三國志修正計画

三國志卷五十五 呉志十/程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁傳 (二)

甘寧

 甘寧字興霸、巴郡臨江人也。少有氣力、好游侠、招合輕薄少年、為之渠帥;羣聚相隨、挾持弓弩、負毦帶鈴、民聞鈴聲、即知是寧。人與相逢、及屬城長吏、接待隆厚者乃與交歡;不爾、即放所將奪其資貨、於長吏界中有所賊害、作其發負、至二十餘年。止不攻劫、頗讀諸子、乃往依劉表、因居南陽、不見進用、後轉托黄祖、祖又以凡人畜之。

 甘寧、字は興霸。巴郡臨江の人である[1]。若い頃から気力があり、遊侠を好み、軽薄少年を招合してその渠帥となった。群れ聚って相い随い、弓弩を挟持し、毦(旄/毛飾り)を負って鈴を帯び、民は鈴の声を聞くや甘寧だと知った[2]。人と逢う場合、所属する城の長吏であっても接待する事が隆厚であれば交歓したが、そうでなければ率いる者を放ってその資貨を奪わせ、長吏の界中に賊害があれば、その発検(摘発)を請負った。二十余年に至って止めて攻劫せず、頗る諸子を読み、かくして往って劉表に依ろうとして南陽に居したが、進用されず、後に転じて黄祖に託したが、黄祖も又た凡人として畜(やしな)った[3]

 二十余年間、巴郡で好き放題やってから南陽に遷ったとありますが、ここではその理由が述べられていません。『英雄記』(劉焉伝注)によると、劉焉の死を機に李傕・劉表らが劉璋による世襲阻止を図り、これに同調した者の中に甘寧の名があります。事に敗れた甘寧が荊州に奔ったのも尤もな事です。このとき甘寧は恐らく四十路に突入していた筈で、孫堅や程普・黄蓋らと同世代です。地元を逐われた元ヤクザの小親分が、落ちぶれ果てて冷や飯組に甘んじた態です。

 於是歸呉。周瑜・呂蒙皆共薦達、孫權加異、同於舊臣。寧陳計曰:「今漢祚日微、曹操彌憍、終為簒盜。南荊之地、山陵形便、江川流通、誠是國之西勢也。寧已觀劉表、慮既不遠、兒子又劣、非能承業傳基者也。至尊當早規之、不可後操。圖之之計、宜先取黄祖。祖今年老、昏耄已甚、財穀並乏、左右欺弄、務於貨利、侵求吏士、吏士心怨、舟船戰具、頓廢不脩、怠於耕農、軍無法伍。至尊今往、其破可必。一破祖軍、鼓行而西、西據楚關、大勢彌廣、即可漸規巴蜀。」權深納之。張昭時在坐、難曰:「呉下業業、若軍果行、恐必致亂。」寧謂昭曰:「國家以蕭何之任付君、君居守而憂亂、奚以希慕古人乎?」權舉酒屬寧曰:「興霸、今年行討、如此酒矣、決以付卿。卿但當勉建方略、令必克祖、則卿之功、何嫌張長史之言乎。」權遂西、果禽祖、盡獲其士衆。遂授寧兵、屯當口。

 ここに呉に帰した。周瑜・呂蒙は皆な共に薦達し、孫権は殊遇を加えて旧臣と同じくした。甘寧が計りごとを陳べるには

「今、漢祚は日々に微かとなり、曹操はいよいよ憍慢で、終には簒盜しましょう。南荊の地は山陵の形勢が宜しく、江川が流通し、誠にこれは国の西勢たるものです。私が已に劉表を観た処、思慮は遠からず、児子も又た劣弱で、業を承けて基を伝える事はできますまい。至尊としては早々にこれを規図し、曹操に後れてはなりません。これを図る計りごととしては、先ず黄祖を取るべきです。黄祖は今や年老い、昏耄すること已に甚だしく、財穀はともに乏しいのに、左右の者は欺弄して貨利に務め、吏士を侵求しております。吏士は心中で怨んでおり、舟船や戦具はとみに廃されて修繕されず、耕農を怠り、軍には法も隊伍もありません。至尊が今往けば、破るのは必定です。一たび黄祖の軍を破った後、鼓行して西し、西のかた楚関に拠り、大勢をいよいよ広めれば、やがては巴蜀を規定する事もできましょう」 。

孫権は深く納れた。張昭が時に坐に在り、論難して 「呉下は業業(事業で忙しい)としており、もし軍が果たして行けば、恐らくは必ず乱れよう」 。甘寧が張昭に謂うには 「国家は蕭何の任を君に付したのです。君は居守しながら乱を憂えるとは、どうして古人を希慕していると謂えましょう?」 。孫権は酒を挙げて甘寧に属(つ)ぎ 「興霸よ、今年の行討はこの酒のように決して卿に付そう。卿はただ方略を建てる事に勉め、必ず黄祖に克って卿の功とせよ。どうして張長史の言葉を嫌忌しよう」 。
孫権はかくて西し、果たして黄祖を禽え、その士衆を尽く獲た[4]。かくて甘寧は兵を授かり、当口[※]に屯した。

※ 夏口の事かと思われます。当利口との説もありますが、実績もない転向者の甘寧を監視の行き届きにくい場所に置くとは思えません。信用性の問題として。

 後隨周瑜拒破曹公於烏林。攻曹仁於南郡、未拔、寧建計先徑進取夷陵、往即得其城、因入守之。時手下有數百兵、并所新得、僅滿千人。曹仁乃令五六千人圍寧。寧受攻累日、敵設高樓、雨射城中、士衆皆懼、惟寧談笑自若。遣使報瑜、瑜用呂蒙計、帥諸將解圍。後隨魯肅鎮益陽、拒關羽。羽號有三萬人、自擇選鋭士五千人、投縣上流十餘里淺P、云欲夜渉渡。肅與諸將議。寧時有三百兵、乃曰:「可復以五百人益吾、吾往對之、保羽聞吾欬唾、不敢渉水、渉水即是吾禽。」肅便選千兵益寧、寧乃夜往。羽聞之、住不渡、而結柴營、今遂名此處為關羽P。權嘉寧功、拜西陵太守、領陽新・下雉兩縣。

 後に周瑜が烏林に曹操を拒破するのに随った。曹仁を南郡に攻め、未だ抜けぬうち、甘寧は先んじて径(こみち)を進んで夷陵を取る計りごとを建て、往って即座にその城を得、入ってこれを守った。時に手下には数百人があり、新たに得た者を併せても僅かに千人を満たすだけだった。曹仁はかくして命じて五・六千人で甘寧を囲ませた。甘寧は攻撃を受けること累日であり、敵は高楼を設け、城中に雨と射かけ、士衆は皆な懼れたが、ただ甘寧は談笑すること自若としていた。遣使して周瑜に(窮状を)報じ、周瑜は呂蒙の計を用い、諸将を帥いて囲みを解いた。

 周瑜伝・呂蒙伝を読むと、甘寧による夷陵襲取は戦略には組み込まれていない突発的な措置である事が、包囲された甘寧が急を告げてから援軍の段取りが討議された事から判ります。本当に殊遇を加えられるほどに重んじられていたなら、こんな「行ってこい」の作戦には投入しませんて。又たここで周瑜・程普ら主力が甘寧救援に動き、校尉ですらない淩統に本営の守備を委ねたのは、まさかと思っていた要衝/夷陵の攻略に成功してしまい、慌ててその確保と維持に動いたと勘繰れてしまいます。

