三國志修正計画

三國志卷三十 魏志三十/烏丸鮮卑東夷傳 (一)

 書載「蠻夷猾夏」、詩稱「玁狁孔熾」、久矣其為中國患也。秦・漢以來、匈奴久為邊害。孝武雖外事四夷、東平兩越・朝鮮、西討貳師・大宛、開邛笮・夜郎之道、然皆在荒服之外、不能為中國輕重。而匈奴最逼於諸夏、胡騎南侵則三邊受敵、是以屡遣衞・霍之將、深入北伐、窮追單于、奪其饒衍之地。後遂保塞稱藩、世以衰弱。
建安中、呼廚泉南單于入朝、遂留内侍、使右賢王撫其國、而匈奴折節、過於漢舊。然烏丸・鮮卑稍更彊盛、亦因漢末之亂、中國多事、不遑外討、故得擅〔漠〕南之地、寇暴城邑、殺略人民、北邊仍受其困。會袁紹兼河北、乃撫有三郡烏丸、寵其名王而收其精騎。其後尚・熙又逃于蹋頓。蹋頓又驍武、邊長老皆比之冒頓、恃其阻遠、敢受亡命、以雄百蠻。太祖潛師北伐、出其不意、一戰而定之、夷狄懾服、威振朔土。遂引烏丸之衆服從征討、而邊民得用安息。 後鮮卑大人軻比能復制御羣狄、盡收匈奴故地、自雲中・五原以東抵遼水、皆為鮮卑庭。數犯塞寇邊、幽・幷苦之。田豫有馬城之圍、畢軌有陘北之敗。青龍中、帝乃聽王雄、遣劍客刺之。然後種落離散、互相侵伐、彊者遠遁、弱者請服。由是邊陲差安、〔漠〕南少事、雖時頗鈔盜、不能復相扇動矣。烏丸・鮮卑即古所謂東胡也。其習俗・前事、撰漢記者已録而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變云。

 『書経』は 「蛮夷が華夏を猾(みだ)す」 と載せ、『詩』は 「玁狁は孔熾(甚盛)」 と称し、久しく中国の患いとなっていた。秦・漢以来、匈奴は久しく辺境の害を為した。孝武帝は四夷に外事(外征)し、東は両越・朝鮮を平らげ、西は貳師・大宛を討ち、邛・笮・夜郎への道を開いたが、皆な荒服(最果ての地)の外に在って中国の軽重には影響できなかった。しかし匈奴は諸夏に最も逼り、胡騎が南して侵せば三辺に敵を受け、その為しばしば衛青・霍去病を将として遣って深く北のかたに入って伐たせ、単于を窮追し、その饒衍(豊穣)の地を奪った。後に遂に塞(長城)に保(よ)って藩属を称し、世々に衰弱した。建安中、呼廚泉南単于が入朝し、かくて留めて内侍させ、右賢王(去卑)にその国を按撫させ、匈奴が折節(服属)すること漢の旧時以上だった。
しかし烏丸・鮮卑はようよう更めて彊盛となり、亦た漢末の乱で中国が多事となった事により、外討の遑(いとま)が無くなり、そのため擅(ほしいまま)に漠南の地を獲得し、城邑に寇暴して人民を殺略し、北辺は仍(な)おその困苦を受けた。折しも袁紹が河北を兼領し、かくして三郡烏丸を按撫し、その名王を寵してその精騎を収めた。その後、袁尚・袁熙が又た蹋頓に逃れた。蹋頓は又た驍武であり、辺地の長老は皆な冒頓単于に比(たと)え、その阻遠を恃んで亡命者を受容し、百蛮の雄となった。曹操は潜かに師を北伐させ、その意(おも)わざるに出、一戦してこれを定めた。夷狄は懾(おそ)れ服し、威は朔土にも振った。かくして烏丸の衆の服従者を率いて征討し、辺民は安息して暮らせるようになった。
 後に鮮卑大人の軻比能が復た群狄を制御し、悉く匈奴の故地を収め、雲中・五原より以東の遼水に抵たるまでを皆な鮮卑庭とした。しばしば犯塞寇辺し、幽・幷はこれに苦しんだ。 田豫には馬城の囲があり、畢軌には陘北の敗があった。青龍中(233〜37)、帝はかくして王雄に聴(ゆる)し、剣客を遣って刺殺させた。然る後に種落は離散し、互いに相い侵伐し、彊者は遠くに遁れ、弱者は服属を請うた。これによって辺陲はやや安んじ、漠南には事が少なくなり、時に偏頗(部分的)な鈔盜はあっても復た互いに扇動する事は出来なかった。
 烏丸・鮮卑とは即ち古えの謂う東胡である。その習俗や前の事は、『漢記』を撰した者が已に記録して載せている。その為ただ漢末魏初以来の事を挙げ、四夷の変遷に備えるものとする。

烏丸

 漢末、遼西烏丸大人丘力居、衆五千餘落、上谷烏丸大人難樓、衆九千餘落、各稱王、而遼東屬國烏丸大人蘇僕延、衆千餘落、自稱峭王、右北平烏丸大人烏延、衆八百餘落、自稱汗魯王、皆有計策勇健。中山太守張純叛入丘力居衆中、自號彌天安定王、為三郡烏丸元帥、寇略青・徐・幽・冀四州、殺略吏民。靈帝末、以劉虞為州牧、募胡斬純首、北州乃定。後丘力居死、子樓班年小、從子蹋頓有武略、代立、總攝三王部、衆皆從其教令。袁紹與公孫瓚連戰不決、蹋頓遣使詣紹求和親、助紹撃瓚、破之。紹矯制賜蹋頓・峭王・汗魯王印綬、皆以為單于。

