三國志修正計画

三國志卷四十 蜀志十/劉彭廖李劉魏楊傳 (二)

李厳

 李嚴字正方、南陽人也。少為郡職吏、以才幹稱。荊州牧劉表使歴諸郡縣。曹公入荊州時、嚴宰秭歸、遂西詣蜀、劉璋以為成都令、復有能名。建安十八年、署嚴為護軍、拒先主於緜竹。嚴率衆降先主、先主拜嚴裨將軍。成都既定、為犍為太守・興業將軍。二十三年、盜賊馬秦・高勝等起事於郪。合聚部伍數萬人、到資中縣。時先主在漢中、嚴不更發兵、但率將郡士五千人討之、斬秦・勝等首。枝黨星散、悉復民籍。又越雟夷率高定遣軍圍新道縣、嚴馳往赴救、賊皆破走。加輔漢將軍、領郡如故。

 李厳、字は正方。南陽の人である。若くして郡職の吏となり、才幹によって称えられた。荊州牧劉表が諸郡県を歴任させた。曹操が荊州に入った時、李厳は秭帰を宰領していたので、西のかた蜀に詣った。劉璋は成都令とし、復た能名があった。建安十八年(213)、李厳を署けて護軍とし、緜竹で劉備を拒がせた。李厳は手勢を率いて劉備に降り、劉備は李厳を裨将軍に拝した。成都が定まると、犍為太守・興業将軍となった。二十三年(218)、盗賊の馬秦・高勝らが(広漢の)郪(綿陽市三台)で事を起した。糾合聚斂して部伍(編成)すること数万人、(南下して)資中県(資陽市区)に到った。時に劉備は漢中に在り、李厳は更めては兵を徴発せず、ただ郡士五千人を率いてこれを討ち、馬秦・高勝らの首を斬った。枝党は星と散り、悉く民籍に復帰した。又た越雟夷の率帥の高定が軍を遣って新道県を囲ませると、李厳は馳往して救援に赴き、賊は皆な破走した。輔漢将軍を加えられ、領郡は以前の通りだった。

章武二年、先主徴嚴詣永安宮、拜尚書令。三年、先主疾病、嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主;以嚴為中都護、統内外軍事、留鎮永安。建興元年、封都郷侯、假節、加光祿勳。四年、轉為前將軍。以諸葛亮欲出軍漢中、嚴當知後事、移屯江州、留護軍陳到駐永安、皆統屬嚴。嚴與孟達書曰:「吾與孔明倶受寄託、憂深責重、思得良伴。」亮亦與達書曰:「部分如流、趨捨罔滯、正方性也。」其見貴重如此。八年、遷驃騎將軍。以曹真欲三道向漢川、亮命嚴將二萬人赴漢中。亮表嚴子豐為江州都督督軍、典嚴後事。亮以明年當出軍、命嚴以中都護署府事。嚴改名為平。

章武二年(222)、劉備が李厳を徴して永安宮に詣らせ、尚書令に拝した。三年(223)、劉備は疾を病み、李厳は諸葛亮と揃って少主を輔佐する遺詔を受けた。李厳を中都護とし、内外の軍事を統べさせ、永安に留鎮させた。建興元年(223)、都郷侯に封じられ、節を仮され、光禄勲を加えられた。四年(226)、転じて前将軍となった。諸葛亮は漢中に軍を出したく考えた際、李厳なら後事を知(おさ)めるだろうと江州に移屯させ、護軍陳到を留めて永安に駐屯させ、皆な李厳に統属させた。李厳が孟達に与えた書に曰く 「私は諸葛孔明と倶に寄託を受け、重責を深く憂えており、良き伴侶を得たく思っている」 と。諸葛亮も亦た孟達に与えた書に曰く 「部分(部隊編成)は流れる如く、趨捨(進退)に遅滞が罔(な)いのは、李正方の天性である」 と。その貴重されているのはこの通りだった[1]
 八年(230)、驃騎将軍に遷った。曹真が三道から漢川に向かおうとしたので、諸葛亮は李厳に命じ、二万人を率いて漢中に赴かせた。諸葛亮は上表して李厳の子の李豊を江州都督督軍とし、李厳の後事を典領させた。諸葛亮は明年に軍を出す事としたので、李厳に命じて中都護として(丞相)府事に署けた。李厳は名を改めて李平とした。

 九年春、亮軍祁山、平催督運事。秋夏之際、値天霖雨、運糧不繼、平遣參軍狐忠・督軍成藩喩指、呼亮來還;亮承以退軍。平聞軍退、乃更陽驚、説「軍糧饒足、何以便歸」!欲以解己不辦之責、顯亮不進之愆也。又表後主、説「軍偽退、欲以誘賊與戰」。亮具出其前後手筆書疏本末、平違錯章灼。平辭窮情竭、首謝罪負。於是亮表平曰:「自先帝崩後、平所在治家、尚為小惠、安身求名、無憂國之事。臣當北出、欲得平兵以鎮漢中、平窮難縱、無有來意、而求以五郡為巴州刺史。去年臣欲西征、欲令平主督漢中、平説司馬懿等開府辟召。臣知平鄙情、欲因行之際偪臣取利也、是以表平子豐督主江州、隆崇其遇、以取一時之務。平至之日、都委諸事、羣臣上下皆怪臣待平之厚也。正以大事未定、漢室傾危、伐平之短、莫若褒之。然謂平情在於榮利而已、不意平心顛倒乃爾。若事稽留、將致禍敗、是臣不敏、言多撕驕B」乃廢平為民、徙梓潼郡。十二年、平聞亮卒、發病死。平常冀亮當自補復、策後人不能、故以激憤也。豐官至朱提太守。

