三國志修正計画

三國志卷三十五 蜀志五/諸葛亮傳 (一)

諸葛亮伝

 諸葛亮字孔明、琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。父珪、字君貢、漢末為太山郡丞。亮早孤、從父玄為袁術所署豫章太守、玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選朱皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊、往依之。玄卒、亮躬畊隴畝、好為梁父吟。身長八尺、毎自比於管仲・樂毅、時人莫之許也。惟博陵崔州平・潁川徐庶元直與亮友善、謂為信然。

 諸葛亮、字は孔明。琅邪陽都の人である。漢の司隸校尉諸葛豊の後裔である。父の諸葛珪、字は君貢は漢末に泰山郡丞となったが、諸葛亮は早くに孤となった。従父(おじ)の諸葛玄が袁術により豫章太守に署され、諸葛玄は諸葛亮および諸葛亮の弟の諸葛均を率いて官に行った。

 東漢時代の司隷校尉を出すしかなかったあたりで、諸葛家の家格は凡そ察しがつきます。漢末〜三国時代になって株が上った新興勢力な点、呉姓とどっこいな感じです。
 そしてここまで、7歳違いの兄の諸葛瑾への言及はありません。諸葛瑾伝のプロフ欄にも 「琅邪陽都人也。漢末避乱江東」 とあるだけ。そこで弟の諸葛亮に触れていないのは列伝の書法としてありがちなんですが、父親の名に言及が無いのはやはり奇異な感じがします。

折しも漢朝は更めて朱皓を選んで諸葛玄に代えた。諸葛玄は素より荊州牧劉表と旧交があり、往ってこれに依った[1]。諸葛玄が卒し、諸葛亮は躬ずから隴畝(畔畝)を畊(耕)し、好んで梁父吟[※]を為した[2]。身長八尺、毎(つね)に自らを管仲・楽毅に比したが、時人でこれを許(みと)める者は莫かった。ただ博陵の崔州平・潁川の徐庶元直が諸葛亮と友善し、まことにそうだと考えた[3]

※ 晏嬰が二つの桃を褒賞として、武勇でも傍若無人さでも斉で名うての三勇士を争わせ、尽く自発的に自殺させたという話を歌にしたものです。晏嬰の智謀万歳!な歌で、諸葛亮が晏嬰を慕っていた事は理解できますが、内容的にはちょっとヒきますねぇ。

 時先主屯新野。徐庶見先主、先主器之、謂先主曰:「諸葛孔明者、臥龍也、將軍豈願見之乎?」先主曰:「君與倶來。」庶曰:「此人可就見、不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮、凡三往、乃見。因屏人曰:「漢室傾頽、姦臣竊命、主上蒙塵。孤不度コ量力、欲信大義於天下、而智術淺短、遂用猖〔蹶〕、至于今日。然志猶未已、君謂計將安出?」亮答曰:「自董卓已來、豪傑並起、跨州連郡者不可勝數。曹操比於袁紹、則名微而衆寡、然操遂能克紹、以弱為強者、非惟天時、抑亦人謀也。今操已擁百萬之衆、挾天子而令諸侯、此誠不可與爭鋒。孫權據有江東、已歴三世、國險而民附、賢能為之用、此可以為援而不可圖也。荊州北據漢・沔、利盡南海、東連呉會、西通巴・蜀、此用武之國、而其主不能守、此殆天所以資將軍、將軍豈有意乎?益州險塞、沃野千里、天府之土、高祖因之以成帝業。劉璋闇弱、張魯在北、民殷國富而不知存恤、智能之士思得明君。將軍既帝室之冑、信義著於四海、總攬英雄、思賢如渇、若跨有荊・益、保其巖阻、西和諸戎、南撫夷越、外結好孫權、内脩政理;天下有變、則命一上將將荊州之軍以向宛・洛、將軍身率益州之衆出於秦川、百姓孰敢不箪食壺漿以迎將軍者乎?誠如是、則霸業可成、漢室可興矣。」先主曰: 「善!」於是與亮情好日密。關羽・張飛等不ス、先主解之曰:「孤之有孔明、猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽・飛乃止。

 時に劉備が新野に駐屯していた。徐庶が劉備に見(まみ)えた処、劉備はこれを器(おも)んじた。劉備に謂うには 「諸葛孔明は臥龍です。将軍は見えようと思いませんか?」[4] 先主 「君が倶に連れて来てくれ」 徐庶 「この人には現地で見えるのです。屈げて招致してはなりません。将軍が駕を枉げて顧みるのが妥当です」 このため劉備は諸葛亮に詣り、凡そ往くこと三度。かくして見えた。
そうして人を屏(さえぎ)り 「漢室は傾頽し、姦臣が天命を竊い、主上は蒙塵された。孤は徳を度らず力を量らず、天下に大義を信(の)べんと欲し、しかし智術は浅短で、かくて猖蹶(傾覆)して今日に至った。だが志は猶おも已まぬ。君はどのように計ればいいと考える?」 諸葛亮が答えるには
「董卓より以来、豪傑は並び起ち、跨州連郡の輩は数える事ができません。曹操は袁紹に比べ、名声は微少で寡勢でもありましたが、曹操は遂に袁紹に勝つ事ができ、弱者が強者となりました。ただ天の時というだけでなく、人の謀りごとがあったからです。今、曹操は已に百万の軍勢を擁し、天子を挟んで諸侯に号令し、これは誠に鋒を争うべきではありません。孫権は江東を領有して拠り、已に三世を歴し、国は険阻で民も附き、賢能もその用を為しており、これは援とすべきであって図ってはなりません。
 荊州は北は漢水・沔水に拠り、南海の利を尽し、東は呉会に連なり、西は巴蜀に通じています。これぞ用武の国であり、しかもその主人は守る事ができません。これは天が将軍の資産としたも同然です。将軍にはその意志がおありでしょうか? 益州は険塞の地で、沃野千里、天府の土地です。高祖はこれに因って帝業を成しました。劉璋は闇弱であり、張魯は北に在り、民は殷(おお)く国は富んでいるのに恤(あわ)れむ事を知らず、智能の士は明君を得る事を思っています。
 将軍は帝室の冑(裔)であり、信義は四海に著しく、英雄を総攬して賢者を思うこと渇えるようにしております。もし荊・益を跨有し、その巖阻(険阻)を保ち、西は諸戎と和し、南は夷越を慰撫し、外は孫権と好誼と結び、内は政理を修め、その上で天下に変事があれば、一上将に命じて荊州の軍を率いて宛・洛に向わせ、将軍は身ずから益州の軍勢を率いて秦川に出れば、百姓は孰れも箪食壺漿(弁当と水筒)もて将軍を迎えない者などおりましょうか? まことにこの通りにすれば、霸業は成り、漢室は再興しましょう」
劉備 「善!」 こうして諸葛亮との情好は日々に密となった。関羽・張飛らは不悦(不快)だったが、劉備は(不満を)解こうと 「孤に孔明があるのは、魚に水があるようなものだ。願わくば諸君よ、復た言う勿れ」 と。関羽・張飛はかくして止めた[5]

 所謂る“隆中対”で、イントロでかなり劉備に格好いい事を云わせていますが、荊州に辿り着くまでの劉備の行動を観る限り、天下だとか漢室の再興だとかをこの時点で口にしているとは思えません。華北がほぼ平定されて曹操の一強状態が確立しつつあり、「自分の雇い先がだんだん減ってきた。ジリ貧に陥らない為にはどうしたらいいの!?」 程度の話でしょう。ひょっとしたらこの時に 「宗室を自称して漢室再興を旗印になさい!」 との進言があったのかも。
 勝手な想像をすれば、劉備のこの「善!」 は、自分の正統性を唱えて天下を意識してもイイヨ、という指摘に対してのものだと思われます。劉備は荊州併合に対しては懐疑的でした。名士層の掌握にもそれなりに成功していた徐州での失敗が堪えていたというのもあるし、今回は陳登や孔融のような確固とした声望を持っている仲介者もおらず、荊州の社交界に影響を行使するのは絶望的です。そんな状態で牧伯宣言してもどうにもならない事はさすがに理解していたでしょう。
 ここで敢えて云っておくと、荊州・益州を曹操より先に手に入れれば北方に対抗できる、というのは、甘寧すら指摘した程の常識です。これで目から鱗だったのなら、劉備はこの時まで天下の事を全く意識していなかったという事です。隆中対で鼎立が両者共通の目標となったというのも実はアヤシく、「今、曹操の統一が失敗する場合の最有力案として、こんな展望がありますが、意識しておいて損はありません」 とかそんな会話だったんじゃないかと。孫権との提携なんて俎上にも上らなかった筈だし、劉備が益州から、上将が荊州からという構想も後付け臭が漂います。だいたい庵中で人払いまでしているのに、陳寿はどうやってその内容を知ったんだか。

