三國志修正計画

三國志卷三十七 蜀志七/龐統法正傳

龐統

 龐統字士元、襄陽人也。少時樸鈍、未有識者。潁川司馬徽清雅有知人鑒、統弱冠往見徽、徽採桑於樹上、坐統在樹下、共語自晝至夜。徽甚異之、稱統當南州士之冠冕、由是漸顯。後郡命為功曹。性好人倫、勤於長養。毎所稱述、多過其才、時人怪而問之、統答曰:「當今天下大亂、雅道陵遲、善人少而惡人多。方欲興風俗、長道業、不美其譚即聲名不足慕企、不足慕企而為善者少矣。今拔十失五、猶得其半、而可以崇邁世教、使有志者自勵、不亦可乎?」

 龐統、字は士元。襄陽の人である。若い時は樸鈍で、未だ識る者は無かった。潁川の司馬徽は清雅にして人を知る鑑識眼があり、龐統は弱冠にして往って司馬徽に見(まみ)えた時、司馬徽は樹上で桑を採っており、龐統は坐して樹下に在り、共に語らって昼より夜に至った。司馬徽は甚だこれを異とし、龐統は南州の士人の冠冕(首座)になるだろうと称え、これによって漸く顕れた[1]。後に(南陽)郡の命令で功曹となった。

 布衣からいきなり郡の功曹・主簿・上計に就くのは、名族出身者や名士のお約束です。

性は人倫を好み、年長者の撫養に勤めた。毎(つね)に称述する場合は多くがその人の才を越えたもので、時人が怪訝に思って問うた処、龐統が答えるには:
「まさに今、天下は大いに乱れており、雅道は陵遅(漸衰)し、善人は少なく悪人は多い。まさに風俗を再興し、道業(人倫の行為)を成長させようとするなら、その譚(話)を美(かざ)らなければ声名は慕企(仰慕)するには足りず、慕企するに足りなければ善を為す者は少なくなりましょう。今、十人を挙抜して五人に失策しても、猶おその半ばを得た事になり、そうして世の教化を崇邁(推進)し、志ある者を奮励させられるのです。それも良いのではありませんか?」 。

呉將周瑜助先主取荊州、因領南郡太守。瑜卒、統送喪至呉、呉人多聞其名。及當西還、並會昌門、陸勣・顧劭・全j皆往。統曰:「陸子可謂駑馬有逸足之力、顧子可謂駑牛能負重致遠也。」謂全j曰:「卿好施慕名、有似汝南樊子昭。雖智力不多、亦一時之佳也。」績・劭謂統曰:「使天下太平、當與卿共料四海之士。」深與統相結而還。

 呉将の周瑜は劉備が荊州を取るのを助け、それによって南郡太守を兼領した。周瑜が卒し、龐統が喪を送って呉に至った処、呉人の多くがその名を聞いており、西に還るに際しては揃って昌門(正門)に会同し、陸績・顧劭・全jらも皆な往った。龐統曰く、「陸子は駑馬と謂ってよかろう。逸足の力を持っている。顧子は駑牛と謂ってよかろう。重きを負って遠くに来致できる」 と[2]。全jに謂うには、「卿は施しを好んで名声を慕っており、汝南の樊子昭に似ている点がある[3]。智力は多くはないとはいえ、亦た一時の佳人である」 と。陸績・顧劭が龐統に謂うには 「天下を太平にさせたら、卿と共に四海の士を料りましょうぞ」 と。深く龐統と相い結んでから還った。

 龐統がいつ周瑜の幕僚になったのかは不明ですが、それ以前に 「郡命為功曹」 とあるので、恐らく周瑜が南郡を陥した時に引き続き功曹として従ったのではないでしょうか。それに 「周瑜の喪を送って呉に至った」 とある以上、周瑜がいたく信頼した幕僚だったと見るべきです。呉で龐統を迎えた面々は名門の新進の若手連で、荊州の名士と江東の名士の交流を示すものではありますが、周瑜の在任期間がせいぜい1年前後だったのを考えると些か違和感のある濃さです。おそらく龐統は劉表時代から江東の名士連と交流していて、だからこそ彼らと冗談を言い合える程の仲になっていたんでしょう。呉志で龐統の名を捜した処、残念ながら陸績伝に 「虞翻旧齢名盛、龐統荊州令士、齢亦差長、皆与績友善。」 とあるだけでしたが、呉人との交際の濃さは察せられます。勿論、孫権が龐統を顔で判断したという話は載っておらず、そもそも『三國志』では龐統の為人りを 「樸鈍」 とは表現していても容姿には言及が無いので、顔判断の逸話は曹操が張松を顔で判断した話からの創作でしょう。
 ちなみに呉郡の若手名士ランキングを参照すると、陸績と顧劭が双璧で、陸遜・張敦・卜静・吾粲がそれに亜ぎ、全jは更にその下のようです。

 先主領荊州、統以從事守耒陽令、在縣不治、免官。呉將魯肅遺先主書曰:「龐士元非百里才也、使處治中・別駕之任、始當展其驥足耳。」諸葛亮亦言之於先主、先主見與善譚、大器之、以為治中從事。親待亞於諸葛亮、遂與亮並為軍師中郎將。亮留鎮荊州。統隨從入蜀。

 劉備が荊州を兼領すると、龐統は従事として耒陽令を守(か)ねたが、県に在っても治めず、免官された。呉将の魯粛が劉備に書を遺(おく)って曰く 「龐士元は百里四方の才ではありません。治中・別駕の任に処(お)らせれば始めてその驥足(駿足)を展べるのです」 と。諸葛亮も亦たこれを劉備に言い、劉備は通見して与に善く譚(かた)らい、これを大器として治中従事とした[4]。親しく待遇すること諸葛亮に亜ぎ、かくて諸葛亮と並んで軍師中郎将となった[5]。諸葛亮は留まって荊州を鎮め、龐統は入蜀に随従した。

