三國志修正計画

三國志卷三十六 蜀志六/關張馬黄趙傳

関羽

 關羽字雲長、本字長生、河東解人也。亡命奔涿郡。先主於郷里合徒衆、而羽與張飛為之禦侮。先主為平原相、以羽・飛為別部司馬、分統部曲。先主與二人寢則同牀、恩若兄弟。而稠人廣坐、侍立終日、隨先主周旋、不避艱險。先主之襲殺徐州刺史車冑、使羽守下邳城、行太守事、而身還小沛。

 関羽、字は雲長。もとの字は長生。河東解の人である。亡命して涿郡に奔った。劉備が郷里で徒衆を糾合した時、関羽は張飛と禦侮(護衛)した。劉備は平原相になると、関羽・張飛を別部司馬とし、部曲を分統した。劉備と二人とは寝るには牀を同じくし、恩愛は兄弟のようだった。しかし人が稠(あつま)る広坐の場では侍立すること終日であり、劉備に随って艱難険阻を避けなかった[1]。劉備は徐州刺史車冑を襲殺すると、関羽に下邳城を守らせ、太守の事を代行させ[2]、身ずからは小沛に還った。

 建安五年、曹公東征、先主奔袁紹。曹公禽羽以歸、拜為偏將軍、禮之甚厚。紹遣大將顏良攻東郡太守劉延於白馬、曹公使張遼及羽為先鋒撃之。羽望見良麾蓋、策馬刺良於萬衆之中、斬其首還、紹諸將莫能當者、遂解白馬圍。曹公即表封羽為漢壽亭侯。初、曹公壯羽為人、而察其心神無久留之意、謂張遼曰:「卿試以情問之。」既而遼以問羽、羽歎曰: 「吾極知曹公待我厚、然吾受劉將軍厚恩、誓以共死、不可背之。吾終不留、吾要當立效以報曹公乃去。」遼以羽言報曹公、曹公義之。及羽殺顏良、曹公知其必去、重加賞賜。羽盡封其所賜、拜書告辭、而奔先主於袁軍。左右欲追之、曹公曰:「彼各為其主、勿追也。」

 建安五年(200)、曹操が東征すると、劉備は袁紹に奔った。曹操は関羽を禽えて帰り、拝して偏将軍とし、礼遇すること甚だ厚かった。袁紹が大将の顔良を遣って白馬に東郡太守劉延を攻めさせると、曹操は張遼および関羽を先鋒としてこれを撃たせた。関羽は顔良の麾蓋(旗と蓋)を望見すると、馬に策(むち)して万衆の中で顔良を刺し、その首を斬って還った。袁紹の諸将で当れる者は莫く、かくて白馬の囲みは解けた。曹操は即座に上表して関羽を封じて漢寿亭侯とした。
当初、曹操は関羽の為人りを壮としたが、その心神には久しく留まる意図が無い事を察し、張遼に謂うには 「卿よ、試みに心情によって問うてみてくれ」 と。間もなく張遼が関羽に問うた処、関羽は歎息しつつ 「私は曹公が私を待遇することが厚いのは極知しているが、しかし私は劉将軍に厚恩を受け、共に死すことを誓っており、これに背く事はできない。私は終には留まらず、私は効を立てて曹公に報いてから去る事を要求する所存だ」 張遼は関羽の言葉を曹操に報じ、曹操はこれを義とした[3]。関羽が顔良を殺すに及び、曹操はきっと去るであろう事を知り、重く賞賜を加えた。関羽は賜物の尽くに封をし、書を拝して辞去を告げ、袁軍の劉備に奔った。左右の者はこれを追おうとしたが、曹操は 「彼も各々もその主の為にするのだ。追ってはならぬ」。[4]

 從先主就劉表。表卒、曹公定荊州、先主自樊將南渡江、別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相値、共至夏口。孫權遣兵佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。先主收江南諸郡、乃封拜元勳、以羽為襄陽太守・盪寇將軍、駐江北。先主西定益州、拜羽董督荊州事。羽聞馬超來降、舊非故人、羽書與諸葛亮、問超人才可誰比類。亮知羽護前、乃答之曰:「孟起兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥・彭之徒、當與益コ並驅爭先、猶未及髯之絶倫逸羣也。」羽美鬚髯、故亮謂之髯。羽省書大ス、以示賓客。

 劉備に従って劉表に就いた。劉表が卒し、曹操が荊州を定め、劉備は樊城より南下して渡江しようとした時、別に関羽を遣って数百艘に乗船して江陵で会同させた。曹操の追撃が当陽の長阪に至ると、劉備は斜(そ)れて漢津に赴き、たまたま関羽の船と相い遭遇し、共に夏口に至った[5]。孫権は兵を遣って劉備を佐けて曹操を拒ぎ、曹操は(赤壁で敗れて)軍を率いて退帰した。劉備は江南諸郡を収めると元勲を封拝し、関羽を襄陽太守・盪寇将軍として江北に駐屯させた。
 劉備は西のかた益州を定めると、関羽を拝して荊州の事を統督させた。関羽は馬超が来降したと聞くと、旧よりの故人(知人)ではない為、関羽は書簡を諸葛亮に与え、馬超の人物・才能は誰と比類するのかを問うた。諸葛亮は関羽が護前(強い矜持)であるのを知っており、かくして答えるには 「馬孟起は文武を兼資し、雄烈は人に過ぎ、一世の傑です。黥布・彭越の徒輩というもので、まさに益徳と並駆争先するものですが、猶お未だに髯殿の絶倫逸群には及びますまい」。関羽の鬚髯は美しく、それゆえ諸葛亮は髯殿と謂ったのである。関羽は書簡を省みて大いに悦び、賓客に示した。

 羽嘗為流矢所中、貫其左臂、後創雖愈、毎至陰雨、骨常疼痛、醫曰:「矢鏃有毒、毒入于骨、當破臂作創、刮骨去毒、然後此患乃除耳。」羽便伸臂令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對、臂血流離、盈於盤器、而羽割炙引酒、言笑自若。

 関羽は嘗て流矢に中り、その左臂を貫かれた事があり、後に創は癒えたとはいえ、陰雨の至る毎に骨が常に疼痛していた。医者は 「矢鏃に毒があり、毒が骨に入っているので、臂を破って創を作し、骨を刮って毒を去ります。然る後にこの患は除かれましょう」 関羽はたちまち臂を伸ばして医者に劈(きりひら)かせた。ときに関羽はたまたま諸将を請じて相対して飲食しており、臂より流離した血が盤器に盈ちたが、関羽は炙肉を割いて酒を引き寄せ、言笑すること自若としていた。

 二十四年、先主為漢中王、拜羽為前將軍、假節鉞。是歳、羽率衆攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋、大霖雨、漢水汎溢、禁所督七軍皆沒。禁降羽、羽又斬將軍龐悳。梁郟・陸渾羣盜或遙受羽印號、為之支黨、羽威震華夏。曹公議徙許都以避其鋭、司馬宣王・蔣濟以為關羽得志、孫權必不願也。可遣人勸權躡其後、許割江南以封權、則樊圍自解。曹公從之。先是、權遣使為子索羽女、羽罵辱其使、不許婚、權大怒。又南郡太守麋芳在江陵、將軍士仁屯公安、素皆嫌羽輕己。〔自〕羽之出軍、芳・仁供給軍資、不悉相救。羽言「還當治之」、芳・仁咸懷懼不安。於是權陰誘芳・仁、芳・仁使人迎權。而曹公遣徐晃救曹仁、羽不能克、引軍退還。權已據江陵、盡虜羽士衆妻子、羽軍遂散。權遣將逆撃羽、斬羽及子平于臨沮。

 二十四年(219)、劉備は漢中王となり、関羽を拝して前将軍とし、節鉞を仮した。この歳、関羽は軍兵を率いて樊城に曹仁を攻めた。

 魏では前年に少府耿紀らの乱、宛城を守る侯音の乱がありましたが、何れも関羽の存在を頼ったものとされており、特に侯音は関羽と結んだ後に叛いたと『曹瞞伝』は謂っています。ちなみに、侯音に対しては樊城の曹仁自ら討伐に出た様ですが、関羽はこれには乗じなかったようです。

