三國志修正計画

三國志卷一 魏志一/武帝紀 (三)

武帝紀

 十三年春正月、公還鄴、作玄武池以肄舟師。
漢罷三公官、置丞相・御史大夫。夏六月、以公為丞相。

 十三年(208)春正月、曹公は鄴に帰還し、玄武池を作らせて舟師を肄(演習)させた。
漢は三公の官を罷め、丞相・御史大夫を置いた。夏六月、曹公を丞相とした[66]
 正月、司徒趙温を罷免した。六月、三公の官を罷めて丞相・御史大夫を置き、曹操自ら丞相となった。 (『後漢書』)

 曹操が制度上でも権力を一極集中させたものとして知られる改制で、首相制が大総統制になったようなものです。この改制のために罷免された趙温は、名家の人としてお飾りとはいえ遷都前より長らく司徒の職にありました。罷免理由は、曹丕を司徒府に辟召した「阿諛追従」(涙)。

 秋七月、公南征劉表。八月、表卒、其子j代、屯襄陽、劉備屯樊。九月、公到新野、j遂降、備走夏口。公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。乃論荊州服從之功、侯者十五人、以劉表大將文聘為江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩・ケ義等。 益州牧劉璋始受徴役、遣兵給軍。十二月、孫權為備攻合肥。公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。權聞憙至、乃走。公至赤壁、與備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。

 秋七月、曹公は劉表に南征した。
 八月丁未、光禄勲郗慮を御史大夫とした。壬子、曹操が太中大夫孔融を殺し、三族を夷した。

 孔融の処刑は郗慮の御史大夫就任の5日後です。しかも“曹操が殺した”と書く事で、曹操が孔融を処刑する為に郗慮を権限官に就任させたと連想できる作りになっています。文人って怖〜。

八月、劉表が卒し、その子の劉jが代って襄陽に駐屯した。劉備は樊に駐屯した。九月、曹公が新野に到った。劉jはかくて降り、劉備は夏口(武漢市区)に逃走した。曹公は江陵に軍を進め、荊州の吏民に布令を下して更始を与にせんとした。かくして荊州を服従させた功を論じ、封侯は十五人となり、劉表の大将の文聘を江夏太守として旧兵を統べさせ、荊州の名士の韓嵩・ケ義らを挙げて用いた[67]
益州牧劉璋が始めて役夫の徴発を受容し、兵を派遣して軍に供給した。
十二月、孫権が劉備に与して合肥を攻めた。曹公は江陵より劉備を征伐して巴丘に至り、張憙を遣って合肥を救援させた。孫権は張憙が至ると聞くと退走した。曹公は赤壁に至って劉備と戦ったが、利がなく、大疫が生じて吏士の多くが死に、かくして軍を率いて帰還した。劉備はとうとう荊州の江南諸郡を領有した[68]

 赤壁が素っ気ないですね。どちらかというとやや反曹操風味の『後漢書』すら、「大いに敗る」 とは書いていません。水軍は潰滅。輜重も物資も失った。病死者も少なくはなかったが戦死者は少なかった。そんなところでしょうか。

 十四年春三月、軍至譙、作輕舟、治水軍。秋七月、自渦入淮、出肥水、軍合肥。辛未、令曰:「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絶廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」置揚州郡縣長吏、開芍陂屯田。十二月、軍還譙。

 十四年(209)春三月、軍が譙に至り、軽舟を作って水軍を治(調練)めた。秋七月、渦水より淮水に入り、肥水に出て合肥に駐軍した。辛未に布令し
「近来、軍はしばしば征行し、疫気に遇ったこともあり、吏士が死亡して帰らなかった家では怨曠し、百姓は流離している。仁者がどうして楽しもうか? 已むを得ない事であったのだ。戦死者の家で基業が無く自存できない者があれば、県官は廩(官給米)を絶やしてはならない。長吏は存恤撫循して吾が意とせよ」
揚州の郡県に長吏を置き芍陂に屯田を開いた。十二月、軍は譙に帰還した。

 今頃になって 「置揚州郡県長吏」 とは妙な事です。孫権が叛旗を翻したから方面の人事を刷新したとでも? 寧ろ廬江地方の雷緒・陳蘭・梅成らが平定された結果と思われます。彼ら、200年頃に揚州刺史劉馥の招撫に応じたんですが、赤壁の役の影響で再び曹操に叛いたので。その間の江北揚州の実態は、臧覇らの徐州三郡と同じで曹操の直接支配が及んでいなかったのでしょう。張遼・于禁・臧覇・張郃ら錚々たる外様の諸将が潜山の陳蘭・梅成らの討伐に苦心し、その様が各列伝で詳述されているのも、裏を反せばこの頃になっても江西には曹操の威令が及んでいなかったという事なのでしょう。
 呉志の建安十九年の前説として『これより前、曹操が江北からの徙民を布告したので、これを拒否る民衆が十余万戸が廬江・九江・蘄春・広陵から江東に奔り、合肥以南では皖城(安徽省安慶市潜山)だけが残った』とあります。建安十四年の長吏配置が失敗して徙民に転換したという事でしょうか。
 なお、この歳は江陵を曹仁周瑜が争っています。曹仁の駐兵力は不明ですが、周瑜の兵力は数万とあります。曹操は合肥に出陣した一方で江陵に援軍を派遣した痕跡は見えませんので、合肥と江陵の両面作戦が展開できないほどには曹操軍は痛手を蒙っていたものと思われます。戦術指揮官としての曹仁の能力を信頼していたという事もあるのでしょうが、曹操にとっての優先度は合肥>江陵なのですね。曹仁は苦戦の末に一発逆転のチャンスを作りながらも結局、江陵を棄てて撤退しています。

 十五年春、下令曰:「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定、此特求賢之急時也。『孟公綽為趙・魏老則優、不可以為滕・薛大夫』。若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋、唯才是舉、吾得而用之。」冬、作銅雀臺。

 十五年(210)春、布令を下した。
「古えより天命を受けたり中興した君主で、賢人君子を得て共に天下を治めなかった者がいたであろうか! 賢人を得ようとて閭巷(郷巷)に出なければ、どうして幸いに互いに遇うことが出来るであろう? 上の者が人材を求めないだけである。今、天下は尚お未だに平定されず、これぞ特に緊急に賢者を求める時である。“孟公綽は趙・魏の家老としては優秀でも、滕・薛の大夫にはなれない”とか[※]。もし廉潔の士である事を必須として用いたなら、斉桓公はどうして世に霸者となれたであろう! 今、天下に被褐懐玉し、渭水の浜で釣する(姜子牙の如き)者はいないか? 又た嫂を盗み賂金を受け取り、未だ魏無知に遇っていない(陳平の如き)者はいないか? 二三子(諸君)よ、佐けて我に仄陋(卑賤の人)を明揚してくれ。唯だ才あらばこれを挙げてくれ。吾れが得たなら用いよう (とにかく人材を挙げてくれ。人格も年齢も問わない。才能さえあれば!) 

※ 孟公綽は清廉潔癖で知られた人物。実務には疎いと評された。

冬、銅雀台を作った[69]

 十六年春正月、天子命公世子丕為五官中郎將、置官屬、為丞相副。太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵・徐晃圍破之。張魯據漢中、三月、遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。

 十六年(211)春正月[70]、天子が命じて曹公の世子の曹丕を五官中郎将とし、官属を置き、丞相の副とした。太原郡の商曜らが大陵(山西省呂梁市文水)で叛き、夏侯淵・徐晃を遣って攻囲して破った。張魯が漢中に拠っており、三月、鍾繇を遣って討たせた。曹公は夏侯淵らに河東を出て鍾繇と合流させた。

 是時關中諸將疑繇欲自襲、馬超遂與韓遂・楊秋・李堪・成宜等叛。遣曹仁討之。超等屯潼關、公敕諸將:「關西兵精悍、堅壁勿與戰。」
秋七月、公西征、與超等夾關而軍。公急持之、而潛遣徐晃・朱靈等夜渡蒲阪津、據河西為營。公自潼關北渡、未濟、超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊、賊亂取牛馬、公乃得渡、循河為甬道而南。賊退、拒渭口、公乃多設疑兵、潛以舟載兵入渭、為浮橋、夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵撃破之。超等屯渭南、遣信求割河以西請和、公不許。九月、進軍渡渭。
超等數挑戰、又不許;固請割地、求送任子、公用賈詡計、偽許之。韓遂請與公相見、公與遂父同歳孝廉、又與遂同時儕輩、於是交馬語移時、不及軍事、但説京都舊故、拊手歡笑。既罷、超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也。」超等疑之。

