策字伯符。堅初興義兵、策將母徙居舒、與周瑜相友、收合士大夫、江・淮間人咸向之。堅薨、還葬曲阿。已乃渡江居江都。
舒に徙居したのはいつ頃か。周家と袁家の係累を肯定し、周家を預け先にした点を考えると190年に入ってから、袁術の部将になった後でしょう。両家は和帝の時代に袁安と周栄が密接な主従関係にありました。その後の交流状況とかは不明ですし、百年前の関係をダシに部将の家族の世話を頼まれても困りますが、梁冀の時代に周景が袁湯に薦挙されているくさく、しかも両家とも董卓に戮されていたりと、歴代で協同歩調していた気配が感じられます。袁家と周家の繋がりで孫堅が家族を預けたのなら、この時点での孫策と周瑜の関係は、孫堅と袁術を仲介としたものに過ぎません。だから孫堅の死で関係が切れると、周家を頼れなくなって江都に移住しましたか。
なぜ父の実家も母の実家も頼らなかったのか。孫静や呉氏との微妙な関係か、さもなくば袁術が勢力圏外の江東に行く事を禁じたか。
徐州牧陶謙深忌策。策舅呉景、時為丹楊太守、策乃載母徙曲阿、與呂範・孫河倶就景、因縁召募得數百人。興平元年。從袁術、術甚奇之、以堅部曲還策。太傅馬日磾杖節安集關東、在壽春以禮辟策、表拜懷義校尉、術大將喬蕤・張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎、死復何恨!」策騎士有罪、逃入術營、隱於内厩。策指使人就斬之、訖、詣術謝。術曰:「兵人好叛、當共疾之、何為謝也?」由是軍中益畏憚之。術初許策為九江太守、已而更用丹楊陳紀。後術欲攻徐州、從廬江太守陸康求米三萬斛。康不與、術大怒。策昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。術遣策攻康、謂曰:「前錯用陳紀、毎恨本意不遂。今若得康、廬江真卿有也。」策攻康、拔之、術復用其故吏劉勳為太守、策益失望。
いきなり謎設定です。この設定を考えていく上で、陶謙の野心や袁術との関係が露わになります。少なくとも、孫策が何かして憎まれたというのは、両者の年齢差や立場の違いを考えると可能性は低そうです。孫堅に従軍した後に陶謙の下に派遣された朱治が、この頃には積極的に孫策の世話を焼いてます。
もう1つ。曲阿は呉郡の所属です。文脈的に呉景が丹楊太守でありながら曲阿に居た事を仄めかしています。呉景の任務は袁紹系の丹楊太守周マを破る事。後発でもあり、しかも本拠の呉郡は許貢に牛耳られているので曲阿に拠っていたという図です。そうであるなら孫堅を曲阿に還葬したのも尤もです。又た、その後に孫策が一旦は江都に移住した事は、孫堅が歿した当時は陶謙との関係が悪くなかった事を示しています。
興平元年(194)になった。袁術に従った際に袁術はこれを甚だ奇とし、孫堅の部曲を孫策に返還した[3]。 武帝紀では初平四年(193)に孫策が揚州経略を開始したと謂い、『後漢書』では興平元年(194)に劉繇を破ったとあります。この箇所はテキストでは 「興平元年、從袁術。術甚奇之、以堅部曲還策。」 とあり、その通りに読むと、興平元年に袁術に出仕した事になり、その歳の内に九江太守を反故にされ、陸康を降し、それから揚州に進んで劉繇を破った事になります。随分と忙しないものですが、そもそも出仕直後の若造に果たして太守を約束するでしょうか?
