三國志修正計画

三國志卷四十六 呉志一/孫破虜討逆傳 (一)

孫堅

 孫堅字文臺、呉郡富春人、蓋孫武之後也。少為縣吏。年十七、與父共載船至錢唐、會海賊胡玉等從匏里上掠取賈人財物、方於岸上分之、行旅皆住、船不敢進。堅謂父曰:「此賊可撃、請討之。」父曰:「非爾所圖也。」堅行操刀上岸、以手東西指麾、若分部人兵以羅遮賊状。賊望見、以為官兵捕之、即委財物散走。堅追、斬得一級以還;父大驚。由是顯聞、府召署假尉。會稽妖賊許昌起於句章、自稱陽明皇帝、與其子韶扇動諸縣、衆以萬數。堅以郡司馬募召精勇、得千餘人、與州郡合討破之。是歳、熹平元年也。刺史臧旻列上功状、詔書除堅鹽瀆丞、數歳徙盱眙丞、又徙下邳丞。

 孫堅、字は文臺。呉郡富春の人で、孫武の後裔であろう[1]。少(わか)くして県吏となった。齢十七の時、父と共に船に載って銭唐に至り、たまたま海賊の胡玉らが匏里より上陸して賈人(商人)の財物を掠取し、まさに岸上で分配しており、行旅の人は皆な住(とど)まって船は進もうとはしなかった。孫堅が父に謂うには 「この賊を撃ちましょう。討たせて下さい」 父 「爾がどうこうできるものではない」 孫堅は行(すす)んで刀を操(たぐ)って岸に上り、手で東西に指麾して部人(部下)や兵を分けて賊を遮り羅(おお)う状を示した。賊は望見すると官兵の捕吏だと思い、即ちに財物を委ねて散走した。孫堅は追い、斬って一首級を得て還り、父は大いに驚いた。これによって(名が)聞こえて顕かとなり、府に召されて仮尉に署した。
会稽の妖賊の許昌が句章(寧波市江北区)に起ち、自ら陽明皇帝を称し[2]、その子の許韶と諸県を扇動して手勢は万を以て数えた。孫堅は郡司馬として精勇を募召して千余人を得、州郡と合して討ってこれを破った。この歳は熹平元年(172)であった(討平が完了したのは熹平三年)。刺史臧旻は功状を列記して上書し、詔書にて孫権を塩瀆丞に叙し、数歳して盱眙丞に徙し、又た下邳丞に徙した[3]

 中平元年、黄巾賊帥張角起于魏郡、託有神靈、遣八使以善道教化天下、而潛相連結、自稱黄天泰平。三月甲子、三十六〔方〕一旦倶發、天下響應、燔燒郡縣、殺害長吏。漢遣車騎將軍皇甫嵩・中郎將朱儁將兵討撃之。儁表請堅為佐軍司馬、郷里少年隨在下邳者皆願從。堅又募諸商旅及淮・泗精兵、合千許人、與儁并力奮撃、所向無前。汝・潁賊困迫、走保宛城。堅身當一面、登城先入、衆乃蟻附、遂大破之。儁具以状聞上、拜堅別部司馬。

 中平元年(184)、黄巾の賊帥の張角が魏郡に起ち、神霊の託宣があって八使を遣って天下を善道教化させ、潜行して相い連結し、自ら黄天泰平と称した。三月甲子、三十六方が一朝に倶に発し、天下は響応して郡県を燔焼し、長吏を殺害した[4]。漢は左中郎将皇甫嵩・右中郎将朱儁に兵を率いて討撃させた。朱儁は上表して孫堅を佐軍司馬とする事を請い、郷里の少年で随って下邳に在る者は皆な従軍を願った。孫堅は又た諸々の商旅(外来者)および淮・泗に精兵を募り、都合千人ばかりとなり、朱儁と力を併せて奮撃して向かう所前に立つ者は無かった[5]。汝南・潁川の賊が困窮に迫られ、退走して宛城に保(こも)った。孫堅は身ずから(城壁の)一面を担当し、登城して真っ先に入り、手勢はかくして蟻附し、かくて大いにこれを破った。朱儁が具さに状を上聞し、孫堅を別部司馬に拝した[6]