 九年(231)春、諸葛亮は祁山に駐軍し、李平に督運の事を催(うなが)した。秋と夏の移り際に霖雨に遭い、運糧は継がず、李平は参軍狐忠・督軍成藩を遣って旨を喩させ、諸葛亮に来還を呼び掛けた。諸葛亮は承知して軍を退けた。李平は軍が退いたと聞くと更めて驚きを陽(よそお)い、説くには 「軍糧は饒足しているのに、どうして帰るのか!」 と、己が辦(つと)めなかった責を解き、諸葛亮が進まなかった愆(とが)を顕かにしようとした。又た後主に上表して説くには 「軍は偽って退き、賊を誘って戦おうとしております」 と。諸葛亮が具さに本末とその前後の事を手筆した書疏を提出し、李平の違錯は章灼(明確)となった。李平は言辞に窮して情も竭き、首謝(自首謝罪)して罪を負った。ここに諸葛亮が李平の事を上表して曰く
「先帝が崩御してより後、李平は所在で家産を治め、尚お小恵を為し、身を安んじて名を求め、国を憂える事跡はありませんでした。臣は北に出るにあたって李平の兵で漢中を鎮めたく思いましたが、李平は窮難の態を縦横に論じ、来意が無いのに五郡を以て巴州刺史となる事を求めました。去る年に臣が西征しようと考え、李平に命じて督漢中を主宰させようとした処、李平が説くには、司馬懿らが開府して(人材を)辟召していると。臣は李平が鄙情であり、行軍の際に乗じて臣に偪って利を取ろうとしていると知り、上表して李平の子の李豊を江州の督主とする事でその待遇を隆崇し、一時の務めを得ました。李平が至ると諸事を都(す)べて委ね、群臣は上下とも皆な臣の李平への待遇が厚い事を怪訝としました。大事が未だ定まらず、漢室は危殆に傾いているので、李平を伐つ短よりこれを褒賞するに越した事は莫かったのです。しかし李平の情は栄利にのみ在ると謂(おも)い、李平の心がこうも顛倒しているとは意(おも)いませんでした。もし事に稽留(滞留)すれば、禍敗はすぐにも来致しましょう。これは臣が敏くなかったからで、言葉を多くすれば(私の)咎が増すばかりです」[2]
かくして李平を廃して庶民とし、梓潼郡に徙した[3]。十二年(234)、李平は諸葛亮が卒したと聞くと、発病して死んだ。李平は常に諸葛亮が自分を補復(再任)するのを冀っており、後人ではできないと策(はか)り、ゆえに激憤(で病死)したのである[4]。李豊の官は朱提太守に至った[5]
 ここで李厳の立場について考えてみます。官位に対する不満を陳べた廖立は 「李厳すらまだ卿になってはいない」 と諸葛亮に窘められていますが、これは単に両者が同州人で、一時は上下関係にあったというだけではなく、公的に期待された役割が近しく、常に比較対象だったからではないかと思われます。廖立は諸葛亮から龐統の同類と見做されていました。李厳は劉備から尚書令に叙されていますが、劉備時代の尚書令は龐統の後任の法正に始まり、劉巴、そして李厳と続いているので、やはり戦略面を期待されたと考えられます。海千山千の劉備から尚書令とされ、堅実派の諸葛亮から四大軍鎮の一つを任されたほどの李厳がどうしてあんな拙い言い訳が通用すると思い、そして実行したのか全く解りません。計簿の修正や発言の撤回で全て帳消しにできるなどという考えが大甘な人物ではない……筈。劉禅の時代になって諸葛亮が甘やかし続けたせいで逆上せあがっちゃったのでしょうか。
 更に考えるなら、公明正大と称された諸葛亮が、どうしてここまで李厳に譲歩したのか。南陽李氏には光武帝の“雲台二十八将”と並ぶ“四翼将”の李通がいますが、中興以前からの名家で、しかも光武帝の姻族でもあります。名士社会への影響力も大きかった筈で、もし李厳がこの家門の末流なら、劉備・諸葛亮としてはぜひとも繋ぎとめておきたかった事でしょう。いくらなんでも尚書令に凡庸の士を就けたりはしないでしょうが、諸葛亮の過剰な譲歩の一因が家門にあったと考えられなくもありません。
 