後に魯粛が益陽に鎮守して関羽を拒ぐのに随った。関羽は三万人の所有を号し、自ら鋭士五千人を択選して懸(へだて)ること上流十余里の浅瀬に投じ、夜間に渡渉せんと云った。魯粛は諸将と議した。甘寧は時に三百の兵を有しており、かくして 「五百人を私に益してもらえれば、私が往って相対しましょう。きっと関羽は私の欬唾を聞けば、渉水しようとは致しますまい。渉水すれば私の禽となりましょう」 と。魯粛はただちに千兵を選んで甘寧に益し、甘寧はかくして夜間に往った。関羽はこれを聞くと駐まって渡らず、柴で営を結んだ。今、名付けて此処を関羽瀬としている。孫権は甘寧の功を嘉し、西陵太守に拝し、陽新・下雉の両県を所領させた。

 割と謎な両者の対応です。関羽が 「欲夜渉渡」 と云い、甘寧が 「羽聞吾欬唾、不敢渉水」 と確信している点から、関羽は武力衝突を避けて情報戦だけで凌ごうとし、呉にもそれが見透かされていたように思えます。当時、劉備は荊州を関羽に丸投げして益州に行っていますが、孫権との契約をどうするかなど指示も対策も一切していなかったらしいので、関羽としては全面衝突はしたくとも出来なかった事でしょう。甘寧の 「渉水即是吾禽」 の根拠はハッキリしませんが、甘寧なりのハッタリかと思われます。
 それにしても、甘寧の手勢が夷陵攻略直前より減っている事に驚きです。わりと要将っぽく書かれてきましたが、損兵補充すら満足に行なわれていないのがこの時点での甘寧の立場という事でしょう。

 後從攻皖、為升城督。寧手持練、身縁城、為吏士先、卒破獲朱光。計功、呂蒙為最。寧次之、拜折衝將軍。

 後に皖を攻めるのに従い、升城督となった。甘寧は手ずから練り絹を持ち、身ずから城に縁(すが)って吏士に先んじ、たちまち朱光を破って獲えた。功を計り、呂蒙を最とし、甘寧はこれに次ぎ、折衝将軍を拝命した。

 升城督。読んで名の如く、城に昇る部隊の長で、要は斬り込み隊長です。城攻めの中でも死亡率の最も高い仕事を回され、背後には甘寧を督に推薦した呂蒙が自ら精鋭を率いて督戦隊然として続いています。時に甘寧は既に還暦前後で、老将にはかなり苛酷な仕事です。勿論、廉頗や馬援を持ち出すまでも無く、同時代にも黄蓋や黄忠の様な最前線を好む矍鑠たる老将がいるので甘寧に対する措置が苛酷だとは一概には云えませんが、甘寧の場合は一軍の将でもなく、又た寒門である若造の指揮下に置かれているあたりからその胸中が察せられます。

 後曹公出濡須、寧為前部督、受敕出斫敵前營。權特賜米酒衆殽、寧乃料賜手下百餘人食。食畢、寧先以銀盌酌酒、自飲兩盌、乃酌與其都督。都督伏、不肯時持。寧引白削置膝上、呵謂之曰:「卿見知於至尊、熟與甘寧?甘寧尚不惜死、卿何以獨惜死乎?」都督見寧色氏A即起拜持酒、通酌兵各一銀盌。至二更時、銜枚出斫敵。敵驚動、遂退。寧益貴重、摯コ二千人。

 後に曹操が濡須に出戦すると、甘寧は前部督となり、敕を受け、出撃して敵の前営を斫るようにと。孫権は特に米酒を軍兵に殽(ふるま)うよう下賜し、甘寧は料って手下の百余人に食事として賜った。食を畢えると、甘寧は率先して銀盌で酒を酌み、自ら両盌を飲み、ついで酌んでその都督に与えた。都督は伏してすぐには持つ事を肯んじなかった。甘寧は白削(白刃)を引き抜いて膝上に置き、呵って謂うには 「卿が至尊に知遇されている事と、私とでは孰れか? 私は尚お死を惜しまぬのに、卿はどうして独り死を惜しむのか?」 。都督は甘寧の顔色が獅オいのを見ると、即座に起って拝して酒を持ち、兵の各々に一銀盌ずつ通酌した。二更の時に至り、枚を銜んで出撃して敵を斫った。敵は驚動し、かくて退いた。甘寧は益々貴重され、兵二千人を増された[5]

 翌年の張遼の合肥での奮迅を知っている身としては、甘寧の武勇を孫権が信頼しきっているかのように錯覚する事案ですが、この濡須の役では序盤で董襲が溺死するなど孫呉には劣勢で、明かに孫権の無茶振りです。孫権の命令を翻訳すると、「失敗したら死ねよ」 となります。時に甘寧は六十云歳。ますます貴重されたのは、どんな無茶振りも通用する“都合のいい駒”に対する評価に違いない。

 寧雖麤猛好殺、然開爽有計略、輕財敬士、能厚養健兒、健兒亦樂為用命。建安二十年、從攻合肥、會疫疾、軍旅皆已引出、唯車下虎士千餘人、并呂蒙・蔣欽・淩統及寧、從權逍遙津北。張遼覘望知之、即將歩騎奄至。寧引弓射敵、與統等死戰。寧弱゚問鼓吹何以不作、壯氣毅然、權尤嘉之。

 甘寧は麤猛(粗猛)にして殺人を好むとはいえ、開爽(快闊爽快)にして計略があり、財を軽んじて士を敬い、厚く健児を養う事ができたので、健児も亦た用命を為す事を楽(よろこ)んだ。建安二十年(215)、合肥を攻めるのに従い、たまたま疫疾によって軍旅は皆な已に引き揚げ退出し、ただ(孫権の)車下の虎士千余人と、併せて呂蒙・蔣欽・淩統および甘寧が逍遙津の北で孫権に従った。張遼は覘望(望見)してこれを知るや、即座に歩騎を率いて奄至(急襲)した。甘寧は弓を引いて敵に射かけ、淩統らと死戦した。甘寧は声を獅ワして鼓吹に問うには、どうして(楽を)作さぬのかと。壮気は毅然としており、孫権はこれを嘉して尤(最)とした[6]

 寧廚下兒曾有過、走投呂蒙。蒙恐寧殺之、故不即還。後寧齎禮禮蒙母、臨當與升堂、乃出廚下兒還寧。寧許蒙不殺。斯須還船、縛置桑樹、自挽弓射殺之。畢、敕船人更昜v纜、解衣臥船中。蒙大怒、撃鼓會兵、欲就船攻寧。寧聞之、故臥不起。蒙母徒跣出諫蒙曰:「至尊待汝如骨肉、屬汝以大事、何有以私怒而欲攻殺甘寧?寧死之日、縱至尊不問、汝是為臣下非法。」蒙素至孝、聞母言、即豁然意釋、自至寧船、笑呼之曰:「興霸、老母待卿食、急上!」寧涕泣歔欷曰:「負卿。」與蒙倶還見母、歡宴竟日。

