三國志修正計画

三國志卷七 魏志七/呂布臧洪傳 (一)

呂布

 呂布字奉先、五原郡九原人也。以驍武給并州。刺史丁原為騎都尉、屯河内、以布為主簿、大見親待。靈帝崩、原將兵詣洛陽。與何進謀誅諸黄門、拜執金吾。進敗、董卓入京都、將為亂、欲殺原、并其兵衆。卓以布見信于原、誘布令殺原。布斬原首詣卓、卓以布為騎都尉、甚愛信之、誓為父子。

 呂布、字は奉先。五原郡九原の人である。驍武によって幷州に給(つか)えた。刺史丁原が騎都尉となって河内に駐屯した時、呂布は主簿となり、大いに親しみ待遇された。霊帝が崩じ、丁原は兵を率いて洛陽に詣った[1]。何進と黄門誅戮の事を謀り、執金吾に拝された。何進が敗れ、董卓が京都に入り、乱を為そうとし、丁原を殺してその兵衆を併せようとした。董卓は呂布が丁原に信任されている事から、呂布を誘って丁原を殺させた。呂布は丁原の首を斬って董卓に詣り、董卓は呂布を騎都尉として甚だ愛信し、父子の誓を為した。

 布便弓馬、膂力過人、號為飛將。稍遷至中郎將、封都亭侯。卓自以遇人無禮、恐人謀己、行止常以布自衞。然卓性剛而褊、忿不思難、嘗小失意、拔手戟擲布。布拳捷避之、為卓顧謝、卓意亦解。由是陰怨卓。卓常使布守中閤、布與卓侍婢私通、恐事發覺、心不自安。
 先是、司徒王允以布州里壯健、厚接納之。後布詣允、陳卓幾見殺状。時允與僕射士孫瑞密謀誅卓、是以告布使為内應。布曰:「奈如父子何!」允曰:「君自姓呂、本非骨肉。今憂死不暇、何謂父子?」布遂許之、手刃刺卓。語在卓傳。允以布為〔奮武〕將軍、假節、儀比三司、進封温侯、共秉朝政。

 呂布は弓馬に便(慣)れ、膂力は人を大きく超え、飛将と号された。ようよう遷って中郎将に至り、都亭侯に封じられた。董卓は自身が人を遇すること無礼である事から、人が己を謀る事を恐れ、行止(行往坐臥)には常に呂布によって自衛した。しかし董卓の性は剛情かつ褊狭で、忿る際には後難を思わなかった。嘗て(呂布が)小(いささ)か意を失した事があり、手戟(小戟)を抜いて呂布に擲った。呂布は拳と捷さでこれを避け[2]、董卓を顧みて陳謝し、董卓の意も亦た解けたが、これによって陰かに董卓を怨んだ。董卓は常に呂布に中閤を守らせたが、呂布は董卓の侍婢と私通し、事が発覚する事を恐れて心中で不安だった。
 これより先、司徒王允は呂布が州里の壮健である事から厚く接納した。後の呂布は王允に詣り、董卓に殺されそうになった次第を陳べた。時に王允は僕射士孫瑞と密かに董卓誅殺を謀っており、このため呂布に内応させようと告げた。呂布 「父子の関係はどうするので!」 王允 「君の姓は呂であり、もともと骨肉ではない。今は死を憂えて暇が無く、どうして父子などと謂っていられますか?」 呂布は遂にこれを許諾し、手刃にて董卓を刺した。物語は董卓伝にある。王允は呂布を奮武将軍として節を仮し、儀仗は三司と同じくし、温侯に進封して共に朝政を秉った。

 布自殺卓後、畏惡涼州人、涼州人皆怨。由是李傕等遂相結還攻長安城。布不能拒、傕等遂入長安。卓死後六旬、布亦敗。將數百騎出武關、欲詣袁術。
 布自以殺卓為術報讎、欲以コ之。術惡其反覆、拒而不受。北詣袁紹、紹與布撃張燕于常山。燕精兵萬餘、騎數千。布有良馬曰赤兔。常與其親近成廉・魏越等陷鋒突陳、遂破燕軍。而求益兵衆、將士鈔掠、紹患忌之。布覺其意、從紹求去。紹恐還為己害、遣壯士夜掩殺布、不獲。事露、布走河内、與張楊合。紹令衆追之、皆畏布、莫敢逼近者。

 呂布は自ら董卓を殺した後、涼州人を畏れ悪み、涼州人は皆な怨んだ。これにより、李傕らが相結んで還って長安を攻めると[3]、呂布は拒ぐ事ができず、李傕らは遂に長安に入城した。董卓の死後六旬(60日)で呂布も亦た敗れた[4]。数百騎を率いて武関より脱出し、袁術に詣ろうとした。呂布は自ら董卓を殺しており、袁術の為に讐を報いた事を徳とされるだろうと。
 袁術はその反覆を悪み、拒いで受容しなかった。

 袁術は呂布を甚だ厚遇した。呂布は董卓誅殺の功を矜り、兵の鈔掠を放置した。袁術は患え、呂布も不安になって河内の張楊に依った。李傕らが呂布の首を購募し、呂布は懼れて袁紹に投じた。 (『後漢書』)

(そのため)北のかた袁紹に詣り、袁紹は呂布と与に常山に張燕を撃った。張燕の精兵は万余、騎兵は数千。呂布には良馬があって赤兔と謂った[5]。常にその親近の成廉・魏越らと先鋒として陣に突して陥し、かくて張燕の軍を破った。そして兵衆を益す事を求め、将士は鈔掠し、袁紹はこれを患忌した。呂布はその意を覚り、袁紹から去る事を求めた。袁紹は己を害そうと還ってくる事を恐れ、壮士を遣って夜間に呂布を掩殺させたが、捕獲できなかった。事が露れ、呂布は河内に走り[6]、(太守の)張楊と合流した。袁紹は軍兵にこれを追わせたが、皆な呂布を畏れ、逼近しようとする者は莫かった[7]

 張楊と呂布は幷州刺史丁原の部下として同僚で、この時は反董卓でも協同できる立場になっていました。しかも張楊は袁紹とは対立する立場にあり、避難先としても恰好です。袁紹の兵が畏れたのは呂布の武勇ではなく、恐らく張楊の勢力圏だからでしょう。

張邈

 張邈字孟卓、東平壽張人也。少以侠聞、振窮救急、傾家無愛、士多歸之。太祖・袁紹皆與邈友。辟公府、以高第拜騎都尉、遷陳留太守。董卓之亂、太祖與邈首舉義兵。汴水之戰、邈遣衞茲將兵隨太祖。袁紹既為盟主、有驕矜色、邈正議責紹。紹使太祖殺邈、太祖不聽、責紹曰:「孟卓、親友也、是非當容之。今天下未定、不宜自相危也。」邈知之、益コ太祖。太祖之征陶謙、敕家曰:「我若不還、往依孟卓。」後還、見邈、垂泣相對。其親如此。

 張邈、字は孟卓。東平寿張の人である。若くして侠気で聞こえ、振窮救急するのに家を傾けて愛(お)しまず、士は多くこれに帰服した。曹操・袁紹は皆な張邈とは友だった。公府に辟され、高位で及第して騎都尉に拝され、陳留太守に遷った。董卓の乱では曹操と張邈が首(はじめ)となって義兵を挙げた。汴水の戦では張邈は衛茲を遣って兵を率いて曹操に随わせた。袁紹は盟主となった後、驕矜の色があり、張邈は正議によって袁紹を責めた。袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたが、曹操は聴かず、袁紹を責めて 「孟卓は親友であり、是非を考えて受容なさい。今、天下は未だ定まらず、自ら内訌するのは宜しくありません」 張邈はこれを知り、益々曹操を徳とした。太祖が陶謙征伐に行こうとした際、家属に命じるには 「私がもし還らなければ、往って孟卓に依れ」 還った後、張邈と見えると相対して垂泣した。その親しさはこの通りである。

