劉焉字君郎、江夏竟陵人也、漢魯恭王之後裔、章帝元和中徙封竟陵、支庶家焉。焉少仕州郡、以宗室拜中郎、後以師祝公喪去官。居陽城山、積學教授、舉賢良方正、辟司徒府、雒陽令・冀州刺史・南陽太守・宗正・太常。焉覩靈帝政治衰缺、王室多故、乃建議言:「刺史・太守、貨賂為官、割剥百姓、以致離叛。可選清名重臣以為牧伯、鎮安方夏。」焉内求交阯牧、欲避世難。議未即行、侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂、益州分野有天子氣。」焉聞扶言、意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾、謠言遠聞、而并州殺刺史張壹、涼州殺刺史耿鄙、焉謀得施。出為監軍使者、領益州牧、封陽城侯、當收儉治罪;扶亦求為蜀郡西部屬國都尉、及太倉令(會)巴西趙韙去官、倶隨焉。
中平五年(188)、新たに州牧を置いた。このとき九卿として州牧に任じられた者は、皆な本秩にて職にあたった。州任の重き事はこれより始まった。 (後漢書)
州刺史の秩禄は六百石ですが、九卿の中二千石として扱われたというものです。
是時〔益〕州逆賊馬相・趙祗等於綿竹縣自號黄巾、合聚疲役之民、一二日中得數千人、先殺綿竹令李升、吏民翕集、合萬餘人、便前破雒縣、攻益州殺儉、又到蜀郡・犍為、旬月之間、破壞三郡。相自稱天子、衆以萬數。州從事賈龍領〔家〕兵數百人在犍為東界、攝斂吏民、得千餘人、攻相等、數日破走、州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。焉徙治綿竹、撫納離叛、務行ェ惠、陰圖異計。張魯母始以鬼道、又有少容、常往來焉家、故焉遣魯為督義司馬、住漢中、斷絶谷閣、殺害漢使。焉上書言米賊斷道、不得復通、又託他事殺州中豪強王咸・李權等十餘人、以立威刑。犍為太守任岐及賈龍由此反攻焉、焉撃殺岐・龍。
焉意漸盛、造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。時焉子範為左中郎將、誕治書御史、璋為奉車都尉、皆從獻帝在長安、惟〔叔〕子別部司馬瑁素隨焉。獻帝使璋曉諭焉、焉留璋不遣。時征西將軍馬騰屯郿而反、焉及範與騰通謀、引兵襲長安。範謀泄、奔槐里、騰敗、退還涼州、範應時見殺、於是收誕行刑。議郎河南龐羲與焉通家、乃募將焉諸孫入蜀。時焉被天火燒城、車具蕩盡、延及民家。焉徙治成都、既痛其子、又感祅災、興平元年、癰疽發背而卒。州大吏趙韙等貪璋温仁、共上璋為益州刺史、詔書因以為監軍使者、領益州牧、以韙為征東中郎將、率衆撃劉表。
劉表伝本文にはありませんが、裴注の複数で劉表も同様の事をしていたと書かれています。劉焉と劉表は血統の事も絡めて“どっちもどっち”といった感じです。
時に劉焉の子の劉範は左中郎将・劉誕は治書御史・劉璋は奉車都尉であり、皆な献帝に従って長安に在り[7]、ただ叔子(おい)の別部司馬劉瑁が素から劉焉に随っていた。献帝は劉璋を使者として劉焉を曉諭させたが、劉焉は劉璋を留めて遣らなかった[8]。 劉焉の真意が意外と見えない事件です。後に馬騰は献帝に帰順して衛将軍に叙されるので、「李傕を誅して献帝を救おうとした」 と解釈されがちですが、そもそも馬騰は韓遂の造叛に呼応したのであり、劉焉も朝廷を見限って益州に蟠居したものです。霊帝はダメでも献帝ならオッケーなんて理論は通じません。その逆ならあり得ますが。馬騰らの意図としては、李傕らに取って代ることかと思われます。劉焉が劉虞を意識して再度の中興を謀っていたとしても通じそうです。
そう謂えば、董卓系の朝廷に実力行使をした人物として劉焉の他に袁術がいます。どちらも劉表と敵対していましたが、劉焉と袁術の間に接点は無さそうです。
