三國志修正計画

三國志卷四十六 呉書一/孫破虜討逆傳 (二)

孫策

 策字伯符。堅初興義兵、策將母徙居舒、與周瑜相友、收合士大夫、江・淮間人咸向之。堅薨、還葬曲阿。已乃渡江居江都。

 孫策、字は伯符。(父の)孫堅が義兵を興した当初、孫策は母を率いて舒に徙居し、周瑜と相い交友した。士大夫を収合し、江・淮の間の人は咸な心を向けた[1]孫堅が薨じると曲阿に還葬し、その後に長江を渡って(広陵の)江都(揚州市邗江区)に居した[2]

 舒に徙居したのはいつ頃か。周家と袁家の係累を肯定し、周家を預け先にした点を考えると190年に入ってから、袁術の部将になった後でしょう。両家は和帝の時代に袁安周栄が密接な主従関係にありました。その後の交流状況とかは不明ですし、百年前の関係をダシに部将の家族の世話を頼まれても困りますが、梁冀の時代に周景袁湯に薦挙されているくさく、しかも両家とも董卓に戮されていたりと、歴代で協同歩調していた気配が感じられます。袁家と周家の繋がりで孫堅が家族を預けたのなら、この時点での孫策と周瑜の関係は、孫堅と袁術を仲介としたものに過ぎません。だから孫堅の死で関係が切れると、周家を頼れなくなって江都に移住しましたか。
 なぜ父の実家も母の実家も頼らなかったのか。孫静や呉氏との微妙な関係か、さもなくば袁術が勢力圏外の江東に行く事を禁じたか。

 徐州牧陶謙深忌策。策舅呉景、時為丹楊太守、策乃載母徙曲阿、與呂範・孫河倶就景、因縁召募得數百人。興平元年。從袁術、術甚奇之、以堅部曲還策。太傅馬日磾杖節安集關東、在壽春以禮辟策、表拜懷義校尉、術大將喬蕤・張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎、死復何恨!」策騎士有罪、逃入術營、隱於内厩。策指使人就斬之、訖、詣術謝。術曰:「兵人好叛、當共疾之、何為謝也?」由是軍中益畏憚之。術初許策為九江太守、已而更用丹楊陳紀。後術欲攻徐州、從廬江太守陸康求米三萬斛。康不與、術大怒。策昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。術遣策攻康、謂曰:「前錯用陳紀、毎恨本意不遂。今若得康、廬江真卿有也。」策攻康、拔之、術復用其故吏劉勳為太守、策益失望。

 徐州牧陶謙は孫策を深く忌んでいた。孫策の舅の呉景はこのとき丹楊太守であり、孫策は母を(車に)載せて曲阿に徙し、呂範孫河と倶に呉景に就き、縁故に因って召募して数百人を得た。

 いきなり謎設定です。この設定を考えていく上で、陶謙の野心や袁術との関係が露わになります。少なくとも、孫策が何かして憎まれたというのは、両者の年齢差や立場の違いを考えると可能性は低そうです。孫堅に従軍した後に陶謙の下に派遣された朱治が、この頃には積極的に孫策の世話を焼いてます。

 もう1つ。曲阿は呉郡の所属です。文脈的に呉景が丹楊太守でありながら曲阿に居た事を仄めかしています。呉景の任務は袁紹系の丹楊太守周マを破る事。後発でもあり、しかも本拠の呉郡は許貢に牛耳られているので曲阿に拠っていたという図です。そうであるなら孫堅を曲阿に還葬したのも尤もです。又た、その後に孫策が一旦は江都に移住した事は、孫堅が歿した当時は陶謙との関係が悪くなかった事を示しています。

興平元年(194)になった。袁術に従った際に袁術はこれを甚だ奇とし、孫堅の部曲を孫策に返還した[3]

 武帝紀では初平四年(193)に孫策が揚州経略を開始したと謂い、『後漢書』では興平元年(194)に劉繇を破ったとあります。この箇所はテキストでは 「興平元年、從袁術。術甚奇之、以堅部曲還策。」 とあり、その通りに読むと、興平元年に袁術に出仕した事になり、その歳の内に九江太守を反故にされ、陸康を降し、それから揚州に進んで劉繇を破った事になります。随分と忙しないものですが、そもそも出仕直後の若造に果たして太守を約束するでしょうか?
 後に『呉録』で劉繇を江東から逐ったのは興平二年の冬あたりだと判明するので、一年以上続く廬江攻略の開始を興平元年に置く事は可能ですが、やはり出仕年の慌しさと袁術の緩さが異常です。これは孫策伝が年次を省き、しかも同類の事件を時系列を無視して並べてしまっているのが混乱の元凶で、おそらく 「従袁術」 から、ずっと後の 「策昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。」 が前振りで、文章的には 「興平元年、術遣策攻康、」 と繋がるのではないでしょうか。孫策の出仕は遅くとも初平四年(193)あたりでしょう。
 もし本当に興平元年に出仕した設定なら、服喪をキッチリやらせたい『呉書』の記述を陳寿が丸写しした為だと思われます。孫呉は服喪規定にやたら厳しいのだ。

太傅馬日磾が節に杖(よ)って関東を安集(巡撫)し、寿春に在っては孫策を礼辟し、上表して懐義校尉に拝した。袁術の大将の喬蕤・張勲は皆な心を傾けて敬った。

 主語が無いのでうっかり孫策の事かと誤解しますが、袁術の部将連が敬ったのは馬日磾でしょう。
 この馬日磾が孫策周りのキーパーソンです。192年に李傕・郭が主宰する朝廷から派遣され、寿春で袁術に軟禁されてそのまま歿してしまいますが、その間に孫策や朱治などを承制で叙任して袁術の基盤固めに利用されています。

袁術は常に歎じ、「術の子に孫郎の如きがあれば、死しても復た何を恨もうか!」 孫策の騎士に罪を犯した者があり、袁術の営に逃入して営内の厩に隠れた。孫策は指示して人を遣って斬刑に就かせ、訖(お)えると袁術に詣って謝した。袁術 「兵人とは叛くことを好み、これは我らが疾(忌)むものだ。何を謝ることがある?」 これより軍中は益々これを畏憚した。
袁術は当初、孫策を九江太守とする事を許認していたが、その後に更めて丹楊の陳紀を用いた。後に袁術は徐州を攻めようとし、廬江太守陸康に米三万斛を求めたが、陸康が与えなかったので袁術は大いに怒った。孫策は曾て陸康に詣った事があったが、陸康は接見せずに主簿に応接させたので、孫策は恨みを銜んでいた。袁術は孫策を遣って陸康を攻めさせ、謂うには 「以前に錯誤して陳紀を用いたが、本意を遂げられなかったことを常々恨んでいた。今、もし陸康を得たなら廬江はまことに卿の所有となろう」 と。孫策は陸康を攻めてこれを抜いたが、袁術は復た故吏の劉勲を用いて太守とし、孫策は益々失望した。

 江東に自立するまでの孫策が接触した名士系の群雄は、ほぼ袁術のみです。孫策の非凡さを伝える為にはどうしても袁術の口を借りる必要があります。孫策伝には周瑜や張紘の名も見えますが、いずれも孫策に従う予定なので余りに褒めさせすぎても白々しいだけになります。そんな袁術にべた褒めされ、将来を期待されて超優遇された孫策が袁術を裏切るのが孫策伝前半の趣旨なので、随所に袁術の不義理を挟まないと孫策は忘恩の徒になってしまいます。袁術の僭称という格好の事件でも孫策は碌に諫めてもいないので、袁術の約束違反は強調されなければなりません。

先是、劉繇為揚州刺史、州舊治壽春。壽春、術已據之、繇乃渡江治曲阿。時呉景尚在丹楊、策從兄賁又為丹楊都尉、繇至、皆迫逐之。景・賁退舍歴陽。繇遣樊能・于麋〔東屯江津〕、張英屯當利口、以距術。術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史、更以景為督軍中郎將、與賁共將兵撃英等、連年不克。策乃説術、乞助景等平定江東。術表策為折衝校尉、行殄寇將軍、兵財千餘、騎數十匹、賓客願從者數百人。比至歴陽、衆五六千。策母先自曲阿徙於歴陽、策又徙母阜陵、渡江轉鬭、所向皆破、莫敢當其鋒、而軍令整肅、百姓懷之。