曹操は于禁を遣って曹仁を助けさせた。秋、大いに霖雨となり、漢水が汎溢し、于禁の督する七軍が皆な水没した。于禁は関羽に降り、関羽は又た将軍の龐悳を斬った。梁郟や陸渾の群盜の中には関羽に印号を遙受し、そのため支党となった者もあり、関羽の威は華夏を震わせた。曹操が許都を徙してその鋭鋒を避ける事を議した処、司馬懿・蔣済は、関羽が志を得る事を孫権はきっと願っておらず、人を遣って孫権にその後方を躡(ふ)む事を勧めさせ、江南を割いて孫権を封じる事を許認すれば、樊城の囲みは自ずと解けるだろうと。曹操はこれに従った。
 これより以前、孫権は遣使して子の為に関羽の娘を索(もと)めさせたが、関羽はその使者を罵辱して婚儀を許さず、孫権は大いに怒っていた[6]

 関羽の外交音痴が露呈し、ひいては劉備・諸葛亮の人事にまで批判が及ぶ一件で、それについては否定のしようがありません。ですが、当時の孫権と劉備は表立って同盟関係にあった訳ではなく、孫権は表向きは曹操に臣属し、裏で劉備とも結ぶ二股をかけており、関羽の矜持が孫権のそうした態度を許容できなかったものと考えられます。だからといって関羽の失点が軽減されるものではありませんが。
 果たして孫権を本当に“狗”呼ばわりしたのかは定かではありませんが、『演義』の示すように関羽=虎、孫権=狗という対比ではなく、孫権を 「曹操の狗」 と見做した罵倒ではないかと勝手に想像する次第です。

又た南郡太守麋芳が江陵に在り、将軍の士仁は公安に駐屯していたが、素より皆な関羽が己を軽んじている事を嫌っていた。関羽が軍を出してより、麋芳・士仁は軍資を供給したが、相い救う事に悉(つ)くさなかった。関羽は 「還ったら治罪してやる」 と言い、麋芳・士仁は咸な懼れを懐いて安んじなかった。ここに孫権は陰かに麋芳・士仁を誘い、麋芳・士仁は人を遣って孫権を迎えさせた。しかも曹操が徐晃を遣って曹仁を救わせた為[7]、関羽は克てず、軍を率いて退還した。孫権は已に江陵に拠り、関羽の士卒の妻子を尽く虜え、関羽の軍はかくて散潰した。孫権は将を遣って関羽を逆(むか)え撃たせ、関羽および子の関平を臨沮で斬った[8]

 孫権は曹操に対し、関羽を討つ事で臣従の証とする事を乞うた。曹操は関羽と孫権との対峙を欲し、孫権の書簡を曹仁に送って関羽に示させた。このため関羽は逡巡して動けなかった。十月、呂蒙が江陵を陥し、陸遜が夷陵に進駐すると、関羽は麦城(当陽市両河鎮)に籠った。関羽は偽って孫権の勧降を受け、城を棄てて遁走したが、朱然・潘璋が予めその径路を断っており、十二月、潘璋の司馬の馬忠が関羽およびその子の関平と都督趙累らを章郷で獲えた。 (呉主伝)
 孫権が至る頃、関羽は孤窮である事を知り、麦城に逃走し、西?の漳郷に至ったが、手勢は皆な関羽を棄てて降った。孫権は朱然・潘璋にその径路を断たせ、父子を倶に獲えた。 (呂蒙伝)
 朱然は潘璋と臨沮に到って関羽を禽えた。 (朱然伝)
 潘璋と朱然とは関羽の逃走路を断ち、臨沮に到ると夾石に駐軍した。潘璋の司馬の馬忠が関羽と、関羽の子の関平・都督趙累らを禽えた。 (潘璋伝)

 関羽は麦城から直北の漳郷を目指すと見せかけ、沮河沿いの臨沮で捕獲・斬首されたようです。現在、沮河は北西から当陽市街を貫流して南東に抜け、下流方面で東方を南下してきた漳河と合流し、更に下流の先には江陵城が位置します。麦城は両河の合流点に臨み、当陽市街を挟んで上流側、市城の西北郊2kmには関羽終焉の地として関陵が営まれています。関羽は麦城から襄樊に向うと見せかけて沮河沿いに上庸方面を目指した訳で、そりゃあバレますわ。私見を云うなら、臨沮は地名ではなく、「沮河に臨む地」 程度の意味ではないかと。

 追諡羽曰壯繆侯。子興嗣。興字安國、少有令問、丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中・中監軍、數歳卒。子統嗣、尚公主、官至虎賁中郎將。卒、無子、以興庶子彝續封。

 関羽を追諡して壮繆侯とした[9]。子の関興が嗣いだ。関興、字は安国。若くして令問(令名)があり、丞相諸葛亮は深く器異とした。弱冠で侍中・中監軍となったが、数歳で卒した。子の関統が嗣ぎ、公主を尚(めと)り、官は虎賁中郎将に至った。卒すると子が無く、関興の庶子の関彝に封を続(つ)がせた[10]
 
[1] 曹操と劉備とが下邳に呂布を囲んだ時、関羽が曹操に申すには、「呂布は秦宜禄を使者として救援を求めに行かせました。その妻を娶らせてほしい」と。曹操はこれを許した。(下邳が)破れるに臨み、又たしばしば曹操に申した。曹操はその容色が殊異であるかと疑い、先んじて遣って看て迎え、こうして自らこれを留めた。関羽の心は安んじなかった。これと『魏氏春秋』の説くものとは異なる点が無い。 (『蜀記』)
[2] 関羽に徐州を兼領させたのである。 (『魏書』)
[3] 張遼は曹操に言おうとしたが、曹操が関羽を殺す事を恐れ、言わねば、君主に臣事する道に背く事になり、かくして歎じるには 「公は君父であり、関羽は兄弟に過ぎぬ」と。かくてこれを言った。曹操 「君に事えてその根本を忘れないのは、天下の義士である。いつ頃に去ると度る?」 張遼 「関羽は公に恩を受けており、必ず効を立てて公に報じた後に去るでしょう」 (『傅子』)
[4] 裴松之が考えるに、曹操は関羽が留まらぬ事を知りつつ心中でその志を嘉し、去っても追撃を遣らずにその義を成就させた。自身に王霸の度量が無ければ、誰がこの様な姿勢に至れるであろうか? これはまことに曹操の休美(大いなる美点)である。
[5] 嘗て劉備が許に在った時、曹操と共に猟をした。猟中に人々が散じたので、関羽は劉備に曹操を殺す事を勧めたが、劉備は従わなかった。夏口に至って江渚に飄颻するに及び、関羽は怒って 「往日の猟中に、もし私の言葉に従っていれば、今日の困窮は無かったであろうに」 劉備 「あの時は亦た国家の為に惜しんだのだ。もし天道が正義を輔けるものなら、どうしてこれが福とならないと分るのか!」 (『蜀記』)
―― 裴松之が考えるに、劉備は後に董承らと謀りごとを結び、ただ事が泄れて克諧(成就)できなかっただけで、もし国家の為に曹操を惜しんだのなら、この様な事をどうやって言うのか! 関羽がもし果たしてこれを勧めて劉備が肯従しなかったのなら、それは曹操の腹心や親戚の実に多くが徒党となっており、事はかねて構想されたものではなかったので、造次(咄嗟)には行なえなかったのだ。曹操を殺せたとしても、自身は必ず免れられず、ゆえに計って止めたのであり、どうして曹操を惜しんだなどという事があろうか! 既往(過去)の事であり、それゆえ雅言に託しただけである。
[6] 関羽は樊城を囲むと、孫権に遣使して助力を求めたが、(孫権は)使者に速やかに進まぬよう命じ、又た主簿を先に遣って関羽に復命させた。関羽はその淹遅を忿り、又た自らが已に于禁らを得た事でもあり、かくして罵るには 「狢子めがそうするか。樊城を抜いたなら、俺は汝を滅ぼさずにはおかぬぞ!」 と。孫権はこれを聞き、己を軽んじている事を知り、偽って手書にて関羽に陳謝し、自ら往く事を認めた。 (『典略』)
―― 裴松之が考えるに、荊州と呉とは外面は睦んでいるとはいえ、内心では相い猜防し、それゆえ孫権は関羽を襲おうとし、潜師を密かに発したのだ。呂蒙伝を調べた処、「𦩷𦪇(輸送船)の中に精兵を伏せ、布衣に櫓を漕がせて商賈の服装をさせた」と。これによって言えば、関羽は孫権に求助せず、孫権は関羽には語らずに往ったに違いない。もし相い援助することを認めていたなら、どうしてその形迹を匿すのか?
[7] 関羽と徐晃とはかねて相い敬愛し、遥かに共に語り、但だ平生を説くのみで、軍事には及ばなかった。須臾にして徐晃は下馬して命令を宣べ 「関雲長の頭を得た者には賞金千斤だ」 と。関羽は驚怖し、徐晃に謂うには 「大兄よ、これはどうした事か!」 徐晃 「これは国家の事である」 (『蜀記』)
[8] 孫権は将軍を遣って関羽を撃たせ、関羽および子の関平を獲た。孫権は関羽を活かして劉備・曹操に対抗させたいと思ったが、左右の者が 「狼子は養えません。後にきっと害を為しましょう。曹操はこれを除かなかったばかりに自ら大患を取り、徙都の議を生じました。今、どうして生かせましょう!」 かくしてこれを斬った。 (『蜀記』)
―― 裴松之が『呉書』を調べた処、孫権は将の潘璋を遣って予め関羽の逃走路を断たせ、関羽が至って即座に斬らせている。しかも臨沮は江陵を去ること二・三百里で、どうしてすぐには関羽を殺さず、その生死を議すような事が出来たのか? 又た 「権欲活羽以敵劉・曹」 と云っており、この事の不条理さは、智者の口を絶たせるに充分である。
―― 孫権が関羽の首を曹操に送った処、諸侯の礼を以てその屍骸を葬った。 (『呉歴』)
[9] 関羽が樊城の攻囲に出軍した当初に、夢に豬にその足を噛まれた。子の関平に語るには 「俺の齢は衰えたが、還る事はできぬ!」 (『蜀記』)
―― 関羽は『左氏伝』を好み、諷誦したほぼ全てを口に上せられた。 (『江表伝』)
[10] 龐徳の子の龐会は、鍾会・ケ艾の伐蜀に随い、蜀を破ると関氏の家を尽く滅した。 (『蜀記』)