 この時、関中の諸将は鍾繇が自分達を襲撃するつもりだと疑い、馬超はとうとう韓遂・楊秋・李堪・成宜らと叛いた。

 馬超の挙兵理由は独立の保持です。各所で云われていますが、馬騰が殺されたから馬超が叛いたのではありません。馬騰は衛尉として在京していて、翌年に馬超のせいで殺されます。

曹仁を遣ってこれを討った。馬超らは潼関に駐屯し、曹公は諸将に命じた 「関西の兵は精悍である。堅壁して戦ってはならない」
秋七月、曹公は西征し[71]、馬超らと潼関を夾んで駐軍した。曹公は急(きび)しく対峙しつつ、潜かに徐晃・朱霊らを遣って夜半に蒲阪津を渡らせ、河西に拠って屯営させた。曹公は潼関より北渡したが、成功する前に馬超が船に赴いて急しく戦った。校尉丁斐が牛馬を放って賊への餌とし、賊は乱れて牛馬を取り、曹公はかくして渡る事が出来[72](有名な許褚の奮戦はこのとき)、河を循って甬道を作って南した。賊が退いて渭口で拒ぐと、曹公は多くの疑兵を設け、潜かに舟に兵を載せて渭水に入り、浮橋を作り、夜間に兵を分けて渭南に軍営を構築させた。賊が軍営に夜攻すると、伏兵によって撃破した。馬超らは渭南に駐屯し、黄河以西の割譲を求めて以て和を請うたが、曹公は許さなかった。九月、軍を進めて渭水を渡った[73]
馬超らはしばしば挑戦したが、又た(応戦を)許さなかった。あくまでも割地を請い、任子(人質)を送ることを求めてきた。曹公は賈詡の計策を用い、偽って許した。韓遂が曹公と会見する事を請うた。曹公と韓遂の父は同期の孝廉であり、韓遂とは同年輩だった。こうして馬を交えて長らく語り合ったが、軍事には言及せず、ただ京都での旧故を説いて拊手歓笑するだけだった。終った後に馬超らが韓遂に 「曹公は何と言った?」 と問うと、韓遂は 「何も言わなかった」 と答えたが、馬超らは猜疑した[74]

他日、公又與遂書、多所點竄、如遂改定者;超等愈疑遂。公乃與克日會戰、先以輕兵挑之、戰良久、乃縱虎騎夾撃、大破之、斬成宜・李堪等。遂・超等走涼州、楊秋奔安定、關中平。諸將或問公曰:「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東撃馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也?」公曰:「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、吾故盛兵向潼關;賊悉衆南守、西河之備虚、故二將得擅取西河;然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。連車樹柵、為甬道而南、既為不可勝、且以示弱。渡渭為堅壘、虜至不出、所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。吾順言許之、所以從其意、使自安而不為備、因畜士卒之力、一旦撃之、所謂疾雷不及掩耳、兵之變化、固非一道也。」
始、賊毎一部到、公輒有喜色。賊破之後、諸將問其故。公答曰:「關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、為功差易、吾是以喜。」

他日、曹公は韓遂に書を与えたが、多くの所を點竄(塗潰し改竄)し、韓遂が改定者の如くした。馬超らはいよいよ韓遂を猜疑した。

 この“賈詡の計略に踊らされる間抜けな馬超と韓遂”という図ですが、袁氏が滅ぼされてからこっち、韓遂と馬騰との関係が良好でなかった事は各伝で言及されていて、馬騰が現地を離れたから韓遂は馬超と和解した、という単純な流れには収まりません。馬超は父を捨て駒にして挙兵する程の反朝廷的な人物ですが、一方の韓遂は雍州で叛いた張猛を討つのに朝廷の裁可を仰いだりと、馬超に比べずっと朝廷寄りの姿勢です。賈詡の計略はこうした両者の基本姿勢の乖離に乗じたもので、馬超もかねてから韓遂の姿勢を知っていたからこそ簡単に引っかかってしまったと謂えます。

曹公はかくして日を定めて会戦し、先ず軽装兵で挑み、交戦がやや長引くと虎騎を縦(はな)って夾撃して大破し、成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超らは涼州に敗走し、楊秋は安定に奔り、関中は平定された。諸将のある者が問うには 「当初、賊は潼関を守って渭北の道は欠けておりましたのに、河東から馮翊を撃たずに反って潼関を守り、日を措いてから北渡したのはどうしてでしょう?」
曹公 「賊は潼関を守っており、もし吾れが河東に入れば、賊は必ず引還して諸々の渡津を守ったであろう。そうすれば西河には渡れまい。それゆえ兵を盛んにして潼関に向かったのだ。賊が軍勢を尽く南して守れば、西河の守備は虚かとなる。だから二将は意のままに西河を取れたのだ。然る後に軍を率いて北渡しても、賊が吾れと西河を争えなかったのは、二将の軍が有ったからだ。車を連ね柵を樹て、甬道[※]を為して南し[75]、勝てなくしておいてから弱きを示したのだ。渭水を渡って塁を固くし、賊虜が来ても出ずに驕慢にさせたからこそ、賊は塁を設営せずに割地を求めたのだ。吾れは言に順ってこれを許し、その意に従ってみせたのは、安心して備えさせない為だった。こうして士卒の力を畜え、一たび撃てば所謂る“疾雷は掩耳すること及ばず”というものだ。兵略の変化とは一道に固定されるものではないのだ」
当初、賊の一部隊が到着する毎に曹公には喜色があった。賊を破った後に諸将がその理由を問うと、曹公が答えるには 「関中は長遠で、もし賊が各々険阻に依れば、これを征伐しても一・二年では平定できまい。このように皆なが来集すれば、軍勢が多いといえども互いに帰服などできず、軍には主に適う者が無く、一挙に滅ぼせるのだ。功を為すのがやや容易になり、だから喜んだのだ」

※ 甬道は両側を障壁で護られた道。天子専用の道路や、戦場での軍糧の輸送路を指す。

 冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定。秋降、復其爵位、使留撫其民人。十二月、自安定還、留夏侯淵屯長安。

 冬十月、軍は長安より楊秋に北征し、安定を攻囲した。楊秋が降り、その爵位を回復させ、留めて民人を慰撫させた[76]。十二月、安定より帰還し、夏侯淵を留めて長安に駐屯させた。

 十七年春正月、公還鄴。天子命公贊拜不名、入朝不趨、劍履上殿、如蕭何故事。馬超餘衆梁興等屯藍田、使夏侯淵撃平之。割河内之蕩陰・朝歌・林慮、東郡之衛國・頓丘・東武陽・發干、鉅鹿之廮陶・曲周・南和、廣平之任城、趙之襄國・邯鄲・易陽以益魏郡。

 十七年(212)春正月、曹公が鄴に帰還した。天子が曹公に賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿を命じ、蕭何の故事の通りだった。

 天子に拝謁する際に諱を言わず、殿中でも小走りに趨る必要がなく、剣を帯びたまま御前に出ても良いという有名なアレです。

馬超の残党の梁興らが藍田に駐屯しており、夏侯淵に撃たせて平定した。河内郡の蕩陰・朝歌・林慮、東郡の衛国・頓丘・東武陽・発干、鉅鹿郡の廮陶・曲周・南和、広平郡の任城、趙郡の襄国・邯鄲・易陽を割いて魏郡に益した。

 翌年には曹操の魏公封建があります。漢の公爵は皇族の爵位として基本的に郡を単位とするもので、魏郡の郡治の鄴は曹操の拠点でもありますから、この時点で曹操が魏郡を以て封建される事がほぼ確定したと云っていいでしょう。東漢の魏郡は15県を領していましたから、ほぼ倍増です。荀ケの死との前後関係が気になる処です。

 五月、衛尉馬騰を誅し、三族を夷(たいら)ぐ。八月、馬超が涼州を破り、刺史韋康を殺した。(『後漢書』)

 冬十月、公征孫權。

 十八年春正月、進軍濡須口、攻破權江西營、獲權都督公孫陽、乃引軍還。詔書并十四州、復為九州。夏四月、至鄴。

 冬十月、曹公が孫権を征伐した。

 十八年(213)春正月、濡須口に進軍し、攻めて孫権の江西の軍営を破り、孫権の都督の公孫陽を獲え、かくして軍を率いて帰還した。詔書によって十四州を併合し、復た九州とした[77]。夏四月、鄴に至った。

 呉主伝でも勝ったと云っています。概して小競り合い程度に終始して、長期戦を嫌った曹操が増水期の前に撤収した、というあたりでしょうか。公孫陽の“都督”はもちろん曹操を持ち上げる為の修飾で、実際はせいぜい“督”でしょう。諸葛亮の十万の矢の元ネタがあった戦役でもありました。

