三國志修正計画

三国志卷三十三 蜀志三/後主傳

後主伝

 後主諱禪、字公嗣、先主子也。建安二十四年、先主為漢中王、立為王太子。及即尊號、冊曰:「惟章武元年五月辛巳、皇帝若曰:太子禪、朕遭漢運艱難、賊臣簒盜、社稷無主、格人羣正、以天明命、朕繼大統。今以禪為皇太子、以承宗廟、祗肅社稷。使使持節丞相亮授印緩、敬聽師傅、行一物而三善皆得焉、可不勉與!」三年夏四月、先主殂于永安宮。五月、後主襲位於成都、時年十七。尊皇后曰皇太后。大赦、改元。是歳魏黄初四年也。

 後主の諱は禅、字は公嗣。先主の子である。建安二十四年(219)、先主は漢中王となり、立てて王太子とした。尊号に即くに及び、冊にて 「章武元年(221)五月辛巳、皇帝はかくの若く曰う。太子禅よ、朕は漢運の艱難に遭遇し、賊臣が簒盜して社稷に主は無く、格人(人格者)や群正(群臣)は天の明らかな命を以てし、朕は大統を継いだ。今、禅を皇太子とし、宗廟を承けて社稷に祗粛(慎粛)させる。使持節・丞相の諸葛亮に印緩を授けさせる。師傅に敬聴し、一物を行なって三善を皆な得よ。勉めねばならぬ!」[1]
三年(223)夏四月、先主が永安宮で殂(みまか)った。五月、後主は成都で位を襲(つ)いだ。時に齢十七。皇后を尊んで皇太后といった。大赦し、改元した。この歳は魏の黄初四年である[2]

 即位即改元の、所謂る立年称元法というヤツで、非常時の例外的な措置とされるものです。劉備が出征先で死んだとはいえ、遺言は丞相を介してキッチリ遺していますし、劉禅が後継争いをして即位したという訳でもありません。裴松之も巻末で指摘してはいますが、「やれやれ」って感じ追及はしていません。やはり斧を持って徘徊させないとインパクトが弱いんでしょうか。

 建興元年夏、牂牁太守朱褒擁郡反。先是、益州郡有大姓雍闓反、流太守張裔於呉、據郡不賓、越雟夷王高定亦背叛。是歳、立皇后張氏。遣尚書郎ケ芝固好於呉、呉王孫權與蜀和親使聘、是歳通好。

 建興元年(223)夏、牂牁太守朱褒が郡を擁して反いた[3]。これより以前、益州郡では大姓である雍闓の反抗があり、太守張裔を呉に流し、郡に拠って賓(まつろ)わず、越雟の夷王の高定も亦た背叛した。
この歳、張氏を皇后に立てた。尚書郎ケ芝を遣って呉との好誼を固めさせ、呉王孫権は蜀と和親して使者を来聘させ、この歳に通好した。

 二年春、務農殖穀、閉關息民。

 三年春三月、丞相亮南征四郡、四郡皆平。改益州郡為建寧郡、分建寧・永昌郡為雲南郡、又分建寧・牂牁為興古郡。十二月、亮還成都。

 四年春、都護李嚴自永安還住江州、築大城。

 二年(224)春、農業に務めて殖穀させ、(南の)関を閉ざして民を息わせた。

 三年(225)春三月、丞相諸葛亮が四郡に南征し、四郡を皆な平らげた。益州郡を改めて建寧郡とし、建寧・永昌郡から分けて雲南郡とし、又た建寧・牂牁から分けて興古郡とした。十二月、諸葛亮が成都に還った。

 四年(226)春、都護李厳が永安より還って江州(重慶市巴南区)に住(とど)まり、大城を築いた[4]

 五年春、丞相亮出屯漢中、營沔北陽平石馬。

 五年(227)春、丞相諸葛亮が漢中に出屯し、沔北の陽平郡石馬に駐営した[5]