後に『呉録』で劉繇を江東から逐ったのは興平二年の冬あたりだと判明するので、一年以上続く廬江攻略の開始を興平元年に置く事は可能ですが、やはり出仕年の慌しさと袁術の緩さが異常です。これは孫策伝が年次を省き、しかも同類の事件を時系列を無視して並べてしまっているのが混乱の元凶で、おそらく 「従袁術」 から、ずっと後の 「策昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。」 が前振りで、文章的には 「興平元年、術遣策攻康、」 と繋がるのではないでしょうか。孫策の出仕は遅くとも初平四年(193)あたりでしょう。
もし本当に興平元年に出仕した設定なら、服喪をキッチリやらせたい『呉書』の記述を陳寿が丸写しした為だと思われます。孫呉は服喪規定にやたら厳しいのだ。
主語が無いのでうっかり孫策の事かと誤解しますが、袁術の部将連が敬ったのは馬日磾でしょう。
この馬日磾が孫策周りのキーパーソンです。192年に李傕・郭が主宰する朝廷から派遣され、寿春で袁術に軟禁されてそのまま歿してしまいますが、その間に孫策や朱治などを承制で叙任して袁術の基盤固めに利用されています。
江東に自立するまでの孫策が接触した名士系の群雄は、ほぼ袁術のみです。孫策の非凡さを伝える為にはどうしても袁術の口を借りる必要があります。孫策伝には周瑜や張紘の名も見えますが、いずれも孫策に従う予定なので余りに褒めさせすぎても白々しいだけになります。そんな袁術にべた褒めされ、将来を期待されて超優遇された孫策が袁術を裏切るのが孫策伝前半の趣旨なので、随所に袁術の不義理を挟まないと孫策は忘恩の徒になってしまいます。袁術の僭称という格好の事件でも孫策は碌に諫めてもいないので、袁術の約束違反は強調されなければなりません。
先是、劉繇為揚州刺史、州舊治壽春。壽春、術已據之、繇乃渡江治曲阿。時呉景尚在丹楊、策從兄賁又為丹楊都尉、繇至、皆迫逐之。景・賁退舍歴陽。繇遣樊能・于麋〔東屯江津〕、張英屯當利口、以距術。術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史、更以景為督軍中郎將、與賁共將兵撃英等、連年不克。策乃説術、乞助景等平定江東。術表策為折衝校尉、行殄寇將軍、兵財千餘、騎數十匹、賓客願從者數百人。比至歴陽、衆五六千。策母先自曲阿徙於歴陽、策又徙母阜陵、渡江轉鬭、所向皆破、莫敢當其鋒、而軍令整肅、百姓懷之。
この時点で袁術に従う孫家の統領は孫賁です。それは孫賁の官位や、劉繇討伐に派遣された事でも明らかで、孫策は功を求めて 「駆け込んだ」 も同然です。しかも協働している呉景や周瑜らにしても家格面でも実勢力でも孫策よりずっと上で、孫策の側にいる朱治の存在も無視できません。ワンマン経営の曹操や劉備より当時の孫策の置かれた状況は複雑なようです。
孫策の母はこれより先に曲阿より歴陽に徙っており、孫策は又た母を(九江郡の)阜陵(滁州市全椒)に徙した。渡江して転闘し、向かう所で皆な破り、その鋒に当ろうとする者は莫かった。軍令は整粛で、百姓が懐いた[5]。策為人、美姿顏、好笑語、性闊達聽受、善於用人、是以士民見者、莫不盡心、樂為致死。劉繇棄軍遁逃、諸郡守皆捐城郭奔走。呉人嚴白虎等衆各萬餘人、處處屯聚。呉景等欲先撃破虎等、乃至會稽。策曰:「虎等羣盜、非有大志、此成禽耳。」遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。盡更置長吏、策自領會稽太守、復以呉景為丹楊太守、以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡、以賁弟輔為廬陵太守、丹楊朱治為呉郡太守。彭城張昭・廣陵張紘・秦松・陳端等為謀主。
以上は建安元年(196)の事です。呉景は劉繇を駆逐すると寿春に帰還しているので、呉会経略には従っていません。孫賁も呉景と同道して北帰しているので、孫策は本隊抜きで呉会を攻略しなければならず、かなり苦戦しています。実家から已むなく孫静に援軍を要請するほどに。詳細は孫静伝にて。
この会稽太守王朗は歴とした朝臣で、しかも陶謙に送り込まれて劉繇を支援していた名士なので、孫策としてはさっさと潰しておきたい相手です。尚お呉郡の攻略は朱治が担当しました。