 実は張邈の動きを見たくてこの巻を訳しました。呂布にはあまり興味がありません。酸棗での肝心な部分を割と武帝紀に持っていかれてしまい、ここでは最初っから曹操とは親友かつ同僚、袁紹に従う盟友の立場です。武帝紀臧洪伝から考えると、山東義挙は冀州派と兗州派の合作のようで、両者に統属関係は無さそうです。兗州牧は劉岱ですが、陰の元締めは張邈っぽく、曹操はその一部将に過ぎません。
 曹操が袁紹によって東郡太守、次いで兗州牧とされた後も、一貫して兗州を鎮めていたのは恐らく張邈でしょう。そして劉岱の敗死によって張邈も袁紹傘下に入ったものと思われます。曹操の奉迎に最も熱心だった鮑信は酸棗以来の張邈の盟友でもあり、州事を部外者同然の曹操に任せるには、鮑信の一存ではなくもっと影響力の大きな人物の同意が必要だと思われますので。この後も東郡ですら曹操より張邈の影響力が大きかった事は、張邈が挙兵した事で曹操の下に留まったのが三城しかなかった事でも明らかです。
 193年の年頭に袁術が陳留の匡亭で敗れた戦いに、武帝紀でも袁術伝でも太守の張邈の名は出てきません。恐らく 「僭逆者を大破したのは曹操」 だと喧伝する為、慎重に抹消されたんでしょう。

 

 呂布之拾袁紹從張楊也、過邈臨別、把手共誓。紹聞之、大恨。邈畏太祖終為紹撃己也、心不自安。興平元年、太祖復征謙、邈弟超、與太祖將陳宮・從事中郎許・王楷共謀叛太祖。宮説邈曰:「今雄傑並起、天下分崩、君以千里之衆、當四戰之地、撫劍顧眄、亦足以為人豪、而反制于人、不以鄙乎!今州軍東征、其處空虚、呂布壯士、善戰無前、若權迎之、共牧兗州、觀天下形勢、俟時事之變通、此亦縱之一時也。」邈從之。太祖初使宮將兵留屯東郡、遂以其衆東迎布為兗州牧、據濮陽。郡縣皆應、唯鄄城・東阿・范為太祖守。太祖引軍還、與布戰於濮陽、太祖軍不利、相持百餘日。是時歳旱・蟲蝗・少穀、百姓相食、布東屯山陽。二年間、太祖乃盡復收諸城、撃破布于鉅野。布東奔劉備。邈從布、留超將家屬屯雍丘。太祖攻圍數月、屠之、斬超及其家。邈詣袁術請救未至、自為其兵所殺。

 呂布が袁紹を拾(す)てて張楊に従う時、通過に際して張邈との別れに臨み、手を把って共に誓った。袁紹はこれを聞くと大いに恨んだ。張邈は曹操が終には袁紹の為に己を撃つ事を畏れ、心中に不安となった。
興平元年(194)、曹操が復た陶謙を征伐すると、張邈の弟の張超は曹操の将の陳宮や従事中郎許・王楷と共に曹操に叛く事を謀った。陳宮が張邈に説くには 「今、雄傑が並起し、天下は分崩しています。君は千里からの軍兵による四戦の地にあって、剣を撫して顧眄し、亦た人豪となるのに充分です。しかしかえって人に制せられており、鄙しくはありませんか! 今、州軍は東征しており、本拠は空虚です。呂布は壮士であり、善く戦って前に(敵は)ありません。もし権宜によってこれを迎え、共に兗州を牧(おさ)め、天下の形勢を観て時事の変通を俟てば、これも亦た縦横する一つの機会でありましょう」 張邈はこれに従った。
曹操は(東征の)初めに陳宮に兵を率いて東郡に留屯させており、かくてその手勢にて東に呂布を迎えて兗州牧とし、濮陽に拠った。郡県は皆な応じ、ただ鄄城・東阿・范県だけが曹操の為に守った。曹操は軍を率いて還り、呂布と濮陽で戦ったが、曹操の軍には利あらず、相い対峙すること百余日。この時の歳は旱・蟲蝗によって穀糧が少なく、百姓は相い食み、呂布は東のかた山陽に駐屯した。二年の間に曹操は諸城を尽く復収し、鉅野に呂布を撃破した。呂布は東のかた劉備に奔った[8]
 張邈は呂布に従い、張超を留めて家属を率いて雍丘(開封市杞県)に駐屯させた。曹操は攻囲すること数月、これを屠り、張超およびその家族を斬った。張邈は袁術に詣って救援を請おうとして未だ至らないうち、自身の兵によって殺された[9]

 張邈は果たして袁術と組んでいたんでしょうか。私は“否”だと思います。肝心の袁術に、呼応した動きがまるでありません。少なくとも袁術の介入を期待したのは確実だろうし、協力の要請は打診していたのかも知れませんが、恐らく返事が来る前に行動してしまったんでしょう。陳宮の様な策士にありがちな、期待した事が実現すると思い込んで確認行動を怠った感じで。当の袁術は揚州攻略を孫氏に一任しなきゃならないほど勢力回復に苦心していて、しかも食糧難に陥っていたというのに。

 備東撃術、布襲取下邳、備還歸布。布遣備屯小沛。布自稱徐州刺史。術遣將紀靈等歩騎三萬攻備、備求救于布。布諸將謂布曰:「將軍常欲殺備、今可假手於術。」布曰:「不然。術若破備、則北連太山諸將、吾為在術圍中、不得不救也。」便嚴歩兵千・騎二百、馳往赴備。靈等聞布至、皆斂兵不敢復攻。布於沛西南一里安屯、遣鈴下請靈等、靈等亦請布共飲食。布謂靈等曰:「玄コ、布弟也。弟為諸君所困、故來救之。布性不喜合闘、但喜解闘耳。」布令門候于營門中舉一隻戟、布言:「諸君觀布射戟小支、一發中者諸君當解去、不中可留決闘。」布舉弓射戟、正中小支。諸將皆驚、言「將軍天威也」!明日復歡會、然後各罷。

 劉備が東に袁術を撃った際、呂布は下邳を襲って取り、劉備は還って呂布に帰順した。呂布は劉備を遣って(豫州の)小沛に駐屯させ、呂布は自ら徐州刺史を称した[10]。袁術は将の紀霊ら歩騎三万を遣って劉備を攻めさせ、劉簿は呂布に救援を求めた。呂布の諸将が呂布に謂うには 「将軍は常に劉備を殺そうとしておられた。今は袁術に手を仮すべきです」 呂布 「そうではない。袁術がもし劉備を破れば、北は泰山の諸賊と連なり、俺は袁術の包囲の中に置かれる。救わぬ訳にはいかんのだ」 便(ただち)に歩兵千・騎兵二百を厳(ととの)え、馳せ往きて劉備に赴いた。紀霊らは呂布が至ったと聞き、皆な兵を斂めて復た攻めようとはしなかった。呂布は沛の西南一里に屯営を安んで、鈴(?)を遣って紀霊らを請じさせ、紀霊らも亦た呂布との飲食を請うた。呂布が紀霊らに謂うには 「玄徳は布の弟である。弟が諸君に困窮させられているので救いに来たのだ。布の性は闘いを喜ばず、ただ闘いを解く事を喜びとしているだけだ」 呂布は門候に命じて営門中に一振りの隻戟を挙げさせ、呂布が言うには 「諸君、布が戟の小支を射るのを観よ。一たび発して中れば諸君は包囲を解いて去るのだ。中らねば留まって闘いを決せよ」 呂布は弓を挙げて戟を射、まさに小支に中った。諸将は皆な驚いて言った 「将軍は天威である!」 明日、復た宴会で歓楽し、その後に各々罷めた。

