三國志修正計画

三國志卷四 魏書四/三少帝紀 (三)

陳留王紀

 陳留王諱奐、字景明、武帝孫、燕王宇子也。甘露三年、封安次縣常道郷公。高貴郷公卒、公卿議迎立公。六月甲寅、入于洛陽、見皇太后、是日即皇帝位于太極前殿、大赦、改年、賜民爵及穀帛各有差。

 陳留王。諱は奐、字は景明。武帝の孫にして燕王曹宇の子である。甘露三年(258)に(燕国の)安次県の常道郷公に封じられた。(五月己丑(7日)に)高貴郷公が卒し[※]、公卿が議して公を迎立した。六月甲寅(2日)、洛陽に入って皇太后に通見し、この日に太極前殿で皇帝位に即き、大赦して(景元と)改年し、民に爵および穀帛を下賜して各々差があった。

※ 天子に相応しくない事を示す為に“卒”としています。『礼記』によれば、天子の死は崩、諸侯は薨、大夫が卒。士は不禄、庶人は死だそうです。この時代になると大夫と士は一括して卒のようです。曹髦のところで書くべきでした。

 景元元年夏六月丙辰、進大將軍司馬文王位為相國、封晉公、摯蕪郡、并前滿十、加九錫之禮、一如前〔詔〕;諸羣從子弟、其未有侯者皆封亭侯、賜錢千萬、帛萬匹、文王固讓乃止。己未、故漢獻帝夫人節薨、帝臨于華林園、使使持節追諡夫人為獻穆皇后。及葬、車服制度皆如漢氏故事。癸亥、以尚書右僕射王觀為司空、冬十月、觀薨。
 十一月、燕王上表賀冬至、稱臣。詔曰:「古之王者、或有所不臣、王將宜依此義。表不稱臣乎!又當為報。夫後大宗者、降其私親、況所繼者重邪!若便同之臣妾、亦情所未安。其皆依禮典處、當務盡其宜。」有司奏、以為「禮莫崇于尊祖、制莫大于正典。陛下稽コ期運、撫臨萬國、紹大宗之重、隆三祖之基。伏惟燕王體尊戚屬、正位藩服、躬秉虔肅、率蹈恭コ以先萬國;其于正典、闡濟大順、所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制、奉以不臣之禮。臣等平議以為燕王章表、可聽如舊式。中詔所施、或存好問、準之義類、則『〔嚥〕覿之〔敬〕』也、可少順聖敬、加崇儀稱、示不敢斥、宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至于制書、國之正典、朝廷所以辨章公制、宣昭軌儀于天下者也、宜循法、故曰『制詔燕王』。凡詔命・制書・奏事・上書諸稱燕王者、可皆上平。其非宗廟助祭之事、皆不得稱王名、奏事・上書・文書及吏民皆不得觸王諱、以彰殊禮、加于羣后。上遵王典尊祖之制、俯順聖敬烝烝之心、二者不愆、禮實宜之、可普告施行。」
 十二月甲申、黄龍見華陰縣井中。甲午、以司隸校尉王祥為司空。

 景元元年(260)夏六月丙辰(4日)、大将軍司馬昭の位を進めて相国とし、晋公に封じて封邑を二郡増し、前と併せて十に満たし、九錫の礼を加えること前詔と同一だった。諸々の群従子弟のうち、未だ列侯でない者を皆な亭侯に封じ、銭千万・帛万匹を下賜したが、司馬昭が固譲したので止めた。

 諸葛誕の造叛を潰しても辞退し、定策の功でも辞退してと、司馬師に比べて随分と遜っています。というか寧ろ遜りすぎ。まぁ確かに天子殺しの黒幕ですけれども、そうすると二郡が追加されている理由も謎です。司馬昭は蜀を滅ぼした功で晋王に進むので、ここで受けておかないと晋公になるチャンス無くなっちゃいますよ?
 ところで追加の二郡を知りたいところです。余談ですが、『晋書』の幷州の項には 「建安二十年に新興郡を立て、後に又た楽平郡を立てた。魏の黄初元年に復た幷州を置いた」 とあり、楽平郡の説明に 「泰始中(265〜74)に置く」 とあります。『晋書』文帝紀では魏が置いたことになっていますが、どっちが正解?