祝恬の司徒就任は梁冀誅殺による官界大再編の一環でなので、劉焉は反梁冀派に師事していたという事になります。因みに、同じ異動で太尉になった黄瓊は、劉焉と同時に豫州牧となった黄琬の祖父にあたります。どちらも江夏の人で、劉焉の母の甥が黄琬という血縁もあり、公私ともに密接な繋がりがありました。
※ 東漢の焦延寿、西漢の董仲舒がいずれも主君を諫めて正道を採らせ、災異を調伏したことによるという。
朝廷に在っては儒宗と称され、甚だ器重された。求めて蜀郡属国都尉となった。董扶が転出して一歳で霊帝が崩じ、天下は大いに乱れた。後に官を去り、齢八十二で家で卒した。楊厚は安帝・順帝の時代の図讖の大家で、公府の辟召などに悉く応じず、順帝に徴されたときも長安まで出てから上書して辞退したりと、妙に董扶の行動と合致するものがあります。楊厚門下では董扶と任安が双璧と称され、諸葛亮と秦宓の問答も広漢の代表的人物として両者を論じたものです。
※ 趙謙は蜀郡の出身ですが、司徒に就いたのは王允が殺された後で、就任の歳に歿しています。蜀に派遣された記録も見えません。地元出の趙氏という事で、王粲が趙岐に対抗させたか?
劉璋、字季玉、既襲焉位、而張魯稍驕恣、不承順璋、璋殺魯母及弟、遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯、〔數為〕所破。魯部曲多在巴西、故以羲為巴西太守、領兵禦魯。後羲與璋情好攜隙、趙韙稱兵内向、衆散見殺、皆由璋明斷少而外言入故也。
劉璋と張魯の対立の結果、巴郡の分割が行なわれます。軸となるのは巴郡本来の江州(重慶市合川区)方面と、龐羲の拠った巴西閬中(南充市)。閬中の龐羲と朐䏰(重慶市雲陽)の趙韙が劉璋にとっての防衛線で、嘉陵三江のうち最東の巴河〜渠江流域は張魯に押さえられていたものと思われます。閬中は保持できたのか、張魯がいつ頃まで巴河流域を保持できたのかが気になる処ですが、『三國志』『後漢書』では判りません。ただ、後に出てきますが、劉備は江州から嘉陵江ではなく涪江を遡上し、北防の門戸である剣閣まで行かずに涪に駐屯しているので、劉備が呼ばれた時点では、巴河流域はまだ張魯の支配下にあったものと考えられます。涪から劉備は北上して張魯を撃退し、葭萌を固めた処で成都攻略に転じたのでしょう。
後に龐羲は劉璋と情の好悪の上で隙を構えた。趙韙は兵を称(とな)えて内に向ったが、手勢が散じて殺された。皆な劉璋が明断に少(か)け、外部の言葉を入れた為である[2]。 范曄『後漢書』は[注2]由来で書かれていますが、『三國志』本文だけで読むと趙韙は讒言によって追い詰められ、挙兵はしたものの済し崩しに滅ぼされたという印象です。東州兵をはじめとする外来勢力に支えられた外来の劉璋が、地元勢力と利害の上で衝突したというのは充分に説得力がありますが、張魯や劉表が付け込まなかった以上、三郡を巻き込んだ大戦には至らなかったんじゃないかと思われます。
龐羲についても同様に讒言があったと『季漢輔臣賛』の陳寿注にあり、注[1]の『英雄記』が云う専権というのは独断で兵を集めた事を指しているようです。