 五月丙申、天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公曰:朕以不コ、少遭愍凶、越在西土、遷於唐・衞。當此之時、若綴旒然、宗廟乏祀、社稷無位;羣凶覬覦、分裂諸夏、率土之民、朕無獲焉、即我高祖之命將墜於地。朕用夙興假寐、震悼於厥心、曰「惟祖惟父、股肱先正、其孰能恤朕躬」?乃誘天衷、誕育丞相、保乂我皇家、弘濟於艱難、朕實ョ之。今將授君典禮、其敬聽朕命。
昔者董卓初興國難、羣后釋位以謀王室、君則攝進、首啓戎行、此君之忠於本朝也。後及黄巾反易天常、侵我三州、延及平民、君又翦之以寧東夏、此又君之功也。韓暹・楊奉專用威命、君則致討、克黜其難、遂遷許都、造我京畿、設官兆祀、不失舊物、天地鬼神於是獲乂、此又君之功也。袁術僭逆、肆於淮南、懾憚君靈、用丕顯謀、蘄陽之役、橋蕤授首、稜威南邁、術以隕潰、此又君之功也。迴戈東征、呂布就戮、乘轅將返、張楊殂斃、眭固伏罪、張繍稽服、此又君之功也。袁紹逆亂天常、謀危社稷、憑恃其衆、稱兵内侮、當此之時、王師寡弱、天下寒心、莫有固志、君執大節、精貫白日、奮其武怒、運其神策、致屆官渡、大殲醜類、俾我國家拯于危墜、此又君之功也。濟師洪河、拓定四州、袁譚・高幹、咸梟其首、海盜奔迸、K山順軌、此又君之功也。烏丸三種、崇亂二世、袁尚因之、逼據塞北、束馬縣車、一征而滅、此又君之功也。劉表背誕、不供貢職、王師首路、威風先逝、百城八郡、交臂屈膝、此又君之功也。馬超・成宜、同惡相濟、濱據河・潼、求逞所欲、殄之渭南、獻馘萬計、遂定邊境、撫和戎狄、此又君之功也。鮮卑・丁零、重譯而至、(單于)・白屋、請吏率職、此又君之功也。君有定天下之功、重之以明コ、班敍海内、宣美風俗、旁施勤教、恤慎刑獄、吏無苛政、民無懷慝;敦崇帝族、表繼絶世、舊コ前功、罔不咸秩;雖伊尹格于皇天、周公光于四海、方之蔑如也。
 朕聞先王並建明コ、胙之以土、分之以民、崇其寵章、備其禮物、所以藩衞王室、左右厥世也。其在周成、管・蔡不靜、懲難念功、乃使邵康公賜齊太公履、東至於海、西至於河、南至於穆陵、北至於無棣、五侯九伯、實得征之、世祚太師、以表東海;爰及襄王、亦有楚人不供王職、又命晉文登為侯伯、錫以二輅・虎賁・鈇鉞・秬鬯・弓矢、大啓南陽、世作盟主。故周室之不壞、繋二國是ョ。今君稱丕顯コ、明保朕躬、奉答天命、導揚弘烈、緩爰九域、莫不率俾、功高於伊・周、而賞卑於齊・晉、朕甚恧焉。朕以眇眇之身、託於兆民之上、永思厥艱、若渉淵冰、非君攸濟、朕無任焉。今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡、封君為魏公。錫君玄土、苴以白茅;爰契爾龜、用建冢社。昔在周室、畢公・毛公入為卿佐、周・邵師保出為二伯、外内之任、君實宜之、其以丞相領冀州牧如故。又加君九錫、其敬聽朕命。以君經緯禮律、為民軌儀、使安職業、無或遷志、是用錫君大輅・戎輅各一、玄牡二駟。君勸分務本、穡人昏作、粟帛滯積、大業惟興、是用錫君袞冕之服、赤舃副焉。君敦尚謙讓、俾民興行、少長有禮、上下咸和、是用錫君軒縣之樂、六佾之舞。君翼宣風化、爰發四方、遠人革面、華夏充實、是用錫君朱戸以居。君研其明哲、思帝所難、官才任賢、羣善必舉、是用錫君納陛以登。君秉國之鈞、正色處中、纖毫之惡、靡不抑退、是用錫君虎賁之士三百人。君糾虔天刑、章厥有罪、犯關干紀、莫不誅殛、是用錫君鈇鉞各一。君龍驤虎視、旁眺八維、掩討逆節、折衝四海、是用錫君彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君以温恭為基、孝友為コ、明允篤誠、感于朕思、是用錫君秬鬯一卣、珪瓚副焉。魏國置丞相已下羣卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。往欽哉、敬服朕命!簡恤爾衆、時亮庶功、用終爾顯コ、對揚我高祖之休命!

 五月丙申、天子が御史大夫郗[78]に節を持たせ、曹公を魏公に策命した。
「朕は不徳で少時から愍凶に遭い、越えて西土に在り、唐・衛に遷った(唐は河東郡、衛は河内郡。當此之時、若綴旒然[79]、宗廟乏祀、社稷無位;羣凶覬覦、分裂諸夏、率土之民、朕無獲焉、即我高祖之命將墜於地。朕用夙興假寐、震悼於厥心、曰「惟祖惟父、股肱先正[80]、其孰能恤朕躬」?乃誘天衷、誕育丞相、保乂我皇家、弘濟於艱難、朕實ョ之。今將授君典禮、其敬聽朕命。以上、絶望的な心情を抽象的に述べているので飛ばしました
昔、董卓が初めて国難を興し、群公が釈位して王室を謀ろうとした時[81]、君は摂進して首魁となって戎行(軍事)を啓いた。これは君が本朝に忠だったからだ。後に黄巾が天常に反易し、我が三州(青・冀・兗)を侵して平民に(害が)延及したが、君は又たこれを翦滅して東夏を寧んじた。これも又た君の功である。韓暹・楊奉が威命を専らに用いた時、君は討伐を致して難を克黜し、かくて許都に遷り、我が京畿を造り、官を設け祀を兆(はじ)め、旧物(旧典・器物)を失わせず、天地鬼神は乂(やす)きを獲た。これも君の功である。袁術が僭逆して淮南に肆(専横)したとき、君が御霊が丕顕(大いなる)の謀策を用いる事を懾憚した。蘄陽の役で橋蕤は首を授け、稜威(威光)は南に邁進し、袁術は隕潰した。これも君の功である。戈を迴らして東征すれば呂布は戮に就き、帰還の途上で張楊は殂斃され、眭固は罪に伏し、張繡は稽服(詣伏)した。これも君の功である。
袁紹が天常に逆乱し、社稷を危うくせんと謀り、その軍勢に憑恃して兵を称し(誇示)て内に(漢室を)侮った。当時、王師は寡弱で天下は心を寒くし、固志あるものは莫かった。君は大節を執り、精器は白日を貫き、武を奮わせ怒り、神策を運用して官渡で届(壊)を致して大いに醜類を殲滅し[82]、我が国家を危墜から拯救した。これも君の功である。師は洪河(大河)を渡り、四州を拓定し、袁譚・高幹は皆なその首を梟し、海盜は奔迸し、黒山は順軌(帰順)した。これも君の功である。烏丸の三種は二世を通じて崇乱し、袁尚はこれに依って塞北に逼拠したが、(君は)束馬縣車して一たび征伐して滅ぼした。これも君の功である。劉表が背誕して貢職を供えなかったが、王師が路に魁るや威風は先逝し、百城八郡は交臂屈膝した。これも君の功である。馬超・成宜は悪を同じくして互いに済い、黄河・潼関の浜(ほとり)に拠り、欲望を逞しくして求めたが、渭南にて殄戮し、献馘は万を以て計え[83]、かくて辺境を平定し、戎狄を撫和した。これも君の功である。
鮮卑・丁零は通訳を重ねて到来し、箪于(契丹?)・白屋(靺鞨?)は吏(の派遣)を請うて職貢を率いた。これも君の功である。君には天下平定の功が有り、加えて明徳があり、海内を班敍(秩序)し、風俗を宣美し、あまねく勤教を施し、刑獄は恤慎となって吏に苛政をする者は無く、民には懐慝(悪事を抱く)する者は無い。敦く帝族を崇い、上表して絶えた世系を継がせ、旧徳前功にて秩を回復させないものはなかった。伊尹は皇天を格(ただ)し、周公は四海を光(て)らしたといえど、これらに比べれば蔑すようなものである。
 朕聞先王並建明徳、胙之以土、分之以民、崇其寵章、備其礼物、所以藩衛王室、左右厥世也。其在周成、管・蔡不静、懲難念功、乃使邵康公賜斉太公履、東至於海、西至於河、南至於穆陵、北至於無棣、五侯九伯、実得征之、世祚太師、以表東海;爰及襄王、亦有楚人不供王職、又命晋文登為侯伯、錫以二輅・虎賁・鈇鉞・秬鬯・弓矢、大啓南陽、世作盟主。故周室之不壊、繋二国是頼。今君称丕顕徳、明保朕躬、奉答天命、導揚弘烈、緩爰九域、莫不率俾[84]、功高於伊・周、而賞卑於斉・晋、朕甚恧焉。朕以眇眇之身、託於兆民之上、永思厥艱、若渉淵冰、非君攸濟、朕無任焉。
 今日までの君の功は伊尹・周公以上である。なのに褒賞は太公望や晋文公にも劣っているのが心苦しい。
 以下、面倒なので賞賜の内容と説明の、所謂る魏公封爵と九錫授与を一部のみ意訳します。

