陳留王諱奐、字景明、武帝孫、燕王宇子也。甘露三年、封安次縣常道郷公。高貴郷公卒、公卿議迎立公。六月甲寅、入于洛陽、見皇太后、是日即皇帝位于太極前殿、大赦、改年、賜民爵及穀帛各有差。
景元元年夏六月丙辰、進大將軍司馬文王位為相國、封晉公、摯蕪郡、并前滿十、加九錫之禮、一如前〔詔〕;諸羣從子弟、其未有侯者皆封亭侯、賜錢千萬、帛萬匹、文王固讓乃止。己未、故漢獻帝夫人節薨、帝臨于華林園、使使持節追諡夫人為獻穆皇后。及葬、車服制度皆如漢氏故事。癸亥、以尚書右僕射王觀為司空、冬十月、觀薨。
十一月、燕王上表賀冬至、稱臣。詔曰:「古之王者、或有所不臣、王將宜依此義。表不稱臣乎!又當為報。夫後大宗者、降其私親、況所繼者重邪!若便同之臣妾、亦情所未安。其皆依禮典處、當務盡其宜。」有司奏、以為「禮莫崇于尊祖、制莫大于正典。陛下稽コ期運、撫臨萬國、紹大宗之重、隆三祖之基。伏惟燕王體尊戚屬、正位藩服、躬秉虔肅、率蹈恭コ以先萬國;其于正典、闡濟大順、所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制、奉以不臣之禮。臣等平議以為燕王章表、可聽如舊式。中詔所施、或存好問、準之義類、則『〔嚥〕覿之〔敬〕』也、可少順聖敬、加崇儀稱、示不敢斥、宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至于制書、國之正典、朝廷所以辨章公制、宣昭軌儀于天下者也、宜循法、故曰『制詔燕王』。凡詔命・制書・奏事・上書諸稱燕王者、可皆上平。其非宗廟助祭之事、皆不得稱王名、奏事・上書・文書及吏民皆不得觸王諱、以彰殊禮、加于羣后。上遵王典尊祖之制、俯順聖敬烝烝之心、二者不愆、禮實宜之、可普告施行。」
十二月甲申、黄龍見華陰縣井中。甲午、以司隸校尉王祥為司空。
諸葛誕の造叛を潰しても辞退し、定策の功でも辞退してと、司馬師に比べて随分と遜っています。というか寧ろ遜りすぎ。まぁ確かに天子殺しの黒幕ですけれども、そうすると二郡が追加されている理由も謎です。司馬昭は蜀を滅ぼした功で晋王に進むので、ここで受けておかないと晋公になるチャンス無くなっちゃいますよ?
ところで追加の二郡を知りたいところです。余談ですが、『晋書』の幷州の項には 「建安二十年に新興郡を立て、後に又た楽平郡を立てた。魏の黄初元年に復た幷州を置いた」 とあり、楽平郡の説明に 「泰始中(265〜74)に置く」 とあります。『晋書』文帝紀では魏が置いたことになっていますが、どっちが正解?
