三國志修正計画

三國志卷八 魏志八/二公孫陶四張傳 (一)

公孫瓚

 公孫瓚字伯珪、遼西令支人也。為郡門下書佐。有姿儀、大音聲、侯太守器之、以女妻焉、遣詣涿郡盧植讀經。後復為郡吏。劉太守坐事徴詣廷尉、瓚為御車、身執徒養。及劉徙日南、瓚具米肉、於北芒上祭先人、舉觴祝曰:「昔為人子、今為人臣、當詣日南。日南瘴氣、或恐不還、與先人辭於此。」再拜慷慨而起、時見者莫不歔欷。劉道得赦還。

 公孫瓚、字は伯珪。遼西令支の人である。郡の門下書佐となった。

 公孫瓚の家は歴世の吏二千石だったが、生母が賤しかった為に郡の小吏となった。 (『後漢書』)

姿に威儀があり、音声は大きく、侯太守がこれを器として娘を妻とさせ[1]、涿郡の盧植に詣らせて経書を読ませた。後に復た郡吏となった。劉太守が事に坐して廷尉に徴詣されると公孫瓚は車の御者となり、身ずから徒(人夫)となって養った。劉が日南に徙されると公孫瓚は米肉を具え、北芒上で(公孫家の)先人を祭り、觴杯を挙げて祝(祈)るには 「昔は人の子でしたが、今は人の臣となり、日南に到ろうとしています。日南は瘴氣の地で、或いは還れないかもしれず、先人にここで辞去するものです」 再拝し慷慨して起ち、見る者で歔欷(むせび泣き)しない者は莫かった。劉が道中で赦免を得たので還った。

瓚以孝廉為郎、除遼東屬國長史。嘗從數十騎出行塞、見鮮卑數百騎、瓚乃退入空亭中、約其從騎曰:「今不衝之、則死盡矣。」瓚乃自持矛、兩頭施刃、馳出刺胡、殺傷數十人、亦亡其從騎半、遂得免。鮮卑懲艾、後不敢復入塞。遷為涿令。光和中、涼州賊起、發幽州突騎三千人、假瓚都督行事傳、使將之。軍到薊中、漁陽張純誘遼西烏丸丘力居等叛、劫略薊中、自號將軍、略吏民攻右北平・遼西屬國諸城、所至殘破。瓚將所領、追討純等有功、遷騎都尉。屬國烏丸貪至王率種人詣瓚降。遷中郎將、封都亭侯、進屯屬國、與胡相攻撃五六年。丘力居等鈔略青・徐・幽・冀、四州被其害、瓚不能禦。

公孫瓚は孝廉として郎となり、遼東属国長史に叙された。あるとき数十騎を従えて塞(長城)を出行し、鮮卑の数百騎を望見すると、公孫瓚は無人の亭中に退入した。その従騎を約(まと)め 「今、これを衝かねば死に尽くすだけだ」。公孫瓚は自ら両頭施刃の矛を持ち、馳せ出て胡を刺し、数十人を殺傷した。亦たその従騎の半ばを亡くしたが、遂に免れた。鮮卑は懲りて艾(や)め、後には復た塞内に入ろうとはしなかった。遷って涿令となった。光和中(178〜84)に涼州に賊が起こると、(翌年/185年)に幽州突騎三千人を発したが、公孫瓚に都督行事の伝(割符)を仮し、これを率いさせた。軍が薊中に至った時、漁陽の張純が遼西烏丸の丘力居らを誘って叛き、薊中を劫略して自ら将軍を号し[2]、吏民を略して右北平・遼西属国の諸城を攻め、至る所で残破していた。公孫瓚は領する所を率い、張純らを追討して功があり、騎都尉に遷った。
 公孫瓚は属国の石門で虜を大破し、略奪した男女を悉く得た。公孫瓚は深入し、丘力居らに遼西の管子城(朝陽南郊)に囲まれること二百余日。疲労困憊して士卒と辞して訣別し、分散して還った。道中での死者は半ばを越えたが、虜も飢え苦しんで柳城(朝陽市区)に走った。公孫瓚は降虜校尉・都亭侯とされ、属国長史を兼領した。
 公孫瓚は胡には讐敵同様に厳しく向い、虜でも公孫瓚の声を識別して越境しなくなった。
 公孫瓚は騎射の巧者数十人に白馬を以て両翼とし、白馬義従と号した。烏桓では白馬長史と呼んで避け、公孫瓚の人型を射的とし、中れば万歳を称した。虜は頂上に近づかなくなった。 (『後漢書』)
属国の烏丸の貪至王が種人を率いて公孫瓚に詣降した。中郎将に遷り、都亭侯に封じられ、進んで属国に屯した。胡と相い攻撃すること五・六年。丘力居らは青・徐・幽・冀州を鈔略し、四州はその害を被ったが、公孫瓚は防禦できなかった。

 これは酷い話です。烏桓伝によれば、烏桓の四州席捲は劉虞が赴任する前の事です。公孫瓚が幽州の烏桓担当になるのは劉虞の着任後で、それまでは遼東属国長史に過ぎず、他郡の烏桓問題にまで責任は負えません。何より、烏桓を帰服させたという劉虞の功績が詐称になってしまっています。

 朝議以宗正東海劉伯安既有コ義、昔為幽州刺史、恩信流著、戎狄附之、若使鎮撫、可不勞衆而定、乃以劉虞為幽州牧。虞到、遣使至胡中、告以利害、責使送純首。丘力居等聞虞至、喜、各遣譯自歸。瓚害虞有功、乃陰使人徼殺胡使。胡知其情、闕s詣虞。虞上罷諸屯兵、但留瓚將歩騎萬人屯右北平。純乃棄妻子、逃入鮮卑、為其客王政所殺、送首詣虞。封政為列侯。虞以功即拜太尉、封襄賁侯。會董卓至洛陽、遷虞大司馬、瓚奮武將軍、封薊侯。

 朝議は宗正で東海の劉伯安(劉虞)が徳義があり、昔に幽州刺史として恩信が著しく、戎狄も附しており、鎮撫させたなら軍兵を労せずに鎮定できると考え、かくして劉虞を幽州牧とした[3]。劉虞は到るや胡中に遣使して利害を説き、責めて張純の首を送らせた。丘力居らは劉虞が至ったと聞くと喜び、各々通訳を遣って帰した。公孫瓚は劉虞の功を阻害せんと陰かに人を遣って胡使を徼殺させた。胡は事情を知ると間行して劉虞に詣った。劉虞は上書して諸々の屯兵を罷め、ただ公孫瓚の率いる歩騎万人を留めて右北平に駐屯させた。張純はかくして妻子を棄てて鮮卑に逃入したが、その食客の王政に殺され、首を劉虞に送詣された。王政を封じて列侯とした。劉虞は功によって太尉に拝され、襄賁侯に封じられた[4]。たまたま董卓が洛陽に至り、劉虞を大司馬に遷し、公孫瓚を奮武将軍として薊侯に封じた。
張純平定の功により、劉虞を太尉に拝し、容丘侯に封じた。董卓は秉政すると劉虞に大司馬を授け、襄賁侯に進封した。 (『後漢書』)

