甘寧字興霸、巴郡臨江人也。少有氣力、好游侠、招合輕薄少年、為之渠帥;羣聚相隨、挾持弓弩、負毦帶鈴、民聞鈴聲、即知是寧。人與相逢、及屬城長吏、接待隆厚者乃與交歡;不爾、即放所將奪其資貨、於長吏界中有所賊害、作其發負、至二十餘年。止不攻劫、頗讀諸子、乃往依劉表、因居南陽、不見進用、後轉托黄祖、祖又以凡人畜之。
二十余年間、巴郡で好き放題やってから南陽に遷ったとありますが、ここではその理由が述べられていません。『英雄記』(劉焉伝注)によると、劉焉の死を機に李傕・劉表らが劉璋による世襲阻止を図り、これに同調した者の中に甘寧の名があります。事に敗れた甘寧が荊州に奔ったのも尤もな事です。このとき甘寧は恐らく四十路に突入していた筈で、孫堅や程普・黄蓋らと同世代です。地元を逐われた元ヤクザの小親分が、落ちぶれ果てて冷や飯組に甘んじた態です。
於是歸呉。周瑜・呂蒙皆共薦達、孫權加異、同於舊臣。寧陳計曰:「今漢祚日微、曹操彌憍、終為簒盜。南荊之地、山陵形便、江川流通、誠是國之西勢也。寧已觀劉表、慮既不遠、兒子又劣、非能承業傳基者也。至尊當早規之、不可後操。圖之之計、宜先取黄祖。祖今年老、昏耄已甚、財穀並乏、左右欺弄、務於貨利、侵求吏士、吏士心怨、舟船戰具、頓廢不脩、怠於耕農、軍無法伍。至尊今往、其破可必。一破祖軍、鼓行而西、西據楚關、大勢彌廣、即可漸規巴蜀。」權深納之。張昭時在坐、難曰:「呉下業業、若軍果行、恐必致亂。」寧謂昭曰:「國家以蕭何之任付君、君居守而憂亂、奚以希慕古人乎?」權舉酒屬寧曰:「興霸、今年行討、如此酒矣、決以付卿。卿但當勉建方略、令必克祖、則卿之功、何嫌張長史之言乎。」權遂西、果禽祖、盡獲其士衆。遂授寧兵、屯當口。
「今、漢祚は日々に微かとなり、曹操はいよいよ憍慢で、終には簒盜しましょう。南荊の地は山陵の形勢が宜しく、江川が流通し、誠にこれは国の西勢たるものです。私が已に劉表を観た処、思慮は遠からず、児子も又た劣弱で、業を承けて基を伝える事はできますまい。至尊としては早々にこれを規図し、曹操に後れてはなりません。これを図る計りごととしては、先ず黄祖を取るべきです。黄祖は今や年老い、昏耄すること已に甚だしく、財穀はともに乏しいのに、左右の者は欺弄して貨利に務め、吏士を侵求しております。吏士は心中で怨んでおり、舟船や戦具はとみに廃されて修繕されず、耕農を怠り、軍には法も隊伍もありません。至尊が今往けば、破るのは必定です。一たび黄祖の軍を破った後、鼓行して西し、西のかた楚関に拠り、大勢をいよいよ広めれば、やがては巴蜀を規定する事もできましょう」 。
孫権は深く納れた。張昭が時に坐に在り、論難して 「呉下は業業(事業で忙しい)としており、もし軍が果たして行けば、恐らくは必ず乱れよう」 。甘寧が張昭に謂うには 「国家は蕭何の任を君に付したのです。君は居守しながら乱を憂えるとは、どうして古人を希慕していると謂えましょう?」 。孫権は酒を挙げて甘寧に属(つ)ぎ 「興霸よ、今年の行討はこの酒のように決して卿に付そう。卿はただ方略を建てる事に勉め、必ず黄祖に克って卿の功とせよ。どうして張長史の言葉を嫌忌しよう」 。※ 夏口の事かと思われます。当利口との説もありますが、実績もない転向者の甘寧を監視の行き届きにくい場所に置くとは思えません。信用性の問題として。