[1] 漢末、遼西烏丸の大人の丘力居の部衆は五千余落、上谷烏丸の大人の難楼の部衆は九千余落。各々王を称した。遼東属国烏丸の大人の蘇僕延の部衆は千余落で、自ら峭王を称し、右北平烏丸の大人の烏延の部衆は八百余落で、自ら汗魯王を称し、皆な計策があって勇健だった。中山太守張純が叛いて丘力居の部衆中に入り、自ら彌天安定王と号し、三郡烏丸の元帥となって青・徐・幽・冀の四州を寇略し、吏民を殺略した。霊帝の末、劉虞を州牧とし、胡に贖募して張純の首を斬り、北州はかくして定まった。丘力居の死後は子の楼班が年小であり、従子(おい)の蹋頓に武略がある為に代えて立て、三王の部を総摂して人々は皆なその教令に従った。袁紹と公孫瓚とは連戦しても決せず、蹋頓は遣使して袁紹に詣らせて和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を撃ち、これを破った。袁紹は制書(詔勅の一種)を矯めて蹋頓・峭王・汗魯王に印綬を賜い、皆なを単于とした[2]

 後樓班大、峭王率其部衆奉樓班為單于、蹋頓為王。然蹋頓多畫計策。廣陽閻柔、少沒烏丸・鮮卑中、為其種所歸信。柔乃因鮮卑衆、殺烏丸校尉邢舉代之、紹因寵慰以安北邊。後袁尚敗奔蹋頓、憑其勢、復圖冀州。會太祖平河北、柔帥鮮卑・烏丸歸附、遂因以柔為校尉、猶持漢使節、治廣ィ如舊。建安十一年、太祖自征蹋頓於柳城、潛軍詭道、未至百餘里、虜乃覺。尚與蹋頓將衆逆戰於凡城、兵馬甚盛。太祖登高望虜陳、〔抑〕軍未進、觀其小動、乃撃破其衆、臨陳斬蹋頓首、死者被野。速附丸・樓班・烏延等走遼東、遼東悉斬、傳送其首。其餘遺迸皆降。及幽州・幷州柔所統烏丸萬餘落、悉徙其族居中國、帥從其侯王大人種衆與征伐。由是三郡烏丸為天下名騎。

 後に楼班が成長すると、峭王はその部衆を率いて楼班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓は多く計策を画った。広陽の閻柔は少(わか)くして烏丸・鮮卑の中に没入し、その種人に帰信されていた。閻柔はかくして鮮卑の衆によって護烏丸校尉邢挙を殺してこれに代り、袁紹もこれを寵慰する事で北辺を安んじた。後に袁尚は敗れると蹋頓に奔り、その勢に憑いて復た冀州を図ろうとした。折しも曹操が河北を平らげ、閻柔は鮮卑・烏丸を帥いて帰附し、これによって閻柔を校尉とし、猶おも漢の使節を持し、広ィ(張家口市宣化)を治めること旧来通りだった。
建安十一年(206)、曹操自ら柳城に蹋頓を征伐し、潜かに詭道(間道)を行軍し、未だ百余里(手前に)至らずして、虜が覚った。袁尚は蹋頓と軍兵を率いて凡城に逆(むか)えて戦い、兵馬は甚だ盛んだった。曹操は高きに登って虜の陣を望見し、軍を抑えて進ませず、やや動いたのを観てからその軍兵を撃破し、陣に臨んで蹋頓の首を斬り、死者は野を被った。速附丸・楼班・烏延らは遼東に奔り、遼東は悉く斬ってその首を駅伝で送った。その余遺の奔迸した者も皆な降った。幽州・幷州の閻柔が統べる烏丸万余落も悉くその部族を徙して中国に居らせ、その侯王大人に種衆を帥従させて与に征伐した。これにより三郡烏丸は天下の名騎とされた[3]
[1] 烏丸とは東胡である。漢初に匈奴の冒頓がその国を滅ぼし、余類が烏丸山に寄り、これに因んで名号とした。習俗は騎射に善く、水草に随って放牧し、住居するのに定まった処はなく、穹廬を家宅とし、(門戸は)皆な東を向いた。日々に禽獣を弋猟し、肉を食べ酪を飲み、毛毳を衣とした。若きを貴んで老を賤しみ、その性は悍驁で、怒れば父兄をも殺したが、終にその母は害さなかった。母には族類があり、父兄は己の種族であり、復報する者が無いからである。常に勇健で決闘や訟相・侵犯を裁理できる者を推募して大人とし、邑落には各々小帥があり、世継はしなかった。数百千落(落は数帳)で一部とし、大人が召呼する場合は木に刻んだものを信号として邑落に伝行し、文字は無く、しかし部衆には違犯しようとする者は莫かった。氏姓の定めは無く、大人の勇健者の名字を姓とした。

