三國志修正計画

三國志卷五十二 呉志七/張顧諸葛歩傳 (二)

諸葛瑾

 諸葛瑾字子瑜、琅邪陽都人也。漢末避亂江東。値孫策卒、孫權姊壻曲阿弘咨見而異之、薦之於權、與魯肅等並見賓待、後為權長史、轉中司馬。建安二十年、權遣瑾使蜀通好劉備、與其弟亮倶公會相見、退無私面。

 諸葛瑾、字は子瑜。琅邪陽都の人である[1]。漢末に乱を江東に避けた。たまたま孫策が卒し、孫権の姊婿である曲阿の弘咨が会見してこれを異とし、孫権に薦めた処、魯粛らと揃って賓待され、後に孫権の長史となり、中司馬に転じた。建安二十年(215)、孫権は諸葛瑾を遣って蜀への使者として劉備に通好させ、その弟の諸葛亮と倶に公式の会見で相い見えたが、退くと私的には面会しなかった。

 通常は 「○○人也」 に続けて父祖に言及するものですが、何故かそれが無い諸葛瑾伝です。弟の諸葛亮伝で記したので省いたのかもしれませんが、諸葛亮伝では諸葛瑾の名を出してはおらず、両者が族兄弟ではないかと勘繰られる所以です。そもそもなぜ諸葛瑾だけ別行動したし。
 建安二十年といえば、劉備が益州を強奪した事で孫権との関係のこじれが表面化した年です。劉備との折衝は魯粛ではなく諸葛瑾が担当したという事のようです。孫権に出仕してからこの年まで、諸葛瑾の具体的な言動は無し。

 與權談説諫喩、未嘗切愕、微見風彩、粗陳指歸、如有未合、則捨而及他、徐復託事造端、以物類相求、於是權意往往而釋。呉郡太守朱治、權舉將也、權曾有以望之、而素加敬、難自詰讓、忿忿不解。瑾揣知其故、而不敢顯陳、乃乞以意私自問、遂於權前為書、泛論物理、因以己心遙往忖度之。畢、以呈權、權喜、笑曰:「孤意解矣。顏氏之コ、使人加親、豈謂此邪?」權又怪校尉殷模、罪至不測。羣下多為之言、權怒益甚、與相反覆、惟瑾默然、權曰:「子瑜何獨不言?」瑾避席曰:「瑾與殷模等遭本州傾覆、生類殄盡。棄墳墓、攜老弱、披草莱、歸聖化、在流隸之中、蒙生成之福、不能躬相督氏A陳答萬一、至令模孤負恩惠、自陷罪戻。臣謝過不暇、誠不敢有言。」權聞之愴然、乃曰:「特為君赦之。」

 孫権と談説した際の諫喩では、未だ嘗て切愕した事はなく、微かに風彩を見(あらわ)して旨の帰すところを粗陳(あらましを陳べ)し、未だ合わないようなら捨てて他の話に及び、徐ろに復た事に託して端緒を造り、物に類えて理解を求めた。こうして孫権の意は往々にして釈かれた。
呉郡太守朱治は孫権の挙将であり、孫権は嘗て怨望する事があった。しかし素より敬礼を加えており、自ら詰譲するのは困難で、忿忿として解けなかった。諸葛瑾はその事を揣知(察知)したが、顕かに陳べようとはせず、意私自問(自問自答)する事を乞い、かくて孫権の前で書簡を為し、物の道理を泛(ひろ)く論じ、己の心で遥かに(朱治の考えを)忖度した。畢(お)えて孫権に上呈すると、孫権は喜んで笑いつつ 「孤の意は解けた。顔氏の徳は人々に親しさを加えさせたが、この様な事であろうか?」
孫権は又た校尉殷模を怪しみ、罪は不測の処置(極刑)に至った。群下の多くがこの為に言ったが、孫権の怒りは益々甚だしくなり、この様な事が反復された。ただ諸葛瑾だけが黙然としており、孫権は 「子瑜はなぜ独りだけ言わないのか?」 と。諸葛瑾は席を避(お)りて 「私と殷模らとは本州の傾覆に遭い、生類は殄尽しました。墳墓を棄て、老弱を携え、草莱を披り、聖化に帰したのです。流隸に中に在ったものが、生成の福を蒙りながら、躬ずから相い督獅オて万分の一も陳答できず、殷模には恩恵に孤負(背信)させて自ら罪悖に陥らせるに至りました。臣は過を陳謝する暇すら無く、そのため言おうとしなかったのです」 孫権はこれを聞いて愴然となり、かくして 「特に君の為にこれを赦そう」 と。

 後從討關羽、封宣城侯、以綏南將軍代呂蒙領南郡太守、住公安。劉備東伐呉、呉王求和、瑾與備牋曰:「奄聞旗鼓來至白帝、或恐議臣以呉王侵取此州、危害關羽、怨深禍大、不宜答和、此用心於小、未留意於大者也。試為陛下論其輕重、及其大小。陛下若抑威損忿、蹔省瑾言者、計可立決、不復咨之於羣后也。陛下以關羽之親何如先帝? 荊州大小孰與海内? 倶應仇疾、誰當先後? 若審此數、易於反掌。」時或言瑾別遣親人與備相聞、權曰:「孤與子瑜有死生不易之誓、子瑜之不負孤、猶孤之不負子瑜也。」黄武元年、遷左將軍、督公安、假節、封宛陵侯。

 後に関羽を討つのに従い、宣城侯に封じられ、綏南将軍として呂蒙に代って南郡太守を兼領し、公安に駐まった。劉備が東して呉を伐つと、呉王は和を求めた。諸葛瑾が劉備に牋を与えるには

「奄(たちま)ち旗鼓が来たりて白帝に至ったと聞き、恐らくは呉王が荊州を侵取して関羽を危害した事で、怨みは深き禍は大きく、和に答えるべきではないと臣が議したのでありましょうか。これは小に心を用(はたら)かせ、未だ大に留意していない者(の意見)です。試みに陛下の為にその軽重および大小を論じてみましょう。陛下がもし威を抑えて忿を損い、蹔(しば)し私の言葉を省みられれば、計りごとを立てれば決し、復た群侯に諮る事もなくなります。陛下は関羽との親近さを先帝(献帝)と比べて如何でしょう? 荊州と海内とでは大小は孰れでしょう? 倶に仇疾に応じるなら、誰を先にし後にすべきでありましょう? もしこの数々を審らかにすれば、(大計は)掌を反すように容易くなりましょう」[2]

時に或る者が言うには、諸葛瑾は別に親近の人を遣って劉備と相聞(通誼)したと。孫権 「孤と子瑜とには死生不易の誓いがあり、子瑜が孤に負(そむ)かぬのは、猶お孤が子瑜に負かぬようなものだ」[3]
 黄武元年(223)、左将軍に遷って公安を督し、節を仮され、宛陵侯に封じられた[4]