 甘寧の厨下児(料理人)に嘗て過ちがあり、呂蒙に走り投じた。呂蒙は恐らくは甘寧がこれを殺すと考え、ゆえに即座には還さなかった。後に甘寧は礼物を齎して呂蒙の母に礼接し、事に臨んで与に堂に昇った。かくして厨下児を出して甘寧に還し、甘寧は殺さない事を呂蒙に許(みと)めた。少しして船に還ると、(厨下児)を桑樹に縛置し、自ら弓を挽いてこれを射殺した。畢えると船人に命じて更めて舸船の纜(ともづな)を増し、衣を解いて船中に臥した。呂蒙は大いに怒り、鼓を撃って兵を会同させ、船に就いて甘寧を攻めようとした。甘寧はこれを聞いても臥して起たなかった。
呂蒙の母は徒跣して出ると呂蒙を諫めて 「至尊は汝を骨肉のように待遇し、汝に大事を嘱託しています。どうして私怒によって甘寧を攻め殺そうとするのですか? 甘寧が死ねば、たとえ至尊が問わずとも、汝は臣下としての法ならざるをした事になります」。呂蒙は素より至孝であり、母の言葉を聞くと豁然として意を釈き、自ら甘寧の船に至り、笑ってこれを呼んで 「興霸よ、老母が卿を食事に待っている。急ぎ上られよ!」 と甘寧は涕泣歔欷して 「卿には世話をかけた」 。呂蒙と倶に還って母に見(まみ)え、歓宴して日を竟(お)えた。

 自暴自棄で料理人を殺した甘寧が、死を覚悟していたら助命されて感動した、という逸話です。朱桓のような突発噴火というより、溜りに溜った鬱憤を覚悟の上で爆発させたという印象ですが、ここまで、呂蒙との間が特に険悪という描写はありません。甘寧と呂蒙の出身階級は似たり寄ったりで、年齢差は20歳以上。なのに呉での立場は雲泥の差で、甘寧としては 「どうしてこうなった」 感が激発したといった印象です。呂蒙の母の 「縱至尊不問」 が、両者の関係を際立たせています。孫権が呂蒙の甘寧殺しを不問に付す可能性が大きくなければこんな発言は出る訳は無く、つまり孫権にとって甘寧は“その程度”だと周知されていた事になります。

 寧卒、權痛惜之。子瓌、以罪徙會稽、無幾死。

 甘寧が卒すると、孫権は痛惜した。子の甘瓌は、罪によって会稽に徙され、幾許も無く死んだ。

 「權痛惜之」 とは白々しい記述です。例えば呂蒙や淩統は別格としても、孫権が本当に惜しんだ場合は、遺族に対する追加措置が必ずと云っていいほど記されています。それが無いという事はそう云う事で、実際、甘寧の部曲は相続されずに潘璋の麾下に組み込まれています。孫権が惜しんだのは、思いの外に働く、使いつぶし甲斐のある捨て駒という役割に対してでしょう。

 
[1] 甘寧は本来は南陽人で、その先祖が巴郡に客居したものである。甘寧は吏となって計掾に挙げられ、蜀郡丞に補任されたが、暫くして棄官して家に帰った。 (『呉書』)
[2] 甘寧は軽侠であり、人を殺し、亡命者を舎に隠し、(その名は)郡中に聞こえた。出入りには、歩路では車騎を陳ね、水路では軽舟を連ね、侍従には紋様の繍を被らせ、随所で道路を輝かせ、駐止には常に暑ムで舟を繋ぎ、去るに際して割棄して豪奢を示す事もあった。 (『呉書』)
[3] 甘寧は僮客八百人を率いて劉表に就いた。劉表は儒人であって、軍事には通じなかった。時に諸々の英豪は各々兵を起していたが、甘寧は劉表の事業と勢いを観て、終には必ず成功しないと考え、一朝に土崩するのに併せてその禍を受ける事を恐れ、東のかた呉に入ろうとした。黄祖が夏口に在って軍は通過できず、かくして留まって黄祖に依ること三年。黄祖は礼遇しなかった。孫権が黄祖を討ち、黄祖の軍は敗れて奔走し、追兵は急しかった。甘寧は射に善い事から、兵を率いて後衛となり、校尉淩操を射殺した。黄祖は免れると軍事を罷めて営に還ったが、甘寧の待遇は当初の通りだった。黄祖の都督の蘇飛がしばしば甘寧を薦めたが、黄祖は用いず、人に命じてその食客を誘わせ、食客はようよう失われた。甘寧は去ろうとしたが、免れられない事を恐れ、独り憂悶して為し様を知らなかった。蘇飛はその意思を知り、かくして甘寧に求めて置酒(開宴)して謂うには、「私は子を薦めることしばしばだが、主は用いようとせぬ。日月は逾邁(慌しく過ぎ)し、人生は幾許ぞ。自ら遠きを図り、知己に遇う事をこいねがわれるのが宜しかろう」 。甘寧は良や久しくして 「その意志はあるのだが、誰に由るべきか判らないのだ」 。蘇飛 「私は子を邾県長(黄岡市区)にするよう言上しよう。こうすれば去就は板に臨んで丸を転がすようなものであろう?」 。甘寧 「幸甚であります」 。蘇飛が黄祖に上言すると、甘寧が県に行く事を聴許した。亡客を招懐して義従者を併せ、数百人を得た。 (『呉書』)

 邾県といえば黄祖にとって東方の最前線の一角で、要地であれば冷遇する程度の相手を置く筈もなく、又た捨て石にするにしても信用できない相手を置くような場所ではありません。これに限らず、『呉書』は甘寧を持ち上げるべく随所で苦しい工作をしてるように読めてしまいます。

[4] 孫権は黄祖を破る当初、先んじて両函を作り、(その中に)黄祖および蘇飛の首を盛ろうとした。蘇飛は人に命じて甘寧に急を告げさせた。甘寧 「蘇飛がもし言わずとも、私がどうして忘れよう?」 。孫権が諸将と置酒すると、甘寧は席を下って叩頭し、血と涕とが交々流れた。孫権に言うには 「蘇飛には疇昔に旧恩があり、私は蘇飛に遇わねば間違いなく已に溝壑に骸を損い、麾下にて命を致すことも出来なかったでしょう。今、蘇飛の罪は夷戮に当りますが、特に将軍にその首領(首頸)を乞うものであります」 。孫権はその言辞に感情を動かして謂うには 「今は君の為にそうしようが、もし走去したらどうする?」 。甘寧 「蘇飛は分裂の禍を免れ、更生の恩を受けたなら、これを逐おうとも尚お必ず走りません。どうして逃亡など図りましょうか! もしそうしたら、私の頭を代りに函にお入れ頂きたい」 。孫権はかくして赦した。 (『呉書』)
[5] 「曹操は濡須に出征すると、歩騎四十万で江に臨んで馬に飲ませると号した。孫権は軍兵七万を率いてこれに応じ、甘寧に三千人を典領させて前部督とした。孫権は密かに甘寧に命じ、夜間に魏軍に入らせた。甘寧はかくして手下の健児百余人を選び、ただちに曹操の営下に詣り、鹿角を抜かせ、塁を踰えて営に入り、数十級を斬得した。北軍は驚駭して鼓を譟がしくし、火を挙げること星の如くであったが、甘寧は已に営に還入しており、鼓吹させて万歳を称した。夜間に孫権にまみえると、孫権は喜び 「老子を充分に驚駭させたか? 聊か卿の胆力を観る事ができた」 。即座に絹千疋、刀百口を賜った。孫権 「孟徳には張遼がいるが、孤ぶが興霸がおる。匹敵するに足るというものだ」 。停駐すること月余、北軍はすばやく退いた。 (『江表伝』)
[6] 淩統は甘寧がその父の淩操を殺した事を怨んでおり、甘寧は常に淩統に備えて相いまみえようとはしなかった。孫権も亦た淩統に命じて讐を討たせなかった。嘗て呂蒙の舎で宴会した事があり、酒酣となり、淩統は刀を以て舞った。甘寧は起って 「私は双戟を舞えるぞ」 。呂蒙 「甘寧ができるとはいえ、私の巧みさには及ぶまい」 。こうして刀を操って楯を持ち、身を以て両者を分けた。後に孫権は淩統の意を知ると、甘寧に兵を率いて半州(江西省南昌市安義)に徙屯するよう命じた。 (『呉書』)
 