 前年に曹丕が歿し、その年の内に孫権が江夏にちょっかいを出している事に比べると、些か行動が遅いようです。ただこの年、魏では西平(青海省西寧地区)の麴英が反いているので、これを意識した動きかもです。麴英は討平されたものの、下記の劉禅の詔書では月支や康居の使節が来朝したと云い、さらに蜀軍が北上した時の天水郡の混乱ぶりを見ると、隴西・河西には魏の支配が浸透していなかった感じです。

 六年春、亮出攻祁山、不克。冬、復出散關、圍陳倉、糧盡退。魏將王雙率軍追亮、亮與戰、破之、斬雙、還漢中。

 七年春、亮遣陳式攻武都・陰平、遂克定二郡。冬、亮徙府營於南山下原上、築漢・樂二城。是歳、孫權稱帝、與蜀約盟、共交分天下。

 八年秋、魏使司馬懿由西城、張郃由子午、曹真由斜谷、斜、余奢反。欲攻漢中。丞相亮待之於城固・赤阪、大雨道絶、真等皆還。是歳、魏延破魏雍州刺史郭淮于陽谿。徙魯王永為甘陵王。梁王理為安平王、皆以魯・梁在呉分界故也。

 九年春二月、亮復出軍圍祁山、始以木牛運。魏司馬懿・張郃救祁山。夏六月、亮糧盡退軍、郃追至青封、與亮交戰、被箭死。 秋八月、都護李平廢徙梓潼郡。

 十年、亮休士勸農於黄沙、作流馬木牛畢、教兵講武。

 六年(228)春、諸葛亮が出戦して祁山を攻めたが、勝てなかった。

 街亭の役をクライマックスとする第一次北伐です。天水・南安・安定の三郡を一時的にでも靡かせた戦績すら無視ったのは、失敗を小さく見せる為の配慮?それにしても扱いが小さい。この歳、呉では周魴の佯降が成功して曹休が大敗していますが、これは蜀呉の連動ではなく偶然でしょう。

冬、復た散関から出て陳倉を囲んだが、糧食が尽きて退いた。魏将の王双が軍を率いて諸葛亮を追撃し、諸葛亮は戦い、これを破って王双を斬り、漢中に還った。

 七年(229)春、諸葛亮が陳式を遣って武都(隴南市区)・陰平(隴南市文県)を攻めさせ、二郡を克定した。 冬、諸葛亮が府を徙して南山の麓の平原上に営み、漢(勉県)・楽(城固)の二城を築いた。
この歳、孫権が称帝し、蜀と約盟するには、共に交々天下を分けんと。

 八年(230)秋、魏が司馬懿に西城を経由させ、張郃には子午道を経由させ、曹真には斜谷を経由させ、漢中を攻めようとした。丞相諸葛亮は城固・赤阪で待機し、大雨により道が絶たれて曹真らは皆な還った。この歳、魏延が魏の雍州刺史郭淮を陽谿で破った。魯王劉永を徙して甘陵王とし、梁王劉理を安平王とした。魯・梁が皆な呉に分けた界内に在るからである。

 九年(231)春二月、諸葛亮が復た軍を出して祁山を囲み、木牛での運輸を始めた。魏の司馬懿・張郃が祁山を救った。夏六月、諸葛亮は糧が尽きて軍を退(ひ)き、張郃が追って青封に至って諸葛亮と交戦し、箭を被って死んだ。 秋八月、都護李平を廃して梓潼郡に徙した[6]

 十年(232)、諸葛亮は士卒を休ませて黄沙で勧農し、流馬・木牛を作り畢(お)え、兵を教練して武事を講じた。

 十一年冬、亮使諸軍運米、集於斜谷口、治斜谷邸閣。是歳、南夷劉冑反、將軍馬忠破平之。

 十二年春二月、亮由斜谷出、始以流馬運。秋八月、亮卒于渭濱。
征西大將軍魏延與丞相長史楊儀爭權不和、舉兵相攻、延敗走;斬延首、儀率諸軍還成都。大赦。以左將軍呉壹為車騎將軍、假節督漢中。 以丞相留府長史蔣琬為尚書令、總統國事。