これは恐らく、陳寿が類似の行為を一まとめにしたものです。実際に呉景・孫賁が孫策に合流するのは袁術が僭称した後で、廬陵にまで主権を主張するのは袁術の死後、劉勲と対立した後になります。もしくは、袁術が僭称する頃には孫策は揚州をほぼ支配していたと主張したい『呉書』の筆法か。
時袁術僭號、策以書責而絶之。曹公表策為討逆將軍、封為呉侯。後術死、長史楊弘・大將張勳等將其衆欲就策、廬江太守劉勳要撃、悉虜之、收其珍寶以歸。策聞之、偽與勳好盟。勳新得術衆、時豫章上繚宗民萬餘家在江東、策勸勳攻取之。勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江、勳衆盡降、勳獨與麾下數百人自歸曹公。是時哀紹方彊、而策并江東、曹公力未能逞、且欲撫之。乃以弟女配策小弟匡、又為子章取賁女、皆禮辟策弟權・翊、又命揚州刺史嚴象舉權茂才。
読みようによっては、独立勢力の孫策に対して曹操が御機嫌取りをしているように見えます。少なくとも陳寿もしくは韋昭はそのつもりで書いているので、そう読めます。しかし曹操任命の牧守が曹操の命令で孫策の弟を薦挙したというのは、孫家にとって看過できない負債を背った事でもあります。例えば袁譚は劉備の薦挙を受けてしまった為、ほぼ単身で亡命してきた劉備を親子で鄭重に扱う羽目に陥りました。ましてや孫権の相手は漢の司空ですから、その重さは袁家に対する劉備の比ではありません。そうであれば後に孫権の朝廷の御歴々が曹操への服従を唱えたのも尤もな事になります。
建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝、密治兵、部署諸將。未發、會為故呉郡太守許貢客所殺。先是、策殺貢、貢小子與客亡匿江邊。策單騎出、卒與客遇、客撃傷策。創甚、請張昭等謂曰:「中國方亂、夫以呉・越之衆、三江之固、足以觀成敗。公等善相吾弟!」呼權佩以印綬、謂曰:「舉江東之衆、決機於兩陳之間、與天下爭衡、卿不如我;舉賢任能、各盡其心、以保江東、我不知卿。」至夜卒、時年二十六。
許貢がらみで呉郡太守の遍歴を考えてみました。呉郡都尉の許貢が太守の盛憲に取って代った時期は不明ですが、袁術の揚州進出(193)の混乱に乗じたような気がします。盛憲の太守就任の時期も不明ですが、高岱の挙動を見るに、どうも陶謙の息がかかっていたような感じです。そして194年に馬日磾の承制によって朱治が呉郡都尉とされます。太守もこのとき袁術系の誰かが任命された筈です。
孫策が王朗・許貢を破ったのが196年で、このとき袁術によって朱治が呉郡太守とされます。朝廷の方では陳瑀を行太守に任命しているので、両者の対決は必至です。この時の朝廷は曹操の統制下にありますが、翌年には江北の陳瑀が孫策に大破されて朱治の支配が確定します。
なお、朱治に敗れた許貢は厳白虎を頼り、その後の去就は不明ですが、助命されてどこぞの長吏に就いていたものと思われます。
權稱尊號、追諡策曰長沙桓王、封子紹為呉侯、後改封上虞侯。紹卒、子奉嗣。孫晧時、訛言謂奉當立、誅死。
事実かどうかは不明ですが、当時の孫策には公的にアテにできるものは殆ど無かった筈。辞退が事実なら 「漢からの封爵は受けたくありません」 という意思表示にもなりますが、どうでしょう。
本伝の方でも孫堅の兵を還すの何のとありますが、孫堅伝の最後に出た、孫堅の兵は孫賁が統率している設定はどっか行っちゃいましたかね。それとも孫家の私兵と孫堅の部曲は明確に区別されていたとか?だとしたら誰か孫家由来の人がまとめていた筈ですが、それについて言及が皆無です。
東奔西走しすぎのような気がしますが、、、気にしたら負けか。なんたって『江表伝』ですから。
劉璋の名が無いのは措いておくとして、ちゃっかり劉備の名が差しこまれているあたりで後世の創作を疑ってしまいます。劉備がいないか、劉備と呂布を並べていればまだ信憑性はあったんですが。
文章の趣旨を外れない程度に簡訳してみました。誰が書いただのには興味ありませんが、どう見たって絶交書ではありません。それどころか諫言だとしても大分に柔らかいものです。「時期尚早だから、もう少し御膳立てが整ってからにしては?」 としか読み取れませんがどうでしょう?