淩統

 淩統字公績、呉郡餘杭人也。父操、輕侠有膽氣、孫策初興、毎從征伐、常冠軍履鋒。守永平長、平治山越、奸猾斂手、遷破賊校尉。及權統軍、從討江夏。入夏口、先登、破其前鋒、輕舟獨進、中流矢死。

 淩統、字は公績。呉郡餘杭の人である。父の淩操は軽剽な侠客で胆気があり、孫策が興った当初から毎(つね)に征伐に従い、常に軍の冠(先頭)として鋒を履んだ。永平県長を守し、山越を平治すると奸猾は手を斂(おさ)め、破賊校尉に遷った。孫権が事を統べるに及び、江夏討伐に従った。夏口に入ると先登し、その前鋒を破り、軽舟で独り進み、流矢に中って死んだ

 淩統父子は『演義』などでは凌氏と記されています。凌姓には複数の出自があり、百度百科によれば、伏羲氏由来の泗陽凌氏・西周の衛康叔の子が官職に因んで分家した凌氏・西漢の陵墓官に因んだ凌氏・魏の凌江将軍に因んだ凌氏・鮮卑拓跋部から分れた凌氏などがあるそうです。魏の凌江将軍というと羅憲がおりますが。淩統の出自と思われる泗陽凌氏は淩水・淩県に因んだものです。

 統年十五、左右多稱述者、權亦以操死國事、拜統別部司馬、行破賊都尉、使攝父兵。後從撃山賊、權破保屯先還、餘麻屯萬人、統與督張異等留攻圍之、克日當攻。先期、統與督陳勤會飲酒、勤剛勇任氣、因督祭酒、陵轢一坐、舉罰不以其道。統疾其侮慢、面折不為用。勤怒詈統、及其父操、統流涕不答、衆因罷出。勤乘酒凶悖、又於道路辱統。統不忍、引刀斫勤、數日乃死。及當攻屯、統曰:「非死無以謝罪。」乃率試m卒、身當矢石、所攻一面、應時披壞、諸將乘勝、遂大破之。還、自拘於軍正。權壯其果毅、使得以功贖罪。

 (時に)淩統は齢十五であり、(孫権の)左右には称え述べる者が多く、孫権も亦た淩操が国事で死んだ為、淩統を別部司馬に拝し、破賊都尉として父の兵を摂領させた。後に山賊を撃つのに従った時、孫権は保屯を破って先に還ったが、余る麻屯は万人を擁しており、淩統は督の張異らと留まってこれを攻囲し、日を克(さだ)めて攻めようとした。期日に先んじて、淩統は督の陳勤と会して飲酒した。陳勤は剛勇にして気に任せ、督として祭酒して一座を陵轢し、罰盃を挙げるにも常道を外れたものだった。淩統はその侮慢を疾(にく)み、面折して(令を)用いなかった。陳勤は怒って淩統を罵り、(言葉は)その父の淩操に及び、淩統は流涕して答えず、人々はこれにより罷会して退出した。陳勤は酒に乗じて凶悖となっており、又た道路で淩統を辱めた。淩統は忍耐できず、刀を引き抜いて陳勤を斫り、数日して死んだ。麻屯を攻めるに及び、淩統は 「死ぬ以外に謝罪できない」と。かくして士卒を率い獅ワし、身ずから矢石に当り、攻めた一面はたちまち壊され、諸将は勝ちに乗じたのでこれを大破した。還ると自ら軍正に拘束された。孫権はその果毅を壮とし、功によって罪を贖わせた。

 後權復征江夏、統為前鋒、與所厚健兒數十人共乘一船、常去大兵數十里。行入右江、斬黄祖將張碩、盡獲船人。還以白權、引軍兼道、水陸並集。時呂蒙敗其水軍、而統先搏其城、於是大獲。權以統為承烈都尉、與周瑜等拒破曹公於烏林、遂攻曹仁、遷為校尉。雖在軍旅、親賢接士、輕財重義、有國士之風。

 後に孫権が復た江夏を征伐した時、淩統は前鋒となり、厚遇している健児数十人と共に一船に乗り、常に大兵(本隊)を去る数十里に位置した。行って右江に入り、黄祖の将の張碩を斬り、船人を尽く獲た。還って孫権に白(もう)し、軍を引率して兼道倍行し、水陸とも揃い集った。この時、呂蒙がその水軍を敗り、淩統は先行してその城を搏ち、ここに大いに(勝ちを)獲た。孫権は淩統を承烈都尉とし、周瑜らと与に烏林に曹操を拒破させ、曹仁を攻め、遷して校尉とした。軍旅に在るとはいえ、賢に親しみ士に接し、財を軽んじて義を重んじ、国士の風があった。

 具体例を挙げないままテンプレ的な褒め言葉だけ並べたあたりに、孫権が淩統を偏愛した理由を探すのに『呉書』の著者が苦労した事が窺われます。淩統に功績が無いわけでは決してありませんが、その昇進に孫権の意向が大きく作用している事もまた事実です。

 又從破皖、拜盪寇中郎將、領沛相。與呂蒙等西取三郡、反自益陽、從往合肥、為右部督。時權徹軍、前部已發、魏將張遼等奄至津北。權使追還前兵、兵去已遠、勢不相及、統率親近三百人陷圍、扶扞權出。敵已毀橋、橋之屬者兩版、權策馬驅馳、統復還戰、左右盡死、身亦被創、所殺數十人、度權已免、乃還。橋敗路絶、統被甲潛行。權既御船、見之驚喜。統痛親近無反者、悲不自勝。權引袂拭之、謂曰:「公績、亡者已矣、苟使卿在、何患無人?」拜偏將軍、倍給本兵。

 又た皖を破るのに従い、盪寇中郎将を拝命し、沛相を兼領した。呂蒙らと与に西の三郡を取り、益陽より反って合肥に往くのに従い、右部督となった。この時に孫権は軍を徹収し、前部が已に発した後、魏将の張遼らが奄(たちま)ち津北に至った。孫権は追って前兵を還させたが、兵は去ること已に遠く、勢いとして及ぶ事ができず、淩統は親近三百人を率いて囲みを陥し、孫権を扶け扞(まも)りつつ脱出した。敵は已に橋を毀ち、橋に属(のこ)っているのは両版のみだった。孫権は馬に策(むち)して駆馳し、淩統も復た還って戦い、左右は尽く死に、身ずからも亦た被創しつつ数十人を殺し、孫権が已に免れたと度(はか)って還った。橋は敗れ路は絶えており、淩統は被甲して潜水して行った。孫権は既に船にあり、これを見て驚喜した。淩統は親近で反った者が無い事を痛み、悲しみに勝えなかった。孫権は袂を引き寄せてこれを拭きつつ謂うには 「公績よ、亡者の事はどうしようもない。卿が健在であるのだから、どうして人が無いなどと憂患しよう?」 [1]。偏将軍に拝し、本兵に給して倍とした。