 これなどは呉志が『呉書』を丸写ししたに近いものだと判る典型です。武帝紀以上に黄巾軍の描写が詳しく、皇甫嵩の官職の間違いが放置されています。

 邊章・韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年、遣司空張温行車騎將軍、西討章等。温表請堅與參軍事、屯長安。温以詔書召卓、卓良久乃詣温。温責讓卓、卓應對不順。堅時在坐、前耳語謂温曰:「卓不怖罪而鴟張大語、宜以召不時至、陳軍法斬之。」温曰:「卓素著威名於隴蜀之間、今日殺之、西行無依。」堅曰:「明公親率王兵、威震天下、何ョ於卓?觀卓所言、不假明公、輕上無禮、一罪也。章・遂跋扈經年、當以時進討、而卓云未可、沮軍疑衆、二罪也。卓受任無功、應召稽留、而軒昂自高、三罪也。古之名將、仗鉞臨衆、未有不斷斬以示威者也、是以穰苴斬莊賈、魏絳戮楊干。今明公垂意於卓、不即加誅、虧損威刑、於是在矣。」温不忍發舉、乃曰:「君且還、卓將疑人。」堅因起出。章・遂聞大兵向至、黨衆離散、皆乞降。軍還、議者以軍未臨敵、不斷功賞、然聞堅數卓三罪、勸温斬之、無不歎息。拜堅議郎。時長沙賊區星自稱將軍、衆萬餘人、攻圍城邑、乃以堅為長沙太守。到郡親率將士、施設方略、旬月之閨A克破星等。周朝・郭石亦帥徒衆起於零・桂、與星相應。遂越境尋討、三郡肅然。漢朝録前後功、封堅烏程侯。

 辺章・韓遂が涼州で乱を為し、中郎将董卓が拒ぎ討ったが功が無かった。中平三年(186)、司空張温を行車騎将軍として遣り、西して辺章らを討たせた。張温は上表で請うて孫堅を参軍事とし、長安に駐屯した。張温は詔書にて董卓を召し、董卓はやや久しくして張温に詣った。張温は董卓を責譲したが、董卓の応対は不順(不遜)だった。孫堅は時にその場に在り、前んで張温に耳語して謂うには 「董卓は罪を恐れておらず、鴟張(尊大)大語しています。召してもすぐには至らなかった事を以て陣軍の法にて斬るのが宜しいでしょう」
張温 「董卓はもとより隴蜀の間で威名が著しく、今日これを殺せは西行の依(たよ)りが無くなる」
孫堅 「明公は王兵を親率し、威は天下を震わせています。何を董卓に頼る事がありましょうか? 董卓の言辞を観たところ、明公(の威光)を仮りず、上を軽んじて無礼である事が一罪です。辺章・韓遂が跋扈して経年であり、直ちに進んで討つべきなのに、董卓は異を唱え、軍を沮喪させ衆を疑惑させた事が二罪です。董卓は任を受けながら功は無く、召しに応じるにも稽留し、しかも軒昂自高した事が三罪です。古えの名将は鉞を仗として衆に臨み、明断して斬って威を示さなかった者はおりません。だから司馬穰苴は荘賈を斬り、魏絳は楊干を戮したのです。今、明公が董卓に意を垂れて誅を加えなければ刑の威を欠損することになりましょう」
張温は発挙するに忍びず、かくして曰った 「君は還れ。董卓が疑っておる」孫堅はこのため起って退出した。
辺章・韓遂は大兵が至ると聞き、党衆は離散して皆な降伏を乞うた。軍が還ると、議者は軍が臨敵(交戦)していないとして功賞を行なわず、しかし孫堅が董卓の三罪を数えて張温に斬刑を勧めたと聞いて歎息せぬ者はなく、孫堅を議郎に拝した。
 時に長沙の賊の区星が将軍を自称し、手勢は万余人となって城邑を攻囲しており、かくして孫堅を長沙太守とした。郡に到着すると将士を親率し、方略を施し設けて旬月の間に区星らを克破した[7]。周朝・郭石が亦た徒衆を帥いて零陵・桂陽に起り、区星と相い呼応した。かくて郡境を越えて討ち、三郡は粛然とした。漢朝は前後の功を録して孫堅を烏程侯に封じた[8]

 山東の諸将が挙兵した後の切り取り自由な時代ならともかく、この当時の太守には、例え討ち漏らした相手であっても他郡に出張って軍事をする権限はありません。そのため『後漢書』では 「越境討伐」 というものが名守・名将に対する特例として時折出てきます。孫堅の行ないは明白な律法違反ですが、結果オーライとなりました。封侯までされているので、孫堅に対する朝廷の評価の高さが理解できます。
 但し裴松之は孫堅大好きっ子なので、孫堅を過大評価する材料としての補注の扱いは要注意です。例えば張角らの称号を武帝紀ではなくここで補ったり、[7]のような細文を挿し込んだりとか。

 靈帝崩、卓擅朝政、恣京城。諸州郡並興義兵、欲以討卓。堅亦舉兵。荊州刺史王叡素遇堅無禮、堅過殺之。比至南陽、衆數萬人。南陽太守張咨聞軍至、晏然自若。堅以牛酒禮咨、咨明日亦答詣堅。酒酣、長沙主簿入白堅:「前移南陽、而道路不治、軍資不具、請收主簿推問意故。」咨大懼欲去、兵陳四周不得出。有頃、主簿復入白堅:「南陽太守稽停義兵、使賊不時討、請收出案軍法從事。」便牽咨於軍門斬之。郡中震慄、無求不獲。

