三國志修正計画

三國志卷三十一 蜀志一/劉二牧傳

劉焉

 劉焉字君郎、江夏竟陵人也、漢魯恭王之後裔、章帝元和中徙封竟陵、支庶家焉。焉少仕州郡、以宗室拜中郎、後以師祝公喪去官。居陽城山、積學教授、舉賢良方正、辟司徒府、雒陽令・冀州刺史・南陽太守・宗正・太常。焉覩靈帝政治衰缺、王室多故、乃建議言:「刺史・太守、貨賂為官、割剥百姓、以致離叛。可選清名重臣以為牧伯、鎮安方夏。」焉内求交阯牧、欲避世難。議未即行、侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂、益州分野有天子氣。」焉聞扶言、意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾、謠言遠聞、而并州殺刺史張壹、涼州殺刺史耿鄙、焉謀得施。出為監軍使者、領益州牧、封陽城侯、當收儉治罪;扶亦求為蜀郡西部屬國都尉、及太倉令(會)巴西趙韙去官、倶隨焉。

 劉焉、字は君郎。江夏竟陵の人であり、漢の魯恭王の後裔にあたる(劉表とは同祖)。章帝の元和中に竟陵(湖北省天門市)に徙封され、支庶が家居した。劉焉は若くして州郡に出仕し、宗室として中郎に拝され、後に師の祝公の喪によって官を去った[1]。陽城山に居し、学問を積んで教授し、賢良方正に挙げられ、司徒府に辟召され、雒陽令・冀州刺史・南陽太守・宗正・太常を歴任した。劉焉が観るに霊帝の政治は衰缺であり、王室には故障が多く、かくして建議して言うには 「刺史・太守は貨賂によって官となり、百姓から割剥し、そのため離叛を致しております。清名の重臣を選んで牧伯とし、方夏(地方)を鎮安するのが宜しいでしょう」 劉焉は内心で交阯牧を求め、世の難事を避けようとしていた。議が未だに行なわれない時、侍中である広漢の董扶が私かに劉焉に謂うには 「京師は乱れかかっており、益州の分野には天子の気があります」 劉焉は董扶の言葉を聞き、更めて益州に在る事を意(思)った。たまたま益州刺史郤倹の賦斂が煩擾であり、謠言が遠方にも聞こえ[2]、しかも幷州では刺史の張壹が殺され、涼州は刺史の耿鄙を殺し、劉焉の謀りごとは実施された。出でて監軍使者となり、益州牧を兼領し、陽城侯に封じられ、郤倹を収捕してその罪を治める事となった[3]

 中平五年(188)、新たに州牧を置いた。このとき九卿として州牧に任じられた者は、皆な本秩にて職にあたった。州任の重き事はこれより始まった。 (後漢書)
  州刺史の秩禄は六百石ですが、九卿の中二千石として扱われたというものです。

董扶も亦た求めて蜀郡西部属国都尉となり、太倉令である巴西の趙韙も官を去って倶に劉焉に随った[4]

 是時〔益〕州逆賊馬相・趙祗等於綿竹縣自號黄巾、合聚疲役之民、一二日中得數千人、先殺綿竹令李升、吏民翕集、合萬餘人、便前破雒縣、攻益州殺儉、又到蜀郡・犍為、旬月之間、破壞三郡。相自稱天子、衆以萬數。州從事賈龍領〔家〕兵數百人在犍為東界、攝斂吏民、得千餘人、攻相等、數日破走、州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。焉徙治綿竹、撫納離叛、務行ェ惠、陰圖異計。張魯母始以鬼道、又有少容、常往來焉家、故焉遣魯為督義司馬、住漢中、斷絶谷閣、殺害漢使。焉上書言米賊斷道、不得復通、又託他事殺州中豪強王咸・李權等十餘人、以立威刑。犍為太守任岐及賈龍由此反攻焉、焉撃殺岐・龍。