[1] 李厳は諸葛亮に書を与え、諸葛亮に勧めるには、九錫を受け、爵を進めて称王するのが宜しかろうと。諸葛亮の答書に曰く 「私と足下とは相い知ること久しいが、それでも理解してもらえないとは! 足下は誨(おし)えるに国を耀かせる事を以てし、戒めるに拘泥に陥る勿れと。これにより私は黙ることができないのです。私は本来は東方の下士であり、先帝に誤って用いられて位は人臣を極め、禄賜は百億(千万)となっています。今、討賊には未だ効が無く、知己に未だ答えていないのに、恩寵は斉・晋に方(なら)び、坐したまま貴大となるのは本義ではありません。もし魏を滅ぼして曹叡を斬り、帝を故居に還したなら、諸子と揃って昇進し、十命といえど受けましょうし、ましてや九錫など!」 (『諸葛亮集』)
[2] 諸葛亮が尚書に上奏した公文書に曰く 「李平は大臣であり、受けた恩顧は過分であるのに忠で報いる事を思わず、端ない事を勝手に構造し、危恥を弁えず、上下を迷罔(欺瞞)し、獄を論じては科(法令)を棄て、人を姦に導き、情は狭く志は狂い、天地も無いようです。自ら姦事が露顕するのを度ると嫌疑が心に生じ、軍が至りそうだと聞くと、西に嚮(むか)い疾病に託して沮・漳に還り[※]、軍が沮に至ろうとするや復た江陽に還り、李平の参軍の狐忠が勤諫してようやく止めました。

※ 李厳が 「漢中から西に向かった」 と明記されているので、ここでの沮は馬超伝と同じく漢中と祁山の間、漢水上流の沮水の流域かと思われます。漳については不明です。又た江陽は距離的な問題から犍為郡から分置された江陽郡ではなく、“沔水の北”を意味する江陽を指したものでしょう。いずれにせよ、李厳が西に“逃”げたのではなく“嚮”ったとあり、参軍が諫めたとあるので、諸葛亮と一戦やらかそうとしていた可能性があります。

今、簒賊は未だ滅びず、社稷には難事が多く、国事はただ和合によって克捷すべきで、(不平分子を)苞含する事で大業を危うくしてはなりません。行中軍師・車騎将軍・都郷侯の臣劉琰、使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯の臣魏延、前将軍・都亭侯の臣袁綝、左将軍・領荊州刺史・高陽郷侯の臣呉懿、督前部・右将軍・玄郷侯の臣高翔、督後部・後将軍・安楽亭侯の臣呉班、領長史・綏軍将軍の臣楊儀、督左部・行中監軍・揚武将軍の臣ケ芝、行前監軍・征南将軍の臣劉巴、行中護軍・偏将軍の臣費禕、行前護軍・偏将軍・漢成亭侯の臣許允、行左護軍・篤信中郎将の臣丁咸、行右護軍・偏将軍の臣劉敏、行護軍・征南将軍・当陽亭侯の臣姜維、行中典軍・討虜将軍の臣上官雝、行中参軍・昭武中郎将の臣胡済・行参軍・建義将軍の臣閻晏、行参軍・偏将軍の臣爨習、行参軍・裨将軍の臣杜義、行参軍・武略中郎将の臣杜祺、行参軍・綏戎都尉の臣盛勃、領従事中郎・武略中郎将の臣樊岐らと議し、ただちに李平の任を解き、官禄・節伝・印綬・符策を免じ、その爵土を削られますよう」
[3] 諸葛亮が又た李平の子の李豊に与えた教書に曰く 「私は君ら父子と戮力(合力)して漢室を奨(たす)けてきたが、これは人だけではなく神明も知っている。都護に漢中を典領させ、君に東関(たる江州)を委ねたのは私の独断だ。心から感動して職務を保全し続けてくれると思いきや、何ぞ図らん、道理から乖離しようとは! 昔、楚の卿はしばしば絀(しりぞ)けられながら克復したが、道理を思い続ければ福となるのは天数の在るべき姿なのだ。どうか都護をェ慰(慰撫宥和)し、前闕(前過)を埋めるべく勤めてもらいたい。今、解任して以前の門地職務を失ったとはいえ、未だ百数十人の奴婢賓客があり、君は中郎参軍として丞相府に居り、気類(同朋=人)としては猶おも上家である。もし都護が背信(への贖罪)を一心に思い、君が公琰(蔣琬)と職務に専念するなら復帰の見込みもあろう。この戒めを良く噛みしめて私の心情を察してもらいたい。涙で霞んで文字が見えん」
[4] 習鑿歯曰く、昔、管仲は伯氏の駢邑三百を奪ったが[※]、没歯(の齢)まで怨言が無く、聖人もこれを難事だとした。諸葛亮が廖立に垂泣させ、李平を致死させたのは、徒らに怨言を生じさせなかったというだけではない!