 劉表長子g、亦深器亮。表受後妻之言、愛少子j、不ス於g。g毎欲與亮謀自安之術、亮輒拒塞、未與處畫。g乃將亮游觀後園、共上高樓、飲宴之間、令人去梯、因謂亮曰:「今日上不至天、下不至地、言出子口、入於吾耳、可以言未?」亮答曰:「君不見申生在内而危、重耳在外而安乎?」g意感悟、陰規出計。會黄祖死、得出、遂為江夏太守。俄而表卒、j聞曹公來征、遣使請降。先主在樊聞之、率其衆南行、亮與徐庶並從、為曹公所追破、獲庶母。庶辭先主而指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者、以此方寸之地也。今已失老母、方寸亂矣、無益於事、請從此別。」遂詣曹公。

 劉表の長子の劉gも亦た諸葛亮を深く器(おも)んじた。劉表は後妻の言葉を受け、少子の劉jを愛し、劉gの事を不悦(不快)とした。劉gが自安の術を謀諮する毎に、諸葛亮は都度に拒塞して未だに実現しなかった。劉gはかくして諸葛亮を率いて後園を游観し、共に高楼に上り、飲宴の間に人に梯子を去らせ、因って諸葛亮に謂うには 「今日、上は天に至らず、下は地に至らず、子の口が出す言葉は私の耳に入るだけです。それでも言って頂けませんか?」 諸葛亮が答えるには 「君は申生が内に在って危うく、重耳が外に在って安んじたのをご覧になりませんか?」 劉gは意(こころ)に感悟し、陰かに出る計を規(はか)った。折しも黄祖が死んで出る事ができ、かくて江夏太守となった。
俄かに劉表が卒し、劉jは曹操の来征を聞くと、遣使して受降を請うた。劉備は樊に在ってこれを聞き、その手勢を率いて南行し、諸葛亮は徐庶と揃って従った。曹操の追撃に破られ、(曹軍は)徐庶の母を獲た。徐庶は劉備に辞去してその心を指し、「もともと将軍と共に王霸の業を図ろうとしたのは、この方寸の地(衷心)によるものでした。今、已に老母を失い、方寸は乱れ、事に益する事が出来ません。ここでお別れです」 かくて曹操に詣った[6]

 先主至於夏口、亮曰:「事急矣、請奉命求救於孫將軍。」時權擁軍在柴桑、觀望成敗、亮説權曰:「海内大亂、將軍起兵據有江東、劉豫州亦收衆漢南、與曹操並爭天下。今操芟夷大難、略已平矣、遂破荊州、威震四海。英雄無所用武、故豫州遁逃至此。將軍量力而處之:若能以呉・越之衆與中國抗衡、不如早與之絶;若不能當、何不案兵束甲、北面而事之!今將軍外託服從之名、而内懷猶豫之計、事急而不斷、禍至無日矣!」 權曰:「苟如君言、劉豫州何不遂事之乎?」 亮曰:「田、齊之壯士耳、猶守義不辱、況劉豫州王室之冑、英才蓋世、衆士慕仰、若水之歸海、若事之不濟、此乃天也、安能復為之下乎!」 權勃然曰:「吾不能舉全呉之地、十萬之衆、受制於人。吾計決矣!非劉豫州莫可以當曹操者、然豫州新敗之後、安能抗此難乎?」 亮曰:「豫州軍雖敗於長阪、今戰士還者及關羽水軍精甲萬人、劉g合江夏戰士亦不下萬人。曹操之衆、遠來疲弊、聞追豫州、輕騎一日一夜行三百餘里、此所謂『彊弩之末、勢不能穿魯縞』者也。故兵法忌之、曰『必蹶上將軍』。且北方之人、不習水戰;又荊州之民附操者、偪兵勢耳、非心服也。今將軍誠能命猛將統兵數萬、與豫州協規同力、破操軍必矣。操軍破、必北還、如此則荊・呉之勢彊、鼎足之形成矣。成敗之機、在於今日。」 權大ス、即遣周瑜・程普・魯肅等水軍三萬、隨亮詣先主、并力拒曹公。曹公敗於赤壁、引軍歸鄴。先主遂收江南、以亮為軍師中郎將、使督零陵・桂陽・長沙三郡、調其賦税、以充軍實。

 劉備が夏口に至ると、諸葛亮は 「事は急迫しています。命を奉じて孫将軍に援を求めたいと思います」 時に孫権は軍を擁して柴桑に在り、事の成敗を観望していた。

 経緯を端折りすぎて諸葛亮が自発的に動いた様になっていますが、魯粛の勧めに従って諸葛亮は孫権を訪れました。

諸葛亮が孫権に説くには 「海内は大いに乱れ、将軍は兵を起して江東を領有して拠り、劉豫州も亦た漢南の衆を収め、曹操と並んで天下を争っております。今、曹操は大難を芟夷(除去)して略(あらま)し平定し已え、遂に荊州を破り、威は四海を震わせています。英雄は用武の場面を無くし、そのため豫州は遁逃してかく至りました。将軍は実力を量って身を処し、もし呉越の衆を挙げて中国に抗衡できるのなら、早々に絶交するに越した事はありません。もし当る事が出来ないのなら、どうして兵を案(おさ)え甲を束ね、北面して臣事しないのでしょう! 今、将軍は外面は服従の名に託し、内心には猶豫の計を懐いております。事は急迫しているのに決断しないのなら、禍は日を措かず至りましょう!」
孫権 「苟くも君の言う通りなら、劉豫州はどうしてかくも事えようとしないのか?」
諸葛亮 「田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、猶お義を守って辱められませんでした。ましてや劉豫州は王室の冑(裔)であり、英才は世を蓋い、衆士が慕仰すること水が海に帰す如くです。もし事が済(と)げられねば、これは天命であります。どうして復た人の下となる事ができましょう!」
孫権は勃然とし 「私は全呉の地の十万の軍勢を挙り、人の制約を受ける事はできない。吾が計は決した! 劉豫州でなければ曹操に当る者は莫かろうが、しかし豫州は新たに敗れた後であり、どうやってこの難事に抗う事ができようか?」
諸葛亮 「豫州の軍は長阪で敗れたとはいえ、今、戦士で帰還した者および関羽の水軍の精甲は万人で、劉gが糾合した江夏の戦士も亦た万人を下りません。曹操の軍勢は遠来して疲弊しており、聞けば豫州を追った軽騎は一日一夜で三百余里を行軍したとか。これは所謂る『彊弩の末の勢いは(薄手の)魯縞を穿つ事も出来ない』 というものです。そのため兵法はこれを忌み、『必ず上将軍は蹶(つまづ)く』と云うのです。しかも北方の人は水戦に習(な)れず、又た荊州の民が曹操に附いたのは、兵勢に偪られただけで、心服してはおりません。今、将軍は誠に猛将に命じて数万の兵を統べる事ができ、豫州と規画を協にして力を同じくすれば、曹操の軍を破る事は必至です。曹操は軍が破れれば必ず必北還しますが、それは荊・呉の勢いが彊まる事になり、鼎足の形成となります。成敗の好機は今日に在ります」
孫権は大いに悦び、即座に周瑜・程普・魯粛ら水軍三万を遣り、諸葛亮に随って劉備に詣らせ、力を併せて曹操を拒がせた[7]
 曹操は赤壁で敗れると軍を率いて鄴に帰った。劉備はかくて江南を収め、諸葛亮を軍師中郎将とし、零陵・桂陽・長沙の三郡を督させ、その賦税を調収して軍資に充てた[8]