己未(7日)、故の漢の献帝の夫人の曹節が薨じた。帝は華林園に臨んで使持節に夫人を追諡させて献穆皇后とし、埋葬では車服の制度は皆な漢氏の故事の通りにさせた。癸亥、尚書右僕射王観を司空としたが、冬十月、王観は薨じた。
 十一月、(帝父の)燕王の慶賀の上表が冬に至り、臣と称していた。詔

「昔も帝王にとって非臣がいたのだから、実父の燕王も同じ扱いをしたいがどうだろう。臣妾と同列に扱いたくないので、批判されないように礼典の記載を引用した証明でよろしく」

有司が上奏した

「何事にも例外はあるのでそれを適用しましょう。章表は身内の間の通信だと解釈できなくもないので、ある程度は即位前の礼に準じても宜しいでしょう。名指しを避けたり官爵で呼びかけるのも一手です。しかし制書となると国としての正典なので、律法厳守で“制詔燕王”として下さい。詔命・制書・奏事・上書での燕王(の名は)は、全て(改行して)最上段に書きましょう。宗廟の祭祀以外では燕王の諱を用いさせずに殊礼を天下に示しましょう」

 曹奐が前例として意識したのは誰でしょう。劉邦の時も実父の扱いについて揉めかけましたが、寧ろ今回は東漢の質帝の方が近いケースです。『後漢書』で質帝が父王の扱いで揉めたような逸話は載っていませんが、ひょっとしたら『東観漢記』には載っていたのかもしれません。ま、そもそも不祥過ぎて質帝は参考にしないでしょうけど。

 十二月甲申、黄龍が華陰県の井戸の中に出見した。甲午、司隸校尉王祥を司空とした。

 二年夏五月朔、日有食之。秋七月、樂浪外夷韓・濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅、趙王幹薨。甲寅、復命大將軍進爵晉公、加位相國、備禮崇錫、一如前詔;又固辭乃止。

 二年(261)夏五月朔、日蝕があった。秋七月、楽浪郡の域外の夷の韓・濊貊が各々属民を率い来て朝貢した。八月戊寅、趙王曹幹が薨じた。甲寅、復た大将軍に命じて爵を晋公に進め、相国の位を加え、崇錫の礼を備えさせること前の詔と同一だったが、又た固辞したので止めた。

 三年春二月、青龍見于軹縣井中。夏四月、遼東郡言肅慎國遣使重譯入貢、獻其國弓三十張、長三尺五寸、楛矢長一尺八寸、石弩三百枚、皮骨鐵雜鎧二十領、貂皮四百枚。冬十月、蜀大將姜維寇洮陽、鎮西將軍ケ艾拒之、破維于侯和、維遁走。是歳、詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。

 三年(262)春二月、青龍が軹県の井戸の中に出見した。夏四月、遼東郡より、粛慎国が通訳を重ねて遣使して入貢し、その国の弓の三十張にして長さ三尺五寸、楛矢の長さ一尺八寸、石弩三百枚、皮・骨・鉄による雑(複合)鎧二十領、貂皮四百枚を献上してきたとの上言があった。
冬十月、蜀の大将の姜維が洮陽に寇し、征西将軍ケ艾がこれを拒いで姜維を侯和(甘粛省甘南自治州卓尼東北)に破り、姜維は遁走した。

 ケ艾伝にやや詳しくありますが、姜維はこの敗戦で漢中にすら戻らず、沓中で自営体制に入ります。結果的にこれが大誤算となりますが、漢中を固めていたからって1・2年延命できたかどうかでしょう。朝廷は厭戦して軍部と対立し、軍部も交戦的なトップを支持していない。当時の蜀政権はそんな状態です。

この歳、詔にて故の軍祭酒郭嘉を太祖の廟庭で祀らせた。

 郭嘉の死から55年、曹操の功臣の宗廟への大合祀から数えても17年です。曹操や、我々を含めた後代の人間が考える程には郭嘉の果たした仕事は魏では評価されていなかったんでしょうか。果たして許褚が宗廟で祀られる日は来るのでしょうか。

 四年春二月、復命大將軍進位爵賜一如前詔、又固辭乃止。
 夏五月、詔曰:「蜀、蕞爾小國、土狹民寡、而姜維虐用其衆、曾無廢志;往歳破敗之後、猶復耕種沓中、刻剥衆羌、勞役無已、民不堪命。夫兼弱攻昧、武之善經、致人而不致於人、兵家之上略。蜀所恃ョ、唯維而已、因其遠離巣窟、用力為易。今使征西將軍ケ艾督帥諸軍、趣甘松・沓中以羅取維、雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都・高樓、首尾蹵討。若擒維、便當東西並進、掃滅巴蜀也。」又命鎮西將軍鍾會由駱谷伐蜀。
 秋九月、太尉高柔薨。冬十月甲寅、復命大將軍進位爵賜一如前詔。癸卯、立皇后卞氏、十一月、大赦。

 四年(263)春二月、復た大将軍に進位爵賜を命じること前の詔と同一にしたが、又た固辞したので止めた。

 太后も司馬昭も意地の張り合いかってくらい進位爵賜の応酬をしていますが、何が両者をそうさせているんでしょう。ここに 『承久記』 という中世日本の書物があります。その中で承久の乱の直前の事として、討幕を決意した後鳥羽上皇が源実朝を分不相応に昇進させて破滅に追い込むという、呪術的な“官打ち”を仕掛けたと記されています。実際、翌年に実朝は暗殺されています。もし、この進位爵賜が官打ちだとしたら司馬昭も受けられませんよねぇ。司馬師が中っているくさいですし。

