三國志修正計画

三國志卷四十一 蜀志十一/霍王向張楊費傳

霍峻

 霍峻字仲邈、南郡枝江人也。兄篤、於郷里合部曲數百人。篤卒、荊州牧劉表令峻攝其衆。表卒、峻率衆歸先主、先主以峻為中郎將。先主自葭萌南還襲劉璋、留峻守葭萌城。張魯遣將楊帛誘峻、求共守城、峻曰:「小人頭可得、城不可得。」帛乃退去。後璋將扶禁・向存等帥萬餘人由閬水上、攻圍峻、且一年、不能下。峻城中兵纔數百人、伺其怠隙、選精鋭出撃、大破之、即斬存首。先主定蜀、嘉峻之功、乃分廣漢為梓潼郡、以峻為梓潼太守・裨將軍。在官三年、年四十卒、還葬成都。先主甚悼惜、乃詔諸葛亮曰:「峻既佳士、加有功於國、欲行酹。」遂親率羣僚臨會弔祭、因留宿墓上、當時榮之。

 霍峻、字は仲邈。南郡枝江の人である。兄の霍篤は郷里で部曲数百人を糾合していた。霍篤が卒すると、荊州牧劉表は霍峻にその手勢を統摂するよう命じた。劉表が卒すると、霍峻は手勢を率いて劉備に帰し、劉備は霍峻を中郎将とした。劉備は葭萌より南に還って劉璋を襲う時、霍峻を留めて葭萌城[※]を守らせた。張魯が将の楊帛を遣って霍峻を誘わせ、共に守城することを求めた処、霍峻は 「小人(霍峻)の頭は得られても、城は得られぬぞ」。楊帛はかくして退去した。

※ 現在の広元市元壩区昭化古城。蜀では漢寿、晋では晋寿と改名された。

後に劉璋の将の扶禁・向存らが万余人を率いて閬水の上(ほとり)を経由し、霍峻を攻囲したが、一年になろうとしても下せなかった。霍峻の城中の兵は纔(わず)か数百人だったが、蜀兵の怠隙を伺い、精鋭を選んで出撃してこれを大破し、即(ただ)ちに向存の首を斬った。劉備は蜀を定めると霍峻の功を嘉し、かくして広漢郡を分けて梓潼郡とし、霍峻を梓潼太守・裨将軍とした。在官三年にして齢四十で卒し、成都に還葬された。劉備は甚だ悼惜し、諸葛亮に命じるには 「霍峻は佳士であり、加えて国に功があった。酹[※]を行ないたいものだ」 かくて親しく群僚を率いて弔祭に臨み、墓上に留宿した。当時の人はこれを栄誉だとした。

※ 地に酒を灌ぐ葬祭儀礼。

霍弋

 子弋、字紹先、先主末年為太子舍人。後主踐阼、除謁者。丞相諸葛亮北駐漢中、請為記室、使與子喬共周旋游處。亮卒、為黄門侍郎。後主立太子璿、以弋為中庶子、璿好騎射、出入無度、弋援引古義、盡言規諫、甚得切磋之體。後為參軍庲降屯副貳都督、又轉護軍、統事如前。時永昌郡夷獠恃險不賓、數為寇害、乃以弋領永昌太守、率偏軍討之、遂斬其豪帥、破壞邑落、郡界寧靜。遷監軍翊軍將軍、領建寧太守、還統南郡事。景耀六年、進號安南將軍。是歳、蜀并于魏。弋與巴東領軍襄陽羅憲各保全一方、舉以内附、咸因仍前任、寵待有加。

 子の霍弋は字を紹先といい、先主の末年に太子舍人となった。後主が踐阼すると謁者に叙された。丞相諸葛亮は北のかた漢中に駐まると、請うて記室とし、子の諸葛喬と共に処々を周く旋游させた。諸葛亮が卒すると黄門侍郎となった。後主は太子に劉璿を立てると、霍弋を中庶子とした。劉璿は騎射を好んで出入に限度が無く、霍弋は古義を援引して言葉を尽して規(ただ)し諫め、はなはだ切磋の体を得た。
 後に参軍・庲降屯の副貳都督となり、又た護軍に転じたが、(庲降の)統事は以前の通りだった。時に永昌郡の夷の獠種は険阻を恃んで賓(まつろ)わず、しばしば寇害をなした。かくして霍弋を領永昌太守とし、偏軍(一軍未満)を率いてこれを討ち、かくてその豪帥を斬り、邑落を破壊し、郡界を寧静にした。監軍・翊軍将軍に遷り、建寧太守を兼領し、還ると南方の郡事を統べた。景耀六年(263)、安南将軍に進号した。この歳、蜀が魏に併合された。霍弋と巴東領軍である襄陽の羅憲とは各々一地方を保全しており、挙って内附し、咸なそのまま前職を任い、寵待を加えられた[1]
[1] 霍弋は魏軍が来たと聞いた。霍弋が成都に赴こうとした処、後主は敵への備えが既に定まっているとして聴許しなかった。成都が開城するに及び、霍弋は素服で号哭し、大喪に三日臨んだ。諸将は咸な速やかに降るべきだと勧めたが、霍弋は 「今、道路は隔塞し、未だに主君の安危は詳らかではない。大事の去就を徒らにしてはならない。もし主上と魏が和して礼遇されていたなら境内を保って降っても晩くはあるまい。もし万一にも危辱されていたなら、私は死を以て拒ぐだろう。どうして遅速を論ずるのか!」
後主が東遷したとの消息を得、始めて六郡の将・太守を率いて上表するには 「臣は、人は三者(君・父・母)によって生きているが、事える方法は同一で、難に在ってはその命を致すものと聞いております。今、臣の国は敗れて主は附属し、守死するあてもありません。このため委質(臣従)し、弐心をせぬものであります」。司馬昭はこれを善しとし、又た南中都督に拝し、本実の任を委ねた。
 後に将兵を遣って呂興を救援し、交阯・日南・九真の三郡を平らげた功で列侯に封じられ、進号・崇賞された。霍弋の孫の霍彪は、晋の越雟太守である。 (『漢晋春秋』)
羅憲