 建安十六年、益州牧劉璋遣法正迎先主、使撃張魯。亮與關羽鎮荊州。先主自葭萌還攻璋、亮與張飛・趙雲等率衆泝江、分定郡縣、與先主共圍成都。成都平、以亮為軍師將軍、署左將軍府事。先主外出、亮常鎮守成都、足食足兵。二十六年、羣下勸先主稱尊號、先主未許、亮説曰:「昔呉漢・耿弇等初勸世祖即帝位、世祖辭讓、前後數四、耿純進言曰:『天下英雄喁喁、冀有所望。如不從議者、士大夫各歸求主、無為從公也。』世祖感純言深至、遂然諾之。今曹氏簒漢、天下無主、大王劉氏苗族、紹世而起、今即帝位、乃其宜也。士大夫隨大王久勤苦者、亦欲望尺寸之功如純言耳。」 先主於是即帝位、策亮為丞相曰:「朕遭家不造、奉承大統、兢兢業業、不敢康寧、思靖百姓、懼未能綏。於戲!丞相亮其悉朕意、無怠輔朕之闕、助宣重光、以照明天下、君其勖哉!」亮以丞相録尚書事、假節。張飛卒後、領司隸校尉。

 建安十六年(211)、益州牧劉璋が法正を遣って劉備を迎えさせ、張魯を撃たせた。諸葛亮は関羽と荊州に鎮守した。劉備は葭萌より還って劉璋を攻め、諸葛亮は張飛・趙雲らと軍勢を率いて長江を泝上し、分かれて郡県を平定し、劉備と共に成都を囲んだ。成都が平らぎ、諸葛亮を軍師将軍とし、左将軍府事に署した。劉備が外に出征する時は諸葛亮は常に成都に鎮守し、食と兵とを足らせた。
 二十六年(221)、群下が劉備に尊号を称する事を勧め、劉備が未だ聴許しなかった時、諸葛亮は説いた 「昔、呉漢・耿弇らが初めて世祖に帝位へ即く事を勧めた時、世祖は辞譲すること前後四度を数えました。耿純が進んで言うには 『天下の英雄は喁喁(仰望)して、望むものを所有したいと冀っているのです。もし議者に従わねば、士大夫は各々主を求めて帰し、公に従う者は無くなりましょう』 と。世祖は耿純の言葉の至深に感じ、かくて然諾したのです。今、曹氏が漢を簒い、天下に主は無く、大王は劉氏の苗族として世を紹(つ)がんと起ち、今、帝位に即くのは妥当な事です。士大夫が大王に随って久しく勤苦したのは、亦た尺寸の功を望もうとすること耿純の言葉通りなのです」 劉備はこうして帝位に即いた。
諸葛亮を丞相とした策命には 「朕は漢家の不造に遭い、大統を奉承し、兢兢業業として康寧せず、百姓を靖らぐ事を思い、未だ綏らげていないのを懼れている。ああ!丞相亮よ。朕の意を悉くし、怠らず朕の闕(欠)を輔い、重光を宣べて天下を照明することを助けよ。君よ、勖(つと)めよ!」 諸葛亮を丞相・録尚書事とし、節を仮した。張飛が卒した後は司隸校尉を兼領した[9]

 章武三年春、先主於永安病篤、召亮於成都、屬以後事、謂亮曰:「君才十倍曹丕、必能安國、終定大事。若嗣子可輔、輔之;如其不才、君可自取。」亮涕泣曰:「臣敢竭股肱之力、效忠貞之節、繼之以死!」先主又為詔敕後主曰:「汝與丞相從事、事之如父。」
建興元年、封亮武郷侯、開府治事。頃之、又領益州牧。政事無巨細、咸決於亮。南中諸郡、並皆叛亂、亮以新遭大喪、故未便加兵、且遣使聘呉、因結和親、遂為與國。

 章武三年(223)春、劉備は永安で病が篤くなり、諸葛亮を成都から召し、後事を属託した。諸葛亮に謂うには 「君の才は曹丕に十倍する。きっと国を安んじて終には大事を定める事ができよう。もし嗣子が輔けられそうなら輔けてくれ。もし不才なようなら君が自ら取るのだ」 諸葛亮は涕泣しつつ 「臣は敢えて股肱の力を竭くし、忠貞の節を效(あらわ)し、そうして死にましょう!」 先主は又た後主に詔敕して 「汝は丞相と国事に従い、事(つか)えること父の如くせよ」[10]
建興元年(223)、諸葛亮を武郷侯に封じ、開府して事を治めさせた。しばらくして、又た益州牧を兼領した。政事は巨細なく咸な諸葛亮が決した。南中の諸郡が揃って皆な叛乱すると、諸葛亮は新たに大喪に遭ったばかりとして、未だに便(ただち)には兵を加えず、且つ遣使して呉を聘問させ、和親を結んで与国とした[11]

 三年春、亮率衆南征、其秋悉平。軍資所出、國以富饒、乃治戎講武、以俟大舉。

 三年(225)春、諸葛亮は軍兵を率いて南征し[12]、その秋に悉く平定した。軍資の出る所であり、国はこのため富饒となり[13]、かくして戎(軍事)を治めて講武し、大挙の機を俟った。

 五年、率諸軍北駐漢中、臨發、上疏曰:
 先帝創業未半而中道崩殂、今天下三分、益州疲弊、此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣不懈於内、忠志之士忘身於外者、蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖〔聽〕、以光先帝遺コ、恢弘志士之氣、不宜妄自菲薄、引喩失義、以塞忠諫之路也。宮中府中倶為一體、陟罰臧否、不宜異同。若有作姦犯科及為忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭陛下平明之理、不宜偏私、使内外異法也。侍中・侍郎郭攸之・費禕・董允等、此皆良實、志慮忠純、是以先帝簡拔以遺陛下。愚以為宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏、有所廣益。將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事、試用於昔日、先帝稱之曰能、是以衆議舉寵為督。愚以為營中之事、悉以咨之、必能使行陳和睦、優劣得所。親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也;親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎與臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓・靈也。侍中・尚書・長史・參軍、此悉貞良死節之臣、願陛下親之信之、則漢室之隆、可計日而待也。 臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事、由是感激、遂許先帝以驅馳。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之閨A爾來二十有一年矣。先帝知臣謹慎、故臨崩寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂歎、恐託付不效、以傷先帝之明、故五月渡瀘、深入不毛。。今南方已定、兵甲已足、當獎率三軍、北定中原、庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還于舊都此臣所以報先帝、而忠陛下之職分也。 至於斟酌損益、進盡忠言、則攸之・禕・允之任也。願陛下託臣以討賊興復之效;不效、則治臣之罪、以告先帝之靈。〔若無興コ之言、則〕責攸之・禕・允等之慢、以彰其咎。陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕零、不知所言。
遂行、屯于沔陽。