 霊帝が崩じると、董卓が朝政を擅(ほしいまま)にして京城にて横恣した。諸州郡はみな義兵を興し、董卓を討とうとした[9]。孫堅も亦た挙兵した。荊州刺史王叡はもとより孫堅を遇するのに無礼で、孫堅は通過の際にこれを殺した[10]。南陽に至る頃には手勢は数万人となっていた。南陽太守張咨は軍が至ったと聞いても晏然自若としていた[11]。孫堅は牛酒にて張咨に礼接し、張咨も明日に亦た孫堅に答詣した。酒酣(たけなわ)に長沙主簿が入って孫堅に白(もう)した 「以前に南陽に移書しましたが、道路は修治されておらず、軍資も具わっていません。主簿を収捕してその意故(理由)推問したいのですが」 張咨は大いに懼れて去ろうとしたが、兵が四周に陳べられていて出られなかった。少しして主簿が復た入ってきて孫堅に白した 「南陽太守は義兵を稽停(繋留)し、賊に不意を襲わせようとしています。収捕して軍法に従事して糾案したく存じます」 ただちに張咨を牽き出して軍門で斬った。郡中は震慄し、(孫堅が)求めて獲られない事が無くなった[12]

 『劉鎮南碑』によれば、孫堅の挙兵は初平元年(190)の十一月以前で、注[10]の示す通り、荊州の内訌が原因のようです。又た注[11]からは、袁術の指示で張咨を殺した可能性も出てきます。張咨の旗幟は不明瞭で、尚書周の推挙によって韓馥・劉岱・孔伷らと並んで地方官に転出しているので、反董卓と見做される事が多いようです。

前到魯陽、與袁術相見。術表堅行破虜將軍、領豫州刺史。遂治兵於魯陽城。當進軍討卓、遣長史公仇稱將兵從事還州督促軍糧。施帳幔於城東門外、祖道送稱、官屬並會。卓遣歩騎數萬人逆堅、輕騎數十先到。堅方行酒談笑、敕部曲整頓行陳、無得妄動。後騎漸益、堅徐罷坐、導引入城、乃謂左右曰:「向堅所以不即起者、恐兵相蹈籍、諸君不得入耳。」卓兵見堅士衆甚整、不敢攻城、乃引還。

前進して魯陽に到達して袁術と会見した。袁術が上表して孫堅を行破虜・領豫州刺史とし、かくて魯陽城で治兵(練兵)した。まさに進んで董卓を討とうとし、長史公仇称に兵を率いて州に還し、軍糧の督促に従事させようとした。城東門外に帳幔を施(もう)け、祖道送称(道中祈願して送別)し、官属はみな会同した。(このとき)董卓は歩騎数万人を遣って孫堅を逆撃させ、軽騎数十が先ず到達した。孫堅は行酒談笑の最中だったが、部曲に命じて行陣を整頓させ、妄動させぬようにした。後続の騎兵が漸益すると孫堅は徐ろに宴坐を罷め、(官属らを)導引して入城してから左右に謂った 「向(さき)に堅が即座に起たなかった理由は、兵が相い踏籍して諸君が入城できない事を恐れたからだ」 董卓の兵は孫堅の士衆が甚だ整然としているのを見ると、そのまま城を攻めずに引き揚げて還った[13]

堅移屯梁東、大為卓軍所攻、堅與數十騎潰圍而出。堅常著赤罽幘、乃脱幘令親近將祖茂著之。卓騎爭逐茂、故堅從闢ケ得免。茂困迫、下馬、以幘冠冢鞨亦戟A因伏草中。卓騎望見、圍繞數重、定近覺是柱、乃去。堅復相收兵、合戰於陽人、大破卓軍、梟其都督華雄等。是時、或闌於術、術懷疑、不運軍糧。陽人去魯陽百餘里、堅夜馳見術、畫地計校、曰:「所以出身不顧、上為國家討賊、下慰將軍家門之私讐。堅與卓非有骨肉之怨也、而將軍受譖潤之言、還相嫌疑!」術踧踖、即調發軍糧。堅還屯。卓憚堅猛壯、乃遣將軍李傕等來求和親、今堅列疏子弟任刺史・郡守者、許表用之。堅曰:「卓逆天無道、蕩覆王室、今不夷汝三族、縣示四海、則吾死不瞑目、豈將與乃和親邪?」復進軍大谷、拒雒九十里。卓尋徙都西入關、焚燒雒邑。堅乃前入至雒、脩諸陵、平塞卓所發掘。訖、引軍還、住魯陽。

