣王為丞相、固讓乃止。
潮目が好さげなので、ここでちょっと司馬父子の比較をしてみたかったのですが、さすがにスペースが足りません。結論だけ云うと、司馬懿はどうも朝廷での謀事は苦手なようで、対曹爽の兵変は司馬師が主導し、司馬懿は寧ろ従犯ではないかと。曹丕の時代から、司馬懿は朝廷に入った途端に精彩を欠いていますし、そもそもこの時点で隠棲している司馬懿より中護軍の司馬師の方が実権は大きいです。
司馬氏が秉権する端緒となったこの事件ですが、『晋書』本紀で補ってみると、司馬懿と司馬師の共同作業だった事が判ります。事前準備として司馬懿は痴呆症のフリ、司馬師は死兵の養成と埋伏。どうも司馬師の方が具体的に準備していたように見えます。もうちょっと内幕事情とか載ってると良かったんですが。
夏四月乙丑、改年。丙子、太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯、以司空王淩為太尉。庚子、以司隸校尉孫禮為司空。
二年夏五月、以征西將軍郭淮為車騎將軍。冬十月、以特進孫資為驃騎將軍。
十一月、司空孫禮薨。十二月甲辰、東海王霖薨。乙未、征南將軍王昶渡江、掩攻呉、破之。
三年春正月、荊州刺史王基・新城太守〔州泰〕攻呉、破之、降者數千口。二月、置南郡之夷陵縣以居降附。
三月、以尚書令司馬孚為司空。四月甲申、以征南將軍王昶為征南大將軍。壬辰、大赦。丙午、聞太尉王淩謀廢帝、立楚王彪、太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅、淩自殺。六月、彪賜死。秋七月壬戌、皇后甄氏崩。辛未、以司空司馬孚為太尉。戊寅、太傅司馬宣王薨、以衞將軍司馬景王為撫軍大將軍、録尚書事。乙未、葬懷甄后於太清陵。庚子、驃騎將軍孫資薨。
十一月、有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者、更以官為次、太傅司馬宣王功高爵尊、最在上。十二月、以光祿勳鄭沖為司空。
四年春正月癸卯、以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月、立皇后張氏、大赦。夏五月、魚二、見於武庫屋上。冬十一月、詔征南大將軍王昶・征東將軍胡遵・鎮南將軍毌丘儉等征呉。十二月、呉大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。
この出征は呉の国喪に乗じたものですが、四月に孫権が歿した事は意図的にスルーされています。中華帝国たるものが喪に乗じて侵攻したなんて書けるわけありません。 『晋書』に至っては五月の呉による合肥攻略に対処した事になっていて、孫権の喪中に出征した呉が悪の権化となっています。
十二月、呉の大将軍諸葛恪が拒戦(防戦)し、大いに東関に大軍を破った。(魏軍は)利あらず帰還した[10]。五年夏四月、大赦。五月、呉太傅諸葛恪圍合肥新城、詔太尉司馬孚拒之。秋七月、恪退還。
八月、詔曰:「故中郎西平郭脩、砥節詩s、秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡、為所執略。往歳偽大將軍費禕驅率羣衆、陰圖闚[門+兪]、道經漢壽、請會衆賓、脩於廣坐之中手刃撃禕、勇過聶政、功逾介子、可謂殺身成仁、釋生取義者矣。夫追加褒寵、所以表揚忠義;祚及後胤、所以奬勸將來。其追封脩為長樂郷侯、食邑千戸、諡曰威侯;子襲爵、加拜奉車都尉;賜銀千鉼、絹千匹、以光寵存亡、永垂來世焉。」
自帝即位至于是歳、郡國縣道多所置省、俄或還復、不可勝紀。