これより以前、劉繇が揚州刺史となっていた。州の旧治は寿春であったが、寿春には既に袁術が拠っており、劉繇はかくして長江を渡って(呉郡の)曲阿(鎮江市丹陽)を治所とした。時に呉景は尚も丹楊(馬鞍山市当塗)に在り、孫策の従兄の孫賁も又た丹楊都尉であったが、劉繇は至ると皆な迫ってこれを逐い、呉景・孫賁は退いて(九江郡の)歴陽(馬鞍山市和県)に舎(やど)った。劉繇は樊能・于麋を遣って東のかた横江津に駐屯させ、張英を(東対岸の)当利口(南京市江寧区西南郊)に駐屯させ、袁術を拒がせた。袁術は自ら故吏の琅邪出身の恵衢を用いて揚州刺史とし、更めて呉景を督軍中郎将とし、孫賁と共に兵を率いて張英らを撃たせたが、連年しても勝てなかった。孫策はかくして袁術に説き、呉景らを助けて江東を平定せんことを乞うた[4]。袁術は上表して孫策を折衝校尉・行殄寇将軍としたが、兵は財(わず)かに千余、騎馬は数十匹、賓客で従軍を願う者は数百人だったが、歴陽に至る頃には手勢は五・六千となった。

 この時点で袁術に従う孫家の統領は孫賁です。それは孫賁の官位や、劉繇討伐に派遣された事でも明らかで、孫策は功を求めて 「駆け込んだ」 も同然です。しかも協働している呉景や周瑜らにしても家格面でも実勢力でも孫策よりずっと上で、孫策の側にいる朱治の存在も無視できません。ワンマン経営の曹操や劉備より当時の孫策の置かれた状況は複雑なようです。

孫策の母はこれより先に曲阿より歴陽に徙っており、孫策は又た母を(九江郡の)阜陵(滁州市全椒)に徙した。渡江して転闘し、向かう所で皆な破り、その鋒に当ろうとする者は莫かった。軍令は整粛で、百姓が懐いた[5]

 策為人、美姿顏、好笑語、性闊達聽受、善於用人、是以士民見者、莫不盡心、樂為致死。劉繇棄軍遁逃、諸郡守皆捐城郭奔走。呉人嚴白虎等衆各萬餘人、處處屯聚。呉景等欲先撃破虎等、乃至會稽。策曰:「虎等羣盜、非有大志、此成禽耳。」遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。盡更置長吏、策自領會稽太守、復以呉景為丹楊太守、以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡、以賁弟輔為廬陵太守、丹楊朱治為呉郡太守。彭城張昭・廣陵張紘・秦松・陳端等為謀主。

 孫策の為人りは姿顔が美しく、笑語を好み、性は闊達で(進言を)聴いて受容し、人を用いる事に善く、このため士民で会見した者で心を尽さぬ者は莫く、(孫策の為に)死に至る事を楽(よろこ)んだ。
 劉繇は軍を棄てて遁逃し、諸郡守は皆な城郭を捐(す)てて奔走した[6]。呉人の厳白虎らの手勢は各々万余人であり、処々に屯聚していた。呉景らは先ず厳白虎らを撃破してから会稽に至ろうと考えた。孫策 「厳白虎らは群盗であり、大志は無い。禽とされるだけの存在だ」 かくて兵を率いて浙江を渡り、(王朗を破って)会稽に拠ってから(追撃して)東冶を屠り、その後に厳白虎らを攻めて破った[7]

 以上は建安元年(196)の事です。呉景は劉繇を駆逐すると寿春に帰還しているので、呉会経略には従っていません。孫賁も呉景と同道して北帰しているので、孫策は本隊抜きで呉会を攻略しなければならず、かなり苦戦しています。実家から已むなく孫静に援軍を要請するほどに。詳細は孫静伝にて。
 この会稽太守王朗は歴とした朝臣で、しかも陶謙に送り込まれて劉繇を支援していた名士なので、孫策としてはさっさと潰しておきたい相手です。尚お呉郡の攻略は朱治が担当しました。

尽く長吏を更めて置き、孫策は自ら会稽太守を領し、復た呉景を丹楊太守とし、孫賁を豫章太守とし、豫章を分けて廬陵郡として孫賁の弟の孫輔を廬陵太守とし、丹楊の朱治を呉郡太守とし、彭城の張昭、広陵の張紘・秦松・陳端らを謀主とした[8]

 これは恐らく、陳寿が類似の行為を一まとめにしたものです。実際に呉景・孫賁が孫策に合流するのは袁術が僭称した後で、廬陵にまで主権を主張するのは袁術の死後、劉勲と対立した後になります。もしくは、袁術が僭称する頃には孫策は揚州をほぼ支配していたと主張したい『呉書』の筆法か。

時袁術僭號、策以書責而絶之。曹公表策為討逆將軍、封為呉侯。後術死、長史楊弘・大將張勳等將其衆欲就策、廬江太守劉勳要撃、悉虜之、收其珍寶以歸。策聞之、偽與勳好盟。勳新得術衆、時豫章上繚宗民萬餘家在江東、策勸勳攻取之。勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江、勳衆盡降、勳獨與麾下數百人自歸曹公。是時哀紹方彊、而策并江東、曹公力未能逞、且欲撫之。乃以弟女配策小弟匡、又為子章取賁女、皆禮辟策弟權・翊、又命揚州刺史嚴象舉權茂才。

時に(197)袁術が僭号し、孫策は書簡で責めて絶交した[9]。(翌年に)曹操は上表して孫策を討逆将軍とし、封じて呉侯とした[10]。後に袁術が死に、長史楊弘や大将の張勲らはその手勢を率いて孫策に就こうとしたが、廬江太守劉勲が要撃して悉く捕虜とし、その珍宝を収めて帰還した。孫策はこれを聞くと偽って劉勲と好誼を盟った。劉勲は新たに袁術の軍兵を得た事であり、時に豫章の上繚の宗民万余家が江東に在り、孫策は劉勲にこれを攻め取る事を勧めた。劉勲が行った後、孫策は軽装軍で晨夜(急行)して襲って廬江を抜き、劉勲の手勢は尽く降った。劉勲は独り麾下の数百人と自ら曹操に帰順した[11]
このとき袁紹はまさに彊く、(加えて)孫策が江東を併せた為に曹操は力を逞しうできず、その為これを慰撫しようと考えた[12]。かくして弟の娘を孫策の小弟の孫匡に配偶し、又た子の曹彰の為に孫賁の娘を娶り、孫策の弟の孫権孫翊を皆な礼辟し、又た揚州刺史厳象には孫権を茂才に挙げるよう命じた。

 読みようによっては、独立勢力の孫策に対して曹操が御機嫌取りをしているように見えます。少なくとも陳寿もしくは韋昭はそのつもりで書いているので、そう読めます。しかし曹操任命の牧守が曹操の命令で孫策の弟を薦挙したというのは、孫家にとって看過できない負債を背った事でもあります。例えば袁譚は劉備の薦挙を受けてしまった為、ほぼ単身で亡命してきた劉備を親子で鄭重に扱う羽目に陥りました。ましてや孫権の相手は漢の司空ですから、その重さは袁家に対する劉備の比ではありません。そうであれば後に孫権の朝廷の御歴々が曹操への服従を唱えたのも尤もな事になります。

 建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝、密治兵、部署諸將。未發、會為故呉郡太守許貢客所殺。先是、策殺貢、貢小子與客亡匿江邊。策單騎出、卒與客遇、客撃傷策。創甚、請張昭等謂曰:「中國方亂、夫以呉・越之衆、三江之固、足以觀成敗。公等善相吾弟!」呼權佩以印綬、謂曰:「舉江東之衆、決機於兩陳之間、與天下爭衡、卿不如我;舉賢任能、各盡其心、以保江東、我不知卿。」至夜卒、時年二十六。