 關東義兵起、卓遂劫帝西遷、徴虞為太傅、道路隔塞、信命不得至。袁紹・韓馥議、以為少帝制於姦臣、天下無所歸心。虞、宗室知名、民之望也、遂推虞為帝。遣使詣虞、虞終不肯受。紹等復勸虞領尚書事、承制封拜、虞又不聽、然猶與紹等連和。
虞子和為侍中、在長安。天子思東歸、使和偽逃卓、潛出武關詣虞、令將兵來迎。和道經袁術、為説天子意。術利虞為援、留和不遣、許兵至倶西、令和為書與虞。虞得和書、乃遣數千騎詣和。瓚知術有異志、不欲遣兵、止虞、虞不可。瓚懼術聞而怨之、亦遣其從弟越將千騎詣術以自結、而陰教術執和、奪其兵。由是虞・瓚益有隙。和逃術來北、復為紹所留。

 関東に義兵が起り、董卓はかくて帝を劫して西遷し、劉虞を徴して太傅としたが、道路が隔塞し、信命は至る事が出来なかった。袁紹・韓馥は議し、少帝は姦臣に制せられて天下には帰心する先が無く、劉虞は宗室の知名の士であり、民の信望があり、推して劉虞を帝にしようと考えた。遣使して劉虞に詣らせたが、劉虞は終に受ける事を肯んじなかった。袁紹らは復た劉虞に尚書の事を領し、承制して封爵・拝叙の事を勧めた。劉虞は又た聴かなかったが、猶おも袁紹らとは連和した[5]
 劉虞の子の劉和は侍中となっており、長安に在った。天子は東帰の事を思い、劉和に董卓から逃れたと偽らせ、潜かに武関から出して劉虞に詣らせ、兵を率いて来迎するよう命じた。劉和は道を袁術に経て、天子の意を説いた。袁術は劉虞を利用して援軍になろうとし、劉和を留めて遣らず、兵が至れば倶に西する事を許認し、劉和には劉虞に与える書を書かせた。劉虞は劉和の書を得ると、数千騎を遣って劉和に詣らせた。
公孫瓚は袁術に異志がある事を知り、遣兵を欲さずに劉虞を止めたが、劉虞は認可しなかった。公孫瓚は袁術が聞いて怨む事を懼れ、亦た従弟の公孫越に千騎を率いて袁術に詣らせて自ら結託し、陰かに劉和を執えてその兵を奪う事を教唆した。これにより劉虞と公孫瓚には益々隙が生じた。劉和は袁術を逃れて来北し、復た袁紹に留められた。

 ここ、劉虞の立ち位置を考える上で割と重要な場所だと思われます。「使劉和偽逃董卓」は、「董卓の意を受けている事を隠して」 とも考えられますが、恐らくは袁紹らが勅使を片っ端から殺した反省に立っての措置でしょう。こうでもしないと劉虞の子であっても殺される可能性が高かったという事で、劉虞と袁紹らの仲が良くはないという傍証にもなるかと思います。 そもそも劉和の派遣は、劉虞が田疇・鮮于銀らを長安に詣らせた結果ですが、劉和は田疇らの朔北コースを辿っていません。朔北が危険というのもあるでしょうが、当時の袁術の姿勢なら劉虞と提携させる事も可能だと献帝の周辺が考えていたからだと思われます。実際、劉虞は袁術に兵を託していますし。
 尚お、『後漢書』では袁術は有無なく劉和を監禁しています。当時の袁術の立場や『後漢書』の執筆方針を考えると、袁術による劉和の圧迫はなかったものと考えます。

 初平二年(191)、青・徐の黄巾三十万が渤海を侵し、黒山との合流を図った。公孫瓚は歩騎二万を率いて東光(河北省滄州市)でこれを大破し、斬首三万余。追撃して渡河を襲い、大破して死者は数万、生口七万余を収めた。威名は大いに震い、奮武将軍・薊侯に進められた。 (『後漢書』)

 是時、術遣孫堅屯陽城拒卓、紹使周昂奪其處。術遣越與堅攻昂、不勝、越為流矢所中死。瓚怒曰:「余弟死、禍起于紹。」遂出軍屯磐河、將以報紹。紹懼、以所佩勃海太守印綬授瓚從弟範、遣之郡、欲以結援。範遂以勃海兵助瓚、破青・徐黄巾、兵益盛;進軍界橋。以嚴綱為冀州、田楷為青州、單經為兗州、置諸郡縣。紹軍廣川、令將麴義先登與瓚戰、生禽綱。瓚軍敗走勃海、與範倶還薊、於大城東南築小城、與虞相近、稍相恨望。

 この時、袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓を拒がせていたが、袁紹は周昂にその拠処を奪わせた。袁術は公孫越と孫堅に周昂を攻めさせて勝てず、公孫越は流矢に中って死んだ。公孫瓚は怒り 「余の弟が死んだ。禍は袁紹が起したのだ」 かくて軍を出して磐河に駐屯し、袁紹に報復しようとした。袁紹は懼れ、佩びている勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の公孫範に授け、郡に遣って(公孫瓚との)結盟を援けさせようとした。公孫範は勃海の兵で公孫瓚を助け、青・徐州の黄巾を破って兵威は益々盛んとなった。

 公孫越は少なくとも公孫瓚の内意は受けていた筈。それが袁術に従って袁紹派と戦っているという事は、袁紹と協調する必要はない、という事です。公孫越が死ぬ以前から、少なくとも公孫瓚にとって袁紹は友好の対象外だったという事でしょう。公孫瓚の袁紹に対する宣戦を劉虞は黙認したようです。ついでに劉和の監禁や奪兵の教唆も、袁術や公孫瓚を貶める創作だと考えます。
 そして界橋の役に至るまでの流れが不自然です。公孫瓚自体は黄巾軍を撃破しつつ南下したと理解できますが、そもそも太守の印綬を渡す必要は無いでしょう。『後漢書』で補おうとすると傷口はさらに広がります。これについては別項で考えてみました。

(公孫瓚は)界橋(邢台市威県北郊)に進軍し[6]、厳綱を冀州刺史とし、田楷を青州刺史とし、単経を兗州刺史とし、諸郡県に(長吏を)置いた。袁紹は広川(衡水市棗強)に駐軍し、将軍の麴義に先登して公孫瓚と戦わせ、厳綱を生禽した。公孫瓚の軍は勃海に敗走し、公孫範と倶に薊に還り、大城の東南に小城を築いたが、劉虞とは相い近く、稍く恨望するようになった。
 袁紹は公孫瓚を破ると、将の崔巨業に兵数万を率いて故安(保定市易県)を囲ませた。抜けずに撤退する処を公孫瓚は歩騎三万で追って巨馬水で大破し、南下して郡県を下して平原に達し、青州刺史田楷に青州を保持させた。田楷は袁紹と攻伐すること二年。糧食は尽き、士卒は困憊し、互いに百姓から略奪して荒廃した。袁紹は子の袁譚を青州刺史として派遣し、田楷は敗れて退還した。 (『後漢書』)