 ここまで、龐統が劉備に認められた状況は述べられていますが、そもそも劉備に従った経緯が不明です。これは異例の事で、又た唐突に魯粛が出てきて塩を贈るような不自然さがあり、穿った見方をすれば、その動静に信用の置けない傭兵隊長/劉備の監視を兼ねて、魯粛が送り込んだ客員参謀ではないかと思えなくもありません。劉備の伐蜀で呉将が同行した事実もあり、龐統の去就もそうした一環ではないでしょうか。

 益州牧劉璋與先主會涪、統進策曰:「今因此會、便可執之、則將軍無用兵之勞而坐定一州也。」先主曰:「初入他國、恩信未著、此不可也。」璋既還成都、先主當為璋北征漢中、統復説曰:「陰選精兵、晝夜兼道、徑襲成都;璋既不武、又素無預備、大軍卒至、一舉便定、此上計也。楊懷・高沛、璋之名將、各仗彊兵、據守關頭、聞數有牋諫璋、使發遣將軍還荊州。將軍未至、遣與相聞、説荊州有急、欲還救之、並使裝束、外作歸形;此二子既服將軍英名、又喜將軍之去、計必乘輕騎來見、將軍因此執之、進取其兵、乃向成都、此中計也。退還白帝、連引荊州、徐還圖之、此下計也。若沈吟不去、將致大因、不可久矣。」先主然其中計、即斬懷・沛、還向成都、所過輒克。於涪大會、置酒作樂、謂統曰:「今日之會、可謂樂矣。」 統曰:「伐人之國而以為歡、非仁者之兵也。」先主醉、怒曰:「武王伐紂、前歌後舞、非仁者邪?卿言不當、宜速起出!」於是統逡巡引退。先主尋悔、請還。統復故位、初不顧謝、飲食自若。先主謂曰:「向者之論、阿誰為失?」統對曰:「君臣倶失。」先主大笑、宴樂如初。

 益州牧劉璋と劉備とが涪(綿陽市区)で会同すると、龐統が策を進言するには 「今、この宴会に乗じてただちにこれを執えるのです。そうすれば将軍は兵を用いる労をせずに坐して一州を定められましょう」 と。劉備 「他国に入ったばかりで、恩信も著していない。それはだめだ」 。
劉璋が成都に還ると、劉備は劉璋の為に北のかた漢中を征伐する事となった。龐統が復た説くには:

「陰かに精兵を選び、昼夜兼道で径(ただ)ちに成都を襲うのです。劉璋は武勇の人ではなく、又た素より予め備えておらず、大軍でたちまち至れば一挙動で定められます。これぞ上計です。楊懐・高沛は劉璋の名将(名を知られた将)で、各々が彊兵に仗り、(白水の)関頭に拠って守っております。聞けば、しばしば牋で劉璋を諫めるには、将軍を発遣して荊州に還らせようとしているとか。将軍は(成都に)至る前に遣使して(彼らと)相聞し、荊州に危急があるので還って救いたいと説き、併せて(軍兵に)裝束させ、外見上は帰還の形を作すのです。この二子は将軍の英明に威服しており、又た将軍が去るのを喜び、計るに必ず軽騎に乗って来見しましょう。将軍はこれに乗じてこれを執え、進んでその兵を取ってから成都に向うのです。これが中計です。白帝城に退還し、連けて荊州に引き揚げ、徐々に還りつつこれを図る。これが下計です。もし沈吟(懊悩)して去らねば、大因(災禍)を招致しましょう。これを久しくしてはなりません」 。

劉備はその中計に納得し、即座に楊懐・高沛を斬り、成都に還向して過ぎる所ではそのつど克った。

 『演義』系によれば、劉備が劉璋を急襲しなかったのは恩愛ゆえで、劉備を仁君とする格好の素材となっています。正史ベースの劉備は打算で行動していて、一見仁者らしく振舞った荊州退去にもキチンと打算がありました。結局は益州を征服するのに、ここで仁だ何だと駄々るのは不自然で、龐統の勧めが孫呉の利を第一に考えているのを看破したからこそ抵抗したと考える方がスッキリします。龐統にしてみれば、益州攻めを成功させたいけれども劉備の支配が安定するのは困るので、その評判を貶めておきたい。劉璋急襲をしつこく奨めたのはその為で、急進派の法正と結論は同じでも事情が異なっています。劉備としては騙し討ちにすると評判が急落するから龐統の進言に抵抗している訳で、本来なら張松らの輿論操作がもっと進んでから事を起したかったことでしょう。

涪で大いに会同して置酒作楽した時、龐統に謂うには 「今日の宴会は、楽しいものだ」 と。龐統 「人の国を伐って歓びとするのは、仁者の兵事ではございません」 。劉備は酔っており、怒って 「武王が紂王を伐つと、前で舞い後ろで歌う者がいたが、仁者ではないのか? 卿の言葉は不適当だ。さっさと起って出ていけ!」 。ここに龐統は逡巡(後ずさり)しつつ退出した。劉備は尋いで悔い、還る事を請うた。龐統は復たもとの席位に就いたが、初めのうちは顧謝せずに自若として飲食していた。劉備が謂うには 「先ほどの論は、誰が過失したのか?」 と。龐統は対えて 「君臣倶に過失したのです」 。劉備は大いに笑い、宴を楽しむこと初めの通りだった[6]

 「先主大笑、宴楽如初」 で如何にも両者が和解したように書いてますが、龐統は仁を理由にこちらの案を却けながら勝宴を楽しんでいる事をチクチク刺したのであり、劉備の態度は 「オレは悪くないも〜ん」 を態度で示しているようなものです。龐統も結局は頭を下げてません。つまり、そういう関係です。

 進圍雒縣、統率衆攻城、為流矢所中、卒、時年三十六。先主痛惜、言則流涕。拜統父議郎、遷諫議大夫、諸葛亮親為之拜。追賜統爵關内侯、諡曰靖侯。統子宏、字巨師、剛簡有臧否、輕傲尚書令陳祗、為祗所抑、卒於涪陵太守。統弟林、以荊州治中從事參鎮北將軍黄權征呉、値軍敗、隨權入魏、魏封列侯、至鉅鹿太守。