※ 駢の本義は馬車を曳く為の二頭並走する馬。もしくは無駄。馬の為の采邑とは聞いた事が無いので、恐らく管仲が分不相応だと判断した采邑の事かと思われます。もしくは邑名か。

そも水は至平であるから傾斜した者もその法則を採取し、鏡は至明であるから醜者は(映しても)怒らず、水鏡が事物を窮めながらも怨む者が無いのは、それが無私だからである。水鏡すら無私であるから猶お誹謗を免れるのだ。ましてや大人君子が楽生(慈命)の心を懐き、矜恕(撫恤)の徳を流布し、法の執行は已むを得ぬ場合に限り、自ら犯した罪にのみ刑を加え、賜爵には私心を挟まず、刑誅を怒心に依らなければ、天下に帰服しない者があろうか! 諸葛亮はこれにより刑を用いる事ができる者と謂って良く、秦・漢より以来でこの様な者は未だにいなかった。
[5] 朱の音は銖(シュ)であり、提の音は北方人が匕(ヒ)を提(テイ)と言うようなものである。 (蘇林『漢書音義』)
 

劉琰

 劉琰字威碩、魯國人也。先主在豫州、辟為從事、以其宗姓、有風流、善談論、厚親待之、遂隨從周旋、常為賓客。先主定益州、以琰為固陵太守。後主立、封都郷侯、班位毎亞李嚴、為衞尉中軍師後將軍、遷車騎將軍。然不豫國政、但領兵千餘、隨丞相亮諷議而已。車服飲食、號為侈靡、侍婢數十、皆能為聲樂、又悉教誦讀魯靈光殿賦。建興十年、與前軍師魏延不和、言語虚誕、亮責讓之。琰與亮牋謝曰:「琰稟性空虚、本薄操行、加有酒荒之病、自先帝以來、紛紜之論、殆將傾覆。頗蒙明公本其一心在國、原其身中穢垢、扶持全濟、致其祿位、以至今日。闔メ迷醉、言有違錯、慈恩含忍、不致之于理、使得全完、保育性命。雖必克己責躬、改過投死、以誓神靈;無所用命、則靡寄顏。」於是亮遣琰還成都、官位如故。

 劉琰、字は威碩。魯国の人である。劉備が豫州に在った時に辟して従事としたが、宗族の姓でもあり、風流で談論を善くしたのでこれを待遇すること厚親で、かくて周旋に随い、常に賓客と(して遇)された。劉備は益州を定めると、劉琰を固陵太守とした。後主が立つと都郷侯に封じられ、班位(位階)は毎(つね)に李厳に亜ぎ、衛尉・中軍師・後将軍となり、車騎将軍に遷った。しかし国政には予らず、ただ兵千余を領し、丞相諸葛亮に随って諷議(遠回しの議論)をするだけだった。車服や飲食は侈靡だと号され、侍婢の数十人は皆な声楽を能くし、又た悉くに教えて『魯霊光殿賦』を誦読させた。
 建興十年(232)、(漢中で)前軍師魏延と不和となり、虚誕(誇大な虚偽)を言い語ったので、諸葛亮はこれを責譲した。劉琰が諸葛亮に与えた牋謝に曰く

「私の稟性(天性)は空虚で、もとより操行は薄徳で、加えて酒荒(酒乱)の病があり、先帝より以来、紛紜(紛擾)を論じて傾覆しかかりました。明公は最終的に私の赤心を認められて一切を原(ゆる)され、禄位を頂いて今日に至っています。先日は迷酔してまたやらかしましたが、恩愛から大理(=廷尉)には渡さず、身命を全うさせて頂きました。神霊に誓って克己して悔い改めますので、どうか役職を下さい」 。

こうして諸葛亮は劉琰を成都に還らせ、官位は以前通りとした。

 琰失志慌惚。十二年正月、琰妻胡氏入賀太后、太后令特留胡氏、經月乃出。胡氏有美色、琰疑其與後主有私、呼(卒)五百撾胡、至於以履搏面、而後棄遣。胡具以告言琰、琰坐下獄。有司議曰:「卒非撾妻之人、面非受履之地。」琰竟棄市。自是大臣妻母朝慶遂絶。

 劉琰は志を失って慌惚(痴呆)となった。十二年(234)正月、劉琰の妻の胡氏が太后への謹賀に入宮した処、太后は命じて特に胡氏を留め、月を経てから退出させた。胡氏には美しい容色があり、劉琰は後主と私交を持ったかと疑い、士卒の五百長を呼んで胡氏を撾(う)たせ、履物で面を搏つに至った後に棄遣(離縁)した。胡氏は具さに劉琰の言動を告げ、劉琰は(罪に)坐して下獄した。有司が議して曰く 「士卒は妻女を撾つ存在ではなく、面は履物を受ける大地ではない」 と。劉琰は竟に棄市された。これより大臣の妻母が朝慶することが絶えた。

 だいぶ省略されているようですが、兵長に履物で妻女の顔を叩かせたくらいで、顕官が棄死という極悪人に対する公開処刑を受けるものではありません。蛇足すれば、官は通常の刑法の埒外に置かれているもので、処刑されるのは大逆や背命による敗戦など限定的で、基本的に廷尉に召された時点で自殺する権利があります。西漢の晁錯が不穏な空気の中でノコノコと召喚に応じたのもその為です。劉琰は恐らく劉禅に対してかなりドギツい誹謗を口にし、これが大逆に相当したんでしょう。それにしても美人の奥さんが一と月も帰らなければ、疑わない方がどうかしてますって。

 