そもそも絶交したとしている本伝では曹操が叙任を“上書”し、『江表伝』では勅使が詔書をもたらしていますが、孫策が“上書”したとは何処にも書かれていません。下手したら切り崩しの為に、丹楊問題で袁術と揉めていたかもしれない孫策に曹操が一方的に勧誘をかけている可能性だって無いとは云い切れません。現に次の[10]では、正当防衛の立場を採りつつ朝廷派遣の陳瑀を駆逐しています。これなどは曹操と袁術の代理戦争の典型例です。
ともあれ、この後も孫策は袁術に対して積極的な敵対行動はしていません。曹操が陳で袁術軍を大破した時も、袁術が劉備を攻めた時も北に兵を動かした様子はありません。孫策は歴陽に従弟の孫輔を残して会稽攻略に集中しています。まるでフリだけで、袁術とは北上と南下の役割分担をしているかの様です。孫策が膝を折ったのは曹操ではなく献帝だからという解釈もありますが、袁術を攻めない理由にはなりません。この頃の孫策は恐らく袁術と曹操を天秤にかけて、少なくとも漢室に対する忠誠は掛け声に過ぎなかったものと思われます。孫堅と同じで。
『江表伝』にあれこれツッコむのも野暮ですが、詔勅となると無視は出来ません。これは恐らく袁術の僭称に対し、袁術の与党と思われる勢力に発した一種の檄文でしょう。朝廷に帰順する気があるのなら陳瑀と歩調を合わせて忠誠を示しなさいよ、というだけのもので、決して当時の形勢を反映したものではありません多分。
孫策は自ら兵馬を統領するのに騎都尉領太守では軽いと考え、将軍号を欲した。かくして人に王ヲに諷させ、王ヲはただちに承制にて孫策に明漢将軍を仮した。この時、陳瑀は海西に屯していた。孫策は詔書を奉じて戒厳にて治め、呂布・陳瑀と与に参与して形勢を同じくし、行きて銭塘に到達した。陳瑀は陰かに孫策の襲撃を図り、都尉万演らに密かに渡江させ、印章三十余紐を持たせて丹楊・宣城・・陵陽・始安・黟・歙の諸々の険悪な県の大帥の祖郎・焦已および呉郡烏程の厳白虎らの賊に与えて内応させ、孫策が軍を発する時を伺い、諸郡を攻取しようとした。孫策はこれを覚り、呂範・徐逸を遣って海西に陳瑀を攻め、陳瑀を大破してその吏士および妻子四千人を獲た。 (『江表伝』)ここで謂う海西は海西県(宿遷市沭陽)ではない、とは云い切れませんが、江東に相対するには余りにも北に偏っていて、呂布がノーリアクションなのも不思議です。海陵の間違いなんじゃないかなぁ。ただ『江表伝』なので、本気で海西まで北上した事にしているのかも知れません。いずれにせよ、袁術と断交して朝廷に帰順した筈の孫策は、袁術そっちのけで与党の筈の陳氏と戦っていた事になります。同じ頃の事かと思われますが、呂布伝を補う『先賢行状』では孫策自身が、曹操と結んだ広陵太守陳登を攻めて敗退しています。
―― 陳瑀は単騎で冀州に走り、自ら袁紹に帰順し、袁紹は故安都尉とした。 (『山陽公載記』)劉繇が江東を逐われた凡その時期もこの上表によって確定できます。袁術による孫策の叙任は劉繇を逐い落した結果でしょうから、劉繇が江東から逐われたのは195年の秋〜冬だと思われます。