 進んで(広漢郡治の)雒県(徳陽市広漢)を攻囲した折、龐統は軍兵を率いて城を攻め、流矢に中てられて卒した。時に齢三十六だった。劉備は痛惜し、言えば流涕した。龐統の父を議郎に拝し、諫議大夫に遷し、諸葛亮が親しく拝授した。龐統に爵関内侯を追賜し、靖侯と諡した。龐統の子の龐宏は字を巨師といい、剛直簡素で臧否(人物評)の言葉があり、尚書令陳祗を軽傲(軽侮)し、陳祗によって抑制され、涪陵太守で卒した。龐統の弟の龐林は、荊州治中従事として鎮北将軍黄権の征呉に参与し、軍の敗績に遭遇すると黄権の入魏に随い、魏で列侯に封じられて鉅鹿太守に至った[7]
 
 『江表伝』にしろ『九州春秋』にしろ、龐統が蜀臣として死んだ事が確定事項となった後に書かれたものなので、その中での発言や会話はアテにできません。故に龐統伝も亦た呉志同様に陳寿本文だけで読むべきですが、陳寿自体が龐統を蜀臣として描いているので、まさに 「混ぜるな危険・取扱注意」 の付箋が必要です。陳寿ら蜀人にしてみれば、劉備の征蜀は劉備が単独で達成した功業にしておきたい事であり、後世の人間にしてみれば、荊州の名士の人間関係を描く上で龐徳公を軸にするよりも、諸葛亮=黄家ラインを主流とした方が納得し易いものです。そこで、諸葛亮と姻戚でもある龐統が劉備の幕僚であるという図は、至極当然に受け容れ易いものとなった事でしょう。又た孫権との繋がりが微塵も確かめられないので、龐統の直接の雇用主は、あのプロデューサー魯粛なのでしょう
 例えば劉備に対する不遜の言動も、劉備の直臣ではなくて孫呉からの客員参謀なら納得できなくはありません。又た劉備が益州征服に孫権が本腰を入れ始めたと知った時点で龐統を激戦の前線に送り出し、同時に白帝まで出張ってきた呂岱らに偽情報を流して撤収させ、その後に自軍の将兵を大量に投入して 「独力で益州を征服したから功績も独占が当然」 という状況を作り出そうとしたと考えられなくもありません。
 ともあれ、龐統の死によって劉備は荊州から主力を呼び寄せ、益州征服を本格的に開始します。軍師/龐統の欠を埋めるには諸葛亮・張飛・趙雲ら古参の多くを投入する必要があったというより、ようやく古参を投入できるようになった、と解釈するのは勘繰りすぎでしょうか。
   
[1] 諸葛孔明を臥龍とし、龐士元を鳳雛とし、司馬徳操を水鏡としたのは、皆な龐徳公の言葉である。龐徳公は襄陽の人である。孔明がその家に至る毎、独り牀下に拝したが、龐徳公は初めのうちはそれを止めなかった。司馬徳操が嘗て龐徳公を訪れた時、たまたま沔水を渡って先人の墓を祀に行っていたが、司馬徳操はまっすぐその部屋に入り、龐徳公の妻子を呼んで速やかに黍を炊かせ、「徐元直が向(さき)に云った筈。“私を訪れ、龐公と譚(かた)りに来る客がある”と」 。その妻子は皆な堂下に羅列して拝し、奔走して供応の席を設けた。須臾にして龐徳公は還り、直ちに入室して訪れたが、この客が何者であるか知らなかった。司馬徳操は龐徳公の十歳年小であり、これに兄事して龐公と呼ばわり、ゆえに世人はかくて龐公が龐徳公の名だと謂(かんが)えたのだが、そうではない。龐徳公の子の龐山民も亦た令名があり、諸葛孔明の小姊(小姉)を娶り、魏の黄門吏部郎となったが、早くに卒した。その子の龐渙の字は世文で、晋の太康中(280〜89)に牂牁太守となった。
 龐統は龐徳公の従子(おい)で、若いときは識る者が無く、ただ龐徳公のみがこれを重んじ、齢十八のとき司馬徳操にまみえさせるべく往かせた。司馬徳操は与に語らうと歎息して 「龐徳公はまことに人物を知っている。この者は実に徳が盛んである」 と。 (『襄陽記』)

 当時の江北荊州の豪族社会での実力者は蔡氏・蒯氏ですが、名士社会では龐徳公の存在が極めて重かった事が窺われる逸話でした。謂ってみれば荊州の郭泰・許子将といった感じで。その発言力が重かったからこそ司馬徽は押し掛けたわけで、曹操が許子将に逼り、孔融が李膺をたばかったのと主旨は同じです。荊州の名士社会は龐家が軸、というのは見落としがちですが重要で、何かと比較される諸葛亮と龐統も、家格の上では龐統が圧倒的に上です。

[2] 或る者が龐統に問うには 「目(品評)する所、陸子を勝っているとされるか?」 と。龐統曰く 「駑馬は精英であっても運ぶのは一人だけです。駑牛は一日に三百里を行くが、運ぶのはどうして一人の重さだけでしょう!」 。顧劭は龐統を訪れて宿った折、会話のついでに問うには 「卿は人を知る事を名声としておりますが、私と卿とでは孰れが愈(まさ)っておりましょう?」 と。龐統曰く、「世俗を陶冶し、人物を甄綜(鑑定)するのは、私は卿には及ばない。帝王の秘策を論じ、倚伏(因果)の要の最たる部分を攬(と)るのは、私に一日の長があるようです」 と。顧劭はその言葉に納得して親交した。 (張勃『呉録』)