 この時(188年)、益州の逆賊の馬相・趙祗らが綿竹県で自ら黄巾と号し、疲役の民を合せ聚(あつ)め、一・二日中に数千人を得、先ず綿竹令李升を殺し、吏民を翕集して都合万余人となり、便(ただ)ちに前(進)んで雒県を破り、益州を攻めて郤倹を殺し、又た蜀郡・犍為郡に到り、旬月の間に三郡を破壊した。馬相は天子を自称し、手勢は万を以て単位とした。益州従事賈龍は家兵数百人を所領して犍為の東界に在ったが、吏民を摂斂(糾合)して千余人を得、(六月に)馬相らを攻めて数日で破り走らせ、州界を清静にした。賈龍はかくして吏卒を選抜して劉焉を迎えた。劉焉は綿竹に徙って治め、離叛者を撫納し、務めてェ恵を行ないつつ陰かに異計を図った。
始め、張魯の母が鬼道を行なっており、又た少(や)や容色があった為、常に劉焉の家と往来し、そのため劉焉は張魯を督義司馬として漢中に住(とど)まらせ、谷閣を断絶して漢使を殺害させた。劉焉は上書して言うには、米賊が道を断って復た通行できなくなったと。又た他事に託して州中の豪強である王咸・李権ら十余人を殺し、こうして威刑を立てた[5]。(初平二年(191)、)犍為太守任岐および賈龍はこれによって反いて劉焉を攻めたが、劉焉は撃って任岐・賈龍を殺した[6]

 焉意漸盛、造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。時焉子範為左中郎將、誕治書御史、璋為奉車都尉、皆從獻帝在長安、惟〔叔〕子別部司馬瑁素隨焉。獻帝使璋曉諭焉、焉留璋不遣。時征西將軍馬騰屯郿而反、焉及範與騰通謀、引兵襲長安。範謀泄、奔槐里、騰敗、退還涼州、範應時見殺、於是收誕行刑。議郎河南龐羲與焉通家、乃募將焉諸孫入蜀。時焉被天火燒城、車具蕩盡、延及民家。焉徙治成都、既痛其子、又感祅災、興平元年、癰疽發背而卒。州大吏趙韙等貪璋温仁、共上璋為益州刺史、詔書因以為監軍使者、領益州牧、以韙為征東中郎將、率衆撃劉表。

 劉焉の意気は次第に盛んとなり、乗輿・車具を千余乗ほど造作した。荊州牧劉表が上表し、劉焉は子夏が西河で聖人の論に擬態した事に似せている、と。

 劉表伝本文にはありませんが、裴注の複数で劉表も同様の事をしていたと書かれています。劉焉と劉表は血統の事も絡めて“どっちもどっち”といった感じです。

時に劉焉の子の劉範は左中郎将・劉誕は治書御史・劉璋は奉車都尉であり、皆な献帝に従って長安に在り[7]、ただ叔子(おい)の別部司馬劉瑁が素から劉焉に随っていた。献帝は劉璋を使者として劉焉を曉諭させたが、劉焉は劉璋を留めて遣らなかった[8]
 時に征西将軍馬騰は郿(宝鶏市眉県)に駐屯していたものの反き、劉焉および劉範は馬騰と通謀し、兵を率いて長安を襲わせた。劉範は謀りごとが泄れて槐里(咸陽市興平)に奔り、馬騰は敗れて涼州に退還した。劉範は応時(すぐ)に殺され、劉誕を収捕して刑を行なった[9](以上、194年3月の事です)。議郎である河南の龐羲は劉焉とは家同士の通誼があり、かくして劉焉の諸孫を募り率いて入蜀した。

 劉焉の真意が意外と見えない事件です。後に馬騰は献帝に帰順して衛将軍に叙されるので、「李傕を誅して献帝を救おうとした」 と解釈されがちですが、そもそも馬騰は韓遂の造叛に呼応したのであり、劉焉も朝廷を見限って益州に蟠居したものです。霊帝はダメでも献帝ならオッケーなんて理論は通じません。その逆ならあり得ますが。馬騰らの意図としては、李傕らに取って代ることかと思われます。劉焉が劉虞を意識して再度の中興を謀っていたとしても通じそうです。
 そう謂えば、董卓系の朝廷に実力行使をした人物として劉焉の他に袁術がいます。どちらも劉表と敵対していましたが、劉焉と袁術の間に接点は無さそうです。