冀州の河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原の十郡を以て魏公に封じよう(本来、河東郡・河内郡は司隷部の、平原郡は青州の所属です。これが九州制回帰の効果)。 錫君玄土、苴以白茅;爰契爾亀、用建冢社。周では畢公・毛公が朝廷を主宰し、周公・召公が方伯として諸侯を治めたが、君は両者を兼ねているから丞相と領冀州牧はそのままだ。又加君九錫、其敬聴朕命。以君経緯礼律、為民軌儀、使安職業、無或遷志、
錫の一:祭祀用の馬車=大輅と戦闘指揮用の馬車=戎輅を各一輛に、黒馬四頭を二セット。君勧分務本、穡人昏作[85]、粟帛滞積、大業惟興、
錫の二:天子専用の袞冕服と赤い沓君敦尚謙譲、俾民興行、少長有礼、上下咸和、
錫の三:軒懸の楽と六佾の舞。君翼宣風化、爰発四方、遠人革面、華夏充実、
錫の四:朱塗りの扉の使用。君研其明哲、思帝所難、官才任賢、羣善必挙、
錫の五:貴人はなるべく衆目に触れてはならないので、台階の左右と上を覆う為の納陛の使用。君秉国之鈞、正色処中、纖毫之悪、靡不抑退、
錫の六:親衛兵としての虎賁三百人。君糾虔天刑、章厥有罪[86]、犯関干紀、莫不誅殛
錫の七:刑罰の象徴としての一対の斧鉞。君龍驤虎視、旁眺八維、掩討逆節、折衝四海、
錫の八:討伐の象徴としての朱弓一、朱箭百と黒弓十、黒箭千のセット。君以温恭為基、孝友為徳、明允篤誠、感于朕思、
錫の九:祭祀用に黒黍と香草で作った酒一樽と玉杓のセット。
魏国には丞相以下百官を置き、漢初の(半独立国としての)諸侯王の制度を踏襲してよし。
往欽哉、敬服朕命!簡恤爾衆、時亮庶功、用終爾顕徳、対揚我高祖之休命![87]

 秋七月、始建魏社稷宗廟。天子聘公三女為貴人、少者待年于國。九月、作金虎臺、鑿渠引漳水入白溝以通河。冬十月、分魏郡為東西部、置都尉。十一月、初置尚書・侍中・六卿。

 秋七月、始めて魏の社稷・宗廟を建てた。天子が曹公の三人の娘を聘(まね)いて貴人(皇后に亜ぐ位階)としたが、年少(の娘)は適齢まで国で待機させた[88]。九月、(銅雀台の南に接して)金虎台を作り、運河を鑿って漳水を引き、白溝に入れて黄河に通した。
冬十月、魏郡から分けて東部・西部を為し、都尉を置いた。

 魏はこれで魏郡・東部都尉・西部都尉の三部構成となりました。会稽郡や遼東郡など郡内に部都尉を置くこと自体は珍しくありませんが、内地の安定した郡に置くのは異例の事です。やはりどう考えても魏郡が広過ぎたという事でしょう。後に漢魏禅譲と伴に東部は陽平郡、西部は広平郡に再編されます。

十一月、(魏国に)初めて尚書・侍中・六卿を置いた[89]

 馬超在漢陽、復因羌胡為害、氐王千萬叛應超、屯興國。使夏侯淵討之。

 十九年春正月、始耕籍田。南安趙衢・漢陽尹奉等討超、梟其妻子、超奔漢中。韓遂徙金城、入氐王千萬部、率羌胡萬餘騎與夏侯淵戰、撃、大破之、遂走西平。淵與諸將攻興國、屠之。省安東・永陽郡。 安定太守毌丘興將之官、公戒之曰:「羌、胡欲與中國通、自當遣人來、慎勿遣人往。善人難得、必將教羌・胡妄有所請求、因欲以自利;不從便為失異俗意、從之則無益事。」興至、遣校尉范陵至羌中、陵果教羌、使自請為屬國都尉。公曰:「吾預知當爾、非聖也、但更事多耳。」

 馬超は漢陽に在り、復た羌胡に因って害を為し、氐王の千万が馬超に応じて叛き、興国に駐屯した。夏侯淵に討たせた。

 涼州刺史韋晃を殺した十七年の九月より、馬超は冀城に拠っています。魏公に就いている場合じゃないだろ、と云うべきか、負けが込んで権威が揺らいだから昇爵に拘ったと云うべきか。


 十九年(214)春正月、始めて籍田を耕す。

 籍田の儀は、勧農と豊穣祈願のために天子みずから宗廟に供える作物を耕作した、天子専用の儀式の一つです。まぁ実際には最初の一鍬を形だけ入れた態で、以後は担当官と農夫が面倒を見たんでしょうけど。

南安郡の趙衢・漢陽郡の尹奉らが馬超を討ってその妻子を梟首し、馬超は漢中に奔った。韓遂が金城(甘粛省蘭州市区)に徙り、氐王の千万の部に入り、羌胡の万余騎を率いて夏侯淵と戦った。撃って大破し、韓遂は西平郡に敗走した。夏侯淵は諸将と興国を攻めて屠った。安東郡・永陽郡を省いた。

 興国の位置は不明です。安東郡・永陽郡は文脈上から関隴の郡かとも思いましたが、よく考えると 「安東」 は東辺に置かれそうな地名ですな。
 夏侯淵は建安十八年に馬超に敗退し、漢中に奔った馬超が捲土重来したところで出征、という流れです。張郃が頑張りました。

安定太守毌丘興毌丘倹の父)がこの官に就く時、曹公は戒めた 「羌胡が中国との通好を求めて人を遣って来させても、こちらから往かせてはいけない。善き人というのは得難く、きっと羌・胡を教唆して妄りに請求させ、自分の利としようとするだろう。(そうなった時に)従わなければ異俗(羌胡)の意を失い、従っても益を無くすだろう」 毌丘興は(郡に)至ると校尉の范陵を羌中に遣り、范陵は果たして羌を教唆し、属国都尉を請求させた。曹公 「吾れが預知したのは聖人だからではない。経験が多かっただけだ」 [90]

 三月、天子使魏公位在諸侯王上、改授金璽、赤紱・遠遊冠。
 秋七月、公征孫權。

 三月、天子は魏公の位を諸侯王の上とし、金璽と赤紱(璽繻)、遠遊冠(皇太子・親王の専用)を改めて授けた[91]
 秋七月、曹公が孫権を征伐した[92]

 閏五月に孫権が皖城を攻陥したので、その報復です。皖城は曹操の徙民政策の失敗によって、江西で唯一残っていた統治拠点。呂蒙伝によれば、廬江太守の朱光による山越工作の拠点でもありました。
 この曹操の報復戦は呉志には書かれず、魏志でも作戦中の経過は明記されていません。ただ、[注92]の記事が正しければ失敗、もしくは成功しなかったようです。おいおい列伝中で見つかるといいんですが。

 初、隴西宋建自稱河首平漢王、聚衆枹罕、改元、置百官、三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月、屠枹罕、斬建、涼州平。
 公自合肥還。
 十一月、漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書、云帝以董承被誅怨恨公、辭甚醜惡、發聞、后廢黜死、兄弟皆伏法。

 嘗て隴西の宋建は河首平漢王を自称した。枹罕(甘粛省臨夏)に軍兵を聚め、元号を改めて百官を置くこと三十余年になった。夏侯淵を遣って興国から討たせた。冬十月、枹罕を屠って宋建を斬り、涼州を平定した。