 十一年(233)冬、諸葛亮が諸軍に糧米を運ばせて斜谷口に集積し、斜谷に邸閣(倉庫)を修治させた。
この歳、南夷の劉冑が反き、将軍の馬忠が破って平定した。

 十二年(234)春二月、諸葛亮が斜谷より出征し、流馬での運輸を始めた。秋八月、諸葛亮が渭浜(渭河の畔)で卒した。
征西大将軍魏延と丞相長史楊儀とは権を争って和まず、兵を挙げて相い攻伐し、魏延が敗走した。魏延の首を斬り、楊儀が諸軍を率いて成都に還った。大赦した。左将軍呉懿を車騎将軍とし、仮節・督漢中とした。丞相留府長史蔣琬を尚書令とし、国事を総統させた。

 十三年春正月、中軍師楊儀廢徙漢嘉郡。夏四月、進蔣琬位為大將軍。

 十四年夏四月、後主至湔、登觀阪、看汶水之流、旬日還成都。徙武都氐王苻健及氐民四百餘戸於廣都。

 十五年夏六月、皇后張氏薨。

 十三年(235)春正月、中軍師楊儀を廃して漢嘉郡に徙した。夏四月、蔣琬の位を進めて大将軍(・録尚書事)とした。

 十四年(236)夏四月、後主が湔に至り[7]、観阪に登って汶水の流れを看、旬日して成都に還った。武都氐王の苻健[※]および氐民四百余戸を広都に徙した。

※ 十六国の前秦の人と種族も姓名も同じですが、偶然です。あちらはこの時点では生まれていませんし、当時は蒲氏を称していました。蛇足までに。


 十五年(237)夏六月、皇后張氏が薨じた。

 延熙元年春正月、立皇后張氏。大赦、改元。立子璿為太子、子瑤為安定王。冬十一月、大將軍蔣琬出屯漢中。

 二年春三月、進蔣琬位為大司馬。

 三年春、使越雟太守張嶷平定越雟郡。

 四年冬十月、尚書令費禕至漢中、與蔣琬諮論事計、歳盡還。

 五年春正月、監軍姜維督偏軍、自漢中還屯涪縣。

 延熙元年(238)春正月、張氏を皇后に立てた。大赦し、改元した。子の劉璿を立てて太子とし、子の劉瑤を安定王とした。冬十一月、大将軍蔣琬が漢中に出屯し(、開府させ)た。

 この歳、魏では遼東遠征と焼当羌の造叛がありました。蔣琬への詔によれば、遼東遠征に乗じ、呉にも動きがあったら北伐せよとあります。呉が実際に動いたのは翌年で、どちらも相手の動きを期待した結果、機を逃した印象です。


 二年(239)春三月、蔣琬の位を進めて大司馬とした。

 三年(240)春、越雟太守張嶷に越雟郡を平定させた。

 四年(241)冬十月、尚書令費禕が漢中に至り、蔣琬と事計を諮論し、歳が尽きて還った。

 この歳、呉は大規模な北伐を実施しています。この諮論は、これに呼応した北伐を論じたものだと思いたいのですが、どうも蔣琬が準備していた東征を中止させる目的だったようです。実際、蜀軍は動きませんでした。