 夏五月、詔

「蜀は蕞爾(小さい)小国で、土地は狭く民は寡なく、しかも姜維は国人を虐用し、曾てその志を廃した事は無かった。往年に破敗した後も猶お復た沓中(甘粛省甘南自治州舟曲西界)で耕種(農作)し、衆(おお)くの羌に対し刻剥(酷薄)であり、労役は已まず、民は命令に堪えられていない。弱者を兼併し蒙昧を攻めるのは武の善き経(手本)であり(『左氏伝』宣公十二年)、人を誘致して人に誘致されないとは兵家の上略である(『孫子』虚実篇)。蜀が恃頼するのはただ姜維だけであり、その巣窟から遠離している事に因れば(武)力を用いることは容易である。今、征西将軍ケ艾に諸軍を督帥させ、甘松・沓中に趣(赴)いて姜維を羅取(捕獲)させ、雍州刺史諸葛緒に諸軍を督して武都・高楼に趣いて、首尾(呼応して)蹵(踏み)討たせよ。もし姜維を擒えたら、便(すみやか)に東西並進して巴蜀の地を掃滅せよ」

又た鎮西将軍鍾会に命じて駱谷(武功からの路)より蜀を伐たせた。

 官位の表記が統一されていないので今一つ掴みづらいですが、ケ艾は都督隴右諸軍事です。隴西のそれも西界で姜維と対峙し続けていました。諸葛緒は雍州刺史とありますから長安から西進して姜維を挟撃し、そして鍾会が中原から派遣され、長安から漢中を直撃という布陣です。将軍号だけを問題にすると、格下の鍾会が主力という妙な塩梅になります。
これまでの曹真・曹爽の伐蜀に比べて隴西から進攻できるようになった事は、漢中の一極防衛で何とか凌いできた蜀を攻める上で極めつきの利点になっています。

 秋九月、太尉高柔が薨じた。冬十月甲寅、復た大将軍に進位爵賜を命じること前の詔と同一とした。
 司空鄭沖が群臣を率いて勧進し、司馬昭は命令を受けた。 (『晋書』)
癸卯、卞氏武宣后の甥の娘)を皇后に立て、十一月、大赦した。

 自ケ艾・鍾會率衆伐蜀、所至輒克。是月、蜀主劉禪詣艾降、巴蜀皆平。十二月庚戌、以司徒鄭沖為太保。壬子、分益州為梁州。癸丑、特赦益州士民、復除租賦之半五年。
 乙卯、以征西將軍ケ艾為太尉、鎮西將軍鍾會為司徒。皇太后崩。

 咸熙元年春正月壬戌、檻車徴ケ艾。甲子、行幸長安。壬申、使使者以璧幣祀華山。是月、鍾會反于蜀、為衆所討;ケ艾亦見殺。

 ケ艾・鍾会は軍勢を率いて蜀を伐ってより至るところで尽く克った。この月、蜀主劉禅がケ艾に詣って降り、巴蜀は皆な平らいだ。十二月庚戌、司徒鄭沖を太保とした。壬子、益州を分けて(北部を)梁州とした。癸丑、益州の士民を特赦し、復た租賦の半ばを除くこと五年とした。
 乙卯、征西将軍ケ艾を太尉とし、鎮西将軍鍾会を司徒とした。皇太后が崩じた。

 司馬昭の成功で、太后が落胆のあまり死んでしまいました。蜀を滅ぼした司馬昭の功績にもう官打ちは通用しません。生き甲斐を無くしてしまいました。


 咸熙元年(264)春正月壬戌、(鍾会の讒訴により)檻車にてケ艾を徴した。甲子、長安に行幸した。壬申、使者に璧と幣にて華山を祀らせた。
 この当時、魏の諸王侯は悉く鄴城に在り、従事中郎山濤を行軍司馬として鄴に鎮守させた。護軍賈充を持節・督諸軍として漢中に拠らせた。(『晋書』)

 いつから曹氏は鄴に置かれたのか。王淩の一件が原因だとは思いますが、他に傍証が欲しいところです。『三國志』の訳中に見つかるといいなぁ。

この月、鍾会が蜀で反いて軍に殺され、ケ艾も亦た殺された。

 どちらも乱兵に殺されたような書き方ですが、ケ艾は保身を図る衛瓘による暗殺です。衛瓘は晋にとっては元勲であり非業の死を遂げた忠臣ですが、なにかと暗殺に訴えるアブナイ人でもあります。

