關羽字雲長、本字長生、河東解人也。亡命奔涿郡。先主於郷里合徒衆、而羽與張飛為之禦侮。先主為平原相、以羽・飛為別部司馬、分統部曲。先主與二人寢則同牀、恩若兄弟。而稠人廣坐、侍立終日、隨先主周旋、不避艱險。先主之襲殺徐州刺史車冑、使羽守下邳城、行太守事、而身還小沛。
建安五年、曹公東征、先主奔袁紹。曹公禽羽以歸、拜為偏將軍、禮之甚厚。紹遣大將顏良攻東郡太守劉延於白馬、曹公使張遼及羽為先鋒撃之。羽望見良麾蓋、策馬刺良於萬衆之中、斬其首還、紹諸將莫能當者、遂解白馬圍。曹公即表封羽為漢壽亭侯。初、曹公壯羽為人、而察其心神無久留之意、謂張遼曰:「卿試以情問之。」既而遼以問羽、羽歎曰: 「吾極知曹公待我厚、然吾受劉將軍厚恩、誓以共死、不可背之。吾終不留、吾要當立效以報曹公乃去。」遼以羽言報曹公、曹公義之。及羽殺顏良、曹公知其必去、重加賞賜。羽盡封其所賜、拜書告辭、而奔先主於袁軍。左右欲追之、曹公曰:「彼各為其主、勿追也。」
從先主就劉表。表卒、曹公定荊州、先主自樊將南渡江、別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相値、共至夏口。孫權遣兵佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。先主收江南諸郡、乃封拜元勳、以羽為襄陽太守・盪寇將軍、駐江北。先主西定益州、拜羽董督荊州事。羽聞馬超來降、舊非故人、羽書與諸葛亮、問超人才可誰比類。亮知羽護前、乃答之曰:「孟起兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥・彭之徒、當與益コ並驅爭先、猶未及髯之絶倫逸羣也。」羽美鬚髯、故亮謂之髯。羽省書大ス、以示賓客。
羽嘗為流矢所中、貫其左臂、後創雖愈、毎至陰雨、骨常疼痛、醫曰:「矢鏃有毒、毒入于骨、當破臂作創、刮骨去毒、然後此患乃除耳。」羽便伸臂令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對、臂血流離、盈於盤器、而羽割炙引酒、言笑自若。
二十四年、先主為漢中王、拜羽為前將軍、假節鉞。是歳、羽率衆攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋、大霖雨、漢水汎溢、禁所督七軍皆沒。禁降羽、羽又斬將軍龐悳。梁郟・陸渾羣盜或遙受羽印號、為之支黨、羽威震華夏。曹公議徙許都以避其鋭、司馬宣王・蔣濟以為關羽得志、孫權必不願也。可遣人勸權躡其後、許割江南以封權、則樊圍自解。曹公從之。先是、權遣使為子索羽女、羽罵辱其使、不許婚、權大怒。又南郡太守麋芳在江陵、將軍士仁屯公安、素皆嫌羽輕己。〔自〕羽之出軍、芳・仁供給軍資、不悉相救。羽言「還當治之」、芳・仁咸懷懼不安。於是權陰誘芳・仁、芳・仁使人迎權。而曹公遣徐晃救曹仁、羽不能克、引軍退還。權已據江陵、盡虜羽士衆妻子、羽軍遂散。權遣將逆撃羽、斬羽及子平于臨沮。
魏では前年に少府耿紀らの乱、宛城を守る侯音の乱がありましたが、何れも関羽の存在を頼ったものとされており、特に侯音は関羽と結んだ後に叛いたと『曹瞞伝』は謂っています。ちなみに、侯音に対しては樊城の曹仁自ら討伐に出た様ですが、関羽はこれには乗じなかったようです。