―― 羅憲、字は令則。父の羅蒙は蜀に避難し、官は広漢太守に至った。羅憲は若くして才能と学問で名を知られ、齢十三で属文(綴文)できた。後主が太子を立てると太子舍人となり、太子庶子・尚書吏部郎に遷り、宣信校尉として再度にわたって呉に使いし、呉人は称美した。時に黄皓が政事に預り、人々の多くがこれに附したが、羅憲は独り与同せず、黄皓は怨恚して巴東太守に左遷した。

 中央の顕官から最前線に送られた事は出世ルートの観点からは左遷ですが、太守の位階は尚書郎より上位です。しかも巴東は蜀漢政権の四大要衝の一つで、黄皓の意図や官途上での位置はともかく、史書的には“左遷”と記されるような異動ではない筈です。ここらあたりに『襄陽記』の編者の主観が垣間見えます。まぁ習鑿歯が編者なわけですが。

時に右将軍閻宇[※]が巴東を都督して領軍となり、後主は羅憲を拝して閻宇の副弐とした。

※ 原文では“右大将軍”です。

魏が蜀を伐つと閻宇は召されて西還し、二千人を留めて羅憲に永安城の守備を命じた。ついで成都が敗れたと聞くと城中は擾動し、江辺の長吏は皆な城を棄てて逃走したが、羅憲が成都の混乱を称する者一人を斬ると百姓は定まった。後主が委質したとの消息を得るに至り、統べている者を帥いて都亭で三日(の喪に)臨んだ。
 呉は蜀が敗れたと聞くと起兵して西上し、外面では救援に託し、内心では羅憲を襲おうとしていた。羅憲は 「本朝が傾覆し、呉は脣歯でありながら我が難を恤わずにその利を求め、背盟違約した。しかも漢が已に亡んだからには、呉はどうして久しくいられよう。何で呉の降虜になどなれようか!」 と城に籠って甲を繕い、将士に告誓して励ますに節義を以てした処、命令に働かぬ者は莫かった。呉は鍾会・ケ艾が敗れ、百城に主が無いと聞くと、蜀を兼有しようとの志を持ったが、巴東が固守した為に兵は通過できず、歩協に軍兵を率いて西行させた。
 羅憲は長江に臨んで射て拒いだが禦ぎきれず、参軍楊宗を遣って包囲を突いて北出させ、安東将軍陳騫に急を告げさせ、又た文武官の印綬と任子を送って晋王に詣らせた。歩協が城を攻めると羅憲は出城して戦い、その軍を大破した。孫休は怒り、復た陸抗らを遣って軍兵三万人を帥いて羅憲の攻囲に増援させた。

 ちなみにこの当時の呉の荊州西部方面の統督は施績ですが、魏軍を牽制していただかして巴東攻めには参加していません。

攻められること凡そ六月となっても救援は到らず、城中では大半が疾病となった。或る者が羅憲に奔走の計を説いた処、羅憲は 「そも人主とは百姓が仰ぐもので、危を安んずる事ができず、急しければ棄てるような事を君子は為さないものだ。ここで天命を畢えよう」 陳騫が晋王に言上し、荊州刺史胡烈を遣って羅憲を救わせ、陸抗らは引き退いた。
 晋王は前の任務を委ね、羅憲を淩江将軍に拝し、万年亭侯に封じた。たまたま武陵の四県が衆を挙って呉に叛くと、羅憲を武陵太守・巴東監軍とした。泰始元年(265)に西鄂県侯に改封された。羅憲は妻子を遣って洛陽に居住させ、武帝は子の羅襲を給事中とした。三年冬、入朝して冠軍将軍・仮節に進位した。四年三月、帝の華林園での宴に従った。詔にて蜀の大臣子弟を問われ、後に先輩のうちで叙して用いるべき者について問われた処、羅憲は蜀郡の常忌・杜軫・寿良、巴西の陳寿、南郡の高軌、南陽の呂雅・許国、江夏の費恭、琅邪の諸葛京、汝南の陳裕らを薦めた。即座に皆な叙任起用され、咸な世に顕れた。羅憲は還ると呉の巫城を襲取し、伐呉の策を上書した。
 羅憲は方直公亮かつ厳正で、士を待遇して倦まず、財を軽んじて施しを好み、産業を治めなかった。六年(270)に薨じ、安南将軍を贈られ、烈侯と諡された。子が襲ぎ、淩江将軍として部曲を典領したが、早くに卒して広漢太守を追贈された。襲いだ子の羅徽は順陽内史となり、永嘉五年(311)に王如[※]に殺された。 (『襄陽記』)

※ 京兆の人。荊州に避難した後、帰郷令に叛いて流民の首領となり、征南将軍山簡らを破って石勒と結んだ。312年に王敦に降ったが、内訌を生じて315年に殺された。

―― 本書では羅憲の諱名を“献”に作っており、本伝とは同じではないが、いずれが是なのかは詳らかでない。
 

王連

 王連字文儀、南陽人也。劉璋時入蜀、為梓潼令。先主起事葭萌、進軍來南、連閉城不降、先主義之、不強偪也。及成都既平、以連為什邡令、轉在廣都、所居有績。遷司鹽校尉、較鹽鐵之利、利入甚多、有裨國用、於是簡取良才以為官屬、若呂乂・杜祺・劉幹等、終皆至大官、自連所拔也。遷蜀郡太守・興業將軍、領鹽府如故。建興元年、拜屯騎校尉、領丞相長史、封平陽亭侯。時南方諸郡不賓、諸葛亮將自征之、連諫以為「此不毛之地、疫癘之郷、不宜以一國之望、冒險而行」。亮慮諸將才不及己、意欲必往、而連言輒懇至、故停留者久之。會連卒。子山嗣、官至江陽太守。

