諸葛瑾字子瑜、琅邪陽都人也。漢末避亂江東。値孫策卒、孫權姊壻曲阿弘咨見而異之、薦之於權、與魯肅等並見賓待、後為權長史、轉中司馬。建安二十年、權遣瑾使蜀通好劉備、與其弟亮倶公會相見、退無私面。
通常は 「○○人也」 に続けて父祖に言及するものですが、何故かそれが無い諸葛瑾伝です。弟の諸葛亮伝で記したので省いたのかもしれませんが、諸葛亮伝では諸葛瑾の名を出してはおらず、両者が族兄弟ではないかと勘繰られる所以です。そもそもなぜ諸葛瑾だけ別行動したし。
建安二十年といえば、劉備が益州を強奪した事で孫権との関係のこじれが表面化した年です。劉備との折衝は魯粛ではなく諸葛瑾が担当したという事のようです。孫権に出仕してからこの年まで、諸葛瑾の具体的な言動は無し。
與權談説諫喩、未嘗切愕、微見風彩、粗陳指歸、如有未合、則捨而及他、徐復託事造端、以物類相求、於是權意往往而釋。呉郡太守朱治、權舉將也、權曾有以望之、而素加敬、難自詰讓、忿忿不解。瑾揣知其故、而不敢顯陳、乃乞以意私自問、遂於權前為書、泛論物理、因以己心遙往忖度之。畢、以呈權、權喜、笑曰:「孤意解矣。顏氏之コ、使人加親、豈謂此邪?」權又怪校尉殷模、罪至不測。羣下多為之言、權怒益甚、與相反覆、惟瑾默然、權曰:「子瑜何獨不言?」瑾避席曰:「瑾與殷模等遭本州傾覆、生類殄盡。棄墳墓、攜老弱、披草莱、歸聖化、在流隸之中、蒙生成之福、不能躬相督氏A陳答萬一、至令模孤負恩惠、自陷罪戻。臣謝過不暇、誠不敢有言。」權聞之愴然、乃曰:「特為君赦之。」
後從討關羽、封宣城侯、以綏南將軍代呂蒙領南郡太守、住公安。劉備東伐呉、呉王求和、瑾與備牋曰:「奄聞旗鼓來至白帝、或恐議臣以呉王侵取此州、危害關羽、怨深禍大、不宜答和、此用心於小、未留意於大者也。試為陛下論其輕重、及其大小。陛下若抑威損忿、蹔省瑾言者、計可立決、不復咨之於羣后也。陛下以關羽之親何如先帝? 荊州大小孰與海内? 倶應仇疾、誰當先後? 若審此數、易於反掌。」時或言瑾別遣親人與備相聞、權曰:「孤與子瑜有死生不易之誓、子瑜之不負孤、猶孤之不負子瑜也。」黄武元年、遷左將軍、督公安、假節、封宛陵侯。
「奄(たちま)ち旗鼓が来たりて白帝に至ったと聞き、恐らくは呉王が荊州を侵取して関羽を危害した事で、怨みは深き禍は大きく、和に答えるべきではないと臣が議したのでありましょうか。これは小に心を用(はたら)かせ、未だ大に留意していない者(の意見)です。試みに陛下の為にその軽重および大小を論じてみましょう。陛下がもし威を抑えて忿を損い、蹔(しば)し私の言葉を省みられれば、計りごとを立てれば決し、復た群侯に諮る事もなくなります。陛下は関羽との親近さを先帝(献帝)と比べて如何でしょう? 荊州と海内とでは大小は孰れでしょう? 倶に仇疾に応じるなら、誰を先にし後にすべきでありましょう? もしこの数々を審らかにすれば、(大計は)掌を反すように容易くなりましょう」[2]
時に或る者が言うには、諸葛瑾は別に親近の人を遣って劉備と相聞(通誼)したと。孫権 「孤と子瑜とには死生不易の誓いがあり、子瑜が孤に負(そむ)かぬのは、猶お孤が子瑜に負かぬようなものだ」[3]。虞翻以狂直流徙、惟瑾屡為之説。翻與所親書曰:「諸葛敦仁、則天活物、比蒙清論、有以保分。惡積罪深、見忌殷重、雖有祁老之救、コ無羊舌、解釋難冀也。」