 術欲結布為援、乃為子索布女、布許之。術遣使韓胤以僭號議告布、并求迎婦。沛相陳珪恐術・布成婚、則徐・揚合從、將為國難、於是往説布曰:「曹公奉迎天子、輔讚國政、威靈命世、將征四海、將軍宜與協同策謀、圖太山之安。今與術結婚、受天下不義之名、必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也、女已在塗、追還絶婚、械送韓胤、梟首許市。珪欲使子登詣太祖、布不肯遣。會使者至、拜布左將軍。布大喜、即聽登往、并令奉章謝恩。登見太祖、因陳布勇而無計、輕於去就、宜早圖之。太祖曰:「布、狼子野心、誠難久養、非卿莫能究其情也。」即搆]秩中二千石、拜登廣陵太守。臨別、太祖執登手曰:「東方之事、便以相付。」令登陰合部衆以為内應。

 袁術は呂布と結んで援けにしようと考え、かくして子の為に呂布の娘を索(もと)め、呂布はこれを許した。

 袁術は呂布が障害となる事を懼れ、子の為に通婚を求めた。 (『後漢書』)

袁術は使者として韓胤を遣り、僭号を議した事を呂布に告げさせ、併せて婦人を迎える事を求めた。沛相陳珪は袁術と呂布の成婚で徐・揚が合従する事が国難になると恐れ、往って呂布に説くには 「曹操は天子を奉迎して国政を輔讚し、威霊は世に名高く、四海を征伐しようとしています。将軍はこれと協同策謀して泰山の安きを図るのが妥当です。今、袁術と結婚し、天下に不義の名を受ければ、きっと累卵の危険がありましょう」 呂布も亦た袁術が初めに己を受容しなかった事を怨み、娘は已に途上に在ったが、追って還して婚儀を絶ち、械(かせ)して韓胤を(曹操に)送り、許の市に梟首した。
陳珪は子の陳登を曹操に詣らせたいと考えたが、呂布は遣る事を肯んじなかった。折しも使者が至り、呂布を左将軍に拝した。呂布は大いに喜び、即座に陳登が往く事を聴(ゆる)し、併せて章書を奉じて謝恩させた[11]。陳登は曹操に見えると、呂布が勇のみで計りごとが無く、去就を軽んじている事を陳べ、早々に図るのが妥当だとした。曹操 「呂布は野心ある狼子であり、誠に久しくは養い難い。卿でなければその実情を究められる者は莫い」 即座に陳珪の秩を中二千石に増し、陳登を広陵太守に拝した。別れに臨んで、曹操は陳登の手を執り、「東方の事は付託いたしましたぞ」 陳登に命じ、陰かに部衆を糾合して内応させようとした。

 始、布因登求徐州牧、登還、布怒、拔戟斫几曰:「卿父勸吾協同曹公、絶婚公路;今吾所求無一獲、而卿父子並顯重、為卿所賣耳!卿為吾言、其説云何?」登不為動容、徐喩之曰:「登見曹公言:『待將軍譬如養虎、當飽其肉、不飽則將噬人。』公曰:『不如卿言也。譬如養鷹、饑則為用、飽則揚去。』其言如此。」布意乃解。
 術怒、與韓暹・楊奉等連勢、遣大將張勳攻布。布謂珪曰:「今致術軍、卿之由也、為之奈何?」珪曰:「暹・奉與術、卒合之軍耳、策謀不素定、不能相維持、子登策之、比之連雞、勢不倶棲、可解離也。」布用珪策、遣人説暹・奉、使與己并力共撃術軍、軍資所有、悉許暹・奉。於是暹・奉從之、勳大破敗。

 始め、呂布は陳登に因って徐州牧を求めていた。陳登が還って(復命すると)呂布は怒り、戟を抜いて几を斫って 「卿の父が俺に曹操に共同するよう勧め、公路との通婚を絶ったのだ。今、俺の求めたものは一つとして獲られず、卿ら父子は揃って顕重に就いた。卿が売ったのだろう! 卿が俺の為にした言葉は、どのように云って説いたのだ?」 陳登は容貌を動かさず、徐ろに喩すには 「登は曹公に見えて言いました “将軍を待遇する事は譬えるなら虎を養うようなものです。肉に飽かせねばなりません。飽かせなければ人を噬(くら)います。” と。曹公は “卿の言う事はそうではない。譬えれば鷹を養うようなものだ。饑えていれば用を為し、飽食すれば揚(と)び去ってしまう。” その言辞はこの通りです」 呂布の意はかくして解けた。
 袁術は怒り、韓暹・楊奉らと勢力を連ね、大将の張勲を遣って呂布を攻めさせた。

 袁術は大将の張勲・橋蕤らを遣り、韓暹・楊奉と軍勢を連ね、歩騎数万で七道より呂布を攻めた。時に呂布の兵は三千、馬匹は四百に過ぎず、敵わない事を懼れた。 (『後漢書』)

呂布が陳珪に謂うには、「今、袁術が軍を致したのは卿に由る。どのようにするのだ?」 陳珪 「韓暹・楊奉と袁術とは、卒合(即席連合)の軍に過ぎません。策謀は素より定まっておらず、互いに維持する事もできません。子の陳登の策では、連雞と比べており、勢いとして倶に棲む事はできず、解離させられるとの事です」 呂布は陳珪の策を用い、人を遣って韓暹・楊奉に説かせ、己と力を併せて共に袁術の軍を撃ち、所有する軍資は悉く韓暹・楊奉に許そう、と。こうして韓暹・楊奉はこれに従い、張勲は大いに破敗した[12]

 建安三年、布復叛為術、遣高順攻劉備於沛、破之。太祖遣夏侯惇救備、為順所敗。太祖自征布、至其城下、遺布書、為陳禍福。布欲降、陳宮等自以負罪深、沮其計。布遣人求救于術、自將千餘騎出戰、敗走、還保城、不敢出。術亦不能救。布雖驍猛、然無謀而多猜忌、不能制御其黨、但信諸將。諸將各異意自疑、故毎戰多敗。
太祖塹圍之三月、上下離心、其將侯成・宋憲・魏續縛陳宮、將其衆降。布與其麾下登白門樓。兵圍急、乃下降。遂生縛布、布曰:「縛太急、小緩之。」太祖曰:「縛虎不得不急也。」布請曰:「明公所患不過於布、今已服矣、天下不足憂。明公將歩、令布將騎、則天下不足定也。」太祖有疑色。劉備進曰:「明公不見布之事丁建陽及董太師乎!」太祖頷之。布因指備曰:「是兒最叵信者。」於是縊殺布。布與宮・順等皆梟首送許、然後葬之。