 建安五年(200)、曹操は袁紹と官渡で相い拒いでいた。孫策は陰かに許を襲って漢帝を迎えたいと考え[13]、密かに兵を治め、諸将を部署(任命)した。事を発する前に、たまたま故人の呉郡太守許貢の食客に殺された。これより以前、孫策は許貢を殺し、許貢の小子が食客と与に逃亡して江辺に匿れた。孫策は単騎で外出し、卒(にわか)に食客と遭遇し、食客は孫策を襲って負傷させた[14]。創は甚だしく、張昭らに請うて謂うには 「中国はまさに乱れている。呉・越の人々で三江を固めれば、成敗を観察することができよう。公らは善く吾が弟を相(輔)けてやってくれ!」 孫権を呼んで印綬を佩かせて謂うには 「江東の人々を挙げて両陣の間で戦機を決し、天下を争衡する事は卿は我れに及ばない。賢を挙げて能に任せ、各々その心を尽させて江東を保つ事では我れは卿に及ばない」 と。夜になって卒し、時に齢二十六だった[15]

 許貢がらみで呉郡太守の遍歴を考えてみました。呉郡都尉の許貢が太守の盛憲に取って代った時期は不明ですが、袁術の揚州進出(193)の混乱に乗じたような気がします。盛憲の太守就任の時期も不明ですが、高岱の挙動を見るに、どうも陶謙の息がかかっていたような感じです。そして194年に馬日磾の承制によって朱治が呉郡都尉とされます。太守もこのとき袁術系の誰かが任命された筈です。
 孫策が王朗・許貢を破ったのが196年で、このとき袁術によって朱治が呉郡太守とされます。朝廷の方では陳瑀を行太守に任命しているので、両者の対決は必至です。この時の朝廷は曹操の統制下にありますが、翌年には江北の陳瑀が孫策に大破されて朱治の支配が確定します。
 なお、朱治に敗れた許貢は厳白虎を頼り、その後の去就は不明ですが、助命されてどこぞの長吏に就いていたものと思われます。

 權稱尊號、追諡策曰長沙桓王、封子紹為呉侯、後改封上虞侯。紹卒、子奉嗣。孫晧時、訛言謂奉當立、誅死。

 孫権が尊号を称えると孫策を長沙桓王と追諡し、子の孫紹を封じて呉侯とし、後に上虞侯に改封した。孫紹が卒して子の孫奉が嗣いだ。孫晧の時、孫奉が立とうとしているとの訛言(流言)があって誅死した。
[1] 孫堅は朱儁の上表で佐軍の官となり、家を寿春に留めた。孫策は齢十余歳であり、既に知名の士と交わりを結んで声誉が聞こえていた。周瑜という者があり、孫策とは同年で、亦た英達夙成であり、孫策の声誉を聞くと(廬江郡の)舒(合肥市廬江)より来た。直ちに推結分好(交結を推して好誼を定め)、義を同じくすること金属を断つ程だった(断金の交)。孫策に舒への徙居を勧め、孫策はこれに従った。 (『江表伝』)
[2] 孫策は嗣侯者だったが、弟の孫匡に譲った。 (『魏書』)

 事実かどうかは不明ですが、当時の孫策には公的にアテにできるものは殆ど無かった筈。辞退が事実なら 「漢からの封爵は受けたくありません」 という意思表示にもなりますが、どうでしょう。

[3] 嘗て孫策が江都に在った時、張紘の母の喪があった。孫策はしばしば張紘に詣り、世務について諮問した。「今はまさに漢祚が微かとなり、天下は擾攘として英雄儁傑は各々手勢を擁して私利を営み、未だに危難を扶け乱を救済する者は現れません。先君は袁氏と共に董卓を破りましたが、功業を遂げる前に黄祖に害されて卒しました。策は暗愚幼稚とはいえ竊かに微志を持ち、袁揚州より先君の余兵を求め、丹楊の舅氏に就き、流散を収合して東のかた呉会(呉郡と会稽)に拠り、報讐雪恥して朝廷の外藩になりたいと考えております。君はどのように考えますか?」
張紘 「元来が空劣の者であり、今はまさに衰絰の中(喪中)に居り、盛略を奉賛いたしかねます」
孫策 「君の高名は播越(伝播越境)し、遠近とも懐帰しています。今日の事の計略は君に決せられるのです。どうして紆慮(遠謀)啓告して高山を仰望する我々の意に副っていただけないのか? もし微志が展べられ、血縁の讐に報いることが出来たなら、これは君の勲力であり、策の心から望むものであります」 こうして涕泣横流したが、顔色は変らなかった。張紘は孫策の忠壮が内に発し、辞令が慷慨である事を観取すると、その志と言辞に感動してかくして答えた。
「昔、周の道が陵遅(凋落)すると斉・晋が並び興り、王室は安寧となって諸侯は貢職しました。今、君は先侯の軌を継ぎ、驍武の名があります。もし丹楊に投じて呉会の兵を収めれば、荊・揚を一つにして讐敵に報ずることも可能でしょう。長江に拠って威徳を奮い、群穢を誅除し、漢室を匡輔すれば、功業は斉桓公・晋文公に等しくなり、どうして徒らに外藩で已みましょうか? まさに今の世は乱れて難事が多く、もし功を成して事を立てようというのなら好を同じくする者と倶に南へ渡られよ」
孫策 「君と一致して符を同じくしたからには契りを交し、永らく固く定めよう。今はただちに行かねばならず、老母・弱弟を君に委付して策の回顧の憂いを無くしたい」 (『呉歴』)
―― 孫策は真直ぐに寿春に至って袁術に通見し、涕泣して言った 「亡父は昔、長沙より入って董卓を討ち、明使君と南陽に会同して同盟結好しましたが、不幸にも難に遇い、勲業は終っていません。策は先人の(被った)旧恩に感動し、自ら依り結びたく存じます。願わくは明使君よ、誠心を察して頂きたい」
袁術はこれを甚だ貴異としたが、その父の兵を還す事は肯んじなかった。袁術が孫策に謂うには 「孤は始めに貴舅を用いて丹楊太守とし、賢従の伯陽を都尉とした。そこは精兵の地であり、還って召募するが宜しかろう」
孫策はかくて丹楊に詣って舅に依拠し、数百人を得た。しかし県の大帥の祖郎に襲われ、死に至りそうな危うさだった。こうして復た往って袁術に通見し、袁術は孫堅の遺兵千余人を孫策に還した。 (『江表伝』)

 本伝の方でも孫堅の兵を還すの何のとありますが、孫堅伝の最後に出た、孫堅の兵は孫賁が統率している設定はどっか行っちゃいましたかね。それとも孫家の私兵と孫堅の部曲は明確に区別されていたとか?だとしたら誰か孫家由来の人がまとめていた筈ですが、それについて言及が皆無です。

[4] 孫策が袁術に説くには 「孫家に旧恩のある者が東に在り、願わくは舅を助けて横江を討ちたく存じます。横江を抜けば本土(呉郡)に投じて召募し、三万の兵を得ることが出来ます。それで明使君が漢室を匡済するのを佐けましょう」 袁術は孫策の恨みを知ってはいたが、劉繇が曲阿に拠り、王朗が会稽に在り、孫策が平定できるとも思えないのでこれを聴許した。 (『江表伝』)
[5] 孫策は渡江して劉繇の牛渚営を攻め、邸閣(倉庫)の糧穀・戦具を尽く得た。この歳は興平二年(195)である。時に彭城相の薛礼と下邳相の笮融は劉繇を盟主として依っており、薛礼は秣陵城に拠り、笮融は県南に駐屯していた。孫策は先ず笮融を攻め、笮融は出兵交戦したが、五百余級を斬首され、即ちに閉門して動かなくなった。そのため渡江して薛礼を攻め、薛礼は突出して退走し、樊能・于麋らと復た手勢を合せて牛渚屯を襲奪した。孫策はこれを聞くと還って樊能らを攻破し、男女数万人を獲た。復た下って笮融を攻めたが、流矢に中って股に負傷して乗馬できなくなり、このため輿に載せられて牛渚営に還った。或る者が叛いて笮融に告げるには 「孫郎は箭を被って死んでしまった」 と。笮融は大いに喜び、即ちに部将の于茲を遣って孫策を撃たせた。孫策は歩騎数百を遣って挑戦させ、後方に伏兵を設け、賊に撃たれると鋒刃を接する前に偽って敗走し、賊が追撃して伏兵の中に入るとこれを大破し、千余級を斬首した。孫策はそれから往って笮融の営下に到達し、左右の者に大声で呼ばわらせた 「孫郎は竟に何をか云わん!(孫郎の為し様はどうだ!)」 賊は驚怖して夜間に遁れた。笮融は孫策が尚お健在だと聞くと更めて塹壕を深く堡塁を高くし、繕治して守りに備えた。孫策は笮融の屯所の地勢が険固なので、捨て措いて去り、劉繇の別将を海陵(江蘇省泰州市区)に攻めて破り、転じて湖孰(南京市江寧区)・江乗(鎮江市北郊)を攻めて皆な下した。 (『江表伝』)

