三國志修正計画

三國志卷六十四 呉志十九/諸葛滕二孫濮陽傳 (一)

諸葛恪

 諸葛恪字元遜、瑾長子也。少知名。弱冠拜騎都尉、與顧譚・張休等侍太子登講論道藝、並為賓友。從中庶子轉為左輔都尉。

 諸葛恪、字は元遜。諸葛瑾の長子である。若くして名を知られた[1]。弱冠で騎都尉を拝命し、顧譚・張休らと与に太子孫登に近侍して道義や技芸を講論し、揃って賓友とされた。中庶子より転じて左輔都尉となった。

 恪父瑾面長似驢、孫權大會羣臣、使人牽一驢入、長檢其面、題曰諸葛子瑜。恪跪曰:「乞請筆益兩字。」因聽與筆。恪續其下曰「之驢。」舉坐歡笑、乃以驢賜恪。他日復見、權問恪曰:「卿父與叔父孰賢?」對曰:「臣父為優。」權問其故、對曰:「臣父知所事、叔父不知、以是為優。」權又大噱。命恪行酒、至張昭前、昭先有酒色、不肯飲、曰:「此非養老之禮也。」權曰:「卿其能令張公辭屈、乃當飲之耳。」恪難昭曰:「昔師尚父九十、秉旄仗鉞、猶未告老也。今軍旅之事、將軍在後、酒食之事、將軍在先、何謂不養老也?」昭卒無辭、遂為盡爵。後蜀使至、羣臣並會、權謂使曰:「此諸葛恪雅好騎乘、還告丞相、為致好馬。」恪因下謝、權曰:「馬未至而謝何也?」恪對曰:「夫蜀者陛下之外廐、今有恩詔、馬必至也、安敢不謝?」恪之才捷、皆此類也。權甚異之、欲試以事、令守節度。節度掌軍糧穀、文書繁猥、非其好也。

 諸葛恪の父の諸葛瑾の面貌は長くて驢馬に似ており、孫権は群臣を大いに請会した時、人に一頭の驢馬を牽き入れさせ、その面に長検(長い付箋)すると、題して諸葛子瑜と。諸葛恪は跪いて、「筆を頂き両字を益させていただきたい」と。聴許して筆を与えた。諸葛格はその下に続けて“之驢”と。坐は挙って歓笑し、かくして驢馬を諸葛恪に賜った。他日に復た通見すると、孫権が諸葛恪に問うには 「卿の父と叔父とでは孰れが賢い?」 対えるには 「臣の父が優れております」 孫権がその理由を問うと、対えて 「臣の父は事える相手を知っており、叔父は知りません。このため優れているとしたのです」。孫権は又た大噱(激笑)した。
 諸葛恪に行酒を命じた時、張昭の前に至ると、張昭には先に酒色(酔色)があり、飲むことを肯んぜず、「これは養老の礼とはいえぬ」と。孫権 「卿が張公を言辞で屈させられれば、飲むであろう」 諸葛恪が張昭を難じるには 「昔、師尚父は齢九十にして旄を秉り鉞に仗りましたが、猶お老いを告げた事はありませんでした。今の軍旅の事では将軍は後方に在り、酒食の事では将軍は先に在ります。どうして養老していないと謂えましょう?」 張昭にはついに言辞が無く、かくて酒爵を尽した。
 後に蜀使が至って群臣が並び会した時、孫権が使者に謂った 「この諸葛恪は雅(つね)に騎乗を好んでいる。還って丞相によき馬を送致するよう告げよ」。諸葛恪が(坐を)下って謝すと、孫権は 「馬が至っていないのに謝すのは何故か」と。諸葛恪は対えて 「蜀とは陛下の外廐であり、今、恩詔があったからには馬は必ず至りましょう。どうして謝せずにおれましょうか?」 諸葛恪の才の捷きことは皆なこの類いだった[2]。孫権は甚だ異として実務で試そうとし、節度の事を守(か)ねさせた。節度は軍の糧穀を掌り、文書は繁猥で、好むものではなかった[3]

 恪以丹楊山險、民多果勁、雖前發兵、徒得外縣平民而已、其餘深遠、莫能禽盡、屡自求乞為官出之、三年可得甲士四萬。衆議咸以丹楊地勢險阻、與呉郡・會稽・新都・鄱陽四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重、其幽邃民人、未嘗入城邑、對長吏、皆仗兵野逸、白首於林莽。逋亡宿惡、咸共逃竄。山出銅鐵、自鑄甲兵。俗好武習戰、高尚氣力、其升山赴險、抵突叢棘、若魚之走淵、猨狖之騰木也。時觀闌пA出為寇盜、毎致兵征伐、尋其窟藏。其戰則蠭至、敗則鳥竄、自前世以來、不能羈也。皆以為難。恪父瑾聞之、亦以事終不逮、歎曰:「恪不大興吾家、將大赤吾族也。」恪盛陳其必捷。權拜恪撫越將軍、領丹楊太守、授棨戟武騎三百。拜畢、命恪備威儀、作鼓吹、導引歸家、時年三十二。

 諸葛恪は丹楊の山地が険阻で、民の多くが果勁であり、これまで兵を発しても徒らに外県の平穏な民を得るだけで、その他の深遠(の民)を尽くは禽えられなかった事から、しばしば自ら求めて外官となって出ることを乞うには、三年で甲士四万を得られようと。衆議は咸な、“丹楊の地勢が険阻であり、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と鄰接し、数千里を周旋して山谷は万重であり、その幽邃(幽玄)の地の民人は未だ嘗て城邑に入って長吏に対面した事がなく、皆な兵器に仗って野に逸れ、林莽(森林)で白首(白髪頭=生涯)し、逋亡(亡命者)や宿悪人も咸な共に逃竄している。山では銅鉄を出し、自ら甲兵(甲冑と兵器)を鋳ている。風俗は武を好んで戦に習(な)れ、気力を高く尚び、山に昇り険阻に赴き、叢棘に抵突すること魚が淵を走り、猨狖(猿猴)が木に騰るようである。時には間隙を観て出ては寇盜をし、そのたび兵を致して征伐し、その窟藏を尋ねているが、その戦法は蠭(蜂)のように至り、敗れれば鳥のように竄れるもので、前世より以来、羈縻する事ができていない” と、皆な困難だとした。諸葛恪の父の諸葛瑾もこれを聞くと、亦た事は終に逮(と)げられぬとして歎息し、「恪は吾が家を大いに興さぬばかりか、吾が一族を大いに赤(むな)しくするだろう」。諸葛恪は必ず捷つ事を盛んに陳べた。孫権は諸葛恪を撫越将軍・領丹楊太守に拝し、棨戟の武騎三百を授けた。拝命を畢えると、諸葛恪に命じて威儀を備え、鼓吹を作して導引しつつ家に帰した。時に齢三十二だった。

 恪到府、乃移書四郡屬城長吏、令各保其疆界、明立部伍、其從化平民、悉令屯居。乃分内諸將、羅兵幽阻、但繕藩籬、不與交鋒、候其穀稼將熟、輒縱兵芟刈、使無遺種。舊穀既盡、新田不收、平民屯居、略無所入、於是山民飢窮、漸出降首。恪乃復敕下曰:「山民去惡從化、皆當撫慰、徙出外縣、不得嫌疑、有所執拘。」臼陽長胡伉得降民周遺、遺舊惡民、困迫暫出、内圖叛逆、伉縛送(言) 〔諸〕府。恪以伉違教、遂斬以徇、以状表上。民聞伉坐執人被戮、知官惟欲出之而已、於是老幼相攜而出、歳期、人數皆如本規。恪自領萬人、餘分給諸將。

 諸葛恪は府に到ると、(隣接する)四郡の属城の長吏に移書し、各々にその疆界を保護し、部伍を明らかに立て、教化に従っている平民には悉く屯田地に居らせるよう命じた。かくして境内に諸将を分遣し、幽阻の地を兵に羅(おお)わせたが、ただ藩籬(防牆)を修繕して交鋒(交戦)はさせず、その穀稼が熟する時候に兵を放縦して芟刈(刈取)し、種籾も遺させなかった。旧穀(備蓄の穀類)が尽き、新田からは収められず、平民は屯に居り、ほぼ入手するあてが無く、ここに山民は飢えに窮られ、ようよう出てきて降首した。諸葛恪はかくして復た敕を下すには 「山民で悪を去って教化に従った者は、皆な撫慰して外県に徙出せよ。執拘して嫌疑させてはならない」。
臼陽県長の胡伉が民の周遺を降したが、遺旧の悪民であり、困迫してようよう出てきたもので、内に叛逆を図っており、胡伉は捕縛して府に送った。諸葛恪は胡伉が教令に違えたとして、斬って(首を見せしめに)徇らせ、実状を上表した。民は胡伉が人を執えた事に坐して刑戮されたと聞くと、官がただ(山より)出したいだけだと知り、ここに老幼は相い携えて出山した。期限の歳、(得た甲士の)人数は皆な本来の規企のとおりとなった。諸葛恪は自ら万人を典領し、余分は諸将に給した。