 ここまで、裴松之は関羽伝の多くを『蜀記』で補ってきましたが、裴松之自身が王隠の著作/『晋書』と『蜀記』の信憑性には大いに疑問を呈しています。個人的にも王隠の著作は信用できず、例えば上記の注[10]なども仇討話としてそれなりに知られていますが、龐会の行ないは明らかに礼を失したもので、そもそも鍾会とケ艾のどちらに随ったかすら定かでもない辺りで、ゴシップの域を出ないものと判断できます。
 因みに龐徳伝ではこうあります 「鍾会が蜀を平らげると、龐悳の屍喪を迎えて鄴に還葬した。 (王隠『蜀記』) ―― 裴松之が調べた処、龐悳は樊城で死に、文帝は即位すると遣使して龐悳の墓所に至らせている。その屍喪は蜀に在ったのではない。これは王隠の虚説である」

 

張飛

 張飛字益コ、涿郡人也、少與關羽倶事先主。羽年長數歳、飛兄事之。先主從曹公破呂布、隨還許、曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹・劉表。表卒、曹公入荊州、先主奔江南。曹公追之、一日一夜、及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至、棄妻子走、使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋、瞋目矛曰:「身是張益コ也、可來共決死!」敵皆無敢近者、故遂得免。先主既定江南、以飛為宜都太守・征虜將軍、封新亭侯、後轉在南郡。先主入益州、還攻劉璋、飛與諸葛亮等泝流而上、分定郡縣。至江州、破璋將巴郡太守嚴顏、生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至、何以不降而敢拒戰?」顏答曰:「卿等無状、侵奪我州、我州但有斷頭將軍、無有降將軍也。」飛怒、令左右牽去斫頭、顏色不變、曰:「斫頭便斫頭、何為怒邪!」飛壯而釋之、引為賓客。飛所過戰克、與先主會于成都。益州既平、賜諸葛亮・法正・飛及關羽金各五百斤、銀千斤、錢五千萬、錦千匹、其餘頒賜各有差、以飛領巴西太守。

 張飛、字は益徳。涿郡の人である。若くして関羽と倶に劉備に事えた。関羽の齢が数歳長じており、張飛はこれに兄事した。劉備が曹操に従って呂布を破り、許に還るのに随い、曹操は張飛を拝して中郎将とした。劉備は曹操に背いて袁紹・劉表に依った。

 劉備が曹操に伐たれて袁紹に奔った時、張飛が随ったのか別れたのかは不明です。袁紹の麾下にあって張飛の活躍が一切書かれていないのが、『演義』での張飛山賊説に繋がったものと思われます。尚お、劉備が曹操の下を逃れて小沛に拠っていた期間に張飛のロリコンが発覚します。

劉表が卒し、曹操が荊州に入ると、劉備は江南に奔った。曹操はこれを追い、一日一夜にして当陽の長阪に及んだ。劉備は曹操がにわかに至ったと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛には二十騎を率いて後方を拒がせた。張飛は河水に拠って橋を断ち、目を瞋らせて矛を横たえ 「我こそは張益徳である。来たれ、共に死を決しようぞ!」 敵は皆な近づこうとする者は無く、このため免れた。劉備は江南を定めた後、張飛を宜都太守・征虜将軍とし、新亭侯に封じ、後に南郡に転在した。
 劉備が益州に入り、還って劉璋を攻めると、張飛は諸葛亮らと流れを泝上し、分かれて郡県を定めた。江州に至り、劉璋の将の巴郡太守厳顔を破り、厳顔を生獲した。張飛が厳顔を叱呵するには 「大軍が至ったのに、どうして降りもせずに敢えて拒戦したのか?」 厳顔が答えるには 「卿らは無状(不作法)にも我が州を侵し奪った。我が州には断頭将軍がいるだけで降る将軍はおらぬ」 張飛は怒り、左右の者に牽き去って頭を斫るよう命じた。厳顔は気色を変えず、「斫頭するならさっさと斫頭せよ。どうして怒るのか!」 張飛は壮としてこれを釈し、引き入れて賓客とした[1]。張飛は過ぎる所で戦えば克ち、劉備と成都で会同した。益州が平らいだ後、諸葛亮・法正・張飛および関羽に黄金を各々五百斤、銀千斤、銭五千万、錦千匹を賜わり、その他の頒賜には各々で差があり、張飛に巴西太守を兼領させた。

 曹公破張魯、留夏侯淵・張郃守漢川。郃別督諸軍下巴西、欲徙其民於漢中、進軍宕渠・蒙頭・盪石、與飛相拒五十餘日。飛率精卒萬餘人、從他道邀郃軍交戰、山道迮狹、前後不得相救、飛遂破郃。郃棄馬縁山、獨與麾下十餘人從問道退、引軍還南鄭、巴土獲安。先主為漢中王、拜飛為右將軍・假節。章武元年、遷車騎將軍、領司隸校尉、進封西郷侯、策曰:「朕承天序、嗣奉洪業、除殘靖亂、未燭厥理。今寇虜作害、民被荼毒、思漢之士、延頸鶴望。朕用怛然、坐不安席、食不甘味、整軍誥誓、將行天罰。以君忠毅、r蹤召虎、名宣遐邇、故特顯命、高墉進爵、兼司于京。其誕將天威、柔服以コ、伐叛以刑、稱朕意焉。詩不云乎、『匪疚匪棘、王國來極。肇敏戎功、用錫爾祉』。可不勉歟!」

 曹操は張魯を破ると、夏侯淵・張郃を留めて漢川を守らせた。張郃は別に諸軍を督して巴西に下り、その民を漢中に徙そうとし、宕渠・蒙頭・盪石に軍を進め、張飛と相い拒ぐこと五十余日となった。張飛は精卒万余人を率い、他道より張郃の軍を邀撃して交戦したが、山道は迮狭で、(張郃軍は)前後が相い救う事ができず、張飛はかくて張郃を破った。張郃は馬を棄てて山に縁(そ)い、独り麾下の十余人と道を問いつつ退き、軍を引いて南鄭に還り、巴土は平安を獲た。
 劉備は漢中王となると、張飛を拝して右将軍・仮節とした。章武元年(221)、車騎将軍に遷り、司隸校尉を兼領し、西郷侯に進封された。詔策に曰く