 この点は匈奴より西羌に近いものがあり、中国が羌や烏桓を匈奴より未開だとしていた事が覗われます。

大人以下は各々畜牧で治産(生業の管理)し、徭役は無かった。嫁娶する場合は皆な先ず私通し、女を略奪して去り、半歳或いは百日してから、媒人(媒酌人)を遣って馬牛羊を送る事で聘娶の礼とした。婿は妻に随って還り、妻家にまみえると尊卑なく旦に起きて皆なに拝したが、自身の父母に拝する事は無かった。妻家の奴僕となって服役すること二年、妻家はかくして厚く遣贈して娘を送り、居処・財物の一切を妻家が出した。その為その習俗として婦人の計に従い、戦闘の時に至って自らがこれを決する。父子男女は相対して蹲踞し、悉く髠頭して軽便だとしている。婦人は嫁時に至って養髮し、分けて髻とし、句決(髪飾り)を着け、金・碧玉にて飾り、中国の冠・歩搖のようである。父兄が死ぬと、後母を娶り嫂を執り、もし嫂を執る者が無ければ己が子に親を次がせ、伯叔の妻となり、死ねばその故夫に帰した。
鳥獣の孕乳から四節の時を識り、耕種には常に布穀鳴(カッコウ鳥)を用いて兆候とした。土地は青穄(黒黍)・東牆に適している。東牆は蓬草に似て実は葵子の如く、十月に至って熟す。白酒を作る事はできるが、麴糵(こうじ)を作る事を知らない。米は常に中国に仰いでいる。大人は弓矢・鞍勒の製作に長け、金鉄を鍛えて兵器とする。韋し革紋様を刺繡する事、氈毼を縷々として織る事にも長けている。病があれば、艾(もぐさ)での灸や、或いは焼石にて熨したり、焼地の上に臥せ、或いは痛・病の処を刀にて脈を抉って出血させることを知っており、天地山川の神に祈禱するが、鍼薬は無い。
戦死を貴び、屍を斂める為の棺があり、死ぬと始めは哭し、葬時には歌舞して送る。肥養した犬を彩った繩嬰にて牽き、亡者の乗馬・衣物・生時の服飾と併せ、皆な焼いて送る。特にこの犬は、死者の神霊が赤山に帰すのを護らせるものである。赤山は遼東の西北数千里に在り、中国人が死者の魂神が泰山に帰すとしているようなものである。葬日に至り、夜間に親族・旧知が聚まって員坐(円座)し、犬馬を牽いて位を廻らせらせ、歌ったり哭したりしている者は肉を擲げてこれに与える。二人に呪文を口頌させ、死者の魂神が真直ぐに至り、険阻を歴って横鬼に遮られる事の無いよう護らせ、赤山に到達するようにと。然る後に犬馬を殺して衣物を焼く。鬼神を敬い、天地・日月星辰・山川を祠り、加えて先の大人で勇健の名のあった者も亦た同じく牛羊にて祠り、祠りを終えると皆なこれを焼く。飲食では必ず先ず祭る。
その約法は、大人の言葉に違えれば死、盗みを止めねば死である。相い残殺した場合は部落に各々相い報復させ、報復が止まなければ大人に詣って平理し、有罪者はその牛羊を出して死命を贖い、かくして止める。自らの父兄を殺した場合は無罪。亡命・造叛して大人に捕えられた者は、諸邑落は受納を肯んぜず、皆な逐って雍狂の地に至らせる。この地は山が無く、沙漠・流水・草木があり、蝮虵が多く、丁令の西南、烏孫の東北に在り、これによって窮困させるのである。

 その祖先が匈奴に破られてより後、人衆は孤弱となり、匈奴の臣として服従し、常に歳ごとに牛馬羊を輸送し、時を過ぎても具わらぬ場合は、その都度その妻子が虜とされた。匈奴の壺衍鞮単于の時に至り、烏丸は強盛に転じ、匈奴単于の冢を発掘し、冒頓に破られた恥に報じた。壺衍鞮単于は大いに怒り、二万騎を発して烏桓を撃った。大将軍霍光はこれを聞き、度遼将軍范明友を遣って三万騎を率いて遼東から出征して匈奴を追撃させた。范明友の兵が至る頃には、匈奴は已に引き去っていた。(そこで)烏丸が新たに匈奴の兵を被ったばかりだとして、その衰弊に乗じて烏丸に進撃し、六千余級を斬首し、三王の首を獲て還った。後にしばしば復た塞を犯し、范明友はそのたび征伐して破った。
 王莽の末期に至り、匈奴と揃って寇を為した。光武帝は天下を定めると、伏波将軍馬援を遣って三千騎を率いさせ、五原関より出塞して征伐させたが、利無く、馬千余匹を殺した。烏丸はかくて盛んとなり、匈奴を鈔撃し、匈奴は千里の先に転徙して漠南の地は空虚となった。建武二十五年(49)、烏丸大人の郝旦ら九千余人が部衆を率いて宮闕に詣った。その渠帥を封じて侯王とした者は八十余人で、長城内に住まわせ、遼東属国・遼西・右北平・漁陽・広陽・上谷・代郡・鴈門・太原・朔方諸郡の界内に布き列べ、種族の人を招来させ、衣食を給した。校尉を置いて領護させ、かくて漢の偵備(偵察と防備)を為し、匈奴・鮮卑を撃った。