 虞翻以狂直流徙、惟瑾屡為之説。翻與所親書曰:「諸葛敦仁、則天活物、比蒙清論、有以保分。惡積罪深、見忌殷重、雖有祁老之救、コ無羊舌、解釋難冀也。」

 虞翻は狂直を理由に流徙されたが、ただ諸葛瑾のみはしばしば虞翻の為に(赦免を)説いた。虞翻は親近に与えた書簡で 「諸葛瑾は仁に敦く、天が物を活かすようなものだ。このたびは清論を蒙り、分を保つ事ができた。(私は)悪積罪深であり、忌まれること殷重(甚重)で、祁老の救助があろうとも(私に)羊舌の徳が無いので[※]、解釈(赦免)を冀うのは難しかろう」

※ 祁老は祁奚、羊舌は羊舌肸。晋の范宣子がB552年に欒盈の党与として羊舌肸を捕えると、隠居していた祁奚が説得に乗り出して羊舌肸の赦免を獲得した。羊舌肸は後に当代屈指の賢臣として知られるようになる叔嚮の事。

 瑾為人有容貌思度、于時服其弘雅。權亦重之、大事咨訪。又別咨瑾曰:「近得伯言表、以為曹丕已死、毒亂之民、當望旌瓦解、而更靜然。聞皆選用忠良、ェ刑罰、布恩惠、薄賦省役、以ス民心、其患更深於操時。孤以為不然。操之所行、其惟殺伐小為過差、及離關l骨肉、以為酷耳。至於御將、自古少有。丕之於操、萬不及也。今叡之不如丕、猶丕不如操也。其所以務崇小惠、必以其父新死、自度衰微、恐困苦之民一朝崩沮、故彊屈曲以求民心、欲以自安住耳、寧是興隆之漸邪!聞任陳長文・曹子丹輩、或文人諸生、或宗室戚臣、寧能御雄才虎將以制天下乎?夫威柄不專、則其事乖錯、如昔張耳・陳餘、非不敦睦、至於秉勢、自還相賊、乃事理使然也。又長文之徒、昔所以能守善者、以操笮其頭、畏操威嚴、故竭心盡意、不敢為非耳。逮丕繼業、年已長大、承操之後、以恩情加之、用能感義。今叡幼弱、隨人東西、此曹等輩、必當因此弄巧行態、阿黨比周、各助所附。如此之日、姦讒並起、更相陷懟、轉成嫌貳。一爾已往、羣下爭利、主幼不御、其為敗也焉得久乎? 所以知其然者、自古至今、安有四五人把持刑柄、而不離刺轉相蹄齧者也!彊當陵弱、弱當求援、此亂亡之道也。子瑜、卿但側耳聽之、伯言常長於計校、恐此一事小短也。」

 諸葛瑾の為人りは容貌と思慮度量があり、時人はその弘雅に服した。孫権も亦た重んじ、大事に際しては咨訪(諮問)した。又た別けて諸葛瑾に諮るには
「近ごろ陸伯言の上表を得たが、“曹丕が死んだ事で、毒乱された民が(呉の)旌旗を望んで瓦解するかと思ったが、静然としている。聞けば皆な忠良を選用し、刑罰は寛容で、恩恵を布延し、賦を薄くして役を省いた事で民心は悦んでおり、その患いは曹操の時より深くなっている”と。孤はそうは思わない。曹操の所行は、惟うに殺伐をした事はやや過剰だったにすぎず、それと人の骨肉を離間させた事が酷いだけだ。諸将を御するに至っては、古えより希少である。曹丕は曹操に対し、万事に及ばない。今、曹叡が曹丕に及ばぬのは、猶お曹丕が曹操に及ばぬ様なものだ。小恵に務めるのを崇んでいるのは、きっと父が死んだばかりで、自らの衰微を度り、困苦する民が一朝に崩沮する事を恐れ、ゆえに強いて(自ら)屈曲して民心を求め、自ら安住しようとしているだけだ。どうしてこれが興隆の漸(きざし)であろうか!
 聞けば陳長文曹子丹らの輩に任せているが、或る者は文人・諸生で、或る者は宗室や戚臣であり、どうして雄才・虎将を御して天下を制する事ができようか? そも(君主が)威柄(権柄)を専らにしなければ事は乖錯するもので、昔に張耳・陳餘は敦睦しなかった訳ではなかったのに、権勢を秉るに至って自ら賊(そこな)い合ったようなもので、事の理りとはそうさせるものなのだ。又た陳長文の徒輩が昔に善を守る事ができたのは、曹操がその頭を笮(おさ)えた事で曹操の威厳を畏れ、それゆえ心を竭くし意を尽し、非を為そうとはしなかったのだ。曹丕は大業を継ぐ時に齢は已に長大で、曹操の後を承けるに及び、恩情を加える事で義を感じさせて用(はたら)かせた。
 今、曹叡は幼弱で、人に随って東奔西走しており、この曹等(同類)の輩は、必ずやこれに乗じ巧言を弄してさまざまに行ない、阿党比周(相互結託)し、各々が附す党を助けるだろう。そのようになれば姦讒は並び起り、更めて陥懟(陥怨)し合い、転じて嫌疑と弐心を成すだろう。一たびそうなれば群下は利を争い、主は幼くして御せず、敗亡するのは久しい事であろうか? そうなる事が分るのは、古えより今に至るまで、複数人が刑柄を把持ながら、離刺(離間と刺譏)に転じて蹄齧(踏噛)し合わなかった事がないからだ! 強きは弱きを凌辱し、弱きは(外部に)援助を求め、これぞ混乱滅亡の道である。子瑜よ、卿はただ耳を側ててこれを聴くのだ。陸伯言は常に計校には長じているが、恐らくはこの一事については小短(不見識)なのだ」[5]

 孫権は尤もらしくドヤっていますが、要は「権力を君主に集中させるべきなんだ」 との主張に帰結するようです。何せ孫呉は成立当初から呉会の在地勢族の発言力が強く、この頃の孫権は近習を重用して勢族への対抗策としていましたから。

 權稱尊號、拜大將軍・左都護、領豫州牧。及呂壹誅、權又有詔切磋瑾等、語在權傳。瑾輒因事以答、辭順理正。瑾子恪、名盛當世、權深器異之;然瑾常嫌之、謂非保家之子、毎以憂戚。赤烏四年、年六十八卒、遺命令素棺斂以時服、事從省約。

 孫権が尊号を称すと、大将軍・左都護を拝命して豫州牧を兼領した。呂壹が誅されるに及び、孫権は又た(自分を)切磋するよう諸葛瑾らに詔した。物語は孫権伝に在る。諸葛瑾はその事について答えたが、言辞は順当で理りは正しいものだった。

 ここで、孫権が称帝した当時の呉の軍部の布陣を見てみます。従来の将軍号とは別に軍職とでも呼ぶものがありますが、丞相の顧雍は軍権は帯びていません。上大将軍の陸遜が右都護、大将軍諸葛瑾が左都護。車騎将軍朱然が右護軍、衛将軍全jが左護軍となっています。上下関係は陸遜らの官歴や字面から見るに都護>護軍であり、左右官については右>左かと思われます。 ちなみに陸遜の後任丞相となる歩隲は右将軍・左護軍から驃騎将軍・西陵都督に遷り、後に陸遜と武昌管区を折半する潘濬は少府です。