 王連、字は文儀。南陽の人である。劉璋の時に入蜀し、梓潼令となった。劉備が葭萌で事を起し、進軍して南に来ると、王連は城を閉じて降らず、劉備はこれを義とし、強いては偪らなかった。成都が平らぐに及び、王連を什邡令とし、広都令に転在させ、居る所で治績があった。司塩校尉に遷って塩鉄の利を較(榷=専売)し、利入を甚だ多くして国用を裨(たす)け、ここに良才を簡抜選取して官属とした。呂乂・杜祺・劉幹らが終には皆な大官に至ったのは、王連に抜擢されてよりのものだった。蜀郡太守・興業将軍に遷り、領塩府は以前通りだった。

 蜀の特産の一つに井塩があり、産鉄も豊富です。塩鉄の専売は西漢の武帝が採用して莫大な実績を挙げて以来、廃置が繰り返されたものですが、どうやら蜀では財源の一つとして重視されたようです。又た王連が丞相長史と司塩官を兼ねたという事は優秀な経済官僚だった為だと思われ、王連の発言が重んじられたのも司塩官としての実績の反映でしょう。ただし、廖立が 「王連流俗、苟作苛斂、使百姓疲弊以致今日」 と批判した様に、蜀でも塩鉄専売によって民に負担増を強いたようです。
 尚お、呂乂・杜祺は南陽の人、劉幹は南郷の人で、司塩府の幹部が旧南陽郡の出身者で占められているように見えます。南陽は東漢では帝郷であると同時に産業や通商も盛んで、優秀な経済官僚を輩出する素地は準備されていました。蜀の地元民から官のトップが輩出されなかったのも、或いは経済面での主導権を握れなかったからなのかもしれません。

 建興元年(223)、屯騎校尉を拝し丞相長史を兼領し、平陽亭侯に封じられた。時に南方の諸郡が賓(まつろ)わず、諸葛亮が自ら率いてこれを征す時、王連が諫めるには 「これは不毛の地、疫癘の郷であり、一国の名望の士が険阻を冒して行くのは不適当です」と。諸葛亮は諸将の才が己に及ばないのを慮り、どうあっても往こうと意思したが、王連は発言するたび懇切を尽し、ゆえに停留することが久しかった。折しも王連が卒した。子の王山が嗣ぎ、官は江陽太守に至った。
 

向朗

 向朗字巨達、襄陽宜城人也。荊州牧劉表以為臨沮長。表卒、歸先主。先主定江南、使朗督秭歸・夷道・巫・夷陵四縣軍民事。蜀既平、以朗為巴西太守、頃之轉任牂牁、又徙房陵。後主踐阼、為歩兵校尉、代王連領丞相長史。丞相亮南征、朗留統後事。五年、隨亮漢中。朗素與馬謖善、謖逃亡、朗知情不舉、亮恨之、免官還成都。數年、為光祿勳、亮卒後徒左將軍、追論舊功、封顯明亭侯、位特進。初、朗少時雖渉獵文學、然不治素檢、以吏能見稱。自去長史、優游無事垂三十年[2]、乃更潛心典籍、孜孜不倦。年踰八十、猶手自校書、刊定謬誤、積聚篇卷、於時最多。開門接賓、誘納後進、但講論古義、不干時事、以是見稱。上自執政、下及童冠、皆敬重焉。延熙十年卒。子條嗣、景耀中為御史中丞。

 向朗、字は巨達。襄陽宜城の人である[1]。荊州牧劉表が臨沮県長とした。劉表が卒すると劉備に帰した。劉備は江南を定めると、向朗に秭帰・夷道・巫・夷陵の四県の軍民の事を督させた。蜀が平らいだ後、向朗は巴西太守となり、しばらくして牂牁に転任し、又た房陵に徙った。後主が踐阼すると歩兵校尉となり、王連に代って丞相長史を兼領した。丞相諸葛亮は南征の際、向朗を留めて後事を統べさせた。五年(227)、諸葛亮が漢中に行くのに随った。向朗は素より馬謖と親善で、馬謖が逃亡したとき向朗は情報を知りながら検挙せず、諸葛亮はこれを恨み、免官して成都に還した 。 数年して光禄勲となり、諸葛亮が卒した後に左将軍に徙り、旧功を追論されて顕明亭侯に封じられ、特進に位した。
 嘗て向朗は若い時から文学を渉猟したとはいえ、素検(素行)を治めず、吏としての才能を称えられた。長史を去ってより、優游無事なること二十年に垂(なんな)んとし、かくして更めて典籍に潜心し、孜孜(精励)として倦まなかった。齢八十を踰えても猶お手ずから校書(書物を校訂)し、謬誤を刊定し、篇巻を積聚すること当時では最多だった。門戸を開いて賓客に接し、後進を誘納(教導)したが、ただ古義を講論するだけで時事を干(おか)さず、このため称えられた。上は執政者より下は童冠(青少年)に及ぶまで、皆な敬重した。延熙十年(247)に卒した[3]。子の向条が嗣ぎ、景耀中に御史中丞となった[4]
[1] 向朗は若いころ司馬徳操に師事し、徐元直韓徳高龐士元らと親善した。 (『襄陽記』)
[2] 裴松之が調べた処、向朗が馬謖に連坐して長史を免じられたのは、建興六年(228)中である。向朗が延熙十年に卒するまで、ちょうど二十年にすぎず、ここに 「三十」 と云っているのは字の誤りである。
[3] 向朗は遺言で子を戒めるには 「『左伝』では“師(軍)の克つは和に在って衆(おお)きに在らず”と称している。この言葉は天地が和すれば万物が生じ、君臣が和すれば国家は平らぎ、九族が和して動けは求めるものが得られ、静まれば安んじられ、これを以て聖人は和を守り、存し亡ぶのだ。私は楚国の小子に過ぎず、早くに天に(父を)喪い、二兄に教導・扶養され、その性行を禄利によって堕落しないようされた。今はただ貧しいだけであるが、貧は憂患するものではない。ただ和を貴しとするのだ。汝もこれを勉めよ!」 (『襄陽記』)
[4] 王条、字は文豹も亦た博学多識で、晋に入って江陽太守・南中軍司馬となった。 (『襄陽記』)
向寵

