三國志修正計画

蜀志卷三十九 蜀書九/董劉馬陳董呂傳

董和

 董和字幼宰、南郡枝江人也、其先本巴郡江州人。漢末、和率宗族西遷、益州牧劉璋以為牛鞞・江原長・成都令。蜀土富實、時俗奢侈、貨殖之家、侯服玉食、婚姻葬送、傾家竭産。和躬率以儉、惡衣蔬食、防遏踰僭、為之軌制、所在皆移風變善、畏而不犯。然縣界豪彊憚和嚴法、説璋轉和為巴東屬國都尉。吏民老弱相攜乞留和者數千人、璋聽留二年、還遷益州太守、其清約如前。與蠻夷從事、務推誠心、南土愛而信之。

 董和、字は幼宰。南郡枝江の人で、その先祖はもとは巴郡江州の人だった。漢末、董和は宗族を率いて西遷し、益州牧劉璋が牛鞞長・江原長・成都令とした。蜀土は富んで充実していたが、時の風俗は奢侈であり、貨殖の家は侯服玉食し、婚姻・葬送には家を傾けて家産を竭くした。董和は躬ずから倹素を率先して悪衣蔬食し、踰僭(制度を越えた贅沢)を防遏(防止)して軌制(規制)した為、所在では皆な風俗が移って善に変じ、畏れて犯さなかった。県界の豪彊は董和の厳法を憚り、劉璋に説いて董和を転じて巴東属国都尉とした。

 前半では如何にも率先垂範による教化が成果を挙げた風な書き方をしていましたが、「畏而不犯」「豪彊憚和厳法」などから、法家的な手法で臨んだ事が判ります。諸葛亮とは気が合う訳です。

吏民や老弱は相い携えて董和の留任を乞う者が数千人となり、劉璋は聴許して二年を留め、還ると益州太守に遷した。その清約は以前の通りだった。蛮夷と与に従事し、誠心を推して務め、南土は愛し信じた。

 位官は上ってもどんどん環境の悪い所に徙される、過失の見つからないうるさ型に対する典型的な左遷人事を仕掛けられています。例えば孔融が董卓によって北海相に遷されたような感じ?

 先主定蜀、徴和為掌軍中郎將、與軍師將軍諸葛亮並署左將軍大司馬府事、獻可替否、共為歡交。自和居官食祿、外牧殊域、内幹機衡、二十餘年、死之日家無儋石之財。

 劉備は蜀を定めると董和を徴して掌軍中郎将とし、軍師将軍諸葛亮と揃って左将軍大司馬府事に署し、献可替否(勧善諫悪の進言)して(諸葛亮とは)共に歓交した。董和は官にあって禄を食んでより、外では殊域(異域)にて牧治し、内は機衡(枢機)を幹事すること二十余年。死の際に家には儋石(微量の穀)の財も無かった。

亮後為丞相、教與羣下曰:「夫參署者、集衆思廣忠益也。若遠小嫌、難相違覆、曠闕損矣。違覆而得中、猶棄弊蹻而獲珠玉。然人心苦不能盡、惟徐元直處茲不惑、又董幼宰參署七年、事有不至、至于十反、來相啓告。苟能慕元直之十一、幼宰之殷勤、有忠於國、則亮可少過矣。」又曰:「昔初交州平、屡聞得失、後交元直、勤見啓誨、前參事於幼宰、毎言則盡、後從事於偉度、數有諫止;雖姿性鄙暗、不能悉納、然與此四子終始好合、亦足以明其不疑於直言也。」 其追思和如此。

諸葛亮は後に丞相になると、教書を群下に与えるには 「官署に参じる者とは、衆思を広く集めて忠益するものだ。もし遠小である事を嫌い、(己が悪感情を)違覆(再考)する事を難しとすれば、曠(むな)しく欠損するだけである。違覆から中るを得れば、猶お弊蹻(ボロ草履)を棄てて珠玉を獲るようなものだ。人心とは尽くをする事が苦手で、ただ徐元直だけは処して惑わず、又た董幼宰は参署して七年、至らぬ事があれば十反して考えた後に至り、相い啓告(上申)しに来た。苟くも元直の十分の一を慕う事ができ、幼宰の殷勤さを以て国に忠であれば、私も過失が少なくいられように」
又た言った 「昔、崔州平と交際した当初、しばしば得失を聞いた。後に徐元直と交わり、勤めて啓誨(訓喩)された。前に董幼宰と参事したが、言う毎に言葉を尽し、後に胡偉度が従事した時は、しばしば諫止の言葉があった。(私は)姿性鄙暗で悉くは納れる事が出来なかったとはいえ、この四子とは終始好合した。直言を疑(まど)わなかった事の証明として足りるだろう」 董和を追思するのはこのようであった[1]
[1] 偉度とは、姓は胡、名は済。義陽の人である。諸葛亮の主簿となって忠尽の效があり、そのため褒述された。諸葛亮が卒すると中典軍となって諸軍を統べ、成陽亭侯に封じられた。中監軍・前将軍となり、漢中を督して仮節・領兗州刺史となり、右驃騎将軍に至った。胡済の弟の胡博は、長水校尉・尚書を歴任した。

劉巴

 劉巴字子初、零陵烝陽人也。少知名、荊州牧劉表連辟、及舉茂才、皆不就。表卒、曹公征荊州。先主奔江南、荊・楚羣士從之如雲、而巴北詣曹公。曹公辟為掾、使招納長沙・零陵・桂陽。會先主略有三郡、巴不得反使、遂遠適交阯、先主深以為恨。

 劉巴、字は子初。零陵烝陽の人である。若くして名を知られ[1]、荊州牧劉表が連(しきり)に辟し、茂才にも挙げたが、皆な就かなかった。劉表が卒し、曹操が荊州を征した。劉備は江南に奔り、荊・楚の群士は雲の如く従ったが、劉巴は北のかた曹操に詣った。曹操は辟して掾とし、長沙・零陵・桂陽を招納させた[2]。おりしも劉備が三郡を略有し、劉巴は反使(復命)できず、かくて遠方の交阯に適(ゆ)[3]、劉備は深く悔恨した。