 諸葛瑾の子の諸葛恪は、名は当世に盛んで、孫権は深くこれを器異としたが、諸葛瑾は常にこれを嫌い、家を保つ子ではないと謂い、事毎に憂戚した[6]。赤烏四年(241)、齢六十八で卒し、素棺に時服で斂め、省約の事に従うよう命令を遺した。

 この赤烏四年は芍陂の役に象徴される呉の北伐があった歳で、諸葛瑾は朱然と連動して柤中に進攻しています。斉王紀では 「朱然らが樊城を攻囲し、司馬懿が軍を率いて拒いだ。六月、(呉兵が)退いた。」 とあり、呉志呉主伝では 「朱然は樊城を囲み、諸葛瑾は柤中を攻め、五月に司馬懿が樊城に進んだ。六月に軍を還し、閏六月に諸葛瑾が歿した。」、朱然伝によると 「朱然は柤中を征し、蒲忠・胡質を撃退した。」とあります。又た干宝『晋紀』および房玄齢『晋書』では 「朱然・孫倫が樊城を囲み、諸葛瑾・歩隲が柤中に寇し、全jが敗退した後も樊城の攻囲が解けなかったので司馬懿が出征し、朱然は退却に臨んで破られた。」 とありますが、いずれも諸葛瑾の戦況には言及しておらず、諸葛瑾伝および諸葛瑾と同道した筈の歩隲伝ではこの北伐自体に触れていません。以上の事から考えると、諸葛瑾は北伐の当初から罹病して軍事行動すらままならず、司馬懿の出征に直面した朱然が柤中の友軍を接収しつつ退却したのではないかと思われます。

恪已自封侯、故弟融襲爵、攝兵業駐公安、部曲吏士親附之。疆外無事、秋冬則射獵講武、春夏則延賓高會、休吏假卒、或不遠千里而造焉。毎會輒歴問賓客、各言其能、乃合榻促席、量敵選對、或有博弈、或有摴蒱、投壺弓彈、部別類分、於是甘果繼進、清酒徐行、融周流觀覽、終日不倦。融父兄質素、雖在軍旅、身無采飾;而融錦罽文繍、獨為奢綺。孫權薨、徙奮威將軍。後恪征淮南、假融節、令引軍入沔、以撃西兵。恪既誅、遣無難督施ェ就將軍施績・孫壹・全熙等取融。融卒聞兵士至、惶懼猶豫、不能決計、兵到圍城、飲藥而死、三子皆伏誅。

 諸葛恪は已に自身が封侯されており、ゆえに弟の諸葛融が襲爵し、兵業を兼摂して公安に駐し[7]、部曲や吏士は親附した。疆外には事は無く、秋冬には射猟・講武し、春夏には賓客を招延して置酒高会し、休暇の吏卒で千里を遠しとせずに造(いた)る者もあった。高会の毎に賓客を歴問し、各々がその能を言い、かくして榻を合わせて席を促し、適するものを量って対座を選び、或る者は博弈し、或る者は摴蒱[※]や投壺・弓弾をするなど部類で分別し、こうして甘果が継進され、清酒が徐ろに行なわれ、諸葛融は周く流れて観覧し、終日倦まなかった。

※ 賭博的な遊戯の一種。5色の木片を投げ、色を当てるなどをした。春秋晋で盛んだったという。

諸葛融の父兄は質素で、軍旅に在っても身を彩飾しなかったが、諸葛融は錦罽文繍し、独り奢綺を為した。孫権が薨じると奮威将軍に徙された。後に諸葛恪は淮南を征する時に諸葛融に節を仮し、軍を率いて沔水に入らせ、西兵(魏兵)を撃たせた 。諸葛恪が誅されると、(朝廷は)無難督施ェを遣って将軍の施績・孫壹・全熙らに諸葛融を討ち取らせた。諸葛融はたちまち兵士が至ったと聞くと、惶懼・猶予して計を決する事ができず、兵が到って城を囲むと毒薬を飲んで死に、三子は皆な誅に伏した[8]
 
[1] その先祖の葛氏は、本来は琅邪諸県の人で、後に陽都に徙ったものである。陽都には先に葛を姓とした者があり、時人が(後来の)これを諸葛と謂ったので、このため氏とした。諸葛瑾は若くして京師に游学し、『毛詩』・『尚書』・『左氏春秋』を治めた。母の憂いに遭い、喪中は至孝であり、継母にも恭謹に事え、甚だ人子の道を得たものだった。 (『呉書』)
―― 葛嬰は陳渉の将軍であり、功があったものの誅された。孝文帝が(その功を)追録してその孫を諸県侯に封じ、そこで(姓と地名を)併せて氏とした。これと『呉書』が説く所は同じではない。 (『風俗通』)
[2] 裴松之が云う。劉后(劉備)は庸蜀(成都地方)の地を関河(畿内)とし、荊楚の地を維翰(綱柱)とし、関羽は沔漢(流域)に兵を揚げ、上国を侵さんと志した。主を匡けて覇業を定めようとし、功は未だ確定しなかったとはいえ、要するに威声は遠きを震わせ、そこには経略(天下経営の大略)があった。孫権は禍心を潜包し、魏を助けて害を除かんとしたが、これは宗室による勤王の師を剪定し、曹操に移都の計を行なわせるもので、(呉が)漢を拯けるという規画はここに止んだのである。義の旗が(討つ相手として)指すのは、孫氏に在るべきなのだ。諸葛瑾は大義によって劉備を責め、これに答える言辞が無い事をどうして患えよう。しかも劉備と関羽とは四肢のようなもので、股肱を一方的に欠かれた憤痛は深く、どうしてこの様な奢闊(大袈裟)の書簡で迴駐させられようか! これを本篇に載せたのは、実に辞章の浪費というものだ。
[3] 諸葛瑾が南郡に在った時、密かに諸葛瑾を讒言する人があった。この言葉がいささか外部に流聞すると、陸遜は諸葛瑾にこの様な事が無い事を明らかに保証し、その意を表すべきだとした。孫権がこれに報答するには 「子瑜は孤に従事すること積年で、恩愛は骨肉の如く、深く互いに理解を究めている。その為人りは道ならざるを行なわず、義ならざるを言わぬ。玄徳が昔に孔明を遣って呉に至らせた時、孤が子瑜に語った事があった。“卿は孔明とは同産で、しかも弟が兄に随うのは義に於いて順である。どうして孔明を留めないのか? 孔明がもし卿に従って留まれば、孤が書簡で玄徳に説明しよう。思うに随うしかなかろう”と。子瑜が孤に答えて言うには“弟の諸葛亮は人に身を預け、委質(臣従)の定めを分った以上は、義として二心はありません。弟が留まらぬのは、猶お私が往かぬ様なものです”と。その言葉は神明を貫くに足るものだ。今、どうしてこの様な事があろうか? 孤は前にも妄語の文疏を得たが、封をしたまま子瑜に示し、手筆を併せて子瑜に与えた処、即座に報答を得、天下の君臣の大節と、定まった分を論じたものだった。孤と子瑜とは精神の交わりとも謂うべきもので、部外者の言葉で裂かれるようなものではない。卿の至意を知った上は、来た上表に封をしたまま子瑜に示し、卿の意を知ってもらおう」 (『江表伝』)
[4] 曹真・夏侯尚らが朱然を江陵に囲み、又た軍を分けて中洲に拠った時、諸葛瑾は大兵によってこれを救援した。諸葛瑾の性は弘緩で、道理を推考して計画に任せ、応卒倚伏(臨機応変)の術は無かった為、兵事は久しく解けず、孫権はこれによって怨望した。春に水が生じるに及び、潘璋らが水城を上流に作り、諸葛瑾は浮橋に進攻したので、曹真らは退走した。大勲は無かったとはいえ、亦た師を全うして境内を保った事で功とされた。 (『呉録』)
[5] 裴松之が考えるに、魏明帝は一時代の明主であり、政令は己より出している。孫権のこの論は、畢竟は証しの無いもので、史書にこれを載せたのは、主が幼ければ国は疑心し、威柄(を執る者)が一人でなければ、混乱で敗亡する形勢となるのは孫権の言葉通りであり、存録する事で鑑戒とすべきとしたのである。或いは明帝については(予見を)失ったとはいえ、事態が斉王の世に著しかった事で、或いは斉王の世に当っていたのであり、証しだと謂わずにおれようか! 顕らさまに指摘しようとはしなかったのは、そもそも微辞で表現すれば充分だからであろう。
[6] 諸葛瑾が大将軍になった当時、弟の諸葛亮は蜀の丞相であり、二子の諸葛恪・諸葛融は皆な戎馬を典領して将帥を督領しており、族弟の諸葛誕も又た魏に名を顕わしていた。一門は三邦で冠蓋となっており、天下はこれを栄誉だとした。諸葛謹の才略は弟に及ばなかったとはいえ、徳行は最も純潔だった。妻が死ぬと改めては娶らず、愛妾が子を生んでも挙げず、その篤慎なこと皆なこの通りだった。 (『呉書』)

