三國志修正計画

三國志卷三十五 蜀志五/諸葛亮傳 (二)

諸葛亮伝

 九年、亮復出祁山、以木牛運、糧盡退軍、與魏將張郃交戰、射殺郃。十二年春、亮悉大衆由斜谷出、以流馬運、據武功五丈原、與司馬宣王對於渭南。亮毎患糧不繼、使己志不申、是以分兵屯田、為久駐之基。耕者雜於渭濱居民之間、而百姓安堵、軍無私焉。相持百餘日。其年八月、亮疾病、卒于軍、時年五十四。及軍退、宣王案行其營壘處所、曰:「天下奇才也!」

 九年(231)、諸葛亮は復た祁山に出征し、木牛によって運糧したが[21]、糧が尽きて軍を退き、魏将の張郃と交戦し、張郃を射殺した[22]
 十二年(234)春、諸葛亮は大いに軍兵を悉くして斜谷より出征し、流馬によって運糧し、武功の五丈原に拠り、司馬懿と渭南で対峙した。諸葛亮は毎(つね)に糧が継がず、己が志を伸ばせない事を患(うれ)え、そのため兵を分けて屯田して久駐の基とした。耕作者は渭浜に居住する民の間に雑居したが、百姓は安堵し、軍にも私横は無かった[23]。相い対峙すること百余日。その年の八月、諸葛亮は疾を病み、軍中で卒した。時に齢五十四だった[24]
軍が退くに及び、司馬懿はその営塁の場所を案行し 「天下の奇才である!」 と[25]

 亮遺命葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物。詔策曰:「惟君體資文武、明叡篤誠、受遺託孤、匡輔朕躬、繼絶興微、志存靖亂;爰整六師、無歳不征、神武赫然、威鎮八荒、將建殊功於季漢、參伊・周之巨勳。如何不弔、事臨垂克、遘疾隕喪!朕用傷悼、肝心若裂。夫崇コ序功、紀行命諡、所以光昭將來、刊載不朽。今使使持節左中郎將杜瓊、贈君丞相武郷侯印綬、諡君為忠武侯。魂而有靈、嘉茲寵榮。嗚呼哀哉!嗚呼哀哉!」

 諸葛亮は漢中の定軍山(漢中市勉県南郊)に葬る事を遺命し、山に因って墳とし、冢は棺を容れるに足る大きさで、時服にて斂(おさ)め、器物は副葬させなかった。詔策にて 「君は文武を備え、明叡かつ篤誠だった。託孤の遺詔により朕を輔弼し、漢室の再興と乱の平定を志してくれた。六師を整えて出征しない年は無く、神武は赫然としてその威は八荒(天下)を鎮め、殊功を季漢(現政権)に建て、伊尹・周公の巨勲に並ぼうとしていたのに、直前になって死んでしまった! 朕は傷んで悼んで肝心は張り裂けそうだ。徳功によって記し諡する先例に従い、使持節・左中郎将杜瓊を使者とし、丞相・武郷侯の印綬を贈り、忠武侯と諡しよう。魂に霊があるなら、寵栄を嘉してくれ。嗚呼哀哉! 嗚呼哀哉!」

 諸葛亮は成都に葬られるのがイヤだったのかと勘ぐってみる誘惑に駆られます(笑)。成都でも南鄭でもなく、漢中を北防する地でも郷里に近い訳でもありません。定軍山は劉備が夏侯淵を斬って漢中を確保した記念すべき主戦場で、劉備集団の絶頂期の象徴だったりします。劉備の栄光の地を慕ったんじゃないかと思うと、妙に諸葛亮にも親しみが湧いてきます。てゆーか埋葬地に誰かツッコめよ。

 初、亮自表後主曰:「成都有桑八百株、薄田十五頃、子弟衣食、自有餘饒。至於臣在外任、無別調度、隨身衣食、悉仰於官、不別治生、以長尺寸。若臣死之日、不使内有餘帛、外有贏財、以負陛下。」 及卒、如其所言。
 亮性長於巧思、損益連弩、木牛流馬、皆出其意;推演兵法、作八陳圖、咸得其要云。亮言教書奏多可觀、別為一集。

 嘗て諸葛亮が自ら後主に上表するには 「成都には桑八百株と薄田(痩田)十五頃があり、子弟の衣食には余饒があります。臣が外任に在るに至っても別けて調度する事はなく、身に随う衣食は悉く官に仰ぎ、別けて尺寸の土地で生業を治める必要もありません。もし臣が死んでも、内には余帛があり、外には贏財があり、陛下に(面倒を)負わせる事はございません」 卒するに及び、言う通りだった。
 諸葛亮は性として機巧を思う事に長じ、損益連弩や木牛・流馬は皆なその意匠より出た。兵法を推演して八陣図を作り、咸なその要諦を得ていると云った[26]。諸葛亮の言辞や教訓・書簡・上奏は多く観るべきものがあり、別に一集となっている。

 景耀六年春、詔為亮立廟於沔陽。秋、魏鎮西將軍鍾會征蜀、至漢川、祭亮之廟、令軍士不得於亮墓所左右芻牧樵採。亮弟均、官至長水校尉。亮子瞻、嗣爵。

 景耀六年(263)春、詔により諸葛亮の為に沔陽に廟を立てた[27]。秋、魏の鎮西将軍鍾会が蜀を征伐し、漢川に至ると諸葛亮の廟を祭り、軍士に命じて諸葛亮の墓所の左右で芻牧(刈草放牧)や樵採を禁じた。
 諸葛亮の弟の諸葛均は、官は長水校尉に至った。諸葛亮の子の諸葛瞻が爵を嗣いだ[28]
諸葛氏集目録

  開府作牧第一  權制第二  南征第三  北出第四
  計算第五   訓資譏Z  綜覈上第七  綜覈下第八
  雜言上第九  雜言下第十  貴和第十一  兵要第十二
  傳運第十三  與孫權書第十四  與諸葛瑾書第十五  與孟達書第十六
  廢李平第十七  法檢上第十八  法檢下第十九  科令上第二十
  科令下第二十一  軍令上第二十二  軍令中第二十三  軍令下第二十四
右二十四篇、凡十萬四千一百一十二字。