 巴復從交阯至蜀。俄而先主定益州、巴辭謝罪負、先主不責。而諸葛孔明數稱薦之、先主辟為左將軍西曹掾。建安二十四年、先主為漢中王、巴為尚書、後代法正為尚書令。躬履清儉、不治産業、又自以歸附非素、懼見猜嫌、恭默守靜、退無私交、非公事不言。先主稱尊號、昭告于皇天上帝后土神祇、凡諸文誥策命、皆巴所作也。章武二年卒。卒後、魏尚書僕射陳羣與丞相諸葛亮書、問巴消息、稱曰劉君子初、甚敬重焉。

 劉巴は復た交阯より蜀に至った[4]。俄かに劉備が益州を定めると劉巴は辞謝罪負したが、劉備は責めなかった[5]。しかも諸葛孔明がしばしば称薦した為、劉備は辟して左将軍西曹掾とした[6]。建安二十四年(219)、劉備は漢中王となると劉巴を尚書とし、後に法正に代えて尚書令とした。
 躬ずから清倹を履み、産業を治めず、又た自身の帰附が素志でなかった事から猜嫌されるのを懼れ、恭默守静して退朝すれば私交せず、公事でなければ発言しなかった[7]。劉備が尊号を称し、皇天上帝・后土神祇へ昭告したが、凡そ諸々の文誥策命は皆な劉巴が作成したものだった。章武二年(222)に卒した。卒した後、魏の尚書僕射陳羣が丞相諸葛亮に書簡を与えて劉巴の消息を問うたが、劉君子初と称し、甚だ敬重した[8]

 現代に伝わる劉巴像は、以下の『零陵先賢伝』由来の成分で成り立っています。根本的な問題として、『零陵先賢伝』はどの程度信用できるのでしょう。劉巴以外の零陵人の伝でも引用されていないので比較検討はできませんが、基本的に零陵人に対する褒め言葉や、敵対者に対する毀貶は信用できません。それから蜀漢に対する批判論調が透けて見えます。
 劉巴については法正の後任という事で、軍略面の才能があった事は理解できます。ただ、注[6]に象徴されるような、才能抜群説や士大夫としての異常なプライドについては穿って見てもよさそうです。已むなく劉備に屈したから扱い辛いんじゃないかとか、張飛の止宿は私交の部類だから会話を控えたんじゃないかとか。百銭政策も呉の大銭政策と通じるものがあって興味深いんですが、奈何せん、これ以外の資料で確認できません。蜀は歴史的にも独自の通貨政策が行なわれがちな場所なので、無かったとは言い切れませんが、劉巴が建言したのかどうかは又た別問題でしょう。蜀漢の経済政策としては、他に塩鉄の専売が確認できます。

[1] 劉巴の祖父の劉曜は蒼梧太守であり、父の劉祥は江夏太守・盪寇将軍となった。時に孫堅が挙兵して董卓を討ち、南陽太守張咨が軍糧を供給しないとしてこれを殺した。劉祥は孫堅と同心し、南陽の士民はこのため劉祥を怨み、兵を挙げてこれを攻め、劉祥は戦って敗亡した。劉表も亦た平素より劉祥とは不仲で、劉巴を拘引して殺そうとし、劉祥が嘗て親信していた人をしばしば遣って密かに劉巴に詐りを謂わせるには 「劉牧が危害を加えようとしています。私と逃げましょう」 このような事が再三あったが、劉巴はそのたび応じなかった。(客は)具さに劉表に報じ、劉表はかくして(理由を得られずに)劉巴を殺さなかった。齢十八で郡が戸曹史主記主簿に署した。
 劉先が周不疑を遣って劉巴に就いて学ばせようとした処、劉巴は答えて 「昔、荊北に游んだ折に師門を渉りましたが、“記問の学”[※]であって、名を記すにも不足するものでした。(私の)内に楊朱の守静の術が無く、外には墨翟の務時の風が無く、それは天の南の箕宿(容器の星座)が空虚で実用できないようなものです。書を賜った処、賢甥の鸞鳳の艶を摧き、燕雀の庭に遊ばせたいとか。どのように啓明すれば宜しいのか? “有若無、実若虚(『論語』)”に対して愧じ、どうして堪えられましょう!」 (『零陵先賢伝』)