 魏志初出の宋建ですが、韓遂より長期にわたって独立勢力を維持していた事になります。30年前と云うと、タイミング的に黄巾の乱と同じ頃で、ひょっとしたら韓遂らが自立する原因になった湟中の北宮伯玉の蜂起も、宋建に対する自衛措置だったんじゃないか、とか想像が膨らみます。

 曹公が合肥より帰還した。
 十一月、漢の皇后の伏氏が、曾て父の故屯騎校尉伏完に与えた書簡によって(罪に)坐した。帝が董承が誅された事で曹公を怨恨していると云い、その文辞は甚だ醜悪で、発覚すると皇后は廃黜されて死に、兄弟は皆な法に伏した[93]

 十二月、公至孟津。天子命公置旄頭、宮殿設鍾虚。乙未、令曰:「夫有行之士未必能進取、進取之士未必能有行也。陳平豈篤行、蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業、蘇秦濟弱燕。由此言之、士有偏短、庸可廢乎!有司明思此義、則士無遺滯、官無廢業矣。」又曰:「夫刑、百姓之命也、而軍中典獄者或非其人、而任以三軍死生之事、吾甚懼之。其選明達法理者、使持典刑。」於是置理曹掾屬。

 十二月、曹公が孟津に至った。天子が命じて曹公に旄頭(天子専用の旗飾り)を置かせ、宮殿には鍾虚(鐘を提げる台)を設けさせた。乙未に布令し 「徳行のある者はかならず進取に長けているとは限らず、進取に長けている者がかならず有徳者とも限らない。陳平は篤行の士であったか?蘇秦は守信の士であったか?だが陳平は漢の帝業を定め、蘇秦は弱燕を救済した。これによって言えば、士に偏短があっても用いることを廃罷できようか!有司がこの義を明思しすれば、遺滞の士や廃業の官はなくなるであろう」
又た 「刑とは百姓の命である。だが軍中の典獄には任に適わぬのに三軍の死生の事を掌る者がおり、吾れは甚だこれを懼れている。法理に明達した者を選び、典刑を担わせよ」 こうして理曹掾属が置かれた。
[66] 太常の徐璆を使者として印綬を授けた。御史大夫は中丞を下僚とせず、長史一人を置いた。 (『献帝起居注』)
―― 徐璆、字は孟玉。広陵の人である。若くして清爽で、朝廷では気色を正した。任城・汝南・東海三郡(の太守を)歴任し、所在で教化が行なわれた。徴還の途次で袁術に劫拘された。袁術が僭号し、上公の位を授けようとしたが、徐璆は最後まで屈しなかった。袁術の死後、徐璆は袁術の印璽を獲て漢朝に奉致し、衛尉・太常に拝された。曹公が丞相となると、官位を徐璆に譲った。 (『先賢行状』)
[67] 上谷の王次仲は隸書に善く、初めて楷書の法を為した。霊帝が書を好んだために世に能書家は多かったが、師宜官がその最たる者で、甚だその能を矜り、書く毎に(書法を盗まれないように)札簡を削焚していた。梁鵠はそこで大量の版を用意し、飲酒させて酔わせて札を竊み、梁鵠はとうとう書に巧みとなって選部尚書に至った。当時、曹公は洛陽令たらんと欲したが、梁鵠は北部尉とした。梁鵠は後に劉表に依拠した。荊州が平定されると曹公は梁鵠を募求させ、梁鵠は懼れて自縛して門に詣った。(曹公は)軍の仮司馬に署し、秘書として書の巧によって勤めさせた。曹公は常に(その書を)帳中に懸著させ、壁に釘して賞玩し、師宜官に勝ると謂った。
梁鵠は字を孟黄といい、安定の人である。魏の宮殿の題署は皆な梁鵠の書である。(衛恒『四礼書勢』序)
―― 汝南の王儁、字は子文は若くして范滂・許章らに識られ、南陽の岑晊と親善した。曹公が布衣のときに特に王儁を敬愛し、王儁も亦た曹公には治世の才があると称えた。袁紹と弟の袁術が母を喪って汝南に帰葬すると、王儁と曹公も会葬し、会葬者は三万人あった。曹公が列外で密かに王儁に語るには 「天下はもうすぐ乱れる。その魁となるのは必ずこの二人であろう。天下を救済し、百姓の為に請命するなら、先ずはこの二人を誅殺しないと乱はすぐにでも起ろう」 王儁 「卿の言葉の如くなら、天下を救済するのは卿を措いて誰があろう?」 互いに対面して笑った。王儁の為人りは外面は静謐で内面は聡明。州郡や三府の辟名に応じず、公車[※]で辟徴されても到らず、避地して武陵に居し、百余家が王儁に帰依した。献帝が許に都すると復た辟徴して尚書としたものの就任しなかった。
劉表は袁紹が彊いと観測して陰かに袁紹に通じたが、王儁が劉表に謂うには 「曹公は天下の雄です。きっと霸道を興し、桓文(斉桓公と晋文公)の功業を継ぎましょう。今このまま近きを離れて遠きに就き、もし一朝の急があれば、漠北の救援を遙望しても困難でありましょう!」 劉表は従わなかった。王儁は齢六十四で武陵で天寿を終え、曹公は聞くと哀傷した。荊州を平定すると自ら長江に臨んで喪を迎え、江陵に改葬して先賢として表彰した。 (皇甫謐『逸士伝』)

※ 中央政府が在野の人材を徴辟する際、特に相手の声望や徳行を重んじている事を周知する場合には、迎えの為の馬車を出しました。これが公車徴で、大変な名誉とされました。それでも本気で隠棲を望んだり政府に失望している人は王儁のように応じませんでしたが。

[68] 曹公の船艦は劉備によって焼かれ、軍を率いて華容道から徒歩で帰還したが、泥濘に遇って道が通じず、又た大風があった。羸兵(弱兵)尽くに草を負わせてこれを填め、かくして騎兵が通る事が出来た。羸兵は人馬に踏藉され、泥中に陥り、死者は甚だ多かった。軍が脱出すると曹公は大いに喜んだ。諸将に問われると曹公は 「劉備は吾が儔(ともがら)だが、ただ計に気付くのが少し遅い。さっさと放火させておれば吾れは全滅していたであろう。」 劉備は尋いで火を放ったが及ばなかった。 (『山陽公載記』)
―― 『呉志』を調べた処、劉備が先ず曹公の軍を破り、しかる後に孫権が合肥を攻めている。だがこの記録では孫権が先ず合肥を攻め、その後に赤壁の事があったと云っている。二者は同じではなく、『呉志』を是とする。 (孫盛『異同評』))

 もう少し情報を足すと、呉志では孫権はこの春にやっと黄祖を滅ぼし、別に黄山地方を制圧し、それから劉表が死んで赤壁の役となります。黄山方面には新たに新都郡を建ててすらいるのに、江夏太守を任命していないのが気になる処です。合肥攻略と並行して張昭には九江の当塗を攻めさせたものの、どちらも捗々しくなく一ヶ月以上が経過し、荊州から撤退した曹操が張喜を派遣した為に退却しています。まあ、合肥がヤバいのに呑気に劉備を追撃している場合じゃないので、私も孫盛に一票。

[69] 曹公の十二月己亥の布令「孤は始め孝廉に挙げられたが、年少であり、もとより巖穴知名の士でもなく、海内の人に凡愚と見られる事を恐れ、一郡守となって好く政教を作し、それによって名誉を建立して世の人士に知らしめようと考えた。済南に在りし時に残虐汚穢を除去し、公平心によって選挙したが、諸常侍に違忤して彊豪に忿恚され、家が禍を致される事を恐れて病を称して帰郷した。去官の後、年齢は尚おも少壮であり、同期を顧視すれば五十歳でも老人とされぬ者もあり、内心で図計して、これより二十年が去って天下の清泰を待ってもその同期者に並ぶだけだと考えた。だから四季を通じて郷里に帰り、譙の東五十里に精舍を築て、秋夏に読書し、冬春に射猟しようと考えた。底下の地を求め、泥水で自蔽するように賓客の往来を絶とうと考えた。だが意の如くはならず、後に徴されて都尉とされ、典軍校尉(新設の西園八校尉の一)に遷った。意を更改して国家の為に賊を討って功を立てんと考え、封侯されて征西将軍となり、ゆくゆくは墓に題して『漢の故の征西将軍曹侯の墓』とされたかったというのが本志だった。だが董卓の難に遭値し、義兵を興挙した。この時は兵を多く合わせることのみが有能とされたが、常に自ずと損耗するので多くを求めなくなった。何故なら、兵が多ければ意気盛大となって彊敵と争い、倘(かり)にも禍が始まりかねないからだ。故に汴水の戦では数千、後に帰還して揚州で更募しても三千人を過ぎず、これこそ本志に限りがあったからだ。
 後に兗州を領し、黄巾を破って三十万の軍勢を降した。 又た袁術が九江で僭号し、その麾下は皆な称臣し、門を名付けて建号門とし、衣装は皆な天子の制を為し、両婦人は皇后を争った。志計が已に定まり、袁術に帝位に即いて露布する事を勧める者があったが、(袁術が)答えるには『曹公がまだ健在だ。ならん』と。後に孤が討ってその四将を禽え、その軍勢を獲え、袁術を窮亡解沮せしめ、発病して死んだ。