 時有薦同郡盛暹於權者、以為梗槩大節、有過於統、權曰:「且令如統足矣。」後召暹夜至、時統已臥、聞之、攝衣出門、執其手以入。其愛善不害如此。

 時に同郡の盛暹を孫権に薦める者がおり、梗槩(慷慨)大節は淩統を越えるものがあると。孫権は 「淩統のようであれば充分だ」 と。後に盛暹を召した処、夜半に至り、時に淩統は已に臥していたが、これを聞くや衣服を摂って門に出迎え、その手を執って入った。その善を愛して害さないのはこの通りであった。

 統以山中人尚多壯悍、可以威恩誘也、權令東占且討之、命敕屬城、凡統所求、皆先給後聞。統素愛士、士亦慕焉。得精兵萬餘人、過本縣、歩入寺門、見長吏懷三版、恭敬盡禮、親舊故人、恩意益隆。事畢當出、會病卒、時年四十九二十九。權聞之、拊牀起坐、哀不能自止、數日減膳、言及流涕、使張承為作銘誄。

 淩統は山中人(山越)には尚お壮悍な者が多く、威恩によって誘えるとした。孫権は東を占(覘)ってこれを討たせ、属城に命じるには、凡そ淩統の求めには、皆な先ず給してから後に奏聞するようにと。淩統は素より士を愛し、士も亦た慕った。精兵万余人を得、本県を過ぎる際に歩いて寺門(庁舎)に入り、長吏に見(まみ)えるに三版(三枚の名刺?)を懐き、恭敬にして礼を尽し、親しい旧故(旧知)の人への恩意も益々隆盛だった。事を畢えて転出しようとした時、たまたま病で卒した。時に齢二十九だった。孫権はこれを聞くと、牀を拊(う)って起坐し、哀しみを止める事ができず、数日は膳を減じ、(淩統の事に)言及すれば流涕し、張承に銘誄(墓碑文)を作らせた。

 本文では四十九歳で死亡となっていますが、淩統の死後にその兵を引き継いだ駱統が228年に36歳で歿しているので、淩統の享年は二十九歳だとされています。

 二子烈・封、年各數歳、權内養於宮、愛待與諸子同、賓客進見、呼示之曰:「此吾虎子也。」及八九歳、令葛光教之讀書、十日一令乘馬、追録統功、封烈亭侯、還其故兵。後烈有罪免、封復襲爵領兵。

 二子の淩烈・淩封の齢は各々数歳で、孫権は宮中でこれを養い、愛待すること諸子と同じく、賓客が進見するとこれを呼び示して 「これは私の虎子だ」と。八・九歳に及び、葛光に命じて読書を教えさせ、十日に一度は乗馬させた。淩統の功を追録し、淩烈を亭侯に封じてその故兵を還した。後に淩烈は罪があって罷免され、淩封が復た襲爵して兵を典領した[2]
[1] 淩統の創は甚だしく、孫権は舟に淩統を留め、尽くその衣服を易えた。その創は卓氏の良薬を得た事で死なずにすんだ。 (『呉書』)
[2] 孫盛曰く、孫権が士を養うのを観るに、傾心竭思する事でその死力を求めた。周泰の傷に泣き、陳武の妾を殉死させ、呂蒙の命を(天に)請い、淩統の孤を育てるなど、(自ら)卑曲苦志してこのように勤めた。これゆえ令名や徳が聞こえず、仁沢が著しくは無かったとはいえ、荊呉の彊きを屈服させ、僭擬すること年歳だったのは、そもそも理由があったからである。しかし霸王の道とは、大にして遠きを期すもので、これによって先王は徳義の基を建て、信と順の堂宇を盛んにし、経略の綱紀を制し、貴賤の序列を明らかにする事で、(体制を)簡易にしてその親しきを久しくし、大体を全うしてその功を大きくした。どうして璅細な事に随って近きに務め、当面の利を追い求めるのか? 『論語』の 「小道であっても必ず観る者はある。遠きに致らんとするには(瑣末事に)拘泥する事を恐る」 とは、この事を謂うのである!

 孫権の行ないは上に立つ者としてそれなりには立派だが、一身の事に終始して国家百年の計に欠けており、とうてい帝王の器ではない、という事らしいです。

 

徐盛

 徐盛字文嚮、琅邪莒人也。遭亂、客居呉、以勇氣聞。孫權統事、以為別部司馬、授兵五百人、守柴桑長、拒黄祖。祖子射、嘗率數千人下攻盛。盛時吏士不滿二百、與相拒撃、傷射吏士千餘人。已乃開門出戰、大破之。射遂絶迹不復為寇。權以為校尉・蕪湖令。復討臨城南阿山賊有功、徙中郎將、督校兵。

 徐盛、字は文嚮。琅邪莒の人である。乱世に遭って呉に客居し、勇気によって聞こえた。孫権は事を統べると(徐盛を)別部司馬とし、兵五百人を授けて柴桑県長を守(か)ねさせ、黄祖を拒がせた。黄祖の子の黄射が、あるとき数千人を率いて下って徐盛を攻めた。徐盛の当時の吏士は二百に満たなかったが、相い拒撃し、射て吏士千余人を傷めた。それから開門して出戦し、大いにこれを破った。黄射はかくて迹を絶って再びは寇しなかった。孫権は校尉・蕪湖令とした。復た臨城県(安徽省池州市青陽)の南に阿(つら)なる山賊を討って功があり、中郎将に徙り、兵を督校した。

 曹公出濡須、從權禦之。魏嘗大出江、盛與諸將倶赴討。時乘蒙衝、遇迅風、船落敵岸下、諸將恐懼、未有出者、盛獨將兵、上突斫敵、敵披退走、有所傷殺、風止便還、權大壯之。

 曹操が濡須に出戦すると、孫権がこれを禦ぐのに従った。(この時)魏が大いに横江に出征した為、徐盛は諸将と倶に赴討した。このとき蒙衝に乗っていたが、迅風に遇い、船は敵の岸下に落ちた。諸将は恐懼して出ようとする者はいなかったが、徐盛は独り兵を率い、上陸して敵を突斫し、敵が披散して退走するのを傷殺した。風が止むとたちまち還り、孫権は大いに壮とした。

 この戦役は悪天候によって呉軍不利でスタートしたもので、局面打開のために甘寧が人柱にされかけたりしたものです。本伝では次に魏の黄初二年に飛びますが、その間に周泰の統制を不服として孫権が来駕したり、合肥の役では張遼を畏れる麾下を統制できなかったばかりか、軍矛を喪って賀斉が奪回するなど、向う意気の強い粗忽者との印象があります。

 及權為魏稱藩、魏使邢貞拜權為呉王。權出都亭候貞、貞有驕色、張昭既怒、而盛忿憤、顧謂同列曰:「盛等不能奮身出命、為國家并許洛、呑巴蜀、而令吾君與貞盟、不亦辱乎!」因涕泣流。貞聞之、謂其旅曰:「江東將相如此、非久下人者也。」