※ 暗記するだけの学問。筑摩訳によれば、質問に対する回答を予め暗記しておく学問。

[2] 曹操は烏林で敗れ、北に還る時、桓階を遣ろうとしたが、桓階は劉巴が適任であると辞退した。劉巴が曹操に謂うには 「劉備が荊州に拠っています。無理」 曹操 「劉備が図るようなら、孤が六軍を以て続こう」 (『零陵先賢伝』)
[3] 劉巴は零陵に駐まったが、事は成らず、交州を歴游して途中から京師に還ろうとした。時に諸葛亮は(零陵郡の)臨烝に在っ(て劉巴を勧誘し)たが、劉巴は諸葛亮に書簡を与え 「危険を乗歴し、義を思う民や自ら与する人々に遭遇し、天の心を承け、物の性に順い、自身の謀りごと通りには勧動させられません。もし道が窮まり暦数が尽きたなら滄海に命を託し、再びは荊州を顧みないでしょう」 諸葛亮は追って謂うには 「劉公は雄才蓋世で、荊土に拠って徳に帰さない者は莫く、天人ともに去就は已に知っておろう。足下はどうして行こうというのか?」 劉巴 「命を受けて来たのだ。成らねば還るのが妥当です。足下は何を言っているのか!」 (『零陵先賢伝』)
[4] 劉巴は交阯に入り、姓を更めて張とした。交阯太守士燮と計議したが合わず、かくして牂牁道を経由して去った。益州郡に拘留され、太守は殺そうとした。主簿 「これは常ならぬ人です。殺してはなりません」 主簿は請うて自ら送って州に至り、益州牧劉璋に通見した。劉璋の父の劉焉は昔に劉巴の父の劉祥に孝廉に挙げられており、劉巴を見ると驚喜し、大事の毎にそのつど咨訪した。 (『零陵先賢伝』)
―― 裴松之が調べた処、劉焉は漢霊帝の時に已に宗正・太常を歴任し、(188年に)転出して益州牧となった。劉祥は孫堅が長沙太守となった始め(187年)に江夏太守であり、孝廉に挙げる事など出来ないのは明らかである。
[5] 劉璋は法正を遣って劉備を迎えさせた。劉巴は諫め 「劉備は雄たる人です。入ればきっと害を為しましょう。内に入れてはなりません」 入った後、劉巴は復た諫めた 「もし劉備に張魯を討たせれば、これは虎を山林に放つ事です」 劉璋は聴かず、劉巴は閉門して疾を称した。劉備は成都を攻めると、軍中に布令し 「劉巴を害した者がいたら、誅は三族に及ぶ」。劉巴を得ると甚だ喜んだ。 (『零陵先賢伝』)
[6] 張飛が嘗て劉巴に就いて止宿した時、劉巴は与には語らず、張飛はかくて忿恚した。諸葛亮が劉巴に謂うには 「張飛はまことに武人ではあるが、足下を敬慕している。主公は今まさに文武を収合して大事を定めようとしている。足下は天素高亮ではあるが、少しく意を降してはどうか」 劉巴 「大丈夫の処世とは、四海の英雄と交わるもので、兵子どもと語り合うなどとはどうなのだ?」 劉備はこれを聞くと怒り 「孤は天下を定めようとしているのに、子初はこれを乱すばかりだ。北に還ろうとし、ここに道を仮りているのか。孤の大事を成そうとしておるのか?」
劉備は又た 「子初の才智は衆人に冠絶し、孤であれば任用できるが、孤でなければ任せきるのは難しい」 諸葛亮も亦た 「帷幄の中で籌策を運用するのは、私は子初に遠く及ばない! もし枹鼓を提り、軍門に会同し、百姓を喜勇させるのであれば、この人と議す事ができよう」
劉璋を攻める当初、劉備は士衆と誓約し 「もし事が定まれば、府庫の百物の事に孤は預からない」 成都を抜くに及び、士衆は皆な干戈を捨て、諸藏に赴り競って宝物を取った。そのため軍用が不足し、劉備は甚だ憂えた。劉巴 「容易い事です。ただ百銭に値する貨幣を鋳造し、諸々の物価を定め、吏に命じて官市を開かせるのです」 劉備はこれに随い、数月の間に府庫は充実した。 (『零陵先賢伝』)
[7] この時、中夏人の情は未だ一つとならず、劉備が蜀に在ると聞くと、四方は延頸して待望した。しかし劉備は鋭意、真位に即こうとしており、劉巴はこれでは天下に不広を示す事になると考え、緩めさせようとした。主簿雍茂と劉備を諫めたが、劉備は他事によって雍茂を殺し、このため遠人は再びは至らなくなった。 (『零陵先賢伝』)
[8] 輔呉将軍張昭が嘗て孫権に対して劉巴の褊阨(狭量)を論じて、張飛をあれほど甚だしく拒むべきではなかったと。孫権 「もし子初が世の浮沈に随い、玄徳に容悦(迎合)して不適当な人と交際したなら、どうして高士と呼ばれるに足る人物でいられたろうか?」 (『零陵先賢伝』)
 

馬良

 馬良字季常、襄陽宜城人也。兄弟五人、並有才名、郷里為之諺曰:「馬氏五常、白眉最良。」良眉中有白毛、故以稱之。先主領荊州、辟為從事。及先主入蜀、諸葛亮亦從後往、良留荊州、與亮書曰:「聞雒城已拔、此天祚也。尊兄應期贊世、配業光國、魄兆見矣。夫變用雅慮、審貴垂明、於以簡才、宜適其時。若乃和光ス遠、邁コ天壤、使時閑於聽、世服於道、齊高妙之音、正鄭・衞之聲、並利於事、無相奪倫、此乃管絃之至、牙・曠之調也。雖非鍾期、敢不撃節!」先主辟良為左將軍掾。

 馬良、字は季常。襄陽宜城の人である。兄弟は五人で、揃って才名があり、郷里はこの為に諺して 「馬氏五常、白眉最良」と。馬良の眉中には白毛があり、そのためこれを称したのである。劉備は荊州を領すると、辟して従事とした。劉備が入蜀するに及び、諸葛亮も亦た後に往って従い、馬良は荊州に留まった。諸葛亮に書簡を与えて 「聞けば雒城は已に抜かれたとか。これぞ天祚です。尊兄は期に応じ世を賛(たす)け、大業に配偶して国を光輝させ、魄兆(兆候)が出見しています[1]。変事には雅慮を用(はたら)かせ、審判には明察を垂れる事を貴び、才を簡抜する事でその時に適うものです。仁徳によって邁進すれば、高妙の音が鄭・衛の淫逸な音楽を正し、伯牙・師曠のような名手が管弦を調律するようなもので、鍾期(伯牙の琴の理解者)でなくとも調子を撃たずにはいられません!」 劉備は馬良を辟して左将軍掾とした。

 内容がないよう! の典型です。あしからず。

 後遣使呉、良謂亮曰:「今銜國命、協穆二家、幸為良介於孫將軍。」亮曰:「君試自為文。」良即為草曰:「寡君遣掾馬良通聘繼好、以紹昆吾・豕韋之勳。其人吉士、荊楚之令、鮮於造次之華、而有克終之美、願降心存納、以慰將命。」權敬待之。
 先主稱尊號、以良為侍中。及東征呉、遣良入武陵招納五溪蠻夷、蠻夷渠帥皆受印號、咸如意指。會先主敗績於夷陵、良亦遇害。先主拜良子秉為騎都尉。