時に劉焉は天火(雷火)を被って城が焼け、車具は蕩尽し、延焼は民家にも及んだ。劉焉は成都に徙治したが、その子を痛んでいた処へ又た祅災(火災)に感じ、興平元年(194)に背に癰疽が発して卒した。
 州の大吏の趙韙らは劉璋の温仁を貪らんと、共に上書して劉璋を益州刺史とした。詔書によって監軍使者となり、益州牧を兼領し、趙韙は征東中郎将となり、軍勢を率いて劉表を撃った[10]
[1] 裴松之が調べた処、祝公とは司徒祝恬(在:159〜60)である。

 祝恬の司徒就任は梁冀誅殺による官界大再編の一環でなので、劉焉は反梁冀派に師事していたという事になります。因みに、同じ異動で太尉になった黄瓊は、劉焉と同時に豫州牧となった黄琬の祖父にあたります。どちらも江夏の人で、劉焉の母の甥が黄琬という血縁もあり、公私ともに密接な繋がりがありました。

[2] 郤倹は郤正の祖父である。 『後漢書』では郗倹。
[3] この時、劉虞を用いて幽州牧とし、劉焉を益州牧とし、劉表を荊州刺史とし、賈jを冀州刺史とした。劉虞らは皆ば海内の清名の士であり、或る者は列卿・尚書として選ばれて牧伯となり、各々本秩のまま任にあたった。旧典によれば、伝車は参駕(三頭曳きの馬車)であり、赤色を施して帷裳とした。 (『続漢書』)
―― 裴松之が調べた処、霊帝が崩じた後に義軍が起り、孫堅が荊州刺史王叡を殺した後に劉表が荊州刺史となったのである。劉焉と時を同じくしたのではない。
―― 霊帝が劉焉を引見し、方略を宣示して賞賜を加えた。敕 「劉焉を益州刺史とする。前刺史の劉雋・郤倹は皆な貪残放濫であり、(賄賂を)取受して狼籍であり、元元(万民)には拠り所も無く、呼嗟は野に充ちている。焉よ、到るや便ちに収摂して法を行ない、万姓に示せ。命令を漏露し、癰疽を決潰して国に梗塞を生じさせてはならない」 劉焉は命を受けて行ったが、道路が通じていなかったので荊州の東界に駐まった。 (『漢霊帝紀』)
[4] 董扶、字は茂安。少年時から師に就いて学び、数教に兼通し、『欧陽尚書』に通じた。又た聘士の楊厚に師事し、図讖を究極した。かくて京師に至り、太学に游覧し、家に還って講授し、弟子が遠方より至った。永康元年(167)に日蝕があり、賢良方正の士を挙げさせて策問にて得失を陳べさせた時、左馮翊の趙謙らが董扶を挙げた。董扶は病を理由に詣らず、遥か長安より封緘して上書したが、疾が篤いとして家に帰った。宰府が辟召すること前後十回、公車にて三たび徴され、再び賢良方正や博士・有道に挙げられたが、皆な就かず、名称はいよいよ重くなった。大将軍何進が上表して董扶を薦挙するには 「資質として子游・子夏の徳があり、述べれば孔氏の風があり、焦氏・董氏の消復の術[※]が内にあります。今、まさに幷州・涼州は騷擾し、西戎は蠢叛しており、命じて公車によって特に召し、異礼によって待遇し、奇策を諮謀するのが宜しいでしょう」 こうして霊帝は董扶を徴し、即座に侍中に拝した。

※ 東漢の焦延寿、西漢の董仲舒がいずれも主君を諫めて正道を採らせ、災異を調伏したことによるという。

朝廷に在っては儒宗と称され、甚だ器重された。求めて蜀郡属国都尉となった。董扶が転出して一歳で霊帝が崩じ、天下は大いに乱れた。後に官を去り、齢八十二で家で卒した。
 始め董扶の発辞抗論(論争)については益部でも少双(≒無双)で、そのため“至止”と呼号された。当れる者が莫く、至った所で談論が止まるからである。後に丞相諸葛亮が秦宓に董扶の長所を問うた処、秦宓は 「董扶は秋毫の善も褒め、纖芥の悪も貶した」 と。 (陳寿『益部耆旧伝』)