「昔も帝王にとって非臣がいたのだから、実父の燕王も同じ扱いをしたいがどうだろう。臣妾と同列に扱いたくないので、批判されないように礼典の記載を引用した証明でよろしく」
有司が上奏した「何事にも例外はあるのでそれを適用しましょう。章表は身内の間の通信だと解釈できなくもないので、ある程度は即位前の礼に準じても宜しいでしょう。名指しを避けたり官爵で呼びかけるのも一手です。しかし制書となると国としての正典なので、律法厳守で“制詔燕王”として下さい。詔命・制書・奏事・上書での燕王(の名は)は、全て(改行して)最上段に書きましょう。宗廟の祭祀以外では燕王の諱を用いさせずに殊礼を天下に示しましょう」
曹奐が前例として意識したのは誰でしょう。劉邦の時も実父の扱いについて揉めかけましたが、寧ろ今回は東漢の質帝の方が近いケースです。『後漢書』で質帝が父王の扱いで揉めたような逸話は載っていませんが、ひょっとしたら『東観漢記』には載っていたのかもしれません。ま、そもそも不祥過ぎて質帝は参考にしないでしょうけど。
十二月甲申、黄龍が華陰県の井戸の中に出見した。甲午、司隸校尉王祥を司空とした。二年夏五月朔、日有食之。秋七月、樂浪外夷韓・濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅、趙王幹薨。甲寅、復命大將軍進爵晉公、加位相國、備禮崇錫、一如前詔;又固辭乃止。
三年春二月、青龍見于軹縣井中。夏四月、遼東郡言肅慎國遣使重譯入貢、獻其國弓三十張、長三尺五寸、楛矢長一尺八寸、石弩三百枚、皮骨鐵雜鎧二十領、貂皮四百枚。冬十月、蜀大將姜維寇洮陽、鎮西將軍ケ艾拒之、破維于侯和、維遁走。是歳、詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。
ケ艾伝にやや詳しくありますが、姜維はこの敗戦で漢中にすら戻らず、沓中で自営体制に入ります。結果的にこれが大誤算となりますが、漢中を固めていたからって1・2年延命できたかどうかでしょう。朝廷は厭戦して軍部と対立し、軍部も交戦的なトップを支持していない。当時の蜀政権はそんな状態です。
この歳、詔にて故の軍祭酒郭嘉を太祖の廟庭で祀らせた。郭嘉の死から55年、曹操の功臣の宗廟への大合祀から数えても17年です。曹操や、我々を含めた後代の人間が考える程には郭嘉の果たした仕事は魏では評価されていなかったんでしょうか。果たして許褚が宗廟で祀られる日は来るのでしょうか。
四年春二月、復命大將軍進位爵賜一如前詔、又固辭乃止。
夏五月、詔曰:「蜀、蕞爾小國、土狹民寡、而姜維虐用其衆、曾無廢志;往歳破敗之後、猶復耕種沓中、刻剥衆羌、勞役無已、民不堪命。夫兼弱攻昧、武之善經、致人而不致於人、兵家之上略。蜀所恃ョ、唯維而已、因其遠離巣窟、用力為易。今使征西將軍ケ艾督帥諸軍、趣甘松・沓中以羅取維、雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都・高樓、首尾蹵討。若擒維、便當東西並進、掃滅巴蜀也。」又命鎮西將軍鍾會由駱谷伐蜀。
秋九月、太尉高柔薨。冬十月甲寅、復命大將軍進位爵賜一如前詔。癸卯、立皇后卞氏、十一月、大赦。
太后も司馬昭も意地の張り合いかってくらい進位爵賜の応酬をしていますが、何が両者をそうさせているんでしょう。ここに 『承久記』 という中世日本の書物があります。その中で承久の乱の直前の事として、討幕を決意した後鳥羽上皇が源実朝を分不相応に昇進させて破滅に追い込むという、呪術的な“官打ち”を仕掛けたと記されています。実際、翌年に実朝は暗殺されています。もし、この進位爵賜が官打ちだとしたら司馬昭も受けられませんよねぇ。司馬師が中っているくさいですし。
