三國志修正計画

三國志卷四十七 呉志二/呉主伝 (一)

呉主伝

 孫權字仲謀。兄策既定諸郡、時權年十五、以為陽羨長。郡察孝廉、州舉茂才、行奉義校尉。漢以策遠脩職貢、遣使者劉琬加錫命。琬語人曰:「吾觀孫氏兄弟雖各才秀明達、然皆祿祚不終、惟中弟孝廉、形貌奇偉、骨體不恆、有大貴之表、年又最壽、爾試識之。」

 孫権、字は仲謀。兄の孫策は(江東の)諸郡を定めると、時に孫権は齢十五であり、これを陽羨県長とした[1]。郡(太守朱治)は孝廉に察(あ)げ、州(刺史厳象)は茂才に挙げ、奉義校尉を行(代行)した。漢は孫策が遠きより職貢を修めた事で、使者劉琬を遣って錫命を加えた。劉琬が人に語るには 「吾れが孫氏の兄弟を観たところ、各々才秀明達とはいえ皆な禄祚(天寿)を終(まっと)うしそうにない。ただ中弟の孝廉だけは形貌は奇偉で骨体は世の恒の人ではなく、大貴の表(しるし)があり、年齢も又た最も天寿である。爾(なんじ)は試しにこれを識(おぼ)えておくといい」

 建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黄祖於沙早B
 五年、策薨、以事授權、權哭未及息。策長史張昭謂權曰:「孝廉、此寧哭時邪?且周公立法而伯禽不師、非違父、時不得行也。況今姦宄競逐、豺狼滿道、乃欲哀親戚、顧禮制、是猶開門而揖盜、未可以為仁也。」乃改易權服、扶令上馬、使出巡軍。是時惟有會稽・呉郡・丹楊・豫章・廬陵、然深險之地猶未盡從、而天下英豪布在州郡、賓旅寄寓之士以安危去就為意、未有君臣之固。張昭・周瑜等謂權可與共成大業、故委心而服事焉。曹公表權為討虜將軍、領會稽太守、屯呉、使丞之郡行文書事。待張昭以師傅之禮、而周瑜・程普・呂範等為將率。招延俊秀、聘求名士、魯肅・諸葛瑾等始為賓客。分部諸將、鎮撫山越、討不從命。

 建安四年(199)、孫策の廬江太守劉勲の征伐に従った。劉勲を破ると、進んで沙(武漢市江夏区西郊)に黄祖を討った。
 五年(200)、孫策は薨じる時に事を孫権に授けた。孫権は慟哭を息(や)めず、孫策の長史張昭が孫権に謂うには 「孝廉よ。寧ろ哭している時でしょうか?周公が(服喪の)法を立て、(子の)伯禽は(それを)師としませんでした。父に違えたのではなく、時勢として行なう事が出来なかったのです[2]。ましてや今は姦宄が競逐し、豺狼が道に満ちています。親戚に哀悼して礼制を顧みようとする事は、開門して盗人に揖(会釈)するようなもので、仁と呼べるものではありません」 かくして孫権の服を改易し、扶けて馬に上らせ、出て軍を巡らせた。
この時はただ会稽・呉郡・丹楊・豫章・廬陵があるだけで、しかも深険の地は未だ尽くは従っておらず、天下の英豪は布(あまね)く州郡に在り、(孫氏の)賓旅・寄寓の士も安危・去就を意(おも)って未だに君臣の固めは無かった。張昭・周瑜らは孫権が共に大業を成すことが出来る人物だと謂い、そのため心を委ねて心服して事えた。曹操は上表して孫権を討虜将軍とし、会稽太守を兼領させた。

 曹操の上表で既得権が認められた点が肝要です。曹操による孫権の籠絡という一面は確かにありましたが、結果から遡って、当時から孫氏が独自勢力として確立していたと考えてしまうと、孫権陣営は腑抜け揃いとなってしまい、華歆に対する歪んだ評価みたいなのが生じます。少なくとも赤壁の役まで孫呉は朝廷支持派で、朝廷=曹操が公式見解です。曹操の遼東遠征で劉表を警戒する声はあっても孫権を危険視する意見が無かったのも、孫権がこちら側だと認識していたからだと思われます。この期間の曹操と孫権の通行を示すものが無いので憶測メインになってしまいますが。

(そこで)呉に駐屯して丞(の顧雍)に郡の文書の事を代行させた。張昭に師傅の礼を執り、周瑜・程普・呂範らに将率させた。俊秀を招延し、名士を聘求し、魯粛・諸葛瑾らが始めて賓客となった。部隊を諸将に分けて山越を鎮撫し、命令に従わぬ者を討伐させた[3]

 七年、權母呉氏薨。
 八年、權西伐黄祖、破其舟軍、惟城未克、而山寇復動。還過豫章、使呂範平鄱陽、程普討樂安、太史慈領海昏、韓當・周泰・呂蒙等為劇縣令長。
 九年、權弟丹楊太守翊為左右所害、以從兄瑜代翊。

 七年(202)、孫権の母の呉氏が薨じた。
 八年(203)、孫権は黄祖に西伐してその舟軍を破った。ただ城には未だ克てず、そして山寇(山越)が復た蠢動した。帰還中に豫章を過ぎ、呂範に鄱陽を平定させ、程普に楽安を討たせ、太史慈を領海昏令とし、韓当・周泰・呂蒙らを劇県(難治の県)の令長とした。

 呂範らが対処したのはいずれも鄱陽湖周辺から丹楊郡にかけての地です。孫権の世の山越問題は、この両郡がメインとなります。そして軍の重鎮の名が列記されている中に周瑜の名が無い事に注意です。

 九年(204)、孫権の弟の丹楊太守孫翊が左右の者に害され、従兄の孫瑜を孫翊に代えた[4]