魏延

 魏延字文長、義陽人也。以部曲隨先主入蜀、數有戰功、遷牙門將軍。先主為漢中王、遷治成都、當得重將以鎮漢川、衆論以為必在張飛、飛亦以心自許。先主乃拔延為督漢中鎮遠將軍、領漢中太守、一軍盡驚。先主大會羣臣、問延曰:「今委卿以重任、卿居之欲云何?」延對曰:「若曹操舉天下而來、請為大王拒之;偏將十萬之衆至、請為大王呑之。」先主稱善、衆咸壯其言。先主踐尊號、進拜鎮北將軍。建興元年、封都亭侯。五年、諸葛亮駐漢中、更以延為督前部、領丞相司馬・涼州刺史、八年、使延西入羌中、魏後將軍費瑤・雍州刺史郭淮與延戰于陽谿、延大破淮等、遷為前軍師征西大將軍、假節、進封南鄭侯。

 魏延、字は文長。義陽郡の人である[※]

※ 『三國志』でクセ者を多く輩出している義陽郡ですが、東漢の行政区画には無く、魏初に南陽郡の一部、新野一帯を以て新設された(らしい)。らしい、というのも、『三國志』中では義陽郡新設の記事が無いからです。明帝紀/景初元年末には 「分襄陽郡之鄀葉県属義陽郡」 とあり、又た『晋書』地理志によって嘗ての南陽郡の南東部に置かれた事が判ります。『晋書』地理志の序文には魏文帝が置いたと、荊州の項には晋武帝が呉を平定した太康年間に置いたとあるので、恐らく斉王の区画整理で廃止され、晋が復活させたものと思われます。ちなみに魏志/彭城王拠伝に 「三年(222)、為章陵王、其年徙封義陽」 とありますが、当時の諸侯王は一県を食邑としていたので、これは義陽県の事を指したものです。

部曲(私兵)を以て劉備の入蜀に随い、しばしば戦功があって牙門将軍に遷った。劉備は漢中王になると遷って成都で治めたので、漢川の鎮めに重将を当てる必要があり、衆論は必ず張飛だと考え、張飛も亦た心に自任していた。劉備が魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守としたので、一軍は尽く驚いた。劉備は大いに群臣を会同した際、魏延に問うには 「今、卿に重任を委ねるが、卿は職にあってどのようにするのか?」 魏延は対えて曰く 「もし曹操が天下を挙って来たなら、大王の為にこれを拒がせて頂きます。偏将が十万の軍兵で至ったなら、大王の為にこれを呑ませて頂きます」 と。劉備は善しと称え、人々は咸なその言葉を壮とした。劉備が尊号を踐(ふ)むと、進位して鎮北将軍を拝命した。
建興元年(223)、都亭侯に封じられた。五年(227)、諸葛亮が漢中に進駐すると、更めて魏延を督前部・領丞相司馬・涼州刺史とし、八年(230)に魏延を西のかた羌中に入らせた。魏の後将軍費瑤(費耀?)・雍州刺史郭淮が魏延と陽谿で戦い、魏延が郭淮らを大いに破ったので、遷して前軍師・征西大将軍とし、節を仮し、南鄭侯に進封した。

 延毎隨亮出、輒欲請兵萬人、與亮異道會于潼關、如韓信故事、亮制而不許。延常謂亮為怯、歎恨己才用之不盡。延既善養士卒、勇猛過人、又性矜高、當時皆避下之。唯楊儀不假借延、延以為至忿、有如水火。十二年、亮出北谷口、延為前鋒。出亮營十里、延夢頭上生角、以問占夢趙直、直詐延曰:「夫麒麟有角而不用、此不戰而賊欲自破之象也。」退而告人曰:「角之為字、刀下用也;頭上用刀、其凶甚矣。」

 魏延は諸葛亮の出征に随う毎に、そのつど兵万人を請い、諸葛亮と道を異えて潼関で会し、韓信の故事の如くしたく思ったが[※]、諸葛亮は制して許さなかった。

※ 劉邦が南鄭から関中に侵攻する際、大々的に桟道を修復している劉邦とは別に韓信が旧道から陳倉を急襲し、関中を平定して劉邦を迎えた事。

魏延は常に諸葛亮を怯懦だと謂い、己の才用を尽くせない事を歎恨していた[1]。魏延は善く士卒を養い、勇猛さは常人を越えており、又た性は矜り高く、当時は皆なが忌避し卑下した。ただ楊儀のみは魏延に対して仮借せず、魏延は非常に忿怒し、水火の関係の様だった。
 十二年(234)、諸葛亮は北谷口に出陣し、魏延を前鋒とした。諸葛亮の軍営を出ること十里、魏延は夢に頭上に角が生じたので、占夢者の趙直に問うた。趙直は魏延を詐って曰く 「麒麟は角を持ってはいますが用いません。これは戦わずして賊が自ら破れようとの象です」 と。退出して人に告げるには 「角の字は、刀の下に用である。頭上に刀を用いるのだから、その凶相は甚だしい」