―― 建安三年(198)、孫策は又た遣使して方物を貢納し、元年に献じた物の倍であった。その年、制書にて討逆将軍に転拝し、呉侯に改封した。 (『江表伝』) 私見を云わせてもらうと、“詔勅”というのは、孫策に権威付けをしたい『江表伝』の騙りです。詔勅の内容には触れずに 「詔勅を被った」 とあります。既に呂布の名が無く、董承が衛将軍なので198年3月〜199年3月に出されたものだと予想できます。討つ側に劉璋がいて、討たれる側として袁術と劉表が並列されています。武帝紀によれば、劉璋が朝廷に帰順の姿勢を見せるのは建安十三年(208)なのですが、劉璋が劉表と一触即発なのを踏まえ、踏み絵を兼ねて命令が出された可能性は否定できません。
『後漢書』には、董承・趙岐の要請で、劉表が洛陽復興を援助したという記述があります。出典元を確認していないので信憑性には欠けますが、これが事実なら、劉璋ではなく劉表に袁術を討たせればいいんです。どうせ行ってこいの詔勅なんですから。にも拘らず劉璋を出して来たのは、『江表伝』の趣旨として孫策と劉表が共闘するなどあり得ないからでしょう。この頃には袁術と劉表の不和が解消していた可能性も、後の劉勲の行動から読み取れなくもないですが、劉璋にさせた踏み絵を劉表にさせない理由にはなりません。
劉勲は結果として、華歆に振り回された事になります。又た当時の曹操は既に袁紹・劉備に挟撃されかねない情勢にあるので、孫策の行動は曹操の為に劉表を牽制している事にもなります。因みに孫権も赤壁の役までは曹操の軍事に呼応するように江夏に出兵しています。 華歆伝を見る限り、袁術が死んだ後の華歆にも孫策と敵対する理由が見当たらないので、孫策と協働したのかもです。
―― 孫策の上表 「臣は黄祖を討ち、十二月八日に黄祖の屯所の沙羨県に到着しました。劉表は将を遣って黄祖を助けさせ、挙げて臣に赴かせました。臣は十一日の明方に部下の領江夏太守・行建威中郎将周瑜、領桂陽太守・行征虜中郎将呂範、領零陵太守・行蕩寇中郎将程普、行奉業校尉孫権、行先登校尉韓当、行武鋒校尉黄蓋らと時を同じくして倶に進みました。私も兵士も超頑張りました。風上から火を放ち、辰時(午前九時頃)になって黄祖の軍は潰爛しました。黄祖は逃げ、その妻子男女七人を獲え、劉虎・韓晞以下二万余人を斬り、水に走って溺死した者も一万余り。船六千余艘と財物が山積しました。劉表は禽えていませんが、黄祖は狡猾でかねて劉表の腹心爪牙であり、劉表の鴟張は黄祖の気息によるものです。黄祖の家属・部曲は余さず地を掃き、劉表は孤立して捕虜とならねば鬼や尸となるばかりです。これらは皆な聖朝の神武遠振によるもので、臣も有罪を討ち、些か勤めて証を得ました」 (『呉録』)高岱が殺された件は、一見すると孫策が勘違いだか些細な行き違いから感情的になって名士を殺したように見えますが、そもそも盛憲の関係者だったのが原因でしょう。孫呉による盛憲党への追及は執拗だったようで、孫翊の横死に乗じてこの方針を再開しようとした孫河が殺されるという事件も発生しています。過去話に陶謙が出てきているのが興味深く、何かと揚州への進出を窺っていた事を示唆しています。
