李嚴字正方、南陽人也。少為郡職吏、以才幹稱。荊州牧劉表使歴諸郡縣。曹公入荊州時、嚴宰秭歸、遂西詣蜀、劉璋以為成都令、復有能名。建安十八年、署嚴為護軍、拒先主於緜竹。嚴率衆降先主、先主拜嚴裨將軍。成都既定、為犍為太守・興業將軍。二十三年、盜賊馬秦・高勝等起事於郪。合聚部伍數萬人、到資中縣。時先主在漢中、嚴不更發兵、但率將郡士五千人討之、斬秦・勝等首。枝黨星散、悉復民籍。又越雟夷率高定遣軍圍新道縣、嚴馳往赴救、賊皆破走。加輔漢將軍、領郡如故。
章武二年、先主徴嚴詣永安宮、拜尚書令。三年、先主疾病、嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主;以嚴為中都護、統内外軍事、留鎮永安。建興元年、封都郷侯、假節、加光祿勳。四年、轉為前將軍。以諸葛亮欲出軍漢中、嚴當知後事、移屯江州、留護軍陳到駐永安、皆統屬嚴。嚴與孟達書曰:「吾與孔明倶受寄託、憂深責重、思得良伴。」亮亦與達書曰:「部分如流、趨捨罔滯、正方性也。」其見貴重如此。八年、遷驃騎將軍。以曹真欲三道向漢川、亮命嚴將二萬人赴漢中。亮表嚴子豐為江州都督督軍、典嚴後事。亮以明年當出軍、命嚴以中都護署府事。嚴改名為平。
九年春、亮軍祁山、平催督運事。秋夏之際、値天霖雨、運糧不繼、平遣參軍狐忠・督軍成藩喩指、呼亮來還;亮承以退軍。平聞軍退、乃更陽驚、説「軍糧饒足、何以便歸」!欲以解己不辦之責、顯亮不進之愆也。又表後主、説「軍偽退、欲以誘賊與戰」。亮具出其前後手筆書疏本末、平違錯章灼。平辭窮情竭、首謝罪負。於是亮表平曰:「自先帝崩後、平所在治家、尚為小惠、安身求名、無憂國之事。臣當北出、欲得平兵以鎮漢中、平窮難縱、無有來意、而求以五郡為巴州刺史。去年臣欲西征、欲令平主督漢中、平説司馬懿等開府辟召。臣知平鄙情、欲因行之際偪臣取利也、是以表平子豐督主江州、隆崇其遇、以取一時之務。平至之日、都委諸事、羣臣上下皆怪臣待平之厚也。正以大事未定、漢室傾危、伐平之短、莫若褒之。然謂平情在於榮利而已、不意平心顛倒乃爾。若事稽留、將致禍敗、是臣不敏、言多撕驕B」乃廢平為民、徙梓潼郡。十二年、平聞亮卒、發病死。平常冀亮當自補復、策後人不能、故以激憤也。豐官至朱提太守。
※ 李厳が 「漢中から西に向かった」 と明記されているので、ここでの沮は馬超伝と同じく漢中と祁山の間、漢水上流の沮水の流域かと思われます。漳については不明です。又た江陽は距離的な問題から犍為郡から分置された江陽郡ではなく、“沔水の北”を意味する江陽を指したものでしょう。いずれにせよ、李厳が西に“逃”げたのではなく“嚮”ったとあり、参軍が諫めたとあるので、諸葛亮と一戦やらかそうとしていた可能性があります。