 下線部、原文では 「吾似有一日之長」 。なんか琴線に響く表現でした。

[3] 許子将の褒貶は、樊子昭を抜揚して許文休を抑貶した事からも不公平である。劉曄曰く 「樊子昭は賈豎(商人)より抜挙され、齢が耳順(六十歳)に至ると退いては静謐を守り、進むにも苟(おろそ)かにせずにいられた」 と。蔣済が答えるには 「樊子昭はまことに長じるまで潔癖を完うしたが、その歯牙を臿(臼づ)き、樹頬胲、吐唇吻(口角泡飛ばす)の様を観るに、自ずと許文休には敵わぬ」 (蔣済『万機論』)
[4] 劉備は龐統と寛いで宴語した時に問うには 「卿は周公瑾の功曹だった折、孤が呉に到った時、聞けばこの人は密かに建白し、仲謀に私を留めるよう勧めたとか。そのような事があったのか? 君主が在れば君主の為にするもの。卿よ、隠さないでくれ」 と。龐統が対えるには 「ありました」 。劉備は歎息しつつ 「孤は時に危急であり、まさに求める事があったので往かぬわけにはいかなかったのだ。ほぼ周瑜の手を免れぬところであった! 天下の智謀の士の予見とはほぼ同じである。あのとき孔明は孤に行かぬよう諫め、その意志が独り篤かったのも亦たこれを憂慮したのだ。孤は仲謀が防禦として北を意識し、孤の援けを頼むと考えたから意を決して疑わなかったのだ。これはまことに危険の途に出たもので、万全の計ではなかった」 。 (『江表伝』)
[5] 龐統が劉備に説くには 「荊州は荒残し、人物は殫尽(払底)し、東には呉孫があり、北には曹氏があり、鼎足の計は志を得難い状況です。今、益州の国は富み民は彊く、戸口は百万、四部隊の兵馬は出来の際には必ず具わり、宝貨を外部に求める必要もありません。今、権謀によって借りて大事を定めるのです」 と。劉備 「今、私と水火の関係なのは曹操である。曹操が急を以てすれば私はェを以てし、曹操が暴を以てすれば私は仁を以てし、曹操が譎を以てすれば私は誠を以てする。事毎に曹操に反してこそ大事は成就できるのだ。今、小事の行ないを以て天下に信義を失うのは、私の取る道ではない」 。龐統 「権変の時には、一方針で定める事ができぬものです。弱きを兼併して蒙昧を攻めるのは春秋五伯の方策です。(道義に)逆らって取ったのち順って守り、これに報いるに義を以てし、大事が定まったのち大国に封じれば、どうして信義に背いたことになりましょう? 今日取らねば、終には人に利するだけですぞ」 。劉備はかくて行なった。 (『九州春秋』)
[6] 習鑿歯曰く、霸・王とは、必ず仁・義を体現する事を根本とし、信・順に仗る事を宗とし、一物でも具えなければその道から乖離するものである。今、劉備は劉璋の土地を襲奪し、権宜によって事業を遂げたが、信に背き情に違え、徳・義を倶に愆(あやま)つもので、功業がこれによって隆んになったとはいえ、大いにその敗徳を傷むのが妥当であり、譬えるなら手を断って体躯を全うするようなもので、どうして楽しめようか? 龐統はこの言葉が泄宣(世に漏洩)するのを懼れ、その君主が必ず悔悟するのを知っていたからこそ、衆人の中でその過失を匡したのに、(劉備が悔悟しても)常謙の道を修めず、矯然(傲然)たること甚だしく、その蹇諤(不遜の直言)の風を尽くした。そも上が過失しても正せるのは臣道があるからで、(相手の)勝ちを納れて(我意に)執着しないのは、道理に従うからである。臣道があるからこそ陛は隆く堂は高く、道理に従うからこそ群策は畢(ことごと)く挙げられるのだ。一言で三善を顕明にし、暫時の諫言で義を百代まで彰かにするのは、大体(本質)の道に達していると謂ってよかろう。小失を惜しんで大益を廃し、この過失の言葉を矜(ほこ)り、自ら遠讜(遠謀の直言)を絶つような者で、事業を成就させて責務を遂げた者など未だいないのである。
―― 裴松之が考えるに、劉璋襲撃の謀りごとは、計画が龐統から出たとはいえ、道義に違えて功を成したもので、もとより詭道に由来する。内心で疚しければ歓情は自ずと戢(や)むもので、ゆえに劉備が楽しいと称した言葉を聞き、不覚にも率爾(だしぬけ)に対えたのである。劉備の宴酣は時宜を失したもので、事は禍を楽しむのと同じで、自らを武王に比して慙愧の色が無く、これは劉備に非があって龐統に過失は無い。「君臣倶失」 と云ったのは、恐らくは(世の)誹謗の言葉を分担しようとしたのであろう。習氏の論は大旨は乖離していないとはいえ、推演(推断からの普遍論)の辞は流宕(極端)に近いものである。
[7] 龐林の婦人は、同郡の習禎の・である。習禎の事は楊戯の『輔臣賛』にある。曹操が荊州を破った事で龐林の婦人は龐林と分け隔てられ、弱女(幼女)を守養すること十有余年。後に龐林が黄権に随って魏に降ると、始めて復た集聚した。魏文帝は聞くとこれを賢婦とし、牀・帳・衣服を下賜してその義節を顕彰した。 (『襄陽記』)
 

法正

 法正字孝直、扶風郿人也。祖父真、有清節高名。建安初、天下饑荒、正與同郡孟達倶入蜀依劉璋、久之為新都令、後召署軍議校尉。既不任用、又為其州邑倶僑客者所謗無行、志意不得。益州別駕張松與正相善、忖璋不足與有為、常竊歎息。松於荊州見曹公還、勸璋絶曹公而自結先主。璋曰:「誰可使者?」松乃舉正、正辭讓、不得已而往。正既還、為松稱説先主有雄略、密謀協規、願共戴奉、而未有縁。後因璋聞曹公欲遣將征張魯之有懼心也、松遂説璋宜迎先主、使之討魯、復令正銜命。正既宣旨、陰獻策於先主曰:「以明將軍之英才、乘劉牧之懦弱;張松、州之股肱、以響應於内;然後資益州之殷富、馮天府之險阻、以此成業、猶反掌也。」先主然之、泝江而西、與璋會涪。北至葭萌、南還取璋。