 臣壽等言:臣前在著作郎、侍中領中書監濟北侯臣荀勗・中書令關内侯臣和嶠奏、使臣定故蜀丞相諸葛亮故事。亮毗佐危國、負阻不賓、然猶存録其言、恥善有遺、誠是大晉光明至コ、澤被無疆、自古以來、未之有倫也。輒刪除複重、隨類相從、凡為二十四篇、篇名如右。
 亮少有逸羣之才、英霸之器、身長八尺、容貌甚偉、時人異焉。遭漢末擾亂、隨叔父玄避難荊州、躬耕于野、不求聞達。時左將軍劉備以亮有殊量、乃三顧亮於草廬之中;亮深謂備雄姿傑出、遂解帶寫誠、厚相結納。及魏武帝南征荊州、劉j舉州委質、而備失勢衆寡、無立錐之地。亮時年二十七、乃建奇策、身使孫權、求援呉會。權既宿服仰備、又覩亮奇雅、甚敬重之、即遣兵三萬人以助備。備得用與武帝交戰、大破其軍、乘勝克捷、江南悉平。後備又西取益州。益州既定、以亮為軍師將軍。備稱尊號、拜亮為丞相、録尚書事。及備殂沒、嗣子幼弱、事無巨細、亮皆專之。於是外連東呉、内平南越、立法施度、整理戎旅、工械技巧、物究其極、科教嚴明、賞罰必信、無惡不懲、無善不顯、至於吏不容奸、人懷自氏A道不拾遺、彊不侵弱、風化肅然也。
 當此之時、亮之素志、進欲龍驤虎視、苞括四海、退欲跨陵邊疆、震蕩宇内。又自以為無身之日、則未有能蹈渉中原・抗衡上國者、是以用兵不戢、屡耀其武。然亮才、於治戎為長、奇謀為短、理民之幹、優於將略。而所與對敵、或値人傑、加衆寡不r、攻守異體、故雖連年動衆、未能有克。昔蕭何薦韓信、管仲舉王子城父、皆忖己之長、未能兼有故也。亮之器能政理、抑亦管・蕭之亞匹也、而時之名將無城父・韓信、故使功業陵遲、大義不及邪?蓋天命有歸、不可以智力爭也。
 青龍二年春、亮帥衆出武功、分兵屯田、為久駐之基。其秋病卒、黎庶追思、以為口實。至今梁・益之民、咨述亮者、言猶在耳、雖甘棠之詠召公、鄭人之歌子産、無以遠譬也。孟軻有云:「以逸道使民、雖勞不怨;以生道殺人、雖死不忿。」信矣!論者或怪亮文彩不豔、而過於丁寧周至。臣愚以為咎繇大賢也、周公聖人也、考之尚書、咎繇之謨略而雅、周公之誥煩而悉。何則?咎繇與舜・禹共談、周公與羣下矢誓故也。亮所與言、盡衆人凡士、故其文指不得及遠也。然其聲教遺言、皆經事綜物、公誠之心、形于文墨、足以知其人之意理、而有補於當世。
 伏惟陛下邁蹤古聖、蕩然無忌、故雖敵國誹謗之言、咸肆其辭而無所革諱、所以明大通之道也。謹録寫上詣著作。臣壽誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪。泰始十年二月一日癸巳、平陽侯相臣陳壽上。

 臣陳寿らが上言します。臣が前に著作郎に在った時、侍中・領中書監・済北侯荀勗、中書令・関内侯和嶠の上奏により、臣に故蜀の丞相諸葛亮の故事を校定させました。諸葛亮は危国を毗佐し、険阻を負って賓(まつろ)わず、しかし猶おその言葉を記録して善事を遺失する事を恥じた事は、誠に大晋の光明が至徳であり、遍く恩沢を被り、古え以来の未曾有の大倫であります。重複は削除し、分類して整理し、凡そ二十四篇。篇名は右(上)の通りです。

 以下、ほぼ本文のダイジェスト版プラス諸葛亮賛美なので、訳している途中でかったるくなり終盤ぶん投げました。陳寿が諸葛亮を評して蕭何・管仲に匹敵すると考えていた事、諸葛亮の文藻が不評だった事、王子城父の存在を知ったことは収穫でした。