※ 祁老は祁奚、羊舌は羊舌肸。晋の范宣子がB552年に欒盈の党与として羊舌肸を捕えると、隠居していた祁奚が説得に乗り出して羊舌肸の赦免を獲得した。羊舌肸は後に当代屈指の賢臣として知られるようになる叔嚮の事。
瑾為人有容貌思度、于時服其弘雅。權亦重之、大事咨訪。又別咨瑾曰:「近得伯言表、以為曹丕已死、毒亂之民、當望旌瓦解、而更靜然。聞皆選用忠良、ェ刑罰、布恩惠、薄賦省役、以ス民心、其患更深於操時。孤以為不然。操之所行、其惟殺伐小為過差、及離關l骨肉、以為酷耳。至於御將、自古少有。丕之於操、萬不及也。今叡之不如丕、猶丕不如操也。其所以務崇小惠、必以其父新死、自度衰微、恐困苦之民一朝崩沮、故彊屈曲以求民心、欲以自安住耳、寧是興隆之漸邪!聞任陳長文・曹子丹輩、或文人諸生、或宗室戚臣、寧能御雄才虎將以制天下乎?夫威柄不專、則其事乖錯、如昔張耳・陳餘、非不敦睦、至於秉勢、自還相賊、乃事理使然也。又長文之徒、昔所以能守善者、以操笮其頭、畏操威嚴、故竭心盡意、不敢為非耳。逮丕繼業、年已長大、承操之後、以恩情加之、用能感義。今叡幼弱、隨人東西、此曹等輩、必當因此弄巧行態、阿黨比周、各助所附。如此之日、姦讒並起、更相陷懟、轉成嫌貳。一爾已往、羣下爭利、主幼不御、其為敗也焉得久乎? 所以知其然者、自古至今、安有四五人把持刑柄、而不離刺轉相蹄齧者也!彊當陵弱、弱當求援、此亂亡之道也。子瑜、卿但側耳聽之、伯言常長於計校、恐此一事小短也。」
孫権は尤もらしくドヤっていますが、要は「権力を君主に集中させるべきなんだ」 との主張に帰結するようです。何せ孫呉は成立当初から呉会の在地勢族の発言力が強く、この頃の孫権は近習を重用して勢族への対抗策としていましたから。 ➤
權稱尊號、拜大將軍・左都護、領豫州牧。及呂壹誅、權又有詔切磋瑾等、語在權傳。瑾輒因事以答、辭順理正。瑾子恪、名盛當世、權深器異之;然瑾常嫌之、謂非保家之子、毎以憂戚。赤烏四年、年六十八卒、遺命令素棺斂以時服、事從省約。
ここで、孫権が称帝した当時の呉の軍部の布陣を見てみます。従来の将軍号とは別に軍職とでも呼ぶものがありますが、丞相の顧雍は軍権は帯びていません。上大将軍の陸遜が右都護、大将軍諸葛瑾が左都護。車騎将軍朱然が右護軍、衛将軍全jが左護軍となっています。上下関係は陸遜らの官歴や字面から見るに都護>護軍であり、左右官については右>左かと思われます。 ちなみに陸遜の後任丞相となる歩隲は右将軍・左護軍から驃騎将軍・西陵都督に遷り、後に陸遜と武昌管区を折半する潘濬は少府です。