曹操は于禁を遣って曹仁を助けさせた。秋、大いに霖雨となり、漢水が汎溢し、于禁の督する七軍が皆な水没した。于禁は関羽に降り、関羽は又た将軍の龐悳を斬った。梁郟や陸渾の群盜の中には関羽に印号を遙受し、そのため支党となった者もあり、関羽の威は華夏を震わせた。曹操が許都を徙してその鋭鋒を避ける事を議した処、司馬懿・蔣済は、関羽が志を得る事を孫権はきっと願っておらず、人を遣って孫権にその後方を躡(ふ)む事を勧めさせ、江南を割いて孫権を封じる事を許認すれば、樊城の囲みは自ずと解けるだろうと。曹操はこれに従った。 関羽の外交音痴が露呈し、ひいては劉備・諸葛亮の人事にまで批判が及ぶ一件で、それについては否定のしようがありません。ですが、当時の孫権と劉備は表立って同盟関係にあった訳ではなく、孫権は表向きは曹操に臣属し、裏で劉備とも結ぶ二股をかけており、関羽の矜持が孫権のそうした態度を許容できなかったものと考えられます。だからといって関羽の失点が軽減されるものではありませんが。
果たして孫権を本当に“狗”呼ばわりしたのかは定かではありませんが、『演義』の示すように関羽=虎、孫権=狗という対比ではなく、孫権を 「曹操の狗」 と見做した罵倒ではないかと勝手に想像する次第です。
孫権は曹操に対し、関羽を討つ事で臣従の証とする事を乞うた。曹操は関羽と孫権との対峙を欲し、孫権の書簡を曹仁に送って関羽に示させた。このため関羽は逡巡して動けなかった。十月、呂蒙が江陵を陥し、陸遜が夷陵に進駐すると、関羽は麦城(当陽市両河鎮)に籠った。関羽は偽って孫権の勧降を受け、城を棄てて遁走したが、朱然・潘璋が予めその径路を断っており、十二月、潘璋の司馬の馬忠が関羽およびその子の関平と都督趙累らを章郷で獲えた。 (呉主伝)
孫権が至る頃、関羽は孤窮である事を知り、麦城に逃走し、西?の漳郷に至ったが、手勢は皆な関羽を棄てて降った。孫権は朱然・潘璋にその径路を断たせ、父子を倶に獲えた。 (呂蒙伝)
朱然は潘璋と臨沮に到って関羽を禽えた。 (朱然伝)
潘璋と朱然とは関羽の逃走路を断ち、臨沮に到ると夾石に駐軍した。潘璋の司馬の馬忠が関羽と、関羽の子の関平・都督趙累らを禽えた。 (潘璋伝)
関羽は麦城から直北の漳郷を目指すと見せかけ、沮河沿いの臨沮で捕獲・斬首されたようです。現在、沮河は北西から当陽市街を貫流して南東に抜け、下流方面で東方を南下してきた漳河と合流し、更に下流の先には江陵城が位置します。麦城は両河の合流点に臨み、当陽市街を挟んで上流側、市城の西北郊2kmには関羽終焉の地として関陵が営まれています。関羽は麦城から襄樊に向うと見せかけて沮河沿いに上庸方面を目指した訳で、そりゃあバレますわ。私見を云うなら、臨沮は地名ではなく、「沮河に臨む地」 程度の意味ではないかと。
追諡羽曰壯繆侯。子興嗣。興字安國、少有令問、丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中・中監軍、數歳卒。子統嗣、尚公主、官至虎賁中郎將。卒、無子、以興庶子彝續封。
ここまで、裴松之は関羽伝の多くを『蜀記』で補ってきましたが、裴松之自身が王隠の著作/『晋書』と『蜀記』の信憑性には大いに疑問を呈しています。個人的にも王隠の著作は信用できず、例えば上記の注[10]なども仇討話としてそれなりに知られていますが、龐会の行ないは明らかに礼を失したもので、そもそも鍾会とケ艾のどちらに随ったかすら定かでもない辺りで、ゴシップの域を出ないものと判断できます。
因みに龐徳伝ではこうあります 「鍾会が蜀を平らげると、龐悳の屍喪を迎えて鄴に還葬した。 (王隠『蜀記』) ―― 裴松之が調べた処、龐悳は樊城で死に、文帝は即位すると遣使して龐悳の墓所に至らせている。その屍喪は蜀に在ったのではない。これは王隠の虚説である」