 …何だろう。とても袁術に優しい内容になっています。まるで袁術が黄袍を着せられたかのような表現。そういえば十八年の策命でも橋蕤が主犯的な書き方をしていました。

時に袁紹は河北に拠って兵勢は彊盛で、孤は自ら勢を度って敵し得ないと考えたが、国の為に死に投じ、義を以て身を滅すれば後世に(功を)垂れるに足ると計ったのだ。幸いにも袁紹を破り、その二子を梟首した。 又た劉表は宗室であることにより姦心を包藏し、乍前乍卻(進みつつ退きつつ)世の事を観、荊州に拠っていた。孤は復たこれを鎮定し、とうとう天下を平定した。
身は宰相となって人臣の貴を極め、意望は已に過ぎてしまった。今かく言うのは自大のようだが、言を尽くそうと考えて諱耳(憚る)しなかっただけである。もし国家に孤がおらねば幾人が称帝し、幾人が称王したか考えられない。或いは孤の彊盛を見て、天命の事を信じない性の者が私かに心中で批評し、不遜の志を言い立て、妄りに忖度することを恐れて常に耿耿(落ち着かない)としているのだ。
斉桓・晋文の垂称が今日に至る理由は、その兵勢が広大でありながら能く周室に奉事したからである。『論語』に 『天下を三分してその二を有し、殷に服事した周の徳は至徳と謂うものであろう』 と。これぞ大を以て小に事えるというものだ。昔、楽毅が趙に逃走し、趙王が楽毅と燕を図ろうとしたところ、楽毅は伏して垂泣して対えるには 『臣は(燕の)昭王に事え、そして天王(趙王)に事えました。臣がもし獲戻(罪を得て)して他国に放逐されても、世に没するだけのこと。趙の徒隷(奴隷)に対してすら謀ろうとは思いません。ましてや燕の後嗣に対してなど!』 胡亥が蒙恬を殺す時、蒙恬は 『吾れは先人より子孫に至るまで、秦の三世に信義を積んできた。今、臣は兵三十余万を率いている。その勢力は背叛するに足るものだ。だが必死を知りつつ義を守るのは、敢えて先人の教えを辱めて先王(の恩)を忘れることが無いようにするためだ』と。孤はこの二人の書を読む毎に愴然流涕しない事は無い。
孤の祖父から孤に至るまで、皆な親重之任にあたり、信あらばこそと謂うべきか。(子供らの)兄弟に及べば三世を超えたことになる。孤は徒らに諸君に説いているのではない。常に妻妾にも語り、皆なにこの意を深く知らしめている。孤が謂うには 『願わくば我が万年の後(死後)、汝らが皆な出嫁したなら我が心意を伝道し、他人の皆なに知らしめてくれ』と。孤のこの言は肝鬲之要である。勤勤懇懇として心腹を敍べるのは、周公が金縢之書[※1]によって自ら(の真意を)明らかにしたように、人々の不信を恐れるからである。 然るに典掌するところの軍兵を委捐(放棄)して大政を奉還し、武平侯国に帰就しようとしても実際にはできないのだ。何故か?己が兵を手放して人に害される事を心から恐れるからだ。既に子孫のために計り、又た己が敗れれば国家が傾危するというのに、虚名を慕って現実に禍を受ける事は出来ない。これが実行できない理由である。 前に朝恩によって三子が侯に封じられると固辞して受けず、今になって受けようというのは、それによって復た栄誉を受けようというのではなく、外援とし、万安の計としたいからだ。孤は介推が晋の封を避け、申胥が楚の褒賞から逃れたと聞くと[※2]、舎書(書を置いて)して歎じずにはおられず、これを自省とするものである。
国の威霊を奉じ、鉞を仗して征伐し、弱きを推して彊きに克ち、小に処って大を禽え、意中で図っった事で動けば事に違わず、心中で慮った事で成功しない事はなく、かくて天下を蕩平し、主命を辱めなかったのは天が漢室を助けたと謂うもので、人力ではない。しかるに封は四県を兼領して食邑は三万戸である。これに堪えるのはどのような徳であろう!江湖(江東と荊湖)は未だ鎮静されず、譲位はできないが、邑土については辞退できる。今、陽夏・柘・苦の三県二万戸を上に返還して武平の万戸だけを食邑とし、こうして謗議を分損して孤の責務を減少させよう」 (『魏武故事』)

 以上、隠退したくても出来ない状況を語ってくれた曹操の会見でした。実際にあった批判に対してなのか、批判を先取りしたのかは知りません。

※1 金縢之書の故事は『書経』に見えるもので、武王が病臥した際に、周公が武王の身代わりとなるべく金箱に納めた祈祷文を指し、武王の死後に摂政となった周公が簒奪を疑われると、この文書の存在を明らかにして潔白を証明したというものです。
※2 介推は流浪時代の晋文公に扈随した五賢の一人の介子推で、申胥は楚が昭王の時代に呉に潰滅させられた時、秦への乞援を成功させて楚の滅亡を防いだ申包胥です。どちらも主君が成功した後は下野して行賞に加わらず、代表的な隠士とされています。

[70] 庚辰に天子が報答し、(先の二万戸から)五千戸を減じて、譲られた三県の一万五千戸を分って三子を封じ、曹植を平原侯とし、曹拠を范陽侯とし、曹豹を饒陽侯とした。食邑は各々五千戸である。 (『魏書』)

 この時点での曹操の世子は公式には曹丕とされているので封侯の対象外ですが、上記の三人が特に県侯に封じられている点が興味深いです。曹操の子は、曹丕以外はこの三人が特別という事でしょうか。曹植は次兄の曹彰を差し置いたもので、又た曹拠の同腹の曹宇はこのタイミングで都郷侯に封じられています。都郷侯の序列は亭侯の上・郷侯の下あたりかと。

[71] 議者の多くは 「関西の兵は彊く、長矛に習熟し、前鋒を精選しなければ当れますまい」 曹公が諸将に謂うには 「戦機は我に在って賊に在るのではない。賊は長矛に習熟しているとはいえ、刺せないようにしてやろう。諸君はただ観ておればよい」 (『魏書』)
[72] 曹公が河を渡ろうとし、前隊が渡りかけた時、馬超らがにわかに到来した。曹公はなおも胡牀に坐って起たなかった。張郃らは事が急な事を見て共に曹公を引っ張って入船した。河水は急峻で、渡り終える頃には四・五里流されていた。馬超らの騎兵が追って射ち、矢は雨の如く下った。諸将は軍の敗北を見、曹公の所在が分からず、皆な惶懼した。曹公が至るとかくして悲喜し、流涕する者もいた。曹公は大笑し 「今日は小賊にいささか苦しめられたわ!」 (『曹瞞伝』)
[73] このとき曹公の軍は渭水を渡る毎に馬超の騎兵に衝突され、軍営を立てる事が出来ず、土地は砂が多かったので塁を築く事も出来なかった。婁子伯が曹公に説くには 「今、気候は寒く、砂を積んで城としましょう。水を灌げば一夜で完成しましょう」 曹公は従い、かくして多くの縑嚢を作って水を運ばせ、夜間に兵を渡して城を作り、明け方には城が立った。こうして曹公の軍は尽く渭水を渡る事が出来た。(『曹瞞伝』)
―― 或る人が疑うには、この時は九月で、水が凍る時期ではあるまいと。裴松之が『魏書』から勘案するに、曹公の軍は八月に潼関に至り、閏月に北に渡河した。つまりその年の閏八月であり、大いに寒くなる事があろうか!
[74] 曹公が後日に復た韓遂らと会談することになったが、諸将は 「公が賊虜と語を交わすなら、軽脱であってはなりません。木で行馬(馬防柵)を作って防遏としましょう」 曹公はその通りだと思った。賊将が曹公に見えると、尽く馬上で拝礼した。秦胡(関中の異民族)の観衆は前後して踏み重なっ(て曹公を見物に来)た。曹公が笑って賊に謂うには 「汝らは曹公を観たいのか? 同じ人であるぞ。四目や両口が有るわけではない。ただ智略が多いだけだ!」 異民族は前後して大いに見物した。又た鉄騎兵五千を並べて十重の陣を為し、精光耀日として賊はますます震懼した。 (『魏書』)
[75] 裴松之が勘案するに、漢の高祖二年に、(漢は)楚と滎陽・京・索の間で戦い、甬道を築いて黄河につなぎ、敖倉の粟を調達した。応劭曰く 「敵が輜重を鈔掠する事を恐れ、垣牆を築いて街巷の如くしたのだ」。今、魏武は垣牆を築かず、ただ車を連ね柵を樹て、両面を防いだのだ。
[76] 楊秋は黄初中(220〜227)に討寇将軍に遷り、特進に位して臨侯に封じられ、寿命を終えた。 (『魏略』)
[77] 正月庚寅、禹貢の九州を復した。 (『後漢書』)
――幽・幷を省いて冀州に併せ、司隷・涼州を省いて雍州とし、交州を省いて荊・益に併せた。 (『献帝春秋』)