後隨周瑜拒破曹公於烏林。攻曹仁於南郡、未拔、寧建計先徑進取夷陵、往即得其城、因入守之。時手下有數百兵、并所新得、僅滿千人。曹仁乃令五六千人圍寧。寧受攻累日、敵設高樓、雨射城中、士衆皆懼、惟寧談笑自若。遣使報瑜、瑜用呂蒙計、帥諸將解圍。後隨魯肅鎮益陽、拒關羽。羽號有三萬人、自擇選鋭士五千人、投縣上流十餘里淺P、云欲夜渉渡。肅與諸將議。寧時有三百兵、乃曰:「可復以五百人益吾、吾往對之、保羽聞吾欬唾、不敢渉水、渉水即是吾禽。」肅便選千兵益寧、寧乃夜往。羽聞之、住不渡、而結柴營、今遂名此處為關羽P。權嘉寧功、拜西陵太守、領陽新・下雉兩縣。
周瑜伝・呂蒙伝を読むと、甘寧による夷陵襲取は戦略には組み込まれていない突発的な措置である事が、包囲された甘寧が急を告げてから援軍の段取りが討議された事から判ります。本当に殊遇を加えられるほどに重んじられていたなら、こんな「行ってこい」の作戦には投入しませんて。又たここで周瑜・程普ら主力が甘寧救援に動き、校尉ですらない淩統に本営の守備を委ねたのは、まさかと思っていた要衝/夷陵の攻略に成功してしまい、慌ててその確保と維持に動いたと勘繰れてしまいます。
後に魯粛が益陽に鎮守して関羽を拒ぐのに随った。関羽は三万人の所有を号し、自ら鋭士五千人を択選して懸(へだて)ること上流十余里の浅瀬に投じ、夜間に渡渉せんと云った。魯粛は諸将と議した。甘寧は時に三百の兵を有しており、かくして 「五百人を私に益してもらえれば、私が往って相対しましょう。きっと関羽は私の欬唾を聞けば、渉水しようとは致しますまい。渉水すれば私の禽となりましょう」 と。魯粛はただちに千兵を選んで甘寧に益し、甘寧はかくして夜間に往った。関羽はこれを聞くと駐まって渡らず、柴で営を結んだ。今、名付けて此処を関羽瀬としている。孫権は甘寧の功を嘉し、西陵太守に拝し、陽新・下雉の両県を所領させた。 割と謎な両者の対応です。関羽が 「欲夜渉渡」 と云い、甘寧が 「羽聞吾欬唾、不敢渉水」 と確信している点から、関羽は武力衝突を避けて情報戦だけで凌ごうとし、呉にもそれが見透かされていたように思えます。当時、劉備は荊州を関羽に丸投げして益州に行っていますが、孫権との契約をどうするかなど指示も対策も一切していなかったらしいので、関羽としては全面衝突はしたくとも出来なかった事でしょう。甘寧の 「渉水即是吾禽」 の根拠はハッキリしませんが、甘寧なりのハッタリかと思われます。
それにしても、甘寧の手勢が夷陵攻略直前より減っている事に驚きです。わりと要将っぽく書かれてきましたが、損兵補充すら満足に行なわれていないのがこの時点での甘寧の立場という事でしょう。
後從攻皖、為升城督。寧手持練、身縁城、為吏士先、卒破獲朱光。計功、呂蒙為最。寧次之、拜折衝將軍。
升城督。読んで名の如く、城に昇る部隊の長で、要は斬り込み隊長です。城攻めの中でも死亡率の最も高い仕事を回され、背後には甘寧を督に推薦した呂蒙が自ら精鋭を率いて督戦隊然として続いています。時に甘寧は既に還暦前後で、老将にはかなり苛酷な仕事です。勿論、廉頗や馬援を持ち出すまでも無く、同時代にも黄蓋や黄忠の様な最前線を好む矍鑠たる老将がいるので甘寧に対する措置が苛酷だとは一概には云えませんが、甘寧の場合は一軍の将でもなく、又た寒門である若造の指揮下に置かれているあたりからその胸中が察せられます。
後曹公出濡須、寧為前部督、受敕出斫敵前營。權特賜米酒衆殽、寧乃料賜手下百餘人食。食畢、寧先以銀盌酌酒、自飲兩盌、乃酌與其都督。都督伏、不肯時持。寧引白削置膝上、呵謂之曰:「卿見知於至尊、熟與甘寧?甘寧尚不惜死、卿何以獨惜死乎?」都督見寧色氏A即起拜持酒、通酌兵各一銀盌。至二更時、銜枚出斫敵。敵驚動、遂退。寧益貴重、摯コ二千人。
