蔣濟字子通、楚國平阿人也。仕郡計吏・州別駕。建安十三年、孫權率衆圍合肥。時大軍征荊州、遇疾疫、唯遣將軍張喜單將千騎、過領汝南兵以解圍、頗復疾疫。濟乃密白刺史偽得喜書、云歩騎四萬已到雩婁、遣主簿迎喜。三部使齎書語城中守將、一部得入城、二部為賊所得。權信之、遽燒圍走、城用得全。明年使於譙、太祖問濟曰:「昔孤與袁本初對官渡、徙燕・白馬民、民不得走、賊亦不敢鈔。今欲徙淮南民、何如?」 濟對曰:「是時兵弱賊彊、不徙必失之。自破袁紹、北拔柳城、南向江・漢、荊州交臂、威震天下、民無他志。然百姓懷土、實不樂徙、懼必不安。」 太祖不從、而江・淮間十餘萬衆、皆驚走呉。後濟使詣鄴、太祖迎見大笑曰:「本但欲使避賊、乃更驅盡之。」 拜濟丹陽太守。大軍南征還、以温恢為揚州刺史、濟為別駕。令曰:「季子為臣、呉宜有君。今君還州、吾無憂矣。」 民有誣告濟為謀叛主率者、太祖聞之、指前令與左將軍于禁・沛相封仁等曰:「蔣濟寧有此事! 有此事、吾為不知人也。此必愚民樂亂、妄引之耳。」 促理出之。辟為丞相主簿西曹屬。令曰:「舜舉皋陶、不仁者遠;臧否得中、望于賢屬矣。」 關羽圍樊・襄陽。太祖以漢帝在許、近賊、欲徙都。司馬宣王及濟説太祖曰:「于禁等為水所沒、非戰攻之失、於國家大計未足有損。劉備・孫權、外親疎、關羽得志、權必不願也。可遣人勸躡其後、許割江南以封權、則樊圍自解。」 太祖如其言。權聞之、即引兵西襲公安・江陵。羽遂見禽。
「かの時は兵は弱く賊は彊く、徙さねば必ず失っておりました。袁紹を破ってより、北は柳城を抜き、南は長江・漢水に向い、荊州(劉j)は(背で)臂を交錯し、威は天下を震わせており、民には他志はございません。百姓とは土地に懐き、実際には徙るのを楽(よろこ)ばぬもの。きっと安んじはしない事が懼れられます」 。
曹操は従わず、しかし江淮の間の十余万の人々は皆な驚いて呉に走った。嘗て曹操が江浜の郡県が孫権に劫略される事を恐れ、徴発して内陸部に移るよう布令した処、民衆は却って相い驚き、廬江・九江・蘄春・広陵の十余万戸が皆な長江を渡り、江西はかくて空虚となり、合肥以南にはただ皖城があるだけだった。 (呉主伝)
後に蔣済が使者として鄴に詣った時、曹操は迎見して大いに笑いつつ 「本来はただ賊を避けさせようとしただけなのに、更めて尽く駆りたててしまった」 。蔣済を丹陽太守に拝した。大軍が南征から還ると温恢を揚州刺史とし、蔣済を別駕とした。辞令に曰く 「季子を臣とし、呉の君主は(ようやく)正当性を得た。今、君が州に還るからには私に憂いは無い」 。民の中に蔣済が謀叛の主率者であると誣告する者がおり、曹操はこれを聞くと、前の辞令を左将軍于禁・沛相封仁らに指し示しつつ 「蔣済にこの事があろうか! この事があれば私は人を知らぬという事になる。これは必ず愚民が乱を楽しんで妄りに彼の名を引き出しただけだ」 と。理(裁判官)にこれを出すよう督促した。辟して丞相主簿西曹属とした。辞令に曰く 「舜が皋陶を挙げると、不仁な者は遠ざかった。臧否(人物の善悪)が的中する事を賢属に望むものである」[※] 。※ 西曹属は西曹の副長官。府内の人事を担当した。