―― 時に道士として琅邪の于吉があり、東方に寓居していたものが呉会に往来して精舍を立て、焼香して道書(黄老の書)を読み、符水を制作して病を治療し、呉会の人は多くこれに仕えた。孫策が嘗て郡城の門楼の上で諸将や賓客を集めて宴会した時、于吉が盛服して小函を手にし、これに漆で画いて仙人鏵と名付けたもので、趨って門下を渡った。諸将・賓客の三分之二が楼を下りて迎えて拝し、掌賓者が禁呵しても止められず、孫策は直ちに命じてこれを収捕させた。諸々の仕える者は悉く婦女を使って孫策の母に入見させ、助命を請わせた。母が孫策に謂うには 「于先生は亦た軍を助けて福を為す人で、医術で将士を護ってくれます。殺してはなりません」 孫策 「こやつは妖妄で、能く衆心を幻惑する者です。遠くより諸将に復た君臣の礼を顧みさせず、尽く策を棄てて楼を下りて拝礼させました。赦すことはできません」 諸将も復た通白事陳(事情を述べて)して助命を乞うた。孫策 「「昔、南陽の張津が交州刺史となり、それまでの聖王の典訓を捨て、漢家の法律を廃し、常に絳帕頭(赤頭巾)を着け、鼓琴焼香して邪俗の道書を読み、教化の助けだと云っていたが、たちまち南夷に殺された。これが無益であること甚だしいのに、諸君がただ悟っていないだけなのだ。今、こやつは既に鬼籙に在る。二度と紙筆を費やしてはならぬ」 即座に促してこれを斬り、首を市に懸けた。諸々の仕える者は尚も死んだとは謂わずに尸解(成仙)したのだと云い、復た祭祀して福を求めた。 (『江表伝』)もはやどこまで実話か判りませんが、江東での民間宗教の影響力を示す好例ではあります。そして孫策の措置は主旨としては間違っておらず、俗宗の規制は為政者の必須業務です。特に呉会地方では民間宗教が変に化学反応を起して兇暴になるのは、二百年後の孫恩の乱に見る通りです。曹操の宗教規制との違いは、孫策がルールを立てずに 「気に入らないから斬る」 点です。
―― これより前の順帝の時、琅邪の宮崇が宮闕に詣り、師の于吉が曲陽の泉水の上(ほとり)で得た神書を上呈した。白素朱界(白絹に朱の罫線)し、『太平青領道』と号し、凡そ百余巻あった。恐らくこの張津は劉表伝にある張羨の事だと思われます。
―― 策欲渡江襲許、與吉倶行。時大旱、所在熇氏B策催諸將士使速引船、或身自早出督切、見將吏多在吉許、策因此激怒、言:「我為不如于吉邪、而先趨務之?」便使收吉。至、呵問之曰:「天旱不雨、道塗艱澀、不時得過、故自早出、而卿不同憂戚、安坐船中作鬼物態、敗吾部伍、今當相除。」令人縛置地上暴之、使請雨、若能感天日中雨者、當原赦、不爾行誅。俄而雲氣上蒸、膚寸而合、比至日中、大雨總至、溪澗盈溢。將士喜ス、以為吉必見原、並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜、共藏其尸。天夜、忽更興雲覆之;明旦往視、不知所在。 (『捜神記』)孫策は許の襲撃に于吉を伴った。孫策は船を急かしたが、将兵の多くが于吉を拝しているのを見て激怒し、于吉を収捕して死刑と雨乞いを引替えにした。一帯は熇(猛熱)に苦しんでいたが、忽ち大雨が降った。孫策は結局は于吉を殺した。将兵はその屍を匿したが、夜に雲に覆われ、翌朝には行方不明になっていた。
―― 『江表伝』と『捜神記』では于吉の事は同じではなく、何れが是か詳らかではない。どちらか一方が事実である必要はありません。
何にしても孫策が襲撃された場所を含め、孫策伝は情報量が少なすぎ、結果的に裴松之の過剰供給となり、却って事実を判りにくくしているのは残念な事です。
そもそもこの当時、韓当は鄱陽郡の楽安にいますし。