諸葛瑾の子の諸葛恪は、名は当世に盛んで、孫権は深くこれを器異としたが、諸葛瑾は常にこれを嫌い、家を保つ子ではないと謂い、事毎に憂戚した[6]。赤烏四年(241)、齢六十八で卒し、素棺に時服で斂め、省約の事に従うよう命令を遺した。この赤烏四年は芍陂の役に象徴される呉の北伐があった歳で、諸葛瑾は朱然と連動して柤中に進攻しています。斉王紀では 「朱然らが樊城を攻囲し、司馬懿が軍を率いて拒いだ。六月、(呉兵が)退いた。」 とあり、呉志呉主伝では 「朱然は樊城を囲み、諸葛瑾は柤中を攻め、五月に司馬懿が樊城に進んだ。六月に軍を還し、閏六月に諸葛瑾が歿した。」、朱然伝によると 「朱然は柤中を征し、蒲忠・胡質を撃退した。」とあります。又た干宝『晋紀』および房玄齢『晋書』では 「朱然・孫倫が樊城を囲み、諸葛瑾・歩隲が柤中に寇し、全jが敗退した後も樊城の攻囲が解けなかったので司馬懿が出征し、朱然は退却に臨んで破られた。」 とありますが、いずれも諸葛瑾の戦況には言及しておらず、諸葛瑾伝および諸葛瑾と同道した筈の歩隲伝ではこの北伐自体に触れていません。以上の事から考えると、諸葛瑾は北伐の当初から罹病して軍事行動すらままならず、司馬懿の出征に直面した朱然が柤中の友軍を接収しつつ退却したのではないかと思われます。
恪已自封侯、故弟融襲爵、攝兵業駐公安、部曲吏士親附之。疆外無事、秋冬則射獵講武、春夏則延賓高會、休吏假卒、或不遠千里而造焉。毎會輒歴問賓客、各言其能、乃合榻促席、量敵選對、或有博弈、或有摴蒱、投壺弓彈、部別類分、於是甘果繼進、清酒徐行、融周流觀覽、終日不倦。融父兄質素、雖在軍旅、身無采飾;而融錦罽文繍、獨為奢綺。孫權薨、徙奮威將軍。後恪征淮南、假融節、令引軍入沔、以撃西兵。恪既誅、遣無難督施ェ就將軍施績・孫壹・全熙等取融。融卒聞兵士至、惶懼猶豫、不能決計、兵到圍城、飲藥而死、三子皆伏誅。
※ 賭博的な遊戯の一種。5色の木片を投げ、色を当てるなどをした。春秋晋で盛んだったという。
諸葛融の父兄は質素で、軍旅に在っても身を彩飾しなかったが、諸葛融は錦罽文繍し、独り奢綺を為した。孫権が薨じると奮威将軍に徙された。後に諸葛恪は淮南を征する時に諸葛融に節を仮し、軍を率いて沔水に入らせ、西兵(魏兵)を撃たせた ➤。諸葛恪が誅されると、(朝廷は)無難督施ェを遣って将軍の施績・孫壹・全熙らに諸葛融を討ち取らせた。諸葛融はたちまち兵士が至ったと聞くと、惶懼・猶予して計を決する事ができず、兵が到って城を囲むと毒薬を飲んで死に、三子は皆な誅に伏した[8]。『呉書』ですら諸葛亮の才略は諸葛瑾より上だと認めていますよ! 魏での諸葛亮の評価や、死の直後には神格化が始まっている事などから、実際の諸葛亮の才腕は“上の下”あたりかと思っていましたが、『呉書』の評価を見て改めましょう。
歩騭字子山、臨淮淮陰人也。世亂、避難江東、單身窮困、與廣陵衞旌同年相善、倶以種瓜自給、晝勤四體、夜誦經傳。
會稽焦征羌、郡之豪族、人客放縱。隲與旌求食其地、懼為所侵、乃共脩刺奉瓜、以獻征羌。征羌方在内臥、駐之移時、旌欲委去、隲止之曰:「本所以來、畏其彊也;而今舍去、欲以為高、祗結怨耳。」良久、征羌開牖見之、身隱几坐帳中、設席致地、坐隲・旌於牖外、旌愈恥之、隲辭色自若。征羌作食、身享大案、殽膳重沓、以小盤飯與隲・旌、惟菜茹而已。旌不能食、隲極飯致飽乃辭出。旌怒隲曰:「何能忍此?」隲曰:「吾等貧賤、是以主人以貧賤遇之、固其宜也、當何所恥?」