孫堅は梁東に移屯し、大いに董卓の軍の攻める所となり、孫堅は数十騎と攻囲を潰して脱出した(この時、潁川太守が徐栄に敗死した)。孫堅は常に赤い罽幘(毛織の頭巾)を著(き)ていたが、このとき幘を脱いで親しく近侍する将の祖茂に着用させた。董卓の騎兵は争って祖茂を逐い、そのため孫堅は間道から免れることが出来た。祖茂は困迫すると下馬して幘を冢間の焼けた柱に冠(かぶ)せ、草中に伏せた。董卓の騎兵は望見すると数重に囲嶢したが、接近してこれが柱だと覚ると去った。孫堅は復た兵を収め、陽人で合戦して董卓軍を大破し、その部督の華雄らを梟首した。この時、或る者が孫堅と袁術の間を割き、袁術は懐疑して軍糧を輸送しなかった[14]。陽人は魯陽を去ること百余里であり、孫堅は夜通し馳せて袁術に通見すると、計校(計策)を地に画きつつ 「身を投げ出して顧みない理由は、上は国家の為に賊を討ち、下は将軍の家門の私讐を慰める為で、私は董卓とは骨肉の怨みはない。しかし将軍は譖潤の言を受け、還(かえ)って相い嫌疑しようとは!」[15] 袁術は踧踖(恐縮)して即座に軍糧を調発し、孫堅は還屯した。
董卓は孫堅の猛壮を畏憚し、かくして将軍李傕らを遣って和親を求め、今、孫堅が子弟で刺史・郡守に任じたい者を列疏すれば上表して用いることを許認しようと伝えさせた。孫堅 「董卓は天に逆らい無道であり、王室を蕩覆した。今、汝の三族を夷(たいら)げて四海に懸示しなければ、吾れは死んでも瞑目できない。どうして和親なんぞできようか?」 復た大谷に進軍し、雒陽を拒(さ)ること九十里となった[16]。董卓は尋いで徙都して西のかた関中に入り、雒邑を焚焼した。孫堅はかくして前んで雒陽に入至し、諸陵を補修し、董卓の発掘した所を平塞した[17]。終えて軍を引いて還り、魯陽に駐まった[18]

 初平三年、術使堅征荊州、撃劉表。表遣黄祖逆於樊・ケ之間。堅撃破之、追渡漢水、遂圍襄陽、單馬行峴山、為祖軍士所射殺。兄子賁、帥將士衆就術、術復表賁為豫州刺史。

 初平三年(192)、袁術は孫堅に荊州を征伐して劉表を撃たせた。劉表は黄祖を遣って樊・ケの間で逆撃させた。孫堅はこれを撃破し、追討して漢水を渡り、かくて襄陽を囲んだ。単騎で峴山に行き、黄祖の軍士に射殺された[19]。兄子の孫賁が士衆を帥将して袁術に就き、袁術は復た上表して孫賁を豫州刺史とした。

 孫堅の歿年については諸説あり、本伝の初平三年説のほか、張璠『漢紀』の二年説、『英雄記』の四年説があります。『呉録』が載せる孫策の上表文によれば、孫堅が歿した時、孫策は17歳だったと云っています。孫策は200年に26歳で歿しているので、以上の事から裴松之は孫堅の歿年を初平二年だとしています。孫策伝じゃなくてここで書けよ。

 堅四子:策・權・翊・匡。權既稱尊號、諡堅曰武烈皇帝。

 孫堅の四子は孫策・孫権・孫翊・孫匡といった。孫権は尊号を称すと、孫堅に武烈皇帝と諡した[20]

 孫堅は寒門の出身で、しかも許昌を討伐して名を揚げた後は呉郡を離れているので、地元には大した基盤は持っていません。しかも長沙から北上した後はほぼ傭兵稼業で、定まった基盤を培ってもいません。だから同郡の呉氏徐氏との通婚を欲したんでしょう。
 その間の富春の孫家は弟の孫静が当主として切り盛りしていたようです。孫静伝には 「孫堅を陰から助けた」 ような記述はなく、袁術の部将となった孫堅が家族を実家ではなく舒の周氏に預けた事、孫堅の霊柩が富春ではなく呉夫人の住まう曲阿に送られた事、孫策・孫賁とも孫静を頼らなかった事などから、どうも孫静は孫堅・孫策とは距離を措いていたようです。

[1] 孫堅(の家)は歴世で呉郡に仕え、富春に住って城東に葬られた。冢上にはしばしば光の怪があり、その雲気は五色で天に達し、数里に蔓延した。衆人は皆な往って観視し、父老が謂うには 「これは非凡の気だ。孫氏が興るぞ!」 母が孫堅を懐姙すると、夢で腸が出て呉昌門を繞り、醒めると懼れて隣母に告げた。隣母 「どうして吉徴ではないと知れよう」 孫堅が生まれ、容貌は不凡であり、性は闊達で奇節を好んだ。 (『呉書』)

 孫堅は呉氏の才貌を聞くと娶りたいとした。呉氏の親戚は孫堅の軽佻・狡猾を嫌って拒もうとし、孫堅は慚じ恨むこと甚だしかった。夫人が親戚に謂うには 「どうして一女を愛惜して禍を取るのです? 不遇であったとしても運命です」 こうして婚儀を許した。 (『三國志』妃嬪伝)