 十年、權使賀齊討上饒、分為建平縣。
 十二年、西征黄祖、虜其人民而還。

 十年(205)、孫権が賀斉に(豫章郡の)上饒を討たせ、分けて建平県とした。
 十二年(207)、黄祖に西征し、その人民を捕虜として帰還した。

 十三年春、權復征黄祖、祖先遣舟兵拒軍、都尉呂蒙破其前鋒、而淩統・董襲等盡鋭攻之、遂屠其城。祖挺身亡走、騎士馮則追梟其首、虜其男女數萬口。是歳、使賀齊討黟・歙、分歙為始新・新定・犂陽・休陽縣、以六縣為新都郡。荊州牧劉表死、魯肅乞奉命弔表二子、且以觀變。肅未到、而曹公已臨其境、表子j舉衆以降。劉備欲南濟江、肅與相見、因傳權旨、為陳成敗。備進住夏口、使諸葛亮詣權、權遣周瑜・程普等行。是時曹公新得表衆、形勢甚盛、諸議者皆望風畏懼、多勸權迎之。惟瑜・肅執拒之議、意與權同。瑜・普為左右督、各領萬人、與備倶進、遇於赤壁、大破曹公軍。公燒其餘船引退、士卒飢疫、死者大半。備・瑜等復追至南郡、曹公遂北還、留曹仁・徐晃於江陵、使樂進守襄陽。時甘寧在夷陵、為仁黨所圍、用呂蒙計、留淩統以拒仁、以其半救寧、軍以勝反。權自率衆圍合肥、使張昭攻九江之當塗。昭兵不利、權攻城踰月不能下。曹公自荊州還、遣張喜將騎赴合肥。未至、權退。

 十三年(208)春、孫権が復た黄祖を征伐し、黄祖は先んじて舟兵を遣って軍を拒いだ。都尉呂蒙がその前鋒を破り、淩統・董襲らが精鋭を尽してこれを攻め、ついにその城を屠った。黄祖は挺身して逃亡して走ったが、騎士馮則が追ってその首を梟(さら)し、その男女数万口を捕虜とした。
この歳、賀斉に(丹楊郡の)黟・歙を討たせ、歙県を分けて始新・新定[5]・犂陽・休陽県を置き[6]、六県にて新都郡とした。

 周瑜を投入してまで宿願を果たした筈のこの戦い、褒賞が明記されているのは呂蒙と淩統くらいで、前部大督の周瑜や、防衛網突破に大功があったとされる董襲の恩賞すら記されていません。何故そんな事を云うのかというと、江夏太守を任命した形跡が無いからです。一応は周瑜が孫策時代に領江夏太守とされてはいますが、この後に再び鄱陽に派遣されているので、その任を担ったとも思えません。孫呉最初の江夏太守となった程普の叙任は曹仁を江陵から逐った後で、黄祖を斬った後に当口に駐屯した甘寧が一時的に夏口督的に駐屯していた可能性はありますが、本当に一時的な措置でした(当口=当利口との見解もあるそうですが、甘寧を目の届きにくい場所に置くとも思えません)。
 郡治を陥したら即任命の孫呉としては、如何にも鈍い対処です。考えられるのは、1.陥した城が沙羨県城ではなかった。 2.荊州の縄張りについて曹操との折衝が未調整で、勝手ができなかった。 3.孫権が領江夏太守となっていた。 の孰れかだと思われます。個人的には 1.と2. の合作かな、と。因みにこの当時、夏口城なるものはまだありません。“夏口・城”と文中に述べられているのは、夏口北岸の“夏口塢”を指しているものと思われます。

 荊州牧劉表が死に、魯粛が命を奉じて劉表の二子を弔問し、同時に変事を観察せんと乞うた。魯粛が未だ到らぬうちに曹操はその境内に臨み、劉表の子の劉jは衆を挙げて降った。劉備は南して長江を渡ろうとし、魯粛は会見して孫権の旨を伝え、成敗を陳べた。劉備は進んで夏口に往き、諸葛亮を孫権に詣らせ、孫権は周瑜・程普らを行かせた。この時、曹操は新たに劉表の手勢を得、形勢は甚だ盛んであり、諸々の議者は皆な風を望んで畏懼し、多くが孫権に降使を迎える事を勧めた[7]。ただ周瑜・魯粛のみが拒絶の議を執り、意を孫権と同じくした。

 周瑜伝でも云いますが、ここでも云います。「惟瑜・肅執拒之議、意與權同」 だなんて後付けに過ぎません。対策会議の場で魯粛は発言が認められず、周瑜に至っては柴桑の近くにいたのに議場に呼ばれてすらいません。曹操との開戦は、討議を経ずに決まったようなものです。

周瑜・程普を左右督とし、各々万人を領し、劉備と倶に進んで赤壁で遭遇し、曹操の軍を大破した。曹操は残余の船を焼いて引き退き、士卒は飢え疫んで大半が死んだ。劉備・周瑜らは復た追撃して南郡に至り、曹操はかくて北に還り、曹仁・徐晃を江陵に留め、楽進に襄陽を守らせた。時に甘寧は夷陵に在り、曹仁の党与に囲まれた。呂蒙の計を用い、淩統を留めて曹仁を拒ぎ、その半数で甘寧を救い、軍は勝って反転した。
 孫権は自ら手勢を率いて合肥を囲み、張昭には九江の当塗を攻めさせたが、張昭の兵は利が無く、孫権は攻城して月を踰えても下せなかった。曹操は荊州より還ると張喜に騎兵を率いて合肥に赴かせた。至る前に孫権は退いた。

 これまで、孫策・孫権の西征は不思議と曹操の遠征とかぶってきました。袁術の死後からの朝廷に対する姿勢を見るに、曹操の軍事を側面からサポートしていたとの解釈も可能です。そうなると赤壁の役は、魯粛と周瑜のゴリ押しで集団の総意を経ずに実行された、孫呉集団としては異例の事態だった事になります。これは魯粛と周瑜が勝手をしたと対外的にアピールする事も可能で、実際、赤壁で決着がつくまで孫権自身は手勢を動かさずに戦況を傍観しています。

 十四年、瑜・仁相守歳餘、所殺傷甚衆。仁委城走。權以瑜為南郡太守。劉備表權行車騎將軍、領徐州牧。備領荊州牧、屯公安。
 十五年、分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡、以魯肅為太守、屯陸口。
 十六年、權徙治秣陵。明年、城石頭、改秣陵為建業。聞曹公將來侵、作濡須塢。