 東奔西走しすぎのような気がしますが、、、気にしたら負けか。なんたって『江表伝』ですから。

[6] 孫策は時に年少で、位号があったとはいえ、士民は皆な孫郎と呼んだ。百姓は孫郎が至ると聞くと皆な魂魄を失い、長吏は城郭を棄てて山草の間に竄伏した。孫策が至るとそのその軍士は令を奉じ、虜略する事が全く無く、雞犬から菜茹まで一つとして犯す所が無く、民はかくして大いに悦び、競って牛酒を以て軍に詣った。劉繇が敗走した後、孫策は曲阿に入って将士を労い賞賜し、部将の陳寶を遣って阜陵に詣らせて母および弟を迎えた。恩恵の布令を発して諸県に告げるには 「劉繇・笮融らの故郷の部曲で来降・自首した者は一切問責しない。従軍を願う者は一身が行けば門戸を除(ほく/賦税免除)し、そうでない者に強要してはならない」 旬日の間に四面から雲集し、兵二万余人と馬千余匹を得、威は江東を震わせ、形勢は一転して盛んとなった。 (『江表伝』)
[7] 時に烏程の鄒他・銭銅および前の合浦太守で嘉興の王晟らがあり、各々手勢を聚めて万余あるいは数千を擁していた。(孫策は)兵を率いて撲討し、皆な攻めて破った。孫策の母の呉氏が曰うには 「王晟は汝の父とは昇堂見妻の交誼がありましたのに、今、その諸子兄弟は皆な梟首族滅されて、独り一老翁(王晟)を余すだけです。どうして畏憚するに足りましょう?」 かくして王晟を捨て措き、他は咸な族誅した。孫策は自ら厳白虎を討ち、虎白虎は塁を高くして堅守し、その弟の厳輿に和を請わせた。これを許したところ、厳輿は単独で孫策と会見して約す事を請うた。会見すると孫策は白刃を引いて席を斬り、厳輿の体が動揺していると孫策は笑い 「聞けば卿は能く坐を跳躍して勦捷なこと常人とは異なるとか。些か卿に戯れただけだ!」 厳輿 「私は刃を見るとそうなるのです」 孫策はそうではないと察し、かくして手戟を投げると立ちどころに死んだ。
厳輿は勇力があり、厳白虎の手勢はその死によって甚だ懼れた。進んで攻めてこれを破った。厳白虎は餘杭に奔り、許昭の捕虜の中に投じた。程普は許昭を撃つことを請うたが、孫策は 「許昭は旧君に義があり、故友に誠を持つ人物だ。これこそ丈夫の志というものだ」 かくしてこれを捨て措いた。 (『呉録』)
―― 裴松之が調べたところ、『許昭有義於旧君』とは、盛憲を救済した事を謂う。事は後の注に見える。『有誠於故友』とは厳白虎を受容した事である。
[8] 孫策は奉正都尉劉由・五官掾高承を遣って章書を奉じて許に詣らせ、拝して方物(物産)を献上した。 (『江表伝』)
[9] 孫策が張紘に作成させた絶交書 「上天が司過星を垂らし、聖王が敢諫鼓を建てて諫言を求めた。昨冬に諦めた筈の大計を復た追っていると聞いた。期日まで定まっているという。これが流言でなければ全く失望させられるものだ。過日の義挙に天下の士が呼応したのは董卓が極めて暴虐だったからだ。元悪が斃され、東帰した幼主が解散を命じても袁紹・曹操・劉表・公孫瓚・劉繇・劉備らは好き勝手だった。

 劉璋の名が無いのは措いておくとして、ちゃっかり劉備の名が差しこまれているあたりで後世の創作を疑ってしまいます。劉備がいないか、劉備と呂布を並べていればまだ信憑性はあったんですが。

  1. 劉備・劉繇が破れ、曹操らが飢えに苦しんでいる今こそ、天下と謀りごとを合せて醜類を誅す時なのだ。これを放置して簒奪を志すのは海内の望みに背くもので、これが第一である。
  2. 湯王の伐桀も武王の伐紂にも正当な理由があったが、幼主には批判すべき過失は無い。無辜から簒奪するのは湯王・武王の事に合致しない。これが第二である。
  3. 董卓は簒奪をしなかったが、それでも天下の人は憎悪し、中原の弱兵で辺地の精兵を破ったのだ。天下の人が戦いに慣れてしまった今、勝利するには彼が乱れて我が治まり、彼が逆で我が順でなければならず、兵力だけでは不足である。これが第三である。
  4. 天下を得るには天の賛同と人の力が必須であり、興業の帝王にはすべて瑞兆があった。それが無いのに突然に尊号を称するなど前例のない事で、これが第四である。
  5. 陳勝・項羽・王莽・公孫述らも称帝したが、終りを全うしていない。これが第五である。
  6. 君にやってもらいたいのは周公・召公の役割であり、帝位は劉氏に在って然るべきで、そうして初めて名を青史に残すことができるのだ。君は聡明であるので思い直してくれるだろう。これが第六である。
  7. 袁氏は五世に宰相を出した名門で、社稷を思って報恩を考える事と、天下の人を家吏か書生と見做す事とどちらが是か詳察すべきで、これが第七である。
  8. 聖哲者とは、為すべき事を弁えて挙措を慎むから貴ばれるもの。無計画で行なって無確定に頼るのは公義としても私計としても不利であり、明哲の行ないではない。これが第八である。
  9. 讖緯を勝手に解釈して事を興しても碌な事にならない事は古今の故事からも明らかで、これが第九である。
(以上の)九事は尊明(袁術)の知見の余りに過ぎないが、予めの備えとして遺忘を補ってもらいたい。忠言は耳に逆らうものではあるが、神聴に留めておいてもらいたい!」 (『呉録』)
―― 『典略』では張昭の辞だと云う。裴松之が思うに、張昭の名は重いとはいえ、張紘の文藻には及ばない。この書はきっと張紘の作であろう。

 文章の趣旨を外れない程度に簡訳してみました。誰が書いただのには興味ありませんが、どう見たって絶交書ではありません。それどころか諫言だとしても大分に柔らかいものです。「時期尚早だから、もう少し御膳立てが整ってからにしては?」 としか読み取れませんがどうでしょう?
 そもそも絶交したとしている本伝では曹操が叙任を“上書”し、『江表伝』では勅使が詔書をもたらしていますが、孫策が“上書”したとは何処にも書かれていません。下手したら切り崩しの為に、丹楊問題で袁術と揉めていたかもしれない孫策に曹操が一方的に勧誘をかけている可能性だって無いとは云い切れません。現に次の[10]では、正当防衛の立場を採りつつ朝廷派遣の陳瑀を駆逐しています。これなどは曹操と袁術の代理戦争の典型例です。
 ともあれ、この後も孫策は袁術に対して積極的な敵対行動はしていません。曹操が陳で袁術軍を大破した時も、袁術が劉備を攻めた時も北に兵を動かした様子はありません。孫策は歴陽に従弟の孫輔を残して会稽攻略に集中しています。まるでフリだけで、袁術とは北上と南下の役割分担をしているかの様です。孫策が膝を折ったのは曹操ではなく献帝だからという解釈もありますが、袁術を攻めない理由にはなりません。この頃の孫策は恐らく袁術と曹操を天秤にかけて、少なくとも漢室に対する忠誠は掛け声に過ぎなかったものと思われます。孫堅と同じで。

[10] 建安二年夏、漢朝が議郎王ヲに奉じさせた戊辰の詔書 「以前に将軍孫堅は董卓討伐に頑張った。君も頑張っているようで嬉しい。騎都尉とし、烏程侯の襲爵を認め、会稽太守を兼領するように」
別の詔敕 「もとの左将軍袁術がグレた。信じたくはないが使持節・平東将軍・領徐州牧・温侯の呂布の上言で確定してしまった。その上言で君の誠心に言及して加恩を求めている。前邑の襲爵と大郡の太守を約束しよう。今こそ超頑張れ。呂布および行呉郡太守・安東将軍陳瑀と手を組んで征け」