 五年(242)春正月、監軍姜維が偏軍(半軍)を督し、漢中より涪県に還って駐屯した。

 六年冬十月、大司馬蔣琬自漢中還、住涪。十一月、大赦。以尚書令費禕為大將軍。

 七年閏月、魏大將軍曹爽・夏侯玄等向漢中、鎮北大將軍王平拒興勢圍、大將軍費禕督諸軍往赴救、魏軍退。夏四月、安平王理卒。秋九月、禕還成都。

 八年秋八月、皇太后薨。十二月、大將軍費禕至漢中、行圍守。

 九年夏六月、費禕還成都。秋、大赦。冬十一月、大司馬蔣琬卒。

 十年、涼州胡王白虎文・治無戴等率衆降、衞將軍姜維迎逆安撫、居之于繁縣。是歳、汶山平康夷反、維往討、破平之。

 六年(243)冬十月、大司馬蔣琬が漢中より還り、涪に住(とど)まった。十一月、大赦した。尚書令費禕を大将軍(・録尚書事)とした。

 大司馬府に対する、朝廷による事実上の政変と見るべきでしょう。旧丞相府に対する朝廷の攻撃と謂ってもいいかもです。以後、蜀漢は多頭体制となって尚書令や内官の発言力が増し、大将軍が漢中に長期進駐する事もなくなります。


 七年(244)閏月、魏の大将軍曹爽・夏侯玄らが漢中に向い、鎮北大将軍王平が興勢囲駱谷道上の要害)で拒いだ。大将軍費禕が諸軍を督して往赴して救い、魏軍は退いた。夏四月、安平王劉理が卒した。秋九月、費禕が成都に還った。

 八年(245)秋八月、皇太后が薨じた。十二月、大将軍費禕が漢中に至り、囲守を行(めぐ)った。

 九年(246)夏六月、費禕が成都に還った。秋、大赦した。冬十一月、大司馬蔣琬が卒した[8]。(姜維を衛将軍・録尚書事とした。)

 十年(247)、涼州の胡王の白虎文・治無戴らが手勢を率いて降り、衛将軍姜維が迎えに赴いて安撫し、繁県(成都市新都区西界)に居らせた。
この歳、汶山の平康夷が反き、姜維が往って討ち、破って平らげた。

 十一年夏五月、大將軍費禕出屯漢中。秋、涪陵屬國民夷反、車騎將軍ケ芝往討、皆破平之。

 十二年春正月、魏誅大將軍曹爽等、右將軍夏侯霸來降。夏四月、大赦。秋、衞將軍姜維出攻雍州、不克而還。將軍句安・李韶降魏。

 十三年、姜維復出西平、不克而還。

 十四年夏、大將軍費禕還成都。冬、復北駐漢壽。大赦。

 十五年、呉王孫權薨。立子j為西河王。

 十一年(248)夏五月、大将軍費禕が漢中に出屯し(、衛将軍姜維が洮西で魏の大将軍郭淮・夏侯霸らと戦っ)た。秋、涪陵属国部の民の夷が反き、車騎将軍ケ芝が往って討ち、皆な破って平らげた。

 十二年(249)春正月、魏が大将軍曹爽らを誅し、右将軍夏侯霸が来降した。夏四月、大赦した。秋、衛将軍姜維が出征して雍州を攻め、勝てずに還り、将軍の句安・李韶が魏に降った。

 句安・李韶とも、魏領内で攻囲され、姜維が救出できず退いた為に降ったものです。


 十三年(250)、姜維が復た西平(青海省西寧地区)に出征し、勝てずに還った。

 十四年(251)夏、大将軍費禕が成都に還り、冬、復た北のかた漢寿(旧の葭萌)に駐屯した。大赦した。

 十五年(252)、呉王孫権が薨じた。子の劉jを立てて西河王とした。(費禕に開府させた。)