 十四年(209)、周瑜・曹仁は相い守ること歳余となり、殺傷するところ甚だ衆(おお)かった。曹仁は(周瑜に)城を委ねて敗走し、孫権は周瑜を南郡太守とした。劉備が上表して孫権を行車騎将軍・領徐州牧とした。劉備は領荊州牧として公安(湖北省荊州市)に駐屯した。

 上表するという行為と、受理するかどうか、裁可するかどうかは別問題。ぶっちゃけ、上表したという体裁を取り繕っての自称ごっこです。劉備の漢中王就任も同じ。体裁を整えることはとても大事です。咸熙元年(264)に司馬昭もそう強調しています


 十五年(210)、豫章郡を分けて鄱陽郡とした。長沙郡を分けて漢昌郡とし、魯粛を太守として陸口(湖北省咸寧市嘉魚)に駐屯させた[※]

※ 魯粛が引き継いだ周瑜の采邑4県のうち3県が長沙郡所属で、その中に漢昌県(岳陽市平江東南郊)もあります。漢昌郡はこの4県で臨時措置的に設けられたものでしょう。呉ではこうした領主兼太守の措置が散見され、例えば呂範は彭沢・柴桑・歴陽の領主であると同時に彭沢太守であり、朱治は長らく呉郡太守でしたが、同時に呉郡の婁・由拳・無錫・毗陵を所領とし、全jは呉郡南部を経略する期間限定で設けられた東安郡の太守とされました。呉でのこの采邑制度は、諸将が兵団を維持する為の原資として実効支配が認められた一種の治外法権領で、随所でこうした郡県を抱えていた呉の王権は三国中で最も弱いものでした。

 十六年(211)、孫権が治所を(丹徒の京城(鎮江市区)から)秣陵に徙した。明年、石頭に城(きず)き、秣陵を改めて建業とした。曹操が来侵しようとしていると聞き、濡須塢を作った。

 十八年正月、曹公攻濡須、權與相拒月餘。曹公望權軍、歎其齊肅、乃退。

 十八年(213)正月、曹操が濡須を攻め、孫権が相い拒ぐこと月余となった。曹操は孫権の軍を望見すると斉粛であることを歎じ、かくして退いた[8]

初、曹公恐江濱郡縣為權所略、徴令内移。民轉相驚、自廬江・九江・蘄春・廣陵戸十餘萬皆東渡江、江西遂虚、合肥以南惟有皖城。

 十九年五月、權征皖城。閏月、克之、獲廬江太守朱光及參軍董和、男女數萬口。是歳劉備定蜀。權以備已得益州、令諸葛瑾從求荊州諸郡。備不許、曰:「吾方圖涼州、涼州定、乃盡以荊州與呉耳。」權曰:「此假而不反、而欲以虚辭引歳。」遂置南三郡長吏、關羽盡逐之。權大怒、乃遣呂蒙督鮮于丹・徐忠・孫規等兵二萬取長沙・零陵・桂陽三郡、使魯肅以萬人屯巴丘以禦關羽。權住陸口、為諸軍節度。蒙到、二郡皆服、惟零陵太守郝普未下。會備到公安、使關羽將三萬兵至益陽、權乃召蒙等使還助肅。蒙使人誘普、普降、盡得三郡將守、因引軍還、與孫皎・潘璋并魯肅兵並進、拒羽於益陽。未戰、會曹公入漢中、備懼失益州、使使求和。權令諸葛瑾報、更尋盟好、遂分荊州長沙・江夏・桂陽以東屬權、南郡・零陵・武陵以西屬備。備歸、而曹公已還。權反自陸口、遂征合肥。合肥未下、徹軍還。兵皆就路、權與淩統・甘寧等在津北為魏將張遼所襲、統等以死扞權、權乘駿馬越津橋得去。

これより前、曹操は江浜(長江沿岸)の郡県が孫権に劫略される事を恐れ、徴発して内陸部に移るよう布令した。民衆は転(却)って相い驚き、廬江・九江・蘄春・広陵の十余万戸が皆な東して長江を渡り、江西はかくて空虚となり、合肥以南にはただ皖城(安徽省安慶市潜山)があるだけだった。

 この件については、『魏志』蔣済伝でも曹操の失策として触れられています。時期的には赤壁の役の時、孫権を合肥から撃退した直後に行なったもののようで、その後に温恢・蔣済のコンビが揚州に赴任しています。

 十九年(214)五月、孫権が皖城を征伐した。閏月、これに克ち、廬江太守朱光および参軍董和と男女数万口を獲た。
この歳、劉備が蜀を平定した。(その翌年、)孫権は劉備が既に益州を得た事で、諸葛瑾に荊州諸郡を求めさせた。劉備は許認せず、「吾れはまさに涼州を図ろうとしている。涼州が平定されたら荊州を尽く呉に与えよう」 孫権 「これを仮して反さず、虚辞で引き延ばそうというのか」 かくて南三郡(長沙・零陵・桂陽)に長吏を置いたが、関羽が尽くこれを逐った。孫権は大いに怒り、かくして呂蒙を遣って鮮于丹・徐忠・孫規ら兵二万を督して長沙・零陵・桂陽三郡を取らせ、魯粛には万人で巴丘[9]に駐屯して関羽を防禦させた。孫権は陸口(咸寧市嘉魚)に往き、諸軍を節度した。呂蒙が到ると二郡は皆な服し、ただ零陵太守郝普のみ下らなかった。おりしも劉備が公安(湖北省荊州市)に到り、関羽に三万の兵を率いて益陽に至らせ、孫権はかくして呂蒙らを召し還して魯粛を助けさせた。呂蒙は人に郝普を誘わせ、郝普が降って三郡の将守を尽く得ると軍を引き揚げて帰還し、孫皎・潘璋と与に魯粛の兵を併せて並進し、関羽を益陽で拒いだ。戦う前にたまたま曹操が(張魯を征服しに)漢中に入り、劉備は益州の喪失を懼れて使者に和を求めさせた。孫権は諸葛瑾に返報させ、更めて尋いで通好を盟(ちか)い、かくて荊州を分けて長沙・江夏・桂陽以東は孫権に属し、南郡・零陵・武陵以西は劉備に属した。劉備が帰った時、曹操は既に帰還していた。