 五月の詔勅で明らかになりますが、司隷の一部は冀州に編入されています。恐らく関東が冀州、関西が雍州。尚お、冀州の拡大を眼目とした九州復古の議は、袁家を滅ぼした直後の建安九年(204)にも生じ、この時は荀ケの反対に曹操が納得して廃案されました。

[78] 郗慮、字は鴻豫。山陽高平の人である。若くして鄭玄に学業を受け、建安初期に侍中となった。 (『続漢書』)
―― 献帝が嘗て特に郗慮と少府の孔融を引見した時、孔融に 「鴻豫は何に長じている?」 と問うた。孔融 「与に道に適(ゆ)く事はできても、与に権(はか)る事はできません」 郗慮は笏を挙げて 「孔融は以前に北海国の宰相でしたが、政事は散じ民は流亡し、権とやらはどこに在ったのでしょう!」 これより孔融とは互いに優劣を云い合い、不睦となった。曹公が書簡を以て和解させた。郗慮は(建安十三年に)光禄勲から(御史)大夫に遷った。 (虞溥『江表伝』)

 孔融の発言は、『論語』子罕篇からの引用で、ご先祖の権威を振りかざしたわけです。“権”の解釈は各種ありますが、孔子としては 「権與=物事の始まり」 として使ったのではないでしょうか。郗慮はこれを 「権宜(臨機応変の手段)」 として使っています。
 それにしても、郗慮の扱いはどうしてこうも軽いのでしょう。裴松之すら殆ど補ってくれていません。丞相制の復活と伴に御史大夫とされていながら、『三國志』で殆ど触れられていないのは妙な事です。郗慮は漢臣畑を進んだ人で、しかも魏国の叙任は受けていないんですよね。上記の『江表伝』や、職務上で行なった伏皇后の移宮を『曹瞞伝』と絡めて范曄が採用してしまった為に 「曹操の走狗」 の印象が強いですが、意外と漢臣としての立場を履んでいたのかもしれません。

[79] 『公羊伝』に 「君若贅旒然(君主は贅旒のごとき様だった)」 とあり、何休は 「贅は綴である。旒は旂旒である。旒譬とは下賤の者が旗のように執り持って東西に運ぶ様を比喩したものである」 と注した。
[80] (『書経』の)文侯之命に 「亦惟先正」 とあり、鄭玄は 「先正とは先臣であり、公卿大夫である」 と注した。
[81] 『左氏伝』(昭公二十六年)に 「諸侯釈位以濶、政(諸侯は位を釈(す)てて以て王政に閨iかか)わる」 とあり、服虔は 「諸侯がその私政を棄てて王室を扶ける」 と注した。
[82] 『詩経』に 「致天之屆、于牧之野(天の届(とが)を致し、牧の野に于(おい)てす」 とあり、鄭玄は 「届とは極(とが)である」 と注した。 (『書経』)鴻範篇に 「鯀は則ち殛死す」 とある。
[83] 馘は屠った敵兵から切り取った左耳。戦功の証明として首の代りとした。
[84] (『書経』の)盤庚篇に 「綏爰有衆」 とあり、鄭玄は 「爰とは於で、その衆を安穏とさせるのだ」 と注した。
―― (『書経』の)君奭篇に、「海隅出日、率(したが)いて俾(つか)わざる罔し」 とある。率とは循、俾とは使である。四海の隅々まで日が出でて照らす所は、法度に循って使わないものはない。
[85] (『書経』の)盤庚篇に 「堕落した農夫は安んじ、労を作すに昏(つと)めず」 とあり、鄭玄は 「昏とは勉である」 と注した。
[86] 『国語』に 「糾虔天刑(天の刑によって虔(つつし)んで糾(ただ)す)」 とあり、韋昭は「糾とは察、虔とは敬、刑とは法である」と注した。
[87] 後漢の尚書左丞だった潘勗の起草である。潘勗、字は元茂。陳留中牟の人である(六朝屈指の文人の潘岳の祖父にあたります)
―― 曹公の布令 「九錫を受けて広く土宇を開いたのは周公その人である。漢の異姓の八王は高祖と倶に布衣より起り、王業を始めて定めた。その功は至大であり、吾れとどうして比べられよう?」 前後三たび辞譲した。
この時、中軍師陵樹亭侯荀攸・前軍師東武亭侯鍾繇・左軍師涼茂・右軍師毛玠・平虜将軍華郷侯劉勲・建武将軍清苑亭侯劉若・伏波将軍高安侯夏侯惇・揚武将軍都亭侯王忠・奮威将軍楽郷侯劉展・建忠将軍昌郷亭侯鮮于輔・奮武将軍安国亭侯程c・太中大夫都郷侯賈詡・軍師祭酒千秋亭侯董昭・都亭侯薛洪・南郷亭侯董蒙・関内侯王粲・傅巽・祭酒王選・袁渙・王朗・張承・任藩・杜襲・中護軍国明亭侯曹洪・中領軍万歳亭侯韓浩・行驍騎将軍安平亭侯曹仁・領護軍将軍王図・長史万潜・謝奐・袁霸らが勧進した。
「古えの三代より、土地を臣に胙(たま)い、受命(創業)と中興で輔佐を封秩したのは、皆な功を褒し徳を賞し、国の藩衛とする為でした。先に天下は崩乱して羣れなして凶豪が起ち、顛越跋扈の険艱は言うに忍びない程でした。明公は奮身出命してその険難に徇(とな)え、二袁の簒盜之逆を誅し、黄巾賊の乱の類を滅ぼし、逆族の首魁を殄夷し、荒穢を芟撥し(芟穢は雑草を刈る事)、霜露にて沐浴すること二十余年になります。(殷の始祖の)契が書く事を創めて以来、このような功労者がいたでしょうか。
昔、周公は文武の跡を承けて既成の業を受け、墨筆に高枕して羣后(群臣)に拱手揖礼し、商・奄の勤践奄の役も二年を過ぎませんでした。呂望は天下の三分の二の形勢に因り、八百諸侯の同勢に拠り、暫く旄鉞を把り、一時指麾しただけです。然るに皆な大いに土宇を啓示し、(その領地は)跨州兼国しました。周公の八子はみな侯伯となり、白牡(白い牝牛)(赤牛)もて天地を郊祀し、典礼・策書・備物は王室に擬し、栄章寵盛は此くの如く弘大でした。漢の興起に及ぶに至り、佐命の臣では張耳・呉芮の功は至薄でしたが、城を連ねて地を開き、南面して孤と称しました。これら皆な明君が上にあって主行し、賢臣聖宰が下にあって受けるのは、三代の令典であり漢帝の明制であります。今、労を比較すれば周公・呂尚は少なく、功を計れば張耳・呉芮は微かで、制を論ずれば斉・魯は重く、地を言えば長沙は多いのです(張耳は子の代で改易されるので言及していません)。然るに魏国の封土、九錫の栄典、況や旧賞はなお玉を懐いて褐衣を被るようなものです。くわえて列侯諸将は幸いに龍驥に攀(すが)り、微労を竊み、佩紫懐黄(金印紫綬)は蓋し百を以て数え、万世に伝えたいとしております。しかし明公は独り上に賞を辞退し、その下僚を不安にさせております。上は聖朝の歓心に違い、下は冠帯の至望を失い、輔弼の大業を忘れて匹夫の細行を信奉する事を、荀攸らは大いに懼れるのであります」
 公は東奔西走すること二十年。周公は朝廷でのほほんとして軍事に直面したのは2年だけで、太公望の成功も天下の2/3の勢力に寄りかかっただけです。それでも両者は大国に封じられました。張耳・呉芮程度ですら王を称したのです。公は功で四者に勝っているのに褒賞は劣っています。そもそも我々があなたに尽したのは、勝馬に乗って富貴を楽しみたいからなのに、その望みを絶てばどうなっても知りませんよ。(以上、意訳)
このため曹公は(勧進しなかった)他者に上章を書かせ、魏郡だけを受領した