 二月辛卯、特赦諸在益土者。庚申、葬明元郭后。三月丁丑、以司空王祥為太尉、征北將軍何曾為司徒、尚書左僕射荀為司空。
己卯、進晉公爵為王、封十郡、并前二十。丁亥、封劉禪為安樂公。夏五月庚申、相國晉王奏復五等爵。甲戌、改年。癸未、追命舞陽宣文侯為晉宣王、舞陽忠武侯為晉景王。六月、鎮西將軍衞瓘上雍州兵于成都縣獲璧玉印各一、印文似「成信」字、依周成王歸禾之義、宣示百官、藏于相國府。

 二月辛卯、諸々の益州に在る者を特赦した。庚申、明元郭后を葬った。三月丁丑、司空王祥を太尉とし、征北将軍何曾を司徒とし、尚書左僕射荀を司空とした。
己卯、晋公の爵を進めて王とし、十郡に封じて以前と併せて二十となった[1]

 蜀を滅ぼし、そして太后も居なくなったので遠慮する必要が全くなくなりました。あれだけ晋公九錫を拒んでいたのが嘘のようなスピード昇格。実は司馬昭が晋公を受けた時、蜀はまだ降伏していませんでした。今回の晋王が蜀を滅ぼした行賞だとすると、前回の功って何?平蜀の前倒し?それとも今回のは鍾会平定の功ですか?でも任命したのも司馬昭ですよね? 大丈夫か司馬昭それで。

丁亥、劉禅を封じて安楽公とした。夏五月庚申、相国晋王が五等爵の復活を奏請した。甲戌、(咸熙と)改年した。癸未、追って舞陽宣文侯を晋宣王に、舞陽忠武侯を晋景王に任命した。六月、鎮西将軍衞瓘が、雍州兵が成都県で獲た璧玉と印の各一個を上呈した。印には“成信”の字に似た文字があり、周成王の帰禾の義[※]に依拠して百官に宣示し、相国府に収蔵した[2]

※ 成王が、唐叔から献上された瑞兆の禾(稲)を周公に贈った故事。

 初、自平蜀之後、呉寇屯逼永安、遣荊・豫諸軍掎角赴救。七月、賊皆遁退。八月庚寅、命中撫軍司馬炎副貳相國事、以同魯公拜後之義。
 癸巳、詔曰:「前逆臣鍾會構造反亂、聚集征行將士、劫以兵威、始吐姦謀、發言桀逆、逼脅衆人、皆使下議、倉卒之際、莫不驚懾。相國左司馬夏侯和・騎士曹屬朱撫時使在成都、中領軍司馬賈輔・郎中羊e各參會軍事;和・e・撫皆抗節不撓、拒會凶言、臨危不顧、詞指正烈。輔語散將王起、説『會姦逆凶暴、欲盡殺將士』、又云『相國已率三十萬衆西行討會』、欲以稱張形勢、感激衆心。起出、以輔言宣語諸軍、遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵、以彰忠義。其進和・輔爵為郷侯、e・撫爵關内侯。起宣傳輔言、告令將士、所宜賞異。其以起為部曲將。」
 癸卯、以衞將軍司馬望為驃騎將軍。九月戊午、以中撫軍司馬炎為撫軍大將軍。
 辛未、詔曰:「呉賊政刑暴虐、賦斂無極。孫休遣使ケ句、勑交阯太守鎖送其民、發以為兵。呉將呂興因民心憤怒、又承王師平定巴蜀、即糾合豪傑、誅除句等、驅逐太守長吏、撫和吏民、以待國命。九真・日南郡聞興去逆即順、亦齊心響應、與興協同。興移書日南州郡、開示大計、兵臨合浦、告以禍福;遣都尉唐譜等詣進乘縣、因南中都督護軍霍弋上表自陳。又交阯將吏各上表、言『興創造事業、大小承命。郡有山寇、入連諸郡、懼其計異、各有攜貳。權時之宜、以興為督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯、乞賜褒奬、以慰邊荒』。乃心款誠、形于辭旨。昔儀父朝魯、春秋所美;竇融歸漢、待以殊禮。今國威遠震、撫懷六合、方包舉殊裔、混一四表。興首向王化、舉衆稽服、萬里馳義、請吏帥職、宜加寵遇、崇其爵位。 既使興等懷忠感ス、遠人聞之、必皆競勸。其以興為使持節・都督交州諸軍事・南中大將軍、封定安縣侯、得以便宜從事、先行後上。」策命未至、興為下人所殺。

 それより前、平蜀の後より呉が寇して永安に逼って駐屯したので、荊州・豫州の諸軍を遣って掎角(前後呼応)して救援に赴かせた。七月、賊は皆な遁退した。

 これは永安の羅憲が頑張って陸抗らを撃退した事を指します。伐蜀に対しては呉も寿春や漢水流域に出兵して魏を牽制しようとしたっぽいんですが、効果があったのかどうか、そもそも実際に兵を動かしたのかどうかは不明です。