夏五月、詔「蜀は蕞爾(小さい)小国で、土地は狭く民は寡なく、しかも姜維は国人を虐用し、曾てその志を廃した事は無かった。往年に破敗した後も猶お復た沓中(甘粛省甘南自治州舟曲西界)で耕種(農作)し、衆(おお)くの羌に対し刻剥(酷薄)であり、労役は已まず、民は命令に堪えられていない。弱者を兼併し蒙昧を攻めるのは武の善き経(手本)であり(『左氏伝』宣公十二年)、人を誘致して人に誘致されないとは兵家の上略である(『孫子』虚実篇)。蜀が恃頼するのはただ姜維だけであり、その巣窟から遠離している事に因れば(武)力を用いることは容易である。今、征西将軍ケ艾に諸軍を督帥させ、甘松・沓中に趣(赴)いて姜維を羅取(捕獲)させ、雍州刺史諸葛緒に諸軍を督して武都・高楼に趣いて、首尾(呼応して)蹵(踏み)討たせよ。もし姜維を擒えたら、便(すみやか)に東西並進して巴蜀の地を掃滅せよ」
又た鎮西将軍鍾会に命じて駱谷(武功からの路)より蜀を伐たせた。 官位の表記が統一されていないので今一つ掴みづらいですが、ケ艾は都督隴右諸軍事です。隴西のそれも西界で姜維と対峙し続けていました。諸葛緒は雍州刺史とありますから長安から西進して姜維を挟撃し、そして鍾会が中原から派遣され、長安から漢中を直撃という布陣です。将軍号だけを問題にすると、格下の鍾会が主力という妙な塩梅になります。
これまでの曹真・曹爽の伐蜀に比べて隴西から進攻できるようになった事は、漢中の一極防衛で何とか凌いできた蜀を攻める上で極めつきの利点になっています。
自ケ艾・鍾會率衆伐蜀、所至輒克。是月、蜀主劉禪詣艾降、巴蜀皆平。十二月庚戌、以司徒鄭沖為太保。壬子、分益州為梁州。癸丑、特赦益州士民、復除租賦之半五年。
乙卯、以征西將軍ケ艾為太尉、鎮西將軍鍾會為司徒。皇太后崩。
咸熙元年春正月壬戌、檻車徴ケ艾。甲子、行幸長安。壬申、使使者以璧幣祀華山。是月、鍾會反于蜀、為衆所討;ケ艾亦見殺。
司馬昭の成功で、太后が落胆のあまり死んでしまいました。蜀を滅ぼした司馬昭の功績にもう官打ちは通用しません。生き甲斐を無くしてしまいました。
いつから曹氏は鄴に置かれたのか。王淩の一件が原因だとは思いますが、他に傍証が欲しいところです。『三國志』の訳中に見つかるといいなぁ。
どちらも乱兵に殺されたような書き方ですが、ケ艾は保身を図る衛瓘による暗殺です。衛瓘は晋にとっては元勲であり非業の死を遂げた忠臣ですが、なにかと暗殺に訴えるアブナイ人でもあります。
二月辛卯、特赦諸在益土者。庚申、葬明元郭后。三月丁丑、以司空王祥為太尉、征北將軍何曾為司徒、尚書左僕射荀為司空。
己卯、進晉公爵為王、封十郡、并前二十。丁亥、封劉禪為安樂公。夏五月庚申、相國晉王奏復五等爵。甲戌、改年。癸未、追命舞陽宣文侯為晉宣王、舞陽忠武侯為晉景王。六月、鎮西將軍衞瓘上雍州兵于成都縣獲璧玉印各一、印文似「成信」字、依周成王歸禾之義、宣示百官、藏于相國府。
蜀を滅ぼし、そして太后も居なくなったので遠慮する必要が全くなくなりました。あれだけ晋公九錫を拒んでいたのが嘘のようなスピード昇格。実は司馬昭が晋公を受けた時、蜀はまだ降伏していませんでした。今回の晋王が蜀を滅ぼした行賞だとすると、前回の功って何?平蜀の前倒し?それとも今回のは鍾会平定の功ですか?でも任命したのも司馬昭ですよね? 大丈夫か司馬昭それで。