今、簒賊は未だ滅びず、社稷には難事が多く、国事はただ和合によって克捷すべきで、(不平分子を)苞含する事で大業を危うくしてはなりません。行中軍師・車騎将軍・都郷侯の臣劉琰、使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯の臣魏延、前将軍・都亭侯の臣袁綝、左将軍・領荊州刺史・高陽郷侯の臣呉懿、督前部・右将軍・玄郷侯の臣高翔、督後部・後将軍・安楽亭侯の臣呉班、領長史・綏軍将軍の臣楊儀、督左部・行中監軍・揚武将軍の臣ケ芝、行前監軍・征南将軍の臣劉巴、行中護軍・偏将軍の臣費禕、行前護軍・偏将軍・漢成亭侯の臣許允、行左護軍・篤信中郎将の臣丁咸、行右護軍・偏将軍の臣劉敏、行護軍・征南将軍・当陽亭侯の臣姜維、行中典軍・討虜将軍の臣上官雝、行中参軍・昭武中郎将の臣胡済・行参軍・建義将軍の臣閻晏、行参軍・偏将軍の臣爨習、行参軍・裨将軍の臣杜義、行参軍・武略中郎将の臣杜祺、行参軍・綏戎都尉の臣盛勃、領従事中郎・武略中郎将の臣樊岐らと議し、ただちに李平の任を解き、官禄・節伝・印綬・符策を免じ、その爵土を削られますよう」※ 駢の本義は馬車を曳く為の二頭並走する馬。もしくは無駄。馬の為の采邑とは聞いた事が無いので、恐らく管仲が分不相応だと判断した采邑の事かと思われます。もしくは邑名か。
そも水は至平であるから傾斜した者もその法則を採取し、鏡は至明であるから醜者は(映しても)怒らず、水鏡が事物を窮めながらも怨む者が無いのは、それが無私だからである。水鏡すら無私であるから猶お誹謗を免れるのだ。ましてや大人君子が楽生(慈命)の心を懐き、矜恕(撫恤)の徳を流布し、法の執行は已むを得ぬ場合に限り、自ら犯した罪にのみ刑を加え、賜爵には私心を挟まず、刑誅を怒心に依らなければ、天下に帰服しない者があろうか! 諸葛亮はこれにより刑を用いる事ができる者と謂って良く、秦・漢より以来でこの様な者は未だにいなかった。劉琰字威碩、魯國人也。先主在豫州、辟為從事、以其宗姓、有風流、善談論、厚親待之、遂隨從周旋、常為賓客。先主定益州、以琰為固陵太守。後主立、封都郷侯、班位毎亞李嚴、為衞尉中軍師後將軍、遷車騎將軍。然不豫國政、但領兵千餘、隨丞相亮諷議而已。車服飲食、號為侈靡、侍婢數十、皆能為聲樂、又悉教誦讀魯靈光殿賦。建興十年、與前軍師魏延不和、言語虚誕、亮責讓之。琰與亮牋謝曰:「琰稟性空虚、本薄操行、加有酒荒之病、自先帝以來、紛紜之論、殆將傾覆。頗蒙明公本其一心在國、原其身中穢垢、扶持全濟、致其祿位、以至今日。闔メ迷醉、言有違錯、慈恩含忍、不致之于理、使得全完、保育性命。雖必克己責躬、改過投死、以誓神靈;無所用命、則靡寄顏。」於是亮遣琰還成都、官位如故。
「私の稟性(天性)は空虚で、もとより操行は薄徳で、加えて酒荒(酒乱)の病があり、先帝より以来、紛紜(紛擾)を論じて傾覆しかかりました。明公は最終的に私の赤心を認められて一切を原(ゆる)され、禄位を頂いて今日に至っています。先日は迷酔してまたやらかしましたが、恩愛から大理(=廷尉)には渡さず、身命を全うさせて頂きました。神霊に誓って克己して悔い改めますので、どうか役職を下さい」 。
こうして諸葛亮は劉琰を成都に還らせ、官位は以前通りとした。琰失志慌惚。十二年正月、琰妻胡氏入賀太后、太后令特留胡氏、經月乃出。胡氏有美色、琰疑其與後主有私、呼(卒)五百撾胡、至於以履搏面、而後棄遣。胡具以告言琰、琰坐下獄。有司議曰:「卒非撾妻之人、面非受履之地。」琰竟棄市。自是大臣妻母朝慶遂絶。