六年春二月己丑、鎮東將軍毌丘儉上言:「昔諸葛恪圍合肥新城、城中遣士劉整出圍傳消息、為賊所得、考問所傳、語整曰:『諸葛公欲活汝、汝可具服。』整罵曰:『死狗、此何言也!我當必死為魏國鬼、不苟求活、逐汝去也。欲殺我者、便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息、或以語恪、恪遣馬騎尋圍跡索、得像還。四五人〔靮〕頭面縛、將繞城表、勑語像、使大呼、言『大軍已還洛、不如早降。』像不從其言、更大呼城中曰:『大軍近在圍外、壯士努力!』賊以刀築其口、使不得言、像遂大呼、令城中聞知。整・像為兵、能守義執節、子弟宜有差異。」詔曰:「夫顯爵所以褒元功、重賞所以寵烈士。整・像召募通使、越蹈重圍、冒突白刃、輕身守信、不幸見獲、抗節彌氏A揚六軍之大勢、安城守之懼心、臨難不顧、畢志傳命。昔解楊執楚、有隕無貳、齊路中大夫以死成命、方之整・像、所不能加。今追賜整・像爵關中侯、各除士名、使子襲爵、如部曲將死事科。」
「昔、諸葛恪が合肥新城を囲んだ折、城中から兵士の劉整を遣って囲みを出て消息を伝えさせた処、賊の得る所となって伝言について拷問されました。劉整に語るには 『諸葛公は汝を活かしたく思っている。汝は具(つぶさ)に服(もう)せ』 劉整は罵り 『死狗めが何を言っておる!我は死んでも必ず魏国の(幽)鬼となるのだ。どうして生など求めよう。(鬼となって)逐って汝らを去らせようぞ。殺したくばさっさと殺せ』 と、ついに他を辞述しませんでした。又た兵士鄭像を遣って城を出て消息を伝えさせた処、諸葛恪に語る者があり、諸葛恪は騎馬を遣って営囲を尋ねて足跡を索(さぐ)らせ、鄭像を得て還りました。四五人で靮頭面縛(手綱で後ろ手に拘束)して城の表を繞らせ、鄭像に語らるに大声で呼ばわって『大軍は既に洛陽に還った。早々に降ったがよいぞ』と言わせようとした処、鄭像はその言葉に従わず、更めて大声で城中に呼ばわるには 『大軍は攻囲のすぐ外に来ている。壮士は力めて努めよ!』 と。賊は刀でその口を築(つ)いて復た言えなくしたが、鄭像は大声で呼ばわり、城中に聞かせ知らしめました。劉整・鄭像は(一介の)兵士であるのに能く義を守って節を執りました。子弟に宜しく差異(特別)(の恩寵)がありますよう」
詔「爵を顕かにするのは元功(大功)を褒賞する為であり、賞を重くするのは烈士を寵遇する為である。劉整・鄭像は召募にて通使となり、重囲を越踏して白刃を冒突した。軽き身で信を守り、不幸にして獲えられ、節を抗(まも)って彌(いよいよ)(きび)しく、六軍の大勢を昂揚して城守の懼心を安んじ、難に臨んで顧みず、志を畢(まっとう)して命令を伝えた。昔、解楊は楚に執われ、隕(落命)して貳心は無く、斉の路中大夫[※]は死を以て命令を達成した。それでも劉整・鄭像には加えるものはあるまい。今、追って劉整・鄭像に爵関中侯を賜い、各々を士の名簿から除き、子に襲爵させて部曲将の死亡事の科(条文)の通りにせよ」
※ 西漢の路卬。斉孝王の臣。呉楚の乱で臨淄が包囲されると長安への使命を果たしたが、帰還の途上で執われた。城内への長安陥落の通達とと降伏勧告を条件に助命されたところ、城外から呉王の敗滅と援軍の到来を告げて殺された。
庚戌、中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣、以太常夏侯玄為大將軍。事覺、諸所連及者皆伏誅。辛亥、大赦。三月、廢皇后張氏。夏四月、立皇后王氏、大赦。五月、封后父奉車都尉王夔為廣明郷侯・光祿大夫、位特進、妻田氏為宣陽郷君。