丁亥、劉禅を封じて安楽公とした。夏五月庚申、相国晋王が五等爵の復活を奏請した。甲戌、(咸熙と)改年した。癸未、追って舞陽宣文侯を晋宣王に、舞陽忠武侯を晋景王に任命した。六月、鎮西将軍衞瓘が、雍州兵が成都県で獲た璧玉と印の各一個を上呈した。印には“成信”の字に似た文字があり、周成王の帰禾の義[※]に依拠して百官に宣示し、相国府に収蔵した[2]。※ 成王が、唐叔から献上された瑞兆の禾(稲)を周公に贈った故事。
初、自平蜀之後、呉寇屯逼永安、遣荊・豫諸軍掎角赴救。七月、賊皆遁退。八月庚寅、命中撫軍司馬炎副貳相國事、以同魯公拜後之義。
癸巳、詔曰:「前逆臣鍾會構造反亂、聚集征行將士、劫以兵威、始吐姦謀、發言桀逆、逼脅衆人、皆使下議、倉卒之際、莫不驚懾。相國左司馬夏侯和・騎士曹屬朱撫時使在成都、中領軍司馬賈輔・郎中羊e各參會軍事;和・e・撫皆抗節不撓、拒會凶言、臨危不顧、詞指正烈。輔語散將王起、説『會姦逆凶暴、欲盡殺將士』、又云『相國已率三十萬衆西行討會』、欲以稱張形勢、感激衆心。起出、以輔言宣語諸軍、遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵、以彰忠義。其進和・輔爵為郷侯、e・撫爵關内侯。起宣傳輔言、告令將士、所宜賞異。其以起為部曲將。」
癸卯、以衞將軍司馬望為驃騎將軍。九月戊午、以中撫軍司馬炎為撫軍大將軍。
辛未、詔曰:「呉賊政刑暴虐、賦斂無極。孫休遣使ケ句、勑交阯太守鎖送其民、發以為兵。呉將呂興因民心憤怒、又承王師平定巴蜀、即糾合豪傑、誅除句等、驅逐太守長吏、撫和吏民、以待國命。九真・日南郡聞興去逆即順、亦齊心響應、與興協同。興移書日南州郡、開示大計、兵臨合浦、告以禍福;遣都尉唐譜等詣進乘縣、因南中都督護軍霍弋上表自陳。又交阯將吏各上表、言『興創造事業、大小承命。郡有山寇、入連諸郡、懼其計異、各有攜貳。權時之宜、以興為督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯、乞賜褒奬、以慰邊荒』。乃心款誠、形于辭旨。昔儀父朝魯、春秋所美;竇融歸漢、待以殊禮。今國威遠震、撫懷六合、方包舉殊裔、混一四表。興首向王化、舉衆稽服、萬里馳義、請吏帥職、宜加寵遇、崇其爵位。
既使興等懷忠感ス、遠人聞之、必皆競勸。其以興為使持節・都督交州諸軍事・南中大將軍、封定安縣侯、得以便宜從事、先行後上。」策命未至、興為下人所殺。
これは永安の羅憲が頑張って陸抗らを撃退した事を指します。伐蜀に対しては呉も寿春や漢水流域に出兵して魏を牽制しようとしたっぽいんですが、効果があったのかどうか、そもそも実際に兵を動かしたのかどうかは不明です。
八月庚寅、中撫軍司馬炎を相国の事の副貳(副官)に命じ、魯公拝後の義[※]と同じとした。※ 魯公は周公の子の伯禽の事。伯禽は周公の継嗣であると同時に初代の魯公として封建された事になっていた。
中撫軍とは耳慣れませんが、撫軍将軍は司馬懿が就いたこともあってポピュラーです。まあ、中領軍と領軍将軍、中護軍と護軍将軍の関係と同じと考えていいのでしょう。
癸巳、詔「以前に逆臣の鍾会が反乱を構造して征行の将士を聚集し、兵威を以て劫(おびやか)し、始めて姦謀を吐いた。発言は桀逆(極悪)で、衆人を逼脅して皆なに(従うかどうかを)議させたが、倉卒の際(突然の事態)とて驚き懾(おそ)れない者は莫かった。相国左司馬の夏侯和(夏侯淵の子)・騎士曹属の朱撫は時に使わされて成都に在り、中領軍司馬の賈輔・郎中の羊eは各々鍾会の軍事に参与していた。夏侯和・羊e・朱撫は皆み節を抗(まも)って撓(たわ)まず、鍾会の凶言を拒み、危に臨んでも(一身を)顧みず、詞(言葉)は正烈を指した。賈輔が散将の王起に説くには 『鍾会は姦逆凶暴で尽く将士を殺そうとしている』 又た云うには 『相国は既に三十万の軍勢を率いて鍾会の討伐に西行している』 と、形勢を称張(主張)して人々の心を感激させようとした。王起は退出すると賈輔の言葉を諸軍に宣べ語り、かくて将士は益々奮励を懐いた。顕寵を加えて忠義を表彰するのが妥当である。夏侯和・賈輔の爵を郷侯とし、羊e・朱撫の爵を関内侯に進める。王起は賈輔の言葉を宣伝して将士に告げたので、特別な褒賞が妥当である。王起を部曲将とする」