だいぶ省略されているようですが、兵長に履物で妻女の顔を叩かせたくらいで、顕官が棄死という極悪人に対する公開処刑を受けるものではありません。蛇足すれば、官は通常の刑法の埒外に置かれているもので、処刑されるのは大逆や背命による敗戦など限定的で、基本的に廷尉に召された時点で自殺する権利があります。西漢の晁錯が不穏な空気の中でノコノコと召喚に応じたのもその為です。劉琰は恐らく劉禅に対してかなりドギツい誹謗を口にし、これが大逆に相当したんでしょう。それにしても美人の奥さんが一と月も帰らなければ、疑わない方がどうかしてますって。
魏延字文長、義陽人也。以部曲隨先主入蜀、數有戰功、遷牙門將軍。先主為漢中王、遷治成都、當得重將以鎮漢川、衆論以為必在張飛、飛亦以心自許。先主乃拔延為督漢中鎮遠將軍、領漢中太守、一軍盡驚。先主大會羣臣、問延曰:「今委卿以重任、卿居之欲云何?」延對曰:「若曹操舉天下而來、請為大王拒之;偏將十萬之衆至、請為大王呑之。」先主稱善、衆咸壯其言。先主踐尊號、進拜鎮北將軍。建興元年、封都亭侯。五年、諸葛亮駐漢中、更以延為督前部、領丞相司馬・涼州刺史、八年、使延西入羌中、魏後將軍費瑤・雍州刺史郭淮與延戰于陽谿、延大破淮等、遷為前軍師征西大將軍、假節、進封南鄭侯。
※ 『三國志』でクセ者を多く輩出している義陽郡ですが、東漢の行政区画には無く、魏初に南陽郡の一部、新野一帯を以て新設された(らしい)。らしい、というのも、『三國志』中では義陽郡新設の記事が無いからです。明帝紀/景初元年末には 「分襄陽郡之鄀葉県属義陽郡」 とあり、又た『晋書』地理志によって嘗ての南陽郡の南東部に置かれた事が判ります。『晋書』地理志の序文には魏文帝が置いたと、荊州の項には晋武帝が呉を平定した太康年間に置いたとあるので、恐らく斉王の区画整理で廃止され、晋が復活させたものと思われます。ちなみに魏志/彭城王拠伝に 「三年(222)、為章陵王、其年徙封義陽」 とありますが、当時の諸侯王は一県を食邑としていたので、これは義陽県の事を指したものです。
部曲(私兵)を以て劉備の入蜀に随い、しばしば戦功があって牙門将軍に遷った。劉備は漢中王になると遷って成都で治めたので、漢川の鎮めに重将を当てる必要があり、衆論は必ず張飛だと考え、張飛も亦た心に自任していた。劉備が魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守としたので、一軍は尽く驚いた。劉備は大いに群臣を会同した際、魏延に問うには 「今、卿に重任を委ねるが、卿は職にあってどのようにするのか?」 魏延は対えて曰く 「もし曹操が天下を挙って来たなら、大王の為にこれを拒がせて頂きます。偏将が十万の軍兵で至ったなら、大王の為にこれを呑ませて頂きます」 と。劉備は善しと称え、人々は咸なその言葉を壮とした。劉備が尊号を踐(ふ)むと、進位して鎮北将軍を拝命した。延毎隨亮出、輒欲請兵萬人、與亮異道會于潼關、如韓信故事、亮制而不許。延常謂亮為怯、歎恨己才用之不盡。延既善養士卒、勇猛過人、又性矜高、當時皆避下之。唯楊儀不假借延、延以為至忿、有如水火。十二年、亮出北谷口、延為前鋒。出亮營十里、延夢頭上生角、以問占夢趙直、直詐延曰:「夫麒麟有角而不用、此不戰而賊欲自破之象也。」退而告人曰:「角之為字、刀下用也;頭上用刀、其凶甚矣。」