孫權為討虜將軍、召隲為主記、除海鹽長、還辟車騎將軍東曹掾。建安十五年、出領鄱陽太守。歳中、徙交州刺史・立武中郎將、領武射吏千人、便道南行。明年、追拜使持節・征南中郎將。劉表所置蒼梧太守呉巨陰懷異心、外附内違。隲降意懷誘、請與相見、因斬徇之、威聲大震。士燮兄弟、相率供命、南土之賓、自此始也。益州大姓雍闓等殺蜀所署太守正昂、與燮相聞、求欲内附。隲因承制遣使宣恩撫納、由是加拜平戎將軍、封廣信侯。
孫権が劉備の上表で車騎将軍となったのは建安十四年(209)。
建安十五年、転出して鄱陽太守を兼領した。その歳の中に交州刺史・立武中郎将に徙り、武射吏千人を典領し、便道(近道)を南行した。明年、追って使持節・征南中郎将を拝命した。劉表が置いた蒼梧太守呉巨は陰かに異心を懐いており、外面では附して内心は違えていた。歩隲は意を降して懐柔・誘引して会見することを請い、そのうえで斬ってこれ(呉巨の首)を徇(めぐ)らせ、威声は大いに震った。士燮兄弟は相い率いて命を奉じ、南土が賓(まつろ)うのはこれより始まった。益州の大姓の雍闓らは蜀が署けた太守正昂を殺すと、士燮と相聞して内附せん事を求めた。歩隲は承制によって遣使して恩を宣べて撫納し、これにより平戎将軍を加拝され、広信侯に封じられた。延康元年、權遣呂岱代隲、隲將交州義士萬人出長沙。會劉備東下、武陵蠻夷蠢動、權遂命隲上益陽。備既敗績、而零・桂諸郡猶相驚擾、處處阻兵;隲周旋征討、皆平之。黄武二年、遷右將軍左護軍、改封臨湘侯。五年、假節、徙屯漚口。
權稱尊號、拜驃騎將軍、領冀州牧。是歳、都督西陵、代陸遜撫二境、頃以冀州在蜀分、解牧職。時權太子登駐武昌、愛人好善、與隲書曰:「夫賢人君子、所以興隆大化、佐理時務者也。受性闇蔽、不達道數、雖實區區欲盡心於明コ、歸分於君子、至於遠近士人、先後之宜、猶或緬焉、未之能詳。傳曰:『愛之能勿勞乎?忠焉能勿誨乎?』斯其義也、豈非所望於君子哉!」隲於是條于時事業在荊州界者、諸葛瑾・陸遜・朱然・程普・潘濬・裴玄・夏侯承・衞旌・李肅・周條・石幹十一人、甄別行状、因上疏奬勸曰:「臣聞人君不親小事、百官有司各任其職。故舜命九賢、則無所用心、彈五弦之琴、詠南風之詩、不下堂廟而天下治也。齊桓用管仲、被髮載車、齊國既治、又致匡合。近漢高祖擥三傑以興帝業、西楚失雄俊以喪成功。汲黯在朝、淮南寢謀;郅都守邊、匈奴竄迹。故賢人所在、折衝萬里、信國家之利器、崇替之所由也。方今王化未被於漢北、河・洛之濱尚有僭逆之醜、誠擥英雄拔俊任賢之時心。願明太子重以輕意、則天下幸甚。」
後中書呂壹典校文書、多所糾舉、隲上疏曰:「伏聞諸典校擿抉細微、吹毛求瑕、重案深誣、輒欲陷人以成威福;無罪無辜、受大刑、是以使民跼天蹐地、誰不戰慄?昔之獄官、惟賢是任、故皋陶作士、呂侯贖刑、張・于廷尉、民無寃枉、休泰之祚、實由此興。今之小臣、動與古異、獄以賄成、輕忽人命、歸咎于上、為國速怨。夫一人吁嗟、王道為虧、甚可仇疾。明コ慎罰、哲人惟刑、書傳所美。自今蔽獄、都下則宜諮顧雍、武昌則陸遜・潘濬、平心專意、務在得情、隲黨神明、受罪何恨?」又曰:「天子父天母地、故宮室百官、動法列宿。若施政令、欽順時節、官得其人、則陰陽和平、七曜循度。至於今日、官寮多闕、雖有大臣、復不信任、如此天地焉得無變?故頻年枯旱、亢陽之應也。又嘉禾六年五月十四日、赤烏二年正月一日及二十七日、地皆震動。