 孫権と劉備の関係を見直すと、両者の実力からいって同盟とはとても呼べなくなります。片や揚州の主人、片や亡命公子を奉じた傭兵団長。劉備の肩書も反故同然となっており、せぜい客将扱いが関の山です。荊南四郡の貸与も、孫呉ではありがちな養兵の為の采邑と新降の治安維持を兼ねたものにすぎません。劉備がこの仕事を放棄した以上、雇用契約に基づいて采邑を没収するのは孫呉としては当然の措置で、この状況で湘西三郡を譲っている事の方が寧ろ不思議です。魯粛がんばったなー。

孫権は陸口より返り、かくて合肥を征伐したが、合肥は下らず、軍を徹収して還った。兵が皆な(帰)路に就き、孫権が淩統・甘寧らと津北に在った時に魏将の張遼に襲われ、淩統らは孫権を死扞(必死の防禦)し、孫権は駿馬に乗って津橋を越えて去る事ができた[10]

 二十一年冬、曹公次于居巣、遂攻濡須。
 二十二年春、權令都尉徐詳詣曹公請降、公報使脩好、誓重結婚。
 二十三年十月、權將如呉、親乘馬射虎於庱亭。馬為虎所傷、權投以雙戟、虎卻廢、常從張世撃以戈、獲之。

 二十一年(216)冬、曹操が居巣に次(やど)り、かくて濡須を攻めた。
 二十二年(217)春、孫権が都尉徐詳をして曹操に詣って降伏を請い、曹操は報使によって修好し、結婚の誓いを重ねた。

 魏志ではスルーされている降伏ですが、通婚までしたという事は藩国の礼と見て良さそうです。袁譚の時もそうでした。魯粛の死と前後するのが象徴的です。以後、猇亭の戦後までこの両者の関係は続きます。関羽の攻滅は共闘の原因ではなく成果の一つに過ぎません。魏志はなぜスルーしたのか。

 二十三年(218)十月、孫権は呉県に如(ゆ)こうとして親しく乗馬して庱亭で虎を射た。馬が虎に傷つけられると孫権は双戟を投げ、虎は却き廃(な)え、常従の張世が戈で撃ってこれを獲えた。

 二十四年、關羽圍曹仁於襄陽、曹公遣左將軍于禁救之。會漢水暴起、羽以舟兵盡虜禁等歩騎三萬送江陵、惟城未拔。權内憚羽、外欲以為己功、牋與曹公、乞以討羽自效。曹公且欲使羽與權相持以鬬之、驛傳權書、使曹仁以弩射示羽。羽猶豫不能去。閏月、權征羽、先遣呂蒙襲公安、獲將軍士仁。蒙到南郡、南郡太守麋芳以城降。蒙據江陵、撫其老弱、釋于禁之囚。陸遜別取宜都、獲秭歸・枝江・夷道、還屯夷陵、守峽口以備蜀。關羽還當陽、西保麥城。權使誘之。羽偽降、立幡旗為象人於城上、因遁走、兵皆解散、尚十餘騎。權先使朱然・潘璋斷其徑路。十二月、璋司馬馬忠獲羽及其子平・都督趙累等於章郷、遂定荊州。是歳大疫、盡除荊州民租税。曹公表權為驃騎將軍、假節領荊州牧、封南昌侯。權遣校尉梁寓奉貢于漢、及令王惇市馬、又遣朱光等歸。

 二十四年(219)、関羽が襄陽に曹仁を囲み、曹操が左将軍于禁を遣って救わせた。おりしも漢水が暴起し、関羽は舟兵にて于禁ら歩騎三万を尽く捕虜として江陵に送り、城だけが抜けずにいた。孫権は内心で関羽を憚り、外に対しては自ら功を為したく思い、牋を曹操に与え、関羽を討って自らの効(あかし)とする事を乞うた。曹操は関羽に孫権と相い対峙して闘わせようとし、駅馬で孫権の書を伝えて曹仁に弩にて(矢文を)射って関羽に示させた。関羽は猶予(逡巡)して去る事が出来なかった。
閏十月、孫権は関羽を征伐し、先に呂蒙を遣って公安を襲わせ、将軍の士仁を獲えた。呂蒙が南郡に到ると南郡太守麋芳が(江陵)城を以て降った。呂蒙は江陵に拠り、老若を慰撫して于禁を虜囚から釈放した。陸遜は別に宜都を取り、秭帰・枝江・夷道を獲って夷陵に還屯し、峡口を守って蜀に備えた。関羽は当陽に還り、西のかた麦城を保った。孫権が降伏を誘わせると関羽は偽って降り、幡旗を立てて城上に人を象って遁走し、兵は皆な解散したが、尚お十余騎(が随った)。孫権は先んじて朱然・潘璋にその径路を断たせた。十二月、潘璋の司馬の馬忠が関羽およびその子の関平と都督趙累らを章郷で獲え、かくて荊州は平定された。
この歳は大疫があり、荊州の民の租税を尽く除いた。曹操が上表して孫権を驃騎将軍・仮節・領荊州牧とし、南昌侯に封じた。孫権は校尉梁寓を遣って漢に奉貢し、王惇に馬を市(交易)させ、又た朱光らを帰らせた[11]

 二十五年春正月、曹公薨、太子丕代為丞相魏王、改年為延康。秋、魏將梅敷使張儉求見撫納。南陽陰・酇・筑陽・山都・中盧五縣民五千家來附。冬、魏嗣王稱尊號、改元為黄初。

二年四月、劉備稱帝於蜀。權自公安都鄂、改名武昌、以武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羨六縣為武昌郡。五月、建業言甘露降。八月、城武昌、下令諸將曰:「夫存不忘亡、安必慮危、古之善教。昔雋不疑漢之名臣、於安平之世而刀劍不離於身、蓋君子之於武備、不可以已。況今處身疆畔、豺狼交接、而可輕忽不思變難哉?頃聞諸將出入、各尚謙約、不從人兵、甚非備慮愛身之謂。夫保己遺名、以安君親、孰與危辱?宜深警戒、務崇其大、副孤意焉。」自魏文帝踐阼、權使命稱藩、及遣于禁等還。