 帰順した遊牧種を長城の守りに利用するのは中国の定法で、例えば同じ時期に光武帝に帰順した南匈奴は、単于が西河の美稷に拠りつつ北地・朔方・五原・雲中・定襄・雁門・代郡に種族を偵候として駐屯させています。両者の守備圏がカブっている山西省・陝西省の北部一帯が北防の激戦区という事でしょう。

(明帝の)永平中(58〜75)に至り、漁陽烏丸の大人の欽志賁が種族人を帥いて叛き、鮮卑も還って寇害を為した。遼東太守祭肜が贖募して欽志賁を殺し、かくてその部衆を破った。安帝の時に至り、漁陽・右北平・鴈門の烏丸の率衆王無何らが復た鮮卑・匈奴と合し、代郡・上谷・涿郡・五原を鈔略した。かくして大司農何熙を行車騎将軍とし、羽林と五営士をその左右とし、縁辺七郡と黎陽営の兵を発して合せて二万人でこれを撃った。匈奴は降り、鮮卑・烏丸は各々塞外に還った。

 この時の烏丸・鮮卑・匈奴の離叛は先零羌の造叛に触発されたものです。

この後、烏丸はようよう復た親附し、大人の戎末廆を拝して都尉とした。順帝の時に至り、戎末廆は王侯の咄帰・去延らを将として率い、烏丸校尉耿曄に従って長城を出て鮮卑を撃つのに功があった。還って皆な拝して率衆王とし、束帛を賜った。 (『魏書』)
[2] 袁紹は遣使して即ち烏丸三王を拝して単于とし、皆な安車・華蓋・羽旄・黄屋・左纛を認めた。版文曰:「使持節大将軍督幽・青・幷領冀州牧阮郷侯紹、承制詔遼東属国率衆王頒下・烏丸遼西率衆王蹋頓・右北平率衆王汗盧維:乃祖慕義遷善、款塞内附、北捍玁狁、東拒濊貊、世守北陲、為百姓保障、雖時侵犯王略、命将徂征厥罪、率不旋時、悔愆変改、方之外夷、最又聴恵者也。始有千夫長・百夫長以相統領、用能悉乃心、克有勲力於国家、稍受王侯之命。自我王室多故、公孫瓚作難、残夷厥土之君、以侮天慢主、是以四海之内、並執干戈以衛社稷。三王奮気裔土、忿姦憂国、控弦與漢兵為表裏、誠甚忠孝、朝所嘉焉。然而虎兕長蛇、相隨塞路、王官爵命、否而無聞。夫有勲不賞、俾勤者怠。今遣行謁者楊林、齎単于璽綬車服、以対爾労。其各綏静部落、教以謹慎、無使作凶作慝。世復爾祀位、長為百蛮長。厥有咎有不臧者、泯於爾禄、而喪於乃庸、可不勉乎! 烏桓単于都護部衆、左右単于受其節度、他如故事。」 (『英雄記』)
[3] 景初元年(237)秋、幽州刺史毌丘倹を遣って衆軍を率いて遼東を討たせた。右北平烏丸の単于寇婁敦・遼西烏丸都督の率衆王護留葉は、昔に袁尚に随って遼西に奔った者で、毌丘倹の軍が至ると聞くと、手勢の五千余人を率いて降った。寇婁敦が弟の阿羅槃らを遣って宮闕に詣らせて朝貢すると、その渠帥三十余人を封じて王とし、輿馬渚ムを賜って各々差があった。 (『魏略』)
 

鮮卑


歩度根

 鮮卑歩度根既立、衆稍衰弱、中兄扶羅韓亦別擁衆數萬為大人。建安中、太祖定幽州、歩度根與軻比能等因烏丸校尉閻柔上貢獻。後代郡烏丸能臣氐等叛、求屬扶羅韓、扶羅韓將萬餘騎迎之。到桑乾、氐等議、以為扶羅韓部威禁ェ緩、恐不見濟、更遣人呼軻比能。比能即將萬餘騎到、當共盟誓。比能便於會上殺扶羅韓、扶羅韓子泄歸泥及部衆悉屬比能。比能自以殺歸泥父、特又善遇之。歩度根由是怨比能。文帝踐阼、田豫為烏丸校尉、持節并護鮮卑、屯昌平。歩度根遣使獻馬、帝拜為王。後數與軻比能更相攻撃、歩度根部衆稍寡弱、將其衆萬餘落保太原・鴈門郡。歩度根乃使人招呼泄歸泥曰:「汝父為比能所殺、不念報仇、反屬怨家。今雖厚待汝、是欲殺汝計也。不如還我、我與汝是骨肉至親、豈與仇等?」 由是歸泥將其部落逃歸歩度根、比能追之弗及。至黄初五年、歩度根詣闕貢獻、厚加賞賜、是後一心守邊、不為寇害、而軻比能衆遂彊盛。明帝即位、務欲綏和戎狄、以息征伐、羈縻兩部而已。至青龍元年、比能誘歩度根深結和親、於是歩度根將泄歸泥及部衆悉保比能、寇鈔幷州、殺略吏民。帝遣驍騎將軍秦朗征之、歸泥叛比能、將其部衆降、拜歸義王、賜幢麾・曲蓋・鼓吹、居幷州如故。歩度根為比能所殺。