 後に呉に遣使される時、馬良は諸葛亮に謂った。「今、国命を奉じて二家を協穆させるわけですが、私の為に孫将軍に仲介して頂ければ幸いです」 諸葛亮 「君が試しに文章を書いてみよ」 馬良は即座に草稿した 「寡君は掾の馬良を遣って聘を通じ好誼を継続させ、昆吾・豕韋の勲功を紹(つ)がせようとしています。この人は吉士で、荊楚に令名があり、造次の華は少なくありますが、克終の美があります。願わくば心を降して納れられ、国命を奉じたものを慰撫されん事を」 孫権は敬して待遇した。
 劉備が尊号を称すると、馬良を侍中とした。呉に東征するに及び、馬良を遣って武陵に入らせ、五溪の蛮夷を招納させた。蛮夷の渠帥は皆な印号を受け、咸な意旨の如くした。おりしも劉備が夷陵で敗績し、馬良も亦た害に遇った。劉備は馬良の子の馬秉を拝して騎都尉とした。
馬謖

 良弟謖、字幼常、以荊州從事隨先主入蜀、除緜竹成都令・越雟太守。才器過人、好論軍計、丞相諸葛亮深加器異。先主臨薨謂亮曰:「馬謖言過其實、不可大用、君其察之!」亮猶謂不然、以謖為參軍、毎引見談論、自晝達夜。

 馬良の弟の馬謖は、字を幼常といった。荊州従事として劉備の入蜀に随い、緜竹令・成都令・越雟太守に叙された。才器は人に過ぎ、軍計を論じる事を好み、丞相諸葛亮は深く器異を加えた。先主は薨去に臨んで諸葛亮に謂うには 「馬謖の言葉は実質を越えている。大事に用いてはならない。君よ、察せよ!」 諸葛亮は猶おも納得せず、馬謖を参軍とし、引見する毎に談論し、昼から夜に達した[2]

 建興六年、亮出軍向祁山、時有宿將魏延・呉懿等、論者皆言以為宜令為先鋒、而亮違衆拔謖、統大衆在前、與魏將張郃戰于街亭、為郃所破、士卒離散。亮進無所據、退軍還漢中。謖下獄物故、亮為之流涕。良死時年三十六、謖年三十九。

 建興六年(228)、諸葛亮は軍を出して祁山に向った。時に宿将として魏延呉懿らがあり、論者は皆な(彼らに)命じて先鋒にするのが妥当だと言ったが、諸葛亮は衆議に違えて馬謖を抜擢し、大兵を統べて前軍に置き、魏将の張郃と街亭で戦わせたが、張郃に破られて士卒は離散した。諸葛亮は進んでも拠るべが無く、軍を退けて漢中に還った。

 街亭は当時の略陽県の南界に位置して正しくは街泉亭と云い、東漢では街泉県治が置かれていました。天水市泰安の東界/隴城郷のさらに東郊に古戦場跡が遺されています。

馬謖は下獄して物故し、諸葛亮はこの為に流涕した。馬良が死んだ時は齢三十六であり、馬謖の齢は三十九だった[3]

 諸葛亮伝とは違って“刑戮”とは書かれていないのは、積極的に悪事を働いた訳ではないという状況に配慮した表現だと解釈もできますが、向朗伝には本文として“馬謖が逃亡し”“向朗が検挙しなかった事を諸葛亮は恨んだ”とあります。これが本当なら、命令違反による敗北の審議中に逃亡した事が決定打となり、諸葛亮としても処刑に拘らざるを得なくなったと推測できます。でないと 「恨」 字を用いる必然性が無くなります。

[1] 裴松之が考えるに、馬良は諸葛亮と兄弟の義結を為したのか、或いは親族同士だったのだろう。諸葛亮が年長であり、馬良はそのため諸葛亮を尊兄と呼んだのだ。
[2] 建興三年(225)、諸葛亮は南中に遠征し、馬謖はこれを送ること数十里。諸葛亮は言った 「共に謀ること歴年であるが、今、更めて良計を示してくれ」 馬謖 「南中は険阻・遥遠を恃み、服従しなくなって久しくあります。今日破ったとしても、明日には反くだけの事です。今、公はまさに国を傾けて北伐し、彊賊と事を構えようとしております。彼らが官勢の内部が空虚である事を知れば、叛く事も亦た速いでしょう。もし遺類を殄滅し尽して後患を除けば、これは仁者の情ではなく、加えて又た倉卒(短期間)には出来ません。用兵の道は心を攻めるを上策として城を攻めるを下策とし、心を戦わせるを上策として兵を戦わせるを下策とします。願わくば公よ、その心を心服させられよ」 諸葛亮はその策を納れ、孟獲を赦す事で南方は服属した。そのため終に諸葛亮の世には、南方は再びは反こうとしなかった。 (『襄陽記』)

 最後の一文はもちろん比喩ですよ? 建興十一年に劉冑が叛いたとか云っちゃダメです?