張飛字益コ、涿郡人也、少與關羽倶事先主。羽年長數歳、飛兄事之。先主從曹公破呂布、隨還許、曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹・劉表。表卒、曹公入荊州、先主奔江南。曹公追之、一日一夜、及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至、棄妻子走、使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋、瞋目矛曰:「身是張益コ也、可來共決死!」敵皆無敢近者、故遂得免。先主既定江南、以飛為宜都太守・征虜將軍、封新亭侯、後轉在南郡。先主入益州、還攻劉璋、飛與諸葛亮等泝流而上、分定郡縣。至江州、破璋將巴郡太守嚴顏、生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至、何以不降而敢拒戰?」顏答曰:「卿等無状、侵奪我州、我州但有斷頭將軍、無有降將軍也。」飛怒、令左右牽去斫頭、顏色不變、曰:「斫頭便斫頭、何為怒邪!」飛壯而釋之、引為賓客。飛所過戰克、與先主會于成都。益州既平、賜諸葛亮・法正・飛及關羽金各五百斤、銀千斤、錢五千萬、錦千匹、其餘頒賜各有差、以飛領巴西太守。
劉備が曹操に伐たれて袁紹に奔った時、張飛が随ったのか別れたのかは不明です。袁紹の麾下にあって張飛の活躍が一切書かれていないのが、『演義』での張飛山賊説に繋がったものと思われます。尚お、劉備が曹操の下を逃れて小沛に拠っていた期間に張飛のロリコンが発覚します。
劉表が卒し、曹操が荊州に入ると、劉備は江南に奔った。曹操はこれを追い、一日一夜にして当陽の長阪に及んだ。劉備は曹操がにわかに至ったと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛には二十騎を率いて後方を拒がせた。張飛は河水に拠って橋を断ち、目を瞋らせて矛を横たえ 「我こそは張益徳である。来たれ、共に死を決しようぞ!」 敵は皆な近づこうとする者は無く、このため免れた。劉備は江南を定めた後、張飛を宜都太守・征虜将軍とし、新亭侯に封じ、後に南郡に転在した。曹公破張魯、留夏侯淵・張郃守漢川。郃別督諸軍下巴西、欲徙其民於漢中、進軍宕渠・蒙頭・盪石、與飛相拒五十餘日。飛率精卒萬餘人、從他道邀郃軍交戰、山道迮狹、前後不得相救、飛遂破郃。郃棄馬縁山、獨與麾下十餘人從問道退、引軍還南鄭、巴土獲安。先主為漢中王、拜飛為右將軍・假節。章武元年、遷車騎將軍、領司隸校尉、進封西郷侯、策曰:「朕承天序、嗣奉洪業、除殘靖亂、未燭厥理。今寇虜作害、民被荼毒、思漢之士、延頸鶴望。朕用怛然、坐不安席、食不甘味、整軍誥誓、將行天罰。以君忠毅、r蹤召虎、名宣遐邇、故特顯命、高墉進爵、兼司于京。其誕將天威、柔服以コ、伐叛以刑、稱朕意焉。詩不云乎、『匪疚匪棘、王國來極。肇敏戎功、用錫爾祉』。可不勉歟!」
「朕は天序を承け、洪業を嗣奉し、残賊を除き乱を靖んじたが、未だ厥理(道理)を燭(あきら)かにしていない。今、寇虜は害を作し、民は荼毒を被り、思漢の士は延頸鶴望している。朕は怛然として坐しても席を安んぜず、食べても味を甘(うま)しとせず、軍を整えて誥誓し、まさに天罰を行なおうと思う。君の忠毅が召虎[※]にr蹤(匹敵)し、名が遐邇(遠近)に宣べられている事から、それゆえ特に命令を顕かにし、墉(壁)を高め爵位を進め、京師を司る事を兼ねさせよう。誕(おお)いに天威を将(もち)い、服せしを徳を以て柔(やす)んじ、叛きしを刑を以て伐ち、朕の意に称(かな)うよう。『詩』も云っておらぬか、“疚(や)ませるな、棘(せま)るな。王国に来たりて極めん。敏やかに戎功(軍功)を肇(ただ)し、爾(なんじ)に祉(さいわい)を錫(たまわ)らん”と。勉めてくれ!」
※ 周の宣王の時、淮夷を討伐した召の穆公。後段で劉備が引用した詩の一節も、召虎の武功を讃えたもの。