 法正、字は孝直。扶風郿の人である。祖父の法真は清節としての高名があった[1]。建安の初、天下が饑荒すると、法正は同郡の孟達と倶に入蜀して劉璋に依り、久しくして新都令となり、後に召されて軍議校尉に署いた。任用されず、又たその州邑人で倶に僑客となっていた者に節行の無さを誹謗され、志意を得なかった。益州別駕張松は法正と親善で、劉璋が与に為すには不足していると忖度し、常に竊かに歎息していた。張松は荊州で曹操に通見して還ると、劉璋に勧めるには 「曹操と絶交して劉備に結ぶように」 と。劉璋曰く 「誰を使者とすべきか?」 と。張松はかくして法正を挙げ、法正は辞譲したものの已むを得ずに往った。法正は還ると、張松の為に劉備には雄略があると称え説き、密かに謀って協規し、願わくば共に戴奉せんとしたが、未だに縁が無かった。後に曹操が将を遣って張魯を征伐しようとしていると聞いた劉璋が心に懼れたのに乗じ、張松はかくて劉璋に説くには、劉備を迎えて張魯を討たせるのが宜しく、復た法正に命令を銜ませるようにと。法正は(劉備に)旨を宣べると、陰かに劉備に献策するには 「明将軍の英才を以て、劉牧の懦弱に乗じるのです。張松は州の股肱であり、内部から響応しましょう。然る後に益州の殷富を資とし、天府の険阻に馮(よ)るのです。これによって事業を成すのは、猶お掌を反すようなものです」 と。劉備はこれに納得し、泝江(溯江)して西行し、劉璋と涪で会同した。北のかた葭萌(広元市元壩区)に至り、南に還って劉璋を取った。

 鄭度説璋曰:「左將軍縣軍襲我、兵不滿萬、士衆未附、野穀是資、軍無輜重。其計莫若盡驅巴西・梓潼民内涪水以西、其倉廩野穀、一皆燒除、高壘深溝、靜以待之。彼至、請戰、勿許、久無所資、不過百日、必將自走。走而撃之、則必禽耳。」先主聞而惡之、以問正。正曰:「終不能用、無可憂也。」璋果如正言、謂其羣下曰:「吾聞拒敵以安民、未聞動民以避敵也。」於是黜度、不用其計。及軍圍雒城、正牋與璋曰:「正受任無術、盟好違損、懼左右不明本末、必並歸咎、蒙恥沒身、辱及執事、是以損身於外、不敢反命。恐聖聽穢惡其聲、故中間不有牋敬、顧念宿遇、瞻望悢悢。然惟前後披露腹心、自從始初以至於終、實不藏情、有所不盡、但愚闇策薄、精誠不感、以致於此耳。今國事已危、禍害在速、雖捐放於外、言足憎尤、猶貪極所懷、以盡餘忠。明將軍本心、正之所知也、實為區區不欲失左將軍之意、而卒至於是者、左右不達英雄從事之道、謂可違信黷誓、而以意氣相致、日月相遷、趨求順耳ス目、隨阿遂指、不圖遠慮為國深計故也。事變既成、又不量彊弱之勢、以為左將軍縣遠之衆、糧穀無儲、欲得以多撃少、曠日相持。而從關至此、所歴輒破、離宮別屯、日自零落。雒下雖有萬兵、皆壞陳之卒、破軍之將、若欲爭一旦之戰、則兵將勢力、實不相當。各欲遠期計糧者、今此營守已固、穀米已積、而明將軍土地日削、百姓日困、敵對遂多、所供遠曠。愚意計之、謂必先竭、將不復以持久也。空爾相守、猶不相堪、今張益コ數萬之衆、已定巴東、入犍為界、分平資中・コ陽、三道道侵、將何以禦之?本為明將軍計者、必謂此軍縣遠無糧、饋運不及、兵少無繼。今荊州道通、衆數十倍、加孫車騎遣弟及李異・甘寧等為其後繼。若爭客主之勢、以土地相勝者、今此全有巴東、廣漢・犍為、過半已定、巴西一郡、復非明將軍之有也。計益州所仰惟蜀、蜀亦破壞;三分亡二、吏民疲困、思為亂者十戸而八;若敵遠則百姓不能堪役、敵近則一旦易主矣。廣漢諸縣、是明比也。又魚復與關頭實為益州福禍之門、今二門悉開、堅城皆下、諸軍並破、兵將倶盡、而敵家數道並進、已入心腹、坐守都・雒、存亡之勢、昭然可見。斯乃大略、其外較耳、其餘屈曲、難以辭極也。以正下愚、猶知此事不可復成、況明將軍左右明智用謀之士、豈當不見此數哉? 旦夕偸幸、求容取媚、不慮遠圖、莫肯盡心獻良計耳。若事窮勢迫、將各索生、求濟門戸、展轉反覆、與今計異、不為明將軍盡死難也。而尊門猶當受其憂。正雖獲不忠之謗、然心自謂不負聖コ、顧惟分義、實竊痛心。左將軍從本舉來、舊心依依、實無薄意。愚以為可圖變化、以保尊門。」

 鄭度が劉璋に説くには[2]

「劉備は孤絶した軍でこちらを襲い、その兵は万に満たず、士衆も帰附しきってはおらず、野の穀類を糧とし、軍には輜重とてありません。巴西・梓潼の民を尽く駆って涪水以西に徙し、倉廩・野穀を全て焼除し、塁を高く溝を深くして静待するのが一番です。彼が来ても戦わず、やがて軍資が無くなって百日を過ぎないうちに敗走する筈です。これを撃てば禽とできましょう」