秋九月、大將軍司馬景王將謀廢帝、以聞皇太后。甲戌、太后令曰:「皇帝芳春秋已長、不親萬機、耽淫内寵、沈漫女コ、日延倡優、縱其醜謔;迎六宮家人留止内房、毀人倫之敍、亂男女之節;恭孝日虧、悖慠滋甚、不可以承天緒、奉宗廟。使兼太尉高柔奉策、用一元大武告于宗廟、遣芳歸藩于齊、以避皇位。」是日遷居別宮、年二十三。使者持節送衞、營齊王宮於河内〔之〕重門、制度皆如藩國之禮。丁丑、令曰:「東海王霖、高祖文皇帝之子。霖之諸子、與國至親、高貴郷公髦有大成之量、其以為明皇帝嗣。」
「皇帝曹芳は春秋已長(元服済み)だのに万機に親しまず、内宮の寵妃に耽淫して女徳(女色)に沈漫し、日々倡優を延(はべ)らせ、その醜謔を縦(ほしいまま)にしている。六宮(皇后および五貴人)の家人を迎えて内房に留止し、人倫の秩序を毀ち、男女の節を乱し、恭孝は日々に虧(欠)け、悖慠(悖道傲慢)なこと滋(しげ)く甚しく、天緒を承け、宗廟を奉ずることは出来ない。兼太尉高柔に策(命令書)を奉じさせ、一元[※]を用いて宗廟で大武帝に告げ、曹芳を斉に帰藩させて皇位を避けさせよ」[15]
この日、遷って別宮に居した。齢は二十三だった。使者が持節にて送衛し、斉王の宮殿を河内の重門に営み、制度は皆な藩国の礼の通りだった[16]。丁丑、皇太后令 「東海王曹霖は高祖文皇帝の子である。曹霖の諸子は国家とは至親であり、(そのうちの)高貴郷公曹髦には大成の器量がある。明皇帝の継嗣とせよ」[17]※ 筑摩版では犠牲の牛。元は首の意味があるので、一頭の首?
芍陂の役に代表されるこの呉の大攻勢は、呉としては珍しく能動的な行動でした。呉志を併せて考えると、諸葛瑾が出征の疲労で陣歿し、朱然が指揮権をまとめて後退する中で、赤烏五年(242)に追撃する魏軍を柤中で破ったようです。柤中の地についてはその朱然伝に 「襄陽を離れること百五十里、宜城と中廬(襄陽市区)の西方かつ漢水の南、谷間の平坦地」 とあり、谷城県の界隈ではないかと思われます。
※ 匈奴の休屠王の世子として漢武帝に近侍し、胸騒ぎによって馬通・馬何羅の造叛を妨げて武帝を救った。因みに漢末に許昌で曹操に叛いた金禕の祖。
「呉楚の民は脃弱寡能(脆弱無能)で英才・大賢をその土地に出さず、技を比べ力を量るに中国を相い争うに足りません。だのに上世より常に中国の患であるのは、長江・漢水を池として舟楫を用具とし、有利なら上陸して鈔掠し、不利なら水に入り、攻めようにも道は遠く、中国の長ずる技を用いようが無いからであります。孫権は十数年このかた江北で大いに畋(狩り=演習)し、甲兵(鎧武器)を繕治してその守禦に精進し、しばしば出て盜竊し、敢えて水上から遠ざかり、陸に宿って土地を平らげております。これこそ中国の願聞するものであります。兵を用いる者は飽を以て飢を待ち、逸を以て労を撃つ事を貴しとします。師(戦)は久しきを欲せず、行軍は遠きを欲せず、守りが少なければ固守し、力を専らにすれば彊力となります。まさに今は淮河・漢水以南を捐て、退卻して呉兵を避けるのが妥当です。もし賊が水を離れて中央に入居し、辺境を侵したならその苦手に随って中国の長技を用いることが出来ましょう。もし敢えて来なければ辺境は安寧を得て鈔盜の憂いは無くなります。我が国は富み、兵を彊くし、政は修まり民は一となり、その国を陵拉するのも遠くはなくなりましょう。今、襄陽は漢水の南に孤立し、賊は漢水に循って遡上しております。(江北との通行を)断って不通とし、一戦して勝てば攻めずに自ずと降服します。このためこれを置いても国にとって無益であり、これを亡くしても辱とするに足りません。江夏以東、淮南諸郡は三后(武帝・文帝・明帝)以来、亡くしたのはどれ程でしょう。賊の疆界に近く鈔掠しやすい為ではありませんか! もし淮南の住民を淮北に徙し、その間を遠く絶てば、民人は安楽となり、どうして鳴吠の驚(鶏が鳴き犬が吠える驚倒の騒動)がありましょうか?」