 五年(227)、諸軍を率いて北のかた漢中に駐屯したが、進発に臨んで上疏するには
 先帝は創業の半ばに中道で崩殂され、今、天下は三分して益州は疲弊しています。これは誠に危急存亡の秋(時)であります。しかし侍衛の臣が内に懈らず、忠志の士が外に身を忘れているのは、先帝の殊遇を追慕し、これを陛下に報じようとしているからです。誠に宜しく聖聴を開張し、先帝の遺徳を光かせ、志士の気を恢弘せん事を。妄りに自ら菲薄(卑下)し、喩えを引いて本義を失い、忠諫の路を塞いではなりません。宮中・府中は倶に一体であり、陟罰臧否(善悪の賞罰)に異同があってはなりません。もし姦を為し科を犯し、あるいは忠善を為す者があれば、有司に付してその刑賞を論じ、そうして陛下の平明の理を昭かにするのが妥当です。私親に偏り、内外で法を異にしてはなりません。
 侍中・侍郎の郭攸之費禕董允らは皆な良実であり、志慮の忠純によって先帝が簡抜して陛下に遺されました。愚臣が思うに、宮中の事は大小となく悉くこれらに咨り、然る後に施行すれば、必ず裨補闕漏して広く益する事ができましょう。 将軍向寵は性行とも淑均で、軍事に曉暢しております。昔日に試用した折、先帝はこれを称して有能だとし、そのため衆議を挙げて向寵を督としました。愚臣が思うに、営中の事は悉くこれに咨れば、必らず行陣を和睦させ、優劣はそれぞれ適所を得る事ができましょう。
 賢臣に親しみ、小人を遠ざける。これは先の漢の興隆した理由です。小人に親しみ、賢臣を遠ざける。これは後の漢の傾頽した理由です。先帝が在りし時、臣とこの事を論じる毎に、未だ嘗て歎息して桓帝・霊帝を痛恨しない事はありませんでした。侍中・尚書・長史・参軍は悉く貞良にして死節の臣であります。願わくば陛下よ、これに親しみこれを信じられよ。そうすれば漢室の隆盛は日を数えて待つばかりです。
 臣は本来は布衣であり、躬ずから南陽に耕し、苟くも乱世に性命を全うせんとし、諸侯への聞達は求めませんでした。先帝は臣の卑鄙を厭わず、猥りに自から枉屈し、草廬の中に臣を三顧し、臣に諮るに当世の事を以てし、これによって感激して遂に先帝に駆馳する事を許認したものです。後に傾覆に遭遇し、敗軍の際に任を受け、危難の間に命を奉じ、爾来二十有一年になります[14]。先帝は臣の謹慎を知り、そのため崩殂に臨んで臣に大事を寄せました。受命して以来、夙夜に憂歎し、託付に效(こた)えられずに先帝の明を傷う事を恐れ、そのため五月に瀘水を渡り、深く不毛に入りました[15]。今、南方は已に定まり、兵甲は已に足りており、まさに三軍を奨率して北のかた中原を定める時です。庶わくば駑鈍を竭くして姦凶を攘除し、漢室を興復して旧都に還られん事を。これは臣が先帝に報じ、陛下に対する忠の職分であります。
 損益を斟酌し、進んで忠言を尽くすのは郭攸之・費禕・董允の任であります。願わくば陛下よ、臣に討賊興復の効を託されん事を。効が無くば臣の罪を治め、そうして先帝の霊に告げられよ。もし興徳の進言が無ければ、それは郭攸之・費禕・董允らの怠慢に責があり、その咎を彰らかにされますよう。陛下も亦た宜しく自ら謀って善道を諮諏し、雅言を察納し、深く先帝の遺詔を追われん事を。臣は恩を受けた感激に勝(た)えず、今、遠く離れるに当り、表に臨んで涕零して申し上げようもありません。

 最も気になるのは、劉禅に対する戒めが妙に生々しい事です。自虐したり本題から離れた譬え話で反論を封じるなとか、内朝と外朝で処置を別にするなとか、テンプレに外れた注意は劉禅が日頃から行なっている事なんでしょう。そして向寵以上に情報が少ない郭攸之ですが、諸葛亮からの評価が廖立伝の 「人に従うのみで与に大事を計るに足りず」 や董允伝での 「性は素より和順で、官員として備わるだけ」 に比べて頗る高いものになっています。だから諸葛亮はイエスマンに甘いとか云われちゃうんだ。

かくて行き、沔陽に駐屯した[16]

 六年春、揚聲由斜谷道取郿、使趙雲・ケ芝為疑軍、據箕谷、魏大將軍曹真舉衆拒之。亮身率諸軍攻祁山、戎陳整齊、賞罰肅而號令明、南安・天水・安定三郡叛魏應亮、關中響震。魏明帝西鎮長安、命張郃拒亮、亮使馬謖督諸軍在前、與郃戰于街亭。謖違亮節度、舉動失宜、大為郃所破。亮拔西縣千餘家、還于漢中、戮謖以謝衆。上疏曰:「臣以弱才、叨竊非據、親秉旄鉞以試O軍、不能訓章明法、臨事而懼、至有街亭違命之闕、箕谷不戒之失、咎皆在臣授任無方。臣明不知人、恤事多闇、春秋責帥、臣職是當。請自貶三等、以督厥咎。」於是以亮為右將軍、行丞相事、所總統如前。

 六年(228)春、斜谷道を経由して郿(宝鶏市眉県)を取ると揚声(喧伝)し、趙雲・ケ芝を疑軍にて箕谷に拠らせると、魏の大将軍曹真は軍兵を挙げてこれを拒いだ。諸葛亮自身は諸軍を率いて祁山(甘粛省礼県東界)を攻めた。軍陣は整斉とし、賞罰は粛然と行なわれて号令は明らかで、南安(定西市隴西)・天水(天水市甘谷)・安定(慶陽市鎮原)の三郡が魏に叛いて諸葛亮に応じ、関中は響震(震撼)した[17]

 鵜呑みにするのは危険だとは思いますが、三郡は積極的に蜀軍に開城した風なんですよね。明帝紀でも 「三郡吏民叛応亮」 なんです。雍州と涼州の交界地に対しての、蜀漢の地道な政治工作の成果と見て宜しいでしょうか。蜀志の記述を信じるなら、256年の段谷の役まで、この地域に対する求心力は魏と拮抗していたっぽいです。

魏明帝が西出して長安に鎮守し、張郃に命じて諸葛亮を拒がせ、諸葛亮は馬謖に諸軍を督して前軍とし、張郃と街亭(天水市秦安県東北界)で戦わせた。馬謖は諸葛亮の節度に違え、挙動は妥当性を失い、大いに張郃に破られた。諸葛亮は西県の千余家を抜き、漢中に還り[18]馬謖を刑戮して人々に謝した。

 この街亭の役、諸葛亮のイエスマン好きが最悪の形で露呈した一件でした。馬謖起用については様々な理由付けがありますが、やはり無謀な抜擢でした。なにせ参謀経験しかないんですから。若手を育てるのは必要ですけれども、せめて馬謖が一目置くような副将を付けてあげてれば…。

上疏して 「臣は弱才であるのに分不相応に妄りに(位を)竊み、親しく旄鉞を秉って三軍を獅ワし、章を訓え法を明らかにする事ができず、事に臨んで懼れ、街亭では違命の闕があり、箕谷では不戒の失に至りました。咎は皆な臣の授任が杜撰だった事にあります。臣は明らかに人を知る才が無く、恤事にも闇いものでした。『春秋』では責を帥に帰しますが、臣の職はこれに該当します。自ら三等を貶降し、督の過失を咎めて頂きますよう」 こうして諸葛亮を右将軍とし、丞相の事を代行させ、総統の事は以前通りだった[19]

 冬、亮復出散關、圍陳倉、曹真拒之、亮糧盡而還。魏將王雙率騎追亮、亮與戰、破之、斬雙。七年、亮遣陳式攻武都・陰平。魏雍州刺史郭淮率衆欲撃式、亮自出至建威、淮退還、遂平二郡。詔策亮曰:「街亭之役、咎由馬謖、而君引愆、深自貶抑、重違君意、聽順所守。前年燿師、馘斬王雙;今歳爰征、郭淮遁走;降集氐・羌、興復二郡、威鎮凶暴、功勳顯然。方今天下騷擾、元惡未梟、君受大任、幹國之重、而久自挹損、非所以光揚洪烈矣。今復君丞相、君其勿辭。」

 冬、諸葛亮は復た散関から出征し、陳倉を囲んだ。曹真がこれを拒ぎ、諸葛亮は糧が尽きて還った。魏将の王双が騎兵を率いて諸葛亮を追い、諸葛亮は与に戦ってこれを破り、王双を斬った。
七年(229)、諸葛亮は陳式を遣って武都(隴南市区)・陰平(隴南市文県)を攻めさせた。魏の雍州刺史郭淮が軍兵を率いて陳式を撃とうとしたが、諸葛亮が自ら出征して建威に至ると、郭淮は退還し、かくて二郡を平らげた。
諸葛亮に詔策があった

「街亭の役の咎は馬謖に由来した。しかし君は愆(とが)を引き、深く自らを貶抑した。君が(我が)意に違える事を重んじ、その守る事を聴き順った。前年に師を燿かせ、王双を馘斬した。今歳のこの征旅で郭淮は遁走した。氐・羌を降し集め、二郡を興復し、威は凶暴を鎮め、功勲は顕然としている。まさに今、天下は騷擾し、元悪は未だ梟首されていない。君は大任を受け、国の重きの幹であるのに、久しく自ら挹損していては洪烈(大功)を光揚する事にならない。今、復た君を丞相とする。君よ、辞退する勿れ」[20]