 諸葛亮は若きより逸群の才があり、英霸の器であり、身長は八尺、容貌は甚だ優偉で、時人は異とした。漢末の擾乱に遭い、叔父の諸葛玄に随って荊州に避難し、躬ずから野を耕し、聞達を求めなかった。時に左将軍劉備は諸葛亮に特別な器量があるとし、かくして諸葛亮を草廬の中に三顧し、諸葛亮は劉備の雄姿が傑出していると深く考え、かくて解帯写誠(胸襟を開いて誠意を示し)して厚く結納した。魏武帝が荊州に南征するに及び、劉jは州を挙げて質を委ね、劉備は勢を失って手勢は寡なく、立錐の地も無かった。諸葛亮は時に齢二十七であり、奇策を建て、自身で孫権に使いし、呉会に求援した。孫権はかねて劉備に服仰しており、又た諸葛亮の奇雅を観、甚だこれを敬重して即座に兵三万人を遣って劉備を助けさせた。劉備は用いるものを得て武帝と交戦し、その軍を大破し、勝ちに乗じて克捷し、江南を悉く平らげた。後に劉備は又た西のかた益州を取った。益州を定めた後、諸葛亮を軍師将軍とした。劉備が尊号を称えると諸葛亮を拝して丞相・録尚書事とした。劉備が殂歿するに及び、嗣子が幼弱である事から、事は巨細となく諸葛亮が専決した。こうして外は東呉に連なり、内は南越を平定し、法度を立てて施行し、戎旅を整理し、工械や技巧はその極を究めた。科教(法令)は厳明で、賞罰必信であり、悪でなければ懲らさず、善でなければ顕彰せず、そのため吏は奸を容れず、人は自ら精励を懐き、道に遺失物を拾わず、彊者は弱者を侵さず、風化は粛然とするに至った。。
 まさにこの時、諸葛亮の素志は、進んでは龍驤虎視して四海を苞括しようとし、退いては辺境に跨陵して海内を震蕩しようとする事にあった。又た自身がいなくなれば中原を蹈渉して上国に抗衡できる者がいなくなると考え、このため用兵を戢(や)めず、しばしばその武を耀かせた。しかし諸葛亮の才は治戎に長じて奇謀には短く、理民の才幹は将略より優れていた。しかも対敵するのは或る者は人傑であり、加えて衆寡もr(ひとし)くなく、攻守の形を異にし、そのため連年軍兵を動かしはしたが、未だ勝つことが出来なかった。昔、蕭何が韓信を薦め、管仲が王子城父を挙げたのは、皆な己が長所が(全てを)兼ねられない事を忖度したからだった。諸葛亮の政理の器能は管仲・蕭何に亜匹するものだったが、時の名将として王子城父・韓信は無かった。そのため功業を陵遅させ、大義が及ばなかったのか? 恐らく天命に帰すもので、智力で争う事は出来なかったのであろう。
 青龍二年春、諸葛亮は軍兵を率いて武功に出、兵を分けて屯田し、久駐の基とした。その秋に病卒し、黎庶(民衆)は追思して口實(語り草)としている。今に至るまで梁州・益州の民で諸葛亮の事を咨述(讃美)する者は、猶お生存しているかのように語っている。『甘棠』が召公を詠み、鄭人が子産を歌ったとはいえ、遠き譬えではない。孟軻の言葉に 「逸道(寛政)によって民を使役すれば労れても恨まず、生道によって人を刑殺すれば死しても忿まれず」 と。まことである! 論者の或る者は諸葛亮の文彩が豔ではなく、しかも丁寧周至に過ぎる事を怪訝にしている。愚臣が思うに咎繇(皋陶/堯の法官)は大賢であり、周公は聖人である。『尚書』から考えるに、咎繇の“謨”は略にして雅、周公の“誥”は煩にして悉である。何故か? 咎繇は舜・禹と共に談じ、周公は群下と矢誓したからだ。諸葛亮が語ったのは衆人や凡士であり、だからその文旨は遠きに及べなかったのだ。しかしその声教や遺言は皆な経事綜物、公誠の心は文墨に形(あらわ)れ、その人の意理を知るには充分で、しかも当世に補欠するものがある。
 伏惟陛下邁蹤古聖、蕩然無忌、故雖敵國誹謗之言、咸肆其辭而無所革諱、所以明大通之道也。謹録寫上詣著作。臣壽誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪。泰始十年二月一日癸巳、平陽侯相臣陳壽上。
諸葛喬

 喬字伯松、亮兄瑾之第二子也、本字仲慎。與兄元遜倶有名於時、論者以為喬才不及兄、而性業過之。初、亮未有子、求喬為嗣、瑾啓孫權遣喬來西、亮以喬為己適子、故易其字焉。拜為駙馬都尉、隨亮至漢中。年二十五、建興〔六〕年卒。子攀、官至行護軍翊武將軍、亦早卒。諸葛恪見誅於呉、子孫皆盡、而亮自有冑裔、故攀還復為瑾後。

 諸葛喬、字は伯松。諸葛亮の兄の諸葛瑾の第二子であり、本字は仲慎といった。兄の元遜(諸葛恪)と共に当時に名を知られ、論者は諸葛喬の才は兄に及ばないが、性業では優るとした。嘗て諸葛亮に子が無かった時、諸葛喬を嗣子に求め、諸葛瑾は孫権に啓(もう)し、諸葛喬を遣って西に来させ、諸葛亮は諸葛喬を己が嫡子とした。そのためその字名を易えたのである。拝されて駙馬都尉となり、諸葛亮に随って漢中に至った[29]。齢二十五で、建興六年(228)に卒した。子の諸葛攀は、官は行護軍・翊武将軍に至ったが、亦た早くに卒した。諸葛恪が呉で誅され、子孫が皆な尽されたが、諸葛亮には自身の冑裔があり、そのため諸葛攀を還して復た諸葛瑾の後継とした。

 諸葛喬には、孫松との微妙な誤認疑惑があります私の中で。

諸葛瞻

 瞻字思遠。建興十二年、亮出武功、與兄瑾書曰:「瞻今已八歳、聰慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳。」年十七、尚公主、拜騎都尉。其明年為羽林中郎將、屡遷射聲校尉・侍中・尚書僕射、加軍師將軍。瞻工書畫、彊識念、蜀人追思亮、咸愛其才敏。毎朝廷有一善政佳事、雖非瞻所建倡、百姓皆傳相告曰:「葛侯之所為也。」是以美聲溢譽、有過其實。景耀四年、為行都護衞將軍、與輔國大將軍南郷侯董厥並平尚書事。六年冬、魏征西將軍ケ艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住緜竹。艾遣書誘瞻曰:「若降者必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戰、大敗、臨陳死、時年三十七。衆皆離散、艾長驅至成都。瞻長子尚、與瞻倶沒。次子京及攀子顯等、咸熙元年内移河東。

 諸葛瞻、字は思遠。建興十二年(234)、諸葛亮は武功に出る時、兄の諸葛瑾に書簡を与え 「瞻は今や已に八歳であり、聡慧は愛すべきですが、早成することを嫌疑し、重器とならない事を恐れております」 齢十七で公主を尚(めと)り、騎都尉に拝された。その明年に羽林中郎将となり、射声校尉・侍中・尚書僕射を屡遷し、軍師将軍を加えられた。諸葛瞻は書画に工(たくみ)で、識念(記憶力)が彊く、蜀人は諸葛亮を追思している事もあり、咸な才敏を愛した。朝廷に一善政や佳事のある毎に、諸葛瞻の建倡ではない事でも百姓は皆な伝えて相い告げ、「葛侯のなされた事だ」 と。そのため美声溢誉となり、その実質を越えていた。
 景耀四年(261)、行都護・衛将軍となり、輔国大将軍・南郷侯董厥と揃って尚書の事を平理した。