[1] 鮮卑は(檀石槐の孫の)歩度根が立った後、部衆がようよう衰弱し、中兄の扶羅韓も亦た別に部衆数万を擁して大人となった。建安中(196〜220)、曹操が幽州を定めると、歩度根は軻比能らと烏丸校尉閻柔によって献物を上貢した。後に代郡烏丸の能臣氐らが叛き、扶羅韓に帰属したいと求め、扶羅韓は万余騎を率いてこれを迎えた。桑乾に到り、能臣氐らが議して思うに、扶羅韓の部は威禁がェ緩で、済(と)げられない事を恐れ、更めて人を遣って軻比能を呼ばせた。軻比能は即座に万余騎を率いて到り、共に盟誓しようとした。軻比能はただちに会上で扶羅韓を殺し、扶羅韓の子の泄帰泥および部衆は悉く軻比能に属した。軻比能は自ら泄帰泥の父を殺した事から、特に又たこれを善く遇した。歩度根はこれにより軻比能を恨んだ。
文帝が踐阼し、田豫を烏丸校尉とし、(後に牽招が征呉に召されると)持節にて護鮮卑校尉の事を併せ、昌平に駐屯した。歩度根は遣使して馬を献じ、帝は拝して王とした。後にしばしば軻比能と相い攻撃し、歩度根の部衆はようよう寡弱となり、その部衆万余落を率いて太原・鴈門郡に保(よ)った。歩度根はかくて人に泄帰泥を招呼させて 「汝の父は軻比能に殺されたのに、報仇を念(おも)わずにかえって怨家に属すとは。今は汝を厚待しているとはいえ、これは汝を殺そうとする計りごとだ。私と還るに越した事はない。私と汝とは骨肉の至親であり、仇と与にするのとどちらがマシだ?」 これにより泄帰泥はその部落を率いて歩度根に逃帰し、軻比能はこれを追ったが及ばなかった。黄初五年(224)に至り、歩度根は宮闕に詣って貢物を献じ、厚く賞賜が加わり、この後は一心に辺塞を守って寇害を為さず、そして軻比能の部衆は彊盛となった。明帝は即位すると、務めて戎狄を綏和させようとし、そのため征伐を息(や)め、両部を羈縻するだけだった。
青龍元年(233)に至り、軻比能が歩度根を誘って深く和親を結び、こうして歩度根は泄帰泥および部衆の悉くを率いて軻比能を保(たの)み、幷州を寇鈔して吏民を殺略した。帝は驍騎将軍秦朗を遣って征伐させ、泄帰泥は軻比能に叛き、その部衆を率いて降り、帰義王に拝され、幢麾・曲蓋・鼓吹を賜り、幷州に居ることは以前通りとされた。歩度根は軻比能に殺された。
軻比能

 軻比能本小種鮮卑、以勇健、斷法平端、不貪財物、衆推以為大人。部落近塞、自袁紹據河北、中國人多亡叛歸之、教作兵器鎧楯、頗學文字。故其勒御部衆、擬則中國、出入弋獵、建立旌麾、以鼓節為進退。建安中、因閻柔上貢獻。太祖西征關中、田銀反河間、比能將三千餘騎隨柔撃破銀。後代郡烏丸反、比能復助為寇害、太祖以鄢陵侯彰為驍騎將軍、北征、大破之。比能走出塞、後復通貢獻。延康初、比能遣使獻馬、文帝亦立比能為附義王。黄初二年、比能出諸魏人在鮮卑者五百餘家、還居代郡。明年、比能帥部落大人小子代郡烏丸修武盧等三千餘騎、驅牛馬七萬餘口交市、遣魏人千餘家居上谷。後與東部鮮卑大人素利及歩度根三部爭闘、更相攻撃。田豫和合、使不得相侵。五年、比能復撃素利、豫帥輕騎徑進掎其後。比能使別小帥瑣奴拒豫、豫進討、破走之、由是懷貳。乃與輔國將軍鮮于輔書曰:「夷狄不識文字、故校尉閻柔保我於天子。我與素利為讐、往年攻撃之、而田校尉助素利。我臨陳使瑣奴往、聞使君來、即便引軍退。歩度根數數鈔盜、又殺我弟、而誣我以鈔盜。我夷狄雖不知禮義、兄弟子孫受天子印綬、牛馬尚知美水草、況我有人心邪! 將軍當保明我於天子。」輔得書以聞、帝復使豫招納安慰。比能衆遂彊盛、控弦十餘萬騎。毎鈔略得財物、均平分付、一決目前、終無所私、故得衆死力、餘部大人皆敬憚之、然猶未能及檀石槐也。

 軻比能は本来は鮮卑の小種の出で、勇健であり、法を断じて平端(平明)であり、財物を貪らなかった事から衆人が推して大人としたものだった。部落は長城に近く、袁紹が河北に拠ってより中国人の亡命・叛者の多くが帰順し、兵器や鎧・楯の作り方を教え、頗る(部分的に)文字を学んだ。そのため部衆を勒御するのは中国に擬似し、弋猟に出入する際には旌麾を建立し、鼓と節とで進退した。