 『江表伝』にあれこれツッコむのも野暮ですが、詔勅となると無視は出来ません。これは恐らく袁術の僭称に対し、袁術の与党と思われる勢力に発した一種の檄文でしょう。朝廷に帰順する気があるのなら陳瑀と歩調を合わせて忠誠を示しなさいよ、というだけのもので、決して当時の形勢を反映したものではありません多分。

 孫策は自ら兵馬を統領するのに騎都尉領太守では軽いと考え、将軍号を欲した。かくして人に王ヲに諷させ、王ヲはただちに承制にて孫策に明漢将軍を仮した。この時、陳瑀は海西に屯していた。孫策は詔書を奉じて戒厳にて治め、呂布・陳瑀と与に参与して形勢を同じくし、行きて銭塘に到達した。陳瑀は陰かに孫策の襲撃を図り、都尉万演らに密かに渡江させ、印章三十余紐を持たせて丹楊・宣城・・陵陽・始安・黟・歙の諸々の険悪な県の大帥の祖郎・焦已および呉郡烏程の厳白虎らの賊に与えて内応させ、孫策が軍を発する時を伺い、諸郡を攻取しようとした。孫策はこれを覚り、呂範・徐逸を遣って海西に陳瑀を攻め、陳瑀を大破してその吏士および妻子四千人を獲た。 (『江表伝』)

 ここで謂う海西は海西県(宿遷市沭陽)ではない、とは云い切れませんが、江東に相対するには余りにも北に偏っていて、呂布がノーリアクションなのも不思議です。海陵の間違いなんじゃないかなぁ。ただ『江表伝』なので、本気で海西まで北上した事にしているのかも知れません。いずれにせよ、袁術と断交して朝廷に帰順した筈の孫策は、袁術そっちのけで与党の筈の陳氏と戦っていた事になります。同じ頃の事かと思われますが、呂布伝を補う『先賢行状』では孫策自身が、曹操と結んだ広陵太守陳登を攻めて敗退しています。

―― 陳瑀は単騎で冀州に走り、自ら袁紹に帰順し、袁紹は故安都尉とした。 (『山陽公載記』)
―― 孫策が上表した謝辞 「先日の栄寵に感謝します。興平二年十二月二十日に曲阿にて袁術の上表により行殄寇将軍となりましたが、今回の詔書で詐擅だと知れました。臣は齢十七で父を喪いましたが、霍去病が十八で建功し、光武帝の列将が弱冠で佐命した事に及びようもありません。陛下の威霊を借りて頑張ります」 (『呉録』) ―― 裴松之が考えるに、本伝では孫堅は初平三年(192)に卒したと云う。孫策は建安五年(200)に卒し、その時の齢は二十六だった。計算すると孫堅が死亡した時、孫策は十八となる。しかしこの上表では十七と云っていて符合しない。張璠『漢紀』および『呉歴』はともに孫堅は初平二年(191)に死んだとしており、これが是であり、本伝が誤りである。

 劉繇が江東を逐われた凡その時期もこの上表によって確定できます。袁術による孫策の叙任は劉繇を逐い落した結果でしょうから、劉繇が江東から逐われたのは195年の秋〜冬だと思われます。

―― 建安三年(198)、孫策は又た遣使して方物を貢納し、元年に献じた物の倍であった。その年、制書にて討逆将軍に転拝し、呉侯に改封した。 (『江表伝』)
[11] 孫策は詔敕を被ると司空曹操・衛将軍董承・益州牧劉璋らと力を併せて袁術・劉表を討った。

 私見を云わせてもらうと、“詔勅”というのは、孫策に権威付けをしたい『江表伝』の騙りです。詔勅の内容には触れずに 「詔勅を被った」 とあります。既に呂布の名が無く、董承が衛将軍なので198年3月〜199年3月に出されたものだと予想できます。討つ側に劉璋がいて、討たれる側として袁術と劉表が並列されています。武帝紀によれば、劉璋が朝廷に帰順の姿勢を見せるのは建安十三年(208)なのですが、劉璋が劉表と一触即発なのを踏まえ、踏み絵を兼ねて命令が出された可能性は否定できません。
 『後漢書』には、董承・趙岐の要請で、劉表が洛陽復興を援助したという記述があります。出典元を確認していないので信憑性には欠けますが、これが事実なら、劉璋ではなく劉表に袁術を討たせればいいんです。どうせ行ってこいの詔勅なんですから。にも拘らず劉璋を出して来たのは、『江表伝』の趣旨として孫策と劉表が共闘するなどあり得ないからでしょう。この頃には袁術と劉表の不和が解消していた可能性も、後の劉勲の行動から読み取れなくもないですが、劉璋にさせた踏み絵を劉表にさせない理由にはなりません。

軍を厳しくして進もうとした時にたまたま袁術が死に、袁術の従弟の袁胤・女婿の黄猗らは曹操を畏憚して寿春を全く守らず、共に袁術の棺柩を舁ぎ、その妻子および部曲の男女を扶けて皖城の劉勲に就いた。劉勲は糧食が少なかった為に振恤できず、かくして従弟の劉偕を遣って豫章太守華歆に糴(穀類の購入)を告げた。華歆の郡もかねて穀糧は少なく、吏を劉偕に就かせて海昏・上繚に遣り、諸宗帥に三万斛の米を供出させて劉偕に与える事となった。劉偕は往くこと歴月となったが、僅かに数千斛を得ただけだった。劉偕はかくて劉勲に報告し、具さに形勢と状況を説き、劉勲にこれを襲取させようとした。劉勲は劉偕の書簡を得ると軍を潜行させて海昏(九江市永修)の邑下に到らせた。宗帥はこれを知ると城壁を空しくして逃匿し、劉勲は得るところ無く終った。
 時に孫策は黄祖に西討しており、行軍が石城に達した処で劉勲が軽軍で自ら海昏に詣ったと聞き、ただちに従兄の孫賁・孫輔に八千人を率いて分遣して彭沢にて劉勲の到来を待たせ、自らは周瑜と与に二万人の歩兵を率いて皖城を襲い、即ちにこれに勝ち、袁術の百工および鼓吹・部曲三万余人に併せて袁術・劉勲の妻子を得た。上表して汝南の李術を用いて廬江太守とし、兵三千人を支給して皖城を守らせ、得た人を皆な徙して東のかた呉に詣らせた。孫賁・孫輔は又た彭沢で劉勲を破った。劉勲は敗走して楚江に入り、尋陽から徒歩で上って置馬亭に到達し、孫策らが既に皖城に勝ったと聞くと西塞(湖北省黄石市)に投じた。沂(水際の崖)に至って塁を築いて自ら守り、劉表に急を告げて黄祖に救援を求めた。黄祖は太子黄射を遣って船軍五千人で劉勲を助けさせた。孫策は復た攻めて劉勲を大破した。劉勲は劉偕と北のかた曹操に帰順し、黄射も亦た遁走した。孫策は劉勲の兵二千余人と船千艘を収得し、かくて夏口に前進して黄祖を攻めた。時に劉表の従子(おい)の劉虎・南陽の韓晞に長矛兵五千を率いさせ、黄祖の前鋒とさせた。孫策はこれと戦って大破した。 (『江表伝』)

 劉勲は結果として、華歆に振り回された事になります。又た当時の曹操は既に袁紹・劉備に挟撃されかねない情勢にあるので、孫策の行動は曹操の為に劉表を牽制している事にもなります。因みに孫権も赤壁の役までは曹操の軍事に呼応するように江夏に出兵しています。 華歆伝を見る限り、袁術が死んだ後の華歆にも孫策と敵対する理由が見当たらないので、孫策と協働したのかもです。