劉備は聞くとこれを悪み、法正に問うた。法正曰く 「結局は用いられますまい。憂う必要はございません」 と。劉璋は果して法正の言葉の通りとなり、その群下に謂うには 「私は敵を拒いで民を安んずるとは聞くが、未だ民を動かして敵を避けるとは聞いた事がない」 と。ここに鄭度を罷黜し、その計りごとを用いなかった。
軍が雒城を囲むに及び、法正は劉璋に牋を与えて曰く
「私は任を受けながら術策が無く、盟好を違損しましたが、左右の者が本末に通じておらず、必ず揃って咎を私に帰し、私だけでなく恥辱が執事(州牧)に及ぶのを懼れ、外地に留まって敢えて復命しませんでした。私の音信で聖聴を穢すのを恐れたからですが、宿遇を顧みては悢悢(悲悲)と瞻望(遠望)しております。私の腹心を披露すれば、私の真情は終始一貫したものでしたが、私が愚昧だったので尽くしきれず、至誠で感応させられずに今日の事態を招いたのです。今、国は危うく、禍害が差し迫っており、放逐された身での言葉は憎まれましょうが、所見を陳べて余忠を尽くそうかと存じます。
 明将軍の本心は私も知っており、左将軍の意を失うまいとしながら忽ち事ここに至ったのは、左右の者が英雄の道に通じておらず、信義に違え誓約を黷(けが)させ、順耳悦目の事を求めて(明将軍に)阿諛追従し、国の為の遠謀を図らなかったからなのです。変事の成された後も彼我の強弱を量らず、左将軍が遠来で穀糧も乏しく、多で少を撃ち、日を曠(むな)しくして持久しようとしております。しかし白水関よりここに至るまで、通過した場所は全て破りました。雒下には万余の兵があるとはいえ、何れも壊陣の士卒・破軍の将(敗残の将兵)であり、実戦可能な連中ではありません。長久策を採るなら、今やこの営の守りは固く、穀米は積まれておりましょうが、将軍の土地は日々に削られ、百姓は日々に困苦し、敵対者は増え、供糧先は拡大しております。愚計するに、必ず先ず糧が竭き、再びは持久できなくなり、空しく守っても堪えられますまい。今や張益徳の数万の軍兵が已に巴東を定めて犍為の境内に入り、分隊が資中・徳陽を平らげ、三路から侵攻しておりますが、どうやって防禦されるのです? そちらの本来の計と相違して、今や荊州との道は通じ、軍兵は数十倍で、加えて孫車騎は弟御および李異・甘寧らを遣って後続としています。

 ここでの孫権の弟とは、周瑜が構想した西征元帥孫瑜の弟でもある征虜将軍・夏口督の孫皎を指すのでしょう。尤も、甘寧伝・孫皎伝ではともに劉備の伐蜀を援けたという記事は無く、先遣を担う呂岱が白帝に進駐して情勢を観望している処です。

今や(左将軍は)巴東の全域と広漢・犍為の過半を平定し、巴西も一郡を全うしてはおりません。益州が恃みとするのはただ蜀郡のみとなっておりますが、蜀郡も亦た破壊され、将軍は三分の二を亡くし、吏民は疲困し、乱を思う者は十戸のうち八に及びます。敵が遠ければ百姓は役務に堪えられず、敵が近ければ一朝で主を易える事でしょう。広漢の諸県(李厳・呉懿ら)がまさにこれです。又た魚復(永安)と関頭(白水関)とは益州の門戸でしたが、今や二関とも開かれ、堅城は皆な下り、諸軍はすべて破れ、将兵とも尽き、しかも敵は数路から並進して心腹に入ってしまっており、坐して成都・雒を守っていては存亡の大勢は昭らかです。大略はこんな処で、その他の屈曲については言葉では表現しきれません。
 私は愚かでありますが、それでもこの事が成就されないのを知っており、ましてや明将軍の左右の明智用謀の士に見えない訳がありましょうか? ただただ寵愛を偸んで取り入るために媚び諂い、心を尽くして深慮遠謀の良策を献じないだけなのです。もし事態が窮迫すれば、各々は一身一門の為に身を転じて反覆し、今とは計を異にして明将軍の為には尽くさず、尊門は憂患を受ける事でしょう。私は不忠者と謗られておりますが、心は聖徳には背いておらず、明将軍の為に心を痛めております。左将軍は尚おも旧心に依拠しており、疎隔の意図はありません。変化の事を図って尊門を保たれますよう」

 十九年、進圍成都、璋蜀郡太守許靖將踰城降、事覺、不果。璋以危亡在近、故不誅靖。璋既稽服、先主以此薄靖不用也。正説曰:「天下有獲虚譽而無其實者、許靖是也。然今主公始創大業、天下之人不可戸説、靖之浮稱、播流四海、若其不禮、天下之人以是謂主公為賤賢也。宜加敬重、以眩遠近、追昔燕王之待郭隗。」先主於是乃厚待靖。以正為蜀郡太守・揚武將軍、外統都畿、内為謀主。一飡之コ、睚眦之怨、無不報復、擅殺毀傷己者數人。或謂諸葛亮曰:「法正於蜀郡太縱、將軍宜啓主公、抑其威福。」亮答曰:「主公之在公安也、北畏曹公之彊、東憚孫權之逼、近則懼孫夫人生變於肘腋之下;當斯之時、進退狼跋、法孝直為之輔翼、令翻然翱翔、不可復制、如何禁止法正使不得行其意邪!」初、孫權以妹妻先主、妹才捷剛猛、有諸兄之風、侍婢百餘人、皆親執刀侍立、先主毎入、衷心常凜凜;亮又知先主雅愛信正、故言如此。

 十九年(214)、進んで成都を囲むと、劉璋の蜀郡太守許靖が城壁を踰えて降ろうとしたが、事が発覚して果せなかった。劉璋は危亡が近くに在ったので許靖を誅さなかった。劉璋が稽服(降服)すると、劉備はこの薄行を以て許靖を用いなかった。法正が説くには:

「天下には虚誉を獲ながら実質の無い者がおり、許靖がこれです。しかし今、主公は大業を始創しており、天下の人の戸々に説く事はできず、許靖の浮称(虚誉)は四海に播流しており、もし礼遇しなければ、天下の人はこれを以て主公が賢者を賤しんだと謂いましょう。敬重を加える事で遠近を眩ませるのが宜しく、昔の昭王が郭隗を待遇した事を追慕なさいませ」 。