 權嘉其功、遣尚書僕射薛綜勞軍。綜先移恪等曰:「山越恃阻、不賓歴世、緩則首鼠、急則狼顧。皇帝赫然、命將西征、神策内授、武師外震。兵不染鍔、甲不沾汗。元惡既梟、種黨歸義、蕩滌山藪、獻戎十萬。野無遺寇、邑罔殘姦。既埽兇慝、又充軍用。藜蓧稂莠、化為善草。魑魅魍魎、更成虎士。雖實國家威靈之所加、亦信元帥臨履之所致也。雖詩美執訊、易嘉折首、周之方・召、漢之衞・霍、豈足以談?功軼古人、勳超前世。主上歡然、遙用歎息。感四牡之遺典、思飲至之舊章。故遣中臺近官、迎致犒賜、以旌茂功、以慰劬勞。」拜恪威北將軍、封都郷侯。恪乞率衆佃廬江・皖口、因輕兵襲舒、掩得其民而還。復遠遣斥候、觀相徑要、欲圖壽春、權以為不可。

 孫権はその功を嘉し、尚書僕射薛綜を遣って軍を労わせた。薛綜が先んじて諸葛恪らに移書するには
「山越は険阻を恃み、歴世で賓(まつろ)わず、緩めれば首鼠両端を持し、急しければ狼顧(背反)する。皇帝は赫然として西征せんと命じ、神策を内より授け、武師は外地に震った。兵器は鍔を(血で)染めず、甲冑は汗で沾さず。元悪は梟首され、種党は帰義し、山薮を蕩滌(洗浄)し、戎十万を献じた。野に遺寇は無く、城邑には残姦も罔(な)い。兇慝を埽(はら)って又た軍用に充て、藜蓧稂莠(悪草や雑草)を化して善草とした。魑魅魍魎を更生させて虎士とした。実に国家の威霊が加わったとはいえ、まことに元帥が臨履から召致したものでもある。雖『詩』が賛美する執訊(方叔の異民族征伐)や『易』が嘉する折首(王による遠征の成功)、周の方叔・召伯、漢の衛青・霍去病(の功)といえど、どうして談ずるに足るでしょう? 功は古人を軼(こ)え、勲は前世を超えたもの。主上は歓然として遥かに歎息し、(『詩』の)四牡篇の遺典に感動し、旧章(『左伝』)の飲至(賜宴)の事績を思っておられる。ゆえに中台の近侍官を遣わされ、迎えて犒(慰労の宴)を賜う事で功を旌茂(顕彰=旌褒)し、労を慰劬するものである」
諸葛恪を威北将軍に拝し、都郷侯に封じた。
 諸葛恪は手勢を率いて廬江・皖口にて佃(屯田)する事を乞い、軽uな兵で舒を襲い、掩(たちま)ちにその民を得て還った。復た遠くに斥候を遣って径(こみち)や要衝を観察し、寿春を図りたいとしたが、孫権はならぬとした。

 赤烏中、魏司馬宣王謀欲攻恪、權方發兵應之、望氣者以為不利、於是徙恪屯於柴桑。與丞相陸遜書曰:「楊敬叔傳述清論、以為方今人物彫盡、守コ業者不能復幾、宜相左右、更為輔車、上熙國事、下相珍惜。又疾世俗好相謗毀、使已成之器、中有損累;將進之徒、意不歡笑。聞此喟然、誠獨撃節。愚以為君子不求備於一人、自孔氏門徒大數三千、其見異者七十二人、至于子張・子路・子貢等七十之徒、亞聖之コ、然猶各有所短、師辟由喭、賜不受命、豈況下此而無所闕?且仲尼不以數子之不備而引以為友、不以人所短棄其所長也。加以當今取士、宜ェ於往古、何者?時務從、而善人單少、國家職司、常苦不充。苟令性不邪惡、志在陳力、便可獎就、騁其所任。若於小小宜適、私行不足、皆宜闊略、不足縷責。且士誠不可纖論苛克、苛克則彼賢聖猶將不全、況其出入者邪?故曰以道望人則難、以人望人則易、賢愚可知。自漢末以來、中國士大夫如許子將輩、所以更相謗訕、或至於禍、原其本起、非為大讎、惟坐克己不能盡如禮、而責人專以正義。夫己不如禮、則人不服。責人以正義、則人不堪。内不服其行、外不堪其責、則不得不相怨。相怨一生、則小人得容其閨B得容其閨A則三至之言、浸潤之譖、紛錯交至、雖使至明至親者處之、猶難以自定、況己為隙、且未能明者乎?是故張・陳至於血刃、蕭・朱不終其好、本由於此而已。夫不舍小過、纖微相責、久乃至於家戸為怨、一國無復全行之士也。」恪知遜以此嫌己、故遂廣其理而贊其旨也。
會遜卒、恪遷大將軍、假節、駐武昌、代遜領荊州事。

 赤烏中(238〜51)、魏の司馬懿が諸葛恪を攻めようと謀ると、孫権は兵を発してこれに応じた。望気者が不利だと判じた為、諸葛恪を徙して柴桑に駐屯させた。
(諸葛恪が)丞相陸遜に書簡を与えるには
「楊敬叔が伝述した(あなたの)清論では、今や人物は彫尽(払底)し、徳業を守る者は幾許も数えられず、左右の者が更めて輔車となり、上は国事を熙(輝)かせ、下は互いに珍惜(愛惜)すべきだと。又た世俗が相い謗毀するのを好み、已に成った才器をも損累し、進取せんとする徒輩が歓笑できぬ現状を疾(にく)んでおられるとか。これを聞いて喟然(歎然)とし、まことに独り撃節(共感)しております。愚考するに、君子とは一人に完備を求めず、孔氏の門徒三千の中で、異能とされた七十二人すら各々に短所がありましたが、仲尼は弟子の不備を数えず、短所によって長所を棄てるような事はしませんでした。加えて今は士を取り、往古よりェくすべき時です。どうしてか? 時務は縦横で、しかも善人は徒党を組まず少数で、国家は人材不足に苦しんでいます。苟くも性が邪悪でなく、志が力を陳べる事にあれば、奨め就かせて任務にて騁(は)せさせるべきなのです。もし適う点が小さく、私行が不足している者であれば、皆な闊略(見逃す)するのが宜しく、縷責(細々しい叱責)する必要はありません。くわえて士とは纖論で苛克(呵責)すべきではなく、苛克すればかの賢聖とて猶お完全ではなく、ましてやそれ以外の者ではどうでしょう? ゆえに道(天理)によって人材を(得ようと)望むのは難く、人の中から人材を望むのは易く、賢愚を知る事ができるのです。
漢末の許子将の類輩は、相い謗訕した事で禍に遭った者もおりますが、それは克己して礼を尽くす事ができず、正義を以て人を責めることを専らにしたからなのです。己を治めぬ者が正義によって人を責めれば、怨まれない筈はありません。怨みが一たび生じれば、小人はその間隙に容喙し、三至の言[※1]や浸潤する譖言が紛錯として交々至り、至明や至親の者でも疑いを持たぬのは困難で、ましてや当事者や明察できぬ者であればどうでしょう? このせいで張耳陳餘は刃に血ぬるに至り、蕭望之・朱雲[※2]はその好誼を終(まっと)うできませんでした。小過を捨てず、纖微を責めれば、久しくして家戸(同士)が怨を為し、一国には全行の士がいなくなりましょう」

※1 どれほど有り得ない事でも、異なる者が三度上書すれば君主に信用されるという事。「市場に虎がいないのは明白だが、三人が言えば市場に虎を成す」 の故事。
※2 朱雲は蕭望之の門弟の一人。廷尉への出頭を命じられた蕭望之に、罪人としての処刑より、官人のままの自殺を勧めた。剛直で知られ、後には成帝を強諫してその場で逮捕が命じられたが、このとき欄干にしがみ付いて抗った結果、欄干が折れた事が“折檻”の出典となった。

諸葛恪は陸遜が行節面によって己れを嫌っている事を知っており、ゆえにその道理を広げて陸遜の主旨に賛同したのである。 たまたま陸遜が卒して諸葛恪は大将軍に遷り、節を仮されて武昌に駐屯し、陸遜に代って荊州の事を典領した。

 久之、權不豫、而太子少、乃徴恪以大將軍領太子太傅、中書令孫弘領少傅。權疾困、召恪・弘及太常滕胤・將軍呂據・侍中孫峻、屬以後事。

 久しくして孫権が不予となったが、太子は年少であり、かくして諸葛恪を徴して大将軍として太子太傅を兼領し、中書令孫弘が少傅を兼領した。孫権は疾が困じると、諸葛恪・孫弘および太常滕胤・将軍呂拠・侍中孫峻を召し、後事を嘱託した[4]

 翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰: 「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、羣下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心圮裂。皇太子以丁酉踐尊號、哀喜交并、不知所措。吾身受顧命、輔相幼主、竊自揆度、才非博陸而受姫公負圖之託、懼忝丞相輔漢之效、恐損先帝委付之明、是以憂慚惶惶、所慮萬端。且民惡其上、動見瞻觀、何時易哉?今以頑鈍之姿、處保傅之位、艱多智寡、任重謀淺、誰為脣齒?近漢之世、燕・蓋交遘、有上官之變、以身値此、何敢怡豫邪?又弟所在、與賊犬牙相錯、當於今時整頓軍具、率寺虫m、警備過常、念出萬死、無顧一生、以報朝廷、無忝爾先。又諸將備守各有境界、猶恐賊虜聞諱、恣睢寇竊。邊邑諸曹、已別下約敕、所部督將、不得妄委所戍、徑來奔赴。雖懷愴怛不忍之心、公義奪私、伯禽服戎、若苟違戻、非徒小故。以親正疏、古人明戒也。」 恪更拜太傅。於是罷視聽、息校官、原逋責、除關税、事崇恩澤、衆莫不ス。恪毎出入、百姓延頸、思見其状。

 翌日、孫権は薨じた。孫弘は素より諸葛恪とは平らかではなく、諸葛恪に刑治されることを懼れ、孫権の死問(訃報)を秘し、矯詔して諸葛恪を除こうとした。孫峻が諸葛恪に告げ、諸葛恪は孫弘に事を諮らんと請い、坐中で誅してから喪を発して服喪の事を制定した。弟の公安督諸葛融に書簡を与えるには
「今月十六日乙未、大行皇帝は万国を委棄され、群下は大小とも傷悼せぬ者は莫い。吾が父子兄弟に至っては揃って殊恩を受け、ただの凡庸の隸従ではなく、このため悲慟して肝心とも圮裂(破裂)しそうだ。皇太子が丁酉に尊号を踐んだが、(私は)哀喜が交々併さって挙措も知らぬ。吾が身に顧命を受けて幼主を輔相するのだが、竊かに自らを揆度(推測)するに、才は博陸侯(霍光)ほどではないのに姫公(周公)の負図の託を受け、丞相の輔漢の効を忝(はずかし)める事を懼れ、先帝が委付された明を損う事を恐れている。こうして憂慚惶惶として万端について憂慮している。しかも民は上の者を悪み、動きを見ること瞻観(凝視)しているのだから、何時に気を易(やす)められようか? 今、頑鈍の資質によって保傅の位におり、艱難は多く智恵は寡く、任は重く思謀は浅く、誰が唇歯となってくれよう? 近くは漢の世に、燕王と蓋公主とが交遘(結託)して上官氏の変があった。我が身をこれに値(あ)てれば、どうして怡豫(安穏)としておれようか? 又た弟の在所は賊とは犬牙交錯しており、まさに今は時軍具を整頓して将士を率獅オ、警備を常より増すの時で、万死に出ることを念っても一分の生を顧みない事で朝廷に報恩じてこそ、爾の先人を忝(はずかし)めないというものだ。又た諸将の守備には各々の境界があるが、猶お賊虜が諱み事(国喪)を聞き、恣睢(好き勝手)に寇竊する事を恐れている。辺邑の諸曹には已に別に約敕を下し、部下たる督将が妄りに戍所を委(す)てて径来奔赴できぬようしておいた。雖懷愴怛(悲痛)を忍べざる心を懐いているとはいえ、公義とは私情を奪うものであり、伯禽は服喪に戎事を行なった。もし苟くも(命令に)違戻したなら、小過を理由に徒らにする事はできない。親近を以て疏遠を正すとは、古人の明らかな戒めである」
諸葛恪は更めて太傅を拝命した。ここに視聴官(民に対する観察官?)を罷め、校官(監察官)を息め、逋責(逃亡者の責譲)を原(ゆる)し、関税を除き、諸事に恩沢を崇んだので、衆人で悦ばぬ者は莫かった。諸葛恪が出入りする毎に、百姓は頸を延し、その様子を見ることを思った。

 初、權黄龍元年遷都建業、二年築東興隄遏湖水。後征淮南、敗以内船、由是廢不復脩。恪以建興元年十月會衆於東興、更作大隄、左右結山侠築兩城、各留千人、使全端・留略守之、引軍而還。魏以呉軍入其疆土、恥於受侮、命大將胡遵・諸葛誕等率衆七萬、欲攻圍兩塢、圖壞隄遏。恪興軍四萬、晨夜赴救。遵等敕其諸軍作浮橋度、陳於隄上、分兵攻兩城。城在高峻、不可卒拔。恪遣將軍留贊・呂據・唐咨・丁奉為前部。時天寒雪、魏諸將會飲、見贊等兵少、而解置鎧甲、不持矛戟、但兜鍪刀楯、倮身縁遏、大笑之、不即嚴兵。兵得上、便鼓譟亂斫。魏軍驚擾散走、爭渡浮橋、橋壞絶、自投於水、更相蹈藉。樂安太守桓嘉等同時并沒、死者數萬。故叛將韓綜為魏前軍督、亦斬之。獲車乘牛馬驢騾各數千、資器山積、振旅而歸。進封恪陽都侯、加荊揚州牧、督中外諸軍事、賜金一百斤、馬二百匹、助z各萬匹。

 かつて、孫権は黄龍元年(229)に建業に遷都し、二年に東興隄を築いて湖水を遏(さえぎ)った。後に淮南を征伐した折、(堤を)敗って内に船し、これによって(堤を)廃して再びは修復しなかった。諸葛恪は建興元年(252)十月に東興に軍兵を会同すると、更めて大隄を作り、左右の山を結ぶように(堤を)挟んで両城を築き、各々に千人を留め、全端・留略にこれを守らせて軍を率いて還った。魏は、呉軍がその疆土に入った事で侮りを受けたと恥じ、大将の胡遵・諸葛誕らに命じて軍兵七万を率いさせ、両塢を攻囲して隄遏を壊す事を図ろうとした。

 魏志・呉志とも呉が先に動いた事が開戦の原因だとしていますが、肝心の諸葛恪の動機に触れていません。呉では孫権に対する喪中で、能動的に事業を行なっていい期間ではありませんが、一方の魏では司馬懿が死んだ翌年で、大権を嗣いだ司馬師としては権威を確立するために明白な成功事例が必要な状況です。孫権の造廃を見るに、呉が東興を塞ぐのは合肥に対する戦意を否定し、同時に巣湖から魏の水軍が下ることを防ぐためで、この時は司馬師が孫権の喪に乗じた南征を企画し、これを察した諸葛恪が急遽巣湖を塞いだのではないかと想像する次第です。

諸葛恪は四万の軍を興し、晨夜(兼行で)救援に赴いた。胡遵らはその諸軍に命じて浮橋を作って渡らせ、隄上に布陣し、兵を分けて両城を攻めた。城は高峻の地に在り、俄かには抜けなかった。諸葛恪は将軍の留賛・呂拠・唐咨・丁奉を遣って前部とした。時に天候は寒雪で、魏の諸将は会飲(宴飲)していたが、留賛らの兵が少なく、鎧甲を解置して矛戟を持たず、ただ兜鍪(兜冑)と刀楯だけの倮身(はだぬぎ)で縁(まとわ)りを遏(た)とうとしているのを見ると、大いに笑ってすぐには兵を厳しくしなかった。兵は上ると、たちまち鼓を譟がしくして乱れ斫った。魏軍は驚擾して散走し、争って浮橋を渡り、端は壊絶し、自ら水に投じたり、相い踏藉したりした。

 戦況については丁奉伝の一節にも詳細があります。

楽安太守桓嘉らは時を同じくして併せ歿し、死者は数万だった。もとの叛将の韓綜は魏の前軍督となっており、亦たこれを斬った。獲た車乗や牛馬驢騾は各々数千、資器は山積し、軍旅を振わせて帰った。諸葛恪を陽都侯に進封し、荊揚二州牧を加え、中外の諸軍事を督せしめ、金一百斤・馬二百匹・盾ニ麻布は各々万匹を賜った。

 恪遂有輕敵之心、以十二月戰克、明年春、復欲出軍。諸大臣以為數出罷勞、同辭諫恪、恪不聽。中散大夫蔣延或以固爭、扶出。

 諸葛恪にはかくて敵を軽んじる心が生じ、十二月の戦に克った事から、明年春に復た軍を出そうとした[5]。諸大臣はしばしばの出征で罷労(疲労)しているとして、言辞を同じくして諸葛恪を諫めたが、諸葛恪は聴かなかった。中散大夫蔣延などは固く諫争した処、(議場から)扶け出された。