 秋、亮病困、密與長史楊儀・司馬費禕・護軍姜維等作身歿之後退軍節度、令延斷後、姜維次之;若延或不從命、軍便自發。亮適卒、祕不發喪、儀令禕往揣延意指。延曰:「丞相雖亡、吾自見在。府親官屬便可將喪還葬、吾自當率諸軍撃賊、云何以一人死廢天下之事邪? 且魏延何人、當為楊儀所部勒、作斷後將乎!」因與禕共作行留部分、令禕手書與己連名、告下諸將。禕紿延曰:「當為君還解楊長史、長史文吏、稀更軍事、必不違命也。」禕出門馳馬而去、延尋悔、追之已不及矣。延遣人覘儀等、遂使欲案亮成規、諸營相次引軍還。延大怒、(纔)儀未發、率所領徑先南歸、所過燒絶閣道。延・儀各相表叛逆、一日之中、羽檄交至。後主以問侍中董允・留府長史蔣琬、琬・允咸保儀疑延。儀等槎山通道、晝夜兼行、亦繼延後。延先至、據南谷口、遣兵逆撃儀等、儀等令何平在前禦延。平叱延先登曰:「公亡、身尚未寒、汝輩何敢乃爾!」延士衆知曲在延、莫為用命、軍皆散。延獨與其子數人逃亡、奔漢中。儀遣馬岱追斬之、致首於儀、儀起自踏之、曰:「庸奴!復能作惡不?」 遂夷延三族。初、蔣琬率宿衞諸營赴難北行、行數十里、延死問至、乃旋。

 秋、諸葛亮は病いに困苦し、密かに長史楊儀・司馬費禕・護軍姜維らと自身が歿した後に軍を退却させる節度を作し、魏延に後続を断たせ、姜維にはこれに次ぎ、もし魏延が命令に従わないような事があれば、軍をそのまま進発させるよう命じた。諸葛亮が卒すると、秘して喪を発さず、楊儀は費禕に命じて往って魏延の意旨を揣(おしはか)らせた。魏延曰く 「丞相が亡くなったとはいえ、私が健在だ。丞相府に親侍する官属はただちに喪を還して葬るがよかろう。私は自ら諸軍を率いて賊を撃つのだ。どうして一人が死んだからと云って天下の大事を廃せようか? しかも魏延とは何者だと思っている。楊儀の部勒(指揮する部隊)となって、後続を断つ将となれとは!」 。こうして費禕と共に行く部隊と留まる部隊とを分け、費禕に命じて手書して己と連名させ、諸将に告下(告示)させた。費禕は魏延を紿(あざむ)き 「君の為に還って楊長史に解説しましょう。長史は文吏であって軍事は稀なので、きっと命令には違背しますまい」 と。費禕が門を出て馬を馳せて去ると、魏延は尋いで悔い、これを追ったものの已に及ばなかった。魏延は人を遣って楊儀らを覘わせた処、諸葛亮の成した規図で諸営が相次いで軍を引率して還ろうとしていた。魏延は大いに怒り、纔(わず)かに楊儀が未だ進発していないうちに領兵を率いて径(ただ)ちに先んじて南に帰り、通過した閣道(桁橋)を焼絶した。魏延・楊儀は各々が相手の叛逆を上表し、一日の中で羽檄[※]が交々至った。

※ 緊急の文書や檄文。飛檄・羽書とも。緊急の文書に鳥の羽を挟んだ事に由来する。

後主が侍中董允・留府長史蔣琬に問うた処、蔣琬・董允は咸な楊儀を保証して魏延を疑った。楊儀らは山を槎(き)って道を通し、昼夜兼行して亦た魏延の後を継いだ。魏延は先に至ると南谷口に拠り、兵を遣って楊儀らを逆撃させ、楊儀らは何平(王平)に命じて前部に置いて魏延を防禦させた。何平は魏延の先登を叱呵して 「公が亡くなり、身は尚お未だ寒(つめ)たくなっていないのに、汝らはどうしてこんな事をするのか!」 と。魏延の軍兵は曲事が魏延に在る事を知っていたので、用命を為す者とて莫く、軍は皆な散じた。魏延は独り数人の子と逃亡し、漢中に奔った。楊儀は馬岱に追わせてこれを斬り、首を楊儀に送致させた。楊儀は起ってこれを踏んで曰く 「庸奴めが! まだ悪事ができるか?」 と。かくて魏延の三族を夷(ほろぼ)した。これより前、蔣琬は宿営の諸営を率いて難に赴くべく北行したが、行くこと数十里にして魏延が死んだとの消息が至り、かくして旋還した。

原延意不北降魏而南還者、但欲除殺儀等。平日諸將素不同、冀時論必當以代亮。本指如此。不便背叛。

 魏延の意図を原(たず)ねるに、北のかた魏に降らずに南に還ったのは、ただ楊儀らを除殺したかったのだろう。平素、諸将は素より意図を同じくはしていなかったので、時論がきっと(楊儀ではなく自分を)諸葛亮に代る者とする事を冀ったのだ。本旨はこの通りで、背叛したのではない[2]