 董厥の所で言及されますが、この当時の朝廷は黄皓に牛耳られ、黄皓との交際を避けて高位に留まる事は非常に困難でした。又た朝廷は総意として姜維の軍事を否定する方向にシフトしており、その為に諸葛瞻らは黄皓を批判するよりも結託する方を選んだらしい事が述べられています。

六年(263)冬、魏の征西将軍ケ艾が伐蜀し、陰平より景谷道を経由して脇道より入った。諸葛瞻は諸軍を督して涪に至って停駐し、前鋒が破れて退還し、緜竹に駐屯した。ケ艾が書を遣って諸葛瞻を誘うには 「もし降れば必ず上表して琅邪王としよう」 諸葛瞻は怒り、ケ艾の使者を斬った。かくて戦い、大いに敗れ、戦陣に臨んで死んだ。時に齢三十七。軍兵は皆な離散し、ケ艾は長躯して成都に至った。諸葛瞻の長子の諸葛尚は、諸葛瞻と倶に歿した[30]。次子の諸葛京および諸葛攀の子の諸葛顕らは、咸熙元年(264)に河東に内移された[31]
董厥

 董厥者、丞相亮時為府令史、亮稱之曰:「董令史、良士也。吾毎與之言、思慎宜適。」 徙為主簿。亮卒後、稍遷至尚書僕射、代陳祗為尚書令、遷大將軍、平臺事、而義陽樊建代焉。延熙十四年、以校尉使呉、値孫權病篤、不自見建。權問諸葛恪曰:「樊建何如宗預也?」恪對曰:「才識不及預、而雅性過之。」後為侍中、守尚書令。自瞻・厥・建統事、姜維常征伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共將護、無能匡矯、然建特不與皓和好往來。蜀破之明年春、厥・建倶詣京都、同為相國參軍、其秋並兼散騎常侍、使蜀慰勞。

 董厥とは、丞相諸葛亮の時に丞相府令史となった。諸葛亮は称えて 「董令史は良士である。私は彼と語る毎に、思慮は慎んで宜しきに適っている」 徙して主簿とした。諸葛亮が卒した後、ようように遷って尚書僕射に至り、(258年に)陳祗に代って尚書令となり、(輔国)大将軍に遷って尚書台の事を平理し、義陽の樊建が代っ(て尚書令となっ)[32]
 延熙十四年(251)、校尉として呉に使いした時、たまたま孫権の病が篤く、樊建と見えなかった。孫権が諸葛恪に問うには 「樊建は宗預とはどうか?」 諸葛恪 「才識は宗預に及びませんが、雅性は優っています」 後に侍中となり、尚書令の事を守(か)ねた。諸葛瞻・董厥・樊建が統事してより、姜維が常に征伐して外に在った事もあり、宦人黄皓が機柄を竊弄し、咸な共に庇護して匡矯しようとしなかったが[33]、樊建は特に黄皓とは和好したり往来はしなかった。蜀が破れた明年春、董厥・樊建は倶に京都に詣り、同じく相国参軍となり、その秋に揃って散騎常侍を兼ね、蜀を慰労する使者となった[34]
 
[21] 諸葛亮は祁山を囲むと鮮卑の軻比能を招き、軻比能らは旧の北地石城に至って諸葛亮に応じた。

 軻比能の本拠地は幷州の北方あたりなので、たまたま作戦がカブったのを習鑿歯が結びつけやっがってと思っていたんですが、牽招伝にも本文で言及がありました。

このとき魏の大司馬曹真は疾み、司馬懿が荊州より入朝した。魏明帝は 「西方の事は重大だ。君でなければ付託する者がいない」 と。かくして西のかた長安に出屯させ、張郃・費曜・戴陵・郭淮らを督させた。司馬懿は費曜・戴陵を留めて精兵四千で上邽を守らせ、余衆を悉く出して西のかた祁山を救った。張郃は兵を分けて雍・郿に駐屯したいとしたが、司馬懿は 「料るに、前軍独りで当る事が出来るのなら将軍の言葉は是である。もし当れずに前後に分かれたら、これは楚の三軍が黥布に禽とされた事態となる」 かくて進んだ。諸葛亮は兵を留と攻に分け、自ら上邽で司馬懿を逆撃しようとした。郭淮・費曜らが諸葛亮を邀撃したが、諸葛亮はこれを破り、上邽の麦を大いに芟刈し、司馬懿と上邽の東で遭遇した。(司馬懿は)兵を収めて険阻に依り、軍を交戦させず、諸葛亮は兵を率いて還った。
司馬懿は諸葛亮を追って鹵城に至った。張郃 「彼は遠来して我を逆撃し、戦おうにもできず、我が利が不戦にあると考え、長期の計画で制しようとしております。しかも祁山は大軍が近くに在る事を知り、人の情として自ら固めております。ここに止屯し、軍を分けて奇兵とし、その後背に出る事を示しましょう。前進しても偪ろうとせず、坐して民の信望を失うのは宜しくありません。今、諸葛亮の縣軍(遠征軍)は糧食が少なく、亦た去りましょう」 司馬懿は従わず、そのため諸葛亮を追った。至った後は又た山に登って営濠を掘り、交戦を肯んじなかった。賈栩・魏平はしばしば出戦を請い、因って 「公は蜀を虎のように畏れております。天下に笑われて如何します!」 司馬懿はこれを病んだ。諸将は咸な交戦を請うた。五月辛巳、かくして張郃に南囲の無当監何平を攻めさせ、自身は中道から諸葛亮に向った。諸葛亮は魏延・高翔・呉班を赴かせて拒ぎ、大いにこれを破り、甲首三千級と玄鎧五千領、角弩三千一百張を獲た。司馬懿は還って営に籠った。 (『漢晋春秋』)
[22] 郭沖の其の五。魏明帝は自ら征蜀せんと長安に行幸し、司馬懿を遣って張郃ら諸軍と雍・涼の勁卒三十余万を督させ、軍を潜めて密かに進ませ、剣閣に向わせようとした。諸葛亮は時に祁山にあり、旌旗・利器により険要を守り、十分の二を更めて下山させ、八万が留まっていた。時に魏軍は始めて布陣し、幡兵適交(?)、参佐は咸な賊の軍兵が彊盛で、力で制しない訳にはいかず、仮措置として兵の下山を一月停止し、声勢を併せるのが妥当だとした。諸葛亮 「私の統武行師は大いなる信義を根本とする。原城を得て信を失う事は古人の惜しんだ事だ[※]。去る者は装備を束ねて待期しており、妻子は鶴望して日を計っている。征旅が難に臨んでいるとはいえ、義として廃する事はできぬ」 皆な命令によって去らせようとした。こうして去る者は感悦し、留まって一戦する事を願い、駐まる者は憤踊し、死命を決しようと考えた。互いに謂うには 「諸葛公の恩は死んでも報いきれない」 臨戦の日には刃を抜いて先を争わぬ者は莫く、一を以て十に当り、張郃を殺し、司馬懿を却け、一戦して大いに勝った。これは信に由るものである。