関羽が樊・襄陽を囲んだ。曹操は漢帝が許に在って賊に近い事から、都を徙したく思った。司馬懿および蔣済が曹操に説くには 「于禁らは水のせいで没したのであって、戦さの攻撃で失敗したのではなく、国家の大計の上では損失とするに足りません。劉備・孫権は外面は親密であっても内実は疎遠で、関羽が志を得る事を孫権は間違いなく願っておりません。人を遣ってその背後を摂(と)る事を勧め、江南を割いて孫権を封ずる事を許せば、樊城の囲みは自ずと解けましょう」 と。曹操はその言葉の通りにした。孫権はこれを聞くと、即座に兵を引率して西のかた公安・江陵を襲った。関羽はかくて禽われた。文帝即王位、轉為相國長史。及踐阼、出為東中郎將。濟請留、詔曰:「高祖歌曰『安得猛士守四方!』天下未寧、要須良臣以鎮邊境。如其無事、乃還鳴玉、未為後也。」 濟上萬機論、帝善之。入為散騎常侍。時有詔、詔征南將軍夏侯尚曰:「卿腹心重將、特當任使。恩施足死、惠愛可懷。作威作福、殺人活人。」 尚以示濟。濟既至、帝問曰:「卿所聞見天下風教何如?」 濟對曰:「未有他善、但見亡國之語耳。」 帝忿然作色而問其故、濟具以答、因曰:「夫『作威作福』、書之明誡。『天子無戲言』、古人所慎。惟陛下察之!」 於是帝意解、遣追取前詔。 黄初三年、與大司馬曹仁征呉、濟別襲羨谿。仁欲攻濡須洲中、濟曰:「賊據西岸、列船上流、而兵入洲中、是為自内地獄、危亡之道也。」 仁不從、果敗。仁薨、復以濟為東中郎將、代領其兵。詔曰:「卿兼資文武、志節慷慨、常有超越江湖呑呉會之志、故復授將率之任。」 頃之、徴為尚書。車駕幸廣陵、濟表水道難通、又上三州論以諷帝。帝不從、於是戰船數千皆滯不得行。議者欲就留兵屯田、濟以為東近湖、北臨淮、若水盛時、賊易為寇、不可安屯。帝從之、車駕即發。還到精湖、水稍盡、盡留船付濟。船本歴適數百里中、濟更鑿地作四五道、蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水、皆引後船、一時開遏入淮中。帝還洛陽、謂濟曰:「事不可不曉。吾前決謂分半燒船于山陽池中、卿於後致之、略與吾倶至譙。又毎得所陳、實入吾意。自今討賊計畫、善思論之。」
黄初六年(225)の事で、これからという処で水道が凍り、曹丕は龍舟も総帥としての役割も放棄して帰還した例の件です。
議者は兵を留めて屯田に就かせたいとしたが、蔣済は、東は湖に近く、北は淮河に臨んでおり、もし水が盛んとなった時、賊は寇を為し易く、屯田を安んじてはならないと考えた。帝はこれに従い、車駕は即日に発した。還って精湖に到ると、水はようよう尽き、尽く船を留めて蔣済に付した。船はもともと数百里の中を歴適(巡歴)しており、蔣済は更めて地を鑿って四・五道を作り、船を蹴たてるように聚めさせ、予め土豚(土墩)を作って湖水を遏断(遮断)しており、皆な後ろの船を引かせて一時に堤遏を開いて淮河の中に入れた。帝は洛陽に還ると蔣済に謂うには 「事に通暁しない訳にはゆかぬ。私は前(さき)に半ばに分けた船を山陽の池中で焼こうと決謂したが、卿は後れてこれを送致し、ほぼ私と倶に譙に至った。又た陳べる所を得る毎に、実際に我が意(こころ)に入ってくる。今より討賊の計画で、善く思慮して論じてくれ」明帝即位、賜爵關内侯。大司馬曹休帥軍向皖、濟表以為「深入虜地、與權精兵對、而朱然等在上流、乘休後、臣未見其利也。」 軍至皖、呉出兵安陸、濟又上疏曰:「今賊示形於西、必欲并兵圖東、宜急詔諸軍往救之。」 會休軍已敗、盡棄器仗輜重退還。呉欲塞夾石、遇救兵至、是以官軍得不沒。遷為中護軍。時中書監・令號為專任、濟上疏曰: 「大臣太重者國危、左右太親者身蔽、古之至戒也。往者大臣秉事、外内扇動。陛下卓然自覽萬機、莫不祗肅。夫大臣非不忠也、然威權在下、則衆心慢上、勢之常也。陛下既已察之於大臣、願無忘於左右。