 楊厚は安帝・順帝の時代の図讖の大家で、公府の辟召などに悉く応じず、順帝に徴されたときも長安まで出てから上書して辞退したりと、妙に董扶の行動と合致するものがあります。楊厚門下では董扶と任安が双璧と称され、諸葛亮と秦宓の問答も広漢の代表的人物として両者を論じたものです。

[5] 李権、字は伯豫。臨邛県長となった。子の李福は犍為の楊戯の『輔臣賛』に見える。 (『益部耆旧雑記』)
[6] 劉焉は起兵したが、天下が董卓を討つのには与せず、州を保って自ら守った。犍為太守任岐は将軍を自称し、従事陳超と挙兵して劉焉を撃ったが、劉焉はこれを撃破した。董卓は司徒趙謙に兵を率いて益州に向わせ、校尉賈龍を説いて、兵を率いて還って劉焉を撃たせた。劉焉は青羌を出して戦い、そのため破殺する事ができた。任岐・賈龍らは皆な蜀郡の人である。 (『英雄記』)

※ 趙謙は蜀郡の出身ですが、司徒に就いたのは王允が殺された後で、就任の歳に歿しています。蜀に派遣された記録も見えません。地元出の趙氏という事で、王粲が趙岐に対抗させたか?

[7] 劉範の父の劉焉は益州牧であり、董卓によって徴発されたが、皆な至らなかった。劉範の兄弟三人を収め、郿塢に鎖械し、陰かに獄に繋いだ。 (『英雄記』)
[8] 時に劉璋は奉車都尉であり、京師に在った。劉焉は疾に託して劉璋を召し、劉璋は自ら上表して劉焉を見舞い、劉焉はかくて劉璋を留めて還さなかった。 (『典略』)
[9] 劉範は長安より逃亡して馬騰の営に往き、劉焉に兵を求めた。劉焉は校尉孫肇に兵を率いて助けに往かせ、長安で敗れた。 (『英雄記』)
[10] 劉焉が死に、子の劉璋が替って刺史となった。おりしも長安では潁川の扈瑁を拝して刺史とし、漢中に入らせた。荊州別駕劉闔は劉璋の将軍の沈彌・婁発・甘寧を反かせ、劉璋を撃ったものの勝てず、敗走して荊州に入った。劉璋は趙韙を遣って荊州に進攻させ、朐䏰(重慶市雲陽)に駐屯させた。 (『英雄記』)
 

劉璋

 劉璋、字季玉、既襲焉位、而張魯稍驕恣、不承順璋、璋殺魯母及弟、遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯、〔數為〕所破。魯部曲多在巴西、故以羲為巴西太守、領兵禦魯。後羲與璋情好攜隙、趙韙稱兵内向、衆散見殺、皆由璋明斷少而外言入故也。

 劉璋、字は季玉。劉焉の位を襲いだが、張魯は稍く驕恣となっており、劉璋には承順しなかったので、劉璋は張魯の母および弟を殺し、かくて讎敵となった。劉璋は累ねて龐羲らに張魯を攻めさせたが、しばしば破られた。張魯の部曲は多くが巴西に在り、そのため龐羲を巴西太守とし、兵を所領して張魯を防禦させた[1]

 劉璋と張魯の対立の結果、巴郡の分割が行なわれます。軸となるのは巴郡本来の江州(重慶市合川区)方面と、龐羲の拠った巴西閬中(南充市)。閬中の龐羲と朐䏰(重慶市雲陽)の趙韙が劉璋にとっての防衛線で、嘉陵三江のうち最東の巴河〜渠江流域は張魯に押さえられていたものと思われます。閬中は保持できたのか、張魯がいつ頃まで巴河流域を保持できたのかが気になる処ですが、『三國志』『後漢書』では判りません。ただ、後に出てきますが、劉備は江州から嘉陵江ではなく涪江を遡上し、北防の門戸である剣閣まで行かずに涪に駐屯しているので、劉備が呼ばれた時点では、巴河流域はまだ張魯の支配下にあったものと考えられます。涪から劉備は北上して張魯を撃退し、葭萌を固めた処で成都攻略に転じたのでしょう。