―― 孫策の上表 「臣は黄祖を討ち、十二月八日に黄祖の屯所の沙羨県に到着しました。劉表は将を遣って黄祖を助けさせ、挙げて臣に赴かせました。臣は十一日の明方に部下の領江夏太守・行建威中郎将周瑜、領桂陽太守・行征虜中郎将呂範、領零陵太守・行蕩寇中郎将程普、行奉業校尉孫権、行先登校尉韓当、行武鋒校尉黄蓋らと時を同じくして倶に進みました。私も兵士も超頑張りました。風上から火を放ち、辰時(午前九時頃)になって黄祖の軍は潰爛しました。黄祖は逃げ、その妻子男女七人を獲え、劉虎・韓晞以下二万余人を斬り、水に走って溺死した者も一万余り。船六千余艘と財物が山積しました。劉表は禽えていませんが、黄祖は狡猾でかねて劉表の腹心爪牙であり、劉表の鴟張は黄祖の気息によるものです。黄祖の家属・部曲は余さず地を掃き、劉表は孤立して捕虜とならねば鬼や尸となるばかりです。これらは皆な聖朝の神武遠振によるもので、臣も有罪を討ち、些か勤めて証を得ました」 (『呉録』)
[12] 曹操は孫策が江南を平定したと聞くと、意中では甚だ難事になったとし、時として 「猘児とは鋒を争い難い」 と呼ばわった。 (『呉歴』)
[13] 時に高岱という者があり、餘姚に隠棲していた。孫策が出仕を命じて会稽丞陸昭にこれを迎えさせ、孫策は己を虚しくして(謙虚に)待った。『左伝』に通じていると聞き、自らも玩読して与に論講しようと考えた。或る者が謂うには 「高岱は将軍を英武のみで文学の才は無いと考えています。もし与に『左伝』を論じて 「分らない」 と云う事があれば、それがそれがしの言葉の符牒となります」 又た高岱に謂うには 「孫将軍の為人りは己に勝る者を憎悪します。もし問われる毎に分らないと言えば意を迎えることができます。全てに義を弁ずればきっと危うい事になりましょう」 高岱は尤もだとして与に『左伝』を論じると、分らないと答える事があった。孫策は果たして怒り、己を軽んじたとしてこれを囚えた。交誼ある者および人々は知ると皆な露天に坐して(赦免を)請うた。孫策は楼に登り、数里に亘って填満しているのを望見した。孫策はその衆心を収めている事を憎悪し、かくてこれを殺した。
 高岱、字は孔文。呉郡の人である。性は聡達で財を軽んじて義を貴んだ。交友の士には奇才を選抜し、未だ世に顕れていない者を取り、特に交友した八人は皆な当世の英偉だった。太守盛憲が上計とし、孝廉に挙げた。許貢が来て郡を領すると、高岱は盛憲を率いて許昭の家に避難し、陶謙に救援を求めた孫韶伝の注の『会稽典録』によれば、病での退官となっています)。陶謙がすぐには救わなかった為、高岱は憔悴泣血して水漿も口にしなかった。陶謙はその忠壮に感動し、申包胥の義があるとして聴許して軍を出し、許貢への書状を与えた。高岱は陶謙の書状を得て還ったところ、許貢はその母を囚えていた。呉人は大小とも皆な危ぶみ竦み、許貢は宿忿しているのだから往けば必ず害されるとした。高岱が言うには 「君が在れば君の為にするもの。しかも母が牢獄に在り、往くことを期待しているのだ。もし入って通見できれば、事は自ずと解けるだろう」 と。かくて書状を通じて自ら申し、許貢は即ちに通見した。才辞は敏捷で好く自ら謝辞を陳べ、許貢はすぐにその母を出した。高岱は許貢に通見しようとした時、友人の張允・沈䁕に語って予め船を用意させていた。許貢が必ず悔い、追逐するだろうから、と。出ると便ちに母を率いて船に乗り、道を易えて逃れた。許貢はすぐさま人を遣って追わせ、追跡者にはもし船に及んだら江上で便ちに殺し、過ぎていたら中止するよう命じた。使者は高岱の道を錯誤し、かくて免れた。誅された時、齢三十余だった。 (『呉録』)

 高岱が殺された件は、一見すると孫策が勘違いだか些細な行き違いから感情的になって名士を殺したように見えますが、そもそも盛憲の関係者だったのが原因でしょう。孫呉による盛憲党への追及は執拗だったようで、孫翊の横死に乗じてこの方針を再開しようとした孫河が殺されるという事件も発生しています。過去話に陶謙が出てきているのが興味深く、何かと揚州への進出を窺っていた事を示唆しています。

―― 時に道士として琅邪の于吉があり、東方に寓居していたものが呉会に往来して精舍を立て、焼香して道書(黄老の書)を読み、符水を制作して病を治療し、呉会の人は多くこれに仕えた。孫策が嘗て郡城の門楼の上で諸将や賓客を集めて宴会した時、于吉が盛服して小函を手にし、これに漆で画いて仙人鏵と名付けたもので、趨って門下を渡った。諸将・賓客の三分之二が楼を下りて迎えて拝し、掌賓者が禁呵しても止められず、孫策は直ちに命じてこれを収捕させた。諸々の仕える者は悉く婦女を使って孫策の母に入見させ、助命を請わせた。母が孫策に謂うには 「于先生は亦た軍を助けて福を為す人で、医術で将士を護ってくれます。殺してはなりません」 孫策 「こやつは妖妄で、能く衆心を幻惑する者です。遠くより諸将に復た君臣の礼を顧みさせず、尽く策を棄てて楼を下りて拝礼させました。赦すことはできません」 諸将も復た通白事陳(事情を述べて)して助命を乞うた。孫策 「「昔、南陽の張津が交州刺史となり、それまでの聖王の典訓を捨て、漢家の法律を廃し、常に絳帕頭(赤頭巾)を着け、鼓琴焼香して邪俗の道書を読み、教化の助けだと云っていたが、たちまち南夷に殺された。これが無益であること甚だしいのに、諸君がただ悟っていないだけなのだ。今、こやつは既に鬼籙に在る。二度と紙筆を費やしてはならぬ」 即座に促してこれを斬り、首を市に懸けた。諸々の仕える者は尚も死んだとは謂わずに尸解(成仙)したのだと云い、復た祭祀して福を求めた。 (『江表伝』)

 もはやどこまで実話か判りませんが、江東での民間宗教の影響力を示す好例ではあります。そして孫策の措置は主旨としては間違っておらず、俗宗の規制は為政者の必須業務です。特に呉会地方では民間宗教が変に化学反応を起して兇暴になるのは、二百年後の孫恩の乱に見る通りです。曹操の宗教規制との違いは、孫策がルールを立てずに 「気に入らないから斬る」 点です。

―― これより前の順帝の時、琅邪の宮崇が宮闕に詣り、師の于吉が曲陽の泉水の上(ほとり)で得た神書を上呈した。白素朱界(白絹に朱の罫線)し、『太平青領道』と号し、凡そ百余巻あった。
 順帝から建安中まで五・六十年であり、于吉はこの時には既に百歳に近かった。年齢の耄悼(老幼)には礼として刑は加えないものである。又た天子は巡狩の際に百歳の者を問い、就いて謁見して年歯を敬って親愛するのが聖王の至上の教化である。于吉の罪は死罪に及ばず、しかし暴(むやみ)に酷刑を加えた。これは謬誅であり、美事などではない。
 虞喜が推考するに、桓王(孫策)の薨去は建安五年四月四日である。このとき曹操と袁紹は相い攻伐し、勝負は決していなかった。夏侯元譲(夏侯惇)が石威則に書状を与えたのは袁紹を破った後であるが、書状には 「孫賁に長沙を授け、張津の業務を零陵・桂陽とする」 とある。これは桓王の死亡を前とし、張津の死亡を後とするもので、張津の死を譬えに言って責譲する事などできないのだ。 (『志林』)
―― 裴松之が考えるに、太康八年(287)に広州大中正王範が『交広二州春秋』を上呈したが、建安六年(201)に張津は猶お交州牧であった。『江表伝』の虚言は『志林』の云う通りである。

 恐らくこの張津は劉表伝にある張羨の事だと思われます。

―― 策欲渡江襲許、與吉倶行。時大旱、所在熇氏B策催諸將士使速引船、或身自早出督切、見將吏多在吉許、策因此激怒、言:「我為不如于吉邪、而先趨務之?」便使收吉。至、呵問之曰:「天旱不雨、道塗艱澀、不時得過、故自早出、而卿不同憂戚、安坐船中作鬼物態、敗吾部伍、今當相除。」令人縛置地上暴之、使請雨、若能感天日中雨者、當原赦、不爾行誅。俄而雲氣上蒸、膚寸而合、比至日中、大雨總至、溪澗盈溢。將士喜ス、以為吉必見原、並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜、共藏其尸。天夜、忽更興雲覆之;明旦往視、不知所在。 (『捜神記』)