「朕は天序を承け、洪業を嗣奉し、残賊を除き乱を靖んじたが、未だ厥理(道理)を燭(あきら)かにしていない。今、寇虜は害を作し、民は荼毒を被り、思漢の士は延頸鶴望している。朕は怛然として坐しても席を安んぜず、食べても味を甘(うま)しとせず、軍を整えて誥誓し、まさに天罰を行なおうと思う。君の忠毅が召虎[※]にr蹤(匹敵)し、名が遐邇(遠近)に宣べられている事から、それゆえ特に命令を顕かにし、墉(壁)を高め爵位を進め、京師を司る事を兼ねさせよう。誕(おお)いに天威を将(もち)い、服せしを徳を以て柔(やす)んじ、叛きしを刑を以て伐ち、朕の意に称(かな)うよう。『詩』も云っておらぬか、“疚(や)ませるな、棘(せま)るな。王国に来たりて極めん。敏やかに戎功(軍功)を肇(ただ)し、爾(なんじ)に祉(さいわい)を錫(たまわ)らん”と。勉めてくれ!」

※ 周の宣王の時、淮夷を討伐した召の穆公。後段で劉備が引用した詩の一節も、召虎の武功を讃えたもの。

 初、飛雄壯威猛、亞於關羽、魏謀臣程c等咸稱羽・飛萬人之敵也。羽善待卒伍而驕於士大夫、飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:「卿刑殺既過差、又日鞭檛健兒、而令在左右、此取禍之道也。」飛猶不悛。先主伐呉、飛當率兵萬人、自閬中會江州。臨發、其帳下將張達・范彊殺飛、持其首、順流而奔孫權。飛營都督表報先主、先主聞飛都督之有表也、曰:「噫!飛死矣。」追諡飛曰桓侯。長子苞、早夭。次子紹嗣、官至侍中尚書僕射。苞子遵為尚書、隨諸葛瞻於緜竹、與ケ艾戰、死。

 当初より、張飛の雄壮威猛は関羽に亜ぐものとして、魏の謀臣の程cらは咸な関羽・張飛を万人の敵と称えた。関羽は善く卒伍を待遇したものの士大夫には驕慢で、張飛は君子を敬愛して小人を恤(いつくし)まなかった。劉備は常にこれを戒め、「卿の刑殺は過差(多すぎ)であり、又た日々に健児を鞭檛ながらも左右に在らせている。これは禍を取る道である」 張飛は猶おも改悛しなかった。劉備の伐呉では、張飛は兵万人を率い、閬中より江州で会同しようとした。進発に臨み、その帳下将の張達・范彊が張飛を殺し、その首を持ち、流れに順って孫権に奔った。張飛の営都督が上表にて劉備に報じたが、劉備は張飛の都督から上表があったと聞くや、「噫! 張飛が死んだか」。張飛に桓侯と追諡した。長子の張苞は早くに夭逝した。次子の張紹が嗣ぎ、官は侍中・尚書僕射に至った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に随って緜竹でケ艾と戦って死んだ。
 建安五年(200)の当時、夏侯霸の従妹は齢十三・四歳であり、本籍の郡で薪を採りに出た時に張飛に執えられた。張飛は良家の娘だと知り、そのまま妻とし、息女が産まれた。劉禅の皇后となった。そのため夏侯淵が亡くなった当初、張飛の妻は請うてこれを葬った。夏侯霸が入蜀するに及び、劉禅は自身の児を指し示し 「これは夏侯氏の甥である」 と。 (『夏侯淵伝注『魏略』)
 
[1] 劉備が入蜀して巴郡に至った当初、厳顔は胸を叩いて歎息し、「これぞ所謂る独り窮山して坐し、虎を放って自衛するというものだ!」 (『華陽國志』)
 

馬超

 馬超字孟起、扶風茂陵人也。父騰、靈帝末與邊章・韓遂等倶起事於西州。初平三年、遂・騰率衆詣長安。漢朝以遂為鎮西將軍、遣還金城、騰為征西將軍、遣屯郿。後騰襲長安、敗走、退還涼州。司隸校尉鍾繇鎮關中、移書遂・騰、為陳禍福。騰遣超隨繇討郭援・高幹於平陽、超將龐コ親斬援首。後騰與韓遂不和、求還京畿。於是徴為衞尉、以超為偏將軍、封都亭侯、領騰部曲。

 馬超、字は孟起。扶風茂陵の人である。父の馬騰は、霊帝の末期に辺章・韓遂らと倶に西州で事を起した。初平三年(192)、韓遂・馬騰は手勢を率いて長安に詣った。漢朝では韓遂を鎮西将軍とし、遣って金城に還らせ、馬騰を征西将軍とし、遣って郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲い、敗走して涼州に退還した。(官渡の役の後、曹操の命令を受けて)司隸校尉鍾繇は関中に鎮守すると、韓遂・馬騰に移書して禍福を陳べた。馬騰は馬超を遣り、鍾繇に随って郭援・高幹を平陽に討たせ、馬超の将の龐徳が親しく郭援の首を斬った。
 (献帝が長安を逃れた)当時、関中の諸将の馬騰・韓遂らは各々彊兵を擁して相い争っていた。侍中・守司隸校尉鍾繇が持節・督関中諸軍として長安に至って禍福を陳べると、馬騰・韓遂は各々子を遣って入侍させた。官渡の役の後、匈奴単于が平陽で叛くと、袁尚は河東太守郭援を支援に派遣した。馬騰は張既に説かれて郭援攻撃に参会し、子の馬超に精兵を率いて逆撃させた。郭援は至ると果たして軽々に汾水を渡ったので、その半ばで大破し、郭援を斬り、単于を降した。 (鍾繇伝)
―― 袁尚は高幹・郭援に兵数万人を率いさせて遣り、匈奴単于と与に河東に入冦させ、遣使して馬騰・韓遂らと連和し、馬騰らも陰かに許認した。。傅幹が馬騰に天の道理を説き、同時に 「智者とは禍を転じて福と為す者です。今、曹公は袁氏と対峙しているのに、高幹・郭援は独自に河東を制しようとしています。曹公には万全の計があるとはいえ、河東の危うきを禁ずる事はできません。将軍が兵を率いて郭援を討ち、内外呼応して撃てば、きっと成果を挙げられましょう。これぞ将軍の一挙動で袁氏の臂を断ち、一方面の急を解くというもので、曹公は必ず将軍を重く徳とするでしょう。将軍の功名は竹帛にも載せ尽くせないものです。ただ将軍よ、選択を審らかにされよ!」 馬騰 「敬んで教えに従いましょう」。ここに子の馬超を遣って精兵万余人を率いさせ、併せて韓遂らの兵を率い、鍾繇と会同して郭援らを撃って大破した。 (司馬彪『戦略』)

 袁尚は黎陽で曹操を拒ぎ、河東太守郭援・幷州刺史高幹および匈奴単于を遣って平陽を取らせ、使者を西に発して関中の諸将と合従した。司隸校尉鍾繇は張既を遣って将軍の馬騰らを説かせた。張既は利害を説き、馬騰らはこれに従った。馬騰は子の馬超に兵万余人を率いさせて遣り、鍾繇と会同して高幹・郭援を撃って大破し、郭援の首を斬った。高幹および単于は皆な降った。その後、高幹は復た幷州を挙げて反いた。河内の張晟は手勢万余人を擁して誰にも属しておらず、崤・澠の間を寇し、河東の衛固・弘農の張琰は各々起兵してこれに応じた。曹操は張既を議郎・として鍾繇の軍事に参与させ、西に使いして諸将の馬騰らを徴させた処、皆な兵を率いて会同して張晟らを撃ち、これを破った。張琰・衛固の首を斬り、高幹は荊州に奔った。 (張既伝)
 後に馬騰は韓遂と不和となり、京畿に還る事を求めた。ここに徴して衛尉とし、馬超を偏将軍として都亭侯に封じ、馬騰の部曲を典領させた[1]