後に龐羲は劉璋と情の好悪の上で隙を構えた。趙韙は兵を称(とな)えて内に向ったが、手勢が散じて殺された。皆な劉璋が明断に少(か)け、外部の言葉を入れた為である[2]

 范曄『後漢書』は[注2]由来で書かれていますが、『三國志』本文だけで読むと趙韙は讒言によって追い詰められ、挙兵はしたものの済し崩しに滅ぼされたという印象です。東州兵をはじめとする外来勢力に支えられた外来の劉璋が、地元勢力と利害の上で衝突したというのは充分に説得力がありますが、張魯や劉表が付け込まなかった以上、三郡を巻き込んだ大戦には至らなかったんじゃないかと思われます。
 龐羲についても同様に讒言があったと『季漢輔臣賛』の陳寿注にあり、注[1]の『英雄記』が云う専権というのは独断で兵を集めた事を指しているようです。

璋聞曹公征荊州、已定漢中、遣河内陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍、兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公、曹公拜肅為廣漢太守。璋復遣別駕張松詣曹公、曹公時已定荊州、走先主、不復存録松、松以此怨。會曹公軍不利於赤壁、兼以疫死。松還、疵毀曹公、勸璋自絶、因説璋曰:「劉豫州、使君之肺腑、可與交通。」璋皆然之、遣法正連好先主、尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦、正遂還。後松復説璋曰:「今州中諸將龐羲・李異等皆恃功驕豪、欲有外意、不得豫州、則敵攻其外、民攻其内、必敗之道也。」璋又從之、遣法正請先主。璋主簿黄權陳其利害、從事廣漢王累自倒縣於州門以諫、璋一無所納、敕在所供奉先主、先主入境如歸。先主至江州北、由墊江水詣涪、去成都三百六十里、是歳建安十六年也。璋率歩騎三萬餘人、車乘帳幔、精光曜日、往就與會;先主所將將士、更相之適、歡飲百餘日。璋資給先主、使討張魯、然後分別。

 劉璋は曹操が荊州を征し、已に定めたと聞くと、河内の陰溥を遣って曹操を表敬させた。劉璋に振威将軍を、兄の劉瑁に平寇将軍を加えた。劉瑁は狂疾により物故した[3]。劉璋は復た別駕従事である蜀郡の張粛を遣って叟兵[※]三百人に雑多な御物を併せて曹操に送り、曹操は張粛を拝して広漢太守とした。

※ 叟は弱い、老弱。ただし、『書経』や『後漢書』の注によれば、蜀の別名でもある。

劉璋は復た別駕張松を遣って曹操に詣らせたが、曹操は時に已に荊州を定め、劉備を走らせており、再びは張松を録(しる)さず、張松はこれを怨んだ。

 そもそも遣使が頻繁すぎです。おそらく陰溥・張粛は曹操の南征に応じたもので、張松が戦勝の慶賀使なんでしょうが、修好と通献を分割している時点でグダグダです。張粛が荊州開城の後に到来して慶賀使を兼ねた可能性もあり、だとしたら張松は本当に 「何しに来たんだオマエ」 状態です。これは曹操がどうこうというより、劉璋サイドの外交センスの問題でしょう。

おりしも曹操の軍は赤壁で不利となり、疫病での死者もあった。張松は還ると曹操を疵毀し、劉璋に自ら絶つことを勧め[4]、これに因って劉璋に説くには 「劉豫州は使君の肺腑(血族)であり、交通すべきです」 劉璋も然りとし、法正を遣って劉備と連好し、尋いで又た法正および孟達に兵数千を送らせて劉備の守禦を助けさせ、(使命を終えた)法正はかくて還った。後に張松は復た劉璋に説くには 「今、州中の諸将の龐羲・李異らは皆な功を恃んで驕豪であり、外部を意識しています。劉豫州を得られなければ、敵は外部から攻め、民は内部を攻めるでしょう。これは必敗の道です」 劉璋は又たこれに従い、法正を遣って劉備に(入蜀を)請うた。劉璋の主簿黄権は利害を陳べ、従事である広漢の王累は自ら倒(さかしま)に州城の門に懸って諫めたが、劉璋は一つとして納れず、在所には劉備を供奉するよう命じ、劉備の入境は帰還するかのようだった。
劉備は江州の北に至り、墊江の水流に由って涪(綿陽市区)に詣り、成都を去ること三百六十里だった。この歳は建安十六年(211)である。劉璋は歩騎三万余人を率い、車乗の帳幔は日に曜くこと精光であり、往って与に会合に就いた。劉備の率いる将士は相次いで往き、歓飲すること百余日となった。劉璋は劉備に資材を給し、張魯を討たせる事とした後に別れた[5]

