三國志修正計画

三國志卷十四 魏書十四/程郭董劉蔣劉傳 (三)

蔣濟

 蔣濟字子通、楚國平阿人也。仕郡計吏・州別駕。建安十三年、孫權率衆圍合肥。時大軍征荊州、遇疾疫、唯遣將軍張喜單將千騎、過領汝南兵以解圍、頗復疾疫。濟乃密白刺史偽得喜書、云歩騎四萬已到雩婁、遣主簿迎喜。三部使齎書語城中守將、一部得入城、二部為賊所得。權信之、遽燒圍走、城用得全。明年使於譙、太祖問濟曰:「昔孤與袁本初對官渡、徙燕・白馬民、民不得走、賊亦不敢鈔。今欲徙淮南民、何如?」 濟對曰:「是時兵弱賊彊、不徙必失之。自破袁紹、北拔柳城、南向江・漢、荊州交臂、威震天下、民無他志。然百姓懷土、實不樂徙、懼必不安。」 太祖不從、而江・淮間十餘萬衆、皆驚走呉。後濟使詣鄴、太祖迎見大笑曰:「本但欲使避賊、乃更驅盡之。」 拜濟丹陽太守。大軍南征還、以温恢為揚州刺史、濟為別駕。令曰:「季子為臣、呉宜有君。今君還州、吾無憂矣。」 民有誣告濟為謀叛主率者、太祖聞之、指前令與左將軍于禁・沛相封仁等曰:「蔣濟寧有此事! 有此事、吾為不知人也。此必愚民樂亂、妄引之耳。」 促理出之。辟為丞相主簿西曹屬。令曰:「舜舉皋陶、不仁者遠;臧否得中、望于賢屬矣。」 關羽圍樊・襄陽。太祖以漢帝在許、近賊、欲徙都。司馬宣王及濟説太祖曰:「于禁等為水所沒、非戰攻之失、於國家大計未足有損。劉備・孫權、外親&#x;疎、關羽得志、權必不願也。可遣人勸躡其後、許割江南以封權、則樊圍自解。」 太祖如其言。權聞之、即引兵西襲公安・江陵。羽遂見禽。

 蔣済、字は子通。楚国平阿の人である。郡に出仕して計吏、州に仕えて別駕となった。建安十三年(208)、孫権が軍兵を率いて合肥を囲んだ。時に大軍は荊州を征伐して疾疫に遇い、ただ将軍張喜を遣って単独で千騎を率いさせ、通過する汝南の兵を兼領させて包囲を解かせたが、頗る復た疾疫に遇った。蔣済はかくして密かに刺史に偽って白(もう)すには、「張喜の書簡を得たが、歩騎四万が已に雩婁に到ったと云っており、主簿を遣って張喜を迎えさせては」 と。三部の使者が書語を城中の守将に齎す事になり、一部が入城でき、二部が賊の得る所となった。孫権はこれを信じ、急遽囲営を焼いて逃走し、城は用(はたら)きを全うできた。明年、譙に使いした時、曹操が蔣済に問うには 「昔、孤が袁本初と官渡で対峙した折、燕・白馬の民を徙した処、民は逃走できず、賊も亦た鈔掠しようとはしなかった。今、淮南の民を徙したいのだが、どうか?」 。蔣済が対えるには

「かの時は兵は弱く賊は彊く、徙さねば必ず失っておりました。袁紹を破ってより、北は柳城を抜き、南は長江・漢水に向い、荊州(劉j)は(背で)臂を交錯し、威は天下を震わせており、民には他志はございません。百姓とは土地に懐き、実際には徙るのを楽(よろこ)ばぬもの。きっと安んじはしない事が懼れられます」 。

曹操は従わず、しかし江淮の間の十余万の人々は皆な驚いて呉に走った。

 嘗て曹操が江浜の郡県が孫権に劫略される事を恐れ、徴発して内陸部に移るよう布令した処、民衆は却って相い驚き、廬江・九江・蘄春・広陵の十余万戸が皆な長江を渡り、江西はかくて空虚となり、合肥以南にはただ皖城があるだけだった。 (呉主伝)

後に蔣済が使者として鄴に詣った時、曹操は迎見して大いに笑いつつ 「本来はただ賊を避けさせようとしただけなのに、更めて尽く駆りたててしまった」 。蔣済を丹陽太守に拝した。大軍が南征から還ると温恢を揚州刺史とし、蔣済を別駕とした。辞令に曰く 「季子を臣とし、呉の君主は(ようやく)正当性を得た。今、君が州に還るからには私に憂いは無い」 。民の中に蔣済が謀叛の主率者であると誣告する者がおり、曹操はこれを聞くと、前の辞令を左将軍于禁・沛相封仁らに指し示しつつ 「蔣済にこの事があろうか! この事があれば私は人を知らぬという事になる。これは必ず愚民が乱を楽しんで妄りに彼の名を引き出しただけだ」 と。理(裁判官)にこれを出すよう督促した。辟して丞相主簿西曹属とした。辞令に曰く 「舜が皋陶を挙げると、不仁な者は遠ざかった。臧否(人物の善悪)が的中する事を賢属に望むものである」[※]

※ 西曹属は西曹の副長官。府内の人事を担当した。

関羽が樊・襄陽を囲んだ。曹操は漢帝が許に在って賊に近い事から、都を徙したく思った。司馬懿および蔣済が曹操に説くには 「于禁らは水のせいで没したのであって、戦さの攻撃で失敗したのではなく、国家の大計の上では損失とするに足りません。劉備・孫権は外面は親密であっても内実は疎遠で、関羽が志を得る事を孫権は間違いなく願っておりません。人を遣ってその背後を摂(と)る事を勧め、江南を割いて孫権を封ずる事を許せば、樊城の囲みは自ずと解けましょう」 と。曹操はその言葉の通りにした。孫権はこれを聞くと、即座に兵を引率して西のかた公安・江陵を襲った。関羽はかくて禽われた。

 文帝即王位、轉為相國長史。及踐阼、出為東中郎將。濟請留、詔曰:「高祖歌曰『安得猛士守四方!』天下未寧、要須良臣以鎮邊境。如其無事、乃還鳴玉、未為後也。」 濟上萬機論、帝善之。入為散騎常侍。時有詔、詔征南將軍夏侯尚曰:「卿腹心重將、特當任使。恩施足死、惠愛可懷。作威作福、殺人活人。」 尚以示濟。濟既至、帝問曰:「卿所聞見天下風教何如?」 濟對曰:「未有他善、但見亡國之語耳。」 帝忿然作色而問其故、濟具以答、因曰:「夫『作威作福』、書之明誡。『天子無戲言』、古人所慎。惟陛下察之!」 於是帝意解、遣追取前詔。 黄初三年、與大司馬曹仁征呉、濟別襲羨谿。仁欲攻濡須洲中、濟曰:「賊據西岸、列船上流、而兵入洲中、是為自内地獄、危亡之道也。」 仁不從、果敗。仁薨、復以濟為東中郎將、代領其兵。詔曰:「卿兼資文武、志節慷慨、常有超越江湖呑呉會之志、故復授將率之任。」 頃之、徴為尚書。車駕幸廣陵、濟表水道難通、又上三州論以諷帝。帝不從、於是戰船數千皆滯不得行。議者欲就留兵屯田、濟以為東近湖、北臨淮、若水盛時、賊易為寇、不可安屯。帝從之、車駕即發。還到精湖、水稍盡、盡留船付濟。船本歴適數百里中、濟更鑿地作四五道、蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水、皆引後船、一時開遏入淮中。帝還洛陽、謂濟曰:「事不可不曉。吾前決謂分半燒船于山陽池中、卿於後致之、略與吾倶至譙。又毎得所陳、實入吾意。自今討賊計畫、善思論之。」