 孫権が魏に称藩するに及び、魏使の邢貞が孫権を拝して呉王とした。孫権は都亭に出て邢貞を候(ま)ち、邢貞には驕色があった。張昭は怒っていたが、徐盛も忿憤し、顧みて同列の者に謂うには 「我らは奮身出命しながらも国家の為に許・洛を併せ、巴・蜀を併呑もできず、吾が君に邢貞と盟わせてしまった。なんたる屈辱か!」 涕泣して横(ほほ)を流れた。邢貞はこれを聞き、同旅人に謂うには 「江東の将相がこの様では、久しくは人の下にはおるまい」

 後遷建武將軍、封都亭侯、領廬江太守、賜臨城縣為奉邑。劉備次西陵、盛攻取諸屯、所向有功。曹休出洞口、盛與呂範・全j渡江拒守。遭大風、船人多喪、盛收餘兵、與休夾江。休使兵將就船攻盛、盛以少禦多、敵不能克、各引軍退。遷安東將軍、封蕪湖侯。

 後に建武将軍に遷り、都亭侯に封じられ、廬江太守を兼領し、臨城県を賜って奉邑とされた。劉備が西陵に次(やど)ると、徐盛は諸屯を攻取し、向かう所で功があった。

 恐らくは陸遜の統制も容易に承服はしなかった事でしょう。戦後に陸遜麾下の一部諸将が白帝城の攻略を具申していますが、その中には潘璋・宋謙らと並んで徐盛の名もあります。かつて徐盛と共に濡須督周泰の統制を拒んだ朱然はこの時、西征より北防をと唱える戦略眼を備えていました。

曹休が洞口に出戦すると、徐盛は呂範・全jと与に渡江して拒守した。(呉の水軍は)大風に遭って船人の多くが喪われ、徐盛は余兵を収容し、曹休と長江を夾(はさ)んだ。曹休は兵に船で徐盛を攻めさせたが、徐盛は少数で多数を禦ぎ、敵は克てずに各々軍を引いて退いた。安東将軍に遷り、蕪湖侯に封じられた。

 後魏文帝大出、有渡江之志、盛建計從建業築圍、作薄落、圍上設假樓、江中浮船。諸將以為無益、盛不聽、固立之。文帝到廣陵、望圍愕然、彌漫數百里、而江水盛長、便引軍退。諸將乃伏。

 後に魏文帝が大いに出征し、渡江の志があったが、徐盛は計を建てて建業より囲営を築いて薄落(すだれ)を作し、囲上には仮楼を設け、江中には船を浮かべた。諸将は無益な事だと言ったが、徐盛は聴かず、頑としてこれを立てた。文帝は広陵に到ると囲営を望見して愕然とし、彌漫(延々)すること数百里で、しかも江水も(増水期で)盛長となり、ただちに軍を引いて退いた。諸将はこうして敬伏した[1]

 黄武中卒。子楷、襲爵領兵。

 黄武中に卒した。子の徐楷が襲爵・領兵した。
[1] 干宝の『晋紀』で“疑城”と云っているもので、已に孫権伝にしている。
―― 文帝は歎じて 「魏には武騎の千の群があるとはいえ、用いる場所が無い」 (『魏氏春秋』)
 

潘璋

 潘璋字文珪、東郡發干人也。孫權為陽羨長、始往隨權。性博蕩嗜酒、居貧、好賒酤、債家至門、輒言後豪富相還。權奇愛之、因使召募、得百餘人、遂以為將。討山賊有功、署別部司馬。後為呉大市刺奸、盜賊斷絶、由是知名、遷豫章西安長。劉表在荊州、民數被寇、自璋在事、寇不入境。比縣建昌起為賊亂、轉領建昌、加武猛校尉、討治惡民、旬月盡平、召合遺散、得八百人、將還建業。

 潘璋、字は文珪。東郡発干の人である。孫権が陽羨県長になった時、始めて往って孫権に随った。性は博蕩(放蕩)で酒を嗜み、貧しきに居って賒酤(酒の掛け買)を好み、債家が門に至ると、そのたび後に豪富になったら還すと言っていた。孫権は奇としてこれを愛し、そうして兵を召募させると百余人を得、かくて将官とした。山賊を討って功があり、別部司馬に署いた。後に呉県の大市の刺奸(軍属の監察)となると盗賊は断絶し、これによって名を知られ、豫章西安県長に遷った。
 劉表が荊州に在った時に民はしばしば寇害を被ったが、潘璋が職事に在ってより寇賊は境内に入らなくなった。比県(近県)の建昌が起兵して賊乱を為すと、転じて建昌を兼領して武猛校尉を加えられ、悪民を討治して旬月で尽く平らぎ、遺散者を召合して八百人を得、率いて建業に還った。

 合肥之役、張遼奄至、諸將不備、陳武闘死、宋謙・徐盛皆披走、璋身次在後、便馳進、馬斬謙・盛兵走者二人、兵皆還戰。權甚壯之、拜偏將軍、遂領百校、屯半州。

 合肥の役で張遼が奄至(急襲)した時、諸将は備えておらず、陳武が闘死し、宋謙・徐盛(の兵)も皆な逃走した。潘璋は後方に在ったが、ただちに馳進すると馬を横たえて宋謙・徐盛の兵の逃走者二人を斬り、兵は皆な還って戦った。孫権はこれを甚だ壮として偏将軍に拝し、百校(百部隊)を典領して半州に駐屯させた。
 劉備が蜀を平定した翌年、孫権は呂蒙に長沙・零陵・桂陽三郡を取らせ、魯粛には万人で巴丘に駐屯して関羽を防がせたが、このとき潘璋は孫皎と与に呂蒙に従って関羽を益陽で拒いだ。 (呉主伝)

 權征關羽、璋與朱然斷羽走道、到臨沮、住夾石。璋部下司馬馬忠禽羽、并羽子平・都督趙累等。權即分宜都〔巫〕・秭歸二縣為固陵郡、拜璋為太守・振威將軍、封溧陽侯。甘寧卒、又并其軍。劉備出夷陵、璋與陵遜并力拒之、璋部下斬備護軍馮習等、所殺傷甚衆、拜平北將軍・襄陽太守。

 孫権が関羽を征伐した時、潘璋は朱然と与に関羽の逃走道を断つ為、沮河に臨む地に到って夾石に駐まった。潘璋の部下で司馬の馬忠が関羽と、併せて関羽の子の関平・都督趙累らを禽えた。孫権は即時に宜都の巫・秭帰の二県を分けて固陵郡とし、潘璋を拝して(固陵)太守・振威将軍とし、溧陽侯に封じた。
甘寧が卒すると、又たその軍を併せた。劉備が夷陵に出戦した時、潘璋は陵遜と併力してこれを拒ぎ、潘璋の部下が劉備の護軍の馮習らを斬り、殺傷したのは甚だ衆(おお)く、平北将軍・襄陽太守を拝命した。

 魏將夏侯尚等圍南郡、分前部三萬人作浮橋、渡百里洲上、諸葛瑾・楊粲並會兵赴救、未知所出、而魏兵日渡不絶。璋曰:「魏勢始盛、江水又淺、未可與戰。」便將所領、到魏上流五十里、伐葦數百萬束、縛作大筏、欲順流放火、燒敗浮橋。作筏適畢、伺水長當下、尚便引退。璋下備陸口。權稱尊號、拜右將軍。