翌年の張遼の合肥での奮迅を知っている身としては、甘寧の武勇を孫権が信頼しきっているかのように錯覚する事案ですが、この濡須の役では序盤で董襲が溺死するなど孫呉には劣勢で、明かに孫権の無茶振りです。孫権の命令を翻訳すると、「失敗したら死ねよ」 となります。時に甘寧は六十云歳。ますます貴重されたのは、どんな無茶振りも通用する“都合のいい駒”に対する評価に違いない。
寧雖麤猛好殺、然開爽有計略、輕財敬士、能厚養健兒、健兒亦樂為用命。建安二十年、從攻合肥、會疫疾、軍旅皆已引出、唯車下虎士千餘人、并呂蒙・蔣欽・淩統及寧、從權逍遙津北。張遼覘望知之、即將歩騎奄至。寧引弓射敵、與統等死戰。寧弱゚問鼓吹何以不作、壯氣毅然、權尤嘉之。
寧廚下兒曾有過、走投呂蒙。蒙恐寧殺之、故不即還。後寧齎禮禮蒙母、臨當與升堂、乃出廚下兒還寧。寧許蒙不殺。斯須還船、縛置桑樹、自挽弓射殺之。畢、敕船人更昜v纜、解衣臥船中。蒙大怒、撃鼓會兵、欲就船攻寧。寧聞之、故臥不起。蒙母徒跣出諫蒙曰:「至尊待汝如骨肉、屬汝以大事、何有以私怒而欲攻殺甘寧?寧死之日、縱至尊不問、汝是為臣下非法。」蒙素至孝、聞母言、即豁然意釋、自至寧船、笑呼之曰:「興霸、老母待卿食、急上!」寧涕泣歔欷曰:「負卿。」與蒙倶還見母、歡宴竟日。
自暴自棄で料理人を殺した甘寧が、死を覚悟していたら助命されて感動した、という逸話です。朱桓のような突発噴火というより、溜りに溜った鬱憤を覚悟の上で爆発させたという印象ですが、ここまで、呂蒙との間が特に険悪という描写はありません。甘寧と呂蒙の出身階級は似たり寄ったりで、年齢差は20歳以上。なのに呉での立場は雲泥の差で、甘寧としては 「どうしてこうなった」 感が激発したといった印象です。呂蒙の母の 「縱至尊不問」 が、両者の関係を際立たせています。孫権が呂蒙の甘寧殺しを不問に付す可能性が大きくなければこんな発言は出る訳は無く、つまり孫権にとって甘寧は“その程度”だと周知されていた事になります。
寧卒、權痛惜之。子瓌、以罪徙會稽、無幾死。
「權痛惜之」 とは白々しい記述です。例えば呂蒙や淩統は別格としても、孫権が本当に惜しんだ場合は、遺族に対する追加措置が必ずと云っていいほど記されています。それが無いという事はそう云う事で、実際、甘寧の部曲は相続されずに潘璋の麾下に組み込まれています。孫権が惜しんだのは、思いの外に働く、使いつぶし甲斐のある捨て駒という役割に対してでしょう。
邾県といえば黄祖にとって東方の最前線の一角で、要地であれば冷遇する程度の相手を置く筈もなく、又た捨て石にするにしても信用できない相手を置くような場所ではありません。これに限らず、『呉書』は甘寧を持ち上げるべく随所で苦しい工作をしてるように読めてしまいます。
淩統字公績、呉郡餘杭人也。父操、輕侠有膽氣、孫策初興、毎從征伐、常冠軍履鋒。守永平長、平治山越、奸猾斂手、遷破賊校尉。及權統軍、從討江夏。入夏口、先登、破其前鋒、輕舟獨進、中流矢死。
淩統父子は『演義』などでは凌氏と記されています。凌姓には複数の出自があり、百度百科によれば、伏羲氏由来の泗陽凌氏・西周の衛康叔の子が官職に因んで分家した凌氏・西漢の陵墓官に因んだ凌氏・魏の凌江将軍に因んだ凌氏・鮮卑拓跋部から分れた凌氏などがあるそうです。魏の凌江将軍というと羅憲がおりますが。淩統の出自と思われる泗陽凌氏は淩水・淩県に因んだものです。