地陰類、臣之象、陰氣盛故動、臣下專政之故也。夫天地見異、所以警悟人主、可不深思其意哉!」又曰:「丞相顧雍・上大將軍陸遜・太常潘濬、憂深責重、志在謁誠、夙夜兢兢、寢食不寧、念欲安國利民、建久長之計、可謂心膂股肱、社稷之臣矣。宜各委任、不使他官監其所司、責其成效、課其負殿。此三臣者、思慮不到則已、豈敢專擅威福欺負所天乎?」又曰:「縣賞以顯善、設刑以威姦、任賢而使能、審明於法術、則何功而不成、何事而不辨、何聽而不聞、何視而不覩哉?若今郡守百里、皆各得其人、共相經緯、如是、庶政豈不康哉?竊聞諸縣並有備吏、吏多民煩、俗以之弊。但小人因縁銜命、不務奉公而作威福、無益視聽、更為民害、愚以為可一切罷省。」權亦覺梧、遂誅呂壹。隲前後薦達屈滯、救解患難、書數十上。權雖不能悉納、然時采其言、多蒙濟ョ。
「伏して聞く処では、諸々の典校は細微を擿抉(詮索)し、毛を吹いて瑕を求め、案件を重くして誣告を深くし、しばしば人を枉陥する事で威福を成そうとし、無罪無辜の者は横暴にも大刑を受け、これによって民は跼天蹐地(天に背を屈め地に抜き足す=身の置き所が無い)しているとか。これでは誰が戦慄せずにおれましょう? 昔の獄官にはただ賢者を任命し、ゆえに皋陶(堯の司法官)は士官となり、呂侯(周穆王のとき成文法を定めた司寇)は贖刑を定め、張釈之・于定国が廷尉となると民には寃枉される者は無く、休泰之祚(安泰たる国運)はまことにこれによって興るのです。現今の小臣は往古とは動きを異にし、獄事は賄で成立し、人命を軽忽に扱って上に咎を帰し、国に対する怨みを速成しております。そも一人の吁嗟によっても王道は欠けるもので、仇疾する者があれば尚更です。徳を明らかにして刑罰を慎み、哲人が刑を惟う状況こそ、書伝が賛美する事です。今より蔽獄(典獄)の事は、都下では顧雍に、武昌では陸遜・潘濬に諮られるのが宜しいでしょう。いずれも平心専意、実情を得ることに務めております。私は神明に党与する身であり、罪を受けてもどうして恨みましょう?」
又た曰く「天子とは天を父とし地を母とし、ゆえに宮室・百官の動(はたら)きは列宿(星宿)に法るのです。もし政令を施行した場合、欽(つつし)んで時節に順い、官に適当な人材を得ていれば、陰陽は和み平らかにして、七曜は度ったように循るのです。今日に至っては、官寮は多くが闕け、大臣はあっても信任されず、これで天地に変異が無いような状態が得られましょうか? ゆえに頻りに枯旱(旱魃)の害があるのは亢陽(過剰な陽気)に応じたものなのです。又た嘉禾六年(237)五月十四日、赤烏二年(239)正月一日および二十七日に、地はいずれも震動しました。地は陰の類で、臣の象形であり、陰気が盛んゆえに動くのであり、臣下が政事を専らにしているからであります。そも天地が異変を見(あらわ)すのは、人主に警悟させる為で、その意を深く思わずにおられましょうか!」