左右忠正遠慮、未必賢於大臣、至於便辟取合、或能工之。今外所言、輒云中書、雖使恭慎不敢外交、但有此名、猶惑世俗。況實握事要、日在目前、儻因疲倦之間有所割制、衆臣見其能推移於事、即亦因時而向之。一有此端、因當内設自完、以此衆語、私招所交、為之内援。若此、臧否毀譽、必有所興、功負賞罰、必有所易;直道而上者或壅、曲附左右者反達。因微而入、縁形而出、意所狎信、不復猜覺。此宜聖智所當早聞、外以經意、則形際自見。或恐朝臣畏言不合而受左右之怨、莫適以聞。臣竊亮陛下潛神默思、公聽並觀、若事有未盡於理而物有未周於用、將改曲易調、遠與黄・唐角功、近昭武・文之迹、豈近習而已哉! 然人君猶不可悉天下事以適己明、當有所付。三官任一臣、非周公旦之忠、又非管夷吾之公、則有弄機敗官之弊。當今柱石之士雖少、至于行稱一州、智效一官、忠信竭命、各奉其職、可並驅策、不使聖明之朝有專吏之名也。」 詔曰:「夫骨鯁之臣、人主之所仗也。濟才兼文武、服勤盡節、毎軍國大事、輒有奏議、忠誠奮發、吾甚壯之。」 就遷為護軍將軍、加散騎常侍。
景初中、外勤征役、内務宮室、怨曠者多、而年穀饑儉。濟上疏曰: 「陛下方當恢崇前緒、光濟遺業、誠未得高枕而治也。今雖有十二州、至于民數、不過漢時一大郡。二賊未誅、宿兵邊陲、且耕且戰、怨曠積年。宗廟宮室、百事草創、農桑者少、衣食者多、今其所急、唯當息耗百姓、不至甚弊。弊攰之民、儻有水旱、百萬之衆、不為國用。凡使民必須農隙、不奪其時。夫欲大興功之君、先料其民力而燠休之。句踐養胎以待用、昭王恤病以雪仇、故能以弱燕服彊齊、羸越滅勁呉。今二敵不攻不滅、不事即侵、當身不除、百世之責也。以陛下聖明神武之略、舍其緩者、專心討賊、臣以為無難矣。又歡娯之躭、害于精爽;神太用則竭、形太勞則弊。願大簡賢妙、足以充『百斯男』者。其冗散未齒、且悉分出、務在清靜。」 詔曰:「微護軍、吾弗聞斯言也。」
※ 『詩経』大雅より。百斯男は多数の男児の事。周文王の妃を指す。
齊王即位、徙為領軍將軍、進爵昌陵亭侯、遷太尉。初、侍中高堂隆論郊祀事、以魏為舜後、推舜配天。濟以為舜本姓媯、其苗曰田、非曹之先、著文以追詰隆。是時、曹爽專政、丁謐・ケ颺等輕改法度。會有日蝕變、詔羣臣問其得失、濟上疏曰: 「昔大舜佐治、戒在比周;周公輔政、慎于其朋;齊侯問災、晏嬰對以布惠;魯君問異、臧孫答以緩役。應天塞變、乃實人事。今二賊未滅、將士暴露已數十年、男女怨曠、百姓貧苦。夫為國法度、惟命世大才、乃能張其綱維以垂于後、豈中下之吏所宜改易哉?終無益于治、適足傷民望、宜使文武之臣各守其職、率以清平、則和氣祥瑞可感而致也。」 以隨太傅司馬宣王屯洛水浮橋、誅曹爽等、進封都郷侯、邑七百戸。濟上疏曰: 「臣忝寵上司、而爽敢苞藏禍心、此臣之無任也。太傅奮獨斷之策、陛下明其忠節、罪人伏誅、社稷之福也。夫封寵慶賞、必加有功。今論謀則臣不先知、語戰則非臣所率、而上失其制、下受其弊。臣備宰司、民所具瞻、誠恐冒賞之漸自此而興、推讓之風由此而廢。」 固辭、不許。是歳薨、諡曰景侯。子秀嗣。秀薨、子凱嗣。咸熙中、開建五等、以濟著勳前朝、改封凱為下蔡子。
※ 臧武仲の事。孔子の前時代の魯の司寇(司法官)。智者として知られた。