 『呉書』ですら諸葛亮の才略は諸葛瑾より上だと認めていますよ! 魏での諸葛亮の評価や、死の直後には神格化が始まっている事などから、実際の諸葛亮の才腕は“上の下”あたりかと思っていましたが、『呉書』の評価を見て改めましょう。

[7] 諸葛融、字は叔長。寵貴の門に生まれ、若くして驕楽で、章句を学んで博かったが精密ではなかった。性は寛容で技芸が多く、しばしば巾褐(無官)のまま朝請を奉じ、後に騎都尉を拝命した。赤烏中に諸郡が部伍を出し、新都都尉陳表・呉郡都尉顧承は各々所領する人を率いて毗陵に佃作し、男女は各々数万口だったが、陳表が病死すると孫権は諸葛融を陳表に代え、後に父の諸葛瑾に代わって所領を兼摂した。 (『呉書』)
[8] これより先、公安で霊鼉(神鰐)が鳴いた。童謡では 「白鼉が鳴き、亀の背は平らだ。南郡城中は長生できるが、死守して去らねば義は成されぬ」 と。諸葛恪が誅されるに及び、諸葛融は果たして金印の亀を削り、これを服用して死んだ。 (『江表伝』)
 

歩隲

 歩騭字子山、臨淮淮陰人也。世亂、避難江東、單身窮困、與廣陵衞旌同年相善、倶以種瓜自給、晝勤四體、夜誦經傳。

 歩隲、字は子山。臨淮淮陰の人である[1]。世が乱れると江東に避難したが、単身で窮困し、広陵の衛旌と同齢だったことから親善し、倶に瓜を播種して自給して昼は四体の事(労働)に勤め、夜には経伝を誦した[2]

 會稽焦征羌、郡之豪族、人客放縱。隲與旌求食其地、懼為所侵、乃共脩刺奉瓜、以獻征羌。征羌方在内臥、駐之移時、旌欲委去、隲止之曰:「本所以來、畏其彊也;而今舍去、欲以為高、祗結怨耳。」良久、征羌開牖見之、身隱几坐帳中、設席致地、坐隲・旌於牖外、旌愈恥之、隲辭色自若。征羌作食、身享大案、殽膳重沓、以小盤飯與隲・旌、惟菜茹而已。旌不能食、隲極飯致飽乃辭出。旌怒隲曰:「何能忍此?」隲曰:「吾等貧賤、是以主人以貧賤遇之、固其宜也、當何所恥?」

 会稽の焦征羌は郡の豪族で[3]、その人の食客は放縦だった。歩隲と衛旌とはその地に食を求めたが、侵される事を懼れ、共に名刺を修めて瓜を奉じ、焦征羌に献じた。焦征羌はちょうど邸内で臥しており、時が移るまで駐められ、衛旌は棄去しようとしたが、歩隲はこれを止めて 「もともと来たのは、その彊きを畏れたからだ。いま捨去して(気概の)高きを示そうとすれば、怨みを結んでしまうだけだ」。良や久しくして、焦征羌は牖(まど)を開いて通見したが、自身は几坐して帳中に隠れ、蓆を地に設けて歩隲・衛旌を牖外に坐らせた。衛旌は愈々恥じたが、歩隲の言辞・顔色は自若としていた。焦征羌は食膳を作らせ、自身は大案(大卓)に殽膳の重沓たるを享け、小盤の飯を歩隲・衛旌に与えたが、ただ菜(おかず)は茹でものだけだった。衛旌は食べる事ができなかったが、歩隲は飯を飽きるほど極めてから辞して退出した。衛旌は怒って歩隲に 「どうして忍べるのだ?」 歩隲 「吾れらは貧賤で、このせいで主人は貧賤として待遇した。当然のことであり、何を恥じる事があろう?」[4]

 孫權為討虜將軍、召隲為主記、除海鹽長、還辟車騎將軍東曹掾。建安十五年、出領鄱陽太守。歳中、徙交州刺史・立武中郎將、領武射吏千人、便道南行。明年、追拜使持節・征南中郎將。劉表所置蒼梧太守呉巨陰懷異心、外附内違。隲降意懷誘、請與相見、因斬徇之、威聲大震。士燮兄弟、相率供命、南土之賓、自此始也。益州大姓雍闓等殺蜀所署太守正昂、與燮相聞、求欲内附。隲因承制遣使宣恩撫納、由是加拜平戎將軍、封廣信侯。

 孫権は討虜将軍となると、歩隲を召して主記とし[5]、海塩県長に叙し、車騎将軍の東曹掾として還辟した[6]