 十六年春正月、大將軍費禕為魏降人郭循所殺于漢壽。夏四月、衞將軍姜維復率衆圍南安、不克而還。

 十七年春正月、姜維還成都。大赦。夏六月、維復率衆出隴西。冬、拔狄道・〔河關〕・臨洮三縣民、居于綿竹・繁縣。

 十八年春、姜維還成都。夏、復率諸軍出狄道、與魏雍州刺史王經戰于洮西、大破之。經退保狄道城、維卻住鍾題。

 十九年春、進姜維位為大將軍、督戎馬、與鎮西將軍胡濟期會上邽、濟失誓不至。秋八月、維為魏大將軍ケ艾所破于上邽。維退軍還成都。是歳、立子瓚為新平王。大赦。

 二十年、聞魏大將軍諸葛誕據壽春以叛、姜維復率衆出駱谷、至芒水。是歳大赦。

 十六年(253)春正月、大将軍費禕が魏の降人の郭循に漢寿で殺された。夏四月、衛将軍姜維が復た軍勢を率いて南安(定西市隴西)を囲み、勝てずに還った。

 十七年(254)春正月、姜維が成都に還った。大赦した。夏六月、姜維が復た軍勢を率いて隴西に出、冬、狄道(定西市臨洮)・河関(青海省黄南自治州同仁)・臨洮(定西市岷県)を抜き、三県の民を綿竹・繁県に居らせた。

 攻略戦ではなく、あくまでも住民掠奪です。人口補充と隴西の動揺を兼ねたもの?


 十八年(255)春、姜維が成都に還った。夏、復た諸軍を率いて狄道に出征し、魏の雍州刺史王経と洮西で戦って大破した。王経は退いて狄道城を保ち、(陳泰が到ると)姜維は卻(しりぞ)いて鍾題に住(とど)まった。

 十九年(256)春、姜維の位を進めて大将軍とし、戎馬を督させ、鎮西将軍胡済と上邽での会同を期させたが、胡済が誓約を失(そこな)って至らなかった。秋八月、姜維が魏の大将軍ケ艾に上邽で破られた。姜維は軍を退却させて成都に還った。

 蜀漢軍が壊滅的敗北を喫した段谷の役です。胡済と合流できなかった事が重大な敗因ですが、姜維が降格処分にされた程なのに、胡済は処刑も除名もされず、督漢中に留まっています。この敗戦で姜維は漢中の防衛体制の再編を迫られ、更に魏が隴右経営に本腰を入れた為に北防線を西にも広げる必要が生じ、激減した兵力で拡大した北防線への対処を余儀なくされます。

この歳、子の劉瓚を立てて新平王とした。大赦した。

 二十年(257)、魏の大将軍諸葛誕が寿春に拠って叛いたと聞き、姜維は復た軍勢を率いて駱谷から出征し、芒水に至った。この歳、大赦した。

 景耀元年、姜維還成都。史官言景星見、於是大赦、改年。宦人黄皓始專政。呉大將軍孫綝廢其主亮、立琅邪王休。

 二年夏六月、立子ェ為北地王、恂為新興王、虔為上黨王。

 三年秋九月、追諡故將軍關羽・張飛・馬超・龐統・黄忠。

 四年春三月、追諡故將軍趙雲。冬十月、大赦。

 五年春正月、西河王j卒。是歳、姜維復率衆出侯和、為ケ艾所破、還住沓中。

 景耀元年(258)、姜維が成都に還った。史官が、景星(瑞祥の星。新星?)が出見したと上言したので大赦し、改年した。(尚書令陳祗が歿し、)宦人の黄皓が専政を始めた。

 陳祗の死により、それまでほぼ連年続けられていた姜維の北伐がピタッと止みます。という事は、陳祗はなんだかんだと姜維の北伐を支援していたという事になりそうです。

呉の大将軍孫綝がその主の孫亮を廃し、琅邪王孫休を立てた。

 二年(259)夏六月、子の劉ェを立てて北地王とし、劉恂を新興王とし、劉虔を上党王とした。

 子の諱名を王字に因ませるのは罷めたようです。それとも嫡庶の区別でしょうか。


 三年(260)秋九月、故人である将軍の関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に追諡した。

 四年(261)春三月、故人である将軍の趙雲に追諡した。冬十月、大赦した。

 五年(262)春正月、西河王劉jが卒した。この歳、姜維が復た軍勢を率いて侯和(甘南自治州臨潭東郊)に出征し、ケ艾に破られ、還って沓中(舟曲西郊?)に住(とど)まった。