天に応じて変異を塞ぐのは、実に人の為す事なのです。今、二賊は未だ滅びず、将士は露に暴(さら)されること已に数十年で、男女とも怨曠(怨女曠夫=独居を強いられている男女)し、百姓は貧苦しております。そも国の法度を為すのはただ命世の大才だけであり、そうであるからこそ綱維(国法)を張って後世に垂れる事ができるので、どうして中下の吏が改易していいものでありましょう? 終には政治に益すること無く、ただ民の信望を傷(そこ)なうだけであります。文武の臣に各々その職務を遵守させるべきで、清平によって率いれば、和気・祥瑞が感応して来致しましょう」 。まーそもそも田豫の目的が遼東遠征じゃありませんでしたし、これを失敗行動とするのは酷というものです。蔣済の進言を讃えるために司馬彪が著し、裴松之が採用したに過ぎませんし。
蔣済が領軍将軍だった時、夫人の夢枕に死んだ子が現れ、冥府の泰山令になる予定の孫阿に今のうちに安楽な部署への転属を願っておいてほしいと嘆願した。蔣済ははじめ信じなかったが、ウザくなって太廟の西に行ってみると果して孫阿がいた。そこで死後の事を依頼した。間もなく孫阿は死に、その後に死んだ子が再び夫人の夢枕に現れて転任を報告した。
邾は周が、黄帝の後裔を曲阜近郊に封じた小国。姫姓曹氏。その出自ゆえ、礼制上は重んじられた。孟子の生国でもある。
魏武帝が作った家伝では、自ら曹の叔振鐸の後裔だと云っている。ゆえに陳思王(曹植)が作った武帝の誄文に曰く 「武皇は后稷の冑(すえ)にして周の胤なり」 と。これらは(前者と)同じではない。景初年間に至るに及び、明帝は高堂隆より講議され、魏が舜の後裔だと謂(かんが)え、後に魏が晋に禅譲した文では 「我が皇祖たる有虞」 と称しており、その異なることいよいよ甚だしい。蔣済が高堂隆を難詰したり、尚書繆襲と(書簡で)往反した事にはともに根拠とした道理があるが、文字が多いので載せない。蔣済も亦た未だ氏族の出自を定められず、ただ謂うには 「魏は舜の後裔ではないのに横恣に族員でない者を祀り、太祖を降黜して正しく配天しないのは皆な繆妄である」 と。しかし当時には竟に是正できる者が莫かった。※ 禘は上帝を祀る事。郊は京師の郊外で天地を祀る事。
蔣済曰く 「そも虯・龍は獺(カワウソ)より神聖ですが、獺はその先祖を祭りはしても虯・龍を祭りはしません。騏・白虎は豺(ヤマイヌ)より仁ではありますが、豺はその先祖を祭りはしても騏・虎を祭りはしません。鄭玄の説の如くなら、有虞氏以前は豺・獺にも及ばなかったのでしょうか? 臣が考えるに、『祭法』が云っている事は学者に疑われること久しく、鄭玄はその違謬を考正せずにその意義のまま通釈しております」 。蔣済の豺獺の譬えは俳諧(諧謔)のようなものだが、その義旨には探求すべき点がある。劉放字子棄、涿郡人、漢廣陽順王子西郷侯宏後也。歴郡綱紀、舉孝廉。遭世大亂、時漁陽王松據其土、放往依之。太祖克冀州、放説松曰: 「往者董卓作逆、英雄並起、阻兵擅命、人自封殖、惟曹公能拔拯危亂、翼戴天子、奉辭伐罪、所向必克。以二袁之彊、守則淮南冰消、戰則官渡大敗;乘勝席卷、將清河朔、威刑既合、大勢以見。速至者漸福、後服者先亡、此乃不俟終日馳騖之時也。昔黥布棄南面之尊、仗劍歸漢、誠識廢興之理、審去就之分也。將軍宜投身委命、厚自結納。」 松然之。會太祖討袁譚於南皮、以書招松、松舉雍奴・泉州・安次以附之。放為松答太祖書、其文甚麗。太祖既善之、又聞其説、由是遂辟放。建安十年、與松倶至。太祖大ス、謂放曰:「昔班彪依竇融而有河西之功、今一何相似也!」 乃以放參司空軍事、歴主簿記室、出為郃陽・祋祤・贊令。