 虞懼瓚為變、遂舉兵襲瓚。虞為瓚所敗、出奔居庸。瓚攻拔居庸、生獲虞、執虞還薊。會卓死、天子遣使者段訓搴邑、督六州;瓚遷前將軍、封易侯。瓚誣虞欲稱尊號、脅訓斬虞。瓚上訓為幽州刺史。瓚遂驕矜、記過忘善、多所賊害。

 劉虞は公孫瓚が変事を為す事を懼れ、遂に挙兵して公孫瓚を襲ったが、劉虞は公孫瓚に敗れて居庸に出奔した。公孫瓚は居庸を攻抜して劉虞を生獲し、劉虞を執えて薊に還った。たまたま董卓の死によって天子は使者段訓を遣って劉虞の食邑を増し、六州の事を督せしめ、公孫瓚を前将軍に遷して易侯に封じた。公孫瓚は劉虞が尊号を称しようとしたと誣し、段訓を脅して劉虞を斬った[7]

公孫瓚は劉虞の首を京師に伝えた。故吏の尾敦、路に劉虞の首を劫(奪)い、帰って葬った。 (『後漢書』)

公孫瓚は上書して段訓を幽州刺史とした。公孫瓚はかくて驕矜となり、(他者の)過ちを記憶して善行を忘れ、多くが賊害された[8]

 虞從事漁陽鮮于輔・齊周・騎都尉鮮于銀等、率州兵欲報瓚、以燕國閻柔素有恩信、共推柔為烏丸司馬。柔招誘烏丸・鮮卑、得胡・漢數萬人、與瓚所置漁陽太守鄒丹戰于潞北、大破之、斬丹。袁紹又遣麴義及虞子和、將兵與輔合撃瓚。瓚軍數敗、乃走還易京固守。為圍塹十重、於塹裏築京、皆高五六丈、為樓其上;中塹為京、特高十丈、自居焉、積穀三百萬斛。瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定、今日視之、非我所決、不如休兵、力田畜穀。兵法、百樓不攻。今吾樓櫓千重、食盡此穀、足知天下之事矣。」欲以此弊紹。紹遣將攻之、連年不能拔。

 劉虞の従事だった漁陽の鮮于輔・斉周や騎都尉の鮮于銀らは州兵を率いて公孫瓚に報復しようとし、燕国の閻柔が素より恩信がある事から、共に閻柔を推して烏丸司馬とした。閻柔は烏丸・鮮卑を招誘て胡・漢兵の数万人を得、公孫瓚の置いた漁陽太守鄒丹と潞北で戦って大破し、鄒丹を斬った。袁紹も又た麴義および劉虞の子の劉和を遣り、兵を率いて鮮于輔と合流して公孫瓚を撃たせた。
 烏桓の峭王は劉虞を恩とし、種人および鮮卑七千余騎を率いて鮮于輔と共に劉和を迎え、麴義に合流して兵力は十万に達した。
公孫瓚の軍はしばしば敗れ、かくして走還して易京を固守した[9]
 興平二年(195)、公孫瓚を鮑丘に破り、斬首は二万余。公孫瓚は易京に籠城し、屯田して支えること歳余。麴義は軍糧が尽き、退走する数千人を公孫瓚は邀撃して破った。 (『後漢書』)
囲塹を十重にし、塹の裏には京(土丘)を築き、皆な高さは五・六丈あり、その上に楼を建てた。塹壕の中心の京は特に高さ十丈で、自らの居所とし、穀三百万斛を積んだ[10]。公孫瓚 「昔、天下の事は指せば靡いていって定まるものだと謂ったが、今日の事を視るに、我れの決する所ではない。兵を休ませ、田業に力めて穀を蓄えるに越した事はない。兵法では百楼は攻められないとある。今、吾が楼櫓は千重であり、この穀を食べ尽くすまでの時間は天下の事を知るのに足りるだろう」 これによって袁紹が疲弊する事を欲した。袁紹は将軍を遣って攻めたが、連年しても抜く事が出来なかった[11]

 建安四年、紹悉軍圍之。瓚遣子求救于K山賊、復欲自將突騎直出、傍西南山、擁K山之衆、陸梁冀州、斷紹後。長史關靖説瓚曰:「今將軍將士、皆已土崩瓦解、其所以能相守持者、顧戀其居處老小、以將軍為主耳。將軍堅守曠日、袁紹要當自退;自退之後、四方之衆必復可合也。若將軍今舍之而去、軍無鎮重、易京之危、可立待也。將軍失本、孤在草野、何所成邪!」瓚遂止不出。救至、欲内外撃紹。遣人與子書、刻期兵至、舉火為應。紹侯者得其書、如期舉火。瓚以為救兵至、遂出欲戰。紹設伏撃、大破之、復還守。紹為地道、突壞其樓、稍至中京。瓚自知必敗、盡殺其妻子、乃自殺。

 建安四年(199)、袁紹は軍を悉(つ)くしてこれを囲んだ。公孫瓚は子を遣って黒山賊に求援させ、復た自ら突騎を率いて西南の山の傍に直出し、黒山の軍兵を擁し、冀州に陸梁(横行)して袁紹の後背を横断しようとした。
長史関靖が公孫瓚に説くには 「今、将軍の将士は、皆な已に土崩瓦解しており、相い守持している理由は、その居処の老小を顧恋し、将軍を主としているからにすぎません。将軍が曠日(連日)に堅守していれば袁紹には自ら退く必要が生じましょう。自ら退いた後、四方の軍兵はきっと(将軍に)復た合流してきます。もし将軍が今これを捨てて去れば軍には鎮重が無くなり、易京の危うさは立って待つだけのものとなります。将軍は本を失って孤立して草野に在り、どうして成功できましょうか!」 公孫瓚はかくて止めて出なかった[12]。救援が至ると内外から袁紹を撃たんとし、人を遣って子に書を与え、兵の至る期日を刻(さだ)め、火を挙げて応ぜよと[13]。袁紹の斥候がその書を得、その通りに期日に火を挙げた。公孫瓚は救兵が至ったと考え、かくて出て戦おうとした。袁紹は伏兵を設けて撃って大破し、(公孫瓚は)復た還って守った。袁紹は地道(坑道)を為し、突いてその楼を壊し、中心の京に至りつつあった[14]。公孫瓚は必ず敗れる事を知り、尽くその妻子を殺して自殺した[15]
 公孫瓚は姉妹妻子を縊り、その後に火をかけて自焚した。
公孫続は(匈奴の)屠各に殺され、田楷は袁紹に戦死した。 (『後漢書』)