 この建興七年の北伐は、通常は第三次北伐とされますが、陳倉攻略との間隔が短すぎる事、治世を通しての諸葛亮の基本戦略が河西の分断にあった事などを考えると、諸葛亮が陽動を担当して陳式の部隊が本命だったように思われます。さもなくば、諸葛亮は攻略相手の調査も兵站の準備も疎かにした軍略音痴という事になりましょう。

   
[1] 豫章太守周術が病卒した当初、劉表は上書して諸葛玄を豫章太守とし、南昌にて治めさせた。漢朝は周術が死んだと聞くと、朱皓を遣って諸葛玄と代えた。朱皓は揚州刺史劉繇に従い、兵を求めて諸葛玄を撃ち、諸葛玄は退いて西城に駐屯し、朱皓が南昌に入った。建安二年(197)正月、西城の民が反き、諸葛玄を殺し、首を送って劉繇に詣った。 (『献帝春秋』)
―― この書の云う事は本伝と同じではない。

 まあ、本伝に準じて見るべきでしょう。当時の劉表が豫章まで権利を主張するとは思えませんし、劉繇が出てきた以上、やはり袁術と絡ませたい処です。何でもかんでも否定するのもどうかとは思いますが、『献帝春秋』は日頃の行ないが悪すぎる(笑) 朱皓に負けた後に劉表を頼ったかどうかは知らん。

[2] 諸葛亮は南陽のケ県に家した。襄陽城の西二十里に在り、号して隆中といった。 (『漢晋春秋』)
[3] 『崔氏譜』を調べた処、崔州平は太尉崔烈の子で、崔均の弟である。

 崔州平は王允が殺された当時は恐らく父に随って長安にいて、その後に混乱を避けて荊州に移ったのでしょう。だいたい王粲と似たような境遇です。崔家といえば崔烈が買官するまで公卿を出してはいませんが、学者の家としては由緒正しい名門とされていました。それが諸葛亮らとの交際しか伝わらないのは、嫡出ではなかったからなのか、それともよほど隠逸志向が強かったのか。

―― 諸葛亮は荊州に在った時、建安の初めに潁川の石広元・徐元直、汝南の孟公威らと倶に游学し、三人は精熟に務めたが、諸葛亮は独りその大略を観た。晨夜に従容(のんびり)とする毎に膝を抱えて長嘯し、三人に謂うには 「卿ら三人は仕官すれば刺史・郡守には至るだろう」 三人が諸葛亮の事を問うても、諸葛亮はただ笑うだけで言わなかった。後に孟公威が郷里を思慕して北帰しようとした時、諸葛亮が謂うには 「中国には士大夫が溢れている。遨遊(遊楽)がどうして故郷でなければならないのか!」 (『魏略』)
―― 裴松之が考えるに、『魏略』のこの言葉は、諸葛亮が孟公威の為に計ったのなら良し。もし己の事をも考えて言ったのなら、(魚豢が)未だ諸葛亮の心に達していないと謂えよう。『老氏』は「人を知る者は智、自らを知る者は明」 と称している。およそ賢達の人とはきっと両者を兼ね、所有している。諸葛亮の鑑識を以てすれば、どうして自身の分を審らかに出来ない事があろうか? その高吟して時を俟っていても、情は平素の言葉に見えるもので、志気の所在は既にその始めに定まっているのである。もし中華を游歩させてその龍光を馳せたら、どうして多士に沈翳させられようか! 魏氏に委質(仕官)し、その器能を展べれば、誠に陳長文(陳羣)・司馬仲達が頡頏できるものではない。ましてやその他などは! 苟くも功業に就かず、道を行なわない事を患えず、宇宙のごとき弘き志でありながら北に向わなかったのは、権御が已に移って漢祚が傾きつつあり、まさに宗族の人傑を翊賛して、衰微継絶を克服して中興する事を己の任とした為であろう。区々たる利の為に辺鄙に在っただけではないのだ! これは司馬相如の謂う 「鵾鵬は已に遼廓(大空)に飛翔しているのに、羅(網張る)者は猶お薮沢を視る」 というものだ。

 割とどーでもいい。というか、裴松之が自説を展開する為に、無理やり諸葛亮の発言に曲解の可能性を見出して妙な比喩を持ち出したとしか見えません。おそらく「誠非陳長文・司馬仲達所能頡頏」 が云いたかったんでしょう。当時、どっちが上か論争が盛んだったんでしょうか。素直に 「孔明が自分を管仲・楽毅に比肩すると考えた事を批判する者がいるが、そんな事はない」 って切り口で論じればいいのに。

 孟公威は名を建といい、魏に在って亦た貴顕に達した。

 温恢伝の末尾に 「(温恢の後任として)涼州刺史となり、征東将軍に至った」 とあります。温恢が死んだのは曹丕の時代なので、ひょっとしたら涼州刺史として諸葛亮の北伐に直面していたりして。

[4] 劉備が司馬徳操に世事を訊ねた。徳操 「儒生・俗士がどうして時務を識っていましょう? 時務を識るのは俊傑です。この辺りには伏龍・鳳雛がいます」 劉備が誰かと問うと 「諸葛孔明・龐士元です」 (『襄陽記』)
[5] 劉備は樊城に駐屯した。この時、曹操は河北を定めた処で、諸葛亮は荊州が次に敵を受けると知ったが、劉表の性は緩く、軍事にも曉かではなかった。諸葛亮はかくして北行して劉備に見えたが、劉備は諸葛亮とは旧交が無く、又た年少であることから諸生として待遇した。集会を終え、衆賓が皆な去っても諸葛亮は独り留まっていたが、劉備は亦た言おうとしている事を問わなかった。劉備は毦(毛飾り。耳毛ではないを結ぶ事を好み、この時たまたま髦牛の尾を劉備に与えた者がおり、劉備は手ずからこれを結んでいた。諸葛亮はかくして進み出て 「明将軍には復た遠志があって当然ですのに、ただ毦を結ぶだけなのですか!」 劉備は諸葛亮が非常の人であると知り、かくして毦を投げて答えるには 「何を言う! 私は聊か忘憂(憂さ晴らし)していただけだ」 諸葛亮はかくて言った 「将軍は劉鎮南を度って曹操とはどうだとされます?」 劉備 「及ばぬ」 諸葛亮 「将軍は自らを度ってどうでしょう?」 劉備 「亦た及ばぬ」 諸葛亮 「今、皆な及ばず、しかも将軍の手勢は数千人を越えず、これで敵を待つのは計略とは申せません!」 劉備 「私も亦たそれを愁えている。どのようにすれば良かろう?」 諸葛亮 「今、荊州は人が少ないのではなく、録籍者が寡ないのです。戸を平らげて発調(徴兵)しても人心は悦びません。鎮南に語って国中の游戸の実態を調べさせ、録籍して手勢を益すのが宜しいでしょう」 劉備はその計に従い、そのため手勢は強くなった。劉備はこれに由って諸葛亮に英略がある事を知り、かくして上客として礼遇した。 (『魏略』)
『九州春秋』の言う事も亦たこの通りである。
―― 裴松之が考えるに、諸葛亮は上表で 「先帝は臣の卑鄙を以てせず、猥りに自ら枉屈し、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮るに当世の事を以てす」 と云っている。諸葛亮が先んじて劉備に詣ったのではない事は明白である。聞見によって辞述が異なり、各々彼此を生じたとしても、乖背がこのようになるのは亦た怪訝な事である。
[6] 徐庶の嘗ての名は福で、もとは単家(寒門)の子であり、若くして任侠と撃剣を好んだ。中平の末に人のために讎を報い、白堊(白土)で面を汚し、被髮して逃走した。吏に執われ、その姓字を問われても閉口して言わなかった。吏はかくして車上に柱を立てて磔け、鼓を撃って市に鄽(さら)したが、識っていると言う者は莫く、その党伍が共に奪って解き、脱出できた。こうして感激し、その刀戟を棄て、更めて疎巾単衣して、節を折って学問した。始めて精舎に詣り、諸生は以前に賊をなしていたと聞き、共に止まる事を肯んじなかった。徐福はかくして躬を卑くして早くに起き、常に独り掃除し、意に先んじて動静し、経学を聴習し、その義の理りに精熟した。かくて同郡の石韜と相い親愛した。
初平中、中州(中原)に兵が起ると石韜と南のかた荊州に客居し、到った後に又た諸葛亮と特に相い親善した。荊州が内附すると、孔明は劉備に随って去り、徐福は石韜と倶に北に来た。黄初中に石韜は出仕して郡守・典農校尉を歴任し、徐福は右中郎将・御史中丞に至った。太和中に及び、諸葛亮が隴右に出征した時、元直・広元が出仕してこのようだと聞くと歎息し、「魏は殊に多士なのか! どうして彼ら二人が用いられないのだろうか?」 徐庶はのち数年で病卒した。碑は彭城に在り、今も猶お存在している。 (『魏略』)

 なぜ徐庶が諸葛亮伝ではクローズアップされるのか。少なくとも魚豢の意図は、諸葛亮の最後の歎息に集約されています。陳寿の意図はよう解りません。劉備の周囲には義に厚い人が集まっていたアピール?