 恪乃著論諭衆意曰: 「夫天無二日、土無二王、王者不務兼并天下而欲垂祚後世、古今未之有也。昔戰國之時、諸侯自恃兵彊地廣、互有救援、謂此足以傳世、人莫能危。恣情從懷、憚於勞苦、使秦漸得自大、遂以并之、此既然矣。近者劉景升在荊州、有衆十萬、財穀如山、不及曹操尚微、與之力競、坐觀其彊大、呑滅諸袁。北方都定之後、操率三十萬衆來向荊州、當時雖有智者、不能復為畫計、於是景升兒子、交臂請降、遂為囚虜。凡敵國欲相呑、即仇讎欲相除也。有讎而長之、禍不在己、則在後人、不可不為遠慮也。昔伍子胥曰:『越十年生聚、十年教訓、二十年之外、呉其為沼乎!』夫差自恃彊大、聞此邈然、是以誅子胥而無備越之心、至於臨敗悔之、豈有及乎?越小於呉、尚為呉禍、況其彊大者邪?昔秦但得關西耳、尚以并呑六國、今賊皆得秦・趙・韓・魏・燕・齊九州之地、地悉戎馬之郷、士林之藪。今以魏比古之秦、土地數倍;以呉與蜀比古六國、不能半之。然今所以能敵之、但以操時兵衆、於今適盡、而後生者未悉長大、正是賊衰少未盛之時。加司馬懿先誅王淩、續自隕斃、其子幼弱、而專彼大任、雖有智計之士、未得施用。當今伐之、是其厄會。聖人急於趨時、誠謂今日。若順衆人之情、懷偸安之計、以為長江之險可以傳世、不論魏之終始、而以今日遂輕其後、此吾所以長歎息者也。自〔古〕以來、務在産育、今者賊民歳月繁滋、但以尚小、未可得用耳。若復十數年後、其衆必倍於今、而國家勁兵之地、皆已空盡、唯有此見衆可以定事。若不早用之、端坐使老、復十數年、略當損半、而見子弟數不足言。若賊衆一倍、而我兵損半、雖復使伊・管圖之、未可如何。今不達遠慮者、必以此言為迂。夫禍難未至而豫憂慮、此固衆人之所迂也。及於難至、然後頓顙、雖有智者、又不能圖。此乃古今所病、非獨一時。昔呉始以伍員為迂、故難至而不可救。劉景升不能慮十年之後、故無以詒其子孫。今恪無具臣之才、而受大呉蕭・霍之任、智與衆同、思不經遠、若不及今日為國斥境、俛仰年老、而讎敵更彊、欲刎頸謝責、寧有補邪?今聞衆人或以百姓尚貧、欲務闡ァ、此不知慮其大危、而愛其小勤者也。昔漢祖幸已自有三秦之地、何不閉關守險、以自娯樂、空出攻楚、身被創痍、介冑生蟣蝨、將士厭困苦、豈甘鋒刃而忘安寧哉?慮於長久不得兩存者耳!毎覽荊邯説公孫述以進取之圖、近見家叔父表陳與賊爭競之計、未嘗不喟然歎息也。夙夜反側、所慮如此、故聊疏愚言、以達二三君子之末。若一朝隕歿、志畫不立、貴令來世知我所憂、可思於後。」 衆皆以恪此論欲必為之辭、然莫敢復難。

 諸葛恪はかくして論を著して衆意を諭すには
「王統を伝えようとする者は、天下の兼併に務めるものである。戦国の諸侯が天下に志を持たず、遂には秦に併合されたのは厳然たる事実である。又た劉表が荊州の富強に安逸として曹操の成長を坐視した為、その児子は(背で)交臂して囚虜となった。仇讐にあたる敵国が成長し、後裔に禍を及ぼさぬよう深慮遠謀しなければならない。昔、呉の夫差伍子胥の諫言を聴かず、却って伍子胥を誅したうえ越には備えず、敗北に臨んで悔いる事態に至った。小越ですら呉の禍となったのだ。ましてや相手が彊大な者ならどうか? 昔、秦はただ関西のみを得ていたが、それでも六国を併呑した。今、賊は秦・趙・韓・魏・燕・斉にあたる九州の地を皆な得ており、戎馬(軍馬)の郷・士林(士大夫)の薮を擁している。今の魏の土地は古えの秦に数倍し、呉と蜀とは六国の半ばですらない。しかし今これに敵対できているのは、ただ曹操の時の軍兵が尽き、後進が未だ成長しきっていないからだ。加えて司馬懿を嗣いだ子は幼弱の身で大任を専らにしており、人を用いる事ができていない。これぞまさに魏の厄に乗じて伐つべき時である。もし衆議に順って偸安(安逸を貪る)の計を懐き、長江の険阻のみを恃んで魏の趨勢を思わないなら、私が長歎息する事態となろう。今、賊民は歳々月々に繁滋しており、もし十数年も後になればその民衆は必ず今の倍となり、しかもわが国の勁兵の地は皆な空尽となっている筈で、ただ現在の軍兵によって事を定められるのだ。もし早々にこれを用いずに端坐したまま老いさせれば、十数年もすればほぼ半ばを損っており、後進の数は論ずるに値しない。賊衆が倍となり、我が兵が損半してしまってからでは、伊尹・管仲でもどうしようもないのだ。
 思慮の浅い者は、必ずこの言葉を迂遠とするだろう。至っていない禍難を憂慮するのは、衆人が迂遠とするものである。難が及んでから頓顙(叩頭)しても間に合わないのだ。昔、呉は伍子胥の言葉を迂遠とした為に滅んだ。劉表は十年後を考慮できなかった為に、その子孫に詒(のこ)せなかった。今、私は具臣(名だけの臣)の才すら無いのに大呉での蕭何・霍光の任を受け、智は大衆と同じで、思慮は遠きを経(はか)れないが、もし今日に国の為に境域を斥(おしひろ)げずに俛仰(たちまち)にして年老いれば、讐敵が更に彊くなってからでは刎頸して負責を謝そうとも何の補いもならないのだ。今聞けば、衆人の或る者は百姓が尚お貧しく、間息(休息)に務める事を欲しているというが、これは大危への配慮を知らず、小勤を愛しているに過ぎないのだ。昔、漢祖は三秦の地を有したが、どうして関を閉ざし険阻を守って娯楽せず、楚を攻めて身に創痍を被り、介冑(甲冑)には蟣蝨を生じたのか? 将士は困苦を厭わず、どうして鋒刃を甘受して安寧を忘れたのか? 久しくは両者が併存できぬと思慮したからなのだ! 荊邯が公孫述に進取の図計を説き、近くは我が叔父が賊との争競の計を表陳したのを覧る毎に、未だ嘗て喟然と歎息せずにはいられない。夙夜に転々反側してこの事を思慮しており、ゆえに聊か愚言を疏述し、二三君子(諸君)の末に達するものである。もし一朝に隕歿して志画が立たなくとも、来世(後世)に私の憂えた点を知らしめ、後人が思ってくれる事を貴ぶものである」
人々は皆な諸葛恪のこの論によって辞述通りの事を為そうとしており、そのせいで再び論難しようとする者は莫かった。

 丹楊太守聶友素與恪善、書諫恪曰:「大行皇帝本有遏東關之計、計未施行。今公輔贊大業、成先帝之志、寇遠自送、將士憑ョ威コ、出身用命、一旦有非常之功、豈非宗廟神靈社稷之福邪!宜且案兵養鋭、觀釁而動。今乘此勢、欲復大出、天時未可。而苟任盛意、私心以為不安。」恪題論後、為書答友曰:「足下雖有自然之理、然未見大數。熟省此論、可以開悟矣。」於是違衆出軍、大發州郡二十萬衆、百姓騷動、始失人心。

 丹楊太守聶友は素より諸葛恪とは親善で、書簡にて諸葛恪を諫めるには 「大行皇帝にはもとより東関を遏る計があったが、計は施行されなかった。今、公は大業を輔賛し、先帝の志を完成させ、遠きへ冦しようと自ら送り、将士は威徳に憑頼し、身ずから命を用(はたら)かせました。一旦非常の功があったのは、宗廟や神霊や社稷の(齎した)福ではありますまいか! 今は兵を案じ鋭鋒を養い、釁(すき)を観てから動くのが宜しいでしょう。今、この趨勢に乗じて復た大いに出征しようとしても、天の時が認めますまい。しかも任を苟(おそろ)かにして意を盛んにしており、私(ひそ)かに心が安んじないのであります」。諸葛恪は論を題(しる)した後、書簡によって聶友に答えるには 「足下は自然の理りを理解しているとはいえ、未だ大いなる天数を見てはいない。この論を熟省すれば、開悟できるだろう」。こうして衆議に違えて軍を出し、大いに州郡より二十万の軍兵を発した。百姓は騷動し、人心を失い始めた。

 恪意欲曜威淮南、驅略民人、而諸將或難之曰:「今引軍深入、疆埸之民、必相率遠遁、恐兵勞而功少、不如止圍新城。新城困、救必至、至而圖之、乃可大獲。」恪從其計、迴軍還圍新城。攻守連月、城不拔。士卒疲勞、因暑飲水、泄下流腫、病者大半、死傷塗地。諸營吏日白病者多、恪以為詐、欲斬之、自是莫敢言。恪内惟失計、而恥城不下、忿形於色。將軍朱異有所是非、恪怒、立奪其兵。都尉蔡林數陳軍計、恪不能用、策馬奔魏。魏知戰士罷病、乃進救兵。恪引軍而去。士卒傷病、流曳道路、或頓仆坑壑、或見略獲、存亡忿痛、大小呼嗟。而恪晏然自若。出住江渚一月、圖起田於潯陽、詔召相銜、徐乃旋師。由此衆庶失望、而怨黷興矣。