 鮮于輔將其衆奉王命。以輔為建忠將軍、督幽州六郡。太祖與袁紹相拒於官渡、閻柔遣使詣太祖受事、遷護烏丸校尉。而輔身詣太祖、拜左度遼將軍、封亭侯、遣還鎮撫本州。太祖破南皮、柔將部曲及鮮卑獻名馬以奉軍、從征三郡烏丸、以功封關内侯。輔亦率其衆從。文帝踐阼、拜輔虎牙將軍、柔度遼將軍、皆進封縣侯。位特進。

 鮮于輔はその手勢を率いて王命を奉じた。鮮于輔を建忠将軍とし、幽州の六郡を督せしめた。太祖は袁紹と官渡で相い拒ぎ、閻柔は遣使して太祖に詣って事を受け、護烏丸校尉に遷った。鮮于輔は身ずから太祖に詣り、左度遼将軍に拝し、亭侯に封じ、還して本州を鎮撫させた[16]。太祖が南皮を破ると、閻柔は部曲および鮮卑を率いて名馬を献じて軍に奉じ、三郡烏桓の征伐に従い、功によって関内侯に封じた[17]。鮮于輔も亦たその手勢を率いて従った。文帝が踐阼すると鮮于輔を虎牙将軍に拝し、閻柔を度遼将軍に拝し、皆な県侯に進封し、位は特進とした。
[1] 公孫瓚の性は辯慧で、毎に事を白(もう)す時には末梢から入る事とを肯んぜず、常に数々の曹事を総べて説いて忘誤する事が無く、太守はその才を奇とした。 (『典略』)
[2] 張純は自ら彌天将軍・安定王と号した。 (『九州春秋』)
[3] 劉虞は東海恭王の後裔である。世の衰乱に遭い、又た時の主とは疎遠で、県に仕えて戸曹吏となった。能く身を治めて職を奉じ、召されて郡吏となり、孝廉に挙げられて郎となり、累遷して幽州刺史に至り、甘陵相に転じた。甚だ東土や戎狄の心を得た。後に疾によって家に帰ったが、常に身を降して隠約(倹約)し、邑党や州閭と楽しみを同じくして共に卹し、扱いを等斉にして名位によって自らを殊にはせず、郷曲は咸な共に宗とした。時に郷曲に訴訟があると、吏には詣らずに自ら劉虞に平理の事を投じた。劉虞は情理によって論判し、皆な大小とも敬従して恨まなかった。あるとき牛を失った者があり、骨体や毛色が劉虞の牛に似ていた事からこれだとし、劉虞は便ちにこれに与えた。後に主人が本来の牛を得ると、還して謝罪した。
 たまたま甘陵が復た乱れると、吏民は劉虞の治行を思慕し、復た劉虞を甘陵相とした。甘陵は大いに治まった。徴されて尚書令・光禄勲に拝され、公族であり礼も備えているとして更めて宗正とした。 (『呉書』)
―― 劉虞は博平令となり、治は正しく平明を推し、高尚純樸であり、境内に盜賊は無くなり、災害も発生しなかった。時に接壌する隣県では蝗蟲が害を為していたが、博平の界に至っても飛過して入らなかった。 (『英雄記』)
―― 劉虞は幽州に在って清静倹約であり、礼と義によって民を教化した。霊帝の時に南宮に火災があり、吏で州郡に遷補された者は皆な治宮の銭を助ける事を負い、或る者は一千万、或る者は二千万で、富者は私財で弁済し、或る者は民の銭を徴発して備えたが、貧しかったり清慎な者は充調できず、或る者は自殺した。霊帝は劉虞が清貧であるとして、特に出銭させなかった。 (『魏書』)

 劉虞が再び甘陵国相になったのは、『後漢書』によれば黄巾の乱だとあります。甘陵の乱れが“復た”なのは、甘陵の党議を受けてのものでしょう。それにしても亡牛の話は曹節(曹操の曾祖父)を彷彿とさせます。人徳者のテンプレなのか?

[4] 劉虞は太尉を譲り、衛尉趙謨・益州牧劉焉・豫州牧黄琬・南陽太守羊続を薦め、揃って公に任じられた。 (『英雄記』)
[5] 袁紹・韓馥は旧の楽浪太守で甘陵の張岐に提議を齎して劉虞に詣らせ、尊号に即かせようとした。劉虞は声を獅ワして張岐を叱呵するには 「卿はぬけぬけとこの様な事を言うか! 忠孝の道はもう全うする事が出来ないのだぞ。孤は国恩を受け、天下の擾乱に未だに命を竭くして国恥を除けずにいるが、諸州郡の烈士義士と合力して西面し、幼主を援迎せんと望んでいる。このように妄りに逆謀を為して忠臣を塗汚せんとするか!」 (『九州春秋』)
―― 韓馥は書を袁術に与えて云うには、帝は孝霊帝の子ではなく、絳侯灌嬰が少主を誅廃して代王を迎立した故事に依ろうと、劉虞の功徳治行を称え、華夏に二人とは無く、まさに今の公室の枝属にも及ぶ者が莫いと。又た云うには 「昔、光武帝は定王を去る五世であり、大司馬として河北を領し、耿弇・馮異が尊号に即く事をを勧め、遂には更始帝に代った。今、劉公は恭王より枝別して亦た五世であり、大司馬として幽州牧を領している。これは光武帝と同じである」 この時、四星が箕尾宿に会合しており、韓馥は、讖緯が云うには神人が燕の分野に在ると称した。又た言うには、済陰の男子の王定が玉印を得たが、文面は 「虞為天子」 だと。又た双の太陽が代郡に出見したが、劉虞が代って立つものだとも謂った。
袁紹も又た別に袁術に書簡で報じていた。この時、袁術は陰かに不臣の心があり、国家の年長の主は不利になるとして、外面では公義に託し、答信して拒んだ。袁紹は亦た人をして私かに劉虞にも報じたが、劉虞は国には正統があり、人臣の宜言する事ではないとして固辞して許さず、匈奴に奔って自ら断絶を図ろうとしたので、袁紹らはかくして止めた。劉虞はここに職貢を奉修し、愈々益々恭粛した。諸外国や羌・胡からの貢献があって道路が不通だと、皆な伝送して京師に致らせた。 (『呉書』)

 『呉書』からの引用第二弾です。というか、『呉書』が劉虞に注目した真意がこれかと思われます。袁術に対するアンチテーゼ。人格・血統・瑞兆ともに揃っている劉虞ですら辞退しているのに、袁術ごときが尊号などを、という。『呉書』『後漢書』とも、劉虞は他者の比定材料として採用されたという事になります。それにしても、この頃から不臣の心があったとか、袁術一体いつから悪臣の設定なんだよ…。