※ 晋文公が三日での決着を軍に約束して原邑を攻囲した時、期日を終えた直後に原の降伏準備を知ったが、攻撃を続行せずに軍を退け、原は結局降伏したという故事。

:反論しよう。裴松之が調べた処、諸葛亮が嘗て祁山に出征した時に魏明帝が身ずから長安に至っただけで、この年には再びは来ていない。しかも諸葛亮の大軍は関・隴に在り、魏人はどうやって諸葛亮を越えて真直ぐ剣閣に向えたのか? 諸葛亮は戦場に出た後、本来は久駐の規企は無かった。兵を休ませて蜀に還すとは、皆な経通の言(道理の通った言葉)ではない。孫盛・習鑿歯は異同を捜求して遺漏は無い筈なのに、揃って郭沖の言葉を載せていない。これによっても乖剌の多さが知れよう。
[23] 諸葛亮は至ってよりしばしば挑戦し、司馬懿も亦た固く交戦を請うた。(明帝は)衞尉辛毗に節を持たせて制させた。姜維が諸葛亮に謂うには 「辛佐治が節に仗って到りました。賊は再びは出戦しますまい」 諸葛亮 「彼はもとより交戦の気持ちが無い。固く戦を請うたのは、軍兵に対して示そうとしただけなのだ。将は軍に在っては君命でも受けない事があるのだ。苟くも私を制する事が出来るなら、どうして千里の彼方に戦を請おうか!」 (『漢晋春秋』)
―― 諸葛亮の使者が至ると、その寝食および事務の煩簡を問い、戎事(軍事)は問わなかった。使者が対えるには 「諸葛公は夙に起きて夜に寐ね、罰二十打以上は皆な親しく擥(執)られます。噉食(食事)は数升にも足りません」 司馬懿 「諸葛亮はもうすぐ死ぬだろう」 (『魏氏春秋』)
[24] 諸葛亮は兵糧が尽きて勢いも窮し、憂恚して嘔血し、一夕に営を焼いて遁走した。斜谷道に入り、道中で発病して卒した。 (『魏書』)
―― 諸葛亮は郭氏塢で卒した。 (『漢晋春秋』)
―― 赤く芒角を持つ星が現れ、東北より西南に流れ、諸葛亮の営に投じた。三たび投じて還り、往く時は大きく還りは小さかった。俄かに諸葛亮が卒した。 (『晋陽秋』)
―― 裴松之が考えるに、諸葛亮が渭浜に駐在した時、魏人は躡跡し(後手に回り)、勝負の形勢は未だ測量できなかった。嘔血したと云っているのは、諸葛亮が自滅する事に因って自らを誇大にしようとの事であろう。そも孔明の智略を以て、どうして仲達が嘔血させる事ができようか? 劉琨が喪師するに至った際、晋元帝に箋を与えて 「亮軍敗歐血」 と亦た云っているが、これは虚記を引用して言ったものであろう。
谷に入って卒したと云っているのは、蜀人が谷に入ってから喪を発した事に縁ったからである。
[25] 楊儀らは整軍して出立すると、百姓が奔って司馬懿に告げ、司馬懿は追走した。姜維は楊儀に旗を反して鼓を鳴らすよう命じ、司馬懿に向かわせる様を示し、司馬懿はかくして退いて偪ろうとしなかった。こうして楊儀は陣を結収して去り、谷に入った後に喪を発した。司馬懿が退いた事を、百姓は諺にして 「死せる諸葛、走ける仲達をはしらす」 と。或る者が司馬懿に告げると、司馬懿は 「私は生者を料る事はできるが、死者を料るのには慣れていない」 (『漢晋春秋』)
[26] 諸葛亮は『八務』『七戒』『六恐』『五懼』を作り、皆な条章(箇条書き)であり、臣子を訓励した。又た損益連弩とは元戎とも謂い、鉄を矢とし、矢長は八寸、一弩で十矢を倶に発した。 (『魏氏春秋』)
―― 木牛とは方形の腹と曲線の頭、一腳に四足、頭は頸中に入り、舌は腹に著く。多くを載せて少しく行き、大きく用いる事に適し、小さきに用いてはならない。独行では数十里、群行では二十里を行く。曲者為牛頭、双者為牛腳、横者為牛領、転者為牛足、覆者為牛背、方者為牛腹、垂者為牛舌、曲者為牛肋、刻者為牛歯、立者為牛角、細者為牛鞅、摂者為牛鞦軸。牛は双轅を仰ぎ、人が六尺行くと、は四歩を行く。一年分の糧を載せ、日に行くこと二十里。人を大いには労わせず。 流馬尺寸之数、肋長三尺五寸、広三寸、厚二寸二分、左右同。前軸孔分墨去頭四寸、径中二寸。前腳孔分墨二寸、去前軸孔四寸五分、広一寸。前杠孔去前腳孔分墨二寸七分、孔長二寸、広一寸。後軸孔去前杠分墨一尺五分、大小與前同。後腳孔分墨去後軸孔三寸五分、大小與前同。後杠孔去後腳孔分墨二寸七分、後載剋去後杠孔分墨四寸五分。前杠長一尺八寸、広二寸、厚一寸五分。後杠與等版方嚢二枚、厚八分、長二尺七寸、高一尺六寸五分、広一尺六寸、毎枚受米二斛三斗。従上杠孔去肋下七寸、前後同。上杠孔去下杠孔分墨一尺三寸、孔長一寸五分、広七分、八孔同。前後四腳、広二寸、厚一寸五分。形制如象、靬長四寸、径面四寸三分。孔径中三腳杠、長二尺一寸、広一寸五分、厚一寸四分、同杠耳。」 (『諸葛亮集』)