[2] 許昌はその父を越王とした。 (『霊帝紀』)
[3] 孫堅は三県の佐官を歴任し、所在では称えられて吏民が親附した。郷里の旧知や好事家の少年で往来する者は常に数百人で、孫堅は接撫待養し、子弟のように扱った。 (『江表伝』)
[4] 張角は天公将軍を称し、張角の弟の張寶は地公将軍を称し、張寶の弟の張梁は人公将軍を称した。 (『献帝春秋』)
[5] 孫堅は勝ちに乗じて深入し、西華で利を失った。孫堅は創を被けて墮馬し、草中に臥した。軍衆は分散し、孫堅の所在は知れなかった。孫堅の騎乗する驄馬が馳せて営に還り、地を踣(け)って呼鳴し、将士が馬に随って草中で孫堅を得た。孫堅は営に還って十数日し、創が少や愈えると復た出戦した。 (『呉書』)
[6] 朱儁、字は公偉。会稽の人。少くより好学で、郡功曹となって孝廉に推され、士として挙進された。漢朝は黄巾を討った功で車騎将軍に拝し、河南尹に累遷した。董卓は朱儁と会見し、外は甚だ親しく納れ、心ではこれを忌み、朱儁も亦た陰かに備えた。関東が兵を起すと董卓は移都の事を議し、朱儁はそのたび董卓を止めた。董卓は朱儁を嫌憚していたとはいえその名声が重い事を貪り(利用し)、かくして上表して太僕に拝して自身の副とした。朱儁は召されても受拝を肯んぜず、進んで曰った 「国を遷すのは妥当ではない。きっと天下の望みから孤立し、山東の結合を達成させよう。臣には(遷都の)妥当性が見えません」 有司が詰問した 「君を召して受拝させようというのに、君は拒んでいる。遷都の事を問うていないのに君が陳べるのはどうしてか?」 朱儁 「相国の副は臣の堪えるものではありません。遷都は計画というものではなく、臣は緊急事と考えます。堪えられないものを辞退し、臣が緊急とする事を進言するのは臣として妥当な事です」 有司 「遷都の事は初めからこの計画など無い。もしあったとしても未だ露れていない。どこから聞いたのか?」 朱儁 「相国董卓が臣に説いたのだ。臣は相国から聞いた」 有司は屈する事が出来ず、朝廷は称え服した。後に太尉となった。李傕・郭が相い攻めて天子や公卿を劫質すると、朱儁の性は剛であり、かくして発病して卒した。 (『続漢書』)

 好学で、郡功曹から孝廉という、名門士大夫の典型的なコースを辿っています。会稽の朱氏というと、他に現地の叛乱で殺された交州刺史の朱符がいて、南北朝時代には朱儁の子だとしているの著作もあるそうです。それは極論かもですが、朱儁が交州で培ってきたものを考えると、血族ではあったと思われます。