いきなり困った事に、該当する王がいません。そもそも東漢では初期の一時期を除いて広陽国は無いので西漢の諸侯王だと思われますが、燕剌王の子が広陽王に改封されてより頃王建・穆王舜・思王璜・劉嘉と続いて王莽によって廃されていて、それ以前の燕王にも順王はいません。『漢書』王子侯表下に、広陽頃王の子として西郷侯劉容が記されているので、恐らくは陳寿もしくは班固の誤記ではないかと思われます。ま、劉備の近在で血統を明言されているのが劉放だという事です。
郡の綱紀(功曹・主簿)を歴任し、孝廉に挙げられた。世の大乱に遭い、時に漁陽の王松がその土地に拠っており、劉放は往ってこれに依拠した。曹操が冀州に克つと、劉放が王松に説くには:「かつて董卓が作逆して英雄が並び起ち、兵を阻(たの)んで命を擅(ほしいまま)にし、諸人は自ら封地を殖やしました。ただ曹公だけが危乱を抜拯(救出)し、天子を翼戴し、聖辞を奉じて罪を伐ち、向うところ必ず克つ事ができます。二袁の彊盛を以てしても、守っては淮南に冰消し、戦っては官渡で大いに敗れました。勝ちに乗じて席巻すること河朔を清めんとしており、威刑が合致したからには大勢はもう見えております。速やかに至る者は福に漸(ひた)り、服従に後れた者は先んじて亡びるもので、これぞ終日を俟(ま)たず馳騖(奔走)する時であります。昔、黥布が南面の尊きを棄て、剣に仗って漢に帰したのは誠に廃興の理りを識り、去就の分を審らかにしたものでした。将軍は身を投じて命を委ね、厚く自ら受納を結ぶべきであります」 。
王松は然りとした。折しも曹操は南皮に袁譚を討つに際し、書状で王松を招き、王松は雍奴・泉州・安次を挙げて附した。劉放が王松の為に曹操の書状に答えたが、その文は甚だ美麗だった。曹操はこれを善しとしており、又たその説を聞き、これによって遂に劉放を辟した。建安十年(205)、王松と倶に至った。曹操は大いに悦び、劉放に謂うには 「昔、班彪は竇融に依拠して河西の功があった。今の一事はなんと似ている事か!」 。かくして劉放を参司空軍事とした。主簿記室を歴任してから転出して郃陽・祋祤[※]・賛の令となった。※ 祋祤は現在の陝西省銅川市耀州区河東堡を治所とした左馮翊の県。魏の黄初元年(220)に泥陽県(甘粛省慶陽市寧県)に徙されて北地郡に属し、旧祋祤が泥陽県となった。
魏國既建、與太原孫資倶為祕書郎。先是、資亦歴縣令、參丞相軍事。文帝即位、放・資轉為左右丞。數月、放徙為令。黄初初、改祕書為中書、以放為監、資為令、各加給事中;放賜爵關内侯、資為關中侯、遂掌機密。三年、放進爵魏壽亭侯、資關内侯。明帝即位、尤見寵任、同加散騎常侍;進放爵西郷侯、資樂陽亭侯。太和末、呉遣將周賀浮海詣遼東、招誘公孫淵。帝欲邀討之、朝議多以為不可。惟資決行策、果大破之、進爵左郷侯。放善為書檄、三祖詔命有所招喩、多放所為。青龍初、孫權與諸葛亮連和、欲倶出為寇。邊候得權書、放乃改易其辭、往往換其本文而傅合之、與征東將軍滿寵、若欲歸化、封以示亮。亮騰與呉大將歩隲等、隲等以見權。權懼亮自疑、深自解説。是歳、倶加侍中・光祿大夫。景初二年、遼東平定、以參謀之功、各進爵、封本縣、放方城侯、資中都侯。