八月庚寅、中撫軍司馬炎を相国の事の副貳(副官)に命じ、魯公拝後の義[※]と同じとした。

※ 魯公は周公の子の伯禽の事。伯禽は周公の継嗣であると同時に初代の魯公として封建された事になっていた。

 中撫軍とは耳慣れませんが、撫軍将軍は司馬懿が就いたこともあってポピュラーです。まあ、中領軍と領軍将軍、中護軍と護軍将軍の関係と同じと考えていいのでしょう。

 癸巳、詔

「以前に逆臣の鍾会が反乱を構造して征行の将士を聚集し、兵威を以て劫(おびやか)し、始めて姦謀を吐いた。発言は桀逆(極悪)で、衆人を逼脅して皆なに(従うかどうかを)議させたが、倉卒の際(突然の事態)とて驚き懾(おそ)れない者は莫かった。相国左司馬の夏侯和(夏侯淵の子)・騎士曹属の朱撫は時に使わされて成都に在り、中領軍司馬の賈輔・郎中の羊eは各々鍾会の軍事に参与していた。夏侯和・羊e・朱撫は皆み節を抗(まも)って撓(たわ)まず、鍾会の凶言を拒み、危に臨んでも(一身を)顧みず、詞(言葉)は正烈を指した。賈輔が散将の王起に説くには 『鍾会は姦逆凶暴で尽く将士を殺そうとしている』 又た云うには 『相国は既に三十万の軍勢を率いて鍾会の討伐に西行している』 と、形勢を称張(主張)して人々の心を感激させようとした。王起は退出すると賈輔の言葉を諸軍に宣べ語り、かくて将士は益々奮励を懐いた。顕寵を加えて忠義を表彰するのが妥当である。夏侯和・賈輔の爵を郷侯とし、羊e・朱撫の爵を関内侯に進める。王起は賈輔の言葉を宣伝して将士に告げたので、特別な褒賞が妥当である。王起を部曲将とする」

 癸卯、衛将軍司馬望を驃騎将軍とした。九月戊午、中撫軍司馬炎を撫軍大将軍とした。
 辛未、詔

「呉賊の政刑は暴虐で、賦斂には極限が無い。孫休はケ句を遣使し交阯太守にその民を鎖送させ、兵として徴発した。呉将の呂興は民心の憤怒に因り、又た王師が巴蜀を平定した事を承けて豪傑を糾合し、ケ句らを誅除し、太守・長吏を駆逐して吏民を撫和し、国の命令を待っている。九真・日南郡は呂興が逆を去って順に即いたと聞くと、亦た心を斉しくして響応(呼応)し、呂興と協同した。呂興は日南の州郡に移書(文書回付)して大計を開示し、兵を以て合浦に臨んで禍福を告げ、(別に)都尉唐譜らを進乗県に詣らせ、南中都督護軍霍弋に上表して自ら陳べた。又た交阯の将吏も各々上表して言うには 『呂興は事業を創造し、(我々は)大小とも命令を承けています。郡には山寇(山越の害)があり、諸郡に入り連なり、呂興の計策が異(並々ならぬ)である事を懼れ各々(呉に)二心を攜(いだ)いています。権時之宜(時宜に応じた仮措置として)呂興を督交阯諸軍事・上大将軍・定安県侯とし、褒奬の下賜により辺荒を慰撫されん事を乞うものです』と。その心の款誠(誠実)な事は辞旨に形(あらわ)れている。昔、儀父が魯に入朝した事は『春秋』で賛美されて、竇融は漢に帰順して殊礼を以て待遇された。今、国威は遠きを震わし、六合(世界)を撫懐し、殊裔(最果ての異国)をも包挙(尽く覆い)し、四表(四方の涯)を混一している。呂興は王化に首向し、衆を挙げて稽服し、万里から義に馳せ、吏による帥職を請うてきた。寵遇を加えてその爵位を崇(たか)くすべきである。呂興らに忠を懐いて感悦させた後、遠き人もこれを聞いてきっと皆な競って(帰順を)勧めるだろう。呂興を使持節・都督交州諸軍事・南中大将軍とし、定安県侯に封じる。便宜によって事に従い、先に行ない後に上奏する事を認める」
 呉に叛いて霍弋経由で帰順してきた交趾の呂興を交州都督とする。