[7] 張子布が孫権に諸葛亮を薦挙したが、諸葛亮は留まる事を肯んじなかった。人にその理由を問われると 「孫将軍は人主と謂うべきだが、その度量を観た処、亮を賢として遇する事はできても亮の能を尽くす事はできない。だから留まらなかったのだ」 (『袁子』)
―― 裴松之が考えるに、袁孝尼袁準の著した文や立てた論は、甚だ諸葛亮の為人りを重んじているが、このような言辞に至っては殊に遠く失したものがある。諸葛亮の君臣の遭遇を観るに、希世の一時とも謂うべきもので、終始の分を以て誰が間隙を為せよう? 中途で断金に違え、主を択ぶ心を懐こうなどと。もし孫権がその力量を尽させるなら、便ちに翻然として去就しようか? 諸葛亮の生き様とはそのようであろうか! 関羽は曹操に獲われ、遇されること甚だ厚く、その用を尽くす事ができたと謂えようが、猶お義として本に背かなかった。孔明が雲長に及ばないとでも謂うのか!

 裴松之の指摘については尤もな事で、しかも問答が袁子の創作である事を匂わせています。『袁子』は諸葛亮を称えようとして却って矮小化した好例ですが、裴松之の諸葛亮信仰も正直キモいです。ま、理論武装した信仰はキモいものですが。

[8] 諸葛亮はこのとき臨烝(衡陽市祁東)に駐した。 (『零陵先賢伝』)
[9] 晋初、扶風王司馬駿が関中に鎮守し、司馬である高平の劉宝・長史である滎陽の桓隰ら諸々の官属士大夫が共に諸葛亮を論じた事があり、この時、論者の多くが諸葛亮が託すべきでない所にその身を託し、蜀の民を労困させ、小さき力で大事を謀り、徳や力を量らなかった事を譏った。金城の郭沖は諸葛亮の権智英略は管仲や晏嬰を踰えているのに、功業を遂げる事ができずに論者が惑っていると考え、諸葛亮の隠没して世に聞こえていない五事を箇条書きにした。劉宝らは復た難じる事が出来なかった。扶風王は慨然として郭沖の言葉を是とした。 (『蜀記』)
―― 裴松之が考えるに、諸葛亮の殊なる美点は、誠に聞きたいものだ。しかし郭沖の説いたものは皆な疑わしい。謹んで事に随って難じるのは左記の通りである。
 其の一 : 諸葛亮の刑法は峻急で、百姓を刻剥し、君子より小人は咸な怨歎を懐いた。法正が諫めるには 「昔、高祖が入関した折、約法は三章であり、秦の民はその徳を知りました。今、君は威力を仮借して一州に跨拠しています。その国を有した初めなのに、未だに恵撫を垂れておりません。しかも客主の義からも(自ら)降下するの妥当です。願わくば刑を緩めて禁令を弛め、蜀人の望みを慰めて頂きたい」 諸葛亮が答えた 「君はその一を知って未だにその二を知らぬ。秦の無道によって政治の苛酷を民は怨み、匹夫が大いに呼ばわって天下が土崩した。高祖はこれに因り、弘き救済を是としたのだ。劉璋は暗弱で、劉焉より以来の累世の恩があり、文法(法令)は羈縻して互いに承奉(阿諛)し、徳政を挙げず、威刑も粛然としなかった。蜀土の人士は権を専らにして横恣であり、君臣の道はようように陵替(凌頽)していた。位によって寵すれば位が極まれば賤しみ、恩によって順えれば恩が竭きれば侮慢するもの。疲弊を招く理由は実にここに由来するのだ。私が今、法によって威圧しているのは、法が行なわれれば恩を知るからであり、爵によって区分しているのは、爵が加わった時に栄誉を知るからだ。栄と恩とが揃って遂げられれば上下の節が生じる。為政の要諦はここに著れている」
:反論しよう。調べた処、法正は劉備の存命中に死んでいる。今、法正が諫めたと謂うからには劉備は存命である。諸葛亮の職は股肱であり、事は元首に帰す。劉備の時代、諸葛亮は又た未だ益州牧を兼領しておらず、慶賞・刑政を己から出してはいない。郭沖が述べる諸葛亮の答えを尋ねると、自身にその権能があるとしており、これは人臣の処世の妥当性には違えている。諸葛亮の謙順の礼からすれば、とうてい考えられない事だ。又た諸葛亮の刑法が峻急で、百姓を刻剥していると云っているが、未だに善政を刻剥によって讃えるなど聞いた事がない。
 其の二 : 曹操が刺客を遣って劉備に通見させ、交接の機を得ると開口して伐魏の形勢を論じ、甚だ劉備の計に合致した。次第に親近しようとし、刺者が尚お未だ機会を得られずにいるうちに諸葛亮が入室した。魏の客の神色は失措(狼狽)し、諸葛亮はこれに因って察し、亦た非常の人である事を知った。少しして刺客が厠に行くと、劉備が諸葛亮に謂うには 「さきほど奇士を得た。君を助けて補益するに足りよう」 諸葛亮が所在を問うと、劉備は 「起って行った者だ」 諸葛亮は徐ろに歎じ 「観たところ客の気色は動揺し、精神は懼れ、視線は低くしばしば反抗的でした。姦の形が外に漏れるのは、邪心を内藏しているからです。きっと曹氏の刺客でありましょう」 これを追わせたが、已に牆を越えて逃走していた。
:反論しよう。凡そ刺客とは皆な暴虎馮河の輩で、死んでも悔やまぬ者である。劉備には知人の鑒(人を見極める鑑識眼)があり、しかもこの客に惑わされたのなら、この客はきっと当代の奇士に違いない。又た諸葛亮に語って云った 「足以助君補益」 なら、亦た諸葛亮の亜流であろう。凡そ諸葛亮の同類が人の為に刺客となる事は少なく、時の主も亦たその器用を惜しみ、必ず死地には投じはしないだろう。しかもこの人は死んでおらず、必ず顕達して魏の為に応じている筈なのに、結局これは誰だったのか? どうして寂蔑(消失)して世に聞こえなかったのか!

 郭沖の五事の残りは注[16][18][22]で、どれにも裴松之の反駁が添付されています。諸葛亮批判より信者の布教活動の方が嫌いなようで、一種の同属嫌悪っぽいです。まあ、これらの記事と反論があったからこそ、『演義』第九十五回話の空城の計などが、郭沖の言葉より不整合が減らされた訳ですが。

[10] 孫盛曰く、道義と信順を兼ねる事で、主を匡けて功を遂げ、終には大業を定める事が出来るのだ。諺語にも 「弈者は棊を挙げても定めなければ猶お勝てず」 という。ましてや君主の才否を量り、その節を二三にさせるようでは、どうして強鄰を摧服して四海を嚢括する事ができよう? 劉備の諸葛亮への命令は、乱の甚だしいものである! 世の或る者は、劉備はこれに因って委付の誠を固め、且つ蜀人の志を一にしようとしたと謂っている。君子はそうではないとする。苟くも忠賢に託したのなら、このように諭す必要はなく、そうでない相手なら、簒逆の途を啓いたのは宜しくない、と。だから古えの顧命は必ず話言で遺したのだ。詭偽の辞とは託孤の謂いではない。幸にも劉禅は闇弱に値したが猜険の性では無く、諸葛亮の威略は異端を検衛(制圧)するに足り、そのため異同の心を起させずにいられたのである。そうでなければ、猜疑による隙や不逞の虚が生じていたに違いない。これを非常時の権謀とする謂いは亦た惑乱したものではなかろうか!