 建安三年(198)、呂布は復た袁術の為に叛き、高順を遣って沛に劉備を攻めさせ、これを破った。曹操は夏侯惇を遣って劉備を救わせたが、高順に敗られた。曹操は自身で呂布を征伐し、その城下に至ると呂布に書簡を遣り、禍福を陳べた。呂布は降ろうとしたが、陳宮らは自身が深い罪を負っている為にその計画を沮害した[13]。呂布は人を遣って袁術に救いを求め、自ら千余騎を率いて出戦したが、敗走して還って城に保(こも)り、出る事がなくなった[14]。袁術も亦た救う事が出来なかった。

 「術亦不能救」 とは、裴注『英雄記』を併せ読んでしまうと、娘が届かなかったから袁術が援軍を出さなかったように読めますが、だとしたら“亦・能”は不要です。当時の袁術は既に末期状況を呈していたので、単純に兵を動かせない程の兵糧不足に陥っていたと見るべきです。そもそも徐州兼併は袁術の基本政策で、片意地を張ってそれを放棄するほど自爆主義者ではない筈です。でも袁術の不徳と歴史の積み重ねそう見えてしまいます。

呂布は驍猛とはいえ謀りごとは無く多く猜忌し、その郎党を制御できず、ただ諸将を信じていた。諸将は各々異心を意って猜疑し、そのため戦う毎に多く敗れた。
曹操が塹壕して囲むこと三月、上下とも離心した。その将の侯成・宋憲・魏続が陳宮を縛り、その手勢を率いて降った[15]。呂布とその麾下は白門楼に登った。兵は急(きび)しく囲み、かくして下りて降った。かくて呂布を生縛した処、呂布は 「縛が太だ急しい。小し緩めてくれ」 太祖 「虎を縛るのに急しくせずにおられようか」 呂布が謂うには 「明公の患いは布を超える者は無かろう。今、已に服したからには天下を憂える必要はなくなった。明公が歩兵を率い、布が騎兵に号令すれば、天下すら定めるには不足であろう」 曹操には懐疑の色があった。劉備が進み出て 「明公は呂布が丁建陽および董太師に事えたのをご覧になられませんでしたか!」 曹操は頷いた。呂布は劉備を指し、「この小僧が最も信じ叵(がた)いのだ」[16] こうして呂布を縊め殺した。呂布と陳宮・高順らは皆な梟首して許に送られ、その後に葬られた[17]

 呂布の断末魔にはとても含蓄があります。本来なら劉備が呂布を罵るべき言葉です。それを呂布が吐いたという事は、劉備が言質を与えぬ程度に呂布を騙していたと考えられます。例えば、下邳城を譲る代償に袁術との仲介を依頼したとか、献帝に話を通すために沛城から逐われてみせたとか。

 太祖之禽宮也、問宮欲活老母及女不?宮對曰:「宮聞孝治天下者不絶人之親、仁施四海者不乏人之祀、老母在公、不在宮也。」太祖召養其母終其身、嫁其女。

 曹操は陳宮を禽えると、陳宮に老母および娘を活かしたいかと問うた。陳宮は対え 「私は、孝によって天下を治める者は人の親を絶やさず、仁を四海に施す者は人の祀りを乏(た)やさぬと聞いております。老母(の身命)は公に在り、私には在りません」 曹操は召してその母の身が終えるまで養い、その娘を嫁がせた[18]
陳登

 陳登者、字元龍、在廣陵有威名。又掎角呂布有功、加伏波將軍、年三十九卒。後許與劉備並在荊州牧劉表坐、表與備共論天下人、曰:「陳元龍湖海之士、豪氣不除。」備謂表曰:「許君論是非?」表曰:「欲言非、此君為善士、不宜虚言;欲言是、元龍名重天下。」 備問:「君言豪、寧有事邪?」曰:「昔遭亂過下邳、見元龍。元龍無客主之意、久不相與語、自上大牀臥、使客臥下牀。」備曰:「君有國士之名、今天下大亂、帝主失所、望君憂國忘家、有救世之意、而君求田問舍、言無可采、是元龍所諱也、何縁當與君語?如小人、欲臥百尺樓上、臥君於地、何但上下牀之間邪?」表大笑。備因言曰:「若元龍文武膽志、當求之於古耳、造次難得比也。」

 陳登とは字を元龍といい、広陵に在って威名があった。呂布に対して掎角しての功があり、伏波将軍を加えられたが、齢三十九で卒した。

 伏波将軍は西漢の時代から続く由緒正しい雑号将軍で、“水を鎮める”役職です。初出は南粤平定に加わった路博徳で、超有名な東漢の馬援も交趾を平定する際にこの将軍号を加えられています。曹魏では専ら孫呉に相対する人物に加えられますが、将としての実力を備えている事が求められる官です。それはさて措き、夏侯惇が204年の鄴の陥落によって伏波将軍に進位しているので、陳登の死はそれ以前という事になります。

 後に許が劉備と揃って荊州牧劉表の坐に在った時、、劉表は劉備と共に天下の人を論じた。許 「陳元龍は湖海の士で、豪気が除かれませんでした」 劉備が劉表に謂うには 「許君の論の是非は?」 劉表 「非と言おうとすれば、この君は善士であって虚言はしなかろうし、是と言おうにも、元龍の名は天下に重い」 劉備が許に問うには 「君が豪と言うのは、いったい何がありましたか?」 許 「昔、乱に遭って下邳を通過した時に元龍とまみえました。元龍には客の主としての意識が無く、久しく相い与に語らず、自身は上の大牀に臥せ、客を下の牀に臥せさせました」 劉備 「君には国士の名があった。今、天下は大いに乱れ、帝主は所在を失い、君には憂国忘家しての救世の意がある事を望んでいたのだ。しかし君は田地を求め邸舍を問い、採るべき言葉も無かった。これを元龍は諱んだのだ。何によって君と語ればよいのだ? 小人(たる私)なら、百尺の楼上に臥せ、君を地に臥せるだろう。どうしてただ上下の牀の間に留まろうか?」 劉表は大いに笑った。劉備が因って言うには 「元龍のような文武と胆志を持つ者は、古えに求める事ができるだけで、造次(咄嗟)には比較しうる者を得るのも難しいでしょう」[19]
 許から帰還した陳矯が復命すると、陳登は京師での自身の評判を聞いた。
陳矯 「明府は驕慢で矜持が過ぎるとの事です」
陳登 「私は閨門との親睦や徳行では陳紀兄弟を敬い、清潔で礼に適っている点では華歆を敬っている。修身して悪を憎み、見識と義侠では趙cを敬い、博聞彊記で卓抜な事は孔融を敬い、雄姿傑出して王霸の大略を持っている点では劉備を敬っている。敬う者がこの通りなのに、どうして驕慢であろうか! 余人は些細で問題にならない」
陳登の本意はこの通りであり、陳矯を深く敬って友とした。
 匡奇城が呉兵に囲まれると、陳登は陳矯に命じて曹操に救援を求めさせた。陳矯が曹操に説くには 「鄙郡は要衝です。もし外藩にしてもらえれば、呉人は謀りごとを挫かれ、徐州の地は永らく安泰です」 曹操はかくして援軍を赴かせた。呉軍が退くと陳登は伏兵を多く設け、兵を率いて追撃して大破した。 (陳矯伝)
―― 広陵太守陳登は射陽(揚州市宝応東郊)にて治めた。陳登は陳瑀の従兄の子である。(199年に)孫策が廬江の劉勲を襲った時、陳登は復た間諜を遣って厳白虎の残党に印綬を与え、孫策の後方撹乱と陳瑀の雪辱を図った。 (『江表伝』)