 朗兄子寵、先主時為牙門將。秭歸之敗、寵營特完。建興元年封都亭侯、後為中部督、典宿衞兵。諸葛亮當北行、表與後主曰:「將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事、試用於昔、先帝稱之曰能、是以衆論舉寵為督。愚以為營中之事、悉以咨之、必能使行陳和睦、優劣得所也。」遷中領軍。延熙三年、征漢嘉蠻夷、遇害。寵弟充、歴射聲校尉尚書。

 向朗の兄の子の向寵は、先主の時に牙門将となった。秭帰の敗北では、向寵の営は特に完うされた。建興元年(223)に都亭侯に封じられ、後に中部督となり、宿衛兵を典領した。諸葛亮が北行しようとした時に後主に上表するには 「将軍向寵は性行淑均で、軍事に曉暢しており、昔日に試用した折、先帝はこれを称えて有能だとし、このため衆論は挙って向寵を督としました。愚臣が考えるに、営中の事は悉くこれに諮れば、必ず行陣を和睦させる、優劣は適所を得る事ができましょう (出師表より)」と。中領軍に遷った。延熙三年(240)、漢嘉の蛮夷を征伐して害された。向寵の弟の向充は、射声校尉・尚書を歴任した[5]
[5] 魏の咸熙元年(264)六月、鎮西将軍衛瓘が成都で璧玉と印章を各々一枚得たが、文字は“成信”の字に似ており、魏人は百官に宣示して相国府に所蔵した。向充はこれを聞くと 「私が聞いた譙周の言葉には、先帝の諱は備で、その意味は具である。後主の諱は禅で、その意味は授である。言葉通り劉氏は已に具わり、人に授与した。今、中撫軍の名は炎であり、しかも漢の年号は炎興で極まった。瑞兆が成都に出て相国府に所蔵された。これは殆ぼ天意であろう」。この歳、向充を拝して梓潼太守とした。明年十二月になって晋武帝は尊位に即いた。炎興とはここに徴(しるし)された。 (『襄陽記』)
―― 孫盛曰く、昔、公孫氏は成都に起ち、成氏と号した。二玉の文字は、殆ぼ公孫述の作ったものであろう!
 

張裔

 張裔字君嗣、蜀郡成都人也。治公羊春秋、博渉史・漢。汝南許文休入蜀、謂裔幹理敏捷、是中夏鍾元常之倫也。劉璋時、舉孝廉、為魚復長、還州署從事、領帳下司馬。張飛自荊州由墊江入、璋授裔兵、拒張飛於コ陽陌下、軍敗、還成都。為璋奉使詣先主、先主許以禮其君而安其人也、裔還、城門乃開。先主以裔為巴郡太守、還為司金中郎將、典作農戰之器。先是、益州郡殺太守正昂、耆率雍闓恩信著於南土、使命周旋、遠通孫權。乃以裔為益州太守、徑往至郡。闓遂趑趄不賓、假鬼教曰:「張府君如瓠壺、外雖澤而内實麤、不足殺、令縛與呉。」於是遂送裔於權。

 張裔、字は君嗣。蜀郡成都の人である。『公羊春秋』を治め、『史記』『漢書』を博く渉猟した。汝南の許文休(許靖)が入蜀すると、“張裔は幹事の理才があって敏捷で、中夏の鍾元常(鍾繇)の倫(ともがら)だ”と謂った。劉璋の時に孝廉に挙げられ、魚復県長となり、還って州の従事に署き、帳下司馬を兼領した。張飛が荊州より墊江を経由して入ると、劉璋は張裔に兵を授け、張飛を徳陽の陌下に拒がせた。軍が敗れると成都に還った。劉璋の為に奉使となって劉備に詣った処、劉備はその君を礼遇してその人を安んじる事を許認し、張裔が還って城門はかくして開かれた。劉備は張裔を巴郡太守とし、還して司金中郎将とし、農・戦の器物の作成を典領させた。
 これより先、益州郡が太守正昂を殺したが、耆率(渠帥)の雍闓の恩信は南土に著しく、命令を周旋させて遠く孫権に通じていた。かくして張裔を益州太守とし、径(ただ)ちに往って郡に至った。雍闓は趑趄(愚図愚図)して賓(まつろ)わず、鬼道の教えに仮して 「張府君は瓠壺の様で、外見は潤沢だが内実は麤(粗)く、殺すほどでもない。縛して呉に与えよ」と。こうして張裔を孫権に送った。

 會先主薨、諸葛亮遣ケ芝使呉、亮令芝言次可從權請裔。裔自至呉數年、流徙伏匿、權未之知也、故許芝遣裔。裔臨發、權乃引見、問裔曰:「蜀卓氏寡女、亡奔司馬相如、貴土風俗何以乃爾乎?」裔對曰:「愚以卓氏之寡女、猶賢於買臣之妻。」權又謂裔曰:「君還、必用事西朝、終不作田父於閭里也、將何以報我?」裔對曰:「裔負罪而歸、將委命有司。若蒙徼倖得全首領、五十八已前父母之年也、自此已後大王之賜也。」權言笑歡ス、有器裔之色。裔出閤、深悔不能陽愚、即便就船、倍道兼行。權果追之、裔已入永安界數十里、追者不能及。