 前段は歩度根の視点での記述で、この段は軻比能の立場での記述になっています。そのため割と重複しています。

建安中、閻柔に因んで献物を上貢した。曹操が関中に西征して田銀が河間で反いた時、軻比能は三千余騎を率いて閻柔に随って田銀を撃破した。後に代郡烏丸が反くと、軻比能も復た寇害を為す事を助け、曹操は鄢陵侯曹彰を驍騎将軍とし、北征して大破させた。軻比能は走(のが)れて長城を出て、後に復た貢献物を通じた。延康(220)の初め、軻比能は遣使して馬を献じ、曹丕も亦た軻比能を立てて附義王とした。黄初二年(221)、軻比能は諸々の魏人で鮮卑に在る者五百余家を出して代郡に還居させた。明年、軻比能は部落大人や小子(小帥)、代郡烏丸の修武盧ら三千余騎を帥い、牛馬七万余口を駆って交市(交易)し、魏人千余家を遣って上谷に居住させた。
後に東部鮮卑の大人の素利および歩度根の三部と争闘し、更めて相い攻撃した。田豫は和合させ、相い侵せないようにした。五年(224)、軻比能は復た素利を撃ち、田豫は軽騎を帥いて直進してその後を掎(つ)いた。軻比能は別に小帥の瑣奴に田豫を拒がせたが、田豫は進んで討ってこれを破り走らせ、これにより(軻比能は)弐心を懐いた。

 ここに中国と軻比能との認識の違いが出ています。中国としては、印綬を受け取ったからには冊封体制に加わった事を意味します。そして冊封国同士の闘争は御法度です。ところが檀石槐としては、朝貢貿易に有利だし、くれるというから貰ってやっただけで、内輪の事にまで首を突っ込んで贔屓までしやがって、といった塩梅です。田豫の対処は権威側としては超正解ですが、軻比能の実力を正しく洞察していれば、田豫であれば別の手法を取っていたように思われます。

かくして輔国将軍鮮于輔に書簡を与えた。「夷狄は文字を識らず、そのため校尉閻柔は私を天子より保(かば)った。私は素利とは讐を為し、往年これを攻撃し、そして田校尉は素利を助けた。私は戦陣に臨んで瑣奴を往かせたが、使君が来ると聞いて即座に軍を率いて退かせた。歩度根は頻繁に鈔盜し、又た私の弟を殺し、そして私が鈔盜していると誣した。我が夷狄は礼の義を知らぬとはいえ、兄弟子孫とも天子の印綬を受けている。牛馬でも尚お美わしい水草を知っているというのに、ましてや私は人の心があるというのに! 将軍よ、どうか私を天子に釈明して保ってもらいたい」
鮮于輔は書簡を得ると上聞し、帝は復た田豫に招納・安慰させた。軻比能の部衆はかくて彊盛となり、控弦は十余万騎。鈔略する毎に財物を得、均しく平らかに分付し、目前で一決して終に私服せず、そのため部衆の死力を得、その他の部大人は皆な敬憚したが、それでも猶お未だ檀石槐には及ばなかった。

 帝紀で調べると、黄初六年(225)に幷州刺史梁習が軻比能を大破したと載っています。鮮卑伝でも、そして梁習伝ですら採り上げられていないのは一体どうした事でしょう。

 太和二年、豫遣譯夏舍詣比能女壻鬱築鞬部、舍為鞬所殺。其秋、豫將西部鮮卑蒲頭・泄歸泥出塞討鬱築鞬、大破之。還至馬城、比能自將三萬騎圍豫七日。上谷太守閻志、柔之弟也、素為鮮卑所信。志往解喩、即解圍去。後幽州刺史王雄并領校尉、撫以恩信。比能數款塞、詣州奉貢獻。至青龍元年、比能誘納歩度根、使叛幷州、與結和親、自勒萬騎迎其累重於陘北。幷州刺史畢軌遣將軍蘇尚・董弼等撃之、比能遣子將騎與尚等會戰於樓煩、臨陳害尚・弼。至三年中、雄遣勇士韓龍刺殺比能、更立其弟。

 太和二年(228)、田豫は訳人の夏舎を遣って軻比能の女壻の鬱築鞬の部に詣らせたが、夏舍は鬱築鞬に殺された。その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭や泄帰泥で率いて出塞し、鬱築鞬を討って大破した。還って馬城に至った処で軻比能自ら三万騎を率いで田豫を囲むこと七日。上谷太守閻志は閻柔の弟であり、素より鮮卑に信じられていた。閻志が往って解喩すると、即座に囲みを解いて去った。

 この時は閻志のほかに雁門太守牽招も救援に出ていて、牽招の武力行使が解囲に決め手になったようです。牽招も鮮卑との付き合いは結構長いんですが、なぜか烏桓鮮卑伝では触れられていません。田豫や閻柔ほどの影響力が無かったからなのか、田豫や閻柔との関わりで烏桓鮮卑を述べたかったのか。

後に幽州刺史王雄が校尉を併領し、恩信によって鎮撫した。軻比能はしばしば塞を款(たた)き、州に詣って献物を奉貢した。青龍元年(233)に至り、軻比能は歩度根を誘って受納し、幷州に叛かせ、与に和親を結び、自ら万騎を勒(ひき)いてその累重(家族)を陘北に迎えた。幷州刺史畢軌は将軍蘇尚・董弼らを遣って撃たせ、軻比能は子を遣って騎兵を率いさせて蘇尚らと楼煩(朔州市朔城区)で戦わせ、戦陣に臨んで蘇尚・董弼を害した。三年(235)中に至り、王雄は勇士韓龍を遣って軻比能を刺殺させ、更めてその弟を立てた。