璋聞曹公征荊州、已定漢中、遣河内陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍、兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公、曹公拜肅為廣漢太守。璋復遣別駕張松詣曹公、曹公時已定荊州、走先主、不復存録松、松以此怨。會曹公軍不利於赤壁、兼以疫死。松還、疵毀曹公、勸璋自絶、因説璋曰:「劉豫州、使君之肺腑、可與交通。」璋皆然之、遣法正連好先主、尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦、正遂還。後松復説璋曰:「今州中諸將龐羲・李異等皆恃功驕豪、欲有外意、不得豫州、則敵攻其外、民攻其内、必敗之道也。」璋又從之、遣法正請先主。璋主簿黄權陳其利害、從事廣漢王累自倒縣於州門以諫、璋一無所納、敕在所供奉先主、先主入境如歸。先主至江州北、由墊江水詣涪、去成都三百六十里、是歳建安十六年也。璋率歩騎三萬餘人、車乘帳幔、精光曜日、往就與會;先主所將將士、更相之適、歡飲百餘日。璋資給先主、使討張魯、然後分別。
※ 叟は弱い、老弱。ただし、『書経』や『後漢書』の注によれば、蜀の別名でもある。
劉璋は復た別駕張松を遣って曹操に詣らせたが、曹操は時に已に荊州を定め、劉備を走らせており、再びは張松を録(しる)さず、張松はこれを怨んだ。そもそも遣使が頻繁すぎです。おそらく陰溥・張粛は曹操の南征に応じたもので、張松が戦勝の慶賀使なんでしょうが、修好と通献を分割している時点でグダグダです。張粛が荊州開城の後に到来して慶賀使を兼ねた可能性もあり、だとしたら張松は本当に 「何しに来たんだオマエ」 状態です。これは曹操がどうこうというより、劉璋サイドの外交センスの問題でしょう。
おりしも曹操の軍は赤壁で不利となり、疫病での死者もあった。張松は還ると曹操を疵毀し、劉璋に自ら絶つことを勧め[4]、これに因って劉璋に説くには 「劉豫州は使君の肺腑(血族)であり、交通すべきです」 劉璋も然りとし、法正を遣って劉備と連好し、尋いで又た法正および孟達に兵数千を送らせて劉備の守禦を助けさせ、(使命を終えた)法正はかくて還った。後に張松は復た劉璋に説くには 「今、州中の諸将の龐羲・李異らは皆な功を恃んで驕豪であり、外部を意識しています。劉豫州を得られなければ、敵は外部から攻め、民は内部を攻めるでしょう。これは必敗の道です」 劉璋は又たこれに従い、法正を遣って劉備に(入蜀を)請うた。劉璋の主簿黄権は利害を陳べ、従事である広漢の王累は自ら倒(さかしま)に州城の門に懸って諫めたが、劉璋は一つとして納れず、在所には劉備を供奉するよう命じ、劉備の入境は帰還するかのようだった。明年、先主至葭萌、還兵南向、所在皆克。十九年、進圍成都數十日、城中尚有精兵三萬人、穀帛支一年、吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年、無恩コ以加百姓。百姓攻戰三年、肌膏草野者、以璋故也、何心能安!」遂開城出降、羣下莫不流涕。先主遷璋于南郡公安、盡歸其財物及故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽、取荊州、以璋為益州牧、駐秭歸。璋卒、南中豪率雍闓據益郡反、附於呉。權復以璋子闡為益州刺史、處交・益界首。丞相諸葛亮平南土、闡還呉、為御史中丞。初、璋長子循妻、龐羲女也。先主定蜀、羲為左將軍司馬、璋時從羲啓留循、先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後、分在呉・蜀。
この時代の世相からして、流民はそれぞれ名望や豪族に率いられた集団として各地に客居したものです。例えば田疇や李典のような。東州兵を実際に率いたのも南陽・三輔の勢門で、呉懿や呂乂、射援兄弟などがそうなのかもです。
評曰:昔魏豹聞許負之言則納薄姫於室、劉歆見圖讖之文則名字改易、終於不免其身、而慶鍾二主。此則神明不可虚要、天命不可妄冀、必然之驗也。而劉焉聞董扶之辭則心存益土、聽相者之言則求婚呉氏、遽造輿服、圖竊神器、其惑甚矣。璋才非人雄、而據土亂世、負乘致寇、自然之理、其見奪取、非不幸也。