初、飛雄壯威猛、亞於關羽、魏謀臣程c等咸稱羽・飛萬人之敵也。羽善待卒伍而驕於士大夫、飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:「卿刑殺既過差、又日鞭檛健兒、而令在左右、此取禍之道也。」飛猶不悛。先主伐呉、飛當率兵萬人、自閬中會江州。臨發、其帳下將張達・范彊殺飛、持其首、順流而奔孫權。飛營都督表報先主、先主聞飛都督之有表也、曰:「噫!飛死矣。」追諡飛曰桓侯。長子苞、早夭。次子紹嗣、官至侍中尚書僕射。苞子遵為尚書、隨諸葛瞻於緜竹、與ケ艾戰、死。
馬超字孟起、扶風茂陵人也。父騰、靈帝末與邊章・韓遂等倶起事於西州。初平三年、遂・騰率衆詣長安。漢朝以遂為鎮西將軍、遣還金城、騰為征西將軍、遣屯郿。後騰襲長安、敗走、退還涼州。司隸校尉鍾繇鎮關中、移書遂・騰、為陳禍福。騰遣超隨繇討郭援・高幹於平陽、超將龐コ親斬援首。後騰與韓遂不和、求還京畿。於是徴為衞尉、以超為偏將軍、封都亭侯、領騰部曲。
超既統衆、遂與韓遂合從、及楊秋・李堪・成宜等相結、進軍至潼關。曹公與遂・超單馬會語、超負其多力、陰欲突前捉曹公、曹公左右將許褚瞋目盻之、超乃不敢動。曹公用賈詡謀、離間超・遂、更相猜疑、軍以大敗。超走保諸戎、曹公追至安定、會北方有事、引軍東還。楊阜説曹公曰:「超有信・布之勇、甚得羌・胡心。若大軍還、不嚴為其備、隴上諸郡非國家之有也。」超果率諸戎以撃隴上郡縣、隴上郡縣皆應之、殺涼州刺史韋康、據冀城、有其衆。超自稱征西將軍、領并州牧、督涼州軍事。康故吏民楊阜・姜敍・梁ェ・趙衢等、合謀撃超。阜・敍起於鹵城、超出攻之、不能下;ェ・衢閉冀城門、超不得入。進退狼狽、乃奔漢中依張魯。魯不足與計事、内懷於邑、聞先主圍劉璋於成都、密書請降。
この様に、馬超に特に配慮する必要のない『魏略』では、馬超が意識して馬騰を見捨て、更には火事場泥棒的に韓遂を盟主に推したかに描写しています。張猛を討った事といい、韓遂はどちらかというと曹操寄りの行動を示していて、馬騰が入朝に応じたのは、曹操による関西の統制を容認したも同然となります。馬超がどれだけ外戚であるかを意識し、漢室を重んじていたかは不明ですが、馬騰の判断を真っ向否定する表明としての挙兵だったと思われます。
有事の内容については武帝紀でも言及がありませんが、次に唐突に出てくる楊阜の本伝を読むと、「河間で蘇伯が叛いた」 とあります。索引から蘇伯を捜した処、曹丕が程cを参謀として対処し、親征を諫められて将軍に討伐させたとあります。又た、蘇伯と倶に叛いた田銀には曹仁が派遣されています。
楊阜が曹操に説くには 「馬超には韓信・英布の勇があり、甚だ羌・胡の心を得ています。もし大軍が還り、備えを厳重にしておかねば、隴上の諸郡は国家の所有でなくなります」 馬超は果たして諸戎を率いて隴上の郡県を撃ち、隴上の郡県は皆な呼応した。涼州刺史韋康を殺して冀城(天水市甘谷)に拠り、その軍兵を有した。馬超は征西将軍・領幷州牧・督涼州軍事を自称した。韋康の故の吏民の楊阜・姜敍・梁ェ・趙衢らは、謀りごとを合わせて馬超を撃った。楊阜・姜敍は鹵城に起ち、馬超は出城してこれを攻めたが下せず、梁ェ・趙衢が冀城の門を閉じた為、馬超は入れなかった。進退に狼狽し、かくして漢中に奔って張魯に依った。 この箇所に限らず、馬超の動向は魏志の諸列伝で詳述されてしまい、肝心の馬超伝はご覧の有り様です。涼州での攻防については、夏侯淵伝のほか、楊阜伝に楊阜視点で詳述されています。
それにしても、曹操に惨敗した筈の馬超が捲土重来を成功させて一年前後も涼州を支配したというのは、単に羌胡の支持を背景としていたというだけでなく、曹操サイドの掌握力が浸透していなかった事も大きな要因だったと思われます。韋康が本国に援軍を仰ぐ前に独断で馬超と講和したのも、涼州の民情が必ずしも中央政権寄りではなかったからでしょう。この涼州の不安定さは魏末まで続き、張既の統治も一過性のものに過ぎなかったようです。