 六年夏、魏大興徒衆、命征西將軍ケ艾・鎮西將軍鍾會・雍州刺史諸葛緒數道並攻。於是遣左右車騎將軍張翼・廖化・輔國大將軍董厥等拒之。大赦。改元為炎興。冬、ケ艾破衞將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策、降於艾、奉書曰:「限分江・漢、遇値深遠、階縁蜀土、斗絶一隅、干運犯冒、漸苒歴載、遂與京畿攸隔萬里。毎惟黄初中、文皇帝命虎牙將軍鮮于輔、宣温密之詔、申三好之恩、開示門戸、大義炳然、而否コ暗弱、竊貪遺緒、俛仰累紀、未率大教。天威既震、人鬼歸能之數、怖駭王師、神武所次、敢不革面、順以從命!輒敕羣帥投戈釋甲、官府努藏一無所毀。百姓布野、餘糧棲畝、以俟后來之惠、全元元之命。伏惟大魏布コ施化、宰輔伊・周、含覆藏疾。謹遣私署侍中張紹・光祿大夫譙周・駙馬都尉ケ良奉齎印緩、請命告誠、敬輸忠款、存亡敕賜、惟所裁之。輿櫬在近、不復縷陳。」是日、北地王ェ傷國之亡、先殺妻子、次以自殺。紹・良與艾相遇於雒縣。艾得書、大喜、即報書、遣紹・良先還。艾至城北、後主輿櫬自縛、詣軍壘門。艾解縛焚櫬、延請相見。因承制拜後主為驃騎將軍。諸圍守悉被後主敕、然後降下。艾使後主止其故宮、身往造焉。資嚴未發、明年春正月、艾見收。鍾會自涪至成都作亂。會既死、蜀中軍衆鈔略、死喪狼籍、數日乃安集。

 六年(263)夏、魏が大いに軍兵を興し、征西将軍ケ艾・鎮西将軍鍾会・雍州刺史諸葛緒に命じて数道から並攻させた。ここに左右の車騎将軍張翼廖化、輔国大将軍董厥らを遣って拒がせた。大赦した。改元して炎興とした。冬、ケ艾が衛将軍諸葛瞻を綿竹で破った。
光禄大夫譙周の策を用いてケ艾に降り、書を奉じるには、
「長江・漢水で限(界)を分ち、深遠に遇って蜀土に縁り、一隅に斗絶し、天運を干(おか)して犯冒すること歴載となり、京畿とは万里を隔てたままでした。毎(つね)に惟(おも)うのは黄初中の事、文皇帝が虎牙将軍鮮于輔に命じて温密の詔を宣べられ、三好の恩を申されて門戸を開示され、大義は炳然としておりましたが、(私は)否徳暗弱である為に遺緒を竊貪し、俛仰(俯仰)すること累紀となり、未だに大いなる教えに率(したが)いませんでした。天威は既に震われ、人鬼とも能に帰すのが暦数であり、王師を怖駭し、神武の次(やど)る所に、面を革めて天命に順わずにおられましょうか! 輒(ただち)に群帥には戈を投じ甲を釈き、官府には努藏を一つとして毀たぬよう命じましょう。百姓は野に布(ひろ)く、余糧は畝にそのままですが、後来の恵みを待ち、元元(万民)の生命を全うされんことを。
 伏して惟るに大魏は徳を布き教化を施し、伊尹・周公を宰輔として内部の疵を含覆しているとか。謹んで私署するところの侍中張紹・光禄大夫譙周・駙馬都尉ケ良を遣って印緩を奉じ、命令を請うて自誡を告げさせるものです。敬しんで忠款を輸(うつ)し、存亡の事はご命令による裁きにて賜るものです。櫬(ひつぎ)と近くに在り、復た縷々とは陳べません」
この日、北地王劉ェは亡国を傷み、先ず妻子を殺し、次いて自殺した[9]。張紹・ケ良とケ艾とは雒県で遭遇した。ケ艾は書を得ると大いに喜び、即座に報書(返書)[10]、張紹・ケ良を遣って先に還した。ケ艾が城北に至ると、後主は櫬(柩)を輿(にな)って自縛し、軍の塁門に詣った。ケ艾は縛めを解いて櫬を焚き、請(まね)き延べて相い通見した[11]。承制[※]に因って後主を拝して驃騎将軍とした。諸々の囲守は悉く後主の敕を被った後に降下した。ケ艾は後主をその故宮に止宿させ、身ずから往って造(なら)んだ。厳(旅装)を資(ととの)えて未だに進発せぬうち、明年春正月にケ艾が収捕され、鍾会が涪より成都に至って乱を為した。鍾会の死後、蜀中の軍は衆(おお)く鈔略し、死喪を伴う狼籍は数日して安集した。