統年十五、左右多稱述者、權亦以操死國事、拜統別部司馬、行破賊都尉、使攝父兵。後從撃山賊、權破保屯先還、餘麻屯萬人、統與督張異等留攻圍之、克日當攻。先期、統與督陳勤會飲酒、勤剛勇任氣、因督祭酒、陵轢一坐、舉罰不以其道。統疾其侮慢、面折不為用。勤怒詈統、及其父操、統流涕不答、衆因罷出。勤乘酒凶悖、又於道路辱統。統不忍、引刀斫勤、數日乃死。及當攻屯、統曰:「非死無以謝罪。」乃率試m卒、身當矢石、所攻一面、應時披壞、諸將乘勝、遂大破之。還、自拘於軍正。權壯其果毅、使得以功贖罪。
後權復征江夏、統為前鋒、與所厚健兒數十人共乘一船、常去大兵數十里。行入右江、斬黄祖將張碩、盡獲船人。還以白權、引軍兼道、水陸並集。時呂蒙敗其水軍、而統先搏其城、於是大獲。權以統為承烈都尉、與周瑜等拒破曹公於烏林、遂攻曹仁、遷為校尉。雖在軍旅、親賢接士、輕財重義、有國士之風。
具体例を挙げないままテンプレ的な褒め言葉だけ並べたあたりに、孫権が淩統を偏愛した理由を探すのに『呉書』の著者が苦労した事が窺われます。淩統に功績が無いわけでは決してありませんが、その昇進に孫権の意向が大きく作用している事もまた事実です。
又從破皖、拜盪寇中郎將、領沛相。與呂蒙等西取三郡、反自益陽、從往合肥、為右部督。時權徹軍、前部已發、魏將張遼等奄至津北。權使追還前兵、兵去已遠、勢不相及、統率親近三百人陷圍、扶扞權出。敵已毀橋、橋之屬者兩版、權策馬驅馳、統復還戰、左右盡死、身亦被創、所殺數十人、度權已免、乃還。橋敗路絶、統被甲潛行。權既御船、見之驚喜。統痛親近無反者、悲不自勝。權引袂拭之、謂曰:「公績、亡者已矣、苟使卿在、何患無人?」拜偏將軍、倍給本兵。
時有薦同郡盛暹於權者、以為梗槩大節、有過於統、權曰:「且令如統足矣。」後召暹夜至、時統已臥、聞之、攝衣出門、執其手以入。其愛善不害如此。
統以山中人尚多壯悍、可以威恩誘也、權令東占且討之、命敕屬城、凡統所求、皆先給後聞。統素愛士、士亦慕焉。得精兵萬餘人、過本縣、歩入寺門、見長吏懷三版、恭敬盡禮、親舊故人、恩意益隆。事畢當出、會病卒、時年四十九二十九。權聞之、拊牀起坐、哀不能自止、數日減膳、言及流涕、使張承為作銘誄。
本文では四十九歳で死亡となっていますが、淩統の死後にその兵を引き継いだ駱統が228年に36歳で歿しているので、淩統の享年は二十九歳だとされています。
二子烈・封、年各數歳、權内養於宮、愛待與諸子同、賓客進見、呼示之曰:「此吾虎子也。」及八九歳、令葛光教之讀書、十日一令乘馬、追録統功、封烈亭侯、還其故兵。後烈有罪免、封復襲爵領兵。
孫権の行ないは上に立つ者としてそれなりには立派だが、一身の事に終始して国家百年の計に欠けており、とうてい帝王の器ではない、という事らしいです。
徐盛字文嚮、琅邪莒人也。遭亂、客居呉、以勇氣聞。孫權統事、以為別部司馬、授兵五百人、守柴桑長、拒黄祖。祖子射、嘗率數千人下攻盛。盛時吏士不滿二百、與相拒撃、傷射吏士千餘人。已乃開門出戰、大破之。射遂絶迹不復為寇。權以為校尉・蕪湖令。復討臨城南阿山賊有功、徙中郎將、督校兵。
曹公出濡須、從權禦之。魏嘗大出江、盛與諸將倶赴討。時乘蒙衝、遇迅風、船落敵岸下、諸將恐懼、未有出者、盛獨將兵、上突斫敵、敵披退走、有所傷殺、風止便還、權大壯之。
この戦役は悪天候によって呉軍不利でスタートしたもので、局面打開のために甘寧が人柱にされかけたりしたものです。本伝では次に魏の黄初二年に飛びますが、その間に周泰の統制を不服として孫権が来駕したり、合肥の役では張遼を畏れる麾下を統制できなかったばかりか、軍矛を喪って賀斉が奪回するなど、向う意気の強い粗忽者との印象があります。