先主遣人迎超、超將兵徑到城下。城中震怖、璋即稽首、以超為平西將軍、督臨沮、因為前都亭侯。先主為漢中王、拜超為左將軍、假節。章武元年、遷驃騎將軍、領涼州牧、進封斄郷侯、策曰:「朕以不コ、獲繼至尊、奉承宗廟。曹操父子、世載其罪、朕用慘怛、疢如疾首。海内怨憤、歸正反本、曁于氐・羌率服、獯鬻慕義。以君信著北土、威武並昭、是以委任授君、抗颺虓虎、兼董萬里、求民之瘼。其明宣朝化、懷保遠邇、肅慎賞罰、以篤漢祜、以對于天下。」二年卒、時年四十七。臨沒上疏曰:「臣門宗二百餘口、為孟コ所誅略盡、惟有從弟岱、當為微宗血食之繼、深託陛下、餘無復言。」追諡超曰威侯、子承嗣。岱位至平北將軍、進爵陳倉侯。超女配安平王理。
「朕は不徳でありながら至尊を継ぐことを獲、宗廟を奉承した。曹操父子は世にその罪を戴き、朕は慘怛として、疢(や)むこと疾首(頭痛)のようである。海内は怨憤し、正しきに帰して本道に反ろうとし、氐・羌は率服し、獯鬻(匈奴・鮮卑)も義を慕うに曁(いた)っている。君の信が北土に著しく、威武がともに昭かである事から、このため委任して君に授けよう。虓虎(吼える虎)(の如き威)を抗颺(昂揚)し、万里を兼統し、民の瘼(やまい)を救うのだ。中朝の王化を明らかに宣べ、遠邇(遠近)を懐け保ち、粛として賞罰を慎み、漢の祜(さち)を篤くし、天下に対(こた)えるのだ」
二年(222)に卒した。時に齢四十七。歿するに臨んで上疏するには 「臣の門宗二百余口は、曹孟徳に誅されてほぼ尽き、ただ従弟の馬岱がいるだけです。微宗の血食を継ぐ者として、深く陛下に託すものです。他に言う事はありません」。馬超に威侯と追諡した。子の馬承が嗣いだ。馬岱の位は平北将軍に至り、陳倉侯に進爵した。馬超の娘は安平王劉理に配偶された[6]。 馬超についての一つの疑問。「本当に鬼強かったのか?」 。強かったのは間違いないと思いますが、例えば許褚の視線にビビったり (許褚伝)、閻行に敗死しかけたり (『魏略』) と、出典が曹魏寄りの資料である点を差し引いても、関羽・張飛らに比べて個人的武勇は1ランク下のように思えます。あの曹操に王手をかける寸前まで行ったりと、局地戦での指揮能力は高そうなんですけどね…。
ところで劉備に降った後の馬超は、それまでの暴れん坊将軍ぶりからは想像もできないほど精彩を欠いたもので、「馬超は蜀では活躍しなかった」 とまで言われる始末です。漢中界隈で北方や西方に対して睨みを利かせていたので、働きが無かった訳ではありませんが、成都陥落が最後の花道だったのは確かなようです。彭羕伝に 「超羈旅帰国、常懐危懼、聞羕言大驚、黙然不答」 とあるのが事実なら、一族根絶されて涼州を逐われたすえの張魯の宗教王国での生活が余程堪えて、人格が丸くなったのでしょう。
馬超は血統を以て 「貴公子」 と呼ばれる事がありますが、上記の通り本家の恩恵すら及ばない、馬援の直系からは大きく外れた疎族に過ぎません。その社会的地位はほぼ庶民と大差なく、呂布や李傕らの輩と謂っていいでしょう。
霊帝の末期、涼州刺史耿鄙は姦吏を任信し、民の王国ら及び氐・羌が反叛した。州郡では民中から勇力な者を募集・徴発してこれを討とうとし、馬騰はその中にいた。州郡はこれを異として軍の従事とし、部衆を典領させた。討賊に功があり、軍司馬を拝命し、後に功によって偏将軍に遷り、又た征西将軍に遷り、常に汧・隴の間に駐屯した。初平中、征東将軍を拝命した。この時、西州では穀物が少なく、馬騰は自ら上表し、軍人の多くが窮乏しており、池陽(咸陽市陽)の穀糧に就く事を求めた。かくて長平の岸頭に移屯した。