 ハイ!孫盛サンの君子宣言入りましたー! しかも遺言は口頭がデフォルトだとか、ツッコまれたくてツッコんでいるとして思えませんが、恐らく本人はドヤっているものと思われます。

[11] この歳、魏の司徒華歆・司空王朗・尚書令陳羣・太史令許芝・謁者僕射諸葛璋は各々書を諸葛亮に与え、天命と人事とを陳べて挙国称藩させようとした。諸葛亮は終に報書せず、『正議』を著作し、「昔、項羽がいた。起きて徳に由らず、華夏に拠って帝事を秉る勢いがあったが、卒には湯鑊の刑に就き、後永の戒めとなった。魏はこれを鑑みず、今、これに次ごうとしている。身は幸いに免れても、戒めは子孫に在る。しかし二・三子は各々耆艾の齢でありながら、偽令を承けて書を進呈し、陳崇・張竦が王莽の功を讃えたようである。亦た大禍が偪ろうとしているのに苟くも免れるものか! 昔、世祖が旧基に創迹された時、羸卒(弱兵)数千を奮って王莽の彊旅四十余万を昆陽の郊外で摧いた。道に拠って淫を討ったもので、衆寡は問題ではないのだ。孟徳に至り、その譎勝の力で数十万の師を挙げ、陽平に張郃を救ったが、勢は窮まり慮を誤り、僅かに自ら脱出でき、その鋒鋭の衆を辱めた。かくて漢中の地を喪い、神器とは妄りに獲ってはならぬと深く知り、旋還して未だ至らぬうちに毒に感応して死んだ。子桓(曹丕)は淫逸であり、これを継いで簒奪した。たとえ二三子が多く蘇秦・張儀の詭靡の説を逞しうし、驩兜の滔天の辞を奉進して、唐帝(堯)を誣毀し、禹・稷を諷解(諷譛)しようとも、所謂る徒らに文藻を喪い、翰墨を浪費するというもので、大人君子は為さない行為だ。又た『軍誡』には“万人が必死となれば天下に横行す”とある。昔、軒轅氏(黄帝)は士卒数万を整えて四方を制し、海内を定めた。ましてや数十万の軍勢を以て、正道に拠って有罪者に臨むのだ。干擬(忤い僭擬)する者などいようか!」 (『諸葛亮集』)
[12] 詔にて諸葛亮に金鈇鉞の一具えと、曲蓋を一つ、前後の羽葆(車飾り)・鼓吹を各々一部、虎賁六十人を賜った。事は『諸葛亮集』にある。
[13] 諸葛亮は南中に至り、所在で戦って克った。孟獲という者が夷・漢に帰服されていると聞き、生け捕る者を購募した。得た後に営陣の間を観せて問うた 「この軍はどうだ?」 孟獲 「先には虚実を知らず、だから敗れた。今、営陣を観看させて頂いた。もしこの程度なら、容易く勝てましょう」 諸葛亮は笑い、縦(はな)って更めて戦わせ、七たび縦って七たび禽え、そうして諸葛亮は猶おも孟獲を遣ろうとした。孟獲は止まって去らず 「公は天威であります。南人は再びは反きますまい」 かくて滇池に至った。 南中を平らげ、皆なその渠率を即けて用いた。或る者が諸葛亮を諫めたが、諸葛亮は 「もし部外者を留めれば、それは兵を留める事になり、兵を留めようにも糧食のアテが無い。これが易えない理由の一である。加えて夷は新たに傷破したもので、父兄を死喪している。部外者を留めて兵が無ければ、きっと禍患と成ろう。易えない理由の二である。又た夷は(中国に対して)殺廃の罪を累ね、自ら罪の重きを疑っている。もし部外者を留めれば、結局は互いに信じない。易えない理由の三である。今、私が兵を留めず、運糧せず、綱紀を互いに定めるのは、夷・漢を共に安んじさせたいと思うからなのだ」 (『漢晋春秋』)
[14] 裴松之が調べた処、劉備が建安十三年に敗れて諸葛亮を呉への使者に遣り、諸葛亮は建興五年に抗表して北伐した。傾覆してよりここまで丁度二十年である。そうであるなら劉備が始めて諸葛亮と相いまみえたのは敗軍の一年前となる。
[15] 瀘惟水は牂牁郡句町県(玉渓市通海)より出ている。 (『漢書』地理志)
[16] 郭沖の其の三。諸葛亮は陽平に駐屯すると、魏延と諸軍を遣って兵を併せて東下させ、諸葛亮はただ万人を留めて城を守った。司馬懿は二十万の軍兵を率いて諸葛亮を拒いだが、魏延の軍とは道を違え、真直ぐ前んで諸葛亮の六十里手前に至った。偵候が白して司馬懿に説くには、諸葛亮のいる城中の兵は少なく弱いと。諸葛亮も亦た司馬懿が今にも至ろうとしていると知ったが、已に偪っており、前んで魏延の軍に赴こうにも遠く離れてしまい、回頭させて反撃しようにも勢力が及ばず、将士は色を失って計策を立てられる者は莫かった。諸葛亮は意気自若とし、軍中皆なに旗を臥せて鼓を息ませ、妄りに菴幔から出ぬよう命じ、又た四つの城門を大きく開かせて埽地卻洒(掃除と水撒き)するよう命じた。司馬懿は常に諸葛亮が慎重だと謂っており、猥りに勢いの弱きを見せた事で伏兵があることを疑い、軍を率いて北の山に赴いた。明日の食事時、諸葛亮は参佐に手を搏って大笑いしつつ謂った。「司馬懿はきっと私が怯懦ゆえ強兵を伏せていると考え、山を循って退走したのだ」 候邏が還って白すには、諸葛亮の言葉通りだった。司馬懿は後に知ると深く悔恨した。
―― 反論しよう。調べると陽平は漢中に在る。諸葛亮が初めて陽平に駐屯した時、司馬懿は尚お荊州都督であり、宛城に鎮守していた。曹真の死後に至って始めて関中で諸葛亮と相い抗禦したのである。魏は嘗て司馬懿を遣って宛より西城を経由して蜀を伐たせたが、霖雨に遭って果たせなかった。この前後には陽平で兵を交えた事はない。もし郭沖の言葉通りなら、司馬懿は二十万の軍を挙っており、已に諸葛亮の兵が少なく弱い事を知っており、もし伏兵がある事を疑っても、防備を設けて慎重に待機すべきで、どうして便ちに退走しようか? 魏延伝は 「魏延は諸葛亮に随って出征するたび、そのつど精兵万人を請い、諸葛亮と道を異にして潼関で会同しようと望んだが、諸葛亮は制して許さなかった。魏延は常に諸葛亮が怯懦であり、己の才が尽くは用いられない事を歎いた」 と云っている。諸葛亮は魏延に万人を別に統べさせる事もさせなかったのだ。どうして郭沖の言葉の通り、忽ちに重兵を率いて前行させ、しかも軽弱で自ら守る事が出来ようか? しかも郭沖は扶風王と語り、司馬懿の短を顕彰している。子に対して父を毀つなど道理として許容されまい。しかも 「扶風王は慨然として郭沖の言葉を善しとした」 と云っている(注[9]より)。そのためこの書の挙引が皆な虚構と知れるのである。
[17] 始め、国家(魏国)は蜀中にはただ劉備があるだけだと思っていた。劉備の死後、数年は寂然として警報が無く、この為あらましは予め備えなかった。卒然として諸葛亮が出征したと聞くと朝野は恐懼し、隴右・祁山が最も甚だしく、そのため三郡は時を同じくして諸葛亮に応じた。 (『魏略』)
[18] 郭沖の其の四。諸葛亮が祁山に出征し、隴西・南安の二郡が応じて降り、天水を囲み、冀城を抜いて姜維を虜とし、略取した士女数千人を駆って蜀に還った。人は皆な諸葛亮を賀したが、諸葛亮の顔色は愀然として戚とした様子で、謝して云うには 「普天の下、漢民で無い者は莫い。国家の威力は未だ挙がらず、百姓を豺狼の餌として困じさせている。一夫が死んだのも皆な亮の罪なのに、これを慶賀されても愧じずにはいられない」 これによって蜀人は咸な、諸葛亮に魏国併呑の志があり、拓境で満足しているのではない事を知った。
―― 反論しよう。諸葛亮が呑魏の志を持って久しく、始めてここで衆人が知った訳ではない。しかもこの時は師を出しても成功せず、傷缺して軍兵は反り、三郡を帰降させても保有出来なかった。姜維は天水の匹夫に過ぎず、これを獲たところで魏に何の損失があろう? 西県の千家を抜いたところで街亭の喪失を補った事にはならず、何を以て功として蜀人は慶賀したのか?
[19] 或る者が諸葛亮に、更めて兵を調発する事を勧めた。諸葛亮は 「大軍が祁山・箕谷に在った時、皆な賊より多かった。しかし賊を破る事ができずに賊に破られた。これは問題が兵の少なさにあったからではなく、一人にあったというだけだ。今は兵を減らして将を省き、罰を明らかにして過ちを思い、将来に対する変通の道を糺したい。もしそう出来なければ、兵が多くとも何の益があろう! 今より以後、国に対する諸々の忠慮が、ただ私の欠を攻める事に勤めれば、事は定まり、賊は死に、功は蹻足(僅かな時間)を待つだけだ」 こうして微労を考え、烈壮の士を彰わし、引咎して躬ずからを責めて天下に失敗を布告し、兵を獅ワして講武し、後への備えとした。戎士を簡抜して練磨し、民は敗戦の事を忘れた。
(六年、)諸葛亮は孫権が曹休を破り、魏が兵を東下させて関中は虚弱になったと聞いた。