劉備はこうして許靖を厚く待遇した[3]。法正を蜀郡太守・揚武将軍とし、外にあっては都畿の事を統べ、内では謀主となった。一飡(一膳)の徳や睚眦の怨みで報復しない事は無く、己れを毀貶中傷した者数人を擅(ほしいまま)に殺した。或る者が諸葛亮に謂うには 「法正は蜀郡で太(はなは)だ縦横(放恣)で、将軍は主公に啓(もう)してその威福(の権)を抑えるべきでしょう」 と。諸葛亮が答えるには 「主公は公安に在った時、北は曹操の彊きを畏れ、東は孫権の圧逼を憚り、近くは孫夫人が肘腋の下で変事を生じるのを懼れていた。このような進退狼跋(窮逼)の時、法孝直は輔翼となって翻然と翱翔(飛翔)させ、再びは制約されなくしたのだ。どうして法正にその意を行なわせぬよう禁止できようか!」 と。
 嘗て、孫権は妹を劉備に妻(めあわ)せたが、妹の才捷・剛猛なこと諸兄の風があり、侍婢の百余人は皆な親しく刀を執って自立し、劉備は入室する毎に、衷心では常に凜凜(兢々)としていた。諸葛亮は又た劉備が雅(つね)に法正を愛信しているのを知っており、ゆえにこのように言ったのだ[4]

 二十二年、正説先主曰:「曹操一舉而降張魯、定漢中、不因此勢以圖巴・蜀、而留夏侯淵・張郃屯守、身遽北還、此非其智不逮而力不足也、必將内有憂偪故耳。今策淵・郃才略、不勝國之將帥、舉衆往討、則必可克。(之克) 〔克之〕之日、廣農積穀、觀釁伺隙、上可以傾覆寇敵、尊奬王室、中可以蠶食雍・涼、廣拓境土、下可以固守要害、為持久之計。此蓋天以與我、時不可失也。」先主善其策、乃率諸將進兵漢中、正亦從行。二十四年、先主自陽平南渡沔水、縁山稍前、於定軍・興勢作營。淵將兵來爭其地。正曰:「可撃矣。」先主命黄忠乘高鼓譟攻之、大破淵軍、淵等授首。曹公西征、聞正之策、曰:「吾故知玄コ不辦有此、必為人所教也。」

 二十二年(217)、法正が劉備に説いて曰く
「曹操は(前年に)一度の挙動で張魯を降して漢中を定めましたが、この勢いに乗じて巴蜀を図らず、夏侯淵・張郃を留めて屯守させ、自身は急遽北に還ったのは、その智が逮(およ)ばなかったり力が足りなかったのではなく、きっと内部で憂患に偪られる事態が生じたからです。今、夏侯淵・張郃の才略を策(はか)るに、国の将帥の任には勝えず、軍兵を挙って往って討てば、必ず克てましょう。これに克ったなら、農事を広げて穀糧を積んで釁隙を観伺し、上首尾なら寇敵を傾覆させて王室を尊奨し、中首尾でも雍・涼を蚕食して境土を広拓し、下首尾であれば要害を固守して持久の計と為します。これは恐らく天がこちらに与えたもので、時を失ってはなりません」
劉備はその策を善しとし、かくして諸将を率いて漢中に兵を進め、法正も亦た従行した。

 曹操が漢中から引き返した理由は、後継者争いが緊迫したのかなー、と想像するしかありません。引き返した翌年(216)に曹操は魏王に即きますが、陳舜臣氏は反対派の炙り出しが目的だろうと推測しておられます。そして法正が北伐を進言したこの歳、曹操は濡須で孫権と対峙して孫権の臣従を引き出し、又た曹丕の王太子位が確定します。蜀では張飛・馬超・呉蘭らを下辯に進駐させ、曹洪・曹休が対応に出征しています。呉蘭が敗死し、張飛・馬超が敗退したのがその翌年で、劉備の親征へと繋がります。

二十四年(219)、劉備は陽平より沔水を南に渡り、山縁いにやや前進し、定軍・興勢に軍営を作した。夏侯淵が兵を率いてその地を争奪に来た。法正曰く 「撃つべし」 と。劉備は黄忠に命じて高きに乗って鼓を譟がしくこれを攻めさせ、大いに夏侯淵の軍を破り、夏侯淵らは首を授けた。曹操は西征して法正の策を聞くと、「余はもとより玄徳にはこのような辦(はたら)きは無く、きっと人に教えられたものだと知っておった」 。[5]

 先主立為漢中王、以正為尚書令・護軍將軍。明年卒、時年四十五。先主為之流涕者累日。諡曰翼侯。賜子邈爵關内侯、官至奉車都尉・漢陽太守。諸葛亮與正、雖好尚不同、以公義相取。亮毎奇正智術。先主既即尊號、將東征孫權以復關羽之恥、羣臣多諫、一不從。章武二年、大軍敗績、還住白帝。亮歎曰:「法孝直若在、則能制主上、令不東行;就復東行、必不傾危矣。」

 劉備は立って漢中王となると、法正を尚書令・護軍将軍とした。明年に卒した時、齢四十五だった。劉備が彼の為に流涕すること日を累ねた。翼侯と諡した。子の法邈は爵関内侯を賜わり、官は奉車都尉・漢陽太守に至った。諸葛亮と法正とは好尚(趣好)は同じではなかったが、公義の上で補い合い、諸葛亮は事毎に法正の智術を奇とした。劉備は尊号に即くと孫権に東征して関羽の恥に報復しようとし、群臣の多くの諫めにも一向に従わなかった。章武二年(222)、大軍は敗績し、還って白帝城に駐まった。諸葛亮は歎じて 「法孝直がもし健在なら、主上を制止して東行させなかったであろうし、たとい東行してもきっと危殆に傾陥させなかったであろう」[6]
   
[1] 法真、字は高卿。若くして五経に明るく、讖緯にも兼通していた。学問には定まった師は無く、高才だと称された。嘗て幅巾(隠士の頭巾)で扶風太守にまみえた時、太守曰く 「(魯の)哀公は不肖だったとはいえ、猶お仲尼を臣とし、柳下恵は父母の邦を去らなかった[※]。意を屈して功曹になってもらいたいが、どうか?」 と。法真 「明府の待遇に礼があるので、四時(時節ごと)に朝覲しておりますが、もし吏として使おうとするなら、私は北山の北・南山の南に住まいましょうよ」 。扶風太守はかくて吏にしようとはしなかった。