癸卯、衛将軍司馬望を驃騎将軍とした。九月戊午、中撫軍司馬炎を撫軍大将軍とした。「呉賊の政刑は暴虐で、賦斂には極限が無い。孫休はケ句を遣使し交阯太守にその民を鎖送させ、兵として徴発した。呉将の呂興は民心の憤怒に因り、又た王師が巴蜀を平定した事を承けて豪傑を糾合し、ケ句らを誅除し、太守・長吏を駆逐して吏民を撫和し、国の命令を待っている。九真・日南郡は呂興が逆を去って順に即いたと聞くと、亦た心を斉しくして響応(呼応)し、呂興と協同した。呂興は日南の州郡に移書(文書回付)して大計を開示し、兵を以て合浦に臨んで禍福を告げ、(別に)都尉唐譜らを進乗県に詣らせ、南中都督護軍霍弋に上表して自ら陳べた。又た交阯の将吏も各々上表して言うには 『呂興は事業を創造し、(我々は)大小とも命令を承けています。郡には山寇(山越の害)があり、諸郡に入り連なり、呂興の計策が異(並々ならぬ)である事を懼れ各々(呉に)二心を攜(いだ)いています。権時之宜(時宜に応じた仮措置として)呂興を督交阯諸軍事・上大将軍・定安県侯とし、褒奬の下賜により辺荒を慰撫されん事を乞うものです』と。その心の款誠(誠実)な事は辞旨に形(あらわ)れている。昔、儀父が魯に入朝した事は『春秋』で賛美されて、竇融は漢に帰順して殊礼を以て待遇された。今、国威は遠きを震わし、六合(世界)を撫懐し、殊裔(最果ての異国)をも包挙(尽く覆い)し、四表(四方の涯)を混一している。呂興は王化に首向し、衆を挙げて稽服し、万里から義に馳せ、吏による帥職を請うてきた。寵遇を加えてその爵位を崇(たか)くすべきである。呂興らに忠を懐いて感悦させた後、遠き人もこれを聞いてきっと皆な競って(帰順を)勧めるだろう。呂興を使持節・都督交州諸軍事・南中大将軍とし、定安県侯に封じる。便宜によって事に従い、先に行ない後に上奏する事を認める」
呉に叛いて霍弋経由で帰順してきた交趾の呂興を交州都督とする。
タイミング的に伐蜀に呼応した事になっていますが、偶然の一致に過ぎません。現に呂興が通誼したのは魏の伐蜀軍ではなく蜀の南中都督に対してです。
それはともかく、こういう記述法が司馬懿が死んだ後の魏志本紀のイクナイ点だと個人的には考えます。事態説明を詔書で代用するから、事の根幹が見えにくくなります。全文読めば理解できるというのは全く以て正論ですが、やはり主軸を書いてからそれに対する説明を繰り出してほしいものです。
冬十月丁亥、詔曰:「昔聖帝明王、靜亂濟世、保大定功、文武殊塗、勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭、或陳師旅以威暴慢。至于愛民全國、康惠庶類、必先脩文教、示之軌儀、不得已然後用兵、此盛コ之所同也。往者季漢分崩、九土顛覆、劉備・孫權乘間作禍。三祖綏寧中夏、日不暇給、遂使遺寇僭逆歴世。幸ョ宗廟威靈、宰輔忠武、爰發四方、拓定庸・蜀、役不浹時、一征而克。自頃江表衰弊、政刑荒闇、巴・漢平定、孤危無援、交・荊・揚・越、靡然向風。今交阯偽將呂興已帥三郡、萬里歸命;武陵邑侯相嚴等糾合五縣、請為臣妾;豫章廬陵山民舉衆叛呉、以助北將軍為號。又孫休病死、主帥改易、國内乖違、人各有心。偽將施績、賊之名臣、懷疑自猜、深見忌惡。