この策命が至る前に呂興は下人に殺された。

 タイミング的に伐蜀に呼応した事になっていますが、偶然の一致に過ぎません。現に呂興が通誼したのは魏の伐蜀軍ではなく蜀の南中都督に対してです。
 それはともかく、こういう記述法が司馬懿が死んだ後の魏志本紀のイクナイ点だと個人的には考えます。事態説明を詔書で代用するから、事の根幹が見えにくくなります。全文読めば理解できるというのは全く以て正論ですが、やはり主軸を書いてからそれに対する説明を繰り出してほしいものです。

 冬十月丁亥、詔曰:「昔聖帝明王、靜亂濟世、保大定功、文武殊塗、勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭、或陳師旅以威暴慢。至于愛民全國、康惠庶類、必先脩文教、示之軌儀、不得已然後用兵、此盛コ之所同也。往者季漢分崩、九土顛覆、劉備・孫權乘間作禍。三祖綏寧中夏、日不暇給、遂使遺寇僭逆歴世。幸ョ宗廟威靈、宰輔忠武、爰發四方、拓定庸・蜀、役不浹時、一征而克。自頃江表衰弊、政刑荒闇、巴・漢平定、孤危無援、交・荊・揚・越、靡然向風。今交阯偽將呂興已帥三郡、萬里歸命;武陵邑侯相嚴等糾合五縣、請為臣妾;豫章廬陵山民舉衆叛呉、以助北將軍為號。又孫休病死、主帥改易、國内乖違、人各有心。偽將施績、賊之名臣、懷疑自猜、深見忌惡。衆叛親離、莫有固志、自古及今、未有亡徴若此之甚。若六軍震曜、南臨江・漢、呉會之域必扶老攜幼以迎王師、必然之理也。然興動大衆、猶有勞費、宜告喩威コ、開示仁信、使知順附和同之利。相國參軍事徐紹・水曹掾孫ケ、昔在壽春、並見虜獲。紹本偽南陵督、才質開壯;ケ、孫權支屬、忠良見事。其遣紹南還、以ケ為副、宣揚國命、告喩呉人、諸所示語、皆以事實、若其覺悟、不損征伐之計、蓋廟勝長算、自古之道也。其以紹兼散騎常侍、加奉車都尉、封都亭侯;ケ兼給事黄門侍郎、賜爵關内侯。紹等所賜妾及男女家人在此者、悉聽自隨、以明國恩、不必使還、以開廣大信。」
 丙午、命撫軍大將軍新昌郷侯炎為晉世子。是歳、罷屯田官以均政役、諸典農皆為太守、都尉皆為令長;勸募蜀人能内移者、給廩二年、復除二十歳。安彌・福祿縣各言嘉禾生。

 冬十月丁亥、詔

「昔の聖帝明王が天下を平定するのに、文と武とで手段は違っていたが同じ結果に帰着した(殊塗同帰)。舞を奉納したり軍を出したりはしたが、概ねは率先して教化を示し、それでも従わない者がいた場合だけ兵を動かしたのだ。 漢末の混乱に乗じて劉備や孫権が勝手をしたが、三祖は中原の安定に忙しすぎて手が回らず、結果として放置プレイしてしまった。ご先祖の霊と宰相の輔けで漢中と蜀を平定でき、しかも遠征は浹時(一巡=60日)せずに一度で勝てた。最近では江表も衰退し、法律は乱れ、巴漢の平定で孤立無援になっている。交阯の呂興は三郡を帥いて帰順し、武陵郡の邑侯相の厳らは五県を糾合して称臣し、豫章・廬陵の山民(山越)も挙って呉に叛いて助北将軍を号している。又た孫休が病死して呉主が交替した事で国内は分裂し、人は各々異心を持っている。偽将の施績は賊の名臣であり、猜疑逡巡して孫皓に深く嫌悪されている。民衆にも近親にも離背され、忠臣は無く、これほど滅亡の兆候がひどいものは古今未曾有である。王師が長江・漢水に臨めば江東では老若男女がこぞって歓迎するのは必然である。しかし兵を動かすのは忍びないので訓示で収めたいと思う。
 相国参軍事の徐紹・水曹掾の孫ケは嘗て寿春で捕虜としたもので、徐紹は偽南陵督であったし、孫ケは孫権の一族である。徐紹と孫ケを正副使節として送り、国威を呉人に告げさせよ。ただし嘘を交えてはダメだ。呉人の目が醒めればそれで良し。それこそ廟堂で勝つという良策の道である。徐紹を兼散騎常侍として奉車都尉を加え、都亭侯に封じ、孫ケを兼給事黄門侍郎として爵関内侯を賜う。徐紹らに下賜した妾および男女の家人が全て随行する事も認めるので、国の寛大さを噛みしめるように。呉は入国を拒むだろうが、やる事をやったという形が整えばそれでいいのだ」


 丙午、命じて撫軍大将軍・新昌郷侯司馬炎を晋世子とした。この歳、屯田官を罷めて政役を均しくし、諸々の典農官(典農中郎将)を皆な太守とし、典農都尉を皆な県令・県長とした。