 陳矯が 「外藩云々」 と云っている事から、陳登の立ち位置は臧霸らと極めて似ている半独立勢力である事が覗われます。
 陳登は『先賢行状』では 「年二十五挙孝廉」 とあり、歿齢から逆算すると186〜190年の間の事になります。これはもろに陶謙の時代です。陳瑀が袁術と対立して孫策に逐われた件で、下邳陳氏が一族を挙げて反袁術に転じたであろう事は陳珪の言動でも察せられますが、陳登にとって陶謙は大恩ある故将でもあり、袁術閥との攻防を継続したのは陶謙の遺志を継ぐという意識もあったのでしょう。袁術の死後、孫策も名実ともに朝廷を支持していた筈なのですが、宿怨は別問題だったようです。曹操にしても、揚州を支配するのは孫策よりは為人りが判っている陳登の方がマシなので、陳登を支持していても不思議はありません。
 匡g城の所在は不明ですが、長江から離れた陸城との事なので、治所の射陽にほど近い場所だというのが有力です。

 
[1] 丁原、字は建陽。本来は寒家の出自で、為人りは麤略(粗略)で、武勇があって騎射に善かった。南県の吏となり、使命を受けると難を辞退せず、警急があれば寇虜を追って、そのたび先頭に在った。書を知ることは僅かで、吏としての有用性が少しはあった。 (『英雄記』)
[2] 『詩』には 「拳無く勇無ければ、職(もっぱ)ら乱の階(きざし)を為す」 とあり、注には 「拳とは力である」 と。
[3] 郭は城北にいた。呂布は城門を開き、兵を率いて郭に就いて言うには 「兵を却けろ。自身で勝負を決しよう」 郭と呂布はかくして独り共に戦い、呂布は矛で郭を刺し、郭の後方の騎兵がかくて進んで郭を救った。郭と呂布はかくて各々罷めた。 (『英雄記』)
[4] 裴松之が調べた処、『英雄記』は、“諸書は呂布が四月二十三日に董卓を殺し、六月一日に敗走した。時に又た閏月も無く、六旬には及ばない”と。
[5] 時人が語って言うには 「人中に呂布あり、馬中に赤兔あり」 と。 (『曹瞞伝』)
[6] 呂布は自身が袁氏に対して功がある事から、袁紹の麾下の諸将を軽んじて傲り、勝手に署置(任命)されたのだから貴ぶ必要はないと考えていた。呂布は洛陽に還る事を求め、袁紹は呂布に領司隷校尉を仮し、口では遣る事を言い、内心では呂布を殺そうとしていた。明日に出発しようとした時、袁紹は甲士三十人を遣って呂布を見送るものだと説明した。呂布は帳側に止めさせ、偽って人に帳中で箏を鼓たせた。袁紹の兵が臥した頃、呂布は何事も無く帳を出て去ったが、兵は覚らなかった。夜半に兵は起きると呂布の牀を乱斫し、已に死んだと考えた。明日に袁紹が訊問し、呂布が尚も健在だと知ると城門を閉じ、呂布はかくて引き去った。 (『英雄記』) 『後漢書』で採用。
[7] 張楊および部曲の諸将は、皆な李傕・郭の購募の命令を受け、共に呂布を囲んだ。呂布はこれを聞き、張楊に謂うには、「布は卿の州里人だ。卿が布を殺せば、卿(の評判)は弱くなる。布を売るのが妥当だ。郭・李傕の爵位・恩寵がきっと得られよう」 張楊はこれを是として外面では郭・李傕に許諾し、内実は呂布を保護した。郭・李傕はこれを患え、更めて大封詔書を下し、呂布を潁川太守とした。 (『英雄記』) 『後漢書』で採用。

 張楊が河内太守に叙されたのは本文では董卓によってですが、恐らくは李郭政権によってでしょう。その時の条件として呂布殺害が依頼されたという可能性もアリです。

[8] 呂布は劉備に見えると甚だ敬服し、劉備に謂うには 「私は卿と同じく辺地の人です。布は関東が兵を起し、董卓を誅しようとしているのを見ました。布が董卓を殺して東に出ると、関東の諸将で布を安んずる者は無く、皆な布を殺そうとする者ばかりです」 劉備を帳中に請じて婦人の牀上に坐らせ、婦人に命じて拝礼させてから酒を酌んで飲食し、劉備を呼ぶに弟とした。劉備は呂布の語る言葉に定まりが無い事を見、外見ではそうだとしつつ内心では悦ばなかった。 (『英雄記』)
[9] 袁術が尊号を称す事を議した時、張邈が袁術に謂うには 「漢は火徳に拠り、絶えて復た揚り、徳と恩沢は豊流して明公が誕生しました。公は枢軸の中に居り、入れば上席を享け、出ては衆目を集め、華山・霍山とて高さでは及ばず、淵泉とて水量を同じくする事は出来ません。巍巍蕩蕩と謂うもので、弐を為す者(比肩する者)はおりません。どうしてこれを捨てて称制しようとするのです? 恐らく福は眥に盈たず(見落とすほど僅か)、禍は世に溢れております。荘周の言葉にも、“郊祭の犧牛は、年を経て養飼され、文繡を衣とし、主宰が鸞刀を執り、廟門に入った時に孤犢たる事を求めても叶わないと!」 (『献帝春秋』)
―― 調べた処、本伝では張邈は袁術に詣り、至らずに死んだとある。しかしここでは尊号を称す事を諫めたと云っている。いずれが正しいのか詳らかではない。
[10] 呂布は徐州に入った当初、書簡を袁術に与えた。袁術の報書には 「昔、董卓が乱を為し、王室を破壊し、術の門戸を禍害した。術は関東に挙兵したが、董卓を屠裂できなかった。将軍は董卓を誅してその頭首を送り、術の為に讎恥を掃滅してくれ、術が当世に目を見張り、死んでも生を愧じぬようにしてくれた。その功の第一である。昔、将の金元休が兗州に向い、封丘に詣ったばかりの時、曹操に逆撃されて破られ、流離迸走して滅亡に至りかけた時があった。将軍は兗州を破り、術は復た遐邇(遠近)に目を見張るようになった。その功の第二である。術が生まれてより以来、天下に劉備の名は聞かず、劉備は挙兵して術と対戦したが、術は将軍の威霊によって劉備を破る事ができた。、その功の第三である。将軍には術に対して三大功がある。術は不敏とはいえ生死を以て奉じたい。将軍は連年の攻戦で軍糧の寡少に困苦しておられるとか。今、米二十万斛を送り、道路にて迎逢しよう。これで直ちに止まるのではなく、駱駅として復た送致しよう。もし兵器・戦具のそれらが乏少していれば、大小なりと命じられたい」 呂布は書簡を得ると大いに喜び、かくて下邳で造叛した。 (『英雄記』) 『後漢書』で採用。
―― 金元休、名は尚。京兆の人である。金尚は同郡の韋休甫・第五文休と倶に著名で、号して三休と呼ばれた。金尚は献帝の初に兗州刺史となり、東の郡に行った。曹操が已に兗州に臨んでおり、金尚は南のかた袁術に依った。袁術は僭号すると金尚を太尉にしようとしたが、明言しようとせず、人を遣って秘かに諷旨させた。金尚は屈意せず、袁術も亦た強いようとはしなかった。建安の初、金尚は逃れ還ろうとし、袁術に害された。その後、金尚の喪と太傅馬日磾の喪が倶に京師に至り、天子は金尚の忠烈を嘉し、金尚の為に咨嗟し、百官に詔して弔祭させ、子の金瑋を郎中に拝した。しかし馬日磾は与にしなかった。 (『典略』)