又た曰く「丞相顧雍・上大将軍陸遜・太常潘濬は、憂いは深く責務は重く、誠意を以て謁(つか)えることを志し、夙夜に兢兢として寝食も寧からず、国を安んじ民に利益せんと念い、久長の計を建て、(主上の)心膂・股肱、社稷の臣と謂うべきです。各々に委任し、他の宮監にはその司る事に(干渉)させぬのが宜しく、その成功を責務とし、負殿(?)を課されん事を。この三臣は、思慮は到らざるにしても、どうして威福を専擅して天を欺負するような事がありましょうか?」
又た曰く「賞を懸ける事で善を顕し、刑を設ける事で姦悪を威し、賢士を任用して能(はたら)かせ、法術を審らかに明らかにすれば、どのような功も成らず、どのような事も弁えられず、聴こうとしても聞こえず、視ようとしても観えないという事がありましょうか? もし今、郡守百里(太守令長)に皆な各々適任者を得て、共に相い経緯(整治)し、この様にしたなら、庶政はどうして康からざる事がありましょう? 竊かに聞けば、諸県は揃って吏を完備しているとの事ですが、吏が多いのは民の煩いであり、俗にこれを弊害としております。ただの小人が縁によって命を銜み、奉公には務めずに威福を作し、(主上の)視聴の上では無益であり、更に民の害を為しております。愚考するに、一切を罷省なされませ」
孫権も亦た覚悟(察悟)し、かくて呂壹を誅した。歩隲は前後して(官途で)屈滞している者を薦達し、患難している者を救解するのに、書状数十を上呈した。孫権は悉くは納れられなかったとはいえ、時々にその言葉を採用し、多くがこれを頼りとした救済を蒙った[8]。 一連の上書は歩隲に限った事ではなく、同時代の賢臣とか諫臣と呼ばれる人物なら殆どが上書している類いのものです。これが歩隲の上書をそのまま載録しているのだとすれば、文藻とか表現とかが特に秀逸だったからまとめ載せをしたんでしょう。歩隲の後半生の功績として、こうした上書しか載せられなかったというのは、堅実に職務をこなして目立った功績は示さなかった裏返しなんだと思われます。
そしてやはり、二宮の変についての言及はありません。韋昭としても、敬愛すべき歩隲が魯王派だったという事実には触れたくはなく、それを実践したのでしょう。
赤烏九年、代陸遜為丞相、猶誨育門生、手不釋書、被服居處有如儒生。然門内妻妾服飾奢綺、頗以此見譏。在西陵二十年、鄰敵敬其威信。性ェ弘得衆、喜怒不形於聲色、而外内肅然。十年卒、子協嗣、統隲所領、加撫軍將軍。協卒、子璣嗣侯。
歩隲が西陵都督となってから死ぬまで二十年を満たしてはいませんが、本伝の書き方だと陸遜と同様に遙任丞相だったのでしょう。当時、二宮の変は実質的に孫和派の敗北で終っているので、孫霸派であり、全公主の外叔でもある歩隲が京師に入れなかったのは不思議な措置です。歩夫人を介して全氏系に連なるとはいえ、太子問題を除けば歩隲の主張が勢族寄りだったからとか? ともあれ、歩隲の死後は諸葛恪を殺した孫峻が就任するまで呉は丞相不在です。
協弟闡、繼業為西陵督、加昭武將軍、封西亭侯。鳳皇元年、召為繞帳督。闡累世在西陵、卒被徴命、自以失職、又懼有讒禍、於是據城降晉。遣璣與弟璿詣洛陽為任、晉以闡為都督西陵諸軍事・衞將軍・儀同三司、加侍中、假節領交州牧、封宜都公;璣監江陵諸軍事・左將軍、加散騎常侍、領廬陵太守、改封江陵侯;璿給事中・宣威將軍、封都郷侯。命車騎將軍羊祜・荊州刺史楊肇往赴救闡。孫晧使陸抗西行、祜等遁退。抗陷城、斬闡等、歩氏泯滅、惟璿紹祀。