[3] 馬謖が臨終に諸葛亮に与えた書簡 「明公は謖を視ること猶お子のごとく、謖は明公を視ること猶お父のごとし。願わくば鯀を殛(処刑)して(その子の)禹を興した義を深く思われん事を。平生の交情をここに欠く事がなければ、謖は死んでも黄壤(黄泉)で恨む事はございません」 このとき十万の軍兵はこのために涕を垂れた。諸葛亮は自ら祭に臨み、その遺孤を平生どおりに待遇した。
蔣琬は後に漢中に詣って諸葛亮に謂うには 「昔、楚が成得臣を殺すと、その後に晋文公は喜びました。天下は未だ定まっていないのに智計の士を刑戮するとは、惜しまずにおられましょうか!」 諸葛亮は流涕しつつ 「孫武が天下に勝ちを制する事が出来たのは、法を用いる事が明らかだったからだ。だから楊干が法を乱すと、魏絳はその従僕を刑戮したのだ。四海が分裂し、兵交が始まろうとしている時に、もし復た法を廃すればどうやって賊を討つのか!」 (『襄陽記』)
―― 習鑿歯曰く、諸葛亮が上国を兼併できなかったのは、どうして妥当ではないと言えようか! そも晋人は荀林父が後に果たす事を規画し、だから法を廃して成功を収めたのだ。楚成王は成得臣が己れに益する事に闇く、だから殺して重ねて敗れたのだ。今、蜀は僻陋の一方面であり、才は上国より少なく、しかも俊傑を殺し、退いて駑下の才を収めて用いた。法を才に優先させ、曹沫に対する)師三敗の道をせず、それで大業を成そうとは何と難しい事ではないか! しかも先主は馬謖を大事に用いてはならぬと誡めていたのは、非才だと謂っていたのではないか? 諸葛亮は誡めを受けながら奉承できなかったのは、明らかに馬謖を廃し難かったからである。天下の宰匠となり、大いに物の力を収めようとしながら、才を量って節に任じ、器量に随って業に就かせなかったのだ。人を知る点で大いに過ち、明主の誡めに違え、裁きでは妥当性を失い、有益な人を殺してしまった。語り合える智者というものは得難いものだ。

 習鑿歯さんは他所では諸葛亮の厳格な法治を称賛したりもしているので、なかなかダブルスタンダードな方です。まあ、私情による枉法上等な時代を生きた人で、本人もそうした風潮に染まっていた向きがありますし。因みに習鑿歯の出身は馬謖と同じ襄陽郡で、そもそも『襄陽記』の撰者でもあるので、諸葛亮に対して厳しくなるのは本人的には超正解だったりします。

陳震

 陳震字孝起、南陽人也。先主領荊州牧、辟為從事、部諸郡、隨先主入蜀。蜀既定、為蜀郡北部都尉、因易郡名、為汶山太守、轉在犍為。建興三年、入拜尚書、遷尚書令、奉命使呉。七年、孫權稱尊號、以震為衞尉、賀權踐阼、諸葛亮與兄瑾書曰:「孝起忠純之性、老而益篤、及其贊述東西、歡樂和合、有可貴者。」震入呉界、移關候曰:「東之與西、驛使往來、冠蓋相望、申盟初好、日新其事。東尊應保聖祚、告燎受符、剖判土宇、天下響應、各有所歸。於此時也、以同心討賊、則何寇不滅哉!西朝君臣、引領欣ョ。震以不才、得充下使、奉聘敍好、踐界踊躍、入則如歸。獻子適魯、犯其山諱、春秋譏之。望必啓告、使行人睦焉。即日張旍誥衆、各自約誓。順流漂疾、國典異制、懼或有違、幸必斟誨、示其所宜。」震到武昌、孫權與震升壇歃盟、交分天下:以徐・豫・幽・青屬呉、幷・涼・冀・兗屬蜀、其司州之土、以函谷關為界。震還、封城陽亭侯。九年、都護李平坐誣罔廢;諸葛亮與長史蔣琬・侍中董允書曰:「孝起前臨至呉、為吾説正方腹中有鱗甲、郷黨以為不可近。吾以為鱗甲者但不當犯之耳、不圖復有蘇・張之事出於不意。可使孝起知之。」十三年、震卒。子濟嗣。

 陳震、字は孝起。南陽の人である。劉備は荊州牧を兼領すると、(陳震を)辟して従事として諸郡を部督させた[※1]。劉備に随って入蜀し、蜀が平定された後に蜀郡北部都尉とされ、郡名が易えられた事によって汶山太守となり[※2]、犍為太守に転じた。

※1 諸部郡国従事史。郡国の観察者として、郡国を単位に1人置かれた。
※2 『晋書』では汶山郡の設置は霊帝の時代となっています。いったん北部都尉部に戻されていたものを劉備が再び郡としたとか、霊帝の時に置いた北部都尉部を『晋書』が便宜的に郡扱いしたとか考えられます。

建興三年(225)、入京して尚書に拝され、尚書令に遷り、命を奉じて呉への使者となった。七年、孫権が尊号を称すと、陳震を衛尉として孫権の踐阼を慶賀させた。諸葛亮が兄の諸葛瑾に与えた書簡で 「孝起の忠純の性は老いて益々篤く、東西を賛述して歓楽和合させる上で貴ぶべき者です」。陳震は呉の界内に入ると、関候(関守)に移書して

「東之與西、駅使往来、冠蓋相望、申盟初好、日新其事。東尊応保聖祚、告燎受符、剖判土宇、天下響応、各有所帰。於此時也、以同心討賊、則何寇不滅哉!西朝君臣、引領欣頼。震以不才、得充下使、奉聘敍好、踐界踊躍、入則如帰。献子適魯、犯其山諱、春秋譏之。望必啓告、使行人睦焉。即日張旍誥衆、各自約誓。順流漂疾、国典異制、懼或有違、幸必斟誨、示其所宜。」

陳震が武昌に到ると、孫権は陳震と昇壇して盟(の血)を歃(すす)り、交々に天下を分け、徐・豫・幽・青州は呉に属し、幷・涼・冀・兗は蜀に属し、司州の地は函谷関を境界とした。陳震は帰還すると、城陽亭侯に封じられた。
 九年(231)、都護李平が誣罔に坐して廃されると、諸葛亮は長史蔣琬・侍中董允に書簡を与え、「陳孝起は前に呉に至るに臨み、私に説くには、李正方の腹中には鱗甲(鋭い鱗)があり、郷党でも近づけないと。私は鱗甲とはただ犯さなければいいだけだと考え、蘇秦・張儀の様な事が再び行なわれるとは思わなかった。孝起に知らせねばならない」 十三年(235)、陳震は卒し、子の陳済が嗣いだ。