 曹氏の鮮卑政策は、閻柔・鮮于輔の懐柔政策、田豫・牽招の分割政策、王雄の武力政策の三期に分けられそうですが、基本的に担当官任せで国策らしきものには欠けていたようです。これは軻比能が、檀石槐ほどの脅威と見做される力を示さなかった為でもありますが、蜀漢との通誼が発覚した後も護烏桓校尉の更迭で済ませている当時の魏にも、塞外に積極的に介入する余力も意図も無かったという事でしょう。軻比能自身は田豫が更迭された事で款塞しているので、田豫らの離間策に対する嫌悪は相当のものだったとは想像できますが、閻柔・鮮于輔の路線で平和が維持できたかどうかは疑問です。

 素利・彌加・厥機皆為大人、在遼西・右北平・漁陽塞外、道遠初不為邊患、然其種衆多於比能。建安中、因閻柔上貢獻、通市、太祖皆表寵以為王。厥機死、又立其子沙末汗為親漢王。延康初、又各遣使獻馬。文帝立素利・彌加為歸義王。素利與比能更相攻撃。太和二年、素利死。子小、以弟成律歸為王、代攝其衆。

 素利・彌加・厥機は皆な大人であり、遼西・右北平・漁陽の塞外に在り、道は遠く、初めは辺患ではなく、しかもその種衆は軻比能より多かった。建安中、閻柔によって献物を上貢し、市を通じさせ、曹操は皆なを上表して寵を示して王とした。厥機が死に、又たその子の沙末汗を立てて親漢王とした。延康(220)の初め、又た各々が遣使して馬を献じた。曹丕は素利・彌加を立てて帰義王とした。素利は軻比能と相い攻撃した。太和二年(228)に素利が死んだ。子が年小だったので弟の成律帰を王とし、代ってその部衆を摂(おさ)めさせた。
[1] 鮮卑も亦た東胡の残余であり、別に鮮卑山に寄り、因んで名号とした。その言語・習俗は烏丸と同じだった。

 同じような環境で隣接していた為に生活文化が類似するというのはよくある事で、現在では烏桓と鮮卑は種族的に別種だとするのが有力です。

その地の東は遼水に接し、西は西城に当った。常に季春に大いに会同し、水の畔で楽しみ、婦女を娶嫁し、髠頭して宴飲した。その地の獣は中国とは異なり、野馬・羱羊・端牛がいる。端牛の角は弓とし、世に謂う角端である。又た貂・豽・鼲子があり、皮毛は柔蠕でそのため天下の名裘とされる。
 鮮卑は冒頓単于に破られてより遠く遼東の塞外に逃竄し、余国とは争衡せず、未だ漢には名が通らず、烏丸と相い接している事は知られていた。光武帝の時に至り、南北単于が相い攻伐して匈奴が損耗し、鮮卑はかくて盛んとなった。建武三十年(54)、鮮卑大人の於仇賁が種族人を率いて宮闕に詣って朝貢し、於仇賁を封じて王とした。永平中(58〜75)、祭肜が遼東太守となると賂にて鮮卑を誘い、叛いた烏丸の欽志賁らの首を斬らせた。こうして鮮卑の燉煌・酒泉より以東の邑落の大人は皆な遼東に詣って賞賜を受け、青徐二州より銭を給し、歳費二億七千万を常額とした。和帝の時、鮮卑の大都護校尉廆が部衆を帥いて烏丸校尉任尚に従って叛いた者を撃ち、校尉廆を封じて率衆王とした。
殤帝の延平中(106)、鮮卑は東して長城内に入り、漁陽太守張顕を殺した 安帝の時、鮮卑大人燕荔陽が入朝し、漢は鮮卑王の印綬と参駕(三頭立ての馬車)の赤車を賜り、烏丸校尉の治めるィ(張家口市宣化)の下に止めた。胡市を通じさせ、南北両部に質宮(質子用の宮)を築き、邑落の質子を百二十部より受けた。この後も或いは反き或いは降り、或いは匈奴・烏丸と相い攻撃した。安帝の末、縁辺の歩騎二万余人を発し、衝要に屯列させた。
後に鮮卑八・九千騎が代郡および馬城の長城を穿って侵入して長吏を害し、漢では度遼将軍ケ遵・中郎将馬続を遣って長城より出して追って破らせた。鮮卑大人の烏倫・其至鞬ら七千余人がケ遵に詣って降り、烏倫を封じて王とし、其至鞬を侯とし、采帛を賜った。ケ遵が去った後、其至鞬は復た反き、烏丸校尉を馬城に囲み、度遼将軍耿夔および幽州刺史がこれを解いて救った。其至鞬はかくて強盛となり、控弦(弓兵)は数万騎。数道より長城に侵入し、五原曼栢に赴いて匈奴の南単于を攻め、左奧鞬日逐王を殺した。順帝の時、復た長城に侵入し、代郡太守を殺した。漢は黎陽営の兵を遣って中山に駐屯させ、縁辺の郡兵を長城の下に駐屯させ、五営より弩帥を調発して戦・射を教えさせた。南単于は歩騎万余人を率いて漢を助けて鮮卑を却けた。
後に烏丸校尉耿曄が率衆王を率いて長城を出て鮮卑を撃ち、多くを斬首・虜とし、ここに鮮卑の三万余落は遼東に詣って降った。匈奴および北単于が遁逃した後、余種十余万落は遼東に詣って雑居し、皆な自ら鮮卑兵と号した。