[7] 孫堅が郡に到着すると郡中は震服した。良吏を任用し、吏に命じるには 「謹んで良民を善く遇し、官曹の文書を治めるのは必ず遵守して治め、盗賊の処遇は太守に回付せよ」 (『魏書』)
[8] この時、廬江太守陸康の従子(おい)は宜春長であり、賊に攻められて孫堅に遣使して救援を求めた。孫堅が兵を整えて救援しようとしたところ、主簿が進みでて諫めた。孫堅 「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。これによって罪を獲たとて、どうして海内に媿(は)じようか?」 かくして兵を進めて往って救い、賊はこれを聞くと退走した。 (『呉録』)
[9] 孫堅はこれを聞き、拊膺(叩胸)して歎じ 「張公が昔て吾が言葉に従っておれば、朝廷の今のこの難は無かったのだ」 (『江表伝』)
[10] 『王氏譜』を調べたところ、王叡、字を通耀は晋の太保王祥の伯父である。
―― 王叡は嘗て孫堅と共に零陵・桂陽の賊を撃ち、孫堅を武官であるとして頗る軽んじた。王叡が挙兵して董卓を討とうとした時、かねて武陵太守曹寅とは不和だった為、真っ先に曹寅を殺すと楊言した。曹寅は懼れ、詐って案行使者・光禄大夫温毅の檄を作って孫堅に移送し、王叡の罪過を説いて、収捕・処刑を終えたら詳細を上書するよう命じた。孫堅は檄を承けるや兵を率いて王叡を襲った。王叡は兵が至ったと聞くと登楼して望見し、要求を問わせた。孫堅の前部(の兵)が答えるには 「兵は久しく戦で労苦し、賞を得ても衣服にも不足しています。使君(刺史)に詣ったのは更めて資直(資値)を乞う為です」 王叡 「刺史がどうして吝しもうか?」 ただちに庫藏を開き、各々で入ってこれを視させ、遺す物が無い事を知らせた。兵が進んで楼下に達した時、王叡は孫堅を見かけて驚いた 「兵が賞を求めているのに、孫府君はどうしてその中にいるのだ?」 孫堅 「使者の檄にて君を誅する為だ」 王叡 「私の罪は何だ?」 孫堅 「坐して知るところ無し(知るか)」 王叡は窮迫し、金を削って飲んで死んだ。 (『呉録』)
[11] 張咨、字は子議。潁川の人である。亦た名を知られていた。 (『英雄記』)
―― 袁術は上表して孫堅に中郎将を仮した。孫堅が南陽に到達すると、檄を移して太守に軍糧を請うた。張咨が綱紀に問うと、綱紀は「孫堅は隣郡の二千石であり、調発に応じる必要はありません」 張咨はかくて与えなかった。 (『献帝春秋』)
[12] 孫堅が南陽に至った当初、張咨は軍糧を供給せず、又た孫堅との会見を肯んじなかった。孫堅は兵を進めたくはあったが(張咨による)後患を恐れ、かくして詐って急疾だとし、軍を挙げて震惶し、巫医を呼び迎えて山川を禱祀した。親しい人を遣って張咨に説かせるには、病に困苦し、兵を張咨に付したいと。張咨はこれを聞くと心中でその兵を利とし、即座に歩騎五・六百人を率いて営に詣って孫堅を見舞った。孫堅は伏して相い会見したが、卒然として起ち、剣を按じて張咨を罵り、かくて執えて斬った。この語は本伝とは同じではない。 (『呉歴』)
[13] 孫堅が董卓を討ちに梁県の陽人に到達した当初、董卓も亦た兵の歩騎五千を遣ってこれを迎えさせ、陳郡太守胡軫を大督護とし、呂布を騎督とし、その他の歩騎の将校や都督は甚だ衆(おお)かった。 胡軫は字を文才といい、性急で、予め宣言して 「今のこの行軍は、要は一青綬(太守の印綬は銀印青繻)を斬って整斉するだけの事だ」 諸将は聞くとこれを悪(にく)んだ。軍が広成に到達し、陽人城を去ること数十里となった。日が暮れ、士馬の疲労が極まって止宿が当然であり、又た董卓から受けていた節度にも広成に止宿して秣馬飲食し、深夜に兵を進めて払暁に城を攻めよとあった。諸将は胡軫を嫌憚して賊に敗れる事を欲し、呂布らが宣言(流言)するには 「陽人の城中の賊は既に退走し、直ちに追撃すべきだ。そうしなければ勝機を失う」 と。直ちに夜間に進軍した。城中では守備を設けること甚だしく、掩襲(急襲)することは出来なかった。こうして吏士は飢渇し、人馬は甚だ疲労し、しかも夜に至った為に塹壕・堡塁は無く、甲を釈いて休息していたが、呂布は又た驚倒させようと宣言し、「城中の賊が出てきた」 と云った。軍衆は擾乱奔走して皆な甲を棄て、鞍した馬を見失った。行くこと十余里で賊のいない事を確認し、たまたま天が明るくなってかくして還り、兵器を拾取して進んで城を攻めようとした。城の守りは既に固く、塹壕を穿つこと深く、胡軫らは攻めることが出来ずに還った。 (『英雄記』)