董允

 董允字休昭、掌軍中郎將和之子也。先主立太子、允以選為舍人、徙洗馬。後主襲位、遷黄門侍郎。丞相亮將北征、住漢中、慮後主富於春秋、朱紫難別、以允秉心公亮、欲任以宮省之事。上疏曰:「侍中郭攸之・費禕・侍郎董允等、先帝簡拔以遺陛下、至於斟酌規益、進盡忠言、則其任也。愚以為宮中之事、事無大小、悉以咨之、必能裨補闕漏、有所廣益。若無興コ之言、則戮允等以彰其慢。」亮尋請禕為參軍、允遷為侍中、領虎賁中郎將、統宿衞親兵。攸之性素和順、備員而已。獻納之任、允皆專之矣。允處事為防制、甚盡匡救之理。後主常欲采擇以充後宮、允以為古者天子后妃之數不過十二、今嬪妃已具、不宜揄v、終執不聽。後主益嚴憚之。尚書令蔣琬領益州刺史、上疏以讓費禕及允、又表「允内侍歴年、翼贊王室、宜賜爵土以褒勳勞。」允固辭不受。後主漸長大、愛宦人黄皓。皓便辟佞慧、欲自容入。允常上則正色匡主、下則數責於皓。皓畏允、不敢為非。終允之世、皓位不過黄門丞。

 董允、字は休昭。掌軍中郎将董和の子である。先主は太子を立てると董允を選んで舎人とし、洗馬に徙した。後主が襲位すると黄門侍郎に遷った。丞相諸葛亮が北征して漢中に駐まろうとした時、後主が春秋に富んでいて朱紫(微妙な案件)を識別し難い事を慮り、董允が公明の心を秉(まも)る事から、宮省の事を任せようとし、上疏した。「侍中郭攸之・費禕、侍郎董允らは、先帝が簡抜して陛下に遺され、規益を斟酌して、進んで忠言を尽くす事こそがその任であります。愚考するに、宮中の事は事の大小となく悉くこれに諮れば、必ず裨補闕漏して広く益する事がありましょう。もし興徳の進言が無ければ、董允らを戮してその怠慢を彰かになさいますよう(出師表より)」 諸葛亮は尋いで費禕を請うて参軍とし、董允を遷して侍中とし、領虎賁中郎将として宿衛親兵を統べさせた。郭攸之の性は素より和順で、官員として備わるだけで[1]、献納の任は董允が皆な専らにした。

 中郎の郭攸之は人に従うだけで、与に大事を経綸するには足りず、しかし侍中になっている。 (廖立伝)

董允は防止の制度によって(劉禅に)対処し、甚だ匡救の理を尽くすものだった。後主は常に采女を択んで後宮を充実させようとしたが、董允は古えの天子の后妃が十二人を超えず、今、嬪妃は已に具わり、増益するのは妥当でないと考えて終に聴かない姿勢を執った。後主は益々厳しさを憚った。
尚書令蔣琬は益州刺史を兼領したが、上疏して費禕および董允に譲り、又た上表して 「董允は内侍すること歴年。王室を翼賛しており、宜賜爵土を賜って勲労に褒賞するのが妥当です」 董允は固辞して受けなかった。後主は漸く(年齢が)長大になると、宦人の黄皓を寵愛した。黄皓は便辟(阿諛の徒)・便佞(巧言の徒)で慧く、容入されよう(取り入ろう)とした。董允は常に上に対しては色を正して後主を匡し、下に対してはしばしば黄皓を責めた。黄皓は董允を畏れ、非行を為そうとはしなかった。董允の世が終るまで、黄皓の位は黄門丞に過ぎなかった。

 允嘗與尚書令費禕・中典軍胡濟等共期游宴、嚴駕已辦、而郎中襄陽董恢詣允脩敬。恢年少官微、見允停出、逡巡求去、允不許、曰:「本所以出者、欲與同好游談也、今君已自屈、方展闊積、舍此之談、就彼之宴、非所謂也。」乃命解驂、禕等罷駕不行。其守正下士、凡此類也。延熙六年、加輔國將軍。七年、以侍中守尚書令、為大將軍費禕副貳。九年、卒。

 董允が嘗て尚書令費禕・中典軍胡済らと共に宴会を約束し、駕を已に辦(ととの)えた時、郎中であり襄陽の董恢が董允に修敬しに詣った。董恢は年少の微官で、董允が出立を停めているのを見ると、逡巡して辞去を求めた。董允は許さず 「もともと出ようとしていたのは、同好者と游談しようとしていたのだ。今、君は自ら屈し、まさに闊積(博識)を展べようとしている。この談話を捨て、かの宴に就くのは考えられない」 かくして命じて驂(曳馬)を解かせ、費禕らは駕を罷めて行かなかった[2]。その正しきを守り士にへり下るのは、凡そこの類いだった。
延熙六年(243)、輔国将軍を加えられ、七年に侍中・守尚書令として大将軍費禕の副弐となった。九年(246)に卒した[3]

 陳祗代允為侍中、與黄皓互相表裏、皓始預政事。祗死後、皓從黄門令為中常侍・奉車都尉、操弄威柄、終至覆國。蜀人無不追思允。及ケ艾至蜀、聞皓姦險、收閉、將殺之、而皓厚賂艾左右、得免。

 陳祗は董允に代って侍中となると、黄皓と互いに相い表裏を為し、黄皓が政事に預る事が始まった。陳祗の死後、黄皓は黄門令より中常侍・奉車都尉となり、権威・権柄を操弄し、終には国を覆すに至った。蜀人で董允を追思しない者はなかった。ケ艾は蜀に至るに及んで黄皓の姦険を聞き、収捕幽閉して殺そうとしたが、黄皓はケ艾の左右に厚く贈賂して免れ得た。
 
陳祗

 陳祗字奉宗、汝南人、許靖兄之外孫也。少孤、長於靖家。弱冠知名、稍遷至選曹郎、矜似L威容。多技藝、挾數術、費禕甚異之、故超繼允内侍。呂乂卒、祗又以侍中守尚書令、加鎮軍將軍、大將軍姜維雖班在祗上、常率衆在外、希親朝政。祗上承主指、下接閹豎、深見信愛、權重於維。景耀元年卒、後主痛惜、發言流涕、乃下詔曰:「祗統職一紀、柔嘉惟則、幹肅有章、和義利物、庶績允明。命不融遠、朕用悼焉。夫存有令問、則亡加美諡、諡曰忠侯。」賜子粲爵關内侯、拔次子裕為黄門侍郎。自祗之有寵、後主追怨允日深、謂為自輕、由祗媚茲一人、皓搆關Z潤故耳。