―― 裴松之が考えるに、『傅子』も亦た曹操の征柳城にて許を襲おうとしたと云っている。記述としてこのようであるなら何と疎かな事か! しかし孫盛が譏る事も悉くは是と出来ない。黄祖は始めて孫策に破られて魂気は返っておらず、しかも劉表の君臣にはもとより兼併の志は無く、上流に在るとはいえどうして呉会を窺っていたといえよう? 孫策のこの挙は、道理として先ず陳登を図るものであったろう。但し挙兵の目的は陳登のみに留まらない。このとき彊宗や驍帥、祖郎や厳白虎の輩は禽滅され尽しており、余す所の山越はどうして慮るに足るものと云えようか? そうであるなら孫策の規図について、暇が無かったと謂う事は出来ないのだ。もし孫策が志す所を獲て大権を手にしたなら、淮・泗の何処でも皆な都に出来、どうして江外に志を終え、揚越の地に帝を遷す必要があろうか? 魏武紀を調べた処、武帝は建安四年に既に官渡に出屯しており、これは孫策の死ぬ前に久しくして袁紹と兵を交しており、つまり『三國志』の誤謬とは云えないのである。裴松之さんの随所でのドヤ顔が浮かびますが、孫呉が山越にどんだけ苦しんだかは見ぬふりでしょうか。それに劉表は荊南平定に奮闘中で、まだ無気力認定はされていない時期です。しかも最後のドヤの極みな譬えですが、許貢を君子扱いしていいんでしょうかコレ。
評曰:孫堅勇摯剛毅、孤微發迹、導温戮卓、山陵杜塞、有忠壯之烈。策英氣傑濟、猛鋭冠世、覽奇取異、志陵中夏。然皆輕佻果躁、隕身致敗。且割據江東、策之基兆也、而權尊崇未至、子止侯爵、於義儉矣。
“軽佻果躁”が全てを物語っています。「孫郎」だの「小覇王」だの「断金」だのに眩惑されなければ、気性が荒いお山の大将に過ぎません。個人的には寧ろ好きな武将ですが、それにしても没軌道に殺し過ぎだろう…。
裴注『三國志』の孫呉の関係者は、孫呉寄り・江南寄りの諸書によって著しく補強されてしまい、結果として本来の姿が掴みにくくなっています。江南人を称える目的の『江表伝』をはじめ、回顧的な諸書は排除して呉志を見返すべきかと思います。
諸書をむりに整合的に繋ぐ必要もありません。これらは異聞であり、陳寿が不必要もしくは信憑性が低いと判断したものや、与太話や故意に歪曲したものも多いですから。ま、この呉志にしても、孫呉のために書かれた『呉書』の校訂版に過ぎませんが、それを云い出すとキリがありません。
しかも本サイトでは私見を挟みまくってしまっている為に、数年間に過ぎない孫策の行跡が掴みづらくなってしまっています(笑)。
そこで反省を込めて、贅肉を削ぎ落した孫策を見てみます。
孫策は、袁術の部将となった孫堅によって舒の名族:周氏に預けられます。これが孫策と周瑜の交流のスタートです。孫堅が歿すると徐州牧陶謙の圧迫を避け、家族を率いて父の実家でも母の実家でもなく、曲阿に拠る外叔の丹陽太守呉景を頼り、丹楊郡の平定に従います。
翌年には袁術の上書で懐義校尉となり、孫堅の部曲も返還されます。「実の息子だったらなぁ、おい」とのリップサービス付きで。
この時期、朝廷派遣の揚州刺史劉繇に曲阿を奪われ、長江を挟んで袁術と劉繇が対立しています。劉繇は会稽太守王朗・徐州牧陶謙・呉郡太守盛憲との繋がりが疑われ、陶謙vs袁術だと見る事も可能です。孫策が盛憲を目の敵にしたのも尤もな事です。
劉繇討伐は呉景・孫賁が担当しましたが、これに廬江攻略を終えた孫策が押し掛けます。この時、周瑜も 「義によって馳せつけた」 そうですが、従父の周尚が丹楊太守として劉繇攻撃に参加しているので、周瑜の参戦は作戦行動に過ぎません。当時は家門も実勢力も周瑜の方が遙かに上であり、孫策と周瑜の友情を否定する気は全くありませんが、“断金の交”に代表される麗しい友情譚の多くは『江表伝』由来の成分です。