 曹丕が王位に即くと、転じて相国長史となった。踐阼するにおよび、転出して東中郎将となった。蔣済は留まる事を請うたが、詔に曰く 「高祖が歌うには“どうやって猛士を得て四方を守らん!”と。天下は未だ寧んぜず、良臣を以て辺境を鎮めるのは要須(必須)である。事が無くなってから還って(廷臣の帯びる佩の)玉を鳴らしても後(おそ)くはあるまい」 。蔣済が『万機論』を上呈すると、帝はこれを善しとした。入殿して散騎常侍となった。時に詔があり、征南将軍夏侯尚に命じるには 「卿は腹心の重将であり、特に任務を担当してもらう。死すに足る恩施、懐かせるような恵愛を行ない、威福を作して人を殺し活かせ」 。夏侯尚は蔣済に示した。蔣済が至ると帝が問うには 「卿の見聞では天下の風俗・教化はどうか?」 。蔣済が対えるには 「べつだん善い事は無く、ただ国を亡ぼす語(ことば)があるだけです」 と。帝は忿然として色を作してその理由を問うと、蔣済は具さに答えて曰く 「“作威作福”とは(君主の権限として)『書経』の明白な誡めであります。“天子に戯言なし”とは、古人の慎んだものであります。どうか陛下よ、これを賢察されん事を!」 。ここに帝は意図を理解し、追手を遣って前の詔を取り上げさせた。
黄初三年(222)、大司馬曹仁が呉を征伐した時、蔣済は別に羨谿を襲った。曹仁が濡須の中洲を攻めようと考えた処、蔣済曰く 「賊は西岸に拠っており、船を上流に列べております。兵を中洲に入れれば、これは自らを地獄(密閉の地)の内に置くもので、危亡の道であります」 。曹仁は従わず、果して敗れた。(翌年に)曹仁が薨じ、復た蔣済を東中郎将とし、代ってその兵を典領させた。詔に曰く 「卿の資質は文武を兼ね、志節は慷慨であり、常に江湖を超越して呉会を併呑する志を持っている。ゆえに復た将率の任を授けるものである」 と。暫くして徴されて尚書となった。車駕が広陵に行幸した時、蔣済は上表して水道が通り難く、又た『三州論』を上呈して帝に諷諫した。帝は従わず、ここに戦船数千は皆な滞って行く事ができなくなった。

 黄初六年(225)の事で、これからという処で水道が凍り、曹丕は龍舟も総帥としての役割も放棄して帰還した例の件です。

議者は兵を留めて屯田に就かせたいとしたが、蔣済は、東は湖に近く、北は淮河に臨んでおり、もし水が盛んとなった時、賊は寇を為し易く、屯田を安んじてはならないと考えた。帝はこれに従い、車駕は即日に発した。還って精湖に到ると、水はようよう尽き、尽く船を留めて蔣済に付した。船はもともと数百里の中を歴適(巡歴)しており、蔣済は更めて地を鑿って四・五道を作り、船を蹴たてるように聚めさせ、予め土豚(土墩)を作って湖水を遏断(遮断)しており、皆な後ろの船を引かせて一時に堤遏を開いて淮河の中に入れた。帝は洛陽に還ると蔣済に謂うには 「事に通暁しない訳にはゆかぬ。私は前(さき)に半ばに分けた船を山陽の池中で焼こうと決謂したが、卿は後れてこれを送致し、ほぼ私と倶に譙に至った。又た陳べる所を得る毎に、実際に我が意(こころ)に入ってくる。今より討賊の計画で、善く思慮して論じてくれ」

 明帝即位、賜爵關内侯。大司馬曹休帥軍向皖、濟表以為「深入虜地、與權精兵對、而朱然等在上流、乘休後、臣未見其利也。」 軍至皖、呉出兵安陸、濟又上疏曰:「今賊示形於西、必欲并兵圖東、宜急詔諸軍往救之。」 會休軍已敗、盡棄器仗輜重退還。呉欲塞夾石、遇救兵至、是以官軍得不沒。遷為中護軍。時中書監・令號為專任、濟上疏曰: 「大臣太重者國危、左右太親者身蔽、古之至戒也。往者大臣秉事、外内扇動。陛下卓然自覽萬機、莫不祗肅。夫大臣非不忠也、然威權在下、則衆心慢上、勢之常也。陛下既已察之於大臣、願無忘於左右。左右忠正遠慮、未必賢於大臣、至於便辟取合、或能工之。今外所言、輒云中書、雖使恭慎不敢外交、但有此名、猶惑世俗。況實握事要、日在目前、儻因疲倦之間有所割制、衆臣見其能推移於事、即亦因時而向之。一有此端、因當内設自完、以此衆語、私招所交、為之内援。若此、臧否毀譽、必有所興、功負賞罰、必有所易;直道而上者或壅、曲附左右者反達。因微而入、縁形而出、意所狎信、不復猜覺。此宜聖智所當早聞、外以經意、則形際自見。或恐朝臣畏言不合而受左右之怨、莫適以聞。臣竊亮陛下潛神默思、公聽並觀、若事有未盡於理而物有未周於用、將改曲易調、遠與黄・唐角功、近昭武・文之迹、豈近習而已哉! 然人君猶不可悉天下事以適己明、當有所付。三官任一臣、非周公旦之忠、又非管夷吾之公、則有弄機敗官之弊。當今柱石之士雖少、至于行稱一州、智效一官、忠信竭命、各奉其職、可並驅策、不使聖明之朝有專吏之名也。」 詔曰:「夫骨鯁之臣、人主之所仗也。濟才兼文武、服勤盡節、毎軍國大事、輒有奏議、忠誠奮發、吾甚壯之。」 就遷為護軍將軍、加散騎常侍。