将の王承らは馬騰が己を害する事を恐れ、かくして馬騰の営を攻めた。時に馬騰は近くに出ていて備えは無く、遂に破れて敗走し、西方へ上った。折しも三輔が乱れた為、再びは東に来ず、鎮西将軍韓遂と結んで異姓兄弟となり、始めは甚だ相親したが、後に転じて部曲を以て相い侵入し、更めて讐敵となった。馬騰が韓遂を攻めると、韓遂は敗走したが、手勢を糾合して還って馬騰を攻め、馬騰の妻子を殺した為、兵事は連なって解けなかった。建安の初、国家の綱紀はほぼ弛緩しており(、背命を罰すること無く)、かくして司隸校尉鍾繇・涼州牧韋端に和解させた。馬騰を徴して槐里(咸陽市興平)に還屯させ、転拝して前将軍とし、節を仮し、槐里侯に封じた。北は胡寇に備え、東は白騎に備え、士を待遇して賢人を進挙し、民の命を矜救(救恤)し、三輔は甚だ安んじてこれを愛した。黄忠字漢升、南陽人也。荊州牧劉表以為中郎將、與表從子磐共守長沙攸縣。及曹公克荊州、假行裨將軍、仍就故任、統屬長沙守韓玄。先主南定諸郡、忠遂委質、隨從入蜀。自葭萌受任、還攻劉璋、忠常先登陷陳、勇毅冠三軍。益州既定、拜為討虜將軍。建安二十四年、於漢中定軍山撃夏侯淵。淵衆甚精、忠推鋒必進、勸率士卒、金鼓振天、歡聲動谷、一戰斬淵、淵軍大敗。遷征西將軍。是歳、先主為漢中王、欲用忠為後將軍、諸葛亮説先主曰: 「忠之名望、素非關・馬之倫也。而今便令同列。馬・張在近、親見其功、尚可喩指;關遙聞之、恐必不ス、得無不可乎!」先主曰:「吾自當解之。」遂與羽等齊位、賜爵關内侯。明年卒、追諡剛侯。子敍、早沒、無後。
趙雲字子龍、常山真定人也。本屬公孫瓚、瓚遣先主為田楷拒袁紹、雲遂隨從、為先主主騎。及先主為曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走、雲身抱弱子、即後主也、保護甘夫人、即後主母也、皆得免難。遷為牙門將軍。先主入蜀、雲留荊州。
先主自葭萌還攻劉璋、召諸葛亮。亮率雲與張飛等倶泝江西上、平定郡縣。至江州、分遣雲從外水上江陽、與亮會于成都。成都既定、以雲為翊軍將軍[3]。建興元年、為中護軍・征南將軍、封永昌亭侯、遷鎮東將軍。五年、隨諸葛亮駐漢中。明年、亮出軍、揚聲由斜谷道、曹真遣大衆當之。亮令雲與ケ芝往拒、而身攻祁山。雲・芝兵弱敵彊、失利於箕谷、然斂衆固守、不至大敗。軍退、貶為鎮軍將軍。
七年卒、追諡順平侯。
費禕に『費禕別伝』が、劉巴に『零陵先賢伝』があるように、既存の趙雲像の多くは『趙雲別伝』由来の成分です。そういったものを除いた趙雲伝の本文はこれだけで、名将・趙雲を再現するには些か不足しています。この巻三十六は、巻十七に相対させる目的で五人構成にしたんだと思われますが、あんな事がなければ趙雲ではなく魏延が載せられていた事でしょう。
初、先主時、惟法正見諡;後主時、諸葛亮功コ蓋世、蔣琬・費禕荷國之重、亦見諡;陳祗寵待、特加殊奬、夏侯霸遠來歸國、故復得諡;於是關羽・張飛・馬超・龐統・黄忠及雲乃追諡、時論以為榮。雲子統嗣、官至虎賁中郎、督行領軍。次子廣、牙門將、隨姜維沓中、臨陳戰死。
陳祗が歿したのは258年で、程なく諡号が贈られたものと思われます。関羽らへの追諡は260年の事で、趙雲に対しては更にその翌年になります。
趙雲の子の趙統が嗣ぎ、官は虎賁中郎将・督行領軍に至った。次子の趙広は牙門将となり、姜維に随って沓中で陣に臨んで戦死した。評曰:關羽・張飛皆稱萬人之敵、為世虎臣。羽報效曹公、飛義釋嚴顏、並有國士之風。然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短取敗、理數之常也。馬超阻戎負勇、以覆其族、惜哉!能因窮致泰、不猶愈乎!黄忠・趙雲彊摯壯猛、並作爪牙、其灌・滕之徒歟?