 流馬は流石に筑摩訳が匙を投げただけあって、全く訳が解りません。木牛も想像は難しいですが、大きさや運用の違いから、便宜的に牛・馬と呼んでいるだけの様な気がします。牛が牽引、馬が手押し?

[27] 諸葛亮が亡くなった当初、所在では各々が立廟を求めたが、朝議は礼の秩序を理由に聴許しなかった。百姓はかくて時節に因んで道陌上で私的に祭った。論者の或る者は成都に廟を立てるべきだとしたが、後主は従わなかった。歩兵校尉習隆・中書郎向充らが共に上表するには 「周人は召伯の徳を慕って(旧宅の)甘棠を伐らず、越王は范蠡の功を思ってその像を鋳金したとか。漢が興ってより以来、小善小徳で廟を立てられた者は多くおります。ましてや諸葛亮の徳は遠きにも範とされ、勲は世を蓋い、王室が壊れなかったのは実にこの人に頼るものです。現状はその徳を保存し功を記念する方法ではありません。もし民心の全てに順ったら典礼を瀆す事になり、京師に建てれば宗廟に偪る事になります。墓所の近く、沔陽に建て、親属に時節の祭を行なわせるのが妥当で、奉祠したい者は霊廟へ至らせ、私祀を断たせますよう」 こうして始めて従った。 (『襄陽記』)

 武侯廟の縁起は本当にそうなのか? 孫権や孫皓を参考にすると、この時代の末期を自覚した君主は神異に頼る傾向があります。魏の伐蜀の詔が五月に出されたとはいえ、事前準備の事は成都にも伝わっていた筈です。神頼み孔明頼みで廟を建てたんじゃない?定軍山の麓じゃなくて漢水の北に建てているし。

[28] 黄承彦とは高爽にして胸中を開列(開陳)する人で、沔南の名士である。諸葛孔明に謂うには 「聞けば君は婦を択んでいるとか。自身には醜女があり、黄の頭髪と黒い顔色だが、才は君の配偶として堪えられる」 孔明が許したので、即座に載せて送った。時人は笑楽し、郷里では諺として 「孔明の択婦に倣う勿れ。阿承の醜女を得る事になろう」 と。 (『襄陽記』)
[29] 諸葛亮が兄の諸葛瑾に与えた書簡 「諸葛喬は本来は成都に還すべきですが、今、諸将の子弟は皆な運輸に当っており、栄辱を同じくするのが宜しいと思います。今、喬に五・六百の兵を督させ、諸子弟と谷中で運輸させております」 書簡は『諸葛亮集』にある。
[30] 干宝曰く、諸葛瞻の智は危難を扶けるに足りず、勇は敵を拒ぐに足りなかったが、外は国に背かず、内は父の志を改めず、忠孝であった。
―― 諸葛尚が歎じるには 「父子とも国の重恩を荷いながら、早々に黄皓を斬らず、そのため傾敗を致した。生きていて何を為せよう!」 かくして魏軍に馳赴して死んだ。 (『華陽國志』)
[31] 『諸葛氏譜』を調べた処、諸葛京は字が行宗だとあった。
―― 詔 「諸葛亮が蜀に在った時、その心力を尽した。その子の諸葛瞻は難に臨んで義に死んだ。天下の善の一つである」 その孫の諸葛京は才によって吏に署され、後に郿令となった。 (『晋泰始起居注』)
―― 尚書僕射山濤の“啓事” 「郿令諸葛京の祖父の諸葛亮は漢乱に遇って分隔され、父子は蜀に在りました。天命を理解しなかったとはいえ、事える相手に心を尽し、諸葛京には郿を治めて復た美称があります。臣は思うに、東宮舎人に補任し、人に事える理を明らかにし、梁・益の輿論に副うのが妥当かと存じます」 諸葛京の位は江州刺史に至った。
[32] 董厥、字は龔襲。亦た義陽の人である。樊建、字は長元である。 (『晋百官表』)
[33] 諸葛瞻・董厥らは姜維が好戦無功である事から国内が疲弊したとし、後主に上表し、召還して益州刺史とし、兵権を奪うべきだとした。蜀の長老には猶おも諸葛瞻の上表には閻宇を姜維に代えるという事を覚えている者がいる。晋の永和三年(347)、蜀成漢の史官の常璩が説く蜀の長老の云う事には、「陳寿は嘗て諸葛瞻の吏となり、諸葛瞻に辱められた。そのためこの事に因って悪事を黄皓に帰し、しかも諸葛瞻が匡矯できなかったと云っているのだ」 (孫盛『異同記』)

 すまん。わざわざ黄皓に言及する論法が理解できません。だったら素直に 「諸葛瞻が劉禅を匡矯できなかった」 で良さそうですが、孫盛は嬉々として採録したんだろうなぁ。
 どうも陳寿には誰かに対する私怨で誰かを貶めるエピソードが幾つかありますが、やはり原因は会稽丁氏との軋轢ですか。それとも潁川荀氏との確執ですか。因みに常璩は『華陽國志』の撰者です。陳寿の父が馬謖に連坐して処罰されたというのは『晋書』ネタです。