※ 柳下恵は魯の人。事える相手や官職を選ばずに魯に留まり、才智を惜しまずに務めながら自身の道は枉げず、又た罷免されても恨まず、困窮を苦としなかった事から、しばしば自身の潔癖を保った伯夷と比較される。『孟子』は 「伯夷は狭量で、柳下恵は慎みが足りない。どちらも偏っていて君子の見本にはならない」 と評した。 この人は比較対象とされやすかったらしく、『荘子』では大盗の盗跖の兄とされ、兄弟一対で論じられる事がしばしばあります。

 嘗て法真の齢が弱冠に満たなかった時、父は南郡に在り、徒歩で父に挨拶に往き、去ろうとした処、父はこれを留めて正旦を待ち、朝賀に会同する吏を観察させた。会同する者は数百人。法真は窗中(窓中)から父と語らうのを闚(うかが)った。畢(お)えて法真に問うには 「孰れが賢士か?」 。法真 「曹掾の胡広には公卿の器量がありました」 。その後、胡広は果して九卿三公の位を歴任し、世人は法真の知人の才に感服した。前後する徴辟には皆な就かず、友人の郭正らがこれを賛美して玄徳先生と称号した。齢八十九で中平五年(188)に卒した。法正の父の法衍は字を季謀といい、司徒掾・廷尉左監となった。 (『三輔決録注』)
[2] 鄭度は広漢の人で、州従事だった。 (『華陽國志』)
[3] 孫盛曰く、そも賢者を礼遇し、徳士を崇敬するのは邦の要道で、封墓・式閭[※]は先王の美令な軌範である。ゆえに必ず根本や行ないが邈(はる)かに英俊で、高義が世を蓋い、然る後に四海を延視(望見)し、群黎(百姓)を振服させるのだ。苟くもそうでない人では道は行なわれないのだ。

※ 封墓は陵墓の盛り土。式閭は郷亭の門での顕彰。

許靖は屋室に在っては友と和穆せず、出仕しては不適当な相手から官位を受け、信を語れば夷険(平時と難時)で心を易え、識見を論じれば殆ど釁(きず)の首魁となりかけた。寵遇すべき人の先頭に安置する事で、感動させ招致させるような者とできようか? もしかように浮虚の者を崇敬し、軽薄な者が栄達を偸むなら、秉直仗義の士をどのように礼遇するのか? 法正は眩惑の術に務め、高尚を貴ぶ風に違えている。郭隗に譬えているが、その倫(ともがら)ではない。
―― 裴松之が考えるに、郭隗は賢者ではないが、それでも権計から恩寵を蒙った。ましてや許文休の名声は夙に顕著で、天下はこれを英偉と謂い、末年に瑕疵があったとはいえ、事は彰徹(周知)されておらず、もし礼遇を加えなかった場合、どうやって遠近の疑惑に釈明できようか? 法正が許靖を郭隗に比べたのは不当とはできず、しかも孫盛が“封墓式閭”を以て非難しているのは、何と迂遠な事か! ならば燕昭王も亦た非であり、どうしてただ劉翁だけなのか? 友と和穆しなかった事に至っては、過失は許子将に由来するもので、蔣済の論を尋ねれば、文休の尤(とが)でない事が知れるのだ。孫盛は又た不適当な相手から官位を受けた事を譏っているが、董卓に仕えた事を謂うのであろう。董卓は秉政した当初は賢俊を顕擢し、その策書や爵位を受けた者は森然たること皆なこれである。文休が選官だったのは董卓が至る前であり、後に御史中丞に遷ったのは超越(の人事)ではない。これを以て貶すなら、荀爽・陳紀の儔輩も皆な世の擯棄に応じる立場である。

 以上、我田引水・牽強付会もほどほどにネ! という裴松之氏のお言葉でした。

[4] 孫盛曰く、威福が下僚によって為されるのは亡家害国の道であり、刑罰を恩寵から放縦にするのは、毀政乱理の源である。どうして功臣であるからといってその陵肆(僭恣)を極め、嬖幸(寵臣)として国柄を藉りてよかろうか? ゆえに顛頡は精勤したとはいえ違命の刑を免れず、楊干は親族とはいえ、それでも行列を乱したという刑戮を加えられた[※]。愛さなかったからではなく、王憲(公法)の故である。諸葛氏の言葉は、ここに刑政(の正当性)を失った。

※ 顛頡は晋の人。晋が曹を陥した際、魏犨と与に文公の命令に背いて釐負羈の家を襲い、処刑された。
 楊干は晋悼公の愛弟。諸侯との会盟の際に列を乱したので、御者が殺された。

[5] 裴松之が考えるに、蜀と漢中とは唇歯の関係である。劉主の智がどうしてこの点に及ばぬ事があろうか? 計略を展べる前に法正が先んじて発案したというだけである。嘉き謀りごとを聴用して功業を成す事は、霸王の主でそうではない者があろうか? 曹操が人に教えられたと考えたなら、なんと劣った考えであろうか! これは恐らく恥恨から発した余辞であり、実態を憶測した真っ当な言葉ではあるまい。
[6] 劉備が曹操と争った時、形勢が不利となって退かねばならなくなったが、劉備は大いに怒って後退を肯んぜず、諫めようとする者も無かった。矢は雨の如く下り、法正はかくして往って劉備の前に立った。劉備が云った。「孝直よ、箭を避けよ」 。法正 「明公が親しく矢石に当っているのに、どうして小人が(避けましょう)?」 。劉備はかくして 「孝直よ、汝と倶に去ろう」 と。かくて退いた。
 

 評曰:龐統雅好人流、經學思謀、于時荊・楚謂之高俊。法正著見成敗、有奇畫策算、然不以コ素稱也。儗之魏臣、統其荀ケ之仲叔、正其程・郭之儔儷邪?

 評に曰く:龐統は平素より人流(人物評)に好く、経書を学び計謀を思い、時の荊・楚の人は高俊だと謂った。法正は成敗を顕著に見極め、奇画策算があったが、徳素については称賛されなかった。これらを魏臣に儗(擬)せば、龐統は荀ケの仲叔(兄弟)、法正は程c・郭嘉の儔儷(類輩)であろうか?

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