 漢中北門外の石馬坡遺跡には嘗て東漢様式の石馬がありましたが、この遺跡こそが魏延の墓であり、魏延の名誉回復はその死から程なくには回復されたという論が清の乾隆年間に提唱され、更に近年(1989)にもこの説が再認識されました。同地は魏延が斬られた虎頭橋にあたりますが、これを魏延墓とするにはまだまだ物証が待たれるようです。
 それはそうと、軍部の第一人者を自任する魏延がここまで追い詰まった行動をしたのは、政敵の楊儀が軍の統帥権を公認されると考えたからでしょう。楊儀が自分を諸葛亮の後継者に擬していたのは、楊儀自身の自尊心が勘違いさせただけでなく、実際にそう目されるだけの環境が整っていたからです。“丞相:蔣琬、大将軍:楊儀”といった役割分担で。楊儀が統督になった将来では、魏延には刑死の未来しか見えません。それを回避するには楊儀とその支持派を殺すしか…! 魏延としては、社交界に影響力を持つ費禕が逃げ去ったのが最終決断のきっかけだった事でしょう。楊儀の最期といい、費禕の行動は天然なんでしょうか果して。

 
[1] 夏侯楙が安西将軍として長安に鎮守しており、諸葛亮は南鄭で群下と計議した処、魏延曰く

「聞けば夏侯楙は若く、魏主の婿であり、怯懦で無謀だと。今、私に精兵五千と負糧(携帯食糧)五千を仮して頂ければ、直ちに褒中より出撃し、秦嶺に循って東行し、子午道から北上し、十日を過ぎずに長安に到達できましょう。夏侯楙は私が奄(たちま)ち至ったと聞けば、必ず船に乗って逃走しましょう。長安にはただ御史・京兆太守がいるだけで、横門の邸閣(食糧倉)と散民の穀で食糧は充分に賄えましょう。東方が軍兵を糾合するには尚お二十日許りかかり、公が斜谷より来ても、必ず到達するには充分です。こうすれば一挙動で咸陽以西を定める事ができましょう」 。

諸葛亮はこれは危険で、安全に平坦な道より隴右を平定して取るに越した事は無く、十全必克の策として虞れが無いと考え、ゆえに魏延の計策を用いなかった。 (『魏略』)
[2] 諸葛亮は病むと、魏延らに云うには 「私の死後、ただ謹んで自衛し、慎んで復た来る勿れ」 と、魏延に命じて己が職事を摂行(代行)させ、秘密を維持して喪を去るようにと。魏延はかくてこれを匿し、行軍して褒口に至ると喪を発した。諸葛亮の長史の楊儀はかねて魏延とは不和で、魏延が軍事を摂行したのを見ると害されるのを懼れ、かくして魏延が手勢を挙って北に附属しようとしていると張言(喧伝)し、かくてその手勢を率いて魏延を攻めた。魏延にはもとよりこうした心は無く、戦わずして軍が逃走したので、追ってこれを殺した。 (『魏略』)
―― 裴松之が考えるに、これは恐らく敵国が伝聞した言葉であり、本伝と審判を争う事などはできない。
 
趙直

―― 建興十二年(234)、魏延は前鋒となった。諸葛亮の軍営を出ること十里、魏延は夢に頭上に角が生じたので、占夢者の趙直に問うた。趙直は魏延を詐って曰く 「麒麟は角を持ってはいますが用いません。これは戦わずして賊が自ら破れようとの象です」 と。退出して人に告げるには 「角の字は、刀の下に用である。頭上に刀を用いるのだから、その凶相は甚だしい」 (魏延伝)
―― 何祗は嘗て夢で井中に桒(桑)が生じ、占夢者の趙直に問うた処、趙直は 「桒とは井中の物ではなく、移植せねばなりません。桒の字は四つの十の下に八で、君の寿命は恐らくこれを越えますまい」 何祗が笑って言うには 「これを得れば充分だ」 と。何祗は後に犍為太守となり、齢四十八で卒した。趙直の言葉通りだった。 (楊洪伝注)
―― 蔣琬は広都県長を罷免された後、夜に一牛の頭が門前に在って滂沱と流血している夢を見た事があり、心中で甚だこれを嫌悪し、占夢者の趙直を呼んで問うた。趙直 「血を見るというのは物事に分明であるという事です。牛角および鼻は“公”字の象で、君の位はきっと公に至りましょう。大吉の徴です」 。 (蔣琬伝)
 

楊儀

 楊儀字威公、襄陽人也。建安中、為荊州刺史傅羣主簿、背羣而詣襄陽太守關羽。羽命為功曹、遣奉使西詣先主。先主與語論軍國計策、政治得失、大ス之、因辟為左將軍兵曹掾。及先主為漢中王、拔儀為尚書。先主稱尊號、東征呉、儀與尚書令劉巴不睦、左遷遙署弘農太守。建興三年、丞相亮以為參軍、署府事、將南行。五年、隨亮漢中。八年、遷長史、加綏軍將軍。亮數出軍、儀常規畫分部、籌度糧穀、不稽思慮、斯須便了。軍戎節度、取辦於儀。亮深惜儀之才幹、憑魏延之驍勇、常恨二人之不平、不忍有所偏廢也。十二年、隨亮出屯谷口。亮卒于敵場。儀既領軍還、又誅討延、自以為功勳至大、宜當代亮秉政、呼都尉趙正以周易筮之、卦得家人、默然不ス。而亮平生密指、以儀性狷狹、意在蔣琬、琬遂為尚書令・益州刺史。儀至、拜為中軍師、無所統領、從容而已。