 明帝が即位し、爵関内侯を賜わった。大司馬曹休が軍を帥いて皖に向かった折、蔣済が上表するには 「賊虜の地に深入して孫権の精兵と相対した場合、朱然らが上流に在って曹休の後に乗じましょう。臣には勝利が予見できません」 。軍が皖に至り、呉が安陸に出兵すると、蔣済は又た上疏して曰く 「今、呉賊は西への形を示しておりますが、必ずや兵を併せて東を図ろうとするでしょう。急ぎ諸軍に命じて往って救わせるべきであります」 。折しも曹休の軍は已に敗れ、尽く器仗輜重を棄てて退還していた。呉が夾石を塞がんとしたが、遇々救兵が至り、このため官軍は覆没せずにすんだ。遷って中護軍となった。
 時に中書監・中書令が任を専らにしていると称号されており、蔣済が上疏するには:
「近臣には大臣並みに賢明な者がいないとは限りませんが、便辟取合(阿諛迎合)については巧緻であります。外来者が中書に言及せぬ事は無く、これは事実でなくとも民を惑わす事になります。ましてや事実であれば、いずれは陛下の疲倦に乗じて大権を壟断し、衆臣もこれに迎合して一大朋党を形成する事でしょう。どうか黄帝・堯に倣われ、武帝・文帝に愧じぬようなされませ。周公・管仲の如き柱石の臣は少ないとはいえ、一州一官に相応する者たちは尽忠奉公しております。彼らの為にも、朝廷に専吏がいるという評判を無くされますよう」
詔に曰く 「骨鯁(硬骨)の臣とは人主が仗るものである。蔣済の才は文武を兼ね、職務にあっては節を尽くし、軍国の大事の毎にそのつど奏議し、忠誠を奮発してくれる。私はそれを甚だ壮としている」 。遷して護軍将軍とし、散騎常侍を加えた[1]

 景初中、外勤征役、内務宮室、怨曠者多、而年穀饑儉。濟上疏曰: 「陛下方當恢崇前緒、光濟遺業、誠未得高枕而治也。今雖有十二州、至于民數、不過漢時一大郡。二賊未誅、宿兵邊陲、且耕且戰、怨曠積年。宗廟宮室、百事草創、農桑者少、衣食者多、今其所急、唯當息耗百姓、不至甚弊。弊攰之民、儻有水旱、百萬之衆、不為國用。凡使民必須農隙、不奪其時。夫欲大興功之君、先料其民力而燠休之。句踐養胎以待用、昭王恤病以雪仇、故能以弱燕服彊齊、羸越滅勁呉。今二敵不攻不滅、不事即侵、當身不除、百世之責也。以陛下聖明神武之略、舍其緩者、專心討賊、臣以為無難矣。又歡娯之躭、害于精爽;神太用則竭、形太勞則弊。願大簡賢妙、足以充『百斯男』者。其冗散未齒、且悉分出、務在清靜。」 詔曰:「微護軍、吾弗聞斯言也。」

 景初中、外は征役に勤め、内は宮室に務め、怨曠者(単身の男女)が多くなり、しかも年々の稔穀は饑倹(凶作)だった。蔣済が上疏するには:
「陛下はまさに前緒を恢崇して遺業を光済させるべきで、誠に未だ枕を高くして治められはしないのです。今、十二州を保有しているとはいえ、民の数に至っては漢の時の一大郡を越えません。二賊は未だ誅されず、かねて兵は辺陲(辺境)で耕し且つ戦い、怨曠させること積年であります。宗廟・宮室の百事は草創中で、農桑する者は少なく衣食する者は多く、現今の急務はただ百姓の損耗を休息させ、甚だしい疲弊に至らせぬことです。弊攰(疲弊)の民にもし水旱の害があれば、百万の軍兵は国家に用(はたら)きをなさなくなります。凡そ民を使役するのは農事の隙を必ず須(ま)つもので、農時を奪ってはなりません。大いに功を興そうとする君主は、先ずその民の力を料ってから燠休(救恤)するものです。勾践は胎児を養うように(国人の)用きを待ち、(燕の)昭王は病人を恤(あわれ)む事で仇を雪ぎ、ゆえに弱燕を以て彊斉を屈服させ、羸越(弱越)は勁呉を滅ぼせたのです。今、二敵は攻めねば滅びず、相手をせねば侵し、身ずから除かねば百世に責められましょう。陛下の聖明神武の計略を以てその緩(非急務)たるを捨て、討賊に専心するのですから、臣は難事ではないと考えます。又た歓娯に躭(ふけ)るのは精爽を害するもので、精神を太だ用かせれば竭き、形(肉体)を太だ労すれば疲弊するもの。願わくば大いに賢妙にして“百斯男”[※]を充たすに足る者を簡抜されますよう。冗散にして未齢(未成年)は悉く分け放出し、清静に務められんことを」

※ 『詩経』大雅より。百斯男は多数の男児の事。周文王の妃を指す。

詔に曰く 「護軍が微(なかりせ)ば、吾はこのような言葉を聞けぬであろう」 [2]

 齊王即位、徙為領軍將軍、進爵昌陵亭侯、遷太尉。初、侍中高堂隆論郊祀事、以魏為舜後、推舜配天。濟以為舜本姓媯、其苗曰田、非曹之先、著文以追詰隆。是時、曹爽專政、丁謐・ケ颺等輕改法度。會有日蝕變、詔羣臣問其得失、濟上疏曰: 「昔大舜佐治、戒在比周;周公輔政、慎于其朋;齊侯問災、晏嬰對以布惠;魯君問異、臧孫答以緩役。應天塞變、乃實人事。今二賊未滅、將士暴露已數十年、男女怨曠、百姓貧苦。夫為國法度、惟命世大才、乃能張其綱維以垂于後、豈中下之吏所宜改易哉?終無益于治、適足傷民望、宜使文武之臣各守其職、率以清平、則和氣祥瑞可感而致也。」 以隨太傅司馬宣王屯洛水浮橋、誅曹爽等、進封都郷侯、邑七百戸。濟上疏曰: 「臣忝寵上司、而爽敢苞藏禍心、此臣之無任也。太傅奮獨斷之策、陛下明其忠節、罪人伏誅、社稷之福也。夫封寵慶賞、必加有功。今論謀則臣不先知、語戰則非臣所率、而上失其制、下受其弊。臣備宰司、民所具瞻、誠恐冒賞之漸自此而興、推讓之風由此而廢。」 固辭、不許。是歳薨、諡曰景侯。子秀嗣。秀薨、子凱嗣。咸熙中、開建五等、以濟著勳前朝、改封凱為下蔡子。

 斉王が即位すると領軍将軍に徙り、昌陵亭侯に進爵され[3]、太尉に遷った。嘗て侍中高堂隆が郊祀の事を論じた時、魏が舜の後裔である事を以て、舜を配天(合祀)するよう推した。蔣済は舜の本姓が媯であり、その苗裔が田である事から曹氏の先祖ではないと考え、文章を著して高堂隆を追って難詰した[4]。この当時、曹爽が朝政を専らにし、丁謐・ケ颺らが軽々しく法度を改易していた。たまたま日蝕の変事があり、詔して群臣にその得失を問うた処、蔣済が上疏するには:
「昔、大舜は治世を佐けた時に比周(朋党)の存在を戒め、周公は輔政に際して朋党(の形成)を慎み、斉侯が災異を問うた時に晏嬰は恩恵の流布を以て対え、魯君が異変を問うた時に臧孫[※]は徭役の緩和を以て答えました。