 脅迫まがいの態で主君に言い訳を与える、模範的な勧進表です。それにしても、荀ケと荀攸の対比が切ないです。さて、魏郡だけを受領したのは第二ラウンドのフラグです。

 荀攸らが復た曰うには 「伏して考えますに、魏国が初め封じられたのは聖朝の叡慮に発し、羣寮が稽謀し、然る後に策命しました。しかし明公は久しく上旨に違え、大礼に即いておりません。今、既に詔命を虔奉して衆望に副順したものの、多くを辞退して少なきに当り、九を譲って一を受けたに過ぎません。これでは漢朝の賞が行なわれず、荀攸らの請願もいまだ聴許されてはおりません。昔、斉・魯の封地は東海を奄い、疆域の井賦(課税農家)四百万家にして、基は隆く産業は広く、功を立てるのは容易でした。だから翼戴(尊王)の勲を成し、一匡(天下統一)の功績を立てました。今、魏国は十郡所有を名としていますが、なお曲阜(魯)より減じており、その戸数を計ると三分の一にも当りません。これでは王室の藩衛となり、垣屏(陪臣の諸侯)を樹立するにはまだ足りません。くわえて聖上におかれては秦が輔佐無く滅んだ禍を御覧じ、曩日(過日)の震蕩の艱難を懲戒とし、忠賢に託し建てて失墜を廃しようとしております。願わくは明公よ、恭んで帝命を承けて拒違することなきように」
(魏国すら魯より小国なのに、その1/10の魏郡だけ受け取るなんて!どうか全部受け取って我々もキチンと封侯出来るようにして下さい。拒否るの厳禁です)
曹公はかくして命を受けた。 (『魏書』)
―― 曹公が上書して謝恩し 「臣は先帝に厚恩を蒙り、郎署の位に致り、疲怠の性質を受けて意望は充分に足り、敢えて高位を希望し、顕達を冀(こいねが)うものではありませんでした。たまたま董卓が乱を作し、義としてまさに難に死すべきで、故に奮身して命を投げ出し、摧鋒率衆して千載の運に遭い、目下に役を奉じました。二袁が炎沸して侵侮した際、陛下は臣と寒心同憂されました。京師を顧瞻し、進んで猛敵を受け、常に君臣が倶に虎口に陥る事を恐れ、本当に首を全うできるとは思いませんでした。祖宗の霊祐に頼って醜類を夷滅し、微臣はその間に名を竊む事ができました。陛下が恩を加えられて授けるに上相を以てし、封爵寵禄は豊大弘厚であり、生平の願いとして実に望まざるものでした。口と心とを計り、幸いにして待罪し(官に在り)、列侯たるを保持し、子孫に遺付し、聖世に身を託して永らく憂責無からん事を。思いがけず陛下が盛意(厚意)を発し、国を開き錫を備え、愚臣に貺(たま)わらんとは。地は斉・魯に比肩し、礼は藩王と同じく、無功の臣が応拠すべきものではありません。情を納めて上聞し、聴許を蒙らず、厳詔が切々として至り、誠に臣の心を俯仰逼迫せしめました。伏して惟省するに、大臣に列して王室に命制され、身は己のものに非ず。どうして敢えて恣意から愚意を遂げましょうか。亦た黜退(致仕)して初服(仕官前の服=布衣)に就く事もありましょう。今、疆土を奉じ、藩翰(藩屏)の数に備わるのは、遠きに期し、後世に慮る為ではなく、父子が終身まで互いに誓い、灰躯尽命して厚恩に報いる為です。天威在顔、悚懼して詔を受けるものであります」 (魏略』)
 私の今日の成功は祖霊のお陰であり、今の官爵すら素志を大きく超えるものです。ただお上からの督促が厳しく、臣下として断り続けるのもアレなので、受領します。決して一族繁栄のためではなく、朝廷の恩に報いる為です。
[88] 使持節・行太常・大司農・安陽亭侯の王邑をして、璧・帛・玄纁(暗褐色の絹)・絹五万匹を鄴に齎し納聘させた。介者五人は皆な議郎にして行大夫事であり、副介は一人だった。 (『献帝起居注』)
(今回はあくまでも叙任であり、結納です。実際の輿入れは翌年の二月([90])になります)
[89] 荀攸を尚書令とし、涼茂を僕射とし、毛玠崔琰常林徐奕何夔を尚書とし、王粲杜襲衛覬和洽を侍中とした。 (『魏氏春秋』)
[90] (この年の事として)行太常事・大司農・安陽亭侯の王邑と宗正劉艾を使者とし、皆な節を持し、介者五人を従え、束帛・駟馬を齎し、そして給事黄門侍郎・掖庭丞・中常侍の二人に魏公国より二貴人を迎えさせた。二月癸亥、又た魏公の宗廟で二貴人に印綬を授けた。甲子、魏公宮の延秋門に詣らせ、貴人を迎えて車に升(のぼ)らせた。魏は郎中令・少府・博士・御府乗黄厩令・丞相掾属を貴人に侍送(同道)させた。癸酉、二貴人が洧倉に至り、侍中の丹に冗従虎賁を率いさせて遣り、往迎は前後駱駅として連なった。乙亥、二貴人が宮(掖庭)に入った。御史大夫・中二千石が大夫・議郎を率いて殿中に会同し、魏国の二卿と侍中・中郎二人は漢の公卿と並んで殿宴に升った。 (『献帝起居注』)
[91] 左中郎将楊宣・亭侯裴茂を使者として節・印を持たせて授けた。 (『献帝起居注』)
[92] 参軍の傅幹が諫めるには 「天下を治めるのに大いに具えるべきは二つあります。文と武です。武を用いるには威を先にし、文を用いるには徳を先にし、威徳が足りれば互いに済い、その後に王道が備わるのです。嘗て天下大乱となって上下は秩序を失い、明公は武を用いてこれを撃ち払い、十のうちその九を平定しました。今、未だ王命に承伏しないのは呉と蜀です。呉には長江の険があり、蜀には崇山の阻があり、威服させるのは困難で、徳懐させるほうが容易です。愚考しますに、甲を按いて甲を寝ませ、軍を息わせ士を養い、土地を分けて封爵を定め、功を論じ賞を行ない、もしこの様に内外の心を固めれば、功ある者は勤め、天下は制度(の有用性を?)知るでしょう。然る後に学校を興し、人々の善性を教導し義節を長ばのです。公は神武を四海を震わせ、文を修めて完成させれば、普天の下で服従しない者などありましょうか。 今、十万の軍勢を挙げて長江の浜に駐頓し、もし賊が堅固を恃んで深く匿れたら、士馬はその能を逞しう出来ず、権(臨機応変の策)を用いる奇変も無く、かくして大威は屈して敵の心を服従させる事はできなくなります。どうか明公よ、虞舜が干戚もて舞った義を思い、威を全うし徳を養い、道を以て勝を制せられんことを」 曹公は従わず、軍は結局功が無かった。
 傅幹、字は彦材。北地の人。(官は)丞相倉曹属で終った。子が有り、傅玄という。 (『九州春秋』)
[93] 曹公は華歆を遣り、兵を率い宮殿に入らせて皇后を収捕させた。皇后は扉を閉じて壁中に隠れた。華歆は扉を壊して壁を発き、皇后を牽き出した。献帝はこのとき御史大夫郗慮と坐っていた。皇后は被髮徒跣して通過し、献帝の手を執って 「復た共に活きる事はできませんか?」 献帝 「我も亦た自分の命数が何時なのか分らないのだ」 献帝が郗慮に曰うには 「郗公よ、天下にこのような事があろうか!」 結局、皇后を曳いて殺し、伏完と宗族の死者は数百人となった。 (『曹瞞伝』)

 『後漢書』が加筆して正式採用した事で、正使郗慮・副使華歆の悪評が確定した有名な一節です。当時の華歆の官位は尚書令で、逮捕権なぞ持っていませんし、法規にうるさい曹操が越権行為を督励するとも思えません。

 


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