衆叛親離、莫有固志、自古及今、未有亡徴若此之甚。若六軍震曜、南臨江・漢、呉會之域必扶老攜幼以迎王師、必然之理也。然興動大衆、猶有勞費、宜告喩威コ、開示仁信、使知順附和同之利。相國參軍事徐紹・水曹掾孫ケ、昔在壽春、並見虜獲。紹本偽南陵督、才質開壯;ケ、孫權支屬、忠良見事。其遣紹南還、以ケ為副、宣揚國命、告喩呉人、諸所示語、皆以事實、若其覺悟、不損征伐之計、蓋廟勝長算、自古之道也。其以紹兼散騎常侍、加奉車都尉、封都亭侯;ケ兼給事黄門侍郎、賜爵關内侯。紹等所賜妾及男女家人在此者、悉聽自隨、以明國恩、不必使還、以開廣大信。」
丙午、命撫軍大將軍新昌郷侯炎為晉世子。是歳、罷屯田官以均政役、諸典農皆為太守、都尉皆為令長;勸募蜀人能内移者、給廩二年、復除二十歳。安彌・福祿縣各言嘉禾生。
「昔の聖帝明王が天下を平定するのに、文と武とで手段は違っていたが同じ結果に帰着した(殊塗同帰)。舞を奉納したり軍を出したりはしたが、概ねは率先して教化を示し、それでも従わない者がいた場合だけ兵を動かしたのだ。
漢末の混乱に乗じて劉備や孫権が勝手をしたが、三祖は中原の安定に忙しすぎて手が回らず、結果として放置プレイしてしまった。ご先祖の霊と宰相の輔けで漢中と蜀を平定でき、しかも遠征は浹時(一巡=60日)せずに一度で勝てた。最近では江表も衰退し、法律は乱れ、巴漢の平定で孤立無援になっている。交阯の呂興は三郡を帥いて帰順し、武陵郡の邑侯相の厳らは五県を糾合して称臣し、豫章・廬陵の山民(山越)も挙って呉に叛いて助北将軍を号している。又た孫休が病死して呉主が交替した事で国内は分裂し、人は各々異心を持っている。偽将の施績は賊の名臣であり、猜疑逡巡して孫皓に深く嫌悪されている。民衆にも近親にも離背され、忠臣は無く、これほど滅亡の兆候がひどいものは古今未曾有である。王師が長江・漢水に臨めば江東では老若男女がこぞって歓迎するのは必然である。しかし兵を動かすのは忍びないので訓示で収めたいと思う。
相国参軍事の徐紹・水曹掾の孫ケは嘗て寿春で捕虜としたもので、徐紹は偽南陵督であったし、孫ケは孫権の一族である。徐紹と孫ケを正副使節として送り、国威を呉人に告げさせよ。ただし嘘を交えてはダメだ。呉人の目が醒めればそれで良し。それこそ廟堂で勝つという良策の道である。徐紹を兼散騎常侍として奉車都尉を加え、都亭侯に封じ、孫ケを兼給事黄門侍郎として爵関内侯を賜う。徐紹らに下賜した妾および男女の家人が全て随行する事も認めるので、国の寛大さを噛みしめるように。呉は入国を拒むだろうが、やる事をやったという形が整えばそれでいいのだ」
魏では兵士が耕作を兼ねる軍屯と、流民に田土を支給して耕作させる民屯とがありました。税率は小作人より重い5〜6割で、曹操や司馬氏の財政基盤となっただけでなく、良民の税率を1%に抑えることを可能として呉蜀からの移民招致の一助ともなっていました。屯田民は軍政官である典農中郎将・典農都尉に管理され、専用の戸籍に登録されて人口統計からは除外されました。征蜀直後の魏の人口約540万人が平呉直前に約1370万人まで跳ね上がっているのは、屯田民を一般の戸籍に編入した結果だとされています。
蜀人から内移者を勧め募り、廩(官倉)からの供給を二年とし、復(力役の免除)除(租税の免除)を二十年とした。安弥・福禄県が各々嘉禾(瑞祥の稲)が生じたと上言した。二年春二月甲辰、朐䏰縣獲靈龜以獻、歸之于相國府。庚戌、以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆、以至沒身、賜脩弟倚爵關内侯。夏四月、南深澤縣言甘露降。呉遣使紀陟・弘璆請和。