結局は徙さなかった。 (習鑿歯『漢晋春秋』)淮南からの徙民は建安年間に曹操が実行して失敗した政策です。その後、曹氏は淮南の維持に失敗してこの地の回復にえらい年月と労力を費やしました。ここでまた棄てるなど中華帝国として容認できるものではありません。中華帝国とは恥を利に優先させるもので、淮南の重さは朔方や隴西・河西とは比較になりません。曹丕や曹叡が拘った 「あるべき中華帝国像」 を無視る袁淮は超現実主義なのか典型的な行政屋なのか。淮南の放棄を容認するには“中華”概念の縮小が必要となり、それは能動ではなく受動でなければなりません。「断腸の思いで棄地した」と。例えば異民族に京師を奪われて江東に逼塞するような事態とか。
今回の作戦は諸葛誕の進言だった筈。『漢晋春秋』の中で自己矛盾しています。この時に出征をやんわり諫めたのは傅嘏。『原文の 「我不聴公休、以至於此」 の“不”が衍字なのか諸葛誕には別に諫言があったのか?』と筑摩版でも注意があります。因みに傅嘏伝では、討呉を要請したのは王昶・胡遵・毌丘倹となっています。南は征鎮将軍が連名なのに、東は征将軍だけなのが気になるといえば気になります。諸葛誕は司馬氏の姻戚ですから、三将軍とは別の特別ルートで進言したとか?
この歳、雍州刺史陳泰が幷州との合力で胡を討伐する敕を求め、司馬師はこれに従った。(軍が)集まる前に雁門・新興の二郡では遠征の兵役であることに驚いて反いた。司馬師は又た朝廷の群士に謝罪し 「これは我が過ちだ。玄伯の責任ではない!」 かくて魏人は愧じかつ悦び、人々は報恩せんと思った。 (『漢晋春秋』)尤もらしい事を云っていますが、この時に恩を受けた二人とも反司馬氏になりますよ? 諸葛誕が造叛するのは周知の事ですが、陳泰だって曹髦弑逆を批判して賈充の処刑を主張します。どちらも魏臣として当然ではありますが、司馬師の恩は司馬氏全体には波及しなかった事になります。習鑿歯が褒め讃えるようなスケールの話ではなくなりますが。
郭脩は蜀志の一部で郭循となっています。何となく字が似ていて間違えたんでしょう。郭脩の厚遇は魏が孫壹に施した投降の呼び水としての過剰な恩賜と同じですが、魏と違って蜀のような辺境の弱小国が官位で釣ったところで効果の程は知れています。この場合は魏の在官を狙ったというより隴西の地元豪族を対象にしたと見るべきでしょう。何しろ隴西の取り込みは荊州を失った後の蜀の国策でもありますので。それにしても中郎を左将軍って…。
―― 裴松之が思うに、古えの生を捨てて義を取る者にも必ず道理が存在し、或る者は恩に感応して徳を懐き、命を抛って悔いず、或る者は(国の)利害の機に遇い発奮し、機会に応えた。詔が称えた聶政・介子はこれである。事はこの類いでなければ、妄作に陥るものである。魏は蜀とは敵国とはいえ、趙襄子が智伯を滅ぼしたような仇ではなく、燕の太子丹が(直面した)危亡の急でもない。しかも劉禅は凡下の主で、費禕は中才の宰相であり、二人の存亡など(国の)興喪には全く無関係である。郭脩が魏に在った時は西州の男子に過ぎなかった。蜀に獲われた始めは節を守って辱められないという事ができず、魏に対しても又た食禄の責(報恩の義務)などは無く、時の主に使われたわけでもなく、しかも理由もなく規規然として(尤もらしく)必要もない所で身を潰したのだ。義として加えるものなど無く、功を立てたわけでもなく、所謂る“折柳樊圃(柳を折って田圃の柵にするような無茶)”であり、狂とはこの様な事を謂うのだ。※ 鴨の発音は押と同じで押印を意味し、司馬昭誅殺の詔勅への花押を暗喩したものです。