※ 臧武仲の事。孔子の前時代の魯の司寇(司法官)。智者として知られた。

天に応じて変異を塞ぐのは、実に人の為す事なのです。今、二賊は未だ滅びず、将士は露に暴(さら)されること已に数十年で、男女とも怨曠(怨女曠夫=独居を強いられている男女)し、百姓は貧苦しております。そも国の法度を為すのはただ命世の大才だけであり、そうであるからこそ綱維(国法)を張って後世に垂れる事ができるので、どうして中下の吏が改易していいものでありましょう? 終には政治に益すること無く、ただ民の信望を傷(そこ)なうだけであります。文武の臣に各々その職務を遵守させるべきで、清平によって率いれば、和気・祥瑞が感応して来致しましょう」 。
太傅司馬懿が洛水の浮橋に駐屯して曹爽らを誅殺したのに随い、都郷侯に進封され、七百戸を食邑とした。蔣済が上疏するには:
「臣は上司(三公)として恩寵を忝くしましたが、曹爽が禍心を苞藏していたのは臣が責任を果たさなかったせいであります。太傅が独断の策を奮い、陛下がその忠節を明らかにし、罪人が誅に伏したのは社稷の福であります。そも封寵・慶賞とは必ず功ある者に加えるもの。今、謀りごとを論ずれば臣が知ること先ならず、戦さを語れば臣が率いたのではありません。上が制度を失えば下はその弊害を受けるもの。臣は宰司に備わり、民が具瞻(望仰)する立場であり、誠に賞を冒す漸(端緒)がこれより興り、推譲の風がこれより廃れるのを恐れるものです」 。
(進封を)固辞したが、許されなかった[5]。この歳に薨じ、景侯と諡された[6]。子の蔣秀が嗣いだ。蔣秀が薨じ、子の蔣凱が嗣いだ。咸熙中(264〜65)、五等爵(公侯伯子男)が開建されると、蔣済の前朝での勲が著しかった事から蔣凱を改封して下蔡子とした。
 
[1] 太和六年(232)、明帝は平州刺史田豫を遣って船で渡海させ、幽州刺史王雄を遣って陸行させ、併せて遼東を攻めさせた。蔣済が諫めるには 「凡そ相呑の国(交戦中の国)でなく、侵叛の臣でない者を軽々しく伐ってはなりません。これを伐って制圧できねば、これを駆りたてて(真の)賊としてしまいます。ゆえに曰く“虎狼が路にあれば狐狸を治めず、先んじて大害を除けば小害は自ずと已む”と。今、海表(海外)の地は累世で委質(臣属)しており、歳ごとに計考(上計吏と孝廉)を選び、職貢(朝貢物)も乏しくありません。議者がこれを先にしたのは、一挙動でたちまち克てるとしたのでしょうが、その民を得た処で国に益すには足らず、その財を得た処で国を富ますには足らず、もし意の如くならねば、これぞ怨みを結び信を失う事になりましょう」 と。帝は聴かず、田豫の行動は竟には達成せず帰還した。 (司馬彪『戦略』)

 まーそもそも田豫の目的が遼東遠征じゃありませんでしたし、これを失敗行動とするのは酷というものです。蔣済の進言を讃えるために司馬彪が著し、裴松之が採用したに過ぎませんし。

[2] 公孫淵は魏将が来討すると聞くと復た孫権に称臣し、兵を乞うて救かろうとした。帝が蔣済に問うには 「孫権は遼東を救うだろうか?」 と。蔣済曰く 「彼の者は官の備えが堅固であって勝利を得らず、深入しても力を発揮できず、浅入しても労のみで獲られぬ事を知っております。孫権は子弟が危難に在ろうとも猶お動かぬ者です。ましてや異域の人であり、しかも嘗て辱められたのです! 今、外に対して声援を揚げているのは、その行人(軍兵?)を譎ってこちらに疑わせ、こちらが克たねば、冀折後事已耳。しかし沓渚の一帯は公孫淵を去ること尚お遠く、もし大軍が相い対峙して事が速やかに決せらねば、孫権の浅規(浅計)からして或いは軽速兵で掩襲するやもしれず、未だ予測しきれません」 。 (『漢晋春秋』)
[3] 済為領軍、其婦夢見亡児涕泣曰: 「死生異路、我生時為卿相子孫、今在地下為泰山伍伯、憔悴困辱、不可復言。今太廟西謳士孫阿、今見召為泰山令、願母為白侯、属阿令転我得楽処。」 言訖、母忽然驚寤、明日以白済。済曰: 「夢為爾耳、不足怪也。」 明日暮、復夢曰: 「我来迎新君、止在廟下。未発之頃、暫得来帰。新君明日日中当発、臨発多事、不復得帰、永辞於此。侯気彊、難感悟、故自訴於母、願重啓侯、何惜不一試験之?」 遂道阿之形状、言甚備悉。天明、母重啓侯: 「雖云夢不足怪、此何太適? 適亦何惜不一験之?」 済乃遣人詣太廟下、推問孫阿、果得之、形状証験悉如児言。済涕泣曰: 「幾負吾児!」 於是乃見孫阿、具語其事。阿不懼当死、而喜得為泰山令、惟恐済言不信也。曰: 「若如節下言、阿之願也。不知賢子欲得何職?」 済曰: 「隨地下楽者与之。」 阿曰: 「輒当奉教。」 乃厚賞之、言訖遣還。済欲速知其験、従領軍門至廟下、十歩安一人、以伝阿消息。辰時伝阿心痛、巳時伝阿劇、日中伝阿亡。済泣曰: 「雖哀吾児之不幸、且喜亡者有知。」 後月余、児復来語母曰: 「已得転為録事矣」 。 (『列異伝』)

 蔣済が領軍将軍だった時、夫人の夢枕に死んだ子が現れ、冥府の泰山令になる予定の孫阿に今のうちに安楽な部署への転属を願っておいてほしいと嘆願した。蔣済ははじめ信じなかったが、ウザくなって太廟の西に行ってみると果して孫阿がいた。そこで死後の事を依頼した。間もなく孫阿は死に、その後に死んだ子が再び夫人の夢枕に現れて転任を報告した。

[4] 裴松之が調べた処、蔣済は“立郊の議”で、曹騰の碑文が 「曹氏の一族は邾より出た」 と云っていると称している。『魏書』が述べる曹氏の胤緒も亦たこの通りである。