※ 劉邦が南鄭から関中に侵攻する際、大々的に桟道を修復している劉邦とは別に韓信が旧道から陳倉を急襲し、関中を平定して劉邦を迎えた事。
魏延は常に諸葛亮を怯懦だと謂い、己の才用を尽くせない事を歎恨していた[1]。魏延は善く士卒を養い、勇猛さは常人を越えており、又た性は矜り高く、当時は皆なが忌避し卑下した。ただ楊儀のみは魏延に対して仮借せず、魏延は非常に忿怒し、水火の関係の様だった。秋、亮病困、密與長史楊儀・司馬費禕・護軍姜維等作身歿之後退軍節度、令延斷後、姜維次之;若延或不從命、軍便自發。亮適卒、祕不發喪、儀令禕往揣延意指。延曰:「丞相雖亡、吾自見在。府親官屬便可將喪還葬、吾自當率諸軍撃賊、云何以一人死廢天下之事邪? 且魏延何人、當為楊儀所部勒、作斷後將乎!」因與禕共作行留部分、令禕手書與己連名、告下諸將。禕紿延曰:「當為君還解楊長史、長史文吏、稀更軍事、必不違命也。」禕出門馳馬而去、延尋悔、追之已不及矣。延遣人覘儀等、遂使欲案亮成規、諸營相次引軍還。延大怒、(纔)儀未發、率所領徑先南歸、所過燒絶閣道。延・儀各相表叛逆、一日之中、羽檄交至。後主以問侍中董允・留府長史蔣琬、琬・允咸保儀疑延。儀等槎山通道、晝夜兼行、亦繼延後。延先至、據南谷口、遣兵逆撃儀等、儀等令何平在前禦延。平叱延先登曰:「公亡、身尚未寒、汝輩何敢乃爾!」延士衆知曲在延、莫為用命、軍皆散。延獨與其子數人逃亡、奔漢中。儀遣馬岱追斬之、致首於儀、儀起自踏之、曰:「庸奴!復能作惡不?」 遂夷延三族。初、蔣琬率宿衞諸營赴難北行、行數十里、延死問至、乃旋。
※ 緊急の文書や檄文。飛檄・羽書とも。緊急の文書に鳥の羽を挟んだ事に由来する。
後主が侍中董允・留府長史蔣琬に問うた処、蔣琬・董允は咸な楊儀を保証して魏延を疑った。楊儀らは山を槎(き)って道を通し、昼夜兼行して亦た魏延の後を継いだ。魏延は先に至ると南谷口に拠り、兵を遣って楊儀らを逆撃させ、楊儀らは何平(王平)に命じて前部に置いて魏延を防禦させた。何平は魏延の先登を叱呵して 「公が亡くなり、身は尚お未だ寒(つめ)たくなっていないのに、汝らはどうしてこんな事をするのか!」 と。魏延の軍兵は曲事が魏延に在る事を知っていたので、用命を為す者とて莫く、軍は皆な散じた。魏延は独り数人の子と逃亡し、漢中に奔った。楊儀は馬岱に追わせてこれを斬り、首を楊儀に送致させた。楊儀は起ってこれを踏んで曰く 「庸奴めが! まだ悪事ができるか?」 と。かくて魏延の三族を夷(ほろぼ)した。これより前、蔣琬は宿営の諸営を率いて難に赴くべく北行したが、行くこと数十里にして魏延が死んだとの消息が至り、かくして旋還した。原延意不北降魏而南還者、但欲除殺儀等。平日諸將素不同、冀時論必當以代亮。本指如此。不便背叛。
漢中北門外の石馬坡遺跡には嘗て東漢様式の石馬がありましたが、この遺跡こそが魏延の墓であり、魏延の名誉回復はその死から程なくには回復されたという論が清の乾隆年間に提唱され、更に近年(1989)にもこの説が再認識されました。同地は魏延が斬られた虎頭橋にあたりますが、これを魏延墓とするにはまだまだ物証が待たれるようです。