[6] 公孫瓚が上表した袁紹の罪状

「臣が聞くところ、神皇・伏羲以来、君臣の上下が始まり、教化を張って民を導き、刑罰で暴を禁じたとか。今、行車騎将軍袁紹は先人の功に託して人爵を竊み、その性は暴乱で行ないに欠けております。 昔、司隸校尉となり、何進の下で邪媚を専らにし、遂には丁原に孟津を焚焼させて董卓を招来し、乱の原因を為しました。袁紹の罪の一です。 董卓が入雒して主を質とした時、袁紹は手を拱いて節伝を棄置して竄亡した事は不忠であります。袁紹の罪の二です。 袁紹は勃海太守となった後、京師の父兄に挙兵の事を告げず、そのため太傅と太僕が族滅された事は不仁不孝であります。袁紹の罪の三です。 袁紹が兵を興してから二年、国難を卹わずに自強だけを進め、民から収奪し、百姓の怨嗟が満ちています。袁紹の罪の四です。 韓馥に迫って虚位を竊み、詔命を矯め、金印玉璽を私刻し、文書の封緘には『詔書一封、邟郷侯印』とあります。嘗て王莽は徐々に行なって真天子に即きましたが、袁紹の所行はこれに倣ったものです。袁紹の罪の五です。 袁紹は崔巨業に天文を視させ、寵遇して期日を定めさせては郡県を攻鈔していますが、いったいこれが大臣の所業でしょうか?袁紹の罪の六です。 袁紹は故の虎牙都尉劉勲とは共に挙兵した仲で、劉勲には多くの功があり、張楊を降伏もさせましたが、小忿から害しました。袁紹の罪の七です。 袁紹は又た故の上谷太守高焉・故の甘陵相姚貢を勝手に責めて金銭を求め、用意できなかった二人は亡命しました。袁紹の罪の八です。 『春秋』では、子は母によって貴いとか。袁紹の母は婢使であるので、袁紹も微賤で、後継とは成れません。それが重任に就き、王爵を汚し、袁家を辱めています。袁紹の罪の九です。 又た長沙太守孫堅は以前に領豫州刺史であり、董卓を奔らせ陵廟を掃除した功は莫大であります。袁紹は周昂にその位を盗ませ、糧道を絶って孫堅を進ませず、董卓誅殺の機会を逃しました。袁紹の罪の十です。 臣が後将軍袁術から得る書簡には都度、袁紹は袁術の一族ではないとあります。袁紹の罪戻は南山の竹にも載せきれません。嘗て周が衰えて諸侯が叛いた時、斉桓公・晋文公が名分を正しました。臣はこれより袁紹を討伐し、斉桓・晋文に続きたく思います。攻戦の形状は追って上書する所存です」

かくて兵を挙げて袁紹と対戦し、袁紹は勝てなかった。 (『典略』)
[7] 当初、劉虞は戎狄と和輯していたが、公孫瓚は胡夷を禦し難しとし、まつろわぬ事に因って討つべきで、今、財賞を加えればきっと益々漢を軽んじ、效は一時の名とはなっても久長の深慮ではないとした。そのため劉虞の賞賜を公孫瓚はそのたび鈔奪した。劉虞はしばしば会見を請うたが、疾を称して往かなかった。この戦敗に至り、劉虞は討とうとして東曹掾である右北平の人の魏攸に告げた。魏攸 「今、天下は領(頸)を引いて公を帰処としており、謀臣・爪牙は無くてはなりません。公孫瓚の文武才力は恃むに足り、小悪があるとはいえ枉げて容認するのが妥当です」 かくして止めた。後一年して魏攸が病死した。劉虞は又た官属と議し、密かに手勢に公孫瓚を襲うよう命じた。公孫瓚は部曲を城外に放散しており、敗れる事を懼れて東城門を掘って逃走しようとした。劉虞の兵には部伍が無く、戦にも習熟しておらず、又た民の家屋を惜しんで焼く事のないよう命じていた。そのため公孫瓚は放火(して体制を再建)する事ができ、精鋭を衝突させた。劉虞の手勢は大いに潰え、居庸城に奔った。公孫瓚は攻めて(劉虞)および家属を得て還り、州府で殺害し、衣冠善士は殆と尽きた。 (『魏氏春秋』)
―― 公孫瓚は市に劉虞を曝してまじなうには 「もし天子たるに相応しい者なら、天は雨を降らせて救うだろう」 と。時に盛暑であり、竟に雨は降らず、かくて劉虞を殺した。 (『典略』)
―― 劉虞が殺されると、旧の常山相孫瑾、掾属の張逸・張瓚らは忠義を憤発させ、与に劉虞に就いて公孫瓚を罵ること口を極め、しかる後に同じく死んだ。 (『英雄記』)
[8] 公孫瓚は内外を統べ、衣冠の子弟で才ある秀でた者を漏れなく抑圧して困窮させ、窮苦に地に居らせた。或る者がその理由を問うと、答えるには 「今、衣冠の家の子弟および善士を取って富貴にしても、皆な自身が職を得たのが当然で、人の善処に感謝しないだろう」 寵遇によって驕恣している者は多くが庸児の類で、卜数師の劉緯台・販盾フ李移子・賈人の楽何当らの三人とは兄弟の誓いを定め、自ら伯(長男)と号し、三人の者を仲・叔・季と謂った。富は皆な巨億で、その娘を己が子に配偶させた事もあり、常に古えの曲周侯・灌嬰の眷族に譬えていた。 (『英雄記』)
[9] これより以前に童謡があり 「燕の南垂、趙の北際、中央は合わずに大きく、礪の如し。惟だ此の中のみ世を避く可し」 と。公孫瓚は易の地がまさにこれだとし、かくして京を築いて固守した。公孫瓚の別将が敵に囲まれた事があり、救わない事を信条とした。その言葉として 「一人を救えば、以後の将は救援を恃んで力戦しなくなるだろう。今これを救わない事で、後の将は自ら勉めようと念うだろう」 このため袁紹が北撃を始めた時、公孫瓚の南界上の別営は自ら守っても固守できないと度り、又た必ず救援が無い事を知っており、このため或る者はその将帥を殺し、或る者は袁紹の兵に破られ、かくて袁紹の軍は易京の門に径至(直達)した。 (『英雄記』)
―― 裴松之が考えるに、童謠の言葉は皆な験の無いものではなかったが、ここに記した通りでは徴が無いようにも見える。謠言が作られたのは、公孫瓚に終始易を保たせ、遠略する事の無いようにさせたのだろう。しかし公孫瓚は黄巾を破った威に因り、意志を遠きに張り、かくて三州に刺史を置き、袁氏を滅ぼそうと図った。敗北に致った理由である。

 つまり裴松之サンは、公孫瓚が袁紹と対立する以前から易京を築いていたと謂いたい訳です。界橋で敗れた公孫瓚は薊城に隣接して小城を築いていますが、どう読んでも易京はその後、劉虞を亡ぼした後です。
 先取りしてしまうと、『後漢書』の劉虞・公孫瓚伝は『三國志』と裴注の殆どを接ぎ足した上で更に増補したものですが、この武将見殺しの件はガン無視です。さすがの范曄でも言掛かりだと感じたのでしょう。