 『後漢書』によれば、馬日磾が臣節を全うしなかった事を孔融が強く非難した為だとあります。

―― 呂布は水陸より東下し、軍は下邳の西四十里に到った。劉備の中郎将で丹楊の許耽が夜間に司馬の章誑を遣って呂布に詣らせて言うには 「張益徳と下邳相曹豹は共に争い、益徳が曹豹を殺して城中は大混乱です。猜疑しあっています。丹楊兵千人が西白門の城内に屯営しておりますが、将軍が東に来たと聞いて大小とも踊躍し、再び更生したようです。将軍の兵が城の西門に向われたら、丹楊軍は便ちに開門して将軍を内に入れましょう」。呂布はかくて夜間に進み、晨に城下に到った。天が明らみ、丹楊兵は悉く開門して呂布の兵を内に入れた。呂布は門上に坐し、歩騎に放火させ、益徳の兵を大破し、劉備の妻子と軍資および部曲将・吏士とその家口を獲た。
 建安元年六月の夜半、呂布の将軍で河内の郝萌が反き、兵を率いて呂布の治める下邳の府に入り、庁の閤外に詣り、声を同じくして大声で呼ばわって閤を攻めたが、閤が堅守したので入れなかった。呂布は反いた者が誰かを知らず、直ちに婦人を牽き、科頭袒衣のまま連れだって溷(かわや)の上から壁を辿って脱出し、都督高順の営に詣り、直ちに高順を押し退けて門に入った。高順が問うた 「将軍、隠し事はありますか?」 呂布 「河内の小僧の訛があった」 高順 「これは郝萌でありましょう」 高順は即座に兵を整えて入府し、弓弩に揃って郝萌の手勢を射たせた。郝の手勢は乱れ敗走し、天が明るくなって故営に還った。郝萌の将の曹性が郝萌に反き、対戦して郝萌は曹性を刺傷し、曹性は郝萌の一臂を斫った。高順は郝萌の首を斫り、曹性を牀にて輿ぎ、送って呂布に詣らせた。呂布が曹性に問うた処、言うには 「郝萌は袁術の謀りごとを受けたものです」 「謀った者を悉く言え。誰だ?」 曹性 「陳宮も同じく謀りました」 時に陳宮は同座しており、赤面した為に傍人は悉く覚った。呂布は陳宮が大将である事から不問とした。曹性が言うには 「郝萌は常にこの事を問い、性は“呂将軍には大将としての神威があり、撃つことは出来ない”と申しました。郝萌の狂惑がかほどだとは思いもよりませんでした」 呂布が曹性に謂うには 「卿は健児である!」 善く養生させた。創が愈えると、郝萌の故営を安撫させ、その手勢を所領させた。 (『英雄記』)

 出所がアレなんで何処まで信用していいのか迷いますが、劉備の方は無理もないといった感じです。寧ろ反抗を示したのが曹豹だけだったのが不思議なくらいでした。曹豹にしても、下邳相という事なので、陳登との軋轢が類推されます。許耽は丹楊出身であり、しかも中郎将という高位の武官である事から、陶謙が地元から呼び寄せた親衛兵団とでもいうべき丹楊兵の主将だったと思われ、その意向は丹楊兵を代表していた筈です。同郷のボスだった陶謙が亡くなった今、丹楊を牛耳っている袁術と対立する劉備に“ノー”を突き付けた事になります。
 一方の呂布の河内兵は張楊の下にいた時に加わったと思われる、呂布軍にとっては新参者です。呂布軍の中核は恐らく幷州兵ですが、河内兵も中原人としてプライドが高く、これまでも軋轢があった事が想像できます。河内兵が発言力を失った事で袁術派の丹楊兵の比重が増し、呂布としてはどうあっても袁術を支持せざるを得ない状況になったと謂えます。河内兵の件に陳宮が関与していたとは思いませんが、結果的に袁術をアテにしたい陳宮の思う壺です。

[11] 天子は河東に在った当初、手筆の版書にて呂布を召して来迎させた。呂布の軍には蓄積が無く、自らは致れないと使者を遣って上書した。朝廷は呂布を平東将軍とし、平陶侯に封じた。使人は山陽の界内で文書を亡失した。(後に)曹操は又た手書にて呂布に厚く慰労を加え、天子を迎えて天下を平定する意を説き、併せて詔書にて購って公孫瓚・袁術・韓暹・楊奉らを捕えさせた。呂布は大いに喜び、復た使いを遣って天子に上書するには 「臣はもとより大駕を迎えようとしましたが、曹操が忠孝であり、奉迎して許を都とした事を知りました。臣は前に曹操と兵を交えております。今、曹操は陛下を保傅し、臣は外将となっております。兵を以て随いたくとも嫌疑を恐れ、このため徐州にて罪を待ち、進退しても未だ寧んじる事がありません」 曹操に答えるには 「布は罪を獲た人で、分は誅首にあたるのに、手ずから慰労を命じられ、厚く褒奨されました。重ねて袁術らを購捕させんとの詔書にて、布は生命を以て証としましょう」 曹操は更めて奉車都尉王則を遣って使者とし、詔書を齎し、又た平東将軍の印綬を封じて呂布のもとに来て拝した。曹操は又た手書を呂布に与え、「山陽の屯営が、将軍が失った大封を送ってきたが、国家には好い黄金が無い。孤は自ら家のよき黄金を取って更めて印を作った。国家には紫綬も無く、自ら帯びている紫綬を取って心を託した。将軍の使人が良くなかったのだ。袁術は天子を称し、将軍はこれを止めたが、使者は章書を通達していない。朝廷は将軍を信じており、復た重ねて上書され、忠誠を明らかにされよ」 呂布はかくして陳登を遣って章書を奉じて謝恩し、併せて一本の好き綬によって曹操に答えた。 (『英雄記』)
[12] 呂布が韓暹・楊奉に与えた書簡 「二将軍は大駕を(賊中より)抜いて東に来り、国に元勲たる功があり、竹帛に勲功を書かれて万世不朽となって当然だ。今、袁術が大逆を為しており、共に誅討するべきなのに、どうして賊臣と共になって布を伐つのか? 布には董卓を殺した功があり、二将軍と倶に功臣であるからには、今は共に袁術を撃破し、天下に功を建てるのだ。この時を失ってはならない」 韓暹・楊奉は書簡を得ると、即座に計策を迴らせて呂布に従った。呂布は軍を進め、張勲らの営を去ること百歩となった時、韓暹・楊奉は兵を時を同じくして揃って発し、十将の首を斬り、殺傷したり水に堕ちた死者は数える事ができない。 (『九州春秋』) 『後漢書』で採用。
―― 呂布は後に又た韓暹・楊奉の二軍と寿春に向い、水陸並進し、通過した所で虜略した。鍾離に到り、大いに獲て還った。淮河を北に渡った後、留まって袁術に書簡を与え 「足下は軍の彊盛を恃み、常に猛将・武士が呑滅しようとする毎に抑止しているのだと言っていた! 布は勇無きとはいえ、淮南を虎歩する一時の間に足下は寿春に鼠竄し、頭を出そうとはしなかった。猛将・武士は悉く何処にいるのだ? 足下は大言して天下を欺く事を喜ぶが、天下の人がどうして尽く欺かれよう? 古えには兵を交えても、その間にも使者は在ったという。造策(?)は布が先唱したのではない。互いに遠くはないのだから、復た相聞しようではないか」 呂布が渡り終えると、袁術は自ら歩騎五千を率いて淮河の畔に兵を揚げ、呂布の騎兵は皆な淮河の北にあって大いに咍笑して還った。
 時に東海の蕭建という者が瑯邪相であり、莒にて治め、城に籠って自ら守り、呂布とは通じなかった。呂布は蕭建に書簡を与え、「天下が挙兵したのは、本来は董卓を誅する為だった。布が董卓を殺し、関東に来詣したのは、兵を求めて西に大駕を迎え、洛京に光復せんが為だったが、諸将は還って攻め合い、国を念う者は莫い。布は五原の人で、徐州を去る五千余里であり、天の西北角に在り、天の東南の地を争いに来たのではない。莒は下邳とは遠くは離れておらず、共に通誼するのが宜しかろう。君がもし自身を遂げようとするなら、郡郡は帝を為し、県県は王となるではないか! 昔、楽毅は斉を攻め、呼吸の間に斉の七十余城を下し、ただ莒・即墨の二城のみが下らなかった。そうだったのは、中に田単がいたからである。布は楽毅ではないとはいえ、君も亦た田単ではない。布の書を得たなら智者と詳細に共に議すが良かろう」 蕭建は書を得ると、即座に主簿を遣って牋を齎させて上礼を執り、良馬五匹を貢いだ。
蕭建は尋いで臧霸に襲破され、(臧霸は)蕭建の資実を得た。呂布はこれを聞くと自ら歩騎を率いて莒に向った。高順が諫めて 「将軍は躬ずから董卓を殺し、威は夷狄を震わせ、端坐して顧盼すれば遠近は自然と畏服します。軽々しく自ら軍を出すのは宜しくありません。もしも或いは勝てなければ、名を損うこと小さくはありません」 呂布は従わなかった。臧霸は呂布の鈔暴を畏れ、果たして城に登って拒守した。呂布は抜く事ができず、引き揚げて下邳に還った。臧霸は後に復た呂布と和した。 (『英雄記』)