 魏では兵士が耕作を兼ねる軍屯と、流民に田土を支給して耕作させる民屯とがありました。税率は小作人より重い5〜6割で、曹操や司馬氏の財政基盤となっただけでなく、良民の税率を1%に抑えることを可能として呉蜀からの移民招致の一助ともなっていました。屯田民は軍政官である典農中郎将・典農都尉に管理され、専用の戸籍に登録されて人口統計からは除外されました。征蜀直後の魏の人口約540万人が平呉直前に約1370万人まで跳ね上がっているのは、屯田民を一般の戸籍に編入した結果だとされています。

蜀人から内移者を勧め募り、廩(官倉)からの供給を二年とし、復(力役の免除)(租税の免除)を二十年とした。安弥・福禄県が各々嘉禾(瑞祥の稲)が生じたと上言した。

 二年春二月甲辰、朐䏰縣獲靈龜以獻、歸之于相國府。庚戌、以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆、以至沒身、賜脩弟倚爵關内侯。夏四月、南深澤縣言甘露降。呉遣使紀陟・弘璆請和。

 二年(265)春二月甲辰、朐䏰県が獲えた霊亀を献上し、これを相国府に帰した。庚戌、虎賁張脩が昔に成都で馳馬して鍾会の反逆を諸営に言い、そのため身を歿するに至った事から、張脩の弟の張倚に爵関内侯を下賜した。夏四月、南深沢県が甘露が降ったと上言した。呉が紀陟・弘璆を遣使して和を講じた。

 呉志の孫皓伝にありますが、紀陟は光禄大夫、弘璆は五官中郎将で、徐紹・孫ケに対する答礼使です。呉も使節を遮断するほど礼儀知らずではなかったようで。書簡の内容は不明ですが、補注によれば同格もしくは臣礼の形式で書かれていたようです。徐紹だけは北帰の途上で呼び戻されて殺されたそうです。

 五月、詔曰:「相國晉王誕敷神慮、光被四海;震燿武功、則威蓋殊荒、流風邁化、則旁洽無外。愍卹江表、務存濟育、戢武崇仁、示以威コ。文告所加、承風嚮慕、遣使納獻、以明委順、方寶纖珍、歡以效意。而王謙讓之至、一皆簿送、非所以慰副初附、從其款願也。孫皓諸所獻致、其皆還送、歸之于王、以協古義。」王固辭乃止。又命晉王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乘金根車・六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、樂舞八佾、設鐘虚宮縣。進王妃為王后、世子為太子、王子・王女・王孫、爵命之號如舊儀。癸未、大赦。秋八月辛卯、相國晉王薨。壬辰、晉太子炎紹封襲位、總攝百揆、備物典冊、一皆如前。是月、襄武縣言有大人見、〔長〕三丈餘、跡長三尺二寸、白髮、著黄單衣、黄巾、柱杖、呼民王始語云:「今當太平。」九月乙未、大赦。戊午、司徒何曾為晉丞相。癸亥、以驃騎將軍司馬望為司徒、征東大將軍石苞為驃騎將軍、征南大將軍陳騫為車騎將軍。乙亥、葬晉文王。閏月庚辰、康居・大宛獻名馬、歸于相國府、以顯懷萬國致遠之勳。
 十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。

 五月、詔
「相国晋王は神慮を誕敷(大いに施)し、四海を光(照)らし被い、武功を震燿して威は殊荒(絶涯)を蓋い、流風(美風)による教化に邁進して旁洽無外である(普く行渡っている)。江表を愍れみ卹(憂)え、救済・撫育を任務とし、武を戢(おさ)め仁を崇び、威徳を示した。文告が加わって風を受けて帰慕に向い、遣使して納献して委順を明らかにし、宝・纖・珍を方(並)べて效意を歓んだ。しかし王は謙譲至極であり、一々皆な簿(記)して(朝廷に)送付しているが、慰副初附の款願に従う事にはならない。孫皓が献致した諸々は皆な還送して王に帰し、古義に協(適)わせる」
王が固辞したので止めた。又た晋王に命じて冕十有二旒、天子の旌旗を建て、出るに警、入るに蹕(警蹕はどちらも先導する先払い)をし、金根車・六馬に乗り、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、八佾にて楽舞し、鐘虚(鍾釣の台)を宮に設けて(鐘を)懸けさせた。王妃を進めて王后とし、世子を太子とし、王子・王女・王孫の爵の命号は旧儀の通りとした。癸未、大赦した。
秋八月辛卯、相国晋王が薨じた。