 超既統衆、遂與韓遂合從、及楊秋・李堪・成宜等相結、進軍至潼關。曹公與遂・超單馬會語、超負其多力、陰欲突前捉曹公、曹公左右將許褚瞋目盻之、超乃不敢動。曹公用賈詡謀、離間超・遂、更相猜疑、軍以大敗。超走保諸戎、曹公追至安定、會北方有事、引軍東還。楊阜説曹公曰:「超有信・布之勇、甚得羌・胡心。若大軍還、不嚴為其備、隴上諸郡非國家之有也。」超果率諸戎以撃隴上郡縣、隴上郡縣皆應之、殺涼州刺史韋康、據冀城、有其衆。超自稱征西將軍、領并州牧、督涼州軍事。康故吏民楊阜・姜敍・梁ェ・趙衢等、合謀撃超。阜・敍起於鹵城、超出攻之、不能下;ェ・衢閉冀城門、超不得入。進退狼狽、乃奔漢中依張魯。魯不足與計事、内懷於邑、聞先主圍劉璋於成都、密書請降。

 馬超は手勢を統べた後、遂には韓遂と合従し、楊秋・李堪・成宜らとも相い結び、軍を進めて潼関に至った。
 おりしも韓遂は西のかた張猛を討ち、閻行を留めて旧営を守らせた。馬超らが結んで謀反すると、韓遂を挙げて都督とした。韓遂が還るに及び、馬超が韓遂に謂うには 「前に鍾司隸は私を任命して将軍を撃たせましたが、関東人は再びは信用できません。今、私は父を棄て、将軍を父としましょう。将軍も亦た子を棄て、私を子となさい」 。 (張既伝『魏略』)

 この様に、馬超に特に配慮する必要のない『魏略』では、馬超が意識して馬騰を見捨て、更には火事場泥棒的に韓遂を盟主に推したかに描写しています。張猛を討った事といい、韓遂はどちらかというと曹操寄りの行動を示していて、馬騰が入朝に応じたのは、曹操による関西の統制を容認したも同然となります。馬超がどれだけ外戚であるかを意識し、漢室を重んじていたかは不明ですが、馬騰の判断を真っ向否定する表明としての挙兵だったと思われます。

曹操が韓遂・馬超と単馬で会って語った際、馬超はその多力を自負し、陰かに前み突して曹操を捉えようとしたが、曹操の左右の将の許褚が目を瞋らせて盻(にら)んでおり、馬超はかくして動こうとはしなかった。曹操が賈詡の謀計を用いて馬超・韓遂を離間させた為、更めて相い猜疑し、軍は大敗した[2]

 戦況については武帝紀徐晃伝許褚伝をご覧ください。

馬超は逃走して諸戎を保ち、曹操は追って安定に至ったが、たまたま北方で事があり、軍を率いて東に還った。

 有事の内容については武帝紀でも言及がありませんが、次に唐突に出てくる楊阜の本伝を読むと、「河間で蘇伯が叛いた」 とあります。索引から蘇伯を捜した処、曹丕が程cを参謀として対処し、親征を諫められて将軍に討伐させたとあります。又た、蘇伯と倶に叛いた田銀には曹仁が派遣されています。

楊阜が曹操に説くには 「馬超には韓信・英布の勇があり、甚だ羌・胡の心を得ています。もし大軍が還り、備えを厳重にしておかねば、隴上の諸郡は国家の所有でなくなります」 馬超は果たして諸戎を率いて隴上の郡県を撃ち、隴上の郡県は皆な呼応した。涼州刺史韋康を殺して冀城(天水市甘谷)に拠り、その軍兵を有した。馬超は征西将軍・領幷州牧・督涼州軍事を自称した。韋康の故の吏民の楊阜・姜敍・梁ェ・趙衢らは、謀りごとを合わせて馬超を撃った。楊阜・姜敍は鹵城に起ち、馬超は出城してこれを攻めたが下せず、梁ェ・趙衢が冀城の門を閉じた為、馬超は入れなかった。進退に狼狽し、かくして漢中に奔って張魯に依った。

 この箇所に限らず、馬超の動向は魏志の諸列伝で詳述されてしまい、肝心の馬超伝はご覧の有り様です。涼州での攻防については、夏侯淵伝のほか、楊阜伝に楊阜視点で詳述されています。
 それにしても、曹操に惨敗した筈の馬超が捲土重来を成功させて一年前後も涼州を支配したというのは、単に羌胡の支持を背景としていたというだけでなく、曹操サイドの掌握力が浸透していなかった事も大きな要因だったと思われます。韋康が本国に援軍を仰ぐ前に独断で馬超と講和したのも、涼州の民情が必ずしも中央政権寄りではなかったからでしょう。この涼州の不安定さは魏末まで続き、張既の統治も一過性のものに過ぎなかったようです。

張魯は与に事を計るに足りず、内心に於邑(鬱色)を懐き、劉備が劉璋を成都に囲んだと聞くと、密書にて受降を請うた[3]

 先主遣人迎超、超將兵徑到城下。城中震怖、璋即稽首、以超為平西將軍、督臨沮、因為前都亭侯。先主為漢中王、拜超為左將軍、假節。章武元年、遷驃騎將軍、領涼州牧、進封斄郷侯、策曰:「朕以不コ、獲繼至尊、奉承宗廟。曹操父子、世載其罪、朕用慘怛、疢如疾首。海内怨憤、歸正反本、曁于氐・羌率服、獯鬻慕義。以君信著北土、威武並昭、是以委任授君、抗颺虓虎、兼董萬里、求民之瘼。其明宣朝化、懷保遠邇、肅慎賞罰、以篤漢祜、以對于天下。」二年卒、時年四十七。臨沒上疏曰:「臣門宗二百餘口、為孟コ所誅略盡、惟有從弟岱、當為微宗血食之繼、深託陛下、餘無復言。」追諡超曰威侯、子承嗣。岱位至平北將軍、進爵陳倉侯。超女配安平王理。

 劉備は人を遣って馬超を迎えさせ、馬超は兵を率いてただちに(成都)城下に到った。城中は震怖し、劉璋は即座に稽首(降伏)した[4]。馬超を平西将軍として臨沮を督させ[※]、以前に因んで都亭侯とした[5]。劉備が漢中王になると、馬超を拝して左将軍とし、節を仮した。
※ 関羽が馬超を意識した事、そしてその関羽に因む有名な地名であるので、馬超は南郡の臨沮を督したように読めますが、だとしたら関羽がわざわざ遠く成都の諸葛亮に問い合わせたのは不自然ですし、何より、劉備が期待した馬超の影響力の向かう先を考えると南郡の臨沮は馬超に相応しくありません。李厳伝で李厳が“漢中から西のかた沮・漳に向い”とあるのも、やはり南郡の境内では不自然です。現在の勉県西界には、漢水の大支流としての沮水がありますが、嘗ては漢水の本流と目されていたそうで、その流域は氐・羌族の居住地でもありました。そうした意味では勉県界隈はまさに馬超が駐屯するにの相応しい場所で、馬超墓があるのも納得です。

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章武元年(221)、驃騎将軍に遷って涼州牧を兼領し、斄郷侯に進封された。詔策に曰く

「朕は不徳でありながら至尊を継ぐことを獲、宗廟を奉承した。曹操父子は世にその罪を戴き、朕は慘怛として、疢(や)むこと疾首(頭痛)のようである。海内は怨憤し、正しきに帰して本道に反ろうとし、氐・羌は率服し、獯鬻(匈奴・鮮卑)も義を慕うに曁(いた)っている。君の信が北土に著しく、威武がともに昭かである事から、このため委任して君に授けよう。虓虎(吼える虎)(の如き威)を抗颺(昂揚)し、万里を兼統し、民の瘼(やまい)を救うのだ。中朝の王化を明らかに宣べ、遠邇(遠近)を懐け保ち、粛として賞罰を慎み、漢の祜(さち)を篤くし、天下に対(こた)えるのだ」

二年(222)に卒した。時に齢四十七。歿するに臨んで上疏するには 「臣の門宗二百余口は、曹孟徳に誅されてほぼ尽き、ただ従弟の馬岱がいるだけです。微宗の血食を継ぐ者として、深く陛下に託すものです。他に言う事はありません」。馬超に威侯と追諡した。子の馬承が嗣いだ。馬岱の位は平北将軍に至り、陳倉侯に進爵した。馬超の娘は安平王劉理に配偶された[6]