其年、帝寢疾、欲以燕王宇為大將軍、及領軍將軍夏侯獻・武衞將軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎將軍秦朗共輔政。宇性恭良、陳誠固辭。帝引見放・資、入臥内、問曰:「燕王正爾為?」 放・資對曰:「燕王實自知不堪大任故耳。」 帝曰:「曹爽可代宇不?」 放・資因贊成之。又深陳宜速召太尉司馬宣王、以綱維皇室。帝納其言、即以黄紙授放作詔。放・資既出、帝意復變、詔止宣王勿使來。尋更見放・資曰:「我自召太尉、而曹肇等反使吾止之、幾敗吾事!」 命更為詔、帝獨召爽與放・資倶受詔命、遂免宇・獻・肇・朗官。太尉亦至、登牀受詔、然後帝崩。齊王即位、以放・資決定大謀、摎W三百、放并前千一百、資千戸;封愛子一人亭侯、次子騎都尉、餘子皆郎中。正始元年、更加放左光祿大夫、資右光祿大夫、金印紫綬、儀同三司。六年、放轉驃騎、資衞將軍、領監・令如故。七年、復封子一人亭侯、各年老遜位、以列侯朝朔望、位特進。曹爽誅後、復以資為侍中、領中書令。嘉平二年、放薨、諡曰敬侯。子正嗣。資復遜位歸第、就拜驃騎將軍、轉侍中、特進如故。三年薨、諡曰貞侯。子宏嗣。
※ 三品の光禄大夫に対し、二品相当の金印紫綬を与える事で特別待遇を示しています。大抵の場合は今回と同様に二品相当の加官を伴い、晋代になると“金紫光禄大夫”の呼称も定着します。
六年(245)、劉放は驃騎将軍に、孫資は衛将軍に転じ、領中書監・中書令は以前通りだった。七年(246)、復た子の一人が亭侯に封じられ、各々は老齢として位を遜(ゆず)り、列侯として朔と望(一日と十五日)に入朝し、位特進となった[6]。劉放・孫資が遜位したのは正始九年で、曹爽派による朝廷支配が露骨になった事に対する反対行動だと思われます。
曹爽が誅された後、復た孫資を侍中・領中書令とした。嘉平二年(250)、劉放が薨じ、敬侯と諡した。子の劉正が嗣いだ[7]。孫資は復た位を遜って邸第に帰り、驃騎将軍を就拝(現地での拝命)し、侍中に転じ、特進はもとの通りだった。三年(251)に薨じ、貞侯と諡した。子の孫宏が嗣いだ。放才計優資、而自脩不如也。放・資既善承順主上、又未嘗顯言得失、抑辛毗而助王思、以是獲譏於世。然時因羣臣諫諍、扶贊其義、并時密陳損益、不專導諛言云。及咸熙中、開建五等、以放・資著勳前朝、改封正方城子、宏離石子。
※ 秦王が趙王の持つ名玉/和氏璧と自国の五城を交換に求めた時、訪秦使となった藺相如が、秦王には約束履行の意思が無いと見て和氏璧だけを先に帰国させ、秦との盟約を保ったまま壁も奪われなかったという“完璧の使”の事を指しています。藺相如の行ないに否定的な孫資の見解が孫資の私見なのか、当時の時流だったのかは不明。
孫資はその言葉に感動し、かくて往ってこれに応じた。到ると功曹に署き、計吏に挙げられた。尚書令荀ケは孫資を見ると嘆じて 「北州は喪乱を承けて已に久しく、その賢智は零落したと謂(かんが)えていたが、今日こうして復た孫計君を見ようとは!」 。上表して留めて尚書郎とした。家の難儀を以て辞退し、河東に還る事ができた。 (『孫資別伝』)※ 匈奴の渾邪王の世子。父と倶に漢に降って武帝に近侍し、謹慎さによって寵愛された。馬通らが宮中で叛くと自ら格闘して捕え、武帝の臨終に際しては霍光・上官桀と並んで後事を託された。
帝曰く、「その通りだ。では彼らに匹敵するのは誰か?」 。※ 西晋の張敏が著した短編対話文の通称かつ語り手の綽名。著者や張華・劉許らを友人とする才子でありながら、容姿のせいで官途は不遇という設定で、これは当時、清流と称されていた張華らを含めて、容姿によって人を選別するという世相を諷刺したもの。
評曰:程c・郭嘉・董昭・劉曄・蔣濟才策謀略、世之奇士、雖清治コ業、殊於荀攸、而籌畫所料、是其倫也。劉放文翰、孫資勤慎、並管喉舌、權聞當時、雅亮非體、是故譏諛之聲、毎過其實矣。