 ほら。呉の答礼使を待てば良かったのに、とは結果論です。司馬昭はまだ55歳でした。まあ、何でも官打ちに結びつけるのもどうかとは思いますが、少なくとも太后・曹氏サイドはそのつもりだったでしょうし、司馬師と違って司馬昭には病んでた記述もありませんし、結果的に成功? でもこれで魏には出す物がなくなりました。司馬昭が体を張って王まで進み、しかも孫皓が不用意な形式の書簡を出してしまったので、司馬炎には平呉まで待つ必要がなくなりました。

壬辰、晋太子司馬炎が封を紹(つ)ぎ位を襲(つ)ぎ、百揆を総摂し、備物・典冊は一に皆な以前の通りとした。この月、襄武県が大人の出見を上言し、身長は三丈余、足跡の長さ三尺二寸、白髮で黄の単衣と黄巾を着、柱に杖(よ)って民の王始に呼ばわって語るには 「今はまさに太平である」。九月乙未、大赦した。戊午、司徒何曾を晋の丞相とした。癸亥、驃騎将軍司馬望を司徒とし、征東大将軍石苞を驃騎将軍とし、征南大将軍陳騫を車騎将軍とした。乙亥、晋文王を埋葬した。閏月庚辰、康居・大宛が名馬を献上し、相国府に帰して万国が懐き遠くを致した勲を顕かにした。
 十二月壬戌、天禄は永終し、暦数は晋に在り。群公卿士に詔して儀仗を具(つぶさ)にして南郊に壇を設け、使者に皇帝の璽綬と冊(命令書)とを奉げさせて晋の嗣王に禅位しすること漢魏の故事の通りとした。甲子、使者に策(命令書)を奉じさせ、かくて改めて金墉城に次(宿)り、最後には鄴に館した。時に齢二十だった[3]
[1] 晋公が爵を進めて王となった後、太尉王祥・司徒何曾・司空荀が揃って王に詣った。荀 「相王(司馬昭)は尊重であり、何侯は朝廷の臣の皆なと与に敬意を尽しております。今日、共に連立って拝礼する事は当然であります。疑ってはなりません」 王祥 「相国の位と勢いは誠に尊貴であります。しかし要約すれば魏の宰相であり、吾らは魏の三公です。公と王の相違は一階級のみで、序列はは概ね同じです。どうして天子の三公がやすやすと人に拝礼する事がありましょうか! 魏朝の輿望を損い、晋王の徳を欠く行ないです。君子とは礼を以て人を愛すもの。私はしませんぞ」 そのまま入って荀は遂に拝礼し、王祥のみ長揖した。王が王祥に謂うには 「今日ようやく君が重く顧みられている事を知った!」(漢晋春秋』)

 何度でも云いますが、は荀ケの子です。それも嗣子です。父の不遇を見て育った子が権力亡者になるパターン。潁川荀氏は歴代で名節の士を輩出した家門なので、叩く側もとても叩き易い。一族の荀勗荀トも同様で、『晋書』その他でも仕事面での評価は高いものの人格面ではボロクソです。

[2] 孫盛曰く、昔、公孫述は成都で起ってより、国号を成と云った。二つの玉の文字は公孫述の作ったものとしてほぼ間違いあるまい。
[3] 帝を封じて陳留王とした。齢五十八にて大安元年(302)に崩じ、諡して元皇帝といった。(『魏世譜』)
 
 

 評曰:古者以天下為公、唯賢是與。後代世位、立子以適;若適嗣不繼、則宜取旁親明コ、若漢之文・宣者、斯不易之常準也。明帝既不能然、情繋私愛、撫養嬰孩、傳以大器、託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位。高貴公才慧夙成、好問尚辭、蓋亦文帝之風流也;然輕躁忿肆、自蹈大禍。陳留王恭己南面、宰輔統政、仰遵前式、揖讓而禪、遂饗封大國、作賓于晉、比之山陽、班寵有加焉。

 評に曰く、古えの者は天下を公けとし、賢者にのみ与えられた。後代には位を世襲し、子を立てて嫡子とした。もし嫡嗣が継がなければ傍流の親族の明徳者を取ることを妥当とした。漢の文帝・宣帝の如きであり、これは易えてはならない常準(常法)である。明帝はそうは出来ずに情として私愛を繋いで嬰孩(嬰児)を撫養し、大器(尊位)を伝えて専任者に託付せず、枝族を参与させた為に終には曹爽が誅夷され、斉王は替位された。 高貴郷公は才慧夙成で好問にして文辞を尚び、亦た文帝の風流があったものの軽躁にして肆(ほしいまま)に忿恚し、自ら大禍を踏んだ。 陳留王は己を恭んで南面し、宰輔に統政させ、前式を仰遵して揖譲(謙虚)に禅(ゆず)った。かくて大国を封として饗(う)け、晋の賓客となり、山陽公と比較して班寵は(更に)加えられたものだった。

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