 明年、先主至葭萌、還兵南向、所在皆克。十九年、進圍成都數十日、城中尚有精兵三萬人、穀帛支一年、吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年、無恩コ以加百姓。百姓攻戰三年、肌膏草野者、以璋故也、何心能安!」遂開城出降、羣下莫不流涕。先主遷璋于南郡公安、盡歸其財物及故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽、取荊州、以璋為益州牧、駐秭歸。璋卒、南中豪率雍闓據益郡反、附於呉。權復以璋子闡為益州刺史、處交・益界首。丞相諸葛亮平南土、闡還呉、為御史中丞。初、璋長子循妻、龐羲女也。先主定蜀、羲為左將軍司馬、璋時從羲啓留循、先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後、分在呉・蜀。

 明年(212)、(巴から張魯を逐った)劉備は葭萌(剣閣の口/広元市元壩区昭化古城)に至り、兵を還して南に向い、所在では皆な勝った。十九年(214)、進んで成都を囲むこと数十日。城中には尚お精兵三万人、穀帛は一年を支えだけあり、吏民は咸な死戦しようとした。劉璋が言うには 「父子で州に在ること二十余年。百姓に恩徳を加える事が無かった。百姓が攻戦すること三年、肌膏を草野としたのは劉璋のせいであり、どうして心を安んじられよう!」 かくて開城して出降し、群下で流涕せぬ者は莫かった。先主は劉璋を南郡の公安に遷し、その財物の尽くおよび佩びていた振威将軍の印綬を帰した。孫権が関羽を殺して荊州を取ると、劉璋を益州牧として秭帰に駐屯させた。
 劉璋が卒し、南中の豪率の雍闓が益州郡に拠って反き、呉に附いた。孫権は復た劉璋の子の劉闡を益州刺史とし、交州・益州の界首を居処とした。丞相諸葛亮が南土を平らげると、劉闡は呉に還り、御史中丞となった[6]
 劉璋の長子の劉循の妻は、龐羲の娘だった。劉備が蜀を定めると、龐羲を左将軍司馬とした。劉璋は時に龐羲の啓(もう)すに従って劉循を留め、先主は奉車中郎将とした。このため劉璋の二子の後裔は、呉・蜀に分在した。
[1] 龐羲は劉璋と旧交があり、又た劉璋の諸子の難を免れさせた事もあり、そのため劉璋は龐羲を厚く徳とし、龐羲を巴西太守とした。かくて権勢を専らにしたのである。 (『英雄記』)
[2] これより以前、南陽・三輔の人で益州に数万家が流入し、収容して兵とし、名付けて東州兵といった。劉璋の性はェ柔であって威略が無く、東州人は旧民を侵暴したが、劉璋は禁じる事ができなかった。政令は欠損が多く、益州の人は頗る怨んだ。趙韙は素より人心を得ており、劉璋はこれに(州事を)委任していた。趙韙は民の怨みに因って造叛を謀り、かくして荊州に厚く賂して和を請い、陰かに州中の大姓と結び、倶に起兵して還って劉璋を撃った。蜀郡・広漢・犍為は皆な趙韙に応じた。劉璋は成都城に馳入して守り、東州人は趙韙を畏れ、咸な同心して併力して劉璋を助け、皆な殊に死戦して遂に反いた者を破り、進んで趙韙を江州に攻めた。趙韙の将の龐楽・李異が反いて趙韙の軍兵を殺し、趙韙を斬った。 (『英雄記』)
―― 漢朝は益州が乱れていると聞くと、五官中郎将牛亶を益州刺史として遣り、劉璋を徴して九卿としたが、至らなかった。 (『漢献帝春秋』)