 諸葛恪の意図は淮南に威を曜(かがや)かせ、民人を駆略しようとしたものだが、諸将の或る者は論難して 「今、軍を引きいて深入すれば、疆埸(辺境)の民は必ず相い率いて遠くに遁れ、恐らくは兵は疲労して功は少なく、止まって合肥新城を攻囲するに越した事はありません。新城が困じれば救援は必ず至り、至った敵を図れば大いに獲られましょう」。諸葛恪はその計に従い、軍を迴らせて還って新城を囲んだ。攻守は連月となったが、城は抜けなかった。士卒は疲労し、暑さにより生水を飲み、泄下流腫(下痢と爛れ?)を病む者が大半となり、死傷者が地を塗(おお)った。諸営の軍吏が日々に白(もう)すには、病人が多いと。諸葛恪は詐言だとしてこれを斬ろうとし、これより言おうとする者は莫くなった。諸葛恪は内心では失計だと惟い、しかも城を下せぬのを恥じ、忿色が形(あらわ)れた。将軍の朱異が是非を陳べると、諸葛恪は怒ってたちどころにその兵を奪った。都尉蔡林はしばしば軍計を陳べたが、諸葛恪に用いられず、馬に策(むちう)って魏に奔った。魏では戦士が罷(つか)れ病んでいると知ると、救援の兵を進めた。諸葛恪は軍を引きいて去った。

 魏晋サイドの記録によると、司馬師は寿春の毌丘倹・文欽に出撃を禁じ、合肥新城の張特に堅守させる一方で太尉司馬孚を派遣し、数月して呉兵が退くところを伏兵を設けて大破したとあります。

士卒は傷病して道路(路の途中)で流曳(彷徨)し、或る者は(路傍の)坑壑(穴や溝)に頓仆し、或る者は略獲され、存者亡者とも忿痛し、大小とも呼号嗟嘆したが、諸葛恪は晏然自若としていた。江渚に出て駐まること一月、潯陽に屯田を起す事を図ったが、召還の詔が相い銜まれ、ようよう師を旋回した。これにより衆庶は失望し、怨黷(怨嗟罵倒)が興った。

 秋八月軍還、陳兵導從、歸入府館。即召中書令孫嘿、弱゚謂曰:「卿等何敢妄數作詔?」嘿惶懼辭出、因病還家。恪征行之後、曹所奏署令長職司、一罷更選、愈治威嚴、多所罪責、當進見者、無不竦息。又改易宿衞、用其親近、復敕兵嚴、欲向青・徐。
 孫峻因民之多怨、衆之所嫌、搆恪欲為變、與亮謀、置酒請恪。恪將見之夜、精爽擾動、通夕不寐。明將盥漱、聞水腥臭、侍者授衣、衣服亦臭。恪怪其故、易衣易水、其臭如初、意惆悵不ス。嚴畢趨出、犬銜引其衣、恪曰:「犬不欲我行乎?」還坐、頃刻乃復起、犬又銜其衣、恪令從者逐犬、遂升車。

 秋八月、軍が還った際、兵を陳(なら)べて先導・追従とし、府館に帰入した。即座に中書令孫嘿を召し、声を獅オくして謂うには 「卿らはどうして妄りにしばしば詔を作したのか?」 孫嘿は惶懼として辞去退出すると、病んで家に還った。諸葛恪は征行の後、選曹尚書(人事官)が奏して署けた令長や職司を一斉に罷免して更めて選び、愈々威厳を治んと多くを罪責し、進見する者で息を竦めない者とて無かった。又た宿衛を改易して親近を用い、復た兵には戒厳を命じて青・徐州に向かおうとした。
 孫峻は民の多くが怨み、人々が嫌っている事により、諸葛恪に(謀議を)搆じて政変を為そうとし、孫亮と謀って置酒して諸葛恪を請じた。諸葛恪は見(まみ)えようとした夜、精爽(精神)が擾動して夕(夜)を通して寐られなかった。明朝に盥漱(洗顔)しようとすると、水が腥く臭い、侍者が衣を授けると、衣服も亦た臭かった。諸葛恪はその理由を怪しみ、衣を易え水を易えたが、その臭いは初めの通りで、意中では惆悵(憾み歎き)として不悦(不快)とした。厳装して趨出した処、犬がその衣を銜え引いた。諸葛恪 「犬までが行かせまいとするか?」。還って坐した。しばらくして復た起つと、犬は又たその衣を銜えた。諸葛恪は従者に犬を逐わせ、かくて車に昇った。

 初、恪將征淮南、有孝子著縗衣入其閤中、從者白之、令外詰問、孝子曰:「不自覺入。」時中外守備、亦悉不見、衆皆異之。出行之後、所坐廳事屋棟中折。自新城出住東興、有白虹見其船、還拜蔣陵、白虹復繞其車。

 嘗て諸葛恪が淮南を征しようとした時、縗衣(喪服)を著けたままその閤中に入った孝子がおり、従者がこれを白すと、外に出して詰問させた。孝子 「自覚せぬまま入ってしまいました」。時に中外の守備兵も亦た悉く見ておらず、衆は皆なこれを異とした。出行の後、庁舎の屋の棟が中ばから折れた。新城より東関に出て駐まっていた時、白虹がその船に出見し、還って蔣陵に参拝した時も、白虹が復たその車を囲繞した。

 及將見、駐車宮門、峻已伏兵於帷中、恐恪不時入、事泄、自出見恪曰:「使君若尊體不安、自可須後、峻當具白主上。」欲以嘗知恪。恪答曰:「當自力入。」散騎常侍張約・朱恩等密書與恪曰:「今日張設非常、疑有他故。」恪省書而去。未出路門、逢太常滕胤、恪曰:「卒腹痛、不任入。」胤不知峻陰計、謂恪曰:「君自行旋未見、今上置酒請君、君已至門、宜當力進。」恪躊躇而還、劍履上殿、謝亮、還坐。設酒、恪疑未飲、峻因曰:「使君病未善平、當有常服藥酒、自可取之。」恪意乃安、別飲所齎酒。酒數行、亮還内。峻起如廁、解長衣、著短服、出曰:「有詔收諸葛恪!」恪驚起、拔劍未得、而峻刀交下。張約從旁斫峻、裁傷左手、峻應手斫約、斷右臂。武衞之士皆趨上殿、峻云:「所取者恪也、今已死。」悉令復刃、乃除地更飲。

 (孫亮に)見えようとするに及び、宮門に車を駐めた。孫峻は已に帷中に兵を伏せており、諸葛恪がすぐには入らなければ事が泄れるのではと恐れ、自ら出て諸葛恪に見え 「使君が若し尊体に不安があるようなら、(拝謁は)後になされませ。私が具さに主上に白しましょう」と、諸葛恪が察知しているかどうか嘗(さぐ)った。諸葛恪が答えるには 「力めて入ろう」。散騎常侍張約・朱恩らが密かに諸葛恪に書状を与えるには 「今日の(宴の)張設の事は尋常ではありません。他意がありそうです」 諸葛恪は書状を省みて去ろうとした。未だ路門を出ぬうちに、太常滕胤と逢うと、諸葛恪は 「にわかに腹痛となった。参内できそうにない」 と。滕胤は孫峻の陰計を知らず、諸葛恪に謂うには 「君は自ら行かれて旋還してから未だ謁見していない。今、主上は置酒して君を請じている。君は已に門に至ったからには、力めて進まれるべきだ」。諸葛恪は躊躇しつつも還り、剣履上殿して孫亮に拝謝し、坐に還った。酒が設けられると、諸葛恪は疑って飲まなかった。孫峻はそのため 「使君の病は未だ善平(平癒)していない。常に服用している薬酒があるだろうから、取り寄せてはどうか」 諸葛恪は安んじ、別に齎された酒を飲んだ[6]。酒が数巡ほど行(めぐ)り、孫亮が内殿に還ると、孫峻は起って厠へ行き、長衣を解いて短服を著け、出て来て 「詔があった。諸葛恪を収捕せよ!」[7]。諸葛恪は驚いて起ったが、剣を抜く事もできぬうち、孫峻の刃が交々下った。張約は傍らから孫峻に斫りつけ、裁って左手を傷つけ、孫峻は応じて手ずから張約を斫り、右臂を断った。武衛の士が皆な上殿に趨ると、孫峻が云った 「捕えるのは諸葛恪だ。もう死んだ」。悉く刃を復(のぞ)かせてから地を掃除して更めて飲んだ[8]

 先是、童謠曰:「諸葛恪、蘆葦單衣篾鉤落、於何相求成子閤。」成子閤者、反語石子岡也。建業南有長陵、名曰石子岡、葬者依焉。鉤落者、校飾革帶、世謂之鉤絡帶。恪果以葦席裹其身而篾束其腰、投之於此岡。

 これに先だって童謡があり、「諸葛恪、蘆葦単衣篾鉤落、於何相求成子閤」 と。成子閤とは、反語で石子岡である。建業の南に長陵があり、名を石子岡といい、葬られる者が依る場所である。鉤落とは革帯の校飾(装飾)で、世にこれを鉤絡帯と謂う。諸葛恪は果して葦蓆でその身を裹(つつ)まれてその腰を篾(割り竹)で束ねられ、この岡に投棄された[9]