 邾は周が、黄帝の後裔を曲阜近郊に封じた小国。姫姓曹氏。その出自ゆえ、礼制上は重んじられた。孟子の生国でもある。

魏武帝が作った家伝では、自らの叔振鐸の後裔だと云っている。ゆえに陳思王(曹植)が作った武帝の誄文に曰く 「武皇は后稷の冑(すえ)にして周の胤なり」 と。これらは(前者と)同じではない。景初年間に至るに及び、明帝は高堂隆より講議され、魏が舜の後裔だと謂(かんが)え、後に魏が晋に禅譲した文では 「我が皇祖たる有虞」 と称しており、その異なることいよいよ甚だしい。蔣済が高堂隆を難詰したり、尚書繆襲と(書簡で)往反した事にはともに根拠とした道理があるが、文字が多いので載せない。蔣済も亦た未だ氏族の出自を定められず、ただ謂うには 「魏は舜の後裔ではないのに横恣に族員でない者を祀り、太祖を降黜して正しく配天しないのは皆な繆妄である」 と。しかし当時には竟に是正できる者が莫かった。
 蔣済は又た鄭玄の注した(『礼記』の)『祭法』の 「有虞氏以前は徳を尚び、禘・郊・祖宗の祀りに有徳者を配合した。夏朝より次第にその姓氏を合祀するようになった」 を難詰した。

※ 禘は上帝を祀る事。郊は京師の郊外で天地を祀る事。

蔣済曰く 「そも虯・龍は獺(カワウソ)より神聖ですが、獺はその先祖を祭りはしても虯・龍を祭りはしません。騏・白虎は豺(ヤマイヌ)より仁ではありますが、豺はその先祖を祭りはしても騏・虎を祭りはしません。鄭玄の説の如くなら、有虞氏以前は豺・獺にも及ばなかったのでしょうか? 臣が考えるに、『祭法』が云っている事は学者に疑われること久しく、鄭玄はその違謬を考正せずにその意義のまま通釈しております」 。蔣済の豺獺の譬えは俳諧(諧謔)のようなものだが、その義旨には探求すべき点がある。
[5] 孫盛曰く、蔣済が食邑を辞退したのは、心に負(そむ)かぬものだと謂ってよかろう。諺語の 「利を回(めぐ)らせず、義に疚しからず」 を蔣済は具備している。
[6] 嘗て蔣済が司馬懿に随って洛水の浮橋に駐屯した時、蔣済は曹爽に書簡を与えて司馬懿の旨を言うには 「ただ免官するだけだ」 と。曹爽は結局は誅滅された。蔣済はその言葉が信を失ったものである事を病み、発病して卒した。 (『世語』)
 

劉放

 劉放字子棄、涿郡人、漢廣陽順王子西郷侯宏後也。歴郡綱紀、舉孝廉。遭世大亂、時漁陽王松據其土、放往依之。太祖克冀州、放説松曰: 「往者董卓作逆、英雄並起、阻兵擅命、人自封殖、惟曹公能拔拯危亂、翼戴天子、奉辭伐罪、所向必克。以二袁之彊、守則淮南冰消、戰則官渡大敗;乘勝席卷、將清河朔、威刑既合、大勢以見。速至者漸福、後服者先亡、此乃不俟終日馳騖之時也。昔黥布棄南面之尊、仗劍歸漢、誠識廢興之理、審去就之分也。將軍宜投身委命、厚自結納。」 松然之。會太祖討袁譚於南皮、以書招松、松舉雍奴・泉州・安次以附之。放為松答太祖書、其文甚麗。太祖既善之、又聞其説、由是遂辟放。建安十年、與松倶至。太祖大ス、謂放曰:「昔班彪依竇融而有河西之功、今一何相似也!」 乃以放參司空軍事、歴主簿記室、出為郃陽・祋祤・贊令。

 劉放、字は子棄。涿郡の人で、漢の広陽順王の子である西郷侯劉宏の後裔である。

 いきなり困った事に、該当する王がいません。そもそも東漢では初期の一時期を除いて広陽国は無いので西漢の諸侯王だと思われますが、燕剌王の子が広陽王に改封されてより頃王建・穆王舜・思王璜・劉嘉と続いて王莽によって廃されていて、それ以前の燕王にも順王はいません。『漢書』王子侯表下に、広陽頃王の子として西郷侯劉容が記されているので、恐らくは陳寿もしくは班固の誤記ではないかと思われます。ま、劉備の近在で血統を明言されているのが劉放だという事です。

郡の綱紀(功曹・主簿)を歴任し、孝廉に挙げられた。世の大乱に遭い、時に漁陽の王松がその土地に拠っており、劉放は往ってこれに依拠した。曹操が冀州に克つと、劉放が王松に説くには:

「かつて董卓が作逆して英雄が並び起ち、兵を阻(たの)んで命を擅(ほしいまま)にし、諸人は自ら封地を殖やしました。ただ曹公だけが危乱を抜拯(救出)し、天子を翼戴し、聖辞を奉じて罪を伐ち、向うところ必ず克つ事ができます。二袁の彊盛を以てしても、守っては淮南に冰消し、戦っては官渡で大いに敗れました。勝ちに乗じて席巻すること河朔を清めんとしており、威刑が合致したからには大勢はもう見えております。速やかに至る者は福に漸(ひた)り、服従に後れた者は先んじて亡びるもので、これぞ終日を俟(ま)たず馳騖(奔走)する時であります。昔、黥布が南面の尊きを棄て、剣に仗って漢に帰したのは誠に廃興の理りを識り、去就の分を審らかにしたものでした。将軍は身を投じて命を委ね、厚く自ら受納を結ぶべきであります」 。

王松は然りとした。折しも曹操は南皮に袁譚を討つに際し、書状で王松を招き、王松は雍奴・泉州・安次を挙げて附した。劉放が王松の為に曹操の書状に答えたが、その文は甚だ美麗だった。曹操はこれを善しとしており、又たその説を聞き、これによって遂に劉放を辟した。建安十年(205)、王松と倶に至った。曹操は大いに悦び、劉放に謂うには 「昔、班彪は竇融に依拠して河西の功があった。今の一事はなんと似ている事か!」 。かくして劉放を参司空軍事とした。主簿記室を歴任してから転出して郃陽・祋祤[※]・賛の令となった。

※ 祋祤は現在の陝西省銅川市耀州区河東堡を治所とした左馮翊の県。魏の黄初元年(220)に泥陽県(甘粛省慶陽市寧県)に徙されて北地郡に属し、旧祋祤が泥陽県となった。

 魏國既建、與太原孫資倶為祕書郎。先是、資亦歴縣令、參丞相軍事。文帝即位、放・資轉為左右丞。數月、放徙為令。黄初初、改祕書為中書、以放為監、資為令、各加給事中;放賜爵關内侯、資為關中侯、遂掌機密。三年、放進爵魏壽亭侯、資關内侯。明帝即位、尤見寵任、同加散騎常侍;進放爵西郷侯、資樂陽亭侯。太和末、呉遣將周賀浮海詣遼東、招誘公孫淵。帝欲邀討之、朝議多以為不可。惟資決行策、果大破之、進爵左郷侯。放善為書檄、三祖詔命有所招喩、多放所為。青龍初、孫權與諸葛亮連和、欲倶出為寇。邊候得權書、放乃改易其辭、往往換其本文而傅合之、與征東將軍滿寵、若欲歸化、封以示亮。亮騰與呉大將歩隲等、隲等以見權。權懼亮自疑、深自解説。是歳、倶加侍中・光祿大夫。景初二年、遼東平定、以參謀之功、各進爵、封本縣、放方城侯、資中都侯。