 魏将の夏侯尚らが南郡を攻囲し、前部の三万人を分けて浮橋を作り、百里洲の上に渡らせた。諸葛瑾・楊粲は揃って兵を会同して救援に赴いたが、未だどうしてよいか分らず、しかも魏兵は日々に渡って絶えなかった。潘璋曰く 「魏勢は隆盛の始めであり、江水も又た浅く、未だ戦うべきではありません」 。ただちに領兵を率いて魏の上流五十里に到り、葦の数百万束を伐採し、縛って大筏を作り、流れに順って火を放って浮橋を焼き敗ろうとした。作筏を畢えると、水の増長を伺って下ろうとした処、夏侯尚はただちに引き退いた。潘璋は下って陸口で備えた。孫権が尊号を称すと、右将軍を拝命した。

 璋為人麤猛、禁令肅然、好立功業、所領兵馬不過數千、而其所在常如萬人。征伐止頓、便立軍市、他軍所無、皆仰取足。然性奢泰、末年彌甚、服物僭擬。吏兵富者、或殺取其財物、數不奉法。監司舉奏、權惜其功而輒原不問。嘉禾三年卒。子平、以無行徙會稽。璋妻居建業、賜田宅、復客五十家。

 潘璋の為人りは麤猛(粗猛)で、禁令は粛然と行なわれた。功業を立てる事を好み、典領する兵馬は数千に過ぎなかったが、在所では常に万人のよう(な働き)だった。征伐が止頓するとたちまちに軍市を立て、他軍は無い物を皆な仰いで充足させた。性は奢泰(奢侈放縦)で、末年にはいよいよ甚だしく、服物は僭擬(分不相応)となった。吏兵の富者を、或いは殺してその財物を取り、しばしば法を奉じなかった。監司が挙奏したが、孫権はその功を惜しんでそのたび原(ゆる)して問わなかった。嘉禾三年(234)に卒した。子の潘平は行節が無く、会稽に徙された。潘璋の妻は建業に居し、田宅を賜って佃客五十家を復(租税免除)された。

 潘璋の兵は呂岱が典領し、陸口に駐屯した。 (呂岱伝)

 

丁奉

 丁奉字承淵、廬江安豐人也。少以驍勇為小將、屬甘寧・陸遜・潘璋等。數隨征伐、戰闘常冠軍。毎斬將搴旗、身被創夷。稍遷偏將軍。孫亮即位、為冠軍將軍、封都亭侯。

 丁奉、字は承淵。廬江安豊の人である。若くして驍勇によって小将(小部隊の長)となり、甘寧・陸遜・潘璋らに属した。しばしば征伐に随い、戦闘では常に軍の冠だった。事毎に将を斬り旗を搴(と)り、身には創夷を被った。暫くして偏将軍に遷った。孫亮が即位すると冠軍将軍となり、都亭侯に封じられた。

 魏遣諸葛誕・胡遵等攻東興、諸葛恪率軍拒之。諸將皆曰:「敵聞太傅自來、上岸必遁走。」奉獨曰:「不然。彼動其境内悉、許・洛兵大舉而來、必有成規、豈虚還哉?無恃敵之不至、恃吾有以勝之。」及恪上岸、奉與將軍唐咨・呂據・留贊等倶從山西上。奉曰:「今諸軍行遲、若敵據便地、則難與爭鋒矣。」乃辟諸軍使下道、帥麾下三千人徑進。時北風、奉舉帆二日至、遂據徐塘。天寒雪、敵諸將置酒高會、奉見其前部兵少、相謂曰:「取封侯爵賞、正在今日!」乃使兵解鎧著冑、持短兵。敵人從而笑焉、不為設備。奉縱兵斫之、大破敵前屯。會據等至、魏軍遂潰。遷滅寇將軍、進封都〔郷〕侯。

 魏が諸葛誕・胡遵らを遣って東興を攻めさせると、諸葛恪が軍を率いて拒いだ。諸将は皆な曰く 「敵は太傅自ら来て上岸したと聞けば、必ず遁走しましょう」 と。丁奉は独り 「そうではない。敵はその境内の悉くを動かし、許・洛の兵を大いに挙って来たからには、必ず成規(成算)があってのことだ。どうして虚しく還ろうか? 敵が至らぬのを恃んではならず、吾らにこれに勝つ力があるのを恃むのだ」 。諸葛恪が上岸するに及び、丁奉は将軍唐咨呂拠留賛らと倶に山沿いに西上した。丁奉 「今、諸軍の行軍は遅れており、もし敵が利便の地に拠れば、鋒を争うのは困難となる」 と。かくして諸軍を辟(まね)いて道を下らせ、麾下の三千人を帥いて径進(直進)した。
時に北風で、丁奉は帆を挙げて二日で至り、かくて徐塘に拠った。天候は寒雪で、敵の諸将は置酒高会しており、丁奉はその前部の兵が少ないのを見ると、相い謂うには 「封侯爵賞を取るのはまさに今日に在る!」 と。かくして兵に鎧を解いて冑を著けさせ、短兵(短い武器)を持たせた。敵人は従(思うまま)に笑って備えを設けなかった。丁奉は兵を縦(はな)ってこれを斫り、敵の前屯を大破した。折しも呂拠らが至り、魏軍はかくて潰えた。滅寇将軍に遷り、都郷侯に進封された。

 魏將文欽來降、以奉為虎威將軍、從孫峻至壽春迎之、與敵追軍戰於高亭。奉跨馬持矛、突入其陳中、斬首數百、獲其軍器。進封安豐侯。

 魏将の文欽が来降すると、丁奉を虎威将軍とし、孫峻に従って寿春に至ってこれを迎え、敵の追軍と高亭で戦った。丁奉は馬に跨り矛を持ち、その陣中に突入して数百を斬首し、その軍器を獲た。安豊侯に進封された。
 太平元年、文欽の建議で起された北伐が孫峻の急死で中断され、孫綝が後事を継ぐと、驃騎将軍呂拠が江都で謀叛した。丁奉は施ェと倶に孫憲に従って江都を討ち、呂拠は新洲で獲われた。 (三嗣主伝)

 太平二年、魏大將軍諸葛誕據壽春來降、魏人圍之。遣朱異・唐咨等往救、復使奉與黎斐解圍。奉為先登、屯於黎漿、力戰有功、拜左將軍。

 太平二年(257)、魏の(征東)大将軍諸葛誕が寿春に拠って来降すると、魏人がこれを囲んだ。朱異・唐咨らを遣って往って救わせ、復た丁奉と黎斐に攻囲を解かせた。丁奉は先登となり、黎漿に駐屯し、力戦して功があり、左将軍を拝命した。

 この軍事は諸葛誕を救出できなかったばかりか、寿春入城を果した呉将が内訌で諸葛誕に殺されるわ、文鴦が魏に復帰するわ、全氏が魏に投降するわ、孫綝自ら八つ当たり気味に朱異を殺すわと呉にとっては大失敗で、当然、丁奉も寿春救援の目的は果たせていません。にも拘らず昇進できたのは、軍部の歓心を繋ぎとめておきたいという孫綝の事情によるものでしょうか。