 陳祗、字は奉宗。汝南の人で、許靖の兄の外孫である。若くして孤となり、許靖の家で長じた。弱冠で名を知られ、ようよう遷って選曹郎に至り、矜(謹慎かつ厳か)で威容があった。技芸が多く、暦数の術を嗜み、費禕はこれを甚だ異とし、そのため超えて(246年に)董允を継がせて内侍とした。(251年に)呂乂が卒し、陳祗は又た侍中・守尚書令として鎮軍将軍を加えられた。大将軍姜維は班禄では陳祗の上にあったが、常に軍兵を率いて外に在り、朝政に親しむのは稀だった。陳祗は上は主上の旨を承け、下は閹豎に接し、深く信愛されて権は姜維より重かった。景耀元年(258)に卒すると後主は痛惜し、発言しては流涕し、かくして詔を下すには 「陳祗が職を統べてから一紀(12年)、柔嘉惟則、幹粛有章、和義利物、庶績允明。命不融遠、朕用悼焉。存命中に令名があれば、死亡後に美諡を加えるものだ。忠侯と諡する」

 これは法正・諸葛亮・蔣琬・費禕に次いで蜀漢で五例目の諡号です。劉禅の命の恩人の趙雲すら、この時点では諡号を贈られていません。この事に対して目立った反論が唱えられていない事や、厭戦的な朝廷にあって姜維の連年の北伐を実現し、しかも財政を破綻させていない事、黄皓を抑え込んでいた事などから、朝廷を統制する手腕はかなりのものだったと想像できます。許靖の縁者で費禕の秘蔵っ子的な位置にいた事も影響力に寄与していたかと思われますが、臨戦態勢を継続させた事で朝廷だけでなく民衆からも怨恚されていた事でしょう。

子の陳粲に爵関内侯を賜い、次子の陳裕を抜擢して黄門侍郎とした。
陳祗を寵愛してより、後主が董允を追怨すること日々に深くなり、自身を軽んじたと考えた。陳祗が一人媚び、黄皓の搆間が浸潤したからである。

 よく読めば、陳紙が董允を讒言した/させたとは書かれていません。陳祗が劉禅に反対しなかった事から劉禅が手前勝手に董允を怨み、そこに黄皓が付け込んだといった風味です。そもそも陳寿の師の譙周は反陳祗の代表的な一人なので、陳寿の色眼鏡も疑われます。陳祗は黄皓が抬頭するきっかけを作った事で黄皓の同朋として非難されますが、寧ろ陳祗の死後の黄皓に対する、劉禅をはじめとする朝廷の歴々の対処の方が問題なのでは? 諸葛瞻とか董厥とか樊建とか張紹とか。

 

 允孫宏、晉巴西太守。

 董允の孫の董宏は、晋の巴西太守である[4]
[1] 郭攸之は南陽の人である。器量と学業によって当時に名を知られた。 (『楚国先賢伝』)
[2] 董恢、字は休緒。襄陽の人である。入蜀すると宣信中郎なり、費禕の副官として呉に使いした。孫権は嘗て大いに酔った時に費禕に問うには 「楊儀・魏延は、牧豎(小賢しい)の小人である。嘗て時務において鳴吠の益(鶏鳴狗盗の功)があったとはいえ、既に任じたからは軽んじる事はできまい。もし諸葛亮が不在となったら一朝にして禍乱を為すだろう。諸君は憒憒(周章狼狽)として防ぐ手立てを持つまい。どうして“貽厥孫謀(厥(そ)の子孫に謀りごとを貽(おく)る)”などと謂えようか?」 費禕は愕然として四方を顧視し、即答できなかった。董恢は費禕に目配せし 「速やかに言えば、楊儀・魏延の不協和は私忿より起っているだけで、黥布・韓信の御し難い心ではありません。今はまさに彊賊を掃除し、区夏を混一する時で、功は才を以て成され、大業は才によって広がるのです。もしこれを任用せずに捨て、後患の防ぎとすれば、これは風波に備えて舟を逆さまにして楫を廃棄するようなもので、長計ではありません」 孫権は大笑して楽しんだ。諸葛亮はこれを聞き、知言(道理を知った言葉)だとした。還って三日に満たずに辟して丞相府の属掾とし、(ついで)巴郡太守に遷した。 (『襄陽記』)
―― 裴松之が調べた処、『漢晋春秋』も亦たこの話を載せているが、董恢の教えだとは云わず、言辞も亦たやや異なっている。この二書は倶に習氏から出たのに、同じでないのはこの通りだ。本伝では 「恢年少官微」 と云う。もし已に丞相府属となり、巴郡に転出していたのなら、微官ではない。これによって習氏の言う事は不審ではないかと疑うのである。
[3] 時に蜀人は諸葛亮・蔣琬・費禕および董允を四相と呼び、四英とも呼んだ。 (『華陽國志』)
[4] 裴松之が考えるに、陳羣の子の陳泰、陸遜の子の陸抗の列伝は皆な子を父に繋げ、姓を別にせずに載せている。王粛・杜恕・張承・顧劭にしても皆なそうでない者は莫い。董允が独り違うのは、未だその意図は詳らかではないが、董允の名と位の重さが優り、事跡も父を踰えていたからだろうか? 夏侯玄陳表には揃って騂角の美[※]があったが、亦た陳泰と同様であり、(夏侯玄については)魏志はこの巻の総名を諸夏侯曹伝としている。そのため再びは品藻を加えなかったのであろう。陳武と陳表とは倶に偏将軍に至り、位は同等だったからであろう。