 孫策は許の襲撃に于吉を伴った。孫策は船を急かしたが、将兵の多くが于吉を拝しているのを見て激怒し、于吉を収捕して死刑と雨乞いを引替えにした。一帯は熇(猛熱)に苦しんでいたが、忽ち大雨が降った。孫策は結局は于吉を殺した。将兵はその屍を匿したが、夜に雲に覆われ、翌朝には行方不明になっていた。

―― 『江表伝』と『捜神記』では于吉の事は同じではなく、何れが是か詳らかではない。

 どちらか一方が事実である必要はありません。

[14] 広陵太守陳登は射陽(揚州市宝応東郊)にて治めた。陳登は陳瑀の従兄の子である。孫策が嘗て西征した時、陳登は陰かに復た間諜を遣使して厳白虎の残党に印綬を与え、孫策の後害を図って陳瑀が破られた辱に報復しようとした。孫策は帰還すると復た陳登を討ち、軍が丹徒(鎮江市京口区)に到ると運糧を待った。孫策は生来狩猟を好み、歩騎を率いてしばしば出猟した。孫策は駆馳して鹿を逐い、乗っている馬は精駿であって従騎は絶えて追い付けなかった。 これより前、呉郡太守許貢は上表で漢帝に曰うには 「孫策は驍雄で、項籍(項羽)に類似しています。貴寵を加えて京邑に召還するのが妥当です。もし詔を被れば帰還しないという事は出来ません。もし外に放っておけばきっと世に患いを為しましょう」 と。 孫策の斥候が許貢の上表を得、孫策に示した。孫策は許貢に会見を請求し、その場で許貢を責譲した。許貢は上表していないと云ったが、孫策は即座に武士に命じて絞殺させた。許貢の奴僕と食客は民間に潜み、許貢の為に報讐しようとした。狩猟の日、三人の兵卒があり、即ち許貢の食客だった。孫策が問うた 「爾らは何者か?」 答えて云うには 「これは韓当の兵です。ここで鹿を射ていただけです」 孫策 「韓当の兵を吾れは皆な識っている。これまで汝らを見たことはないぞ」 こうして一人を射ち、弦に応じて倒れた。残る二人は怖れ急き、たちまち弓を挙げて孫策を射ち、頬に中った。後騎が尋ぎ至り、皆なこれを刺殺した。 (『江表伝』)
 『江表伝』は稀にこうした看過できない情報を提供するので困ります。呂範に陳瑀を撃たせた件の焼き直しなんでしょうが、陳登が呉会方面にちょっかいを出していたのはあり得そうな話です。いずれにせよ袁術vs下邳陳氏の抗争が両者に継続されていた事は陳登伝を補う『先賢行状』でも確認できます。
 では実際に孫策が北伐に着手していたかというと、その可能性は低そうです。周瑜伝を読んでいて思ったんですが、当時、周瑜・孫賁・程普といった軍の主力は皆な、各地に散っています。周瑜は巴丘、孫賁は南昌、程普は石城に、といった具合に。太史慈も建昌方面ですし、呂範も「孫策の喪に馳せつけた」とある以上は孫策の傍には居ませんでした。この態勢での外征は、いくら何でも無茶が過ぎるというものです。
 「この機会に許を衝ければなー」 という大声の呟きがあったとか、孫権が称帝した後に誰かが 「討逆将軍も献帝を救おうとした」 と精一杯の箔付けを図ったとかがあり、それを陳寿がつい採用してしまったんじゃないかなぁ、と。

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 何にしても孫策が襲撃された場所を含め、孫策伝は情報量が少なすぎ、結果的に裴松之の過剰供給となり、却って事実を判りにくくしているのは残念な事です。
―― 孫策は曹操が柳城に北征したと聞くと、江南の軍勢を悉く起して自ら大司馬を号し、北のかた許を襲おうとした。その勇を恃んで行軍に備えを設けず、そのため難に及んだのである。 (『九州春秋』)
―― 凡そこれらの数書は各々失点がある。孫策の威が江外にも行なわれ、六郡をほぼ有しているとはいえ、黄祖はその上流に乗り、陳登はその心腹を隔て、加えて深険の彊姓や宗族は未だに尽くは帰服していない。曹操と袁紹が虎争して勢いは山海を傾けていたが、孫策がどうして遠く汝南・潁川に出師し、帝を呉越に遷す暇があろうか? これは凡庸の人の鑑えに過ぎず、ましてや孫策のような事勢に達した者ならどうだろうか? 又た考えるに、袁紹は建安五年に黎陽に至り、そして孫策は四月には害に遇っている。『三國志』が云う 「孫策は曹操が袁紹と官渡で相い拒いでいると聞き」 というのが誤謬であり、(『江表伝』の)陳登を伐つとの言に証があるのだ。
又た『江表伝』は孫策が韓当の軍士を悉く識り、疑って詐りだとして即座に一人を射殺したと説いている。三軍(全軍)の将士には新附兵もあり、孫策は大将である。どうして能く悉くを識ることが出来よう? 識らずに即座に射殺したというのは論ずる必要すら無い。又た孫策が殺されたのは建安五年であり、柳城の役は十二年である。『九州春秋』は(諸書の中でも)乖錯が最も甚だしい。 (孫盛『異同評』)

 そもそもこの当時、韓当は鄱陽郡の楽安にいますし。

―― 裴松之が考えるに、『傅子』も亦た曹操の征柳城にて許を襲おうとしたと云っている。記述としてこのようであるなら何と疎かな事か! しかし孫盛が譏る事も悉くは是と出来ない。黄祖は始めて孫策に破られて魂気は返っておらず、しかも劉表の君臣にはもとより兼併の志は無く、上流に在るとはいえどうして呉会を窺っていたといえよう? 孫策のこの挙は、道理として先ず陳登を図るものであったろう。但し挙兵の目的は陳登のみに留まらない。このとき彊宗や驍帥、祖郎や厳白虎の輩は禽滅され尽しており、余す所の山越はどうして慮るに足るものと云えようか? そうであるなら孫策の規図について、暇が無かったと謂う事は出来ないのだ。もし孫策が志す所を獲て大権を手にしたなら、淮・泗の何処でも皆な都に出来、どうして江外に志を終え、揚越の地に帝を遷す必要があろうか? 魏武紀を調べた処、武帝は建安四年に既に官渡に出屯しており、これは孫策の死ぬ前に久しくして袁紹と兵を交しており、つまり『三國志』の誤謬とは云えないのである。
許貢の食客とは名も聞こえぬ小人であったが、能く恩遇を感じて識り、義に臨んで生を忘れ、卒然として奮発し、古人の烈士の風があった。『詩』に云う 「君子に徽猷(善策)があれば、小人が属(従)う」 とは許貢の食客の事である。

 裴松之さんの随所でのドヤ顔が浮かびますが、孫呉が山越にどんだけ苦しんだかは見ぬふりでしょうか。それに劉表は荊南平定に奮闘中で、まだ無気力認定はされていない時期です。しかも最後のドヤの極みな譬えですが、許貢を君子扱いしていいんでしょうかコレ。

[15] 孫策が創を被った後、医者は 「治癒はするが、好く自ら護って百日は動いてはならない」 と言った。孫策は鏡を引き寄せて自らを照らし、左右に謂うには 「この様な面でどうして復た建功立事できようか?」 椎几大奮几(床几を叩いて激昂)し、創が皆な裂け分れてその夜に卒した。 (『呉歴』)
―― 策既殺于吉、毎独坐、彷彿見吉在左右、意深悪之、頗有失常。後治創方差、而引鏡自照、見吉在鏡中、顧而弗見、如是再三、因撲鏡大叫、創皆崩裂、須臾而死。 (『捜神記』)

 孫策は于吉の亡霊に悩まされて心神喪失し、あるとき鏡を撲って絶叫し、全ての創が崩裂して死んだ。

 

 評曰:孫堅勇摯剛毅、孤微發迹、導温戮卓、山陵杜塞、有忠壯之烈。策英氣傑濟、猛鋭冠世、覽奇取異、志陵中夏。然皆輕佻果躁、隕身致敗。且割據江東、策之基兆也、而權尊崇未至、子止侯爵、於義儉矣。

 評に曰く、孫堅は勇摯にして剛毅、孤微から発迹し、張温を董卓刑戮に導き、山陵を杜塞し、忠壮の烈気があった。孫策は英気傑済で猛鋭は当世の冠であり、奇を覧て異を取り、志は中華を凌いだ。しかし皆な軽佻果躁で、身は隕ちて敗れるに到った。江東への割拠は孫策が基兆を為したが、孫権の尊崇は充分ではなく、子が侯爵に止まったのは義として倹(欠)けるものだった[1]