 折しも先主が薨じ、諸葛亮がケ芝を遣って呉への使者としたが、諸葛亮はケ芝に、語るついでに孫権より張裔を請うよう命じた。張裔は呉に至ってより数年、流徙伏匿しており、孫権は未だに知らず、ゆえにケ芝に張裔を遣る事を許認した。張裔が進発するに臨んで孫権は引見し、張裔に問うには 「蜀の卓氏は寡女であり、司馬相如と亡奔したが、貴土の風俗はどうしてこの様なのか?」 張裔が対えるには 「愚考しますに、卓氏は寡女でしたが、猶お(呉の)朱買臣の妻より賢かったのです」 孫権が又た張裔に謂うには 「君が還ったら、必ず西朝の事に用(はたら)き、終には閭里の田父とはなるまい。さて、どうやって私に報いてくれる?」 張裔は対えて 「私は罪を負って帰り、有司に命を委ねようとしております。もし徼倖(僥倖)を蒙って首領(首頸)を全うする事ができたら、五十八歳以前は父母からの齢ですが、これより以後は大王から賜わったものです」 孫権は言笑歓悦し、張裔を器(人材)とする気色があった。張裔は殿閤を出ると愚者を陽(いつわ)らなかった事を深く悔い、即座にたちまち船に就き、倍道兼行した。孫権は果たしてこれを追ったが、張裔が已に永安の界内数十里に入っており、追者は及べなかった。

 既至蜀、丞相亮以為參軍、署府事、又領益州治中從事。亮出駐漢中、裔以射聲校尉領留府長吏、常稱曰:「公賞不遺遠、罰不阿近、爵不可以無功取、刑不可以貴勢免、此賢愚之所以僉忘其身者也。」其明年、北詣亮諮事、送者數百、車乘盈路、裔還書與所親曰:「近者渉道、晝夜接賓、不得寧息、人自敬丞相長史、男子張君嗣附之、疲倦欲死。」其談啁流速、皆此類也。少與犍為楊恭友善、恭早死、遺孤未數歳、裔迎留、與分屋而居、事恭母如母。恭之子息長大、為之娶婦、買田宅産業、使立門戸。撫恤故舊、振贍衰宗、行義甚至。加輔漢將軍、領長史如故。建興八年卒。子毣嗣、歴三郡守監軍。毣弟郁、太子中庶子。

 蜀に至ると、丞相諸葛亮は参軍とし、府事に署け、又た益州治中従事を兼領した。諸葛亮が漢中に出駐した時、張裔は射声校尉として留府長吏を兼領した。常に称えるには 「公は賞するに疎遠な者でも遺さず、罰するに近親者にも阿らず、爵は功無き者に取らせず、刑は貴勢でも免れさせぬ。これぞ賢愚とも僉(み)なその身を忘れる理由である」。その明年、北のかた諸葛亮に詣って事を諮ったが、送る者は数百人、車乗は路に盈ち、張裔が近親に与えた還書(返書)には 「近ごろの渉道では、昼夜とも賓客に接し寧息の暇を得られなかった。人は丞相長史として敬服するが、男子たる張君嗣は丞相の附属で、死にそうなほど疲倦している」。その談啁(戯話)の流速なこと皆なこの類いであった[1]
 若いとき犍為の楊恭と友善であり、楊恭が早くに死に、遺孤は未だ数歳ならず、張裔は迎え留めて家屋を分けて居住させ、楊恭の母に事えること実母のようだった。楊恭の子息が長大となると、この子の為に婦女を娶り、田宅を買って産業させ、門戸を立てさせた。故旧(旧知)を撫恤し、衰えた宗族に振贍(賑給)し、義を行なうこと至甚だった。
 輔漢将軍を加えられ、領長史は以前通りだった。建興八年(230)に卒した。子の張毣が嗣ぎ、三郡の太守・監軍を歴任した。張毣の弟の張郁は太子中庶子となった。

 張裔伝は上記のようにわりと無難にまとめられています。次の楊洪伝の一節とセットでお読みください。

[1] 裴松之が考えるに、談啁とは機捷を貴び、書疏は(慎重に)留意する事を要する。今、書疏の巧みさに因り、談啁の速さを著しているのは、道理に適っていない。
 

楊洪

 楊洪字季休、犍為武陽人也。劉璋時歴部諸郡。先主定蜀、太守李嚴命為功曹。嚴欲徙郡治舍、洪固諫不聽、遂辭功曹、請退。嚴欲薦洪於州、為蜀部從事。先主爭漢中、急書發兵、軍師將軍諸葛亮以問洪、洪曰:「漢中則益州咽喉、存亡之機會、若無漢中則無蜀矣、此家門之禍也。方今之事、男子當戰、女子當運、發兵何疑?」時蜀郡太守法正從先主北行、亮於是表洪領蜀郡太守、衆事皆辦、遂使即真。頃之、轉為益州治中從事。

 楊洪、字は季休。犍為武陽の人である。劉璋の時に郡の諸部を歴任した。劉備が蜀を定めると、太守李厳が功曹に任命した。李厳が郡治の庁舎を徙そうとした処、楊洪は固く諫めたものの聴かれず、かくて功曹を辞任して退官を請うた。李厳は州に楊洪を薦めようとし、蜀部従事とした。 劉備は漢中を争った際、急書にて兵を徴発させた。軍師将軍諸葛亮が楊洪に問うた処、楊洪は 「漢中は益州の咽喉に他ならず、(これは)存亡の機会であります。もし漢中が無くなれば蜀も無く、これは家門の禍であります。まさに現今の事は、男子は戦い、女子は運糧すべきで、兵の徴発をどうして懐疑するのですか?」 時に蜀郡太守法正は劉備の北行に従っており、諸葛亮はここに上表して楊洪に蜀郡太守を兼領させ、衆事は皆な辦(ととの)い、かくて真太守に即かせた。しばらくして、転じて益州治中従事となった。

 先主既稱尊號、征呉不克、還住永安。漢嘉太守黄元素為諸葛亮所不善、聞先主疾病、懼有後患、舉郡反、燒臨邛城。時亮東行省疾、成都單虚、是以元益無所憚。洪即啓太子、遣其親兵、使將軍陳曶・鄭綽討元。衆議以為元若不能圍成都、當由越雟據南中、洪曰:「元素性凶暴、無他恩信、何能辦此? 不過乘水東下、冀主上平安、面縛歸死;如其有異、奔呉求活耳。敕曶・綽但於南安峽口遮即便得矣。」曶・綽承洪言、果生獲元。洪建興元年賜爵關内侯、復為蜀郡太守・忠節將軍、後為越騎校尉、領郡如故。