 范曄『後漢書』でも、胡軫と呂布の不和が原因で破れたとあります。要は功を急いだ呂布らが独走して破れたというもので、これに王粲が想像で肉付けしたんじゃなかろうかと。

[14] 或る者が袁術に謂った 「孫堅がもし洛陽を得たなら復た制御する事は不可能です。これは狼を除いて虎を得るようなものです」 そのため袁術はこれを猜疑した。 (『江表伝』)
[15] 孫堅が語るには 「大勲を疾く垂れようというのに軍糧が継続しない。これは呉起が西河で歎泣した理由であり、楽毅が垂成で遺恨した理由である。願わくば将軍よ、深くこの事を考えてくれ」 (『江表伝』)
[16] 董卓が長史劉艾に謂った 「関東の軍は敗れる事しばしばで、皆な孤を畏れて何も出来ない。ただ孫堅は小戇(やや愚かな程度)であり、頗る能く人を用いている。諸将に語ってこれを忌むべきと知らしめねばならない。孤は昔に周慎と西征し、周慎が金城に辺章・韓遂を囲んだ。孤が張温に語るには、率いている諸将を周慎の後駐とするよう求めたが、張温は聴かなかった。孤が時に形勢を上言したのは、周慎がきっと勝てないと知っていたからだ。(尚書)台には今も顛末の文書がある。返報のある前に張温は又た孤に先零の叛羌を討たせ、西方を一時で蕩定できると考えたのだ。孤は全てがそうならず、しかも止めることが出来ないと知っていたのでかくて行き、別部司馬劉靖を留めて歩騎四千を率いて安定に駐屯させ、これを声勢(偽装援軍)とした。叛羌はたちまち還って帰路を断とうとし、孤が少しく討つとたちまち開けたのは、安定に兵がある事を畏れた為だ。虜は安定には数万人が駐屯していると謂い、劉靖だけとは知らなかったのだ。時に又た上章して状を言ったが、孫堅は周慎に隨行しており、周慎に謂うには、『万兵を率いて金城を囲み、周慎には二万で後駐してもらいたい、辺章・韓遂の城中には宿穀が無く、城外から運ぶであろうが、周慎の大兵を畏れて軽々しくは孫堅と戦わないであろうし、孫堅の兵はその運道を断つに足りるのだから』 と。児曹(小僧ども)が用いていればきっと羌を谷中に還し、涼州も或いは平定できたかも知れぬ。張温は前に孤(の策)を用いることが出来ず、周慎も又た孫堅(の策)を用いず、自ら金城を攻めてその外垣を壊すと、使者を馳らせて張温に語るには、勝利は旦夕に在ると言い、張温も亦た己の計策が中ったと考えていた。しかし渡遼児(羌族)は果たして葵園を断ち、周慎は輜重を棄てて敗走し、果たして孤の策の通りになった。尚書台はこの事から孤を都郷侯に封じ、孫堅は佐軍司馬として余人と同じく扱われたが、納得しているようだった」
劉艾 「孫堅は時に計策を見(あらわ)すとはいえ、もとより李傕・郭にも及びません。聞けば美陽亭の北に在り、千の歩騎を率いて虜と合戦して死にかけ、印綬を亡失したとか。これでは有能とは云えません」
董卓 「孫堅はかの時は義に従う者を烏合させ、兵も虜の精強には及ばなかった。しかも戦には利と鈍とがある。ただ山東の大勢を論じると、最終的な決着が読めないのだ」
劉艾 「山東児は百姓を駆略して寇逆を為し、その鋒は官軍に及ばず、用いる甲冑の固さも兵器の鋭利も弩の彊さも人に及びません。どうして久しく安定できましょう?」
董卓 「その通りだ。ただ二袁・劉表・孫堅を殺せば天下は自ずと孤に服従するのだ」 (『山陽公載記』)

 張温vs金城の詳細が判って面白いんですが、それだけです。孫堅が山東諸将の中で唯一、董卓に畏れられていた事を示す為の話に過ぎません。確かに董卓にとっては中途半端に接触経験があった分、警戒対象ではあったのでしょう。
 ところで、『史記』の世家にあたる“載記”ですが、『山陽公載記』を著した楽資は何に対して献帝を載記として扱ったのでしょうね。

[17] 旧京(洛陽)は空虚で、数百里中に煙火も無かった。孫堅は進んで入城し、惆悵流涕した。 (『江表伝』)
―― 孫堅は入洛すると漢の宗廟を掃除し、太牢にて祠った。孫堅は城南の甄官井の側に駐軍した。明方に五色の気があり、軍を挙げて驚怪し、進んで汲水しようという者は莫かった。孫堅は人に井戸に入らせ、探させて漢の伝国璽を得た。文面には 「受命于天、既壽永昌」 とあり、方形で四周は四寸あり、上紐(つまみ)には五龍が交わり、上面の一角が欠けていた。これより前、黄門張譲らが乱を為し、天子を脅して出奔したとき、左右の者が分散し、掌璽者が井戸の中に投じたものである。 (『呉書』)
―― 袁術が僭号しようとした時、孫堅が伝国璽を得たと聞いており、かくして孫堅の夫人を拘留してこれを奪った。 (『山陽公載記』)
―― 漢の献帝起居注には 「天子が河上より還御し、閣上で六璽を得た」 とある。又た太康の初めに孫皓が金璽六枚を送ったが、玉製の物は無く、明らかに偽りである。 (『江表伝』)
―― 天子の六璽とは、文字は 「皇帝之璽」・「皇帝行璽」・「皇帝信璽」・「天子之璽」・「天子行璽」・「天子信璽」である。この六璽は異なる事で封緘として用い、そのため文字が同じではないのである。『献帝起居注』の 「従河上還、得六玉璽於閣上」とはこれを謂うのである。伝国璽とは漢高祖が佩いた秦皇帝璽であり、世々伝受されたので伝国璽と号した。考えるに伝国璽は六璽の数には入っておらず、どうして総合して説いてよかろう? 応劭の『漢官儀』・皇甫謐の『帝王世紀』は六璽の事を論じてその文面はみな符合している。『漢官儀』での伝国璽の文面は 「受命于天、既壽且康」という。「且康」と「永昌」の二字が錯綜し、(『漢官儀』と『呉書』の)両家のどちらを採るべきかは解らない。金や玉の精華は光気を率い、神器秘宝である事を加えれば輝耀は益々彰かで、一代の奇観として将来の異聞ともいうべきものであったろう。不可解な点があったからといって強いて偽りと謂うのは、誣罔というものではなかろうか! 陳寿が破虜伝を記す際にこの説話を除いたのは、『起居注』に惑わされ、六璽が名を異にして伝国璽と与に七枚だった事を知らなかったからであろう。呉の時代には玉を刻む事が出来ず、そのため天子は金にて璽を作ったのであろう。璽は金製といえど文は異ならず、呉が降って璽を送ったというのは天子六璽を送ったもので、嘗て得た玉璽は古人の遺した印であって、使用には堪えなかったのだ。天子の璽が今は無いからとして(孫堅の行為を?)論難するのは、その事情に通じていないだけなのだ。 (虞喜『志林』)
―― 裴松之が考えるに、孫堅は義兵を興した者の中でも最も忠烈を称えられた。もし漢の神器を得ながら潜匿して言わなかったのなら、陰かに異志を懐いていた事になり、どうして忠臣と呼ばれただろうか? 呉史は国華を欲し、孫堅の令徳を損っている事に気付いていない。果たしてその通りであれば、子孫に伝わっていよう。六璽に数えられなくとも、常人が所有するものでは無く、孫皓が降った際に亦た六璽のみを送って伝国璽を宝として所蔵できるものでもない。『受命于天』とあり、どうして帰命侯の家から取るものであろう。もし虞喜の言説の通りなら、この璽は今なお孫氏の門に在る事になる。匹夫は璧を懐いているだけで罪になるという。ましてやこの様な物であれば!
[18] この時、関東の州郡は務めて相い兼併して自身を彊大にしていた。袁紹は会稽の周喁を遣って豫州刺史とし、州を襲取させた。孫堅は慨然として歎じ 「同じく義兵を挙げたのは社稷を救わんとしてであったのに、逆賊が破れんとするや各々がこの様であるとは。吾れは誰と合力すべきか!」 言葉を発して涕が下った。