 二十五年(220)春正月、曹操が薨じ、太子曹丕が代って丞相・魏王となり、改年して延康とした。秋、魏将の梅敷が張倹を使わして撫納されん事を求め、南陽郡の陰・酇・筑陽・山都・中盧の五県の民五千家が来附した。

 同じ頃、曹仁伝には 「曹仁を宛に還らせた。〜呉将の陳邵が襄陽を占拠し、曹仁が撃退した」 とあり、『晋書』宣帝紀では、「呉が西進したが、襄樊には穀糧が無いので曹仁を宛に後退させた」 とあります。江陵の接収後、陸遜は房陵・南郷を陥しているので、呉の西進とはこれを指すのでしょう。時系列的には、江陵陥落 → 陸遜の漢水遡上 → 曹仁の後退 → 梅敷の南投 → 呉による襄陽の接収、といったあたりでしょうか。絶賛藩属中に何をやってんだか。
 梅敷に従ったと思われる五県はいずれも襄陽〜老河口一帯の漢水南岸地帯で、梅敷らを接収する過程で必然的に襄陽を手に入れたようです。それでも充分問題ですが、攻め陥したより印象は柔らかくなります。で、この地域は柤中と呼ばれる地域とカブるので、柤中マスター朱然伝を見た処、『襄陽記』に柤中の説明として 「魏時夷王梅敷兄弟三人、部曲萬餘家屯此」 とありました。この頃から係争地になったのね…。孫権は一応許されたようですが、こんな事するから劉備に攻められても援軍もらえなかったのかも知れません。この襄陽占拠の件は、曹丕への南征の勧進表でも孫権の背信の一つとして指摘されています。

冬、魏の嗣王が尊号を称し、改元して黄初とした。

 (黄初)二年(221)四月、劉備が蜀で称帝した[12]。孫権は公安より鄂(湖北省鄂州市鄂城区)に都して武昌と改名し、武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羨の六県にて武昌郡とした。五月、建業が甘露が降ったと上言した。 八月、武昌に城き、諸将に下令した
「存にあって亡を忘れず、安にあって必ず危を慮るのは古えの善き教えである。昔、雋不疑は漢の名臣であり、安平の世にも刀剣を身から離さなかったのは[※]、君子は武備を已めてはならないからであろう。ましてや今は身を疆畔(辺境)に処し、豺狼は交接しており、軽忽(軽率)に変難の事を思わずにいてよかろうか?近頃に聞くなら諸将は出入りの際に各々尚お謙約(倹約)して人兵を従えず、憂慮に備え身を愛すの謂いに背くことが甚だしい。己を保ち名を遺して君親を安んずるのと、危辱とは孰れを是とすべきか?深く警戒し、務めとしてその大なるを崇び、孤の意に副(添)うように (諸将はケチらずに常に護衛兵を従えて殺されぬように備えよ)

※ 雋不疑は昭帝の時代の京兆尹。『春秋』への通暁と礼に則った言行で知られ、巡察官に招聘された際に帯剣したまま出府し、これを咎められると 「剣は君子の武備である」 としてそのまま進んだ。その母が減刑の件数が少ない事を喜ばなかった為、その施政は厳格であっても残酷ではなかったという。始元五年(B82)に戻太子を自称する者が現れると公卿達が判断を下せなかった中、罪のあった主君の子を入れないという『春秋』の義を唱えて捕縛し、後に詐称である事が判明した。漢を通じて名京兆尹とされ、権勢の絶頂にあった霍光との通婚を拒んだ事でも讃えられた。

魏文帝が踐阼してより孫権は命じられて称藩し、于禁らを遣って還した。

十一月、策命權曰:「蓋聖王之法、以コ設爵、以功制祿;勞大者祿厚、コ盛者禮豐。故叔旦有夾輔之勳、太公有鷹揚之功、並啓土宇、幷受備物、所以表章元功、殊異賢哲也。近漢高祖受命之初、分裂膏腴以王八姓、斯則前世之懿事、後王之元龜也。朕以不コ、承運革命、君臨萬國、秉統天機、思齊先代、坐而待旦。惟君天資忠亮、命世作佐、深覩暦數、達見廢興、遠遣行人、浮于潛漢。望風影附、抗疏稱藩、兼納纖絺南方之貢、普遣諸將來還本朝、忠肅内發、款誠外昭、信著金石、義蓋山河、朕甚嘉焉。今封君為呉王、使使持節太常高平侯貞、授君璽綬策書・金虎符第一至第五・左竹使符第一至第十、以大將軍使持節督交州、領荊州牧事、錫君青土、苴以白茅、對揚朕命、以尹東夏。其上故驃騎將軍南昌侯印綬符策。今又加君九錫、其敬聽後命。以君綏安東南、綱紀江外、民夷安業、無或攜貳、是用錫君大輅・戎輅各一、玄牡二駟。君務財勸農、倉庫盈積、是用錫君袞冕之服、赤舄副焉。君化民以コ、禮教興行、是用錫君軒縣之樂。君宣導休風、懷柔百越、是用錫君朱戸以居。君運其才謀、官方任賢、是用錫君納陛以登。君忠勇並奮、清除姦慝、是用錫君虎賁之士百人。君振威陵邁、宣力荊南、梟滅凶醜、罪人斯得、是用錫君鈇鉞各一。君文和於内、武信於外、是用錫君彤弓一・彤矢百・玈弓十・玈矢千。君以忠肅為基、恭儉為コ、是用錫君秬鬯一卣、圭瓚副焉。欽哉!敬敷訓典、以服朕命、以勖相我國家、永終爾顯烈。」是歳、劉備帥軍來伐、至巫山・秭歸、使使誘導武陵蠻夷、假與印傳、許之封賞。於是諸縣及五谿民皆反為蜀。權以陸遜為督、督朱然・潘璋等以拒之。遣都尉趙咨使魏。魏帝問曰:「呉王何等主也?」咨對曰:「聰明仁智、雄略之主也。」帝問其状、咨曰:「納魯肅於凡品、是其聰也;拔呂蒙於行陳、是其明也;獲于禁而不害、是其仁也;取荊州而兵不血刃、是其智也;據三州虎視於天下、是其雄也;屈身於陛下、是其略也。」帝欲封權子登、權以登年幼、上書辭封、重遣西曹掾沈珩陳謝、幷獻方物。立登為王太子。