 劉備は尊号を称した後、征呉して克たず、還って永安に駐まった。漢嘉太守黄元は素より諸葛亮とは善からず、先主の疾病を聞くと後患を懼れ、郡を挙げて反き、臨邛城(成都市邛崍)を焼いた。時に諸葛亮は東行して省疾(病気見舞い)しており、成都はひとえに空虚で、このため黄元は益々憚る事がなかった。楊洪はそこで太子に啓(もう)し、その親兵を遣り、将軍陳曶・鄭綽に黄元を討たせるようにと。衆議は、黄元がもし成都を攻囲できねば、越雟を経由して南中に拠るだろうと意見したが、楊洪は 「黄元の素性は凶暴で、他に恩信も無く、どうしてそのように辦(さば)けましょう? 水に乗じて東下したところで、冀(さいわい)にも主上が平安であれば、面縛して死に帰すだけのこと。異変があれば、呉に奔って活路を求めるだけでしょう。陳曶・鄭綽に命じ、ただ南安の峡口を遮るだけでたちまち(その身柄を)得られましょう」 陳曶・鄭綽は楊洪の言葉を承け、果たして黄元を生獲した。楊洪は建興元年(223)に爵関内侯を賜わり、復た蜀郡太守・忠節将軍となり、後に越騎校尉となったが、領郡はそれまで通りだった。

 五年、丞相亮北住漢中、欲用張裔為留府長史、問洪何如?洪對曰:「裔天姿明察、長於治劇、才誠堪之、然性不公平、恐不可專任、不如留向朗。朗情偽差少、裔隨從目下、效其器能、於事兩善。」初、裔少與洪親善。裔流放在呉、洪臨裔郡、裔子郁給郡吏、微過受罰、不特原假。裔後還聞之、深以為恨、與洪情好有損。及洪見亮出、至裔許、具説所言。裔答洪曰:「公留我了矣、明府不能止。」時人或疑洪意自欲作長史、或疑洪知裔自嫌、不願裔處要職、典後事也。後裔與司鹽校尉岑述不和、至于忿恨。亮與裔書曰:「君昔在(栢) 〔陌〕下、營壞、吾之用心、食不知味;後流迸南海、相為悲歎、寢不安席;及其來還、委付大任、同獎王室、自以為與君古之石交也。石交之道、舉讐以相益、割骨肉以相明、猶不相謝也、況吾但委意於元儉、而君不能忍邪?」論者由是明洪無私。

 五年(227)、丞相諸葛亮は北して漢中に駐まると、張裔を用いて留府長史にしようとし、楊洪にどうかと問うた。楊洪が対えるには 「張裔は天姿(天性)明察で、劇務を治める事に長けており、才幹はまことにこれに堪えられましょう。しかし性格が公平ではなく、恐らくは専任とはできますまい。向朗を留めるに越した事はありません。向朗は情偽(表裏)の差違が少なく、張裔を目下(督下)に随従させ、その器能を効させれば、事は両善であります」
嘗て、張裔は若いときに楊洪と親善だった。張裔が流放して呉に在った時、楊洪は張裔の郡に臨み、張裔の子の張郁が郡吏として給(つか)えていたが、微過から罰を受け、特別には原(ゆる)されなかった。張裔は後に還ってこれを聞くと深く恨み、楊洪との情好を損った。楊洪が諸葛亮に見(まみ)えて退出するに及び、張裔の許に至り、具さに言った事を説いた。張裔が楊洪に答えるには 「諸葛公は私を留めるに違いない。明府では止める事はできまい」。時人の或る者は、楊洪が長史になりたいのではないかと疑い、或る者は、楊洪は張裔が自分を嫌っている事を知り、張裔が要職に就いて後事を典領するのを願わなかったのだろうと疑った。
後に張裔は司塩校尉岑述と不和となり、忿恨を結ぶに至った。諸葛亮は張裔に与えた書簡で 「君が昔に陌下に在って(張飛に敗れて)営が壊れた時、私は用心(心配)して食べても味を知らない程だった。後に南海に流迸した時にも、悲歎して寝ても席に安んじなかった。来還するに及び、大任を委付して同じく王室の事に奨励し、自ら思うに君とは古えの金石の交わりがあると。金石の交わりとは、讐を挙げて益を共にし、骨肉を割いても(罪を)明らかにし、それでも互いには陳謝しないものだ。ましてや私はただ元倹に委意しただけであるのに、君は忍べないのか?」 論者はこれによって楊洪に私心がない事を明らかにした。

 洪少不好學問、而忠清款亮、憂公如家、事繼母至孝。六年卒官。始洪為李嚴功曹、嚴未〔去〕至犍為而洪已為蜀郡。洪迎門下書佐何祗、有才策功幹、舉郡吏、數年為廣漢太守、時洪亦尚在蜀郡。是以西土咸服諸葛亮能盡時人之器用也。