 魏国が建てられると、太原の孫資と倶に秘書郎となった。これより先、孫資も亦た県令を歴任して参丞相軍事となっていた[1]。文帝が即位すると、劉放・孫資は転じて秘書の左右丞となった。数月して劉放は徙って秘書令となった。黄初の初め、秘書を改めて中書とすると、劉放を中書監とし、孫資を中書令とし、各々に給事中を加え、劉放に爵関内侯を賜い、孫資を関中侯とし、かくて機密を管掌させた。三年(222)、劉放は魏寿亭侯に、孫資は関内侯に進爵した。明帝が即位すると尤も寵任され、同じく散騎常侍を加えられ、劉放の爵は西郷侯に、孫資は楽陽亭侯に進んだ[2]。太和の末(232)、呉が将の周賀を遣って海に浮かんで遼東に詣らせ、公孫淵を招誘させた。帝はこれを邀討せんと欲したが、朝議では多くが不可とした。ただ孫資だけが決行を策定し、果たして大いにこれを破り、左郷侯に進爵された[3]
 劉放は書と檄文に善く、三祖(操・丕・叡)の詔命で招喩する場合は多くが劉放の為したものだった。青龍の初め、孫権が諸葛亮と連和し、倶に出撃して冦を為そうとした。辺候が孫権の書状を得ると劉放はその文辞を改易し、往往にその本文を換えて傅合(符合)させ、征東将軍満寵に与えるものとし、帰化を欲している如くしてから封をして諸葛亮に示した。諸葛亮は騰(駅馬)で呉の大将の歩隲らに与え、歩隲らはそれで孫権に通見した。孫権は諸葛亮が疑うのを懼れ、深く自ら説いて解疑した。この歳、倶に侍中・光禄大夫を加えられた[4]。景初二年(238)、遼東が平定されると参謀の功を以て各々進爵され、本籍の県に封じられ、劉放は方城侯、孫資は中都侯となった。

 其年、帝寢疾、欲以燕王宇為大將軍、及領軍將軍夏侯獻・武衞將軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎將軍秦朗共輔政。宇性恭良、陳誠固辭。帝引見放・資、入臥内、問曰:「燕王正爾為?」 放・資對曰:「燕王實自知不堪大任故耳。」 帝曰:「曹爽可代宇不?」 放・資因贊成之。又深陳宜速召太尉司馬宣王、以綱維皇室。帝納其言、即以黄紙授放作詔。放・資既出、帝意復變、詔止宣王勿使來。尋更見放・資曰:「我自召太尉、而曹肇等反使吾止之、幾敗吾事!」 命更為詔、帝獨召爽與放・資倶受詔命、遂免宇・獻・肇・朗官。太尉亦至、登牀受詔、然後帝崩。齊王即位、以放・資決定大謀、摎W三百、放并前千一百、資千戸;封愛子一人亭侯、次子騎都尉、餘子皆郎中。正始元年、更加放左光祿大夫、資右光祿大夫、金印紫綬、儀同三司。六年、放轉驃騎、資衞將軍、領監・令如故。七年、復封子一人亭侯、各年老遜位、以列侯朝朔望、位特進。曹爽誅後、復以資為侍中、領中書令。嘉平二年、放薨、諡曰敬侯。子正嗣。資復遜位歸第、就拜驃騎將軍、轉侍中、特進如故。三年薨、諡曰貞侯。子宏嗣。

 その年、帝は寝疾(病臥)し、燕王曹宇を大将軍とし、領軍将軍夏侯献・武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎将軍秦朗と共に輔政させようとした。曹宇の性は恭良で、誠心を陳べて固辞した。帝は劉放・孫資を引見し、臥室の内に入れて問うには 「燕王のは本意か?」 。劉放・孫資が対えるには 「燕王は実際、自身が堪えられないのを御存じなだけです」 。帝 「曹爽を曹宇に代えられようか?」 。劉放・孫資はよって賛成した。又た深く陳べるには、速やかに太尉司馬懿を召して皇室を綱維(支扶)させるべきだと。帝はその言葉を納れ、即座に黄紙を劉放に授けて詔を作らせた。劉放・孫資が退出すると、帝の意思は復た変じ、詔して司馬懿を止めて来させる勿れと。尋いで更めて劉放・孫資を通見して 「我自身は太尉を召したいのだが、曹肇らが反って私を止めさせたのだ。我が事は敗れかかっておる!」 。命じて更めて詔を作らせ、帝は独り曹爽のみを召して劉放・孫資と倶に詔命を受けさせ、かくて曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗らの官を免じた。太尉も亦た至り、牀に登って詔を受け、然る後に帝は崩じた[5]。斉王は即位すると、劉放・孫資が大謀を決定したとして食邑三百戸を増し、劉放は前と併せて千一百戸、孫資は千戸となり、愛子一人を亭侯に封じ、次子を騎都尉とし、余子は皆な郎中となった。正始元年(240)、更めて劉放に左光禄大夫を、孫資に右光禄大夫を加え、金印紫綬・儀同三司とした。

※ 三品の光禄大夫に対し、二品相当の金印紫綬を与える事で特別待遇を示しています。大抵の場合は今回と同様に二品相当の加官を伴い、晋代になると“金紫光禄大夫”の呼称も定着します。

六年(245)、劉放は驃騎将軍に、孫資は衛将軍に転じ、領中書監・中書令は以前通りだった。七年(246)、復た子の一人が亭侯に封じられ、各々は老齢として位を遜(ゆず)り、列侯として朔と望(一日と十五日)に入朝し、位特進となった[6]

 劉放・孫資が遜位したのは正始九年で、曹爽派による朝廷支配が露骨になった事に対する反対行動だと思われます。

曹爽が誅された後、復た孫資を侍中・領中書令とした。嘉平二年(250)、劉放が薨じ、敬侯と諡した。子の劉正が嗣いだ[7]。孫資は復た位を遜って邸第に帰り、驃騎将軍を就拝(現地での拝命)し、侍中に転じ、特進はもとの通りだった。三年(251)に薨じ、貞侯と諡した。子の孫宏が嗣いだ。

 放才計優資、而自脩不如也。放・資既善承順主上、又未嘗顯言得失、抑辛毗而助王思、以是獲譏於世。然時因羣臣諫諍、扶贊其義、并時密陳損益、不專導諛言云。及咸熙中、開建五等、以放・資著勳前朝、改封正方城子、宏離石子。