十一月、孫権に(呉王に封じる)策命があった
 賜物は規定に則っているので曹操の進爵魏王と同じです。
「聖王の法とは徳によって爵を設け、功によって禄を制定した。功が大きければ禄は厚く、徳が盛んなら礼は豊かとなる。だから周公旦には輔弼の勲があり、太公望には帥軍の功があり、共に封国を啓いて下賜品も充分だった。漢高祖が受命した当初、八姓を王としたのも前世の懿事(美事)に倣い、後王が元亀(規範)とするものである。遠く潜水・漢水[13]を経て称藩し、貢物を奉げて諸将を送還した君を嘉し、呉王に封じよう。使持節・太常高平侯の邢貞によって璽綬と策書、金虎符(指揮権の割符)の第一から第五、左竹使符(徴兵権の割符)の第一から第十を授け、大将軍・使持節・督交州・領荊州牧事とし、青い土を白茅の苴(敷物)にて下賜する。故の驃騎将軍・南昌侯の印綬や符策は上呈せよ。又た君に九錫を加えるものである。大輅・戎輅各一と玄牡二駟。袞冕の服と赤舄。軒懸の楽。住居の朱戸。納陛以登。虎賁兵を百人。鈇鉞各一。彤弓一・彤矢百・玈弓十・玈矢千。秬鬯一卣と圭瓚」[14]
この歳、劉備が軍を帥いて来伐し、巫山・秭帰に至った。使者に武陵の蛮夷を誘導させ、仮の印綬と伝(割符)とを与えて封賞を許認した。こうして諸県および五谿(武陵地方の渓谷の総称)の民は皆な蜀の為に反いた。孫権は陸遜を(大)督とし、朱然・潘璋らを督して拒がせ、都尉趙咨を使者として魏に遣った。魏帝が問うた 「呉王とはどのような主だ?」 趙咨 「聡明仁智で雄略の主です」 帝はその状(有り様)を問うた。趙咨 「魯粛を凡品(大衆)から納れたことが聡です。呂蒙を行陣から抜擢した事が明です。于禁を獲えても害さなかった事が仁です。荊州を取るのに刃に血をしなかった事が智です。三州に拠って天下を虎視しているのが雄です。陛下に身を屈しているのがその略です」[15] 帝は孫権の子の孫登を封じようとしたが、孫権は孫登が年幼であるとして上書にて封爵を辞退し、重ねて西曹掾沈珩を遣って陳謝させ、併せて方物(奉物)を献じた[16]。孫登を立てて王太子とした[17]
[1] 孫堅が下邳丞であった時に孫権は生まれた。方形の頤に大きな口、目には精光があり、孫堅はこれを異として高貴の象(しるし)とした。孫堅が死亡して孫策が江東で事を起すと、孫権は常に随従した。性は度量が弘く朗らかで、仁であり決断に長け、侠を好んで士を養い、始めて名が知られると父兄に等しくなった。計謀の毎に参同し、孫策は甚だ奇として自身は及ばないと考えた。賓客との請会(宴会)の毎に常に孫権を顧み 「この諸君が汝の将であるぞ」 (『江表伝』)
[2] 裴松之が調べたところ、『礼記』曾子問篇で子夏は 「三年の喪中でも、金革の事(出征)を避けずとは礼でありますか? 有司が初めたのですか?」 孔子 「私が老耼(老子)から聞いたところでは、昔の魯公伯禽が便宜的に為したという」 ―― 鄭玄注 「周人は哭礼を卒(お)えて致仕した。時に徐戎は兵難を為し、伯禽は哭礼を卒えてこれを征伐した。王命の事を急いだのである」 張昭の云う「伯禽不師」 とはこれを謂うのであろう。
[3] 当初、孫策は上表して李術(李述)を廬江太守として用いたが、孫策が死亡した後、李術は孫権に臣事することを肯んぜず、しかも孫氏からの亡叛者を多く納れた。孫権は書簡で捕縛を求めたところ、李術の返報には 「徳があれば帰順され、徳が無ければ叛かれるもの。返還に応じることは出来ない」
 孫権は大いに怒り、かくして書状で曹操に建白するには 「厳刺史(厳象)は昔日に公が用いたものであり、又た州の挙将(孫権にとっての薦挙者)であります。李術は凶悪であり漢制を軽んじ犯し、州司(厳象)を残害し、無道をほしいままにしています。速やかに誅滅して醜類を懲らすのが妥当です。今、これを討とうというのは、進んでは国朝の鯨鯢(巨悪)を掃除し、退いては挙将の怨讐に報いる為です。これは天下の達義であり、夙夜に甘心(思い続ける)するものであります。李術はきっと誅を懼れ、復た詭説(詭弁)で救援を求めるでしょう。明公は阿衡の任(宰相)に居り、海内が瞻(仰ぎ視)るところです。願わくば執える事を敕し、復た(李術の言を)聴受されませぬよう」 この歳、兵を挙げて皖城に李術を攻めた。李術は閉門して自ら守り、曹操に救援を求めたが、曹操は救わなかった。糧食は乏尽し、婦女には丸泥を呑む者もあった。かくて屠城し、李術を梟首し、その部曲三万余人を徙した。 (『江表伝』)

 厳象は荀ケの薦挙で曹操に認められ、袁術の死後に揚州刺史とされた人です。孫策の死で亡命者が跡を断たなかったという『江表伝』の表現が正しければ、当時の孫呉政権は崩壊の危機に直面していた事になり、曹操の上表による叙任は絶大な支援になった事でしょう。
 廬江地方での梅乾・雷緒・陳蘭らの横行も李術の自立運動に触発されたもので、曹操はこの騒乱が波及しないよう劉馥を揚州刺史として合肥に派遣しました。厳象を殺しはしましたが、李術が曹操にとって明確に討伐対象だったかは疑問で、梅乾らと同列として捉えていたのかも。少なくとも孫権の肩を全面的に支持する義理はありませんし、そもそもこの当時は積極的に廬江問題に介入する余裕はありませんでした。
 この後、廬江地方は曹操が制圧し、赤壁の役で動揺して張遼・臧霸らに再制圧されたものの、建安十九年に呂蒙に奪回されて、、、と帰属が定まらず、曹操の死後も両国の係争地であり続けました。