 泰山の臧霸らが莒城を降し、呂布に財貨を贈る事で同盟したが、呂布は自ら受け取りに出た。高順は不調に終わった場合の事を危惧して諫めたが聴かれなかった。果たして臧霸らは呂布の真意を測れず、門を閉ざして呂布を拒んだ。 (『後漢書』)

[13] 曹操の軍が彭城に至ると、陳宮は呂布に謂った 「逆撃なさい。逸によって労を撃てば、勝てない訳がありません」 呂布 「来攻するのを待った方がいい。逼って泗水の中に着けてやる」 曹操の軍が急しく攻めるに及び、呂布は白門楼の上で軍士に謂うには 「卿ら輩に困憊させん。俺が明公に自首しよう」 陳宮 「逆賊曹操がどうして明公なのか! 今日降るのは、卵を石に投げるようなものです。どうして全うする事ができましょう!」 (『献帝春秋』)
[14] 呂布は許・王楷を遣って袁術に急を告げさせた。袁術 「呂布は私に娘を与えなかった。道理として敗れて当然だ。どうして復た相聞に来たのか?」 許・王楷 「明上は今、呂布を救わずに自ら敗れたと仰る! 呂布が破れれば明上も亦た破れましょう」 袁術は時に僭号しており、そのため明上と呼んだ。袁術はかくして兵を整えて呂布への援助を声明した。呂布は恐らくは袁術が娘の至らない事を理由に救兵を遣らないのだと考え、綿を娘の身に纏わせ、馬上に縛り著け、夜間に自ら娘を送り出て袁術に与えようとしたが、曹操の守と接触し、射に阻まれて通過できず、復た城に還った。
呂布は陳宮・高順に城を守らせ、自ら騎兵を率いて曹操の糧道を断とうと考えたが、呂布の妻が謂うには 「将軍が自ら出て曹操の糧道を断とうとは御尤もです。陳宮・高順は素より不和で、将軍が一たび出れば、陳宮・高順はきっと心を同じくして城を守ろうとはしますまい。もし蹉跌があれば、将軍は何処に自ら立たれるおつもりか? 願わくば将軍よ、この計を諦め、陳宮らに誤られる事の無いように。妾が昔に長安に在った時、已に将軍に棄てられて龐舒を頼り、秘かに妾の身を藏し得たのです。今も妾の身を顧みなさいますな」 呂布は妻の言葉を得て、愁悶して自ら決断出来なかった。 (『英雄記』)
―― 陳宮が呂布に謂うには 「曹操は遠方より到来し、持久する事は出来ますまい。もし将軍が歩騎にて出屯して城外に勢を為し、宮が余衆を率いて閉ざして内を守り、もし将軍に向えば宮が兵を率いてその後背を攻め、もし城に来攻すれば将軍が外から救援するのです。旬日を過ぎずに軍糧は必ず尽き、撃てば破れましょう」 呂布も然りとした。呂布の妻が 「昔、曹操が陳公臺を待遇するのは赤子のようでしたが、それでも捨てて来たのです。今、将軍は公臺を厚遇すること曹操に及ばず、それなの全城を委ね、妻子を捐て、孤軍にて遠く出ようとしております。もし一朝に変事があれば、妾はどうして将軍の妻でいられましょう!」 呂布はかくして止めた。 (『魏氏春秋』) 『後漢書』で採用。
[15] 初め呂布の騎将の侯成は食客に馬十五匹を放牧させていたが、客は馬を悉く駆って去り、沛城に向って劉備に帰そうとした。侯成は自ら騎兵を率いてこれを逐い、悉く馬を得て還った。諸将は揃って礼物にて侯成を賀し、侯成は五・六斛の酒を釀し、狩猟で十余頭の豬を得て、飲食の前に先ず半豬と五斗の酒を持って自ら入室して呂布の前に詣り、跪して言うには 「将軍のご恩を蒙り、逐って失った馬を得ました。諸将が来て慶賀し、少しの酒を醸し、猟にて豬を得ました。未だ飲食しておりませんが、先ず奉上して微意(寸志)とさせていただきます」 呂布は大いに怒り 「俺が禁酒しているのに卿らは酒を醸すのか。諸将と共に飲食して兄弟の契りを為し、共に謀って俺を殺すのか?」 侯成は大いに懼れて去り、醸した酒を棄て、諸将に礼物を還した。これより猜疑し、折しも曹操が下邳を囲むと、侯成は遂に手勢を率いて降った。 (『九州春秋』) 『後漢書』で採用。
[16] 呂布が曹操に謂うには 「私は諸将を厚く待遇したのに、諸将は緊急時に臨んで皆な私に叛いた」 曹操 「卿は妻に背き、諸将の婦人を愛した。何を以て厚遇とする?」 呂布は黙然とした。 (『英雄記』)
―― 呂布が曹操に問うた 「明公はどうして痩せた?」 曹操 「君はどうして孤を識っている?」 呂布 「昔に洛陽に在った時、温氏園で会ったのです」 曹操 「そうだ。孤は忘れていた。痩せたのは、さっさと得られないのを悔やんだからだ」 呂布 「斉桓公は帯鉤を射たれた恨みを捨て、管仲を相としました。今、布に股肱の力を竭くさせ、公の前駆としてはどうか?」 呂布の緊縛は急しく、劉備に謂うには 「玄徳よ、卿は賓客として坐し、俺は虜として執られている。緩める為の一言も無しか?」 曹操は笑い 「どうして(私に)語らず、明使君に訴えるのだ?」 内心ではこれを活かしたく思い、命じて縛をェめさせた。主簿王必が趨り進んで 「呂布は、勁虜です。その手勢は城外の近くに在り、寛めてはなりません」 曹操 「もとより緩めたいのだが、主簿が聴許しないのだ。どうしようもあるまい?」 (『献帝春秋』)
[17] 高順の為人りは清白で威厳があり、飲酒せず、饋遺(贈り物)を受けなかった。率いている七百余の兵を号して千人とし、鎧甲や闘具は皆な精練で斉しく整い、攻撃する毎に破らぬものが無く、名付けて“陥陣営”と称した。高順は呂布を諫める毎に言うには 「凡そ家を破り国を亡ぼすのは、忠臣や明智の者がいないのではなく、ただ用いられない事が患いないのです。将軍は挙動する際にも詳らかに思う事を肯んぜず、喜べば誤りを言い、誤りは数える事ができません」 呂布はそれが忠言である事は知っていたが、用いる事はできなかった。呂布は郝萌が反いてより後、更に高順を疏んじた。魏続が外内の親(外戚としての親族?)である事から悉く高順の率いる兵を奪って魏続に与えた。攻戦に及べば、故意に高順には魏続の領兵を率いさせたが、高順も亦た恨意を持たなかった。 (『英雄記』)
[18] 陳宮、字は公臺。東郡の人である。剛直烈壮で、若くして海内の知名の士と相い連結した。天下が乱れるに及び、始めは曹操に随ったが、後に自ら猜疑し、かくして呂布に従った。呂布の為に画策したが、呂布は事毎にその計に従わなかった。下邳が敗れ、軍士が呂布および陳宮を執えた。曹操は皆なを見、与に平生の事を語り、そのため呂布から求活の言葉があった。
曹操が陳宮に謂うには、「公臺よ、卿は平常から智計は余りあると自ら謂っていたのに、どうしてこうなった?」 陳宮は顧みて呂布を指し、「ただ坐しているこの人が私の言葉に従わなかったからこうなったのだ。もし従っておれば禽われてはいなかった筈だ」 曹操は笑って 「今日の事はどうだ?」 陳宮 「臣となっては不忠であり、子としては不孝だ。死が自分の身の程だ」 曹操 「卿はそうだろうが、卿の老母はどうする?」 陳宮 「私は孝によって天下を治める者は人の親を害さないと聞く。老母の存否は明公にかかっている」 曹操 「卿の妻子はどうだ?」 陳宮 「私は仁政を天下に施す者は人の祀を絶やさないと聞く。妻子の存否も亦た明公にかかっている」 曹操が再びは云わないうちに陳宮が云った 「出して戮に就かして、軍法を明らかにしてくれ」 かくて趨り出て、止める事ができなかった。曹操は泣いてこれを送ったが、陳宮は還顧しなかった。陳宮の死後、曹操がその家族を待遇すること、皆な初めより厚かった。 (魚氏『典略』) 刑場での会話を『後漢書』で採用。
[19] 陳登は忠亮にして高爽、沈深にして大略があり、若くして扶世済民の志があった。載籍を博覧し、文芸に通じ、旧典の文章で通じないものは莫かった。齢二十五で孝廉に挙げられ、東陽県長に叙されると、耆老を養い孤児を育て、民を視ること(己の)傷のようだった。この時、世は荒れて民は飢え、州牧の陶謙が上表して陳登を典農校尉とし、かくして土田の宜しきを巡視させ、灌漑を開鑿する利を尽し、秔稲が豊積した。