 楊洪は若いときは学問を好まず、しかし忠清款亮であり、公事を憂うことは家のようであり、継母に事えて至孝だった。六年(228)に官のまま卒した。
 始め楊洪は李厳の功曹であり、李厳が未だ去らずに犍為太守に至っていた時、楊洪は已に蜀郡太守となっていた。楊洪は門下書佐何祗を迎えると、才策功幹があるとして郡吏に挙げ、数年で広漢太守となった。時に楊洪も亦た尚おも蜀郡太守に在った。このため西土の人は咸な、諸葛亮が時人の才器と用(はたら)きを尽させたと感服した。[1]
[1] 朝会の毎に、何祗は楊洪の次に坐した。嘲(ふざけ)て何祗に 「君の馬はどうすれば駛(はし)る?」 何祗 「故吏の馬が駛ろうとしないのは、ただ明府が鞭を著けないからです」。人々はこれを伝えて笑い話とした。 (『益部耆旧伝雑記』)
―― 何祗、字は君粛。若いとき寒貧だったが、為人りはェ厚で通済(大成)しており、体躯は甚だ壮大だった。又た大いに飲食し、声色(音楽と女色)を好み、節倹に身持ちせず、ゆえに時人で貴ぶ者は少なかった。嘗て夢で井中に桒(桑)が生じ、占夢者の趙直に問うた処、趙直は 「桒とは井中の物ではなく、移植せねばなりません。桒の字は四つの十の下に八で、君の寿命は恐らくこれを越えますまい」 。何祗が笑って言うには 「これを得れば充分だ」。
 初め郡に仕え、後に督軍従事となった。時に諸葛亮は法を用いること峻密で、陰かに何祗の游戯が放縦で職に勤めないと聞き、嘗て奄(たちまち)に往って獄を調べた事があった。衆人は咸な何祗の為に懼れた。何祗は密かにこれを聞き、夜に燈火を張って囚人を見回り、諸々の解状(逮捕状)を読んだ。諸葛亮が明け方に往くと、何祗は悉くを已に闇誦しており、答対解釈は凝滞すること無く、諸葛亮は甚だこれを異とした。転出して成都令に補任された。時に郫県令が欠け、何祗に二県を兼ねさせた。二県の戸口は猥多であり、都治にとても近く、諸々の奸穢が饒かった。この人は常に眠睡していたが、覚寤した際にはそのたび奸詐を見抜いたので、人々は咸な何祗による発摘を畏れ、或る者は何らかの術を修めていると考え、欺こうとする者は無くなった。人に投算(計算)させ、何祗は読み上げるのを聴きつつ心中で計算して升合(合計)に差違は無く、精密さはこの通りだった。
 汶山の夷が安んじなかったので、何祗を汶山太守とした処、民夷は信じ服した。広漢太守に遷った。後に夷は反叛すると、辞述するには 「前の何府君を得させてくれれば、我らを安んじる事ができよう!」 時に再び何祗を屈行させるのは困難で、何祗の族人を抜擢して行かせた処、汶山は復た安定した。何祗は転じて犍為太守となった。齢四十八で卒し、趙直の言葉通りだった。
 後に広漢の王離、字は伯元という者があり、亦た才幹によって顕れた。督軍従事となり、法を推して公平に当り、ようよう遷って何祗に代って犍為太守となった。統治には美績があり、聡明さでは何祗に及ばなかったとはいえ、文辞の彩は何祗を凌いだ。
 

費詩

 費詩字公舉、犍為南安人也。劉璋時為緜竹令、先主攻緜竹時、詩先舉城降。成都既定、先主領益州牧、以詩為督軍從事、出為牂牁太守、還為州前部司馬。先主為漢中王、遣詩拜關羽為前將軍、羽聞黄忠為後將軍、羽怒曰:「大丈夫終不與老兵同列!」不肯受拜。詩謂羽曰:「夫立王業者、所用非一。昔蕭・曹與高祖少小親舊、而陳・韓亡命後至、論其班列、韓最居上、未聞蕭・曹以此為怨。今漢王以一時之功、隆崇於漢升、然意之輕重、寧當與君侯齊乎!且王與君侯、譬猶一體、同休等戚、禍福共之、愚為君侯、不宜計官號之高下、爵祿之多少為意也。僕一介之使、銜命之人、君侯不受拜、如是便還、但相為惜此舉動、恐有後悔耳!」羽大感悟、遽即受拜。

 費詩、字は公挙。犍為南安の人である。劉璋の時に緜竹令となり、劉備が緜竹を攻めた時、費詩は先んじて城を挙げて降った。成都が定まると劉備は益州牧を兼領し、費詩を督軍従事とし、転出して牂牁太守となり、還って州の前部司馬となった。劉備が漢中王になった時、費詩を遣って関羽を拝して前将軍とした。関羽は黄忠が後将軍になったと聞いた。関羽は怒って 「大丈夫たる者、終には老兵とは同列にはならぬぞ!」 拝命を受ける事を肯んじなかった。費詩が関羽に謂うには

「そも王業を立てるとは、用いるのは一人ではありません。昔、蕭何・曹参は高祖と少小からの親旧でしたが、陳平・韓信が亡命して至った後、その班列を論じて韓信が最上に居りましたが、未だ蕭何・曹参がこれによって怨んだとは聞いておりません。今、漢王は一時の功から黄漢升を隆崇しておりますが、その意中の軽重をどうして君侯と斉しくしておりましょうか! しかも王と君侯とは、譬えるなら猶おも一体であり、同休等戚(同歓共憂)し、禍福を共にしております。君侯の為に愚考するに、官号の高下・爵禄の多少を計って意識するのは宜しくありません。僕は一介の使者として命を銜(たばさ)む人であり、君侯が受拝しなければただちに還るだけです。ただこの挙動を惜しみ、後悔するであろう事を恐れるだけです!」

関羽は大いに感悟し、遽即(即座)に受拝した。

 後羣臣議欲推漢中王稱尊號、詩上疏曰:「殿下以曹操父子偪主簒位、故乃羇旅萬里、糾合士衆、將以討賊。今大敵未克、而先自立、恐人心疑惑。昔高祖與楚約、先破秦者王。及屠咸陽、獲子嬰、猶懷推讓、況今殿下未出門庭、便欲自立邪! 愚臣誠不為殿下取也。」由是忤指、左遷部永昌從事。建興三年、隨諸葛亮南行、歸至漢陽縣、降人李鴻來詣亮、亮見鴻、時蔣琬與詩在坐。鴻曰:「濶゚孟達許、適見王沖從南來、言往者達之去就、明公切齒、欲誅達妻子、ョ先主不聽耳。達曰:『諸葛亮見顧有本末、終不爾也。』盡不信沖言、委仰明公、無復已已。」亮謂琬・詩曰:「還都當有書與子度相聞。」詩進曰:「孟達小子、昔事振威不忠、後又背叛先主、反覆之人、何足與書邪!」亮默然不答。亮欲誘達以為外援、竟與達書曰:「往年南征、歳〔末乃〕還、適與李鴻會於漢陽、承知消息、慨然永嘆、以存足下平素之志、豈徒空託名榮、貴為乖離乎!嗚呼孟子、斯實劉封侵陵足下、以傷先主待士之義。又鴻道王沖造作虚語、云足下量度吾心、不受沖説。尋表明之言、追平生之好、依依東望、故遣有書。」達得亮書、數相交通、辭欲叛魏。魏遣司馬宣王征之、即斬滅達。亮亦以達無款誠之心、故不救助也。蔣琬秉政、以詩為諫議大夫、卒於家。