[10] 公孫瓚の諸将の家々も各々高楼を作り、楼は千を以て計えた。公孫瓚は鉄門を作り、楼上に居住し、左右を屏去させて婢妾を侍側させ、文書は(縄で)汲み上げた。 (『英雄記』)
[11] 袁紹が公孫瓚に与えた書「孤與足下、既有前盟旧要、申以討乱之誓、愛過夷・叔、分著丹青、謂為旅力同軌、足踵斉・晋、故解印釈紱、以北帯南、分割膏腴、以奉執事、此非孤赤情之明験邪?豈寤足下棄烈士之高義、尋禍亡之険蹤、輟而改慮、以好易怨、盜遣士馬、犯暴豫州。始聞甲卒在南、親臨戦陳、懼于飛矢迸流、狂刃横集、以重足下之禍、徒増孤之咎釁也、故為薦書懇惻、冀可改悔。而足下超然自逸、矜其威詐、謂天罔可呑、豪雄可滅、果令貴弟殞于鋒刃之端。斯言猶在於耳、而足下曾不尋討禍源、克心罪己、苟欲逞其無疆之怒、不顧逆順之津、匿怨害民、聘於余躬。遂躍馬控弦、処我疆土、毒徧生民、辜延白骨。孤辞不獲已、以登界橋之役。是時足下兵気霆震、駿馬電発;僕師徒肇合、機械不厳、彊弱殊科、衆寡異論、假天之助、小戦大克、遂陵躡奔背、因塁館穀、此非天威棐ェ、福豊有礼之符表乎?足下志猶未厭、乃復糾合余燼、率我蛑賊、以焚爇勃海。孤又不獲寧、用及龍河之師。羸兵前誘、大軍未済、而足下胆破衆散、不鼓而敗、兵衆擾乱、君臣並奔。此又足下之為、非孤之咎也。自此以後、禍隙彌深、孤之師旅、不勝其忿、遂至積尸為京、頭顱満野、愍彼無辜、未嘗不慨然失涕也。後比得足下書、辞意婉約、有改往修来之言。僕既欣於旧好克復、且愍兆民之不寧、毎輒引師南駕、以順簡書。弗盈一時、而北辺羽檄之文、未嘗不至。孤是用痛心疾首、靡所錯情。夫処三軍之帥、當列将之任、宜令怒如厳霜、喜如時雨、臧否好悪、坦然可観。而足下二三其徳、彊弱易謀、急則曲躬、緩則放逸、行無定端、言無質要、為壮士者固若此乎!既乃残殺老弱、幽土憤怨、衆叛親離、孑然無党。又烏丸・濊貊、皆足下同州、僕與之殊俗、各奮迅激怒、争為鋒鋭;又東西鮮卑、挙踵来附。此非孤徳所能招、乃足下駆而致之也。夫當荒危之世、処干戈之険、内違同盟之誓、外失戎狄之心、兵興州壤、禍発蕭牆、将以定霸、不亦難乎!前以西山陸梁、出兵平討、會麴義余残、畏誅逃命、故遂住大軍、分兵撲蕩、此兵孤之前行、乃界橋搴旗抜塁、先登制敵者也。始聞足下鐫金紆紫、命以元帥、謂當因茲奮発、以報孟明之恥、是故戦夫引領、竦望旌斾、怪遂含光匿影、寂爾無聞、卒臻屠滅、相為惜之。夫有平天下之怒、希長世之功、権御師徒、帯養戎馬、叛者無討、服者不収、威懐並喪、何以立名?今旧京克復、天罔云補、罪人斯亡、忠幹翼化、華夏儼然、望於穆之作、将戢干戈、放散牛馬、足下独何守区々之士、保軍内之広、甘悪名以速朽、亡令徳之久長?壮而籌之、非良策也。宜釈憾除嫌、敦我旧好。若斯言之玷、皇天是聞。」瓚不答、而増修戎備。謂関靖曰:「當今四方虎争、無有能坐吾城下相守経年者明矣。袁本初其若我何!」 (『漢晋春秋』)

 現状とそこに至るまでの経緯を袁紹の主観で述べたもので、新しい情報や面白い見方も特に無いので今回はスルーします。公孫瓚が南下した後で公孫越が戦死したとあるのは収穫ではありますが、そもそも書簡の存在自体を信用していいのかどうか。

[12] 関靖、字は士起、太原の人である。もとは酷吏であった。諂いの士であって大謀は無く、特に公孫瓚に信幸された。 (『英雄記』)
[13] 公孫瓚は行人の文則に書を齎させて子の公孫続に告げるには 「袁氏の攻勢は神鬼に似て、鼓角は地中から鳴り、雲梯・衝車は吾が楼上を舞っている。日に窮し月に踏まれ、聊かも頼る先が無い。汝は張燕に砕首(激しい頓首)して速やかに軽騎を致し、到ったら北方で烽火を起せ。私は内より出撃しよう。そうしなければ私が亡くなった後、天下広しといえども汝が安足の地を求めようとも得られようか!」 (『典略』)
―― 公孫瓚は夢に薊城が崩れたので必ず敗れると知り、かくして間使を遣って公孫続に書を与えた。袁紹の斥候がこれを得、陳琳に更めて書かせるには 「昔の衰周の世には僵戸(遺骸)から流血したと聞いていたが、そんな事はないと思っていた。まさか今日の我が身がこれにあたろうとは思いもしなかった!」 (『獻帝春秋』) ―― その他の語は『典略』が載せるものと同じである。
[14] 袁紹は攻撃の部隊を分けて地を掘らせて道とし、楼の下に穴を穿ち、ようように木を施して(楼の)柱とし、充分に半ばに達した処を測って施した柱を焼かせた。楼はたちまち傾倒した。 (『英雄記』)
[15] 関靖 「私は君子とは人が危難に陥れば、必ず危難を同じくすると聞いている。どうして独り生きていられよう!」 かくして馬に鞭して袁紹軍に赴いて死んだ。袁紹はその首を悉く許に送った。 (『漢晉春秋』)
[16] 鮮于輔は官渡で太祖に従った。袁紹が破走すると、太祖は喜び、顧みて鮮于輔に謂うには 「前年に本初が公孫瓚の頭を送って来た時、孤は視て忽然とするだけだったが、いま、これに勝った。これは天意というもので、亦た二三子(諸君)の力である」 (『魏略』)
[17] 太祖は閻柔を甚だ愛し、常に謂うには 「私は卿を子のように視ている。卿には私を父のように視てほしい」 閻柔はこれにより五官将に託し、兄弟のようだった。 (『魏略』)
劉虞と公孫瓚

■ 劉虞の立ち場 ■

 劉虞の事を考える上で、何よりもまず劉虞の立ち位置を定めておく必要があります。『三國志』では公孫瓚の添え物的存在として独立して扱われず、袁氏の内訌でも一種の治外法権的な印象すらある劉虞ですが、独自路線がほぼ不可能だった当時、劉虞も例外ではなかった筈です。