 孫権が劉備の上表で車騎将軍となったのは建安十四年(209)。

建安十五年、転出して鄱陽太守を兼領した。その歳の中に交州刺史・立武中郎将に徙り、武射吏千人を典領し、便道(近道)を南行した。明年、追って使持節・征南中郎将を拝命した。劉表が置いた蒼梧太守呉巨は陰かに異心を懐いており、外面では附して内心は違えていた。歩隲は意を降して懐柔・誘引して会見することを請い、そのうえで斬ってこれ(呉巨の首)を徇(めぐ)らせ、威声は大いに震った。士燮兄弟は相い率いて命を奉じ、南土が賓(まつろ)うのはこれより始まった。益州の大姓の雍闓らは蜀が署けた太守正昂を殺すと、士燮と相聞して内附せん事を求めた。歩隲は承制によって遣使して恩を宣べて撫納し、これにより平戎将軍を加拝され、広信侯に封じられた。

 延康元年、權遣呂岱代隲、隲將交州義士萬人出長沙。會劉備東下、武陵蠻夷蠢動、權遂命隲上益陽。備既敗績、而零・桂諸郡猶相驚擾、處處阻兵;隲周旋征討、皆平之。黄武二年、遷右將軍左護軍、改封臨湘侯。五年、假節、徙屯漚口。

 延康元年(220)、孫権は呂岱を遣って歩隲に代え、歩隲は交州の義士万人を率いて長沙に転出した。おりしも劉備が東下して武陵の蛮夷が蠢動すると、孫権は歩隲に命じて益陽に上らせた。劉備が敗績した後も、零陵・桂陽の諸郡は猶おも相い驚擾して処々で兵を阻(たの)んでいたが、歩隲は周旋して征討し、皆な平定した。黄武二年(223)、右将軍・左護軍に遷り、臨湘侯に改封された。五年(226)、節を仮されて漚口に徙屯した。

 權稱尊號、拜驃騎將軍、領冀州牧。是歳、都督西陵、代陸遜撫二境、頃以冀州在蜀分、解牧職。時權太子登駐武昌、愛人好善、與隲書曰:「夫賢人君子、所以興隆大化、佐理時務者也。受性闇蔽、不達道數、雖實區區欲盡心於明コ、歸分於君子、至於遠近士人、先後之宜、猶或緬焉、未之能詳。傳曰:『愛之能勿勞乎?忠焉能勿誨乎?』斯其義也、豈非所望於君子哉!」隲於是條于時事業在荊州界者、諸葛瑾・陸遜・朱然・程普・潘濬・裴玄・夏侯承・衞旌・李肅・周條・石幹十一人、甄別行状、因上疏奬勸曰:「臣聞人君不親小事、百官有司各任其職。故舜命九賢、則無所用心、彈五弦之琴、詠南風之詩、不下堂廟而天下治也。齊桓用管仲、被髮載車、齊國既治、又致匡合。近漢高祖擥三傑以興帝業、西楚失雄俊以喪成功。汲黯在朝、淮南寢謀;郅都守邊、匈奴竄迹。故賢人所在、折衝萬里、信國家之利器、崇替之所由也。方今王化未被於漢北、河・洛之濱尚有僭逆之醜、誠擥英雄拔俊任賢之時心。願明太子重以輕意、則天下幸甚。」

 孫権が尊号を称すと、驃騎将軍を拝命して冀州牧を兼領した。この歳、西陵を都督し、陸遜に代って二境を撫し、しばらくして冀州が蜀の領分になると牧職を解かれた。時に孫権の太子の孫登は武昌に駐し、人士を愛し善事を好み、歩隲に与えた書簡にて 「賢人君子とは、大化を興隆し、時務を佐理する者だからこそである。(私は)受けた性は闇蔽で、道数にも達しておらず、まことに区区たる心とはいえ、明徳に心を尽し、君子に分限を帰したいと思っているが、遠近の士人のうち、前後の序列の妥当さをあれこれ緬思(遥思)しようにも、未だに詳らかにはできない。『論語』には“これを愛して労らずにおられようか? 忠であるのに誨(おし)えずにおられようか?”と。かく言うのもその義であり、どうして君子に望まずにおられよう!」
歩隲はここに、当時の荊州に在って大業に事えている者として、諸葛瑾・陸遜・朱然・程普・潘濬・裴玄・夏侯承・衛旌・李粛[7]・周條・石幹の十一人を箇条書きし、行状を甄別(識別)し、(孫登に)上疏して奨勧するには 「臣が聞く処では、人君は小事に親しまず、百官・有司を各々その職に任ずると。ゆえに舜は九賢を任命して心を用(はたら)かせる必要が無く、五弦の琴を弾いて南風の詩を詠い、堂廟を下りること無く天下は治まったと。斉桓公は管仲を用いると、被髮して車に載っ(て遊興し)たものの、斉国が治まったばかりか諸国の匡合を招来しました。近くは漢高祖が三傑を擥(と)る事で帝業を興し、西楚は雄俊を失った事で成功を喪い、汲黯が朝廷に在った為に淮南王は謀りごとを寝(やす)ませ、郅都が辺境を守った事で匈奴は迹を竄(かく)しました。ゆえに賢人が在れば、万里の先をも折衝(破砕)し、まことに国家の利器であり、(国を)崇替(盛衰)させるものです。まさに今、王化は未だ漢水の北は被らず、黄河・洛水の浜は尚お僭逆の醜があり、まことに英雄を擥り峻才を抜擢して賢者を任用すべきの時です。願わくば明太子よ、重ねて意を軽(ひたすら)にされれば、それこそ天下の幸甚であります」

 後中書呂壹典校文書、多所糾舉、隲上疏曰:「伏聞諸典校擿抉細微、吹毛求瑕、重案深誣、輒欲陷人以成威福;無罪無辜、受大刑、是以使民跼天蹐地、誰不戰慄?昔之獄官、惟賢是任、故皋陶作士、呂侯贖刑、張・于廷尉、民無寃枉、休泰之祚、實由此興。今之小臣、動與古異、獄以賄成、輕忽人命、歸咎于上、為國速怨。夫一人吁嗟、王道為虧、甚可仇疾。明コ慎罰、哲人惟刑、書傳所美。自今蔽獄、都下則宜諮顧雍、武昌則陸遜・潘濬、平心專意、務在得情、隲黨神明、受罪何恨?」又曰:「天子父天母地、故宮室百官、動法列宿。若施政令、欽順時節、官得其人、則陰陽和平、七曜循度。至於今日、官寮多闕、雖有大臣、復不信任、如此天地焉得無變?故頻年枯旱、亢陽之應也。又嘉禾六年五月十四日、赤烏二年正月一日及二十七日、地皆震動。地陰類、臣之象、陰氣盛故動、臣下專政之故也。夫天地見異、所以警悟人主、可不深思其意哉!」又曰:「丞相顧雍・上大將軍陸遜・太常潘濬、憂深責重、志在謁誠、夙夜兢兢、寢食不寧、念欲安國利民、建久長之計、可謂心膂股肱、社稷之臣矣。宜各委任、不使他官監其所司、責其成效、課其負殿。此三臣者、思慮不到則已、豈敢專擅威福欺負所天乎?」又曰:「縣賞以顯善、設刑以威姦、任賢而使能、審明於法術、則何功而不成、何事而不辨、何聽而不聞、何視而不覩哉?若今郡守百里、皆各得其人、共相經緯、如是、庶政豈不康哉?竊聞諸縣並有備吏、吏多民煩、俗以之弊。但小人因縁銜命、不務奉公而作威福、無益視聽、更為民害、愚以為可一切罷省。」權亦覺梧、遂誅呂壹。隲前後薦達屈滯、救解患難、書數十上。權雖不能悉納、然時采其言、多蒙濟ョ。