 恪長子綽、騎都尉、以交關魯王事、權遣付恪、令更教誨、恪鴆殺之。中子竦、長水校尉。少子建、歩兵校尉。聞恪誅、車載其母而走。峻遣騎督劉承追斬竦於白都。建得渡江、欲北走魏、行數十里、為追兵所逮。恪外甥都郷侯張震及常侍朱恩等、皆夷三族。

 諸葛恪の長子の諸葛綽は騎都尉だったが、魯王との交関を以て孫権が諸葛恪に遣付して更生教誨させた処、諸葛恪はこれを鴆殺した 。中子の諸葛竦は長水校尉、少子の諸葛建は歩兵校尉で、諸葛恪の誅殺を聞くと車に母を載せて逃走した。孫峻は騎督劉承を遣り、追って諸葛竦を白都で斬らせた。諸葛建は長江を渡る事ができ、北のかた魏に走ろうとしたが、行くこと数十里にして追兵に逮捕された。諸葛恪の外甥の都郷侯張震および常侍朱恩らも皆な三族を夷(ほろぼ)された。

 初、竦數諫恪、恪不從、常憂懼禍。及亡、臨淮臧均表乞收葬恪曰:「臣聞震雷電激、不崇一朝、大風衝發、希有極日、然猶繼以雲雨、因以潤物、是則天地之威、不可經日浹辰、帝王之怒、不宜訖情盡意。臣以狂愚、不知忌諱、敢冒破滅之罪、以邀風雨之會。伏念故太傅諸葛恪得承祖考風流之烈、伯叔諸父遭漢祚盡、九州鼎立、分託三方、並履忠勤、熙隆世業。爰及於恪、生長王國、陶育聖化、致名英偉、服事累紀、禍心未萌、先帝委以伊・周之任、屬以萬機之事。恪素性剛愎、矜己陵人、不能敬守神器、穆靜邦内、興功暴師、未期三出、虚耗士民、空竭府藏、專擅國憲、廢易由意、假刑劫衆、大小屏息。侍中武衞將軍都郷侯倶受先帝囑寄之詔、見其奸虐、日月滋甚、將恐蕩搖宇宙、傾危社稷、奮其威怒、精貫昊天、計慮先於神明、智勇百於荊・聶、躬持白刃、梟恪殿堂、勳超朱虚、功越東牟。國之元害、一朝大除、馳首徇示、六軍喜踊、日月搆、風塵不動、斯實宗廟之神靈、天人之同驗也。今恪父子三首、縣市積日、觀者數萬、詈聲成風。國之大刑、無所不震、長老孩幼、無不畢見。人情之於品物、樂極則哀生、見恪貴盛、世莫與貳、身處台輔、中阯年、今之誅夷、無異禽獸、觀訖情反、能不憯然!且已死之人、與土壤同域、鑿掘斫刺、無所復加。願聖朝稽則乾坤、怒不極旬、使其郷邑若故吏民、收以士伍之服、惠以三寸之棺。昔項籍受殯葬之地、韓信獲收斂之恩、斯則漢高發神明之譽也。惟陛下敦三皇之仁、垂哀矜之心、使國澤加於辜戮之骸、復受不已之恩、於以揚聲遐方、沮勸天下、豈不弘哉!昔欒布矯命彭越、臣竊恨之、不先請主上、而專名以肆情、其得不誅、實為幸耳。今臣不敢章宣愚情、以露天恩、謹伏手書、冒昧陳聞、乞聖朝哀察。」於是亮・峻聽恪故吏斂葬、遂求之於石子岡。

 かつて諸葛竦はしばしば諸葛恪を諫め、諸葛恪が従わなかったので常に禍を憂懼していた。亡ぼされるに及び、臨淮の臧均が諸葛恪を収葬せんことを上表して乞うには
「どのような悪天候でもそうは続かないもので、帝王の怒りが続くのも情の上では宜しくありません。諸葛恪には父祖以来の功があり、当人も英偉の名声があり、先帝が伊尹・周公の任を委ねたものです。素より剛愎で己を矜って人を凌ごうとする問題があり、邦内を穆静にせずに暴師を興すこと年に三度、士民は虚耗し府藏を空竭させ、国憲を専擅して刑罰を恣意に行ないました。侍中・武衛将軍孫峻は倶に先帝の遺詔を受けた者として、社稷を思って威怒を発し、神明に先んじた計慮と荊軻・聶政に百倍する智勇によって躬ずから白刃を持って諸葛恪を梟首し、その勲は朱虚侯を超え、功は東牟侯を越えるものです。諸葛父子の三首が市場に懸けられて時が過ぎましたが、人の情とは楽を極めれば哀を生じるもので、嘗てその首を観て喜び罵った者たちも憯然(哀悼)としつつあります。もう既に充分の時間が過ぎましたので、郷邑の民もしくは故吏が、士伍の服で三寸厚の棺に収斂することをお恵み頂きたい。昔、項籍すら殯葬の地を与えられ、韓信にも収斂の恩があり、こうして漢高祖の神明の誉は発したのです。陛下には三皇の仁を敦くして哀矜の心を垂れ、国の恩沢が辜戮(死罪人)の骸にも加えられん事を。昔、欒布が彭越の為に君命を矯めた事を臣は竊かに恨(く)やみ、ゆえにこうして先ず主上に請い、情のままに行なって名声を専らにはしない所存です。乞聖朝哀察」
ここに孫亮・孫峻は諸葛恪の故吏が斂葬することを聴許し、(その遺骸が)石子岡に求められた[10]

 始恪退軍還、聶友知其將敗、書與滕胤曰:「當人彊盛、河山可拔、一朝羸縮、人情萬端、言之悲歎。」恪誅後、孫峻忌友、欲以為鬱林太守、友發病憂死。友字文悌、豫章人也。

 始め諸葛恪が軍を退いて還ると、聶友は敗滅しかかっている事を知り、滕胤に書簡を与えて 「人は彊盛であれば河山を抜く事ができるが、一朝に羸縮すれば人情も万端がそうなる。悲歎なことです」 諸葛恪が誅された後、孫峻は聶友を忌み、鬱林太守にしようとした。聶友は発病して憂死した。
 聶友、字は文悌。豫章の人である[11]
[1] 諸葛恪は若くして才名があり、発藻(彩のある発言)は岐嶷として弁論は臨機応変で、与に対論できる者は莫かった。孫権は通見するとこれを奇とし、諸葛瑾に謂うには、「藍田に玉を生じるとは、真に虚言ではなかった」 (江表伝)
―― 諸葛恪の身長は七尺六寸、鬚眉は少なく、折頞(鉤鼻)で額は広く、大口で声が高かった。 (呉録)
[2] 孫権が嘗て蜀使の費禕を饗応した時、迎えるに先んじて群臣に命じるには 「使者が至っても、伏したまま食事して起つ勿れ」と。費禕が至り、孫権は輟食(休食)したが、群下は起たなかった。費禕がこれを啁(あざけ)って 「鳳皇が来翔すれば、騏は吐哺(吐膳)するが、驢騾は無知ゆえ伏食を続けるものだ」 諸葛恪が答えるには 「梧桐を植えて鳳皇を待っていたのに、どうして燕雀が来翔したなどと自称するのか? 弾射して故郷に還さずにおれようか!」 費禕は餅を食むのを停め、筆を索(もと)めて麦賦を作り、諸葛恪も亦た筆を請うて磨賦を作った。咸なが善しと称した。
 孫権が嘗て諸葛恪に問うには、「この頃は何を娯しんで更に肥沢となったのか?」 諸葛恪が対えるには 「臣が聞く処では、富は家屋を潤し、徳は身を潤すと。臣は娯しんでいるのではなく、修身しているのです」。又た問うには 「卿は滕胤と比べてどうか?」 諸葛恪は答えて 「登階躡履(殿中での挙措)は臣は滕胤に及びませんが、迴籌転策(疇策の立案)では滕胤は臣に及びません」。
 諸葛恪が嘗て孫権に馬を献じた時、先んじてその耳を𨪕(うが)っていた。范慎が時に坐に在り、諸葛恪を嘲って 「馬は大畜ではあるが、天の気を稟(う)けている。今、その耳を損ったのは、仁を傷った事になるのではないか?」 諸葛恪は答えて 「母の娘への恩愛は至篤ですが、耳を穿って珠を附す事が仁を傷っておりましょうか?」。太子が嘗て諸葛恪を嘲って 「諸葛元遜は馬矢(馬糞)を食らうべし」と。諸葛恪 「願わくば太子は鷄卵を食されよ」 孫権 「卿は馬矢を食らえと命じられたのに、卿は鶏卵を食べさせようとは何故か?」 諸葛恪 「出る場所は同じです」。孫権は大いに笑った。 (諸葛恪別伝)
―― 曾て白頭鳥が殿前に集った事があった。孫権 「これは何鳥か?」 諸葛恪 「白頭翁です」。張昭は自身が坐中で最も老いており、諸葛恪が鳥によって戯れているかと疑い、「諸葛恪は陛下を欺いております。未だ嘗て鳥の名で白頭翁とは聞いたことがありません。試しに諸葛恪に白頭母を求めさせましょう」 諸葛恪 「鳥には鸚母という名がありますが、必ずしも対があるとは限りません。試しに輔呉将軍に鸚父を求めさせましょう」。張昭は答えられず、坐中は皆な歓笑した。 (江表伝)
[3] 孫権は呉王となった当初に節度官を置き、軍糧を典掌させたが、漢制には無いものだった。初めに侍中・偏将軍の徐詳を用い、徐詳が死ぬと諸葛恪を用いようとした。諸葛亮は諸葛恪が徐詳に代ると聞くと、書簡を陸遜に与えて 「家兄は年老い、しかも諸葛恪の性は疎粗です。今、糧穀を典領させようとか。糧穀は軍の要の最たるもので、僕は遠くに在るとはいえ、竊かに用いることに安心できません。足下は特に至尊に申して転意させますよう」。陸遜が孫権に申すと、即座に諸葛恪は領兵官に転じた。 (江表伝)