 東で負けた魏が関中兵を動かしたという事は、姜維伝本文でも延熙二十年に云っていますが、魏の体制として現実的ではありません。この年に張郃が関中から荊州に派遣されてはいますが、曹真への増援として動かした張郃を荊州に戻しただけで、しかもそのタイミングは曹休の南征に呼応したものです。石亭の敗北で動かした訳ではありません。

十一月、上言した
「先帝は漢と賊が両立せず、王業が偏えに安定しない事を慮り、そのため臣に討賊の事を託されました。先帝の明察によって臣の才を量り、そのため臣の伐賊の才が弱く敵が強い事を知ったことでしょう。しかし賊を伐たずに王業も亦た亡び、ただ坐して亡びを待つのと、これを伐つのと(択ぶべきは)孰れでありましょう? このため臣に託し、疑わなかったのです。臣は受命の日より、臥しても席に安んぜず、食べても味を甘しとせず、ただ北伐を思い、先ず南入するのが妥当だとしました。そのため五月に瀘水を渡り、深く不毛に入り、二日の食事を一食にもしました。臣は自身を惜しまないのではなく、偏に蜀都を全うできぬ王業を顧み、そのため危難を冒して先帝の遺意を奉じております。しかし議者は良策ではないと謂っております。今、賊はまさに西で疲弊し、又た東に任務を生じております。兵法では労に乗じるとあり、これぞ進趨の時であります。
 謹んでその事を陳べれば、左記のようになります。高帝の明は日月に並び、謀臣(の才智)は淵深で、それでも険阻を渉って創を負い、危難の後に安んじました。今、陛下は未だ高帝に及びません。謀臣は張良・陳平に及ばず、それなのに良計によって勝ちを取り、座して天下を定めようとしております。これが臣が理解できない第一です。
劉繇・王朗は各々州郡に拠り、安を論じ計を言い、動く際には聖人を引喩しましたが、群なす疑念は腹を満たし、多き難事は胸を塞ぎ、その歳には戦わず、明年には征かず、孫策を坐して強大とし、遂に江東を併呑させました。これが臣が理解できない第二です。
曹操の智計は殊に人を絶し、その用兵は孫武・呉起を髣髴とさせるのに、南陽では困じ、烏巣では険しく、祁連では危うく、黎陽では偪られ、北山では敗北しかけ、潼関では死にかけ、その後に一時の偽りの平定を得ただけです。ましてや諸臣の才は弱く、しかも危険を冒さずに大事を定めようとは。これが臣が理解できない第三です。
曹操は五たび昌霸(昌豨)を攻めて下せず、四たび巣湖を越えても成功せず、李服を任用したものの李服に図られ、夏侯淵に委ねたものの夏侯淵は敗亡しました。先帝は毎々に曹操を称えて能としましたが、猶おこの失策があります。ましてや臣は駑下であり、どうして必ず勝つことなど出来ましょう? これが臣が理解できない第四です。
臣が漢中に到ってより、朞年(満一年)を間に置いただけで、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白壽・劉郃・ケ銅らおよび曲長・屯将七十余人を喪い、突将はもうおりません。賨(巴人)・叟(蜀人)・青羌の散騎・武騎一千余人は皆な数十年かけて糾合した四方の精鋭で、一州から得たものではなく、もし復た数年すれば、三分の二を損いましょう。これでどうやって敵を図れましょう? これが臣が理解できない第五です。
今、民は窮し兵は疲れ、しかも軍事は息まず、軍事が息まねば住と行、労と費はまさに等しいというのに、今を図ろうとは思わず、一州の地によって賊と持久しようとしています。これが臣が理解できない第六です。
 そも平安をし難くしているのが有事です。昔、先帝は楚で敗軍し、まさにこの時、曹操が手を拊って謂うには、これで天下は定まった、と。しかる後に先帝は東は呉越と連なり、西は巴蜀を取り、兵を挙げて北征すれば夏侯淵は首を授けました。これは曹操の失計であり、漢の事は達成されようとしたのです。しかる後に呉は更めて盟に違え、関羽は毀敗し、秭帰に蹉跌し、曹丕は称帝しました。凡そ事とはこの様に逆見(遡っての予見)するのは難事なのです。臣は鞠躬尽力して死によって已む所存です。成敗・利鈍については臣の逆覩(逆見)では明らかに出来ないものであります」
こうして散関の役となった。この表は『諸葛亮集』には無く、張儼の『黙記』の出典である。 (『漢晋春秋』)

 この『後出師表』には真贋論争がありますが、面倒いので踏み込みません。まあ諸葛亮にしてはネガ過ぎるし、問題点の対処には言及せず、檄にもなっていません。しかも呉を引合いに出し過ぎるし、劉繇や王朗に言及する必要もありません。何より趙雲を勝手に殺すなと強く云いたい。

[20] この歳、孫権が尊号を称し、その群臣が尊きこと二帝に並んだ事を告げに来た。議者は咸な交誼が無益であり、しかも名も体も順当ではないと考え、正義を顕明にして盟好を絶つのが妥当だとした。諸葛亮 「孫権は僭逆の心を持って久しく、国家がその釁情(逆心)を省いてきたのは、掎角の援を求めるからである。今、もし顕絶を加えたなら我らを必ず深く讐とするだろう。そうすれば兵を移して東伐し、これと角力してその土地を併せ、その後に中原の事を議さねばならなくなる。彼の地には賢才が尚お多く、将相が緝穆(協睦)し、一朝で定める事はできない。兵を留めて対峙すれば、坐したまま老いる事になり、北賊に大計を得させてしまう。これは上算とはいえない。昔、孝文帝が匈奴に辞を卑しくし、先帝が呉との盟を優先させたのは、皆な応権通変の策であり、弘く遠益を思ったもので、匹夫の為す忿りではなかった。今、議者は咸な、孫権が鼎足の利を以て力を併せず、しかも志望を満たし、(北岸へ)上岸する情が無いとしている。推定するに、皆な是のように見えて非である。何故か? その智力は等しくなく、そのため江を限って自ら保っているのである。孫権が越江できないのは、魏賊が漢水を渡れず、余力がありながら取らない事を利としているのとは同じではない。もし(魏を)大軍で討伐すれば、彼は高きはその地を分割して後の規企とし、低きは民を略取して境域を広げ、内に武を示し、端坐してはいないだろう。もしそのまま動かずとも我らと和睦していれば、我らには北伐しても東顧の憂いは無く、(魏は)河南の軍兵を尽く西する事はできない。これが利点として深いものだ。孫権の僭称の罪は未だ明らかにするのは妥当ではない」 かくして衛尉陳震を遣り、孫権の正号を慶賀した。 (『漢晋春秋』)
 


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