※ 犂牛の子でも騂(あか)くて角があれば、犠牲に用いまいとしても神が捨ておかない (『論語』) より、子が父に優っている喩え。

呂乂

 呂乂字季陽、南陽人也。父常、送故將劉焉入蜀、値王路隔塞、遂不得還。乂少孤、好讀書鼓琴。初、先主定益州、置鹽府校尉、較鹽鐵之利、後校尉王連請乂及南陽杜祺・南郷劉幹等並為典曹都尉。乂遷新都・緜竹令、乃心隱&#x卹;、百姓稱之、為一州諸城之首。遷巴西太守。丞相諸葛亮連年出軍、調發諸郡、多不相救、乂募取兵五千人詣亮、慰喩檢制、無逃竄者。徙為漢中太守、兼領督農、供繼軍糧。亮卒、累遷廣漢・蜀郡太守。蜀郡一都之會、戸口衆多、又亮卒之後、士伍亡命、更相重冒、姦巧非一。乂到官、為之防禁、開喩勸導、數年之中、漏脱自出者萬餘口。

 呂乂、字は季陽。南陽の人である。父の呂常は故将の劉焉の入蜀を送り、王路が隔塞した為に還る事ができなかった。呂乂は若くして孤となり、読書・鼓琴を好んだ。初め劉備は益州を定めると、塩府校尉を置いて塩鉄の利を較(もっぱ)らにし、後に塩府校尉王連が呂乂および南陽の杜祺、南郷の劉幹らを請うて揃って典曹都尉とした。呂乂は新都令・緜竹令に遷り、乃心隠卹、百姓はこれを称え、そのため一州諸城の首席となった。巴西太守に遷った。 丞相諸葛亮は連年軍を出し、諸郡から調発したが、多くは救(まかな)いきれなかった。呂乂は募兵五千人を諸葛亮に詣らせ、慰喩検制したので逃竄する者は無かった。漢中太守に徙され、督農を兼領し、軍糧を供継した。
 諸葛亮が卒し、広漢・蜀郡太守に累遷した。蜀郡は一都の会(集中する場所)として戸口は衆多で、又た諸葛亮が卒した後、士伍で亡命した者が(戸籍を)相い重複して冒し、姦巧な事は一度ではなかった。呂乂は官に到ると防禁を為し、喩して勧導した為、数年で漏脱した者で自ら出頭した者が万余口となった。

後入為尚書、代董允為尚書令、衆事無留、門無停賓。乂歴職内外、治身儉約、謙靖少言、為政簡而不煩、號為清能;然持法刻深、好用文俗吏、故居大官、名聲損於郡縣。延熙十四年卒。子辰、景耀中為成都令。辰弟雅、謁者。雅清似L文才、著格論十五篇。

後に入京して尚書となり、(246年に)董允に代って尚書令となったが、衆事に滞留は無く、門に賓客が停まる事も無かった。呂乂は内外の職を歴任し、身を倹約に治め、謙譲靖謐で言葉は少なく、為政は簡素で煩瑣ではなく、清能と称された。しかし法を護持すること刻深で、好んで文俗の吏を用い、そのため大官にあって名声は郡県の時より損った。延熙十四年(251)に卒した。子の呂辰は景耀中に成都令となった。呂辰の弟の呂雅は謁者となった。呂雅は清獅ノして文才があり、『格論』十五篇を著した。

 杜祺歴郡守監軍大將軍司馬、劉幹官至巴西太守、皆與乂親善、亦有當時之稱、而儉素守法、不及於乂。

 杜祺は郡守・監軍・大将軍司馬を歴任し、劉幹の官は巴西太守に至った。皆な呂乂とは親善し、亦た当時に称えられたが、倹素で法を守る点では呂乂に及ばなかった。

 評曰:董和蹈羔羊之素、劉巴履清尚之節、馬良貞實、稱為令士、陳震忠恪、老而益篤、董允匡主、義形於色、皆蜀臣之良矣。呂乂臨郡則垂稱、處朝則被損、亦黄・薛之流亞矣。

 評に曰く、董和は“羔羊”の意義(官吏としての清廉さ)を踏み、劉巴は清尚の節を履き、馬良は貞実で令士と称され、陳震の忠恪は老いて益々篤く、董允は主を匡して義は色に形(あらわ)れた。皆な蜀の良臣である。呂乂は郡に臨んでは称賛され、朝廷にあっては損ったが、亦た黄霸薛宣の亜流であろう。
 

 例外も混じっていますが、概ね尚書令列伝の様な感じです。諸葛亮の死後の蜀漢では、基本的に大将軍・録尚書事が政府のトップですが、外地に開府したり成都に腰を据えなかったりで、尚書令が実質的に朝廷を主宰している印象です。董允伝では“姜維が成都に落ち着かなかったから尚書令が実質トップになった”とありますが、似たような状況は蔣琬の時代からあり、寧ろ大将軍が劉禅の側近出身か否かが主権の所在に影響しているように見えます。そうした意味では侍中出身の費禕が大将軍だった時代が、人事的には最も安定していたと謂えます。董允の死後に外部から呂乂が中書令になったものの、費禕の子飼いの陳祗が侍中として朝廷をまとめ、呂乂の死後はその陳祗が侍中のまま尚書令に就いた訳ですから。
 陳祗の死後の尚書令人事に触れると、まず董厥が継ぎ、董厥が261年に諸葛瞻と共に平尚書事となった後は樊建が就いています。この3人が蜀漢末期の政権トップで、姜維とも4年ほど成都で一緒に執政しています。さぞ険悪だったんだろうなぁ。

 蜀志と『季漢輔臣賛』の主だった人物の出身地と最高官位を調べると、二品以上の将軍職と録平尚書事や尚書令は外来者がほぼ独占しています。このため蜀漢は現地人に対して閉ざされた政権だと謂われる事もありますが、トップに就いていないだけで九卿や尚書僕射には何人も名を連ねています。政権側が融合を意識したサービス任用をしなかった面は確かにありそうですが、現地人軽視の政権とは一概には謂えないようです。


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