[34] 樊建が給事中となると、晋武帝は諸葛亮の治国を問うた。樊建 「欠点を聞けば必ず改め、矜過(看過)せず、賞罰の誠実さは神明をも感嘆させるものでした」 武帝 「善哉!私がこの人を得て輔佐とする事が出来ていれば、どうして今日の労があっただろうか!」 樊建は稽首し 「臣が天下の論を竊かに聞くなら、皆なケ艾が枉陥され、陛下は知っていても正されないと謂っております。これは馮唐の謂う 『廉頗李牧を得ても用いる事が出来ない』 ではありませんか!」 武帝は笑い 「私も糾明しようと思っていたのだ。卿の言葉は私の意思を起たせた」 こうして詔を発してケ艾の事を治めた。 (『漢晋春秋』)

 なぜ樊建がケ艾の弁護らしき事をしたのか不明ですが、ケ艾の名誉回復は泰始元年(265)と同九年(273)に段階的に行なわれています

 

 評曰:諸葛亮之為相國也、撫百姓、示儀軌、約官職、從權制、開誠心、布公道;盡忠益時者雖讎必賞、犯法怠慢者雖親必罰、服罪輸情者雖重必釋、游辭巧飾者雖輕必戮;善無微而不賞、惡無纖而不貶;庶事精練、物理其本、循名責實、虚偽不齒;終於邦域之内、咸畏而愛之、刑政雖峻而無怨者、以其用心平而勸戒明也。可謂識治之良才、管・蕭之亞匹矣。然連年動衆、未能成功、蓋應變將略、非其所長歟!

 評に曰く、諸葛亮は相国になると百姓を慰撫し、儀軌を示し、官職を簡約し、権制に従い、誠心を開き、公道を布いた。忠を尽し時世に裨益した者は讐といえども必ず賞し、法を犯し怠慢な者は親近といえど必ず罰し、罪に服し(改悛の)情を輸した者は重罪であっても必ず釈(ゆる)し、巧みに游辞を飾る者は軽罪であっても必ず罰した。善が微かでも無ければ賞さず、悪が纖かでも無ければ貶めず、庶事に精通熟練し、物事の根本を理(ただ)し、名を循り実を責(ただ)し、虚偽は歯牙にかけなかった。終に邦域の内で咸な畏れつつ愛し、刑政は峻厳ではあったが怨む者は無かったのは、その用いる心が公平で、勧戒が明らかだったからである。治政を識る良才であり、管仲・蕭何の亜匹と謂ってよかろう。しかし連年に軍兵を動かし、未だに成功できなかったのは、恐らく応変の将略は長じるところでは無かったのであろう![1]
[1] 或る人が諸葛亮の人物について問うた。

 以下、袁子の諸葛亮論を問答形式で展開していますが、例によって端折ります。論旨の飛躍や諸葛亮の矮小化など、信者脳の失点を露呈しているので、生温くご覧ください。

:袁子 「諸葛亮は劉備に信任され、それに応えられる人物だった。後事を託され、凡君の摂政となっても礼を失わず、国人にも疑わず、群臣・百姓とも心から欣んで戴いた。法を行なうこと厳格だったが国人は悦服し、民に尽力を強いても怨まれなかった。出征した敵国内でも賓客のように振舞い、決して民衆を犯さなかった。その用兵は、止まること山の如く、進退は風の如く、出兵に際しても人心は憂えなかった。諸葛亮が死んでから数十年となるが、国人が慕う様は周人が召公を思慕したようである。孔子は“雍也、可使南面(仲弓は君主として南面するに相応しい)”と言ったが、諸葛亮もそうである」
 諸葛亮が始めて隴右に出た時、南安・天水・安定の三郡が応じたが、諸葛亮が速やかに進まなかった為に三郡は魏に帰し、諸葛亮には尺寸の功も無かった。この機を失ったのは何故か?」
:袁子 「蜀兵は軽脱(軽佻)で良将は少なく、当時は中国の彊弱が判らなかった。だから重ねて慎重になったのだ。大事を為す者は小功を求めないものだ。そもそも諸葛亮は勇であり、能く闘う者であるのに、三郡が反いても速やかには応じなかったのは中国の彊弱が判らなかったからだ」
 どうして勇であり能く闘う者だと思うのか?
:袁子 「街亭で前軍が大破した時、諸葛亮は数里離れていたのに慌てては救わなかった。魏兵が接近しても慌てずに徐行した。これこそ勇である。安静と堅重を兼ねているのだ。又た諸葛亮は法令・賞罰は公明で、士卒は命令があれば危険に赴いて顧みない。これが能く闘うとの理由である」
 諸葛亮は数万の軍兵を率いたが、興造したものは数十万分に匹敵した。至る所での塁営とそれに付帯する設備は皆な図面通りで、去る時には原状復帰した。労力を浪費して修飾したのは何故か?
:袁子 「蜀人は軽脱だから堅実に用いたのだ。そもそも諸葛亮は実質を重んじて名を重視しない。志は遠大で近速を求める者ではないのだ」
 諸葛亮は好んで急務でもない土木を行なった。何故か?
:袁子 「小国には賢才が少なく、そのため尊厳が必要だった。諸葛亮の執政によって蜀は富強となり、浮薄の徒は絶えた。根本が確立され、余力を生じたから土木を勧めたのだ。
 諸葛亮の才を以てして軍功が少なかったのは何故か?
:袁子 「諸葛亮とは基本を重んじ、応変は得意としなかった。だから不得手には慎重に対処したのだ。そも賢者とは遠大な存在で、十全ではない事を責めるものではない。短所を知って慎重に処すのが賢者の偉大さである。短所を知れば長所も知る事が出来るのだ。前識(予見)と不当な言葉は諸葛亮が用いないもので、これが私が肯定する点である。 (『袁子』)

 こっからは張儼による諸葛亮と司馬懿の比較論です。張儼は『呉録』の撰者の張勃のお父っさん、というか怪しげな“後出師表”の管理責任者です。諸葛亮大好きっ子?