 典農官は曹操が始めたものなので、これは陳登を讃える為のフィクション。具体的にした事で破綻してしまった見本です。治績が州のトップだった程度にしておけば良かったのに。

(後に)使命を奉じて許に到り、曹操は陳登を広陵太守とし、陰かに軍兵を糾合して呂布を図らせた。陳登は広陵に在って賞罰を審らかに明らかにし、威信を宣布した。海賊をしていた薛州の群賊の万有余戸が手を束ねて帰命した。期年(満一年)にならずに教化の効果が挙り、百姓は畏れつつ愛した。陳登は云った 「これは役に立つ」 と。
曹操が下邳に到ると、陳登は郡兵を率いて軍の先駆となった。時に陳登の諸弟は下邳城中に在り、呂布はかくして陳登の三弟を執えて質とし、和同せん事を求めた。陳登の意は撓まず、進んで日々に急しく囲んだ。呂布の刺姦(検察)の張弘は後累を懼れ、夜間に陳登の三弟を率いて脱出して陳登に就いた。呂布が誅に伏した後、陳登は功によって伏波将軍を加えられ、甚だ江・淮の間の歓心を得た。こうして江南を呑滅する志を持った。
 孫策は軍を遣って匡g城に陳登を攻めた。賊が到った当初、旌と甲とは江水を覆い、群下は咸な、“今、賊兵は郡兵の十倍であり、恐らく抗えないから、軍を率いてこれを避け、空城を与えよう。水人が陸に居ても久しくは居れず、きっとそのうち引き去さるだろう。” と。陳登は声を獅ワし 「私は国に命を受け、この土地に来て鎮守している。昔、馬文淵(馬援)がこの位に就き、能く南のかた百越を平らげ、北のかた群狄を滅ぼした。私は凶慝を遏除できていないのに、どうして寇なす相手から逃げようか! 私は身命を出して国に報じ、義に杖って乱を整そう。天道とは順う者に与するもので、勝つのは必定である」 かくして門を閉ざして自ら守り、弱きを示して戦わず、将士には声を銜ませ、寂として無人のようにした。陳登は城に登って形勢を望見し、撃つ機会だと知った。かくして将士に命じ、宿(夜間)に兵器を整え、昧爽(未明)に南門を開き、軍を率いて賊営に詣り、歩騎はその後背を鈔掠した。賊は周章狼狽して慌てて陣を結び始め、船には還れなかった。陳登は手ずから軍鼓を執り、兵を縦って乗じさせ、賊はかくて大いに破れ、皆な船を棄てて迸走(奔走)した。陳登は勝ちに乗じて追奔し、斬虜は万を単位とした。
賊は軍を喪って忿り、尋いで復た大いに兵を興して陳登に向った。陳登は兵数で敵わず、功曹陳矯を使者として曹操に救援を求めた。陳登は密かに城を去る十里の処所に軍営を治め、多くの柴薪を取らせ、二束を一聚とし、互いに十歩を離し、縦横に行列させ、夜間に命じて倶に火を起させ、火はその聚を燃やした。城の上では慶賀を称え、大軍が到ったようにした。賊が火を望見して驚潰すると、陳登は兵を率いて追奔し、万の首級を斬った。陳登は遷って東城太守(?)となった。広陵の吏民はその恩徳に縋り、共に郡を抜けて陳登に随い、老弱を襁負してこれを追った。陳登は諭して還らせるには 「太守として卿らの郡に在り、頻りに呉寇が致したが、幸いにして勝ち遂げた。諸卿はどうして令君がいないなどと患うのか?」
 孫権はかくて江外にも跨った。曹操は大江に臨む毎に歎じ、早々に陳元龍の計を用いず、豕を封じてその爪牙を養わせた事を悔恨した。文帝は追って陳登の功を讃美し、陳登の息子の陳粛を拝して郎中とした。 (『先賢行状』)

 『先賢行状』は明帝時代の魏で撰修されたそうなので、その点は差し引く必要がありますが、孫策を寡勢で二度も撃退したとか、ただの名士ではありません。さすが伏波将軍。まぁでも、孫策は力押し一辺倒で王朗にも勝てませんでしたか。
 ところで“陳元龍の計”って何でしょう。無難に、孫策が死んだ動揺に乗じて呉会を制圧せよとか?


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