※ 天子に仮託された者が、天子の権限を代行すること。

 後主舉家東遷、既至洛陽、策命之曰:「惟景元五年三月丁亥。皇帝臨軒、使太常嘉命劉禪為安樂縣公。於戲、其進聽朕命!蓋統天載物、以咸寧為大、光宅天下、以時雍為盛。故孕育羣生者、君人之道也、乃順承天者、坤元之義也。上下交暢、然後萬物協和、庶類獲乂。乃者漢氏失統、六合震擾。我太祖承運龍興、弘濟八極、是用應天順民、撫有區夏。于時乃考因羣傑虎爭、九服不靜、乘闡j遠、保據庸蜀、遂使西隅殊封、方外壅隔。自是以來、干戈不戢、元元之民、不得保安其性、幾將五紀。朕永惟祖考遺志、思在綏緝四海、率土同軌、故爰整六師、耀威梁・益。公恢崇コ度、深秉大正、不憚屈身委質、以愛民全國為貴、降心回慮、應機豹變、履言思順、以享左右無疆之休、豈不遠歟!朕嘉與君公長饗顯祿、用考咨前訓、開國胙土、率遵舊典、錫茲玄牡、苴以白茅、永為魏藩輔、往欽哉!公其祗服朕命、克廣コ心、以終乃顯烈。」食邑萬戸、賜絹萬匹、奴婢百人、他物稱是。子孫為三都尉封侯者五十餘人。尚書令樊建・侍中張紹・光祿大夫譙周・祕書令郤正・殿中督張通並封列侯。公泰始七年薨於洛陽。

 後主は家を挙げて東遷した。洛陽に至った後の策命には
「景元五年(264)三月丁亥。皇帝が太常嘉を使者として劉禅を安楽県公に命じる。君主が群生を孕育するのは天地の道理に従うものである。嘗て我が太祖は天に応じ民に順って中原を慰撫した。劉備はは阻遠に乗じて庸蜀の地に拠り、かくて西隅は封を異にして外地となった。以来、干戈は戢(や)まず、万民は安寧せず、五紀(60年)になろうとしている。朕は宿願によって六師を整え、梁・益に武威を耀かせた。公は徳度を重んじ大正を秉り、民を愛して国を全うすることを貴んだ。偉い! それを嘉してアメちゃんをあげよう。以後も頑張ってくれたまえ」
食邑は万戸、絹万匹、奴婢百人を賜い、他の物もこれに準じた。子孫で三都尉(奉車・駙馬・騎)となり封侯された者は五十余人。尚書令樊建、侍中張紹、光禄大夫譙周、秘書令郤正、殿中督張通らは揃って列侯に封じられた[12]。安楽公は泰始七年(271)に洛陽で薨じた[13]
[1] 『礼記』には、「一物を行なって三善あるのは唯だ世子だけで、学問に於ける年齢の謂いである」 とある。鄭玄は、物とは事であるとしている。

 士大夫の共通認識を前提にした注釈だと全く意味が解りません。学問を通じて父子・君臣・長幼の道を体得せよ?