 馬超についての一つの疑問。「本当に鬼強かったのか?」 。強かったのは間違いないと思いますが、例えば許褚の視線にビビったり (許褚伝)、閻行に敗死しかけたり (『魏略』) と、出典が曹魏寄りの資料である点を差し引いても、関羽・張飛らに比べて個人的武勇は1ランク下のように思えます。あの曹操に王手をかける寸前まで行ったりと、局地戦での指揮能力は高そうなんですけどね…。
 ところで劉備に降った後の馬超は、それまでの暴れん坊将軍ぶりからは想像もできないほど精彩を欠いたもので、「馬超は蜀では活躍しなかった」 とまで言われる始末です。漢中界隈で北方や西方に対して睨みを利かせていたので、働きが無かった訳ではありませんが、成都陥落が最後の花道だったのは確かなようです。彭羕伝に 「超羈旅帰国、常懐危懼、聞羕言大驚、黙然不答」 とあるのが事実なら、一族根絶されて涼州を逐われたすえの張魯の宗教王国での生活が余程堪えて、人格が丸くなったのでしょう。

 
[1] 馬騰、字は寿成。馬援の後裔である。桓帝の時、その父の字は子碩といい、嘗て天水郡蘭干の県尉となった。後に官を失い、そのまま隴西に留まり、羌族と錯居した。家は貧しく妻は無く、かくて羌女を娶り、馬騰を生んだ。馬騰は若いときは貧しく家に産業も無く、常に彰山の中より材木を斫り、背負って城市に詣って販売することで自ら供給した。馬騰の為人りは身長八尺余、身体は洪大で、面鼻は雄異だったが、性は賢明厚篤で、人は多くが敬服した。

 馬超は血統を以て 「貴公子」 と呼ばれる事がありますが、上記の通り本家の恩恵すら及ばない、馬援の直系からは大きく外れた疎族に過ぎません。その社会的地位はほぼ庶民と大差なく、呂布や李傕らの輩と謂っていいでしょう。

 霊帝の末期、涼州刺史耿鄙は姦吏を任信し、民の王国ら及び氐・羌が反叛した。州郡では民中から勇力な者を募集・徴発してこれを討とうとし、馬騰はその中にいた。州郡はこれを異として軍の従事とし、部衆を典領させた。討賊に功があり、軍司馬を拝命し、後に功によって偏将軍に遷り、又た征西将軍に遷り、常に汧・隴の間に駐屯した。初平中、征東将軍を拝命した。この時、西州では穀物が少なく、馬騰は自ら上表し、軍人の多くが窮乏しており、池陽(咸陽市陽)の穀糧に就く事を求めた。かくて長平の岸頭に移屯した。将の王承らは馬騰が己を害する事を恐れ、かくして馬騰の営を攻めた。時に馬騰は近くに出ていて備えは無く、遂に破れて敗走し、西方へ上った。折しも三輔が乱れた為、再びは東に来ず、鎮西将軍韓遂と結んで異姓兄弟となり、始めは甚だ相親したが、後に転じて部曲を以て相い侵入し、更めて讐敵となった。馬騰が韓遂を攻めると、韓遂は敗走したが、手勢を糾合して還って馬騰を攻め、馬騰の妻子を殺した為、兵事は連なって解けなかった。建安の初、国家の綱紀はほぼ弛緩しており(、背命を罰すること無く)、かくして司隸校尉鍾繇・涼州牧韋端に和解させた。馬騰を徴して槐里(咸陽市興平)に還屯させ、転拝して前将軍とし、節を仮し、槐里侯に封じた。北は胡寇に備え、東は白騎に備え、士を待遇して賢人を進挙し、民の命を矜救(救恤)し、三輔は甚だ安んじてこれを愛した。
 十三年(208)、徴して衛尉とした。馬騰は自身の齢が老いているのを顧み、かくて入って宿衛した。曹操が丞相となった当初、馬騰の長子の馬超を辟したが、(官に)就かなかった。馬超は後に司隸校尉督軍従事となり、郭援を討った時に飛矢に中り、嚢にその足を包んで戦い、破って郭援の首を斬った。詔して徐州刺史に拝し、後に諫議大夫を拝命した。馬騰が入侍するに及び、詔で拝して偏将軍とし、馬騰の営を典領させた。又た馬超の弟の馬休を奉車都尉に、馬休の弟の馬鉄を騎都尉に拝し、その家属の皆なを徙して鄴に詣らせ、ただ馬超のみ独り留まった。 (『典略』)
[2] 初め曹操の軍が蒲阪に在って西渡しようとした時、馬超が韓遂に謂うには 「渭北で拒ぐのが妥当です。二十日を過ぎずに河東では穀糧が尽き、彼は必ず逃走しましょう」 韓遂 「渡らせてやるがいい。河中で困窮するのを見てやるのも愉快じゃないか!」 馬超の計は施されなかった。曹操はこれを聞くと 「馬児が死なねば、吾が葬地は無い」 (『山陽公載記』)
[3] 建安十六年(211)、馬超と関中の諸将の侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂らの凡そ十部は倶に反き、その軍兵は十万となり、同じく黄河・潼水に拠り、陣営を建て列ねた。この歳、曹操は西征し、馬超らと黄河・渭河の交界部で戦い、馬超らは敗走した。馬超は安定に至り、かくて涼州に奔った。詔して馬超の家属を収捕・族滅した。馬超は復た隴上でも敗れた。
 後に漢中に奔ると、張魯は都講祭酒とし、娘を妻せようとしたが、或る者が張魯を諫めるには 「この様に親近を愛さない人が、どうして他人を愛せましょう?」 張魯はかくして止めた。嘗て馬超が未だ反いていなかった時、その小婦(側室)の弟の董种は三輔に留まっていたが、馬超が敗れるに及び、董种は先んじて漢中に入った。正旦、董种が馬超に上寿した折、馬超は胸を搥いて血を吐きつつ 「闔門の百口は一旦にして命を同じくしてしまった。今、二人で相い賀す事などできようか?」 後にしばしば張魯に兵を求め、北して涼州を取ろうとし、張魯は遣って往かせたが、利は無かった。又た張魯の将の楊白らがその能を害そうとした為、馬超は遂に武都より氐中に逃入し、転奔して蜀に往った。この歳は建安十九年(214)である。 (『典略』)
[4] 劉備は馬超が至ったと聞くと、喜んで 「我れは益州を得たぞ」。かくして人を遣って馬超を止め、潜かに兵を与えた。馬超が到ると、軍を率いて城北に駐屯させた。馬超が至ると、一旬(十日)もせずに成都は潰えた。 (『典略』)
[5] 馬超は劉備に待遇を厚くされた為、劉備と語らうには常に劉備を字名で呼んだ。関羽は怒り、殺す事を請うた。劉備 「人が窮して我れに帰したのだ。卿らは怒り、我が字名を呼んだ事で殺そうとするが、どうやって天下に(信を)示すのか!」 張飛 「ならば礼を示してやりましょう」。明日に大いに宴会し、馬超は請じられて入ると、関羽・張飛が揃って刀を杖に直立していたが、馬超は坐席を顧みており、関羽・張飛が見えなかった。直立しているのを見ると大いに驚き、遂に再び劉備の字名を呼ぶ事は無かった。明日に歎じて 「俺は今こそ敗れた理由を知った。人主の字名を呼んだ為に、関羽・張飛に殺されかけたのだ」。以後、劉備を尊い事えた。 (『山陽公載記』)
―― 裴松之が調べ考えるに、馬超は窮して劉備に帰し、その爵位を得たのに、どうして傲慢となって劉備の字名を呼ぶであろう? しかも劉備は入蜀の際、関羽を留めて荊州を鎮守させ、関羽は未だ嘗て益土に在った事はないのだ。それゆえ関羽は馬超が帰降したと聞くと、書簡によって諸葛亮に、「馬超の人物・才幹は誰と比較できるか」 と問うたので、書伝の云うような事は有り得ない。関羽がどうして張飛と立直などできようか? 凡そ人が事を行なうのは、皆な可と思うからで、不可だと知れば行なわないものだ。馬超がもし果たして劉備の字名を呼んだのなら、亦た道理として妥当だと考えたからだ。関羽が馬超を殺す命令を請うた事を馬超は聞いていないのに、ただ二子が直立しているのを見ただけで、どうしてたちまちに字名を呼んだせいだと知り、関羽・張飛に殺されかけたと云うのか? 言葉が理りを経ていない事を、(私は)深く忿疾するものだ。袁暐 (献帝春秋)・楽資 (山陽公載記) らの諸々の記載が穢雑・虚謬である事はこの類いの通りであり、挙げて言う事など殆どできない。
[6] 馬超が入蜀した当初、その庶妻の董氏および子の馬秋は、張魯に留依した。張魯が敗れ、曹操はこれを得、董氏を閻圃に賜い、馬秋を張魯に付し、張魯は自らの手でこれを殺した。 (『典略』)
 