[4] この時、孫権が官僚と大いに宴会した席で、沈友が(施策の)是非を述べた為に扶け出させて謂った 「人は卿が反こうとしていると言っておる」 沈友は脱れられぬと知り、かく曰うには 「主上は許に在るのに、無君の心を持つ者は反ではないと謂えようか?」 かくてこれを殺した。
沈友、字は子正。呉郡の人である。齢十一の時、華歆が風俗を視察していると沈友を見て異とし、呼びかけた 「沈郎よ、車に登って語り合おうか?」 沈友は逡巡して却け 「君子の講好(交誼)とは宴会を以て礼とします。今、仁義は陵遅(頽廃)し、聖道は漸壊しています。先生が主命を奉じるのは、先王の教えを裨補して風俗を整斉させる為ではありませんか。それなのに威儀を軽脱しようとは、あたかも薪を負って救火(消火)し、その炎を更に重ねるようなものではありませんか!」 華歆は慚じ 「桓帝・霊帝より以来、英傑は多かったとはいえ、この幼童のような者はいなかった」 弱冠にして博学であり、多くに貫綜(通暁)し、文辞を綴る事に善かった。武事を兼ね好み、孫子の兵法に注を施した。又た口弁にも長じ、至る所で衆人は皆な默然とし、対論する者が莫かった。咸ながその筆之妙、舌之妙、刀之妙の三者が皆な人より過絶していると言った。孫権は礼を以て招聘し、至った後は王覇の経略や当時の時務を論じ、孫権は敬して斂容した。荊州を併合すべき計略を述べ、これを納れられた。色を正して朝議に立ち、清議は峻獅ナあり、庸臣(凡庸な臣)に譖されて謀反として誣告された。孫権も亦た結局は己の用を為さないと考え、その為これを害した。時に齢二十九だった。 (『呉録』)

 華歆は孫権の下を去った人間なので、後の呉人は躊躇なく貶めます。『呉録』しかり『曹瞞伝』しかり。又たその曾孫の華軼は東晋に逆らったので、東晋を通じて華歆の評価は更に落ち、『後漢書』では曹瞞伝の記事が公式記録として採用される程でした。
因みに、華歆が江東地方を視察したのは馬日磾に随行し、且つ豫章太守になる前なので、192〜193年。建安九年の沈友の年齢が合いません。そもそも建安九年に差し込む根拠が無いので、曹操の南征が呉で検討され始めた建安十七年あたりだとタイミングとしても動機としてもいい感じです。

[5] 晋は新定を改めて遂安とした。 (『呉録』)
[6] 晋は休陽を改めて海寧とした。 (『呉録』)
[7] 曹操が孫権に与えた書簡 「近頃、辞を奉じて罪を伐ち、旄麾は南を指し、劉jは束手(降伏)した。今、水軍八十万の手勢を治め、まさに将軍と呉で会猟しようではないか」 孫権が書簡を得て群臣に示すと、嚮震(驚震)して色を失わぬ者は莫かった。 (『江表伝』)
[8] 曹操は濡須に出場すると油船を作り、夜間に中洲の上に渡らせた。孫権は水軍で囲み取って三千余人を得、没溺者も亦た数千人だった。孫権はしばしば挑戦したが、曹操は堅守して出なかった。孫権は自ら軽船に乗って来り、濡須口より曹操の軍営に入った。諸将は皆なこれは挑戦者だと考え、これを撃とうとした。曹公 「これはきっと孫権が自ら我が軍の部伍を見ようとしたものだ」 軍中皆なに精厳(厳戒)させ、弓弩を妄りに発させなかった。孫権は行くこと五・六里で迴頭し、帰還には鼓吹を為した。曹操は舟船の器仗や軍伍が整粛である事を見、喟然歎(歎息)し 「子を生むなら孫仲謀の如くであるべきだ。劉景升の児子は豚犬のようなものだ!」 孫権が曹操への牋(札簡)で説くには 「春はまさに水が生ず。公は宜しく速やかに去るべし」 別の紙で言うには 「足下が死なねば孤は安んずる事が出来ぬ」 曹公が諸将に語るには 「孫権は孤を欺かぬ」 かくして軍を徹収して帰還した。 (『呉録』)
―― 孫権が大船に乗って来て軍を観、曹公は弓弩を乱発させた。箭はその船に著しく、船が偏えが重くなって顛覆しそうになると孫権は船を迴らせ、復た一面に箭を受け、箭は均しく船は平らとなり、かくして還った。 (『魏略』)

云うまでもなく、諸葛亮の箭十万の元ネタ。

[9] 巴丘は今の巴陵(湖南省岳陽市区)である。
[10] 張遼が呉の降人に問うた 「向うの紫髯将軍で、上背は長く腰下は短く、馬に長じ射に善いのは誰だ?」 降人が答えるには 「孫会稽です」 張遼は楽進と遭遇して言うには、早くに知っておれば急追して得られたものを、と。軍を挙げて歎じ悔恨した。 (『献帝春秋』)
―― 孫権は駿馬に乗って津橋に上り、橋の南は既に撤去されて一丈余り板が無かった。谷利が馬の後ろに在り、孫権に鞍を持って馬を控え緩めさせ、谷利が後ろから鞭打って馬の勢を助け、かくて渡津を超えることができた。孫権は免れた後、即座に谷利を都亭侯に拝した。谷利は本来は左右にて給使する者で、謹直として親近の監とされていた。性は忠果亮烈で疎かな事は言わず、孫権はこれを愛信した。 (『江表伝』)
[11] 梁寓、字は孔儒。呉の人である。孫権は梁寓を遣って曹操を観望させた。曹操は掾としたが、尋いで南に還らせた。 (『魏略』)
[12] 孫権は魏文帝が受禅し、劉備が称帝したと聞くと、星を知る者を呼んで問うには、己の分野の星気はどのようであるかと。かくて僭意を持った。しかし官位が尚おも低く、大衆に対する威も無く、又た先に卑しくして後に驕ろうと考えた。卑しければ寵を仮され、後に踞れば必ず討たれ、討たれれば必然として大衆は怒り、大衆が怒れば必然的に己を大きくできる。そのため蜀とは深く絶って専ら魏に臣事したのである。 (『魏略』)
[13] 沱水と潜水が旧河道に戻った。鄭玄注に曰く 「長江より出る水を沱とし、漢水より出る水を潜とする」 (『禹貢』)