 とか何とか云いつつ、しっかり周豫州を伐っている訳で。『呉録』をはじめとする江南由来の諸書が孫堅を漢の忠臣にしようとするのは、魏関係の資料が曹操を漢の忠臣にしたがるのと同じです。迂闊に信じる事は出来ません。孫堅はあくまでも、袁術にかなり忠実な傭兵団長です。

 周喁、字は仁明。周マの弟である。 (『呉録』)
―― 曹操が義兵を興した当初、人を遣って周喁に要求し、周喁はそこで兵衆を収合して二千人を得、曹操の征伐に従って軍師とされた。後に孫堅と豫州を争い、しばしば戦って利を失った。たまたま次兄の九江太守周昂が袁術に攻められたので、周喁は往ってこれを助けた。軍は敗れ、郷里に還り、許貢に害された。 (『会稽典録』)

 袁紹の任命した周豫州刺史は、曹操の募兵に協力した丹楊太守周マの弟ですが、北方系の『三國志』『典略』では周昂、南方系の『呉録』『会稽典録』では周喁としています。周昂は後に九江太守として登場するので、周氏三兄弟と説明される事もありますが、兄弟の一人だけ諱名が日に因んでいないのも妙な事です。『呉録』が周昂と周喁を、『会稽』は周マと周喁を混同したんじゃないですかね。
 この会稽周氏、袁術が揚州に遷った後も執拗に袁術に抵抗しています。丹楊太守周マは袁術の部将の呉景に敗れ、会稽に帰郷した後は王朗を助け、孫策に敗死します。周昂は九江太守として、呉景の相方の孫賁に敗れた後の消息は不明ですが、周昂=周喁ならば、会稽に帰郷したのち許貢に殺された事になります。

[19] 孫堅はその手勢を挙って劉表を攻めた。劉表は城門を閉ざし、夜間に将軍の黄祖を潜出させて兵を徴発させた。黄祖は兵を率いて還ろうとし、孫堅は逆撃して戦った。黄祖は敗走して峴山中に逃竄した。孫堅は勝勢に乗じて夜っぴいて黄祖を追い、黄祖の部兵が竹木の間より窺って孫堅を射て殺した。 (『典略』)
―― 孫堅は時に齢三十七だった。 (『呉録』)
―― 孫堅は初平四年(193)正月七日に死んだ。 (『英雄記』)
―― 又た云うには、劉表の将軍の呂公が兵を率いて山沿いに孫堅に向かい、孫堅は軽騎で山を尋ねて呂公を討った。呂公の兵は石を落とし、孫堅の頭に中り、直ちに脳が出て物故した。記述が同じでないのはこの通りである。
[20] 孫堅の廟号を尊んで始祖とし、陵墓は高陵といった。 (『呉録』)
―― 孫堅には五子があり、孫策・孫権・孫翊・孫匡は呉氏の生む所で、少子の孫朗は庶生である。一名を仁といった。 (『志林』)
 

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