 “軽佻果躁”が全てを物語っています。「孫郎」だの「小覇王」だの「断金」だのに眩惑されなければ、気性が荒いお山の大将に過ぎません。個人的には寧ろ好きな武将ですが、それにしても没軌道に殺し過ぎだろう…。

[1] 孫盛曰く、孫氏の兄弟は皆な明略なこと群を抜いていた。創基立事は孫策に由来し、自ら臨終の日に顧命(の臣)に孫権を委ねた。意気(同じくする者)の間にも猶お刎頸の結はあり、ましてや天倫の篤愛と豪達の英鑑であれば、どうして既往の名号を吝しんで本情の至実に違えようか? 遠きを仰いで虚盈の数(運命)を思い、その名と器を慎んだのであろうか? 本を正し名を定めるのは国の大防であり、疑貳を杜絶するのは、消隙の良策である。この為に魯隠公は義を矜って終(遂)に羽父の禍を致し、宋宣公は仁を懐いて遂には殤公の哀があった。皆な心に小善が存在し、しかし経綸の計略には達しておらず、当面の栄誉を求めて貽厥の謀(子孫に遺す方略)を思わなかったのだ。千乗の国を軽しとし、道を踏む事も不充分であった。孫氏は擾攘の際にあって縦横の志を奮ったが、業は積徳の基とはならず、邦に磐石の固は無かった。勢を一にすれば禄祚(天命)を全うできるが、情が乖離すれば禍乱は塵起するもの。どうして兆しが顕れないほど微かなうちから防ぎ、将来の難を慮らずにいて良かろう? 壮哉! 孫策は首事の君であり、呉の開国の主である。在列の将相は皆な旧知だったが、嗣子は弱劣で析薪を荷う事は出来なかった。魯桓公・田市が難を為したを思い、与夷・子馮が禍を興した事を思う。これによって名を正し本を定め、貴賤の別を殊に邈(はる)かにし、そのため国には陵肆の責は無く、後嗣は猜忌の嫌を罔りにせず、群情は異端の論を絶ち、不逞は覬覦の心を絶ったのだ。(父子の)情としては違え、事に於いては欠けていたが、括嚢して(余計な事をせずに)遠きを図って永らく城を保維した事は、事が起こる前に為し、乱れる前に治めたというものであろう。陳氏の評は達したものとは云えないのだ!
 
 
ダイジェスト

 裴注『三國志』の孫呉の関係者は、孫呉寄り・江南寄りの諸書によって著しく補強されてしまい、結果として本来の姿が掴みにくくなっています。江南人を称える目的の『江表伝』をはじめ、回顧的な諸書は排除して呉志を見返すべきかと思います。 諸書をむりに整合的に繋ぐ必要もありません。これらは異聞であり、陳寿が不必要もしくは信憑性が低いと判断したものや、与太話や故意に歪曲したものも多いですから。ま、この呉志にしても、孫呉のために書かれた『呉書』の校訂版に過ぎませんが、それを云い出すとキリがありません。
 しかも本サイトでは私見を挟みまくってしまっている為に、数年間に過ぎない孫策の行跡が掴みづらくなってしまっています(笑)。 そこで反省を込めて、贅肉を削ぎ落した孫策を見てみます。

 
■ 袁術直属時代 ■

 孫策は、袁術の部将となった孫堅によって舒の名族:周氏に預けられます。これが孫策と周瑜の交流のスタートです。孫堅が歿すると徐州牧陶謙の圧迫を避け、家族を率いて父の実家でも母の実家でもなく、曲阿に拠る外叔の丹陽太守呉景を頼り、丹楊郡の平定に従います。 翌年には袁術の上書で懐義校尉となり、孫堅の部曲も返還されます。「実の息子だったらなぁ、おい」とのリップサービス付きで。

 この時期、朝廷派遣の揚州刺史劉繇に曲阿を奪われ、長江を挟んで袁術と劉繇が対立しています。劉繇は会稽太守王朗・徐州牧陶謙・呉郡太守盛憲との繋がりが疑われ、陶謙vs袁術だと見る事も可能です。孫策が盛憲を目の敵にしたのも尤もな事です。
 劉繇討伐は呉景・孫賁が担当しましたが、これに廬江攻略を終えた孫策が押し掛けます。この時、周瑜も 「義によって馳せつけた」 そうですが、従父の周尚が丹楊太守として劉繇攻撃に参加しているので、周瑜の参戦は作戦行動に過ぎません。当時は家門も実勢力も周瑜の方が遙かに上であり、孫策と周瑜の友情を否定する気は全くありませんが、“断金の交”に代表される麗しい友情譚の多くは『江表伝』由来の成分です。
 孫策は劉繇が敗走して呉景・周尚らが引き揚げても江東経略を続けます。ところがこの時の孫策はよほど兵力不足だったらしく、富春の実家にまで援軍を求めています。袁術からの兵力提供が無かった訳で、それは以後の行動が袁術に無許可の独断という傍証になります。 結果として孫策は呉郡・会稽郡の郡治を陥し、一息ついた処で袁術が僭称します。

 
■ 僭称に対する対応 ■

 これまでに孫策は袁術に約束されていた太守の地位を二度反故にされた事を不満とし、この僭称を機に自立します。 呉会を平定した時点で孫策は会稽太守、朱治は呉郡太守に任じられていましたが、呉景を呼び戻して丹陽太守として三呉を固めていますから、孫策自立という解釈は充分に成立します。
 が、揚州に拘っていた袁術はこの叙任にリアクションを起こしていません。その事は、孫策の独断ではないとも解釈できます。 『江表伝』では丹楊支配を巡って袁胤との抗争がありますが、『江表伝』だけの抗争です。

 又た孫策は袁術の僭称に対して“絶交書”を発し、これが孫策が袁術と断交した事を示す最大の傍証とされますが、その内容は非常にソフトな諷諫です。 「まだいろいろ足りていないから、もう少し頑張って環境を整えてからどうですか?」 みたいな。
 この歳(198)には、曹操の上表によって討逆将軍・呉侯とされ、これが朝廷に帰順した褒賞だとされます。しかし孫策が朝廷に上表した形跡はなく、袁術との具体的な軍事衝突も見えません。そもそも袁術が僭称してから死亡するまでの孫策の動きが不明瞭で、孫輔伝から察するに、三呉地方の主要部以外の経略を進めていたものと思われます。歴陽に守備隊を置いただけで。袁術に対する警戒がとても薄い! 「孫策が朝命を奉じて袁術を討った」 と主張する『江表伝』すら、孫策の関心はもっぱら三呉の完全制覇であり、これを邪魔する下邳陳氏との対決だと認めています。
 孫策、実は袁術と組んで茶番を演じてたんじゃない?周魴みたく。ま、これは妄想(笑)

 
■ 自立後の処世 ■

 袁術の死後、孫策は廬江の劉勲を騙し討ち、袁術の余勢を接収します。この時に劉勲の庇護下にあった袁術の家族を保護し、その娘は孫権の正妃とされます。汝南袁氏の血統はやはり魅力的だったようです。

 そして翌年、官渡の役に乗じて北伐を密かに計画し、行動を起こす直前に殺されます。北伐の目標は、一般には許都襲撃だとされます。
孫盛も指摘している通り、当時、敗れたとはいえ仇敵の黄祖は健在ですし、広陵には偉才と評判の陳登が控えています。 揚州の山越や宗族も制圧されてはいませんし、軍の主力は豫章・廬陵方面に展開中で、兵站的にも許都襲撃には無理が感じられます。
 『江表伝』由来なのが困りものですが、広陵太守陳登が間諜を遣って呉会の切り崩しに勤しんでいて、両者の確執が抜き差しならぬものになっていたという情報があります。下邳陳氏と孫策との対立は袁術と陶謙の対立の延長でもあり、豫章・廬陵方面が一段落ついた後なら、広陵攻略計画も現実味を帯びた事でしょう。 孫策にどれ程の戦略性があったのかは不明ですが、揚州を固めたら徐州経略に着手という流れです。荊州はその次あたりか。 まるで袁術の構想を完成させようとしているようだ(笑)


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