及權為魏稱藩、魏使邢貞拜權為呉王。權出都亭候貞、貞有驕色、張昭既怒、而盛忿憤、顧謂同列曰:「盛等不能奮身出命、為國家并許洛、呑巴蜀、而令吾君與貞盟、不亦辱乎!」因涕泣流。貞聞之、謂其旅曰:「江東將相如此、非久下人者也。」
後遷建武將軍、封都亭侯、領廬江太守、賜臨城縣為奉邑。劉備次西陵、盛攻取諸屯、所向有功。曹休出洞口、盛與呂範・全j渡江拒守。遭大風、船人多喪、盛收餘兵、與休夾江。休使兵將就船攻盛、盛以少禦多、敵不能克、各引軍退。遷安東將軍、封蕪湖侯。
恐らくは陸遜の統制も容易に承服はしなかった事でしょう。戦後に陸遜麾下の一部諸将が白帝城の攻略を具申していますが、その中には潘璋・宋謙らと並んで徐盛の名もあります。かつて徐盛と共に濡須督周泰の統制を拒んだ朱然はこの時、西征より北防をと唱える戦略眼を備えていました。
曹休が洞口に出戦すると、徐盛は呂範・全jと与に渡江して拒守した。(呉の水軍は)大風に遭って船人の多くが喪われ、徐盛は余兵を収容し、曹休と長江を夾(はさ)んだ。曹休は兵に船で徐盛を攻めさせたが、徐盛は少数で多数を禦ぎ、敵は克てずに各々軍を引いて退いた➤。安東将軍に遷り、蕪湖侯に封じられた。後魏文帝大出、有渡江之志、盛建計從建業築圍、作薄落、圍上設假樓、江中浮船。諸將以為無益、盛不聽、固立之。文帝到廣陵、望圍愕然、彌漫數百里、而江水盛長、便引軍退。諸將乃伏。
黄武中卒。子楷、襲爵領兵。
潘璋字文珪、東郡發干人也。孫權為陽羨長、始往隨權。性博蕩嗜酒、居貧、好賒酤、債家至門、輒言後豪富相還。權奇愛之、因使召募、得百餘人、遂以為將。討山賊有功、署別部司馬。後為呉大市刺奸、盜賊斷絶、由是知名、遷豫章西安長。劉表在荊州、民數被寇、自璋在事、寇不入境。比縣建昌起為賊亂、轉領建昌、加武猛校尉、討治惡民、旬月盡平、召合遺散、得八百人、將還建業。
合肥之役、張遼奄至、諸將不備、陳武闘死、宋謙・徐盛皆披走、璋身次在後、便馳進、馬斬謙・盛兵走者二人、兵皆還戰。權甚壯之、拜偏將軍、遂領百校、屯半州。
權征關羽、璋與朱然斷羽走道、到臨沮、住夾石。璋部下司馬馬忠禽羽、并羽子平・都督趙累等。權即分宜都〔巫〕・秭歸二縣為固陵郡、拜璋為太守・振威將軍、封溧陽侯。甘寧卒、又并其軍。劉備出夷陵、璋與陵遜并力拒之、璋部下斬備護軍馮習等、所殺傷甚衆、拜平北將軍・襄陽太守。
魏將夏侯尚等圍南郡、分前部三萬人作浮橋、渡百里洲上、諸葛瑾・楊粲並會兵赴救、未知所出、而魏兵日渡不絶。璋曰:「魏勢始盛、江水又淺、未可與戰。」便將所領、到魏上流五十里、伐葦數百萬束、縛作大筏、欲順流放火、燒敗浮橋。作筏適畢、伺水長當下、尚便引退。璋下備陸口。權稱尊號、拜右將軍。
璋為人麤猛、禁令肅然、好立功業、所領兵馬不過數千、而其所在常如萬人。征伐止頓、便立軍市、他軍所無、皆仰取足。然性奢泰、末年彌甚、服物僭擬。吏兵富者、或殺取其財物、數不奉法。監司舉奏、權惜其功而輒原不問。嘉禾三年卒。子平、以無行徙會稽。璋妻居建業、賜田宅、復客五十家。
潘璋の兵は呂岱が典領し、陸口に駐屯した。 (呂岱伝)
丁奉字承淵、廬江安豐人也。少以驍勇為小將、屬甘寧・陸遜・潘璋等。數隨征伐、戰闘常冠軍。毎斬將搴旗、身被創夷。稍遷偏將軍。孫亮即位、為冠軍將軍、封都亭侯。