―― 呉の大鴻臚張儼の著作の『黙記』では、その“述佐篇”で諸葛亮が司馬懿に与えた書簡を論じている。漢朝が傾覆して天下は崩壊し、魏氏は中土に跨り、劉氏は益州に拠り、揃って世の霸主となった。諸葛亮・司馬懿の二相はこの時代にあって明主に身を託し、各々功があった。曹丕・劉備の死後、各々が保阿の任を受けて幼主を輔翼し、託孤に背かなかった。共に一国の宗臣であり、霸王の賢佐であるが、前代の近事を観れば二相の優劣は詳らかである。孔明は巴蜀の一州に跨ったが、戦士・人民は大国の九分の一ほどで、しかも大呉にも献納した。北敵と対すると耕戦の士を隊伍に組織し、刑法を整え、歩兵数万を率いて祁山に長躯し、河・洛の水を馬に飲ませる慨然たる志があった。仲達は十倍の地に拠り、兼併した軍兵に仗り、堅牢に拠って精鋭を擁しながら敵を禽えようとはせず、保全のみで満足し、孔明の往来を自由にさせた。もしこの人が亡くならねば、涼・雍は甲を解けず、中国は鞍を釈けず、勝負は自ずと決していたであろう。昔、子産が鄭を治めると、諸侯は兵を加えられなかった。蜀相はそれに近い。司馬懿と比べれば優っていよう!
 或る者が問う。兵は凶器であり、戦は危事である。境内の保安や百姓の綏撫に務めず、土地の開闢を好んで天下を征伐するのは良計ではない。諸葛丞相は誠に匡佐の才で、孤絶の地に拠り、戦士は五万に満たず、関を閉ざして険阻を守ってこそ君臣とも無事である。師旅を労して征伐しない年は無く、それで咫尺の地すら得られず、帝王の基も開けず、国内を荒廃させて民は役調に苦しんだ。魏の司馬懿の用兵の才は容易く軽んじるべきではなく、敵を量って進むのは兵家が慎重にすべき事である。もし丞相に相応の策があったのなら、(司馬懿に)坦然としたままの勲功を挙げさせなかった筈で、もし無策で臨んだのなら明哲ではなく、海内の期待に背いた事になる。私はこれが疑問であり、その説く所を聞きたい。
:答。湯王は七十里の地、文王は百里の地から天下を有した。皆な征伐によって平定したもので、揖讓(譲位)によって王位に登ったのは舜と禹だけである。蜀と魏は敵戦の国であり、王を倶にはせず、曹操・劉備の時より彊弱は懸絶していたが、劉備は猶お陽平で夏侯淵を斬り、関羽は襄陽を囲んで曹仁を降しかけ、于禁を生け獲り、北国は大小とも憂懼して曹操自ら南陽に出征し、楽進・徐晃らを派遣しても包囲は解かれず、そのため遷都の議も生じた。折しも我が国が南郡を取った為に関羽は軍を解いたのだ。劉備と曹操とを智力や兵力、用兵の上で同等として論じる事は出来ないが、それでも勝つことが出来たのだ。当時はまだ大呉との掎角の勢は無かったのにだ。今、仲達の才は孔明に劣り、当時の状況は昔日とは異なっていた。玄徳すら抗衡したのに孔明がどうして出征して敵を図ってはならないのか? 昔、楽毅は弱燕の軍兵を以て五国の兵を従え、長躯して彊斉の七十余城を下した。今、蜀漢の士卒は燕軍より少なくはなく、君臣は楽毅より信頼し、加えて我が国を唇歯の援とし、東西が蛇のように首尾呼応すれば、形勢は五国の兵力など比較にならない。どうして彼を憚り否定するのか? そも兵事とは奇勝を以てし、智によって敵を制するものだ。土地の広狭や人馬の多少ばかりを恃むものではない。私が観るに彼の治国の体幹は、当事から粛整されており、その教えは後にも遺され、その辞意は懇切で、進取の図を陳べて忠謀は謇謇(率直)であり、主君に対する義が表れ、古えの管仲・晏嬰といえど加えるものはあるまい?
―― 晋の永興中、鎮南将軍劉弘が隆中に至り、諸葛亮の故宅を観て、碣(石碑)を立てて郷閭に表彰した。太傅掾であり犍為の李興に命じて文章を作らせた
「天子命我、于沔之陽、聴鼓鼙而永思、庶先哲之遺光、登隆山以遠望、軾諸葛之故郷。蓋神物応機、大器無方、通人靡滞、大徳不常。故谷風発而騶虞嘯、雲雷升而潜鱗驤;摯解褐於三聘、尼得招而褰裳、管豹変於受命、貢感激以回荘、異徐生之摘宝、釈臥龍於深蔵、偉劉氏之傾蓋、嘉吾子之周行。夫有知己之主、則有竭命之良、固所以三分我漢鼎、跨帯我辺荒、抗衡我北面、馳騁我魏疆者也。英哉吾子、独含天霊。豈神之祗、豈人之精? 何思之深、何徳之清! 異世通夢、恨不同生。推子八陳、不在孫・呉、木牛之奇、則非般模、神弩之功、一何微妙! 千井斉甃、又何秘要!昔在顛・夭、有名無迹、孰若吾儕、良籌妙尽?臧文既没、以言見称、又未若子、言行並徴。夷吾反坫、楽毅不終、奚比於爾、明哲守沖。臨終受寄、譲過許由、負扆莅事、民言不流。刑中於鄭、教美於魯、蜀民知恥、河・渭安堵。匪皋則伊、寧彼管・晏、豈徒聖宣、慷慨屡歎!昔爾之隠、卜惟此宅、仁智所処、能無規廓。日居月諸、時殞其夕、誰能不歿、貴有遺格。惟子之勲、移風来世、詠歌余典、懦夫将氏B遐哉邈矣、厥規卓矣、凡若吾子、難可究已。疇昔之乖、万里殊塗;今我来思、覿爾故墟。漢高帰魂於豊・沛、太公五世而反周、想罔両以髣髴、冀影響之有余。魂而有霊、豈其識諸!」 (『蜀記』)
―― 李興は李密の子であり、一名を安という。 (王隠『晋書』)

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