呉志の孫皓伝にありますが、紀陟は光禄大夫、弘璆は五官中郎将で、徐紹・孫ケに対する答礼使です。呉も使節を遮断するほど礼儀知らずではなかったようで。書簡の内容は不明ですが、補注によれば同格もしくは臣礼の形式で書かれていたようです。徐紹だけは北帰の途上で呼び戻されて殺されたそうです。
五月、詔曰:「相國晉王誕敷神慮、光被四海;震燿武功、則威蓋殊荒、流風邁化、則旁洽無外。愍卹江表、務存濟育、戢武崇仁、示以威コ。文告所加、承風嚮慕、遣使納獻、以明委順、方寶纖珍、歡以效意。而王謙讓之至、一皆簿送、非所以慰副初附、從其款願也。孫皓諸所獻致、其皆還送、歸之于王、以協古義。」王固辭乃止。又命晉王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乘金根車・六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、樂舞八佾、設鐘虚宮縣。進王妃為王后、世子為太子、王子・王女・王孫、爵命之號如舊儀。癸未、大赦。秋八月辛卯、相國晉王薨。壬辰、晉太子炎紹封襲位、總攝百揆、備物典冊、一皆如前。是月、襄武縣言有大人見、〔長〕三丈餘、跡長三尺二寸、白髮、著黄單衣、黄巾、柱杖、呼民王始語云:「今當太平。」九月乙未、大赦。戊午、司徒何曾為晉丞相。癸亥、以驃騎將軍司馬望為司徒、征東大將軍石苞為驃騎將軍、征南大將軍陳騫為車騎將軍。乙亥、葬晉文王。閏月庚辰、康居・大宛獻名馬、歸于相國府、以顯懷萬國致遠之勳。
十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。
ほら。呉の答礼使を待てば良かったのに、とは結果論です。司馬昭はまだ55歳でした。まあ、何でも官打ちに結びつけるのもどうかとは思いますが、少なくとも太后・曹氏サイドはそのつもりだったでしょうし、司馬師と違って司馬昭には病んでた記述もありませんし、結果的に成功? でもこれで魏には出す物がなくなりました。司馬昭が体を張って王まで進み、しかも孫皓が不用意な形式の書簡を出してしまったので、司馬炎には平呉まで待つ必要がなくなりました。
壬辰、晋太子司馬炎が封を紹(つ)ぎ位を襲(つ)ぎ、百揆を総摂し、備物・典冊は一に皆な以前の通りとした。この月、襄武県が大人の出見を上言し、身長は三丈余、足跡の長さ三尺二寸、白髮で黄の単衣と黄巾を着、柱に杖(よ)って民の王始に呼ばわって語るには 「今はまさに太平である」。九月乙未、大赦した。戊午、司徒何曾を晋の丞相とした。癸亥、驃騎将軍司馬望を司徒とし、征東大将軍石苞を驃騎将軍とし、征南大将軍陳騫を車騎将軍とした。乙亥、晋文王を埋葬した。閏月庚辰、康居・大宛が名馬を献上し、相国府に帰して万国が懐き遠くを致した勲を顕かにした。何度でも云いますが、荀は荀ケの子です。それも嗣子です。父の不遇を見て育った子が権力亡者になるパターン。潁川荀氏は歴代で名節の士を輩出した家門なので、叩く側もとても叩き易い。一族の荀勗や荀トも同様で、『晋書』その他でも仕事面での評価は高いものの人格面ではボロクソです。
評曰:古者以天下為公、唯賢是與。後代世位、立子以適;若適嗣不繼、則宜取旁親明コ、若漢之文・宣者、斯不易之常準也。明帝既不能然、情繋私愛、撫養嬰孩、傳以大器、託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位。高貴公才慧夙成、好問尚辭、蓋亦文帝之風流也;然輕躁忿肆、自蹈大禍。陳留王恭己南面、宰輔統政、仰遵前式、揖讓而禪、遂饗封大國、作賓于晉、比之山陽、班寵有加焉。