黄忠

 黄忠字漢升、南陽人也。荊州牧劉表以為中郎將、與表從子磐共守長沙攸縣。及曹公克荊州、假行裨將軍、仍就故任、統屬長沙守韓玄。先主南定諸郡、忠遂委質、隨從入蜀。自葭萌受任、還攻劉璋、忠常先登陷陳、勇毅冠三軍。益州既定、拜為討虜將軍。建安二十四年、於漢中定軍山撃夏侯淵。淵衆甚精、忠推鋒必進、勸率士卒、金鼓振天、歡聲動谷、一戰斬淵、淵軍大敗。遷征西將軍。是歳、先主為漢中王、欲用忠為後將軍、諸葛亮説先主曰: 「忠之名望、素非關・馬之倫也。而今便令同列。馬・張在近、親見其功、尚可喩指;關遙聞之、恐必不ス、得無不可乎!」先主曰:「吾自當解之。」遂與羽等齊位、賜爵關内侯。明年卒、追諡剛侯。子敍、早沒、無後。

 黄忠、字は漢升。南陽の人である。荊州牧劉表が中郎将とし、劉表の従子(おい)の劉磐と共に長沙の攸県を守った。曹操が荊州に克つに及び、行裨将軍を仮され、そのまま元の任に就き、長沙太守韓玄に統属した。劉備が南の諸郡を定めると、黄忠はかくて委質(臣従)し、入蜀に随従した。葭萌より任を受け、還って劉璋を攻めたが、黄忠は常に先登して陥陣し、勇毅は三軍の冠だった。益州が定まると、拝して討虜将軍とされた。
 建安二十四年(219)、漢中の定軍山に夏侯淵を撃った。夏侯淵の軍兵は甚だ精強で、黄忠は鋒を推してひたすら進み、士卒を勧率し、金鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かし、一戦して夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗した。征西将軍に遷った。
 この歳、劉備は漢中王になると、黄忠を用いて後将軍にしようとした。諸葛亮が劉備に説くには 「黄忠の名望は素より関羽・馬超の倫(たぐい)ではありません。しかし今、にわかに同列にしようとしておられる。馬超・張飛は近くに在って親しくその功を見ており、尚お旨を喩せましょうが、関羽が遥かにこれを聞けば、恐らくはきっと不悦(不快)としましょう。よからぬ事ではありませんか!」 劉備 「吾れ自身で解説しよう」 ついに関羽らと位を斉しくし、爵関内侯を賜った。明年に卒し、剛侯と追諡した。子の黄敍は早くに歿しており、後嗣は無かった。
 清の道光年間、成都市金牛区黄門口黄忠村の農地から“黄剛侯公諱字漢升之墓”の石碑を含む遺物が発見され、当地が黄忠の墓だと断定されました。この時、黄忠墓と黄忠祠が再建されましたが、あの文革の中で破壊され、現在では柩の外椁である“黄忠橋”だけが残っているそうです。又た、どうして黄忠の墓の外椁が橋型なのかは不明だそうです。
 

趙雲

 趙雲字子龍、常山真定人也。本屬公孫瓚、瓚遣先主為田楷拒袁紹、雲遂隨從、為先主主騎。及先主為曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走、雲身抱弱子、即後主也、保護甘夫人、即後主母也、皆得免難。遷為牙門將軍。先主入蜀、雲留荊州。

 趙雲、字は子龍。常山真定の人である。本来は公孫瓚に属し、公孫瓚が劉備を遣って田楷の為に袁紹を拒がせた際、趙雲も随従し、劉備の主騎となった[1]。劉備が曹操によって当陽の長阪に追われるに及び、妻子を棄てて南走すると、趙雲は身に弱子(幼児)を、即ち後主を抱え、甘夫人を、即ち後主の母を保護し、皆な難を免れる事ができた。遷って牙門将軍となった。劉備は入蜀の際、趙雲を荊州に留めた[2]

 先主自葭萌還攻劉璋、召諸葛亮。亮率雲與張飛等倶泝江西上、平定郡縣。至江州、分遣雲從外水上江陽、與亮會于成都。成都既定、以雲為翊軍將軍[3]。建興元年、為中護軍・征南將軍、封永昌亭侯、遷鎮東將軍。五年、隨諸葛亮駐漢中。明年、亮出軍、揚聲由斜谷道、曹真遣大衆當之。亮令雲與ケ芝往拒、而身攻祁山。雲・芝兵弱敵彊、失利於箕谷、然斂衆固守、不至大敗。軍退、貶為鎮軍將軍。

 劉備は葭萌より還って劉璋を攻めると、諸葛亮を召した。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて倶に長江を泝(さかのぼ)って西上し、郡県を平定した。江州に至り、趙雲を分遣して外の河水より江陽(瀘州市区)に上らせ、諸葛亮と成都で会同させた。成都が定まると、趙雲を翊軍将軍とした[3]
 建興元年(223)、中護軍・征南将軍となり、永昌亭侯に封じられ、鎮東将軍に遷った。五年(227)、諸葛亮に随って漢中に駐屯した。明年、諸葛亮が出軍し、斜谷道を経由すると揚声(喧伝)すると、曹真は大兵を遣ってこれに当らせた。諸葛亮は趙雲とケ芝とに往って拒がせ、身ずからは祁山を攻めた。趙雲・ケ芝の兵は弱く敵は彊く、箕谷で利を失ったが、軍兵を収斂して固守し、大敗には至らなかった。(全)軍が退き、貶されて鎮軍将軍となった[4]

 七年卒、追諡順平侯。

 七年(229)に卒した。追って順平侯と諡した。

 費禕に『費禕別伝』が、劉巴に『零陵先賢伝』があるように、既存の趙雲像の多くは『趙雲別伝』由来の成分です。そういったものを除いた趙雲伝の本文はこれだけで、名将・趙雲を再現するには些か不足しています。この巻三十六は、巻十七に相対させる目的で五人構成にしたんだと思われますが、あんな事がなければ趙雲ではなく魏延が載せられていた事でしょう。

 初、先主時、惟法正見諡;後主時、諸葛亮功コ蓋世、蔣琬・費禕荷國之重、亦見諡;陳祗寵待、特加殊奬、夏侯霸遠來歸國、故復得諡;於是關羽・張飛・馬超・龐統・黄忠及雲乃追諡、時論以為榮。雲子統嗣、官至虎賁中郎、督行領軍。次子廣、牙門將、隨姜維沓中、臨陳戰死。

 嘗て先主の時代は、ただ法正だけが諡された。後主の時代、諸葛亮の功徳は世を蓋い、蔣琬・費禕は国の重責を荷い、亦た諡された。陳祗は寵待され、特に殊更な推奨を加えられ、夏侯霸は遠来して国に帰し、それゆえ復た諡を得た。ここに関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠および趙雲が追諡され、時の論は栄誉とした[5]