それはそうと、軍部の第一人者を自任する魏延がここまで追い詰まった行動をしたのは、政敵の楊儀が軍の統帥権を公認されると考えたからでしょう。楊儀が自分を諸葛亮の後継者に擬していたのは、楊儀自身の自尊心が勘違いさせただけでなく、実際にそう目されるだけの環境が整っていたからです。“丞相:蔣琬、大将軍:楊儀”といった役割分担で。楊儀が統督になった将来では、魏延には刑死の未来しか見えません。それを回避するには楊儀とその支持派を殺すしか…! 魏延としては、社交界に影響力を持つ費禕が逃げ去ったのが最終決断のきっかけだった事でしょう。楊儀の最期といい、費禕の行動は天然なんでしょうか果して。
「聞けば夏侯楙は若く、魏主の婿であり、怯懦で無謀だと。今、私に精兵五千と負糧(携帯食糧)五千を仮して頂ければ、直ちに褒中より出撃し、秦嶺に循って東行し、子午道から北上し、十日を過ぎずに長安に到達できましょう。夏侯楙は私が奄(たちま)ち至ったと聞けば、必ず船に乗って逃走しましょう。長安にはただ御史・京兆太守がいるだけで、横門の邸閣(食糧倉)と散民の穀で食糧は充分に賄えましょう。東方が軍兵を糾合するには尚お二十日許りかかり、公が斜谷より来ても、必ず到達するには充分です。こうすれば一挙動で咸陽以西を定める事ができましょう」 。
諸葛亮はこれは危険で、安全に平坦な道より隴右を平定して取るに越した事は無く、十全必克の策として虞れが無いと考え、ゆえに魏延の計策を用いなかった。 (『魏略』)楊儀字威公、襄陽人也。建安中、為荊州刺史傅羣主簿、背羣而詣襄陽太守關羽。羽命為功曹、遣奉使西詣先主。先主與語論軍國計策、政治得失、大ス之、因辟為左將軍兵曹掾。及先主為漢中王、拔儀為尚書。先主稱尊號、東征呉、儀與尚書令劉巴不睦、左遷遙署弘農太守。建興三年、丞相亮以為參軍、署府事、將南行。五年、隨亮漢中。八年、遷長史、加綏軍將軍。亮數出軍、儀常規畫分部、籌度糧穀、不稽思慮、斯須便了。軍戎節度、取辦於儀。亮深惜儀之才幹、憑魏延之驍勇、常恨二人之不平、不忍有所偏廢也。十二年、隨亮出屯谷口。亮卒于敵場。儀既領軍還、又誅討延、自以為功勳至大、宜當代亮秉政、呼都尉趙正以周易筮之、卦得家人、默然不ス。而亮平生密指、以儀性狷狹、意在蔣琬、琬遂為尚書令・益州刺史。儀至、拜為中軍師、無所統領、從容而已。
初、儀為先主尚書、琬為尚書郎、後雖倶為丞相參軍長史、儀毎從行、當其勞劇、自惟年宦先琬、才能踰之、於是怨憤形于聲色、歎咤之音發於五内。時人畏其言語不節、莫敢從也、惟後軍師費禕往慰省之。儀對禕恨望、前後云云、又語禕曰:「往者丞相亡沒之際、吾若舉軍以就魏氏、處世寧當落度如此邪!令人追悔不可復及。」禕密表其言。十三年、廢儀為民、徙漢嘉郡。儀至徙所、復上書誹謗、辭指激切、遂下郡收儀。儀自殺、其妻子還蜀。
評曰:劉封處嫌疑之地、而思防不足以自衞。彭羕・廖立以才拔進、李嚴以幹局達、魏延以勇略任、楊儀以當官顯、劉琰舊仕、並咸貴重。覽其舉措、迹其規矩、招禍取咎、無不自己也。