 後に中書の呂壹が文書を典校すると糾察検挙する事が多く、歩隲が上疏するには

「伏して聞く処では、諸々の典校は細微を擿抉(詮索)し、毛を吹いて瑕を求め、案件を重くして誣告を深くし、しばしば人を枉陥する事で威福を成そうとし、無罪無辜の者は横暴にも大刑を受け、これによって民は跼天蹐地(天に背を屈め地に抜き足す=身の置き所が無い)しているとか。これでは誰が戦慄せずにおれましょう? 昔の獄官にはただ賢者を任命し、ゆえに皋陶(堯の司法官)は士官となり、呂侯(周穆王のとき成文法を定めた司寇)は贖刑を定め、張釈之・于定国が廷尉となると民には寃枉される者は無く、休泰之祚(安泰たる国運)はまことにこれによって興るのです。現今の小臣は往古とは動きを異にし、獄事は賄で成立し、人命を軽忽に扱って上に咎を帰し、国に対する怨みを速成しております。そも一人の吁嗟によっても王道は欠けるもので、仇疾する者があれば尚更です。徳を明らかにして刑罰を慎み、哲人が刑を惟う状況こそ、書伝が賛美する事です。今より蔽獄(典獄)の事は、都下では顧雍に、武昌では陸遜・潘濬に諮られるのが宜しいでしょう。いずれも平心専意、実情を得ることに務めております。私は神明に党与する身であり、罪を受けてもどうして恨みましょう?」

又た曰く

「天子とは天を父とし地を母とし、ゆえに宮室・百官の動(はたら)きは列宿(星宿)に法るのです。もし政令を施行した場合、欽(つつし)んで時節に順い、官に適当な人材を得ていれば、陰陽は和み平らかにして、七曜は度ったように循るのです。今日に至っては、官寮は多くが闕け、大臣はあっても信任されず、これで天地に変異が無いような状態が得られましょうか? ゆえに頻りに枯旱(旱魃)の害があるのは亢陽(過剰な陽気)に応じたものなのです。又た嘉禾六年(237)五月十四日、赤烏二年(239)正月一日および二十七日に、地はいずれも震動しました。地は陰の類で、臣の象形であり、陰気が盛んゆえに動くのであり、臣下が政事を専らにしているからであります。そも天地が異変を見(あらわ)すのは、人主に警悟させる為で、その意を深く思わずにおられましょうか!」

又た曰く

「丞相顧雍・上大将軍陸遜・太常潘濬は、憂いは深く責務は重く、誠意を以て謁(つか)えることを志し、夙夜に兢兢として寝食も寧からず、国を安んじ民に利益せんと念い、久長の計を建て、(主上の)心膂・股肱、社稷の臣と謂うべきです。各々に委任し、他の宮監にはその司る事に(干渉)させぬのが宜しく、その成功を責務とし、負殿(?)を課されん事を。この三臣は、思慮は到らざるにしても、どうして威福を専擅して天を欺負するような事がありましょうか?」

又た曰く

「賞を懸ける事で善を顕し、刑を設ける事で姦悪を威し、賢士を任用して能(はたら)かせ、法術を審らかに明らかにすれば、どのような功も成らず、どのような事も弁えられず、聴こうとしても聞こえず、視ようとしても観えないという事がありましょうか? もし今、郡守百里(太守令長)に皆な各々適任者を得て、共に相い経緯(整治)し、この様にしたなら、庶政はどうして康からざる事がありましょう? 竊かに聞けば、諸県は揃って吏を完備しているとの事ですが、吏が多いのは民の煩いであり、俗にこれを弊害としております。ただの小人が縁によって命を銜み、奉公には務めずに威福を作し、(主上の)視聴の上では無益であり、更に民の害を為しております。愚考するに、一切を罷省なされませ」

孫権も亦た覚悟(察悟)し、かくて呂壹を誅した。歩隲は前後して(官途で)屈滞している者を薦達し、患難している者を救解するのに、書状数十を上呈した。孫権は悉くは納れられなかったとはいえ、時々にその言葉を採用し、多くがこれを頼りとした救済を蒙った[8]

 一連の上書は歩隲に限った事ではなく、同時代の賢臣とか諫臣と呼ばれる人物なら殆どが上書している類いのものです。これが歩隲の上書をそのまま載録しているのだとすれば、文藻とか表現とかが特に秀逸だったからまとめ載せをしたんでしょう。歩隲の後半生の功績として、こうした上書しか載せられなかったというのは、堅実に職務をこなして目立った功績は示さなかった裏返しなんだと思われます。
 そしてやはり、二宮の変についての言及はありません。韋昭としても、敬愛すべき歩隲が魯王派だったという事実には触れたくはなく、それを実践したのでしょう。

 赤烏九年、代陸遜為丞相、猶誨育門生、手不釋書、被服居處有如儒生。然門内妻妾服飾奢綺、頗以此見譏。在西陵二十年、鄰敵敬其威信。性ェ弘得衆、喜怒不形於聲色、而外内肅然。十年卒、子協嗣、統隲所領、加撫軍將軍。協卒、子璣嗣侯。

 赤烏九年(246)、陸遜に代って丞相となったが、猶お門生を誨育(教育)し、手からは書籍を釈かず、被服や居処は儒生のようだった。しかし門内では妻妾が奢綺を服飾し、このため頗る(一部から)譏られた。西陵に在ること二十年、鄰敵もその威信を敬った。性はェ弘で衆心を得、喜怒は声や顔色に形わさず、(家の)外内とも粛然とした。十年(247)に卒すると子の歩協が嗣ぎ、歩隲の典領を統べ、撫軍将軍を加えられた。歩協が卒すると、子の歩璣が侯を嗣いだ。

 歩隲が西陵都督となってから死ぬまで二十年を満たしてはいませんが、本伝の書き方だと陸遜と同様に遙任丞相だったのでしょう。当時、二宮の変は実質的に孫和派の敗北で終っているので、孫霸派であり、全公主の外叔でもある歩隲が京師に入れなかったのは不思議な措置です。歩夫人を介して全氏系に連なるとはいえ、太子問題を除けば歩隲の主張が勢族寄りだったからとか? ともあれ、歩隲の死後は諸葛恪を殺した孫峻が就任するまで呉は丞相不在です。