孫策は劉繇が敗走して呉景・周尚らが引き揚げても江東経略を続けます。ところがこの時の孫策はよほど兵力不足だったらしく、富春の実家にまで援軍を求めています。袁術からの兵力提供が無かった訳で、それは以後の行動が袁術に無許可の独断という傍証になります。
結果として孫策は呉郡・会稽郡の郡治を陥し、一息ついた処で袁術が僭称します。
これまでに孫策は袁術に約束されていた太守の地位を二度反故にされた事を不満とし、この僭称を機に自立します。
呉会を平定した時点で孫策は会稽太守、朱治は呉郡太守に任じられていましたが、呉景を呼び戻して丹陽太守として三呉を固めていますから、孫策自立という解釈は充分に成立します。
が、揚州に拘っていた袁術はこの叙任にリアクションを起こしていません。その事は、孫策の独断ではないとも解釈できます。
『江表伝』では丹楊支配を巡って袁胤との抗争がありますが、『江表伝』だけの抗争です。
又た孫策は袁術の僭称に対して“絶交書”を発し、これが孫策が袁術と断交した事を示す最大の傍証とされますが、その内容は非常にソフトな諷諫です。
「まだいろいろ足りていないから、もう少し頑張って環境を整えてからどうですか?」 みたいな。
この歳(198)には、曹操の上表によって討逆将軍・呉侯とされ、これが朝廷に帰順した褒賞だとされます。しかし孫策が朝廷に上表した形跡はなく、袁術との具体的な軍事衝突も見えません。そもそも袁術が僭称してから死亡するまでの孫策の動きが不明瞭で、孫輔伝から察するに、三呉地方の主要部以外の経略を進めていたものと思われます。歴陽に守備隊を置いただけで。袁術に対する警戒がとても薄い! 「孫策が朝命を奉じて袁術を討った」 と主張する『江表伝』すら、孫策の関心はもっぱら三呉の完全制覇であり、これを邪魔する下邳陳氏との対決だと認めています。
孫策、実は袁術と組んで茶番を演じてたんじゃない?周魴みたく。ま、これは妄想(笑)
袁術の死後、孫策は廬江の劉勲を騙し討ち、袁術の余勢を接収します。この時に劉勲の庇護下にあった袁術の家族を保護し、その娘は孫権の正妃とされます。汝南袁氏の血統はやはり魅力的だったようです。
そして翌年、官渡の役に乗じて北伐を密かに計画し、行動を起こす直前に殺されます。北伐の目標は、一般には許都襲撃だとされます。
孫盛も指摘している通り、当時、敗れたとはいえ仇敵の黄祖は健在ですし、広陵には偉才と評判の陳登が控えています。
揚州の山越や宗族も制圧されてはいませんし、軍の主力は豫章・廬陵方面に展開中で、兵站的にも許都襲撃には無理が感じられます。
『江表伝』由来なのが困りものですが、広陵太守陳登が間諜を遣って呉会の切り崩しに勤しんでいて、両者の確執が抜き差しならぬものになっていたという情報があります。下邳陳氏と孫策との対立は袁術と陶謙の対立の延長でもあり、豫章・廬陵方面が一段落ついた後なら、広陵攻略計画も現実味を帯びた事でしょう。
孫策にどれ程の戦略性があったのかは不明ですが、揚州を固めたら徐州経略に着手という流れです。荊州はその次あたりか。
まるで袁術の構想を完成させようとしているようだ(笑)