劉虞と他勢力との関わりを探ると、
  1. 韓馥・袁紹の勧進を拒んだ。
  2. その後も冀州とは連和していた。
  3. 董卓の存命中に朝廷に通好した。
  4. その後も特に冀州から攻められていない。
  5. 子の劉和が董卓に殺されていない。
  6. 劉和が山東派に殺される事が危惧された。
  7. 袁術との提携が可能だと朝廷に見做されていた。
  8. 幽州から派遣されていた公孫越が、袁紹派との交戦に抵抗を示していない。
  9. 公孫瓚の従弟の公孫範がふつーに袁紹陣営に交じっていた。
  10. 公孫瓚の袁紹に対する宣戦にノーリアクション。
  11. 袁紹が劉和を保護している。

こうして改めて見るとやはり治外法権的な扱いですが、節度下にある公孫瓚が韓馥にちょっかいを出していたと袁紹伝にはあり、冀州派とは基本的に一線を画していた事は否めません。どちらかというと献帝支持派寄りで、董卓に対する反抗心が薄まった袁術的な感じです。
 個人的には、劉虞には派閥志向は薄かったように思えます。孤高とか独立志向とかではなく、“どっちつかず”といった感じの。朝廷にはいい顔をしていたいし袁紹との決定的な衝突も避けたい。八方美人で収められるうちは収めておきたい、といった風で。この点を抑えた上での以下の駄弁です。

 
■ 両史の比較 ■

 劉虞は『演義』劉焉のモデルだと思われますが、公孫瓚以外との接触が極めて限られている為、“毒にも薬にもならない”として『三國志』では公孫瓚と一括扱いです。それが『後漢書』では別個に伝が立てられた上で「劉虞公孫瓚陶謙伝」として一巻にまとめられています。 『後漢書』劉虞伝および公孫瓚伝は、『三國志』本文に裴注の多くを接ぎ足し、幾許かの新情報を加えたものとして成立しています。公孫瓚の悪評で採用されなかった裴注は僅かで、前後関係の操作などで劉虞と公孫瓚の印象操作をしています。劉虞の伝記としては『後漢書』が真っ先に挙げられてしまう為、効果は絶大と謂わざるを得ません。
 私は『後漢書』懐疑派なので、『後漢書』が何をどう添削したのかを『三國志』をベースに確認しつつ、当時の幽州を確認したいと思います。

 
■ 裴注の行方 ■
  1. 公孫瓚は賢く、情報処理能力に優れていた。 (典略)・・・不採用
  2. 1.劉虞が宗正に至るまでの官歴と治績および為人り。 (呉書)・・・一部採用
    2.蝗も劉虞の境内を侵さなかった。 (英雄記)・・・不採用
    3.清廉で知られていた為に霊帝も増徴割り当てを免除した。 (魏書)・・・不採用
      劉虞が太尉を譲ろうとした人間は、いずれも三公に昇った。 (英雄記)・・・不採用
  3. 1.劉虞は袁紹・韓馥からの勧進の使者を叱責した。 (九州春秋)・・・採用
    2.田疇らを使者として長安に通じた。 (呉書)・・・田疇伝との整合により採用
  4. 公孫瓚が袁紹の十大罪を上疏した。 (典略)・・・採用
  5. 1.公孫瓚は劉虞と方針を異にし、烏桓への賜物を略取した。公孫瓚は劉虞との通見を拒んだ。
      劉虞は公孫瓚討伐を一度は思い止まったが、制止者が歿すると兵を起した。
      劉虞は戦に不慣れで大敗した。 (魏氏春秋)・・・各所に散らしつつ採用
    2.公孫瓚は劉虞処刑の時、雨を降らせろと罵った。 (典略)・・・採用
    3. 劉虞が殺されると、その属吏は公孫瓚を罵って殺された。 (英雄記)・・・不採用
  6. 公孫瓚は官吏の子弟を圧迫し、富貴の子弟を近づけた。 (英雄記)・・・採用
  7. 童謡に従って易京を築いた。・・・採用
      援軍をアテにされたくないので部将を救わなかった。 (英雄記)・・・不採用
  8. 公孫瓚と諸将は競って楼を作った。公孫瓚は男を近づけなくなった。 (英雄記)・・・脚色して採用
  9. 袁紹が公孫瓚を詰る書。 (漢晋春秋)・・・不採用
  10. 関靖のプロフィール。 (英雄記)・・・不採用
  11. 1.公孫瓚は公孫続に書簡を送って威しつつ援軍を督促した。 (典略)・・・採用
    2. 袁紹が得た公孫瓚の書簡は陳琳が書き改めた。 (献帝春秋)・・・不採用
  12. 袁紹は坑道から易の楼を燃やした。 (英雄記)・・・不採用
  13. 関靖は討って出て討ち死にした。 (漢晋春秋)・・・採用
  14. 官渡で曹操が鮮于輔と会話した。 (魏略)・・・不採用
  15. 鮮于輔と閻柔のその後。 (魏略)・・・採用

 いっそ清々しいほど採用基準が明確です。公孫瓚の悪行で採用されなかったのは部将見殺しの件だけです。そして劉虞については范曄の関心が薄かった事が伺われます。公孫瓚の悪行を強調する為に立伝したといっても過言ではないでしょう。特に[5-1]の『魏氏春秋』を分割して各所に分散する事でサブリミナル効果が発生し、これに本文の添削が施される事で、劉虞の州牧着任当初から両者が不和だったという印象になります。やるな范曄。

 
■ 削文と増補 ■

 では次に、『三國志』からの削除文を抜粋。
  1. 公孫瓚は洛陽に遊学した。
  2. 公孫瓚は劉虞に詣る烏桓からの使者を尽く殺したが、烏桓は事情を察して間道を利用した。
  3. 劉虞は(張純と烏桓の分離に成功した後に)駐兵を撤去したが、公孫瓚には歩騎万余を与えて右北平に駐屯させた。
  4. 公孫瓚は属国内の烏桓の詣降で中郎将・都亭侯となった。これより5〜6年間を烏桓問題担当として過ごしたが、三郡烏桓の南下を防げなかった。
  5. 劉和は(洛陽から脱出した際に)董卓から逃れたと偽った。
  6. 袁術は劉和を留めて遣らず、劉虞への手紙を書かせた。
  7. 公孫瓚は(渤海兵を接収したのち)青州・徐州の黄巾兵を破って強大となり、界橋に進出した。
  8. 公孫瓚は坑道の掘削を知って絶望し(て一家心中し)た。