歩闡

 協弟闡、繼業為西陵督、加昭武將軍、封西亭侯。鳳皇元年、召為繞帳督。闡累世在西陵、卒被徴命、自以失職、又懼有讒禍、於是據城降晉。遣璣與弟璿詣洛陽為任、晉以闡為都督西陵諸軍事・衞將軍・儀同三司、加侍中、假節領交州牧、封宜都公;璣監江陵諸軍事・左將軍、加散騎常侍、領廬陵太守、改封江陵侯;璿給事中・宣威將軍、封都郷侯。命車騎將軍羊祜・荊州刺史楊肇往赴救闡。孫晧使陸抗西行、祜等遁退。抗陷城、斬闡等、歩氏泯滅、惟璿紹祀。

 歩協の弟の歩闡は、家業を継いで西陵督となり、昭武将軍を加えられ、西亭侯に封じられた。鳳皇元年(272)、繞帳督(親衛隊長)として召された。歩闡(の家)は累世で西陵に在り、卒(にわか)に徴命を被った事で職を失うと自(おも)い、又た讒禍がある事を懼れ、ここに城に拠って晋に降った。歩璣と弟の歩璿を遣って洛陽に詣って任命を受けさせると、晋では歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司として侍中を加え、節を仮して交州牧を兼領させて宜都公に封じ、歩璣を監江陵諸軍事・左将軍として散騎常侍を加え、廬陵太守を兼領させて江陵侯に改封し、歩璿を給事中・宣威将軍として都郷侯に封じた。(そして)車騎将軍羊祜・荊州刺史楊肇に命じ、歩闡の救援に往赴させた。孫皓が陸抗を西行させると、歩祜らは遁退した。陸抗は城を陥すと歩闡らを斬り、歩氏は泯滅(全滅)され、ただ歩璿のみが祀りを紹(つ)いだ。

 西陵は夷陵の事ですが、陸遜・陸抗が西面の要衝として最も重視した地です。その西陵督を継承したというのは歩家の既得権というだけでなく、歩闡に対する中央の信頼が篤くなければなりません。そんな歩闡にすら叛かれた孫皓は、本当に勢族との対立関係が進行していたんでしょう。

 潁川周昭著書稱歩隲及嚴o等曰:「古今賢士大夫所以失名喪身傾家害國者、其由非一也、然要其大歸、總其常患、四者而已。急論議一也、爭名勢二也、重朋黨三也、務欲速四也。急論議則傷人、爭名勢則敗友、重朋黨則蔽主、務欲速則失コ、此四者不除、未有能全也。當世君子能不然者、亦比有之、豈獨古人乎! 然論其絶異、未若顧豫章・諸葛使君・歩丞相・嚴衞尉・張奮威之為美也。論語言『夫子恂恂然善誘人』、又曰『成人之美、不成人之惡』、豫章有之矣。『望之儼然、即之也温、聽其言也氏x、使君體之矣。『恭而安、威而不猛』、丞相履之矣。學不求祿、心無苟得、衞尉・奮威蹈之矣。此五君者、雖コ實有差、輕重不同、至於趣舍大檢、不犯四者、倶一揆也。昔丁諝出於孤家、吾粲由於牧豎、豫章揚其善、以並陸・全之列、是以人無幽滯而風俗厚焉。使君・丞相・衞尉三君、昔以布衣倶相友善、諸論者因各敍其優劣。初、先衞尉、次丞相、而後有使君也;其後並事明主、經營世務、出處之才有不同、先後之名須反其初、此世常人決勤薄也。至於三君分好、卒無虧損、豈非古人交哉!又魯江昔杖萬兵、屯據陸口、當世之美業也、能與不能、孰不願焉?而江既亡、衞尉應其選、自以才非將帥、深辭固讓、終於不就。後徙九列、遷典八座、榮不足以自曜、祿不足以自奉。至於二君、皆位為上將、窮富極貴。衞尉既無求欲、二君又不稱薦、各守所志、保其名好。孔子曰:『君子矜而不爭、羣而不黨。』斯有風矣。又奮威之名、亦三君之次也、當一方之戍、受上將之任、與使君・丞相不異也。然歴國事、論功勞、實有先後、故爵位之榮殊焉。而奮威將處此、決能明其部分、心無失道之欲、事無充詘之求、毎升朝堂、循禮而動、辭氣謇謇、罔不惟忠。叔嗣雖親貴、言憂其敗、蔡文至雖疏賤、談稱其賢。女配太子、受禮若弔、慷愾之趨、惟篤人物、成敗得失、皆如所慮、可謂守道見機、好古之士也。若乃經國家、當軍旅、於馳騖之際、立霸王之功、此五者未為過人。至其純粹履道、求不苟得、升降當世、保全名行、邈然絶俗、實有所師。故粗論其事、以示後之君子。」周昭者字恭遠、與韋曜・薛瑩・華覈並述呉書、後為中書郎、坐事下獄、覈表救之、孫休不聽、遂伏法云。