 楊儀、字は威公。襄陽の人である。建安中、荊州刺史傅羣の主簿となったが、傅羣に背いて襄陽太守関羽に詣った。関羽は命じて功曹とし、奉使として遣って西のかた劉備に詣らせた。劉備は与に語って軍国の計策や政治の得失を論じて大いに悦び、そこで辟して左将軍兵曹掾とした。劉備は漢中王となるに及び、楊儀を抜擢して尚書とした。劉備が尊号を称して呉に東征した時、楊儀は尚書令劉巴と睦まなかったので、左遷されて弘農太守に遙署された。建興三年(225)、丞相諸葛亮が参軍として府事に署け、南行に率いた。五年(227)、諸葛亮の漢中行に随った。八年(230)、長史に遷り、綏軍将軍を加えられた。諸葛亮はしばしば軍を出したが、楊儀は常に分部(部隊編成)の事を規画し、糧穀の事を籌度し、思慮は稽留(滞留)せず、たちまちに完了した。軍戎節度(軍需品の采配)も楊儀が取辦(執務)した。諸葛亮は楊儀の才幹を深く愛惜し、(同時に)魏延の驍勇を憑(たの)み、常に二人が和平しないのを惜恨し、偏廃(片方の廃罷)するに忍びなかった。
 十二年(234)、諸葛亮に随って谷口に出屯した。諸葛亮が敵場で卒した。楊儀は軍を典領して還り、又た魏延を誅討した事で、自身の功勲は至大で、諸葛亮に代って秉政するのが至当だと考え、都尉趙正を呼んで『周易』でこれを筮(うらな)わせた処、“家人”の卦を得たので黙然として不悦(不快)となった。しかも諸葛亮の平生からの密旨では、楊儀の性は狷狭であって意は蔣琬に在ったので、蔣琬はかくて尚書令・益州刺史となった。楊儀は至ると中軍師に拝命され、統領する職事も無く、従容(手持無沙汰)とするだけだった。

 初、儀為先主尚書、琬為尚書郎、後雖倶為丞相參軍長史、儀毎從行、當其勞劇、自惟年宦先琬、才能踰之、於是怨憤形于聲色、歎咤之音發於五内。時人畏其言語不節、莫敢從也、惟後軍師費禕往慰省之。儀對禕恨望、前後云云、又語禕曰:「往者丞相亡沒之際、吾若舉軍以就魏氏、處世寧當落度如此邪!令人追悔不可復及。」禕密表其言。十三年、廢儀為民、徙漢嘉郡。儀至徙所、復上書誹謗、辭指激切、遂下郡收儀。儀自殺、其妻子還蜀。

 楊儀が劉備の尚書となった当初、蔣琬は尚書郎で、後に倶に丞相参軍長史になったとはいえ、楊儀は事毎に従行して労劇(激務)に当っており、自ら惟(おも)うに年齢・官位とも蔣琬に先んじており、才能はこれを踰えていると。こうして怨憤は声や顔色に形(あらわ)れ、歎咤(歎息と舌打ち)の音が五体の内から発した。時人はその言語に節度が無いのを畏れて従おうとする者とて莫かったが、ただ後軍師費禕だけは往って慰省(慰撫)した。楊儀は費禕に対面すると恨望を前後して云云し、又た費禕に語るには 「さきに丞相が亡歿した際、私がもし軍を挙って魏氏に就いていれば、世にあってこれ程に落魄しただろうか! 追悔しても復及できぬ事となった」 と。費禕は密かにその言葉を上表した。十三年(235)、楊儀を廃して庶民とし、漢嘉郡に徙した。楊儀は徙所に至ると、復た上書して(国政を)誹謗したが、辞旨は激切で、かくて郡に下命して楊儀を収監させた。楊儀は自殺し、その妻子は蜀郡に還された[1]
[1] 楊儀の兄の楊慮は、字を威方といった。若くして徳行があり、江南の冠冕とされた。州郡が礼召し、諸公も辟請したが、皆な(志を)屈する事ができなかった。齢十七で夭折し、郷人は“徳行楊君”と号した。 (『楚国先賢伝』)
 

 評曰:劉封處嫌疑之地、而思防不足以自衞。彭羕・廖立以才拔進、李嚴以幹局達、魏延以勇略任、楊儀以當官顯、劉琰舊仕、並咸貴重。覽其舉措、迹其規矩、招禍取咎、無不自己也。

 評に曰く:劉封は嫌疑の地にあったが、防禦の思慮は自衛には足りなかった。彭羕・廖立は才能によって抜進され、李厳は幹局によって進達し、魏延は勇略によって任され、楊儀は職事によって顕達し、劉琰は旧くより仕え、揃って咸な貴重された。その挙措を覧(み)、その規矩(言動の規範)を迹(たど)るに、禍いを招き咎を取ったのは己に由来したとしか言えない。

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