 孫魯育が殺された顛末を以て虎林督朱熊と朱熊の弟の外部督朱損が糾弾されると、丁奉は孫亮の命を奉じて虎林に朱熊を殺した。 (孫綝伝)

 孫休即位、與張布謀、欲誅孫綝、布曰:「丁奉雖不能吏書、而計略過人、能斷大事。」休召奉告曰:「綝秉國威、將行不軌、欲與將軍誅之。」奉曰:「丞相兄弟友黨甚盛、恐人心不同、不可卒制、可因臘會、有陛下兵以誅之也。」休納其計、因會請綝、奉與張布目左右斬之。遷大將軍、加左右都護。永安三年、假節領徐州牧。六年、魏伐蜀、奉率諸軍向壽春、為救蜀之勢。蜀亡、軍還。

 孫休は即位すると、張布と謀って孫綝を誅しようとした。張布曰く 「丁奉は吏書の能は無いとはいえ、計略は人に過ぎ、大事を決断できます」 。孫休が丁奉を召して告げるには 「孫綝は国威を秉り、不軌を行なおうとしている。将軍と与にこれを誅したい」 と。丁奉 「丞相の兄弟や友党は甚だ盛んで、人心が賛同しない事を恐れます。たちまちに制してはならず、臘会[※]に乗じて、陛下の兵でこれを誅するべきです」 。

※ 年末に行なわれる神と祖宗の祭祀。

孫休はその計を納れ、臘会に孫綝を請じ、丁奉は張布と与に左右に目配せしてこれを斬った。大将軍に遷り、左右都護を加えられた。

 この頃には呉志の記述は割と杜撰で、底本の『呉書』を著した韋昭が存命である事を考えると、意図的に詳述を回避したと思えなくもありません。それにしても“左右都護”とは随分とヤル気の無い記述です。

永安三年(260)、節を仮されて徐州牧を兼領した。六年(263)、魏が蜀を伐つと、丁奉は諸軍を率いて寿春に向い、救蜀の大勢を示した。蜀が亡ぶと軍を還した。

 休薨、奉與丞相濮陽興等從萬ケ之言、共迎立孫晧、遷右大司馬左軍師。寶鼎三年、晧命奉與諸葛靚攻合肥。奉與晉大將石苞書、搆而阡V、苞以徴還。建衡元年、奉復帥衆治徐塘、因攻晉穀陽。穀陽民知之、引去、奉無所獲。晧怒、斬奉導軍。三年、卒。奉貴而有功、漸以驕矜、或有毀之者、晧追以前出軍事、徙奉家於臨川。奉弟封、官至後將軍、先奉死。

 (翌年に)孫休が薨じると、丁奉は丞相濮陽興らと万ケの言葉に従い、共に孫皓を迎立し、右大司馬・左軍師に遷った。宝鼎三年(268)、孫皓は(自ら東興に出征し、)丁奉と諸葛靚に命じて合肥を攻めさせた。丁奉は晋の大将の石苞に書簡を与えて離間を搆じ、石苞は徴還された。建衡元年(269)、丁奉は復た軍兵を帥いて徐塘を修治し、そうして晋の穀陽(安徽省宿州市霊壁)を攻めた。穀陽の民はこれを知ると引き去り、丁奉は獲るものが無かった。孫皓は怒り、丁奉の導軍を斬った。三年(271)、卒した。丁奉は貴顕となって功もあり、漸く驕慢となり、これを毀議する者も現れ、孫皓は追って以前の軍事の事を出して丁奉の家属を臨川に徙した。丁奉の弟の丁封は、官は後将軍に至ったが、丁奉に先んじて死んだ。
 或る者は、「宝鼎元年十二月、陸凱が大司馬丁奉・御史大夫丁固と謀るには、孫皓が廟に謁した際、孫皓を廃して孫休の子を立てようと。その時は左将軍留平が兵を典領して先駆する事になっており、ゆえに密かに留平に語った処、留平は拒んで許認しなかったが、泄らさないと誓った。これによって図りごとは果たせなかった。太史郎陳苗が孫皓に奏すには、久しく陰って雨が降らず、風気が迴逆(旋回)しているのは、陰謀があるからに違いないと。孫皓は深く警懼した」 と云っている。 (陸凱伝)
―― 旧くは拝廟の際には、選抜された者が大将軍を兼ね、三千の兵を典領して侍衛した。陸凱はこの兵によって(廃黜を)図ろうとし、選曹に命じて丁奉を用いるよう建白させた。孫皓はたまたま欲せず、「更めて選べ」 と。陸凱が執行官に論拠とさせるには、暫定の兼官とはいえ、適任の人を得るべきだと。
 孫皓 「留平を用いよ」。
陸凱は子の陸禕に命じて謀りごとを留平に語らせた。留平は素より丁奉と隙があった。陸禕が未だ陸凱の旨を宣べられずにいるうちに、留平が陸禕に語るには 「聞けば野豬が丁奉の営に入ったとか。これは凶徴である」 と喜色があった。陸禕はかくして言及しようとせず、還ると具さに陸凱に申し、ゆえに輟止(停止)した。 (『呉録』)

 丁奉は廬江の人、丁固は会稽の人なので、血縁ではなく、たまたま同姓だったというだけです。それはともかく、孫皓はかねて丁奉に銜む処があり、その家属を追咎したのは讒言だけが理由でなかった事を示しています。してみると本伝の“驕慢”は、孫皓に意見する丁奉の論調が強くなったのを、孫皓の主観で記したとも考えられます。『呉録』の方はあくまでも主体は陸凱ですが、孫皓が丁奉の代役にその敵対者の留平を指名した事で、丁奉をも全く信用していない事が推察できます。

 建衡三年(271)春正月晦、孫皓が多くの手勢を挙げて(建業西方の)華里に出御し、孫皓の母および妃妾も皆な随行した。東観令華覈らが堅く諫争したので還った。 (孫皓伝)
―― 孫皓が華里に游んだ時、万ケが丁奉・留平と密謀するには、孫皓が帰らなければ、我らだけでも還るべきだと。孫皓はこの会話を聞き知ったが、万ケらが旧臣であり、計り忍んで陰かに銜意した。(丁奉の死んだ)後に宴会で毒酒を万ケ・留平に飲ませたが、死なずに済んだ。万ケは自殺し、留平は憂懣して月余で亦た死んだ。 (『江表伝』)

 こちらは『江表伝』ネタで、しかも丁奉と留平が協議しているという構図なので信憑性は上記の『三國志』『呉録』よりぐっと低くなりますが、やはり丁奉と孫皓の不和を示唆しています。この事件が丁奉の遺族が徙される遠因になった、とも取れる内容ではあります。
 ちなみち留平は留賛の子です。

 

 評曰:凡此諸將、皆江表之虎臣、孫氏之所厚待也。以潘璋之不脩、權能忘過記功、其保據東南、宜哉!陳表將家支庶、而與冑子名人比翼齊衡、拔萃出類、不亦美乎!

 評に曰く:凡そこの諸将は皆な江表の虎臣であり、孫氏が厚く待遇したものである。潘璋は修身しなかったが、孫権は過ちを忘れて功を記した。東南に拠る事を保ったのは、妥当な事である! 陳表は将家の支庶(庶出)だったが、冑子(嫡出)や名士と比翼斉衡(比肩均衡)し、抜萃(抜粋)出類したのは何と美(よ)い事ではないか!

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