―― 裴松之が夏侯玄伝および『魏略』を調べたところ、許允はこの年の春に李豊の事に連坐している。李豊は既に誅され、許允は鎮北将軍に出されて出発する前に官物を放散した咎で廷尉に収付され、楽浪に徙されて追って殺された。許允がこの秋に領軍となってこの謀議を建てる事はだから出来ないのだ。「守尚書令太尉長社侯の司馬孚(司馬懿の弟)、大将軍武陽侯の司馬師、司徒万歳亭侯の高柔、司空文陽亭侯の鄭沖(『晋書』列伝の筆頭)、行征西安東将軍新城侯の司馬昭、光禄大夫関内侯の孫邕、太常の晏、衛尉昌邑侯の満偉(満寵の子)、太僕の庾嶷、廷尉定陵侯の鍾毓(鍾繇の子)、大鴻臚の魯芝、大司農の王祥(『晋書』列伝の筆頭)、少府の鄭袤(鄭泰の子)、永寧衛尉の何驕A永寧太僕の張閣、大長秋の尹模、司隸校尉潁昌侯の何曾(『晋書』列伝の筆頭)、河南尹蘭陵侯の王粛(司馬昭の舅)、城門校尉の慮、中護軍永安亭侯の司馬望(司馬懿の甥)、武衛将軍安寿亭侯の曹演、中堅将軍平原侯の郭徳、中塁将軍昌武亭侯の荀廙、屯騎校尉関内侯の武陔、歩兵校尉臨晋侯の郭建、射声校尉安陽郷侯の甄温、越騎校尉睢陽侯の初、長水校尉関内侯の徐超、侍中の鄭小同・荀(荀ケの子)・趙酆、博平侯の華表、侍中・中書監安陽亭侯の韋誕(韋康の弟)、散騎常侍の司馬瓌(司馬孚の子)・王儀、関内侯の郭芝(太后の従父)、尚書僕射・光禄大夫高楽亭侯の盧毓、尚書関内侯の王観・傅嘏、長合郷侯の袁亮、崔賛・陳騫(陳矯の子)、中書令の孟康(郭太皇太后の外戚)、御史中丞のツ、博士の範・庾峻(庾嶷の甥)ら稽首言:
陛下は女色に耽溺して学業を蔑み、芸人の郭懐・袁信らや保林官の李華・劉勲を親族の女性と殿中で乱交させ、これを見物しています。これを注意した清商令令狐景を弾弓で撃ち焙烙にかけました。郃陽君(皇太后の母)の喪中でも慎まず、気に入った女性を見かけては清商署(音楽署)に預け、これを注意した清商丞龐熙を弾弓で撃つ始末です。しまいには令狐景・龐熙も諂媚してしまって皇太后にも平気で嘘を吐かせ、好き放題には際限がありません。帝の昏淫は人倫に悖り、恭孝は廃れ、凶徳は盛んになるばかりです。臣らは天下が傾覆して社稷が失墜するのを予防する為に霍光を手本にする事を提案します。皇帝の璽綬を没収して斉国に帰しましょう」
随分と内容の弱い廃黜の勧進です。霍光に倣うにしても、肝心の天子の蛮行が昌邑王に比べて随分と大人しいものになっています。曹芳の場合は土木の縮小や官奴の解放などを布令してしまっているので、この程度しか理由に出来なかったのでしょう。司馬昭としては美事はすべて司馬兄弟の働きかけって事にしても良さそうなものですが、それが通用しない程度には曹芳の聡明さは公認されていたという事でしょうか。
太后を蚊帳の外に置いておいて準備万端整え、後は璽綬を受け取って即、彭城王を擁立という段取りだったとですね?それにしても洛陽から彭城王を迎えに行くのに、なぜ温で待機していたのでしょう?いくら温が司馬氏の本拠地とはいえ、随分と中途半端な場所で待機していたものです。洛陽すら信頼できないというのなら、それが現時点での司馬氏の統制力の限界となります。腹心の質と量では魏公直前の曹操の方がずっと上な印象です。そりゃあ太后が抵抗してみせるのも無理はありません。
事が定まり、又た璽綬を請うた。太后が令した 「私は高貴郷公を見知っており、小時の公を識っています。明日、私自身で璽綬を手ずから授けたく思います」 (『魏略』)