次、追加分。割とメジャーなネタも含んでいます。
  1. 公孫瓚の家は歴世の吏二千石だったが、母の身分が低く小吏として出発した。
  2. 公孫瓚は張純らの追撃に夢中になって遼西の管子城(朝陽)で囲まれ、二百余日の籠城の後に突出して柳城に帰還したが、兵の半数以上を失った。降虜校尉・都亭侯・領属国長史とされた。
  3. 公孫瓚は敵襲の警報があると讐敵に向かうように馳せつけ、昼夜を分たず攻めた。烏桓・鮮卑は声だけで公孫瓚を認識するようになり、その勇を憚った。
  4. 公孫瓚は騎射の名手数十人で親衛隊を編成し、白馬義従と称した。烏桓は白馬長史と呼んで畏れかつ憎み、公孫瓚の人型を射的としたりもしたが、辺塞に近付かなくなった。
  5. 公孫瓚は劉虞の節度下に置かれた。軍備の増強だけを目的として好き放題だった。
  6. それまでの幽州は過剰な軍費を賄う為に青州・冀州に年二億を仰いでいたが、黄巾軍以来の戦乱で滞った。劉虞は勧農と馬市と塩鉄の産業で富ませ、青徐から難民百万余口が流入した。しかも劉虞は襤褸をまとって食膳には肉を出さず、教化が行き渡った。
  7. 初平二年(191)、青徐の黄巾が黒山との合流を目指して渤海に侵入した。11月、公孫瓚は東光で大破して三万余を斬り、追撃して又た数万を斬り、生口七万余を得た。威名が大いに揚り、奮武将軍・薊侯とされた。
  8. 袁術は劉和を質とし、劉虞に兵を遣わさせた。
  9. 公孫瓚が槃河に進出すると、冀州の諸城は悉く靡いた。
  10. (界橋の役の後、)袁紹軍の崔巨業は故安を陥せず、撤退する所を巨馬水で大破された。公孫瓚は平原に達し、青州刺史田楷を袁紹に対抗させた。二年間を攻防した。袁譚が青州刺史として派遣された後、田楷の軍は疲弊して帰還した。
  11. 劉虞は公孫瓚が敗れた後も袁紹への攻勢を収めない為、兵糧の供給を停止した。(公孫瓚は民衆を侵し、烏桓への褒賞を略取し、)互いに朝廷に訴えた。公孫瓚は薊に京を築いて劉虞に備えた。
  12. 劉虞は冠が破れても繕って使うほど倹素だった。害された後、公孫瓚の兵が家探しして妻妾の綺羅・綺飾を発見した。時人は疑惑した。
  13. 興平二年(195)、公孫瓚は漁陽の鮑丘で麴義・劉和に大破され、易京に籠城して屯田によって持久した。麴義らは年余の攻防で兵糧に乏しくなり、撤退する所を追撃された。
  14. 建安四年(199)、張燕らが三路より来援した。
  15. 公孫瓚は家族を殺した後に自焚した。
 
■ 不和の起源 ■

 裴注で補うまでもなく、『三國志』でも事ある毎に両者の不和・対立に言及しています。劉虞は袁紹に備える必要があり、公孫瓚を扱いかねたまま使い続けていた事は否定できません。ですが、一属国長史が本気で州牧に反抗できたとも思えません。現に劉虞が駐兵を削減した時、公孫瓚は対象外となっています。本当に公孫瓚を危険視しているなら、対抗勢力を設けておくものです。それに袁術に援兵した後も衝突の跡は見えません。界橋で大敗した公孫瓚に薊小城を築かせて袁紹に備えてもいます。『後漢書』は劉虞と公孫瓚の仲がこじれ切ってから薊に築城して劉虞に備えた、とやってくれていますが。

 劉虞にとっての公孫瓚は、ちょっと扱いは難しいものの、袁紹に対する格好の防波堤だったと思われます。烏桓問題では確かに反目したかもですが、幽州経営の方針に比べれば部分的な問題です。現に、張純が片付いた後、両者の不和を伝える逸話は胡散臭い袁術による奪兵問題だけです。公孫瓚としても旗印として劉虞が必要でしたし。
 そんな劉虞が公孫瓚に見切りをつけた直接のきっかけは何でしょう。田楷はまだ青州で頑張っていますし、公孫瓚は袁紹に拮抗しています。朝廷が洛陽の保持すらままならず、袁術が曹操に負けた事で外部からの援軍が望めなくなり、公孫瓚の首を差し出して袁紹と和解しようとした、という生臭い発想はありそうですが、それにしたって劉虞の挙兵は突発的すぎます。突発というより暴発といった感じです。
 例えば、例えばです。袁術の下を離れた劉和が袁紹に保護された事がこの時になって発覚し、袁紹との関係修復の必要が生じて発作的に公孫瓚を襲ってしまったとか? いくらなんでも子煩悩が過ぎますが、原因候補の一つには挙げておきます。

 
■ 初平二年 ■

 『三國志』と『後漢書』では公孫瓚の叙任・封爵の元になった功が異なっていますが、ここは割愛します。むしろ初平二年の時系列を整理したい。

 まず『三國志』
 豫州の争奪で公孫越が戦死し、激怒した公孫瓚が磐河に進出した。ビビった袁紹は渤海を差し出した。青・徐の黄巾軍を破った公孫範と公孫瓚は合流し、界橋に進出して三州に刺史を任じた。麴義に負けた。
 
 次に『後漢書』
 公孫瓚は渤海の東光で自ら黄巾を大破し、奮武将軍・薊侯とされた。豫州の争奪で公孫越が戦死した。激怒して槃河に進出すると、冀州が悉く靡いた。袁紹は渤海を差し出した。公孫瓚は三州の刺史を任じたものの、界橋で負けた。

 袁紹による冀州詐取が7月(『三國志』)、公孫瓚が黄巾軍を撃破したのが11月(『後漢書』)、界橋の役は翌年正月(『後漢書』)です。両書で前後関係が錯綜しているのは、恐らく同時進行的に起った別々の事件に関連性を持たせようとした結果かと思われます。
同じ事は現代の三国志関連の著作などでも往々に見られますが、提示されている全ての資料を統合する必要は、実は全くありません。本文に採用されなかった資料は優先度が低いだけでなく、ガセや曲解だと判断されたものもあるので、寧ろ本文と合理的に繋がる方が不自然な場合も少なくありません。『三國志』以降に編まれた著作についても、新発見の資料に基づいているから正しいとつい思ってしまいがちですが、寧ろ著者の主義や妄想がひっそり炸裂しているパターンが多いのも実情なので、取り扱いには充分の注意が必要です。自戒せねば!
 で、これはあくまでも私見ですが、公孫範への渤海譲渡は公孫瓚問題とは無関係だったのではないでしょうか。領内に侵入した黄巾の討伐を公孫範に託して渤海太守の印綬を渡したところ、偶々決着がつく頃に公孫越の事件があって公孫瓚が袁紹に宣戦して南下し、公孫範もそのまま公孫瓚に合流した、と。
やはり調停を依頼するのに太守の印綬を渡す事は不可解ですし、『後漢書』に至っては公孫瓚が東光まで出てきた事を袁紹は脅威だと見做していなかった事になります。東光は渤海郡治の南皮の更に南にあたるのに、です。のこの時点で両者は決裂していないだけで、領内通過を黙認するほど友好的ではなかった筈。東光で黄巾を破ったのは公孫範でしょう。


Top