魏遣諸葛誕・胡遵等攻東興、諸葛恪率軍拒之。諸將皆曰:「敵聞太傅自來、上岸必遁走。」奉獨曰:「不然。彼動其境内悉、許・洛兵大舉而來、必有成規、豈虚還哉?無恃敵之不至、恃吾有以勝之。」及恪上岸、奉與將軍唐咨・呂據・留贊等倶從山西上。奉曰:「今諸軍行遲、若敵據便地、則難與爭鋒矣。」乃辟諸軍使下道、帥麾下三千人徑進。時北風、奉舉帆二日至、遂據徐塘。天寒雪、敵諸將置酒高會、奉見其前部兵少、相謂曰:「取封侯爵賞、正在今日!」乃使兵解鎧著冑、持短兵。敵人從而笑焉、不為設備。奉縱兵斫之、大破敵前屯。會據等至、魏軍遂潰。遷滅寇將軍、進封都〔郷〕侯。
魏將文欽來降、以奉為虎威將軍、從孫峻至壽春迎之、與敵追軍戰於高亭。奉跨馬持矛、突入其陳中、斬首數百、獲其軍器。進封安豐侯。
太平二年、魏大將軍諸葛誕據壽春來降、魏人圍之。遣朱異・唐咨等往救、復使奉與黎斐解圍。奉為先登、屯於黎漿、力戰有功、拜左將軍。
この軍事は諸葛誕を救出できなかったばかりか、寿春入城を果した呉将が内訌で諸葛誕に殺されるわ、文鴦が魏に復帰するわ、全氏が魏に投降するわ、孫綝自ら八つ当たり気味に朱異を殺すわと呉にとっては大失敗で、当然、丁奉も寿春救援の目的は果たせていません。にも拘らず昇進できたのは、軍部の歓心を繋ぎとめておきたいという孫綝の事情によるものでしょうか。
孫休即位、與張布謀、欲誅孫綝、布曰:「丁奉雖不能吏書、而計略過人、能斷大事。」休召奉告曰:「綝秉國威、將行不軌、欲與將軍誅之。」奉曰:「丞相兄弟友黨甚盛、恐人心不同、不可卒制、可因臘會、有陛下兵以誅之也。」休納其計、因會請綝、奉與張布目左右斬之。遷大將軍、加左右都護。永安三年、假節領徐州牧。六年、魏伐蜀、奉率諸軍向壽春、為救蜀之勢。蜀亡、軍還。
※ 年末に行なわれる神と祖宗の祭祀。
孫休はその計を納れ、臘会に孫綝を請じ、丁奉は張布と与に左右に目配せしてこれを斬った。大将軍に遷り、左右都護を加えられた。この頃には呉志の記述は割と杜撰で、底本の『呉書』を著した韋昭が存命である事を考えると、意図的に詳述を回避したと思えなくもありません。それにしても“左右都護”とは随分とヤル気の無い記述です。
永安三年(260)、節を仮されて徐州牧を兼領した。六年(263)、魏が蜀を伐つと、丁奉は諸軍を率いて寿春に向い、救蜀の大勢を示した。蜀が亡ぶと軍を還した。休薨、奉與丞相濮陽興等從萬ケ之言、共迎立孫晧、遷右大司馬左軍師。寶鼎三年、晧命奉與諸葛靚攻合肥。奉與晉大將石苞書、搆而阡V、苞以徴還。建衡元年、奉復帥衆治徐塘、因攻晉穀陽。穀陽民知之、引去、奉無所獲。晧怒、斬奉導軍。三年、卒。奉貴而有功、漸以驕矜、或有毀之者、晧追以前出軍事、徙奉家於臨川。奉弟封、官至後將軍、先奉死。
丁奉は廬江の人、丁固は会稽の人なので、血縁ではなく、たまたま同姓だったというだけです。それはともかく、孫皓はかねて丁奉に銜む処があり、その家属を追咎したのは讒言だけが理由でなかった事を示しています。してみると本伝の“驕慢”は、孫皓に意見する丁奉の論調が強くなったのを、孫皓の主観で記したとも考えられます。『呉録』の方はあくまでも主体は陸凱ですが、孫皓が丁奉の代役にその敵対者の留平を指名した事で、丁奉をも全く信用していない事が推察できます。
こちらは『江表伝』ネタで、しかも丁奉と留平が協議しているという構図なので信憑性は上記の『三國志』『呉録』よりぐっと低くなりますが、やはり丁奉と孫皓の不和を示唆しています。この事件が丁奉の遺族が徙される遠因になった、とも取れる内容ではあります。
ちなみち留平は留賛の子です。
評曰:凡此諸將、皆江表之虎臣、孫氏之所厚待也。以潘璋之不脩、權能忘過記功、其保據東南、宜哉!陳表將家支庶、而與冑子名人比翼齊衡、拔萃出類、不亦美乎!