 筑摩訳そのまんま転載です。原文は『沱潜既道、注曰:「水自江出為沱、漢為潜。」』 沱水は長江の上流域、潜水は漢水の上流域の支流です。

[14] 孫権の群臣が議し、上将軍・九州伯と称すのが妥当で、魏の封を受けるべきではないと。孫権 「九州伯とは古えにも聞いたことが無い。昔、沛公も亦た項羽の拝を受けて漢王となったが、これは時宜に応じたものに過ぎない。復た何の損失となろうか?」 かくてこれを受けた。 (『江表伝』)
―― 孫盛曰く、「昔、伯夷・叔斉は周に屈せず、魯仲連(斉の義士)は秦の民とならなかった。匹夫の志でも猶お義として辱められないのだ。ましてや天下を三分した列国の君たる者がその節を二・三にして臣を称したりしなかったりなどという事があろうか? 余が呉・蜀を観るに、咸な漢を奉じると称したが、漢代には能く臣節を固く秉る事が莫かった。 君子はこれによって昌厥の後(盛期が欠如した後)に克服できず、結局は大国に併呑される事を知ったのである。孫権が群臣の議に従い、終身で漢の将を称していれば、どうして六合(天下)がその義を悲しみ、その仁が百世を感動させないという事があろうか!」
[15] 趙咨、字は徳度。南陽の人である。博聞多識で応対の弁辞は捷く、孫権が呉王となると中大夫に抜擢され、魏に使いした。魏文帝は親善し、戯嘲して趙咨に 「呉王はどれほど学問を理解している?」 答 「呉王は長江に舟艇万艘を浮かべ、甲兵百万を帯び、賢者に任せて能く使い、志は経略にあります。余暇の時間には書伝(経書と注釈)や歴史書を博く閲覧し、典籍から奇異のものを採っているとはいえ、諸生(学者)のように尋章摘句(一言一句の解釈)で満足する事を是としておりません」 帝 「呉を征伐する事は出来ぬか?」 趙咨 「大国には征伐の兵があり、相国には防禦に備えた固めがあります」 帝 「呉は魏を難しとしていないのか?」 趙咨 「百万の帯甲兵と長江・漢水を濠としております。どうして難しとしましょう?」 帝 「呉に大夫の如き者は幾人おるか?」 趙咨 「聡明で特に通達した者は八・九十人。臣の如きは車に載んで斗で量り、数えることはできません」 趙咨は頻載(連年)北へ使いし、魏人は殊に敬った。孫権は聞くとこれを嘉し、騎都尉に拝した。趙咨が言うには 「観たところ北方は結局は盟約を守る事ができません。今日の計としては、朝廷は漢四百年の後を承け、東南の運気に応じています。年号を改め、服色を正し、天に応じ民に順う事が妥当であります」 孫権はこれを嘉納した。 (『呉書』)
[16] 沈珩、字は仲山。呉郡の人である。若干より経書と諸芸を統べ、『春秋』の内伝(『左伝』)と外伝(『国語』)に最も通じた。孫権は沈珩に智謀があり、対応の辞にも長じている事から使者として魏に遣った。魏文帝が問うた 「呉は魏が東向する事を嫌疑しているか?」 沈珩 「否」 帝 「何故か?」 沈珩 「信に旧の盟を恃み、言葉は好誼に帰すと申します。だから嫌疑しないのです。もし魏が盟を違えても、予めの備えはあります」 帝 「太子がじきに来ると聞くが、そうか?」 沈珩 「臣は東朝にあって(呉の)朝議には列座しておらず、宴席にも与っておりません。そのような議は聞いておりません」 文帝はこれを善しとして沈珩を近くに引き寄せ、終日談語した。沈珩は万事に応答して屈服する事がなかった。
沈珩が帰還して言うには 「臣が密かに交わった侍中劉曄は、しばしば賊(魏)の為に姦計を設けており、結局は長らくは(盟約を)慎まないでしょう。臣が聞くところでは、兵家の旧論では敵が我を犯さぬ事を恃まず、我が犯されぬ事を恃めと。今、朝廷の為にこれを慮りましょう。雑役を省き止め、ただ農桑に務めて広く軍資とし、舟・車を修繕し、戦具を増作して皆なが兼盈できるよう命じましょう。兵と民を撫養し、各々が生業を得られるようにしましょう。英俊を広く招聘し、将士を奨励すれば天下を図る事ができましょう」 使いを奉じて称えられ、永安郷侯に封じられ、官は少府に至った。 (『呉書』)
[17] この歳、魏文帝は遣使して雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・瑇瑁・孔雀・翡翠・鬭鴨・長鳴雞を求めた。群臣が上奏した 「荊・揚の二州には貢物として法典に定めがあり、魏の求める珍玩の物は『礼』に適いません。与えてはなりません」 孫権 「昔、恵施が斉を尊んで王とした時、賓客が非難して 『公の学問は尊貴を排除しているのに、今、斉を王とした。なぜ倒錯するのか?』 恵子 『ここに人があり、その愛子の頭を撃ちたくなり、石でこれに代えたとする。子の頭は重んずるものであって石は軽いものだ。軽きを以て重きに代えたのだ。何がいけない?』と。まさに西と北は有事であり、江表は主を恃んで生命としている。これは我が愛子ではないか?彼の求めるものは我が瓦石に過ぎず、孤はどうして惜しもうぞ?彼は諒闇(服喪)の中に在るのにこのような物を求めるのだ。寧ろ礼を説くより与えてやれ!」 皆な揃えてこれを与えた。 (『江表伝』)
 


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