 潁川の周昭が書を著して歩隲および厳oらを称えるには 「古今の賢士大夫が名声を失い身命を喪い家を傾け国に害を為したのは、その理由は一つではないが、要するにその帰結する点として、常に憂患とするものを総じれば四者に限られる。性急な論議が第一である。名勢を争うのが第二である。朋党を重んじるのが第三である。務めを速やかにしようとするのが第四である。性急な論議は人を傷い、名勢を争えば友を敗り、朋党を重んじれば主を蔽い、務めを速やかにしようとすれば徳を失う。この四者を除かずに、未だに全うできた者はいない。当世の君子でもそうならずにいられる者も亦たいくらもあり、どうして独り古人だけであろうものか! その中でも絶異(の者)を論じれば、未だ顧豫章(顧邵)・諸葛使君(諸葛瑾)・歩丞相(歩隲)・厳衞尉(厳o)・張奮威(張承)のような美わしい者はいない。論語は“夫子は恂恂として善道に人を誘う”と言い、又た“人の美を成(たす)け、人の悪を成けず”と。顧豫章にこれがあった。“これを望見すれば儼然としており、これに即けば温かく、その言葉を聴けば厳獅ナある”とは、諸葛使君が体現していた。“恭しくして安んじ、威くとも猛からず”とは、歩丞相が履修していた。学んでも禄を求めず、心には苟くも得ようとしなかったのは、厳衛尉・張奮威が実踏した事である。この五君は、徳の実質には差があり、軽重は同じではなかったとはいえ、大検(方針)の趣舍(取捨)に於いて四者を犯さなかった点に至っては、倶に揆(軌)を一にしている。
 昔、丁諝は孤家(寒門)に出自し、吾粲は牧豎(牧童)に由来したが、顧豫章はその善きを称揚し、そうして陸遜・全jと同列に並べ、これによって幽滞する人士は無くなり、風俗は敦厚になった。諸葛使君・歩丞相・厳衛尉の三君は、昔は布衣として倶に相い友善したが、諸々の論者はその優劣を叙したものである。初めは衛尉を先にし、丞相が次ぎ、その後に使君を置いた。その後に揃って明主に事え、世務を経営するようになると出処の才は(評判とは)同じではなく、先後の名を当初とは反さねばならなくなったが、これは世の常の人の判断が浅薄だったからである。三君の好誼がついに欠損すること無きに至ったのは、古人の交誼と同じ様なものではないか!
 又た魯横江(魯粛)は昔に万兵を指揮して陸口に屯拠したが、当世の美業であり、出来る出来ないによらず、孰れの者が願わぬ業であろうか? しかし魯横江の死後に厳衛尉が選抜されると、自ら将帥の才ではないとして深く辞退し固く譲り、終に就かなかった。後に九卿に徙り、八座を典領する任に遷ったが、その栄誉は自らを耀かせるに足りず、その禄は自身を奉(やしな)うに足りるものではなかった。(諸葛瑾・歩隲の)二君に至っては共に位は上将軍となり、富を窮め貴顕を極めた。厳衛尉は欲求心が無く、二君も又た称薦せず、各々が志す所を守ったのでその名声と好誼を保ったのである。孔子曰く “君子は矜っても争わず、群ても党せず”と。こうした風があった。
 又た張奮威の名声も亦た三君に次ぎ、一方面を戍り、上将の任を受けたのは諸葛使君・歩丞相と異ならない。しかし国事を歴任し、功労を論じれば現実として上下の違いがあり、ゆえに爵位の栄誉も異なっていた。しかし張奮威はこうした状況にあっても、決断に際してはその領分を明確にでき、人倫を失わんとの心は無く、充詘(有頂天)となって要求するような事もせず、朝堂に昇る毎に礼に循って挙動し、辞気は謇謇(率直)としてただただ忠でない事は無かった。張叔嗣(張休)は親貴だったとはいえ、その敗れる事を憂えると言っており、蔡文至(蔡款)は疏賤(疎遠な寒人)とはいえ、その賢明さを称え談じた。娘が太子に配偶された時、礼を受ける様は弔問の様で、慷愾(慷慨)に対しては赴趨し、ひたすら人物には篤くし、成敗得失は皆な思慮の通りであり、道を守り機を見ること古えの道義を好む者と謂えよう。国家を経営し、軍旅に当事し、馳騖(馳駆)の際に霸王の功を立てるという点では、この五人は人を超えたものではなかった。その純粋にして道を履み、求めても苟得(詐取)せず、当世に昇降し、名・行を保全するに至っては、邈然(遥然)として世俗を超絶し、まことに師範とする点があった。ゆえにその事績を粗論して、後世の君子に示すものである」
 周昭とは字を恭遠といい、韋曜・薛瑩・華覈らと揃って『呉書』を著述した。後に中書郎となり、事に坐して下獄した処、華覈が上表して救おうとしたが、孫休は聴許せず、かくて法に伏したと云う。

 つまり周昭は、韋昭らとは政治思想が極めて近かったという事が推測でき、韋昭らのグループは名士として上記の五人を筆頭に置き、特に張承を偲んでいた事が窺われます。歩隲伝に附記されてはいますが、実質的に張承伝か厳o伝に附記されるべき評ではあります。

 
[1] 春秋晋の大夫に楊という者があって歩の地を采邑として食み、後裔に歩叔という者がいて、七十の子弟と与に仲尼に師事した。秦末漢初には将軍となった者もおり、功によって淮陰侯に封じられた。歩隲はその後裔である。 (『呉書』)
[2] 歩隲は博く道・芸に研鑽し、貫覧せぬものは靡かった。性はェ雅・沈深で、志を降して辱めに甘んじる事ができた。 (『呉書』)
[3] 焦征羌、名は矯。嘗て征羌令になった事があった(のでこう呼ばれた)。 (『呉録』)
[4] 衛旌、字は子旗。官は尚書に至った。 (『呉録』)
[5] 歳余にして歩隲は疾によって免じられ、琅邪の諸葛瑾・彭城の厳oと倶に呉中に游び、共に声名を著わし、当時の英俊とされた。 (『呉書』)
[6] 孫権は徐州牧となると、歩隲を治中従事とし、茂才に挙げた。 (『呉書』)
[7] 李粛、字は偉恭。南陽の人である。若くして才人として知られ、論議に善く、(人物の)臧否(可否)を中て、奇才を鑑定して異才を録し、後進の行迹を薦め、題目づけて品藻(品評)すれば詳細で条貫(一貫した道理)があり、衆人はこれによって敬服した。孫権は抜擢して選曹尚書とし、選挙では才を得るだろうと称された。転出して吏に補任されん事を求め、桂陽太守となり、吏民は悦服した。徴されて卿となった。たまたま卒すると、知人もそうでない者も皆な痛惜した。 (『呉書』)
[8] 歩隲が上表して言うには 「北の降人の王潜らが説くには、北国では部伍(部隊編成)をして東に向かう事を図り、多くの布嚢を作り、砂を盛って江水を塞ぎ、大いに荊州に向かおうとしていると。備えを予め設けなければ、たちまちの事態に応じるのは困難です。これを防がれるべきかと」 孫権 「この曹輩は衰弱しており、どうして図る事などできよう? 必ずや来ようとはすまい。もし孤の言う通りでなければ、牛千頭を以て君の為に(宴の)主人となろう」。後に呂範・諸葛恪が同席した時に歩隲の言った事を説いて云うには 「歩隲の上表を読む毎に、そのたび失笑するわ。この江水は天地開闢と倶に生じたもので、どうして沙嚢なんぞで塞げる道理があろうか!」 (『呉録』)
 

 評曰:張昭受遺輔佐、功勳克舉、忠謇方直、動不為己;而以嚴見憚、以高見外、既不處宰相、又不登師保、從容閭巷、養老而已、以此明權之不及策也。顧雍依杖素業、而將之智局、故能究極榮位。諸葛瑾・歩隲並以コ度規檢見器當世、張承・顧邵虚心長者、好尚人物、周昭之論、稱之甚美、故詳録焉。譚獻納在公、有忠貞之節。休・承脩志、咸庶為善。愛惡相攻、流播南裔、哀哉!

 評に曰く:張昭は遺言を受けて輔佐し、功勲を克く挙げ、忠謇(忠諫)は方直にして、行動は己の為ではなかったが、厳粛さによって憚られ、高節によって疎外され、宰相を任処とはされず、又た師保にも登れず、閭巷に従容として老身を養って已(お)えた。これによって孫権が孫策に及ばなかったのは明らかである。顧雍は素業(家業)に依杖したが、智局によって率い、ゆえに栄位を究極にできた。諸葛瑾・歩隲は揃って徳度と規検(規範たる行ない)によって当世に器重され、張承・顧邵は虚心の長者であり、人物を好み尚んだ。周昭の論はこれを称えて甚だ美わしく、ゆえに詳録した。顧譚は公事に在って(意見を)献納し、忠貞の節があった。張休・顧承は志を修め、咸な善を為すことを庶(こいねが)った。惜しむらくは悪と相い攻め、南の裔に流播したのは哀しいことである!

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