西陵は夷陵の事ですが、陸遜・陸抗が西面の要衝として最も重視した地です。その西陵督を継承したというのは歩家の既得権というだけでなく、歩闡に対する中央の信頼が篤くなければなりません。そんな歩闡にすら叛かれた孫皓は、本当に勢族との対立関係が進行していたんでしょう。
潁川周昭著書稱歩隲及嚴o等曰:「古今賢士大夫所以失名喪身傾家害國者、其由非一也、然要其大歸、總其常患、四者而已。急論議一也、爭名勢二也、重朋黨三也、務欲速四也。急論議則傷人、爭名勢則敗友、重朋黨則蔽主、務欲速則失コ、此四者不除、未有能全也。當世君子能不然者、亦比有之、豈獨古人乎! 然論其絶異、未若顧豫章・諸葛使君・歩丞相・嚴衞尉・張奮威之為美也。論語言『夫子恂恂然善誘人』、又曰『成人之美、不成人之惡』、豫章有之矣。『望之儼然、即之也温、聽其言也氏x、使君體之矣。『恭而安、威而不猛』、丞相履之矣。學不求祿、心無苟得、衞尉・奮威蹈之矣。此五君者、雖コ實有差、輕重不同、至於趣舍大檢、不犯四者、倶一揆也。昔丁諝出於孤家、吾粲由於牧豎、豫章揚其善、以並陸・全之列、是以人無幽滯而風俗厚焉。使君・丞相・衞尉三君、昔以布衣倶相友善、諸論者因各敍其優劣。初、先衞尉、次丞相、而後有使君也;其後並事明主、經營世務、出處之才有不同、先後之名須反其初、此世常人決勤薄也。至於三君分好、卒無虧損、豈非古人交哉!又魯江昔杖萬兵、屯據陸口、當世之美業也、能與不能、孰不願焉?而江既亡、衞尉應其選、自以才非將帥、深辭固讓、終於不就。後徙九列、遷典八座、榮不足以自曜、祿不足以自奉。至於二君、皆位為上將、窮富極貴。衞尉既無求欲、二君又不稱薦、各守所志、保其名好。孔子曰:『君子矜而不爭、羣而不黨。』斯有風矣。又奮威之名、亦三君之次也、當一方之戍、受上將之任、與使君・丞相不異也。然歴國事、論功勞、實有先後、故爵位之榮殊焉。而奮威將處此、決能明其部分、心無失道之欲、事無充詘之求、毎升朝堂、循禮而動、辭氣謇謇、罔不惟忠。叔嗣雖親貴、言憂其敗、蔡文至雖疏賤、談稱其賢。女配太子、受禮若弔、慷愾之趨、惟篤人物、成敗得失、皆如所慮、可謂守道見機、好古之士也。若乃經國家、當軍旅、於馳騖之際、立霸王之功、此五者未為過人。至其純粹履道、求不苟得、升降當世、保全名行、邈然絶俗、實有所師。故粗論其事、以示後之君子。」周昭者字恭遠、與韋曜・薛瑩・華覈並述呉書、後為中書郎、坐事下獄、覈表救之、孫休不聽、遂伏法云。
つまり周昭は、韋昭らとは政治思想が極めて近かったという事が推測でき、韋昭らのグループは名士として上記の五人を筆頭に置き、特に張承を偲んでいた事が窺われます。歩隲伝に附記されてはいますが、実質的に張承伝か厳o伝に附記されるべき評ではあります。
評曰:張昭受遺輔佐、功勳克舉、忠謇方直、動不為己;而以嚴見憚、以高見外、既不處宰相、又不登師保、從容閭巷、養老而已、以此明權之不及策也。顧雍依杖素業、而將之智局、故能究極榮位。諸葛瑾・歩隲並以コ度規檢見器當世、張承・顧邵虚心長者、好尚人物、周昭之論、稱之甚美、故詳録焉。譚獻納在公、有忠貞之節。休・承脩志、咸庶為善。愛惡相攻、流播南裔、哀哉!