 光武帝の時代に匈奴は南北に分れて各々が単于を立てて争いましたが、漢に支えられた南匈奴に対して北匈奴は劣勢となり、烏桓・鮮卑にも襲撃されて陰山地方から逐われました。又た南匈奴でも中国べったりの単于に対する離叛があり、この時の十余万落は北単于にも南単于にも従わなかった匈奴を指しています。


檀石槐

 (鮮卑の)投鹿侯は匈奴の軍に従うこと三年、その妻は家に在り、子を産んだ。投鹿侯は帰ると怪しんで殺そうとした。妻が言うには 「嘗て昼間に雷震を聞き、天を仰視したところ雷電が口に入り、これを呑んで姙り、十月して産みました。この子にはきっと奇異があります。成長させましょう」 投鹿侯は頑として信じなかった。妻はかくして実家に語って収養させ、檀石槐と号した。長じて勇健となり、智略は衆に絶した。齢十四・五の時に異部の大人の卜賁邑がその母家の牛羊を鈔取した為、檀石槐は騎に鞭して追撃し、向う所で前に立つ者とて無く、悉く亡ったものを得て還った。これによって部落は畏服し、(檀石槐の)施す法禁や平理した曲直を犯そうとする者は莫くなり、遂に推して大人とした。
檀石槐が立った後、高柳(大同市陽高)の北三百余里の弾汗山、啜仇水の畔を牙庭とし、東西の部大人が皆な帰順した。兵馬は甚だ強盛となり、南は漢辺を鈔掠し、北は(アルタイの)丁令を拒ぎ、東は(松花江の)夫餘を却け、西は(イリの)烏孫を撃ち、尽く匈奴の故地を占有し、東西一万二千余里、南北七千余里に達し、山川・水沢・塩池を罔羅して甚だ広かった。漢はこれを憂患し、桓帝の時に使匈奴中郎将張奐が征伐したが、克てなかった。かくして更めて使者を遣って印綬を齎し、即ち檀石槐を封じて王として和親しようとした。檀石槐は拒んで受け取りを肯んぜず、寇鈔はいよいよ甚だしくなった。
かくしてその地を分けて中・東・西の三部とした。右北平より以東の遼河に至るまで、東は夫餘・濊貊に接する地を東部とし、二十余邑があり、その大人を彌加・闕機・素利・槐頭といった。右北平より以西の上谷に至るまでを中部とし、十余邑があり、その大人の柯最・闕居・慕容らを大帥とした。上谷より以西の燉煌に至るまで、西は烏孫に接する地を西部とし、二十余邑あり、その大人を置鞬落羅・日律推演・宴荔游らといい、皆な大帥であり、檀石槐に属して制されていた。
霊帝の時に至り、大いに幽・幷の二州を鈔略した。縁辺の諸郡はその毒を被らない歳は無かった。熹平六年(177)、護烏丸校尉夏育・破鮮卑中郎将田晏・匈奴中郎将臧旻を遣って南単于と与に鴈門の長城より出征させ、三道より揃って進み、真直ぐに二千余里を征かせた。檀石槐は部衆を帥いて逆撃し、臧旻らは敗走して兵馬の帰還者は什に一だけだった。
鮮卑の人衆は日々に多くなり、田蓄や射猟では食の供給に足りなくなった。後に檀石槐が案行した処、烏侯秦水は広袤数百里で停まって流れず、水中に魚がいたものの得られなかった。汗人が捕魚に長じていると聞き、ここに檀石槐は東のかた汗国を撃ち、千余家を得ると徙して烏侯秦水の畔に置き、捕魚させて糧の助けとした。今に至るも烏侯秦水の畔には汗人数百戸がある。

 この汗人を范曄『後漢書』では“倭人”と書き換え、そのため筑摩訳『三國志』でも 「汗人 (倭人)」 と表記しています。范曄が余計な事をしてくれたお陰で邪馬台国論争にまで飛び火する始末です。汗人=倭人の根拠も出しとけよ。烏侯秦水は遼河水系の上流説が有力ですが、邪馬台国論と結び付けたいが為に泗水方面に比定するという本末転倒な意見もあるそうです。

檀石槐は齢四十五で死に、子の和連が代って立った。和連の才力は父に及ばず、しかも貪淫で、法を裁断しても公平ではなく、部衆の半ばが叛いた。霊帝の末年にしばしば寇鈔し、北地郡を攻めた。北地の庶人で弩射に善い者が射て和連に中て、和連は即死した。その子の騫曼が年小だった為、兄の子の魁頭が代って立った。魁頭が立った後に騫曼が長大となると、魁頭と国を争い、衆人はかくて離散した。魁頭が死に、弟の歩度根が代って立った。檀石槐の死後より、諸大人はかくて世々相い襲いだ(世襲を始めた)。 (『魏書』)
 

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