 劉放の才・計は孫資に優っていたが、修身では及ばなかった。劉放・孫資は主上に承順するのに善く、又た未だ嘗て得失を顕かに言った事は無く、辛毗を抑えて王思を助け、この事で世の譏りを獲た。しかし時に群臣の諫諍に因んでその意義を扶賛し、時には密かに損益を陳べ、諛言を導くのだけを専らにしたのではないと云われる。咸熙中(264〜65)に五等爵が開建されるに及び、劉放・孫資が前朝での勲が著しい事を以て、劉正は方城子に、孫宏は離石子に改封された[8]
 
[1]
孫資

 孫資、字は彦龍。幼くして岐嶷(雄大)としており、三歳で両親を喪い、兄と嫂の下で成長した。太学で講業して広く伝記を閲覧し、同郡の王允は一見してこれを奇とした。曹操は司空になると孫資を辟した。たまたま兄が郷人に害され、孫資は手刃にて讐に報じ、かくして家属を率いて地を河東に避け、ゆえに辟命には応じなかった。尋いで復た本郡に徴命され、疾病を理由に辞退した。友人である河東の賈逵が孫資に謂うには 「足下は逸群の才を抱え、旧邦の傾覆に遭っている。主将(本国太守)が殷勤に千里の先で頸を延しているからには、古えの賢人の桑梓(懐郷)の義を崇ぶべきだ。しかし久しく盤桓(躊躇)して君命を拒み違えており、これでは秦王の庭で和氏璧を耀かせながら連城の価を塞ぐようなものですぞ[※]。竊かに足下の為に取らせたくない方法だ!」 。

※ 秦王が趙王の持つ名玉/和氏璧と自国の五城を交換に求めた時、訪秦使となった藺相如が、秦王には約束履行の意思が無いと見て和氏璧だけを先に帰国させ、秦との盟約を保ったまま壁も奪われなかったという“完璧の使”の事を指しています。藺相如の行ないに否定的な孫資の見解が孫資の私見なのか、当時の時流だったのかは不明。

孫資はその言葉に感動し、かくて往ってこれに応じた。到ると功曹に署き、計吏に挙げられた。尚書令荀ケは孫資を見ると嘆じて 「北州は喪乱を承けて已に久しく、その賢智は零落したと謂(かんが)えていたが、今日こうして復た孫計君を見ようとは!」 。上表して留めて尚書郎とした。家の難儀を以て辞退し、河東に還る事ができた。 (『孫資別伝』)
[2] 諸葛亮出在南鄭、時議者以為可因発大兵、就討之、帝意亦然、以問資。資曰 :「昔武皇帝征南鄭、取張魯、陽平之役、危而後済。又自往抜出夏侯淵軍、数言『南鄭直為天獄、中斜谷道為五百里石穴耳』、言其深険、喜出淵軍之辞也。又武皇帝聖於用兵、察蜀賊棲於山巖、視呉虜竄於江湖、皆橈而避之、不責将士之力、不争一朝之忿、誠所謂見勝而戦、知難而退也。今若進軍就南鄭討亮、道既険阻、計用精兵又転運鎮守南方四州遏禦水賊、凡用十五六万人、必當復更有所発興。天下騷動、費力広大、此誠陛下所宜深慮。夫守戦之力、力役参倍。但以今日見兵、分命大将拠諸要険、威足以震摂彊寇、鎮静疆埸、将士虎睡、百姓無事。数年之間、中国日盛、呉蜀二虜必自罷弊。」 帝由是止。時呉人彭綺又挙義江南、議者以為因此伐之、必有所克。帝問資、資曰:「鄱陽宗人前後数有挙義者、衆弱謀浅、旋輒乗散。昔文皇帝嘗密論賊形勢、言洞浦殺万人、得船千万、数日間船人復会;江陵被囲歴月、権裁以千数百兵住東門、而其土地無崩解者。是有法禁、上下相奉持之明験也。以此推綺、懼未能為権腹心大疾也。」 綺果尋敗亡。 (『孫資別伝』)
[3] 烏丸校尉田豫が西部鮮卑の泄帰尼らを帥いて出塞し、軻比能・智鬱築鞬を討ってこれを破り、還って馬邑故城に至った処、軻比能が三万騎を帥いて田豫を囲んだ。帝はこれを聞くと、計策がなかなか出ず、中書省に行って監・令に問うた。中書令孫資が対えるには 「上谷太守閻志は閻柔の弟で、軻比能が平素より帰信しております。詔使を馳せて軻比能を説くよう命じれば、師を労さずして自ずと解けましょう」 と。帝がこれに従った処、軻比能は果して田豫を釈いて還った。 (『魏氏春秋』)
[4] 是時、孫權・諸葛亮號稱劇賊、無歳不有軍征。而帝總攝羣下、内圖禦寇之計、外規廟勝之畫、資皆管之。然自以受腹心、常讓事於帝曰:「動大衆、舉大事、宜與羣下共之;既以示明、且於探求為廣。」 既朝臣會議、資奏當其是非、擇其善者推成之、終不顯己之コ也。若衆人有譴過及愛憎之説、輒復為請解、以塞譖潤之端。如征東將軍滿寵・涼州刺史徐邈、並有譖毀之者、資皆盛陳其素行、使卒無纖介。寵・邈得保其功名者、資之力也。初、資在邦邑、名出同類之右。郷人司空掾田豫・梁相宗豔皆妬害之、而楊豐黨附豫等、專為資構造謗端、怨隙甚重。資既不以為言、而終無恨意。豫等慚服、求釋宿憾、結為婚姻。資謂之曰:「吾無憾心、不知所釋。此為卿自薄之、卿自厚之耳!」 乃為長子宏取其女。及當顯位、而田豫老疾在家。資遇之甚厚、又致其子於本郡、以為孝廉。而楊豐子後為尚方吏、帝以職事譴怒、欲致之法、資請活之。其不念舊惡如此。 (『孫資別伝』)
[5] 劉放・孫資は久しく枢機の任を典領しており、夏侯献・曹肇の心中は平らかでなかった。殿中には雞の棲む樹があり、二人が謂い合うには 「これも亦た久しいが、どれほど続くかな?」 。指して劉放・孫資だと謂った。劉放・孫資は懼れ、かくして帝に司馬懿を召す事を勧めた。帝は手づから詔を作り、給使の辟邪に至るよう命じ、司馬懿に授けさせた。司馬懿は汲(新郷市衛輝)に在り、夏侯献らは詔に先んじて軹関の西から長安に還るよう命じた。辟邪も又た至り、司馬懿は変事が生じたかと疑い、辟邪を呼んで具さに問い、かくして追鋒車(快速の馬車)に乗って馳せて京師に至った。帝が劉放・孫資に問うた 「誰を太尉と対配させるべきか?」 。劉放 「曹爽」 。帝曰く 「その事に堪えられるかどうか?」 。曹爽は左右に在って汗が流れて対えられなかった。劉放はその足を踏み、耳うちして 「臣は死を以て社稷に奉ずるものです」 。
 曹肇の弟の曹纂は大将軍司馬であり、燕王は頗(いささ)か帝旨を失っていた。曹肇が退出したのを曹纂が見て驚き 「上が安んじていないのに、どうして悉く共に退出したのか? 還るべきだ」 。已に暮れ、劉放・孫資は宮門に詔を宣べ、再びは曹肇らが参内できぬようにし、燕王を罷免した。曹肇は明日に門に至ったが入れず、懼れて延尉に至り、対処が宜しきを失っているとして罷免された。帝が夏侯献に謂うには 「私は已に差(癒)えた。すぐ退出せよ」 。夏侯献は流涕しつつ退出し、亦た罷免された。 (『世語』) ―― 『世語』の云うところを調べたが、任命の前後が本伝と同じではない。
―― 帝が孫資に詔し 「私も漸く成長したが、書伝を閲歴すると将来が不安だ。死後の計策を図るなら近親者に権勢や重兵の任を寄せるべきだろう。ところで欠員の射声校尉には誰を充てればよかろう?」 。
 孫資曰く:「陛下の思深慮遠は愚臣の及ぶ所ではありません。陛下なら当然、陳平・周勃が劉氏を安んじ、孝武帝が金日磾・霍光に後事を嘱託した事はご存知でありましょう! 文皇帝が曹真を召還した時、親しく臣に重慮を詔してから晏駕(崩御)され、陛下が踐阼した後も猶お曹休という外内の信望を担う者がおり、そのため御勒(統御)は傾かず、各々に職分を守らせ、纖介の隙もありませんでした。これらから推測すれば、親臣や貴戚が権勢に拠り兵権を握るのが当然とはいえ、平素より軽重を定めておくべきで、もし兵権を執る諸侯の待遇が斉しければ、各々が下風に立とうとはせずに意志の統一も図れますまい。現状、(射声校尉を含む)五営が典領する兵は常に数百人を越えず、その校尉程度の人材なら選授するのもさして難事ではありません。国家にとっての維綱たる者に至っては、陳平周勃・金日磾[※]霍光劉章らの如き一・二人を簡択し、次第に特別に威を重くして鎮固させるのが善策でありましょう」 。