 徐詳は孫権の側近として、胡綜らと枢機を担当して最終的には侍中・領軍将軍あたりまで進んだと胡綜伝にあります。又た呉主伝によれば、建安二十二年に曹操に称藩する際、使者となったのも徐詳です。

[4] 孫権は寝疾(病臥)すると、付託の事を討議させた。時に朝臣の咸なが皆な諸葛恪に意を注いでおり、孫峻が上表して諸葛恪の器は輔政を任せ、大事を付託すべきものだと。孫権は諸葛恪が自らの働きの為に剛很(剛情諍争)するのを嫌っていたが、孫峻は当今の朝臣では皆な及ぶ者が莫いとして固く自説を保ち、かくして諸葛恪を徴した。後に諸葛恪らを臥内で引見し、牀下に詔を受けさせた。孫権は詔して 「吾が疾は困じ、恐らく再びは相いまみえまい。諸事一切を委ねよう」 諸葛恪は歔欷(噎び泣き)流涕しつつ 「臣らは皆な厚恩を受け、死を以て詔を奉じましょう。願わくば陛下には精神を安らかにし、憂慮を思われるのを損じ、外事を念われる事の無きように」。孫権は有司に命じて諸事一切を諸葛恪に統べさせ、ただ殺生の大事は執行の後に上聞させた。(諸葛恪の為に)第館を修治し、陪衛を設けた。群官百司の拝揖の儀では、各々品秩によって序列があった。諸法令で便宜に適わぬものは、条列(箇条書き)して上聞し、孫権はそのつど聴許した。中外は翕然(同心)し、人は歓欣の情を懐いた。 (『呉書』)
[5] 諸葛恪は司馬の李衡に蜀に往って姜維を説かせ、同時に挙兵させようと 「古人の言葉に、“聖人でも時を為す事はできぬ。時が至れば亦た失ってはならぬ”とあります。今、敵の政事は私門に在って、外と内とは猜疑して隔たり、兵は外地で挫け、そして内地では民が怨嗟しています。曹操より以来、彼の国の亡ぶ形勢が今の様であった事はありません。もし大挙して伐ち、呉にその東を攻めさせ、漢がその西に入れば、彼が西を救おうにも東が空虚となり、東を重くすれば西が軽くなり、練実(調練充実)の軍で虚軽の敵に乗じれば、これを破るのは必至であります」と。姜維はこれに従った。 (漢晋春秋)
[6] 張約・朱恩が密かに疏述して諸葛恪に告げた事を、諸葛恪が滕胤に示した処、滕胤は諸葛恪に還る事を勧めた。諸葛恪は 「孫峻は小僧っ子であり、何が為せようか! ただ恐れるのは酒食(の毒)に中てられる事だけだ」 と。かくして薬酒を携えて参内した。 (『呉歴』)
―― 諸葛恪と滕胤とは親交が厚く、張約らの疏述が非常の大事であるので、滕胤に示して共に安危を謀るのが当然の勢いだった。しかし諸葛恪の性は強梁で、加えて素より孫峻を侮っており、信用せずに参内した。どうして滕胤がそれとなく勧めたせいで、禍を冒したなどと為せようか? 『呉歴』の方が長じている。 (孫盛『評』)

 どうも孫盛さんは 「小説としてどっちが面白いか」 で優劣を測っているように思えてなりません。張約らのメモはあくまでも 「何かある“らしい”」 で、諸葛恪がそんな憶測に基づいて滕胤に内容を示したかどうかも定かではありません。そもそも『呉歴』の方が後発なので、尤もらしい潤色が加わっていても不思議ではない筈ですが…。

[7] 孫峻が刀を提げ、詔を称して諸葛恪を収捕すると、孫亮は起立して 「私のした事ではない! 私のした事ではない!」。乳母が孫亮を引いて内殿に還った。 (『呉録』)
―― 『呉歴』は云う。孫峻が先ず孫亮を引き連れて入り、然る後に出て詔を称したと。これと本伝は同じである。
―― 裴松之が考えるに、孫峻は詔と称しようとしたのだから、本伝および『呉歴』の通りである筈で、『呉録』の言う様にはなるまい。
[8] 恪入、已被殺、其妻在室、語使婢曰:「汝何故血臭?」婢曰:「不也。」有頃愈劇、又問婢曰:「汝眼目視瞻、何以不常?」婢蹷然起躍、頭至于棟、攘臂切歯而言曰:「諸葛公乃為孫峻所殺!」於是大小知恪死矣、而吏兵尋至。 (『捜神記』)

 諸葛恪が殺された頃、館の婢から血の匂いがした。夫人が指摘すると、諸葛恪が憑依したようになり、殺された事を宣告した。

―― 孫権は病が篤くなると、諸葛恪を召して輔政とした。(病室を)去るに臨んで大司馬呂岱が戒めるには 「世はまさに多難で、子は毎事に必ず十思するように」 と。諸葛恪が答えるには 「昔、(魯の宰相の)季文子は三思の後に行なったが、孔子は“再思で充分だ”と言った。今、君は私に十思を命じられたが、私が季文子に劣っている事を明らかにしたのだ」。呂岱は答えられず、当時の人は咸な呂岱の失言だと謂った。
―― 虞喜曰く、天下を託されるとは至重の事で、人臣が人主の威を行使するのは至難である。二至を兼ねて万機を管領する事に堪えられる者は少ないのである。群謀を採納し、芻蕘(柴刈と樵人)に問うほど己れを虚しくし、人を受け入れる事が恒に足りていないとしていなければ功名は成らず、勲績も顕著とはならない。ましてや呂侯(呂岱)は国の先耆(宿老)で、智度は遠きを計っているのに、十思を戒められただけで劣薄を示されたとして拒んだ。これは元遜の疎略な点で、機神(精神の道理)を倶えていないものである。もし十思の義によって広く当世の務めを諮り、善を聞いて雷より速やかに動き、諫めに従うのが風より急く移っていれば、どうして殿堂に首を隕とし、凶豎の刃で死ぬような事になったであろう? 世人はその造次(一瞬)の英弁を観るべきものとして奇とし、呂侯が対えなかったのを愚陋として嘲ったが、安危終始の慮を思わぬもので、これは春藻の繁華を楽しんで秋実の甘口を忘れたものである。
昔、魏人が蜀を伐ち、蜀人がこれを禦いだ時、精厳垂発・六軍雲擾・士馬擐甲・羽檄交馳(訓練・整備された大部隊が賑々しく集結した様)し、費禕は時に元帥であり、国の重任を荷っていたのに来敏と碁を囲んで厭倦しなかった。来敏は別れに臨んで費禕に謂うには“君は必ず賊を捌けるだろう”と。その明略が内に定まり、面貌には憂色が無かったから言ったのである。それでも長寧(?)は、君子とは事に臨んで懼れ、よき謀りごとで成す者だと言っている。しかも蜀は蕞爾(偏小)の国として大敵に向かおうとしており、規れる図りごとはただ守るが戦うかだけで、どうして己に余裕がある事を矜り、晏然として憂い無くしていられよう? 費禕の性がェ簡だったからである。細微に備えず、ついには降人の郭脩に害されたのも、このとき兆しが現れており、後に禍が成ったのではなかろうか? かつて長寧が文偉に諭した事を聞き、今、元遜が呂侯に逆らった事を観て、二事が概ね同じであるがゆえに並べて記載し、後人の鏡誡とし、永らく世の鑒とするものである。 (『志林』)
[9] 諸葛恪は時に齢五十一だった。 (『呉録」)
[10] 朝臣(の中)には、諸葛恪の為に石碑を立ててその勲績を銘にしたいとする者がいたが、博士の盛沖は不相応だとした。孫休 「盛夏に軍を出し、士卒は傷損して尺寸の功とて無く、有能とは謂えない。託孤の任を受けながら、豎子の手で死んだのは、智者とは謂えない。盛沖の議が是である」。かくて寝(や)めた。 (『江表伝』)
[11] 聶友には脣吻(弁才)があり、若くして県吏となった。虞翻が交州に徙されると、県令は聶友に送らせたが、虞翻は与に語って奇とし、豫章太守謝斐に書簡を送って功曹とさせた。郡には時に功曹がおり、謝斐は通見して問うには 「県吏の聶友はどの職に堪えられようか?」 「この人は県の小吏に過ぎませんが、曹佐なら堪えられましょう」 謝斐 「論者が功曹にすべきだと言っている。君には避けてもらいたい」 かくして用いて功曹とした。使者として都に至り、諸葛恪が友とした。時論では顧子嘿顧子直の間に入り得る者はいないとされていたが、諸葛恪は聶友をその間に入れようとし、これによって名を知られた。後に将となって儋耳(海南島)を討ち、還ると丹楊太守を拝命した。齢三十三で卒した。 (『呉録』)
 