 後に群臣が漢中王を推して尊号を称させようと議した時、費詩が上疏するには 「殿下は曹操父子が主上に偪って簒位した事から万里の地に羇旅(客居)し、士衆を糾合し、賊を討とうとしております。今、大敵に未だ克たず、先んじて自ら立たれては、恐らくは人心が疑惑しましょう。昔、高祖は楚と約盟し、先んじて楚を破った者が王であると。咸陽を屠り、子嬰を獲るに及び、猶お推譲を懐きました。ましてや今、殿下は未だに門庭(巴蜀)を出ず、たちまちに自ら立とうとされんとは! 愚臣はまことに殿下の取るべき途ではないと考えます」 これによって旨に忤い、部永昌従事に左遷された[1]
 建興三年(225)、諸葛亮の南行に随い、帰りに漢陽県(宜賓市高県)に至った時、降人の李鴻が来て諸葛亮に詣った。諸葛亮は李鴻を通見したが、時に蔣琬と費詩も坐に在った。李鴻 「さきごろ孟達の許で、たまたま王沖が南より来て見(まみ)え、かの者が言うには、“孟達の去就に明公は切歯し、孟達の妻子を誅しようとしたが、先主によって聴かれなかった”と。孟達は“諸葛亮の見顧(識見)には本末(条理)があり、爾の言葉は信用できない”として王沖の言葉を全く信用せず、明公を委仰して、復た已に(信頼を)已えてはおりませんでした」 諸葛亮が蔣琬・費詩に謂うには 「還都したなら書状で孟子度と相聞(連絡)しよう」と。費詩が進言するには 「孟達は小子です。昔に振威将軍(劉璋)に事えて不忠であり、後に又た先主に背叛しました。反覆の人であり、どうして書簡を与える価値がありましょうか!」 諸葛亮は黙然として答えなかった。
諸葛亮は孟達を誘って外援にしようとし、竟に孟達に書簡を与えて 「往年に南征し、歳末に還り、たまたま李鴻と漢陽で会った折、消息を承知し、慨然として永らく嘆じ、足下の平素の志を存じ上げました。どうして徒らに空しく栄名を託し、(当方との)乖離を貴しとされるのか! 嗚呼、孟子よ、実際には劉封が足下を侵陵した事で、先主は待士の義を傷ったのだ。又た李鴻は、王沖が虚語を造作した際、足下が私の心を量度(忖度)し、王沖の説く事を受けなかったと云っている。表明した言葉を尋ね、平生の好誼を追って依依として東を望み、ゆえに書簡を遣るものです」。孟達は諸葛亮の書簡を得ると、しばしば相い交通し、魏に叛こうと辞述した。魏は司馬懿を遣って征伐させ、たちまち孟達を斬滅した。諸葛亮も亦た孟達に款誠の心が無いと考え、ゆえに救助しなかった。
 蔣琬が秉政すると、費詩を諫議大夫とした。家で卒した。
[1] 習鑿歯曰く、そも創本(創業)の君とは、大いに定めた後に己れを正さねばならず、纂統の主とは、速やかに建てて衆心を繋がねばならない。これゆえに晋恵公が朝に虜となると夕には子の圉が立ち[※]、更始帝が尚お生存したのに光武帝は尊号を挙げたのだ。

※ 恵公は韓原の役で秦軍に敗れて捕虜とされましたが、外交によって帰国しています。圉が即位したのは恵公が病死した直後の事です。

そもどうして主を忘れ利を幸いとするのか。社稷の為である。今、先主は義兵を糾合し、賊を討とうとしていた。賊は彊く禍は大きく、主上は歿して国は喪われ、二祖の廟は絶えて祀られておらず、苟くも親賢(親族の賢者)でなければ誰が継承できようか? 祖を嗣ぎ天に配(なら)ぶというのに咸陽の譬えなどひいてはならず、正しきに仗り逆を討つのにどうして推譲する必要があろうか? この時に於いて、速やかに有徳の人を尊んで大統を奉じ、民を欣然として正しきに反らせ、世に旧典を観せ、順に仗る者の心を斉しくし、逆に附す者を懼れさせる事を知らなかったとは、闇惑であると謂ってよかろう。黜降(左遷)されたのは妥当である!
―― 裴松之が考えるに、習鑿歯の論議では、惟だこの論だけが最も善い。

 王沖者、廣漢人也。為牙門將、統屬江州督李嚴。為嚴所疾、懼罪降魏。魏以沖為樂陵太守。

 王沖とは広漢の人である。牙門将軍となり、江州督李厳に統属した。李厳に疾(にく)まれ、罪を懼れて魏に降った。魏は王沖を楽陵太守とした[2]
[2] 費詩の子の費立は晋の散騎常侍である。これより後、益州の諸々の費氏で名位のあった者は、多くが費詩の後裔である。 (孫盛『蜀世譜』)
 

 評曰:霍峻孤城不傾、王連固節不移、向朗好學不倦、張裔膚敏應機、楊洪乃心忠公、費詩率意而言、皆有可紀焉。以先主之廣濟、諸葛之準繩、詩吐直言、猶用陵遲、況庸后乎哉!

 評に曰く:霍峻は孤城で傾かず、王連は節を固守して移らず、向朗は好学にして倦まず、張裔は膚敏(雅才明敏)にして臨機応変で、楊洪の心は忠にして公正であり、費詩は意のままに発言した。皆な紀(しる)されるに相応しかった。先主の広済(広い度量)と諸葛亮の準繩(規範的な態度)を以てしても、費詩は直言を吐いた為に猶お陵遅された。ましてや凡庸な后(きみ)では尚更ではないか!

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