 陳祗が歿したのは258年で、程なく諡号が贈られたものと思われます。関羽らへの追諡は260年の事で、趙雲に対しては更にその翌年になります。

 趙雲の子の趙統が嗣ぎ、官は虎賁中郎将・督行領軍に至った。次子の趙広は牙門将となり、姜維に随って沓中で陣に臨んで戦死した。
 
[1] 趙雲の身長は八尺、姿顔は雄偉で、本郡に挙げられ、義従の吏兵を率いて公孫瓚に詣った。時に袁紹が冀州牧を称しており、公孫瓚は州人が袁紹に従うのを深く憂えており、趙雲が来附した事を善事とし、戯れに趙雲に 「聞けば貴州の人は皆な袁氏を願っているとか。君はどうして独り心を迴らし、迷いから反る事ができたのか?」 趙雲が答えるには 「天下は訩訩として未だに孰れが是かを知らず、民は倒懸(逆さ吊り)の厄に直面しております。鄙州の論議は仁政に従うというもので、袁公を疎かにして明将軍に私淑するのではありません」 かくて公孫瓚と与に征討した。時に劉備も亦た公孫瓚に依託しており、常に趙雲を接納し、趙雲も深く自ら結託できた。趙雲は兄の喪で公孫瓚を辞去して暫く帰ったが、劉備は反らない事を知り、手を執って別れた。趙雲は辞去しつつ 「終には恩徳に背きはしません」 と。劉備が袁紹に就くと、趙雲は鄴でまみえた。劉備は趙雲と同床で眠臥し、密かに趙雲を糾合・募集に遣って数百人を得、皆な劉左将軍の部曲だと称したが、袁紹は知る事ができなかった。かくて劉備に随って荊州に至った。 (『趙雲別伝』)
[2] 嘗て、劉備が敗れると、趙雲は已に北に去ったという者があった。劉備は手戟をこれに擿(なげう)ち 「子龍は私を棄てて逃走などしない」 と。暫くして趙雲は至った。江南を平らげるのに従い、偏将軍となり、桂陽太守を兼領し、趙範に代った。趙範の寡嫂は樊氏といい、国色(傾国の容色)があり、趙範は趙雲に配偶しようとした。趙雲は辞退して 「相い与に同姓であり、卿の兄は猶お我が兄である」 固辞して許認しなかった。時に趙雲にこれを納れるよう勧める人があったが、趙雲は 「趙範は迫られて降っただけで、心中は未だに測れない。天下に女は少なくないのだ」 遂に娶らなかった。趙範は果たして逃走し、趙雲には纖介とて無かった。
 これより先、夏侯惇と博望で戦い、夏侯蘭を生獲していた。夏侯蘭は趙雲の郷里の人で、若少の頃に相い知っており、趙雲は劉備にこれを活かすよう申し、夏侯蘭が法律に明るいとして軍正にするよう薦めたが、趙雲は(以後は)自ら近付かなかった。その慎慮の類いはこの通りである。劉備が益州に入ると、趙雲は留営司馬を兼領した。この時、劉備の孫夫人は孫権の妹として驕豪で、多くの呉の吏兵を率い、縦横にして不法だった。劉備は趙雲が厳重であり、必ず整斉できるとし、特に任じて内事を掌らせた。孫権は劉備が西征したと聞くと、大いに舟船を遣って妹を迎えさせ、しかも夫人は内心で劉禅を率いて呉に還ろうとしたが、趙雲は張飛と兵を率いて長江を遮り、かくして劉禅は還る事ができた。 (『趙雲別伝』)
[3] 益州が定まった後、成都の中の屋舎および城外の園地や桑田を諸将に分賜しようとの議があった。趙雲はこれに反駁し 「霍去病は匈奴が滅んでいない事から家を用いませんでした。国賊は匈奴の比ではなく、未だ安きを求めるべきではありません。天下が全て定まった後、各々が桑梓に反り、本土にて帰耕するのが宜しいでしょう。益州の人民は兵革に罹ったばかりで、田宅は皆な帰還すべきであり、今は居に安んじて生業に復帰させ、然る後に役調し、その歓心を得るべきです」 劉備は即座にこれに従った。
 夏侯淵が敗れると、曹操は漢中の地を争い、北山の下で糧米を運輸すること数千万嚢だった。黄忠は取ろうと考え、趙雲の兵は黄忠の取米に随った。黄忠が期限を過ぎても還らない為、趙雲は数十騎を率いて軽装で囲を出、黄忠らを迎えに視察した。曹操が兵を揚げて大いに出てくるのに遭遇し、趙雲は曹操の前鋒に撃たれ、戦おうとした時にその大軍が至り、偪られると前んでその陣に突し、闘いつつ退却した。曹操の軍は敗れたものの、已に復た集合し、趙雲は敵を陥して囲に還赴した。将の張著が創を被ると、趙雲は復た馳馬して敵陣に還って張著を迎えた。曹操の軍は追って囲に至ったが、この時、沔陽県長の張翼が雲囲の内にあり、張翼は閉門して拒守しようとしたが、趙雲は入営すると更めて大いに開門させ、旗を伏せて鼓を休ませた。曹操の軍は趙雲に伏兵があるかと疑い、引き去った。趙雲は鼓を雷と撃たせて天を震わせ、惟だ戎弩を曹操の軍の後方に射ち、曹操の軍は驚駭して自ら相い蹂踐し、漢水に堕ちて死ぬ者が甚だ多かった。劉備は明旦に自ら趙雲の営囲に来至して昨日の戦処を視察して、「子龍は一身すべてが胆である」 と。楽を作して飲宴すること暝(日没)に至り、軍中では趙雲に称号して虎威将軍とした。
 孫権が荊州を襲うと劉備は大いに怒り、孫権を討とうとした。趙雲が諫めるには 「国賊は曹操であり、孫権ではありません。しかも先に魏を滅ぼせば、呉は自ずと服するのです。曹操が斃れたとはいえ、子の曹丕が簒盜しました。衆心に因って早々に関中を図り、黄河・渭河の上流に拠って凶逆を討てば、関東の義士は必ず糧を携え馬に鞭して王師を迎えるでしょう。魏を置いて先に呉と戦うなど以ての外です。兵勢とは一たび交えれば、にわかには解けないものです」 劉備は聴かず、かくて東征し、趙雲を留めて江州を督させた。劉備が秭帰で利を失い、趙雲が兵を進めて永安に至ると、呉軍は已に退いていた。 (『趙雲別伝』)
[4] 諸葛亮は 「街亭の軍が退く際、兵将は再びは相い録する事ができなかったが、箕谷の軍が退く際、兵将は初めから相い失わなかった。どうしてか?」 ケ芝が答えるには 「趙雲が自身で後方を断ち、軍資・什物はほぼ棄てず、兵将は相い失う事がなかったのです」 趙雲は軍資の余絹を持っており、諸葛亮は将士に分賜させようとしたが、趙雲は 「軍事には利が無かったのに、どうして賜うのです? これらは悉く赤岸の府庫に入れ、十月を待って冬賜として頂きたい」 諸葛亮は大いに善しとした。 (『趙雲別伝』)
[5] 後主の詔 「趙雲は昔に先帝に従い、功積が著しかった。朕は幼沖で艱難を渉塗したが、(趙雲の)忠順に頼恃して危険を越えた。諡とは元勲を叙するものであり、宮外での議では趙雲に諡するのが妥当であると」。大将軍姜維らが議し、「趙雲は昔に先帝に従い、労績は既に顕著で、天下を経営し、法度を遵奉し、功効を記すべきであります。当陽の役での義挙は金石を貫き、上を護衛した忠を君は賞せんと念じられ、下を厚遇する礼に臣はその死を忘れるものです。死者に知覚があれば不朽とするに足り、生者が恩に感じるなら、殞身(挺身)するに足るでしょう。謹んで諡法を調べるに、柔賢慈恵を順といい、執事して班序のある事を平といい、禍乱を克定するものも平といいます。趙雲に順平侯と諡するのが相応でありましょう。 (『趙雲別伝』)
 

 評曰:關羽・張飛皆稱萬人之敵、為世虎臣。羽報效曹公、飛義釋嚴顏、並有國士之風。然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短取敗、理數之常也。馬超阻戎負勇、以覆其族、惜哉!能因窮致泰、不猶愈乎!黄忠・趙雲彊摯壯猛、並作爪牙、其灌・滕之徒歟?

 評に曰く:関羽・張飛は皆な万人の敵と称され、世の虎臣である。関羽は曹公に効を報じ、張飛は義にて厳顔を釈ち、揃って国士の風があった。しかし関羽は剛にして自ら矜り、張飛は暴にして恩愛無く、短所によって敗れたのは理数(道理・天運)の常である。馬超は戎事を阻(たの)んで勇を負い、そのため血族を傾覆した。惜しい哉! 窮から泰を致すことが出来たのだから、まだましであろう! 黄忠・趙雲は彊摯・壮猛であり、揃って爪牙を作したのだから、灌嬰滕侯の徒輩であろうか?

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