諸葛恪の信用度
 二宮の変の理解を少しでも深めるために、諸葛恪について考えました。 『演義』ベースで思いつくキーワードは“驢馬”、“家を滅ぼす子”、“七光り”、“オカルト”、“薬酒”くらい。
 出世の過程がバッサリなので、「こんな子が諸葛瑾程度の七光りでトップに就くなんて、呉って人材難なんだなぁ」と思った記憶があります。 “程度”とか云ってスンマセンした瑾さん(笑)

■ 試用期間 ■

 『三國志』では、太子のご学友に選ばれたエリートですよ〜と紹介した後、例の驢馬話を含むエピをいくつか載せています。 孔融をさらに小憎らしくしたマセガキです。 いや、そういう云い方は宜しくないので、晋の貴族社会の論戯の先駆としておきます。 利発なお子さんの印象が強かったので、試しに実務をやらせてみたら、兵糧の管理と文書事務が煩雑だからイヤ!なんだと。本当に南朝貴族的。

 次にやってみたのが、出世のきっかけとなった丹楊の山越討伐。 山越討伐といえば兵力増強。獲得兵力の何割かは部曲に編入できる不文律がありますから、孫呉の諸将が積極的に山越討伐に勤しむ所以です。

 丹楊郡といえば、長江と天目山に挟まれた山がちな、始皇帝が実質的に南限なしで設置した会稽郡と九江郡の間に、わざわざ設けられたほどの一種の特区です。そんな地勢ですから、山越やら盗賊やらが多かった土地柄です。
 剽悍な山越の居住地の中で最も中原に近く、その為か徐栄に敗れた曹操がわざわざ丹楊まで出向して募兵していますし、陶謙や劉備の兵団も中核は丹楊兵っぽく、わりと強兵の産地として認識されていたのかもです。 そういえば沈瑩の“青巾兵”なども丹楊兵です。

 諸葛恪は積極的に自薦します。3年間で甲兵4万を得てみせる、と。 傍から見れば、実地経験のない口達者なだけの若造がいきなり丹楊に着手など烏滸の沙汰です。 諸葛瑾が「こいつは我が家を大きくせぬばかりか、滅ぼしかねん」と歎じたのもこの時で、それだけの難事業です。 ですが呉にとって、この話は成果半分でも非常に魅力的です。 だからこそ、周囲の反対を押して孫権は許可します。計画の概要を知らされた上での判断でしょう。
 結果、国境封鎖と清野策で相手のジリ貧を待ち、殆ど戦闘行為を行なわずに山越兵4万を獲得し、1万を部曲に編入します。 お見事、鮮やかとしか云えません。孫権も上機嫌のようです。


■ 閣僚への途 ■

 山越狩りの成功で気を良くした諸葛恪は、今度は皖口で屯田を始めます。長江の北、国境地帯です。 全jの六安襲撃失敗の直後ですから、おそらく戦う気満々です。丹楊では大した実戦指揮はしていないのに。
 舒を襲撃して住民を拉致ってきたのは小手調べ。 寿春攻略の情報収集や事前準備に余念がありませんが、結局、稟議書に孫権の承認印は貰えませんでした。 山越狩りと魏の正規兵相手の戦いじゃワケが違うことを、百戦錬磨の孫権は身に沁みて知っています。 それに呉は全面攻勢計画を進行中で、ハッキリ云って余計な動きはしてほしくないところです。
 この全面攻勢は241年に実行されますが、芍陂の役の失敗で総崩れとなります。 諸葛恪は東路軍の陽動として六安を攻略しますが、司馬懿の南下で有無を言わせず柴桑に後退させられます。 諸葛亮もこんな具合に馬謖を管理していれば良かったのに。
 柴桑への撤収後、暫く諸葛恪の活動は沈静化させられますが、当人は丹楊での成功体験で自分信仰に入っちゃってますから、不満たらたらです。 後に丞相の陸遜に、愚痴なんだかアピールなんだか判らない手紙を出しています。 要は、「諸将は助け合い尊重し合うべきで、有能な人が品行を理由に貶められる風潮はイカンよ」という陸遜の主張を我田引水して、「自分は有能なのに足を引っ張られていますよ〜、陸孫さんも私の小さな過失には目を瞑って下さいよ〜」との内容です。
 呉志はこの手紙に対するコメントとして 「諸葛恪は、陸遜が此れを以て己を嫌っている事を知っており」 と、諸葛恪の問題点を“此れ”とボカしています。筑摩訳では 「細行を守らぬ点」としていますが、この時期の陸遜が気鋭の同志である筈の諸葛恪に辛く当るというのは不可解で、陸遜の死で諸葛恪が抜擢されたという呉志の書き方を併せ考えると、“此れ”を 「嫡庶の別を弁えない不見識」 と解釈できなくもありません。

 ところで、諸葛恪が撤収を強いられた芍陂の役の余波で諸葛瑾が歿していますが、何故か諸葛恪伝は諸葛瑾の死に触れません。 いくら爵位や部曲を引き継げなかったからって、何故?
 諸葛恪は丹楊での成功で都郷侯に封じられています。 董仲舒以降の儒教理念では孝より忠が重視されますから、爵位持ちが親の爵位を兄弟に譲ることは往々にあります。 張昭なども同じパターンで、嗣子は長子の張承ではなく、末子の張休です。
 だからって諸葛瑾の死に触れないのはねぇ…。 呉では、親に服喪するための棄官を禁じているのでその為かもしれませんが、劉秀のようなひそやかな服喪エピソードがあってもよさそうなものですが。

 諸葛恪は陸遜の死後、その後任として仮節・大将軍に進められ、武昌で荊州の事を統領します。まさに陸遜の後任です (細かいことを云えば、武昌管区の西半の軍事担当は呂岱ですが)
 その次の記述は「久之、権不予」。それからかなり経って孫権が重篤になったというもので、一気に5年が過ぎています。 ただの5年間ではなく、建業では二宮の変の真っ只中です。 随所で諸葛恪は太子派だと語られていますが、肝心の諸葛格伝はノーコメントを貫いています。 太子派の証明と言っても過言ではない曁艶や呂壹に対する批判も口にしていません。
 そもそも、諸葛恪の口八丁能弁は周知のことです。 諸葛恪が太子派なら、そんな面倒な人物を、自分に忤って当てつけがましく死んだ陸遜の後釜には据えません孫権としては。 諸葛恪の太子派論は、孫峻に殺された事による逆説的なでっち上げです。これは二宮の変で妄想してみました(^^;)。


■ 孫権からの査定評価 ■

 曰くつきの陸遜の後任ということで、孫権からの評価が気になるところです。 武昌管区の軍事については呂岱と折半ですし、江陵には朱然も健在で、どちらも席次は諸葛恪の上位です。 まぁ年齢差や履歴を考えると、この2人は諸葛恪の最終調整の教導役だったと云えなくもありません。

 孫権が託孤のために召還したという事で、最終試験も無事クリア、、、と云いたいところです。
『呉書』での話になりますが、孫亮の輔導役について朝廷は諸葛恪イチ押しで、しかも孫権の寵臣の孫峻も積極的に推していましたが、肝心の孫権は諸葛恪が我意のゴリ押しをすることを危ぶんで渋り、それでも消去法で諸葛恪を呼び寄せたとのことです。 又た重篤となって万事の決裁を諸葛恪に委ねた際も、死刑などの重大事案については事後報告をさせるように詔勅で周知させたそうです。
 「口達者な子供は長じても軽佻である」との経験情報があったのか、孫権はついに諸葛恪に全幅の信頼は寄せなかったようです。 時に諸葛恪は50歳。嘗て父親より劣ると評価した諸葛亮が託孤された年齢は、7年前に超えています。 諸葛恪としては、「必要なら取って替れ」くらいは云われたかったことでしょう。

 諸葛恪に対する孫権の信頼はこんなですから、ストッパー役をあてがったのは想像に難くありません。 諸葛恪伝にある孫亮の輔導役は、諸葛恪(大将軍・太子太傅)・滕胤(太常)・呂拠(盪魏将軍・太子右部督)・孫弘(中書令・太子少傅)・孫峻(侍中)。 席次なら滕胤ですが、孫権の見舞いに上京したら思いつきで…って流れなので役者不足です。
 おそらく孫権の構想では孫弘だったと思われます。 もともと中書令として内官の筆頭でしたし、諸葛恪と同じタイミングで太子傅を加官されていますし。

 孫弘は結局、孫権が歿した直後に諸葛恪排除計画とやらを孫峻に密告されて粛清されます。 孫権の意を汲んで孫和派を弾圧した事、孫亮の輔導役を諸葛恪と争った事で歴史的にも奸臣認定されました。 そのせいで独立した伝も、伝らしきものも立てられていません。会稽出身という他は、字名も官歴も不明です。

   

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