※ 匈奴の渾邪王の世子。父と倶に漢に降って武帝に近侍し、謹慎さによって寵愛された。馬通らが宮中で叛くと自ら格闘して捕え、武帝の臨終に際しては霍光・上官桀と並んで後事を託された。

 帝曰く、「その通りだ。では彼らに匹敵するのは誰か?」 。
 孫資曰く:「人を知る事は古えの帝王でも難事としたもので、唐堯・虞舜すら業績によって進用したものです。陳平には周勃・灌嬰らから受賄・嫂を盗んだとの誹謗があり、周勃は吹簫者から彊弓手に転じた当初は無名の存在でした。高祖は彼らの行跡を観察して判断したのです。霍光は武帝に給事すること二十余年、小心謹慎として親信され、金日磾は夷狄の産ながらも至孝質直として特に擢用されたもので、それでも胡人の児を重貴したと非難されました。彼らであってもその終りとして周勃は反名を被り、陳平は呂須の讒言を免れるのに腐心し、霍光は上官桀・桑弘羊と権を争って禍乱を成す寸前でした。これらは誠に人を知ることが容易ではなく、臣たる事の困難さであります。陛下は親しみ信じる者を簡択すべきであり、愚臣の識別できるものではありません」 。 (『孫資別伝』)
―― 裴松之が考えるに、孫・劉は当時に任を専らにしていると号され、機密を制断し、政事で綜べぬものは無かった。孫資・劉放は託付の問いを被り、安危の判断に直面して更めてその対応を依違(曖昧)にし、適莫(可否)を断じなかった。人の親任を受け、道理としてどうしてこうしていられるのか? 本伝および諸書を調べるに、揃って劉放・孫資は曹爽を称え、司馬懿の召致を勧めたが、魏室が亡ぶ禍いはこれに基づくと云っている。『孫資別伝』はその家を出自とし、その言葉でその大失を掩わんとしている。しかし恐らく国に負(そむ)いた玷(きず)は、終には磨ききる事はできまい。
[6] 大将軍爽専事、多變易舊章。資歎曰:「吾累世蒙寵、加以豫聞属託、今縱不能匡弼時事、可以坐受素餐之禄邪?」 遂固称疾。九年(248)二月、乃賜詔曰:「君掌機密三十余年、経営庶事、勲著前朝。曁朕統位、動頼良謀。是以曩者増崇寵章、同之三事、外帥群官、内望讜言。属以年耆疾篤、上還印綬、前後鄭重、辞旨懇切。天地以大順成徳、君子以善恕成仁、重以職事、違奪君志;今聴所執、賜銭百万、使兼光禄勲少府親策詔君養疾于第。君其勉進医薬、頤神和気、以永無疆之祚。置舎人官騎、加以日秩肴酒之膳焉。」 (『孫資別伝』)
[7] 裴松之が頭責子羽[※]を調べた処、曰く、士卿(朝臣)の劉許、字は文生は劉正の弟である。張華ら六人と揃って文辞には観るべきがあり、意思が詳序(詳細かつ順序的)だと称えられた。晋恵帝の世に、劉許は越騎校尉となった。

※ 西晋の張敏が著した短編対話文の通称かつ語り手の綽名。著者や張華・劉許らを友人とする才子でありながら、容姿のせいで官途は不遇という設定で、これは当時、清流と称されていた張華らを含めて、容姿によって人を選別するという世相を諷刺したもの。

[8] 『孫氏譜』を調べた処、孫宏は南陽太守となった。孫宏の子は孫楚、字は子荊。
 孫楚の郷人の王済は豪俊の公子であり、本州の大中正となった。訪れ問うて孫楚の人品・行状を探求した上で、王済曰く 「この人は卿らが評価できる相手ではない」 として、自ら 「天賦の才は俊英にして博く、亮らかに群を抜いている」 と評した。孫楚の官位は討虜護軍・馮翊太守に至った。孫楚の子の孫洵は潁川太守となった。孫洵の子の孫盛の字は安国といい、給事中や秘書監となった。孫盛の従父弟の孫綽は字を興公といい、廷尉正となった。孫楚および孫盛孫綽は揃って文藻があり、孫盛は又た名理の論(名分と道理を称える論理学)に善く、諸々の論著したものは皆な世に伝わっている。 (『晋陽秋』)
 

 評曰:程c・郭嘉・董昭・劉曄・蔣濟才策謀略、世之奇士、雖清治コ業、殊於荀攸、而籌畫所料、是其倫也。劉放文翰、孫資勤慎、並管喉舌、權聞當時、雅亮非體、是故譏諛之聲、毎過其實矣。

 評に曰く:程c・郭嘉・董昭・劉曄・蔣済の謀略を策(はか)る才は世の奇士であり、清治・徳業は荀攸と異なるが、籌画して料った点ではその倫(ともがら)である。劉放は文翰、孫資は勤慎で揃って喉舌の事(詔勅)を管掌し、権勢は当時に聞こえたが、雅亮を体現せず、これゆえに譏諛の声が毎(つね)にその実態を超えていた。

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