 この時代の世相からして、流民はそれぞれ名望や豪族に率いられた集団として各地に客居したものです。例えば田疇や李典のような。東州兵を実際に率いたのも南陽・三輔の勢門で、呉懿呂乂射援兄弟などがそうなのかもです。

[3] 裴松之が調べた処、魏の尚書台から“物故”の意義が問われた時、高堂隆が答えるには 「先師に聞いた処、“物”とは無であり、“故”とは事であり、二度と何事も出来ないとの事である、と」
[4] 張松が曹操に通見した処、曹操は自身で伐った事を矜り、張松を録さなかった。張松は帰還すると劉璋に絶交する事を勧めた。 (『漢晋春秋』)
―― 習鑿歯が言うには、昔、斉桓公が一たびその功を矜ったところ九国が叛いたという。曹操は暫く驕伐となって天下は三分した。いずれも数十年の勤めを俯仰の頃(一動作の僅かな間)に棄てたのだ。惜しい事ではないか! このため君子は謙遜を日昃(日暮れまで)の労とし、人に下る事を慮り、功は高くとも謙譲に居り、勢は尊くとも卑下を守ったのだ。情は物に近く、そのため貴くとも人はその重さを厭わない。徳は群生(万民)に普く、だから業績が広大でも天下はいよいよその慶事を欣ぶのだ。だからそのため、富貴であり、その功業を保ち、その時に隆顕であり、福を百世に伝えるのに、どうして驕矜であって善かろう! 君子はこのため曹操が遂には天下を兼ねる者ではないと知ったのである。
[5] 劉璋は米二十万斛、騎馬千匹、車千乗、上P錦帛を資材として劉備に送った。 (『呉書』)
[6] 劉闡、一名は劉緯。為人りは恭恪で、財を軽んじて義を愛し、仁譲の風があった。後に疾病により家で終った。 (『呉書』)
 

 評曰:昔魏豹聞許負之言則納薄姫於室、劉歆見圖讖之文則名字改易、終於不免其身、而慶鍾二主。此則神明不可虚要、天命不可妄冀、必然之驗也。而劉焉聞董扶之辭則心存益土、聽相者之言則求婚呉氏、遽造輿服、圖竊神器、其惑甚矣。璋才非人雄、而據土亂世、負乘致寇、自然之理、其見奪取、非不幸也。

 評に曰く、昔、魏豹は(国母になるという)許負の言葉を聞いて薄姫(漢文帝の生母)を後室に納れ[1]劉歆は(帝王の名を示す)図讖の文を見て名字を(劉秀と)改易したが、終(つい)にその身は(禍を)免れず、二主の慶鍾となった。これは神明とは虚しく求めるものではなく、天命とは妄りに冀うものではなく、験とは必然だからである。劉焉は董扶の言辞を聞いて心を益土に存らせ、観相者の言葉を聞いて呉氏に求婚し、輿服を遽造(急造)し、神器を図竊し、その惑乱は甚だしいものだった。劉璋の才は人の雄たるものではなく、そのため乱世に土地に拠って乗輿を負いながら、寇を致されたのは自然の道理であり、奪取されたのは不幸とはいえないのである[2]
[1] 許負は河内温県の婦人である。漢高祖が封じて明雌亭侯とした。 (孔衍『漢魏春秋』)
―― 裴松之が考えるに、今、東人が母を呼んで“負”とする為、孔衍は許負を婦人としたのであろう。尤もらしい事だ。しかし漢高祖が皆なを列侯に封じた時、未だに郷亭の爵は無かった。この封がそうだったのか疑わしい。
[2] 張璠が曰うには、劉璋は愚弱ではあったが善言を守り、そして亦た宋襄公・徐偃王の徒であって、無道の主ではなかった。張松・法正との君臣の義が正しくなかったとはいえ、(臣としての)名を委ねて実質を附されているのであり、進んでは韓嵩・劉先が劉表に説いたようには事勢を顕かには陳べず、退いては陳平・韓信が項羽を去ったようには絶縁を告げたり奔亡したりせず、両端を持して弐心を携え、不忠を謀った。罪に準ずるものである。

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