[2] 劉備が小沛に在った当初、予想外にも曹操がたちまち至り、遑遽(あたふた)として家属を棄て、後に荊州に奔った。劉禅は時に齢数歳で、逃れ匿れ、人に従って西のかた漢中に入り、人に売られた。建安十六年になって関中が破乱し、扶風の人の劉括が乱を避けて漢中に入り、買って劉禅を得、問うて良家の子だと知って養子とし、婦人を娶らせて一子が生まれた。劉禅は劉備と別れた当初、父の字が玄徳だと識っていた。そのころ舍人に姓が簡という者がいて、劉備が益州を得るに及んで簡は将軍となり、劉備は簡を遣って漢中に到らせ、都邸(中心地の邸宅?)を宿舎とした。劉禅は簡に詣り、簡はあれこれ検訊し、事は皆な符合した。簡は喜び、張魯に語り、張魯は洗沐させて送って益州に詣らせ、劉備はかくして立てて太子とした。当初、劉備は諸葛亮を太子太傅としていたが、劉禅は立つに及んで諸葛亮を丞相とし、諸事を委ねた。諸葛亮に謂うには 「政事は葛氏が担当し、祭事は寡人が行なおう」 諸葛亮も亦た劉禅が未だに政治に(親しんでから)暇が無い事から内外を総べた。 (『魏略』)
―― 裴松之が調べた処、二主妃子伝には 「後主は荊州で生まれた」、後主伝には 「初めて帝位に即いた時、齢十七」 とあり、これは建安十二年の生れである。十三年に長阪で敗れ、劉備は妻子を棄てて走ったが、趙雲伝の 「趙雲は身に弱子を抱いて免れた」 とは後主である。この通り劉備と劉禅とは未だ嘗て別れた事がない。又た諸葛亮は劉禅が立った明年に領益州牧となり、その年に主簿杜微に与えた書簡に 「朝廷は今年十八」とあり、後主伝と相応しており、道理として否定できるものではない。魚豢の云う、劉備が小沛で敗れた年に劉禅が始めて生まれ、荊州に走るに及び、その父の字が玄徳だと識っていたという。計算すると五・六歳である。

 裴松之も随分と錯乱しているようですが、さすがに『魏略』も 「小沛で敗れた年に劉禅が生まれた」 とは云ってませんて。しかもいつの間にか辻褄を合せているし。指摘自体は合っているのに惜しい事です。それとも読み方を致命的に間違っているのか。

劉備が小沛で敗れたのは建安五年(200)であり、劉禅が初めて立つまでに二十四年を首尾とし、劉禅も当然に三十歳を過ぎている筈だ。事実と比較すれば道理としてあり得ない。これは『魏略』の妄説に過ぎず、二百余言をも費やしているのは異な事だ! 又た諸書の記録および『諸葛亮集』を調べたが、諸葛亮も亦た太子太傅にはなっていない。
[3] 初め、益州従事常房は部を按行し、朱褒に異志があって実行してしようとしていると聞き、その主簿を収捕して糾問した後に殺した。朱褒は怒り、攻めて常房を殺し、謀反を誣した。諸葛亮は常房の諸子を殺し、その四弟を越雟に徙す事で安定させようとした。朱褒は猶おも悛改せず、遂に郡を挙げて叛いて雍闓に応じた。 (『魏氏春秋』)
―― 裴松之が思うに、常房が朱褒に誣されたならば、執政は澄察(洞察)するであろうで、どうして妄りに無辜を殺して姦慝を悦ばせよう? これはほぼ妄説である!
[4] 今の巴郡故城がこれである。
[5] 劉禅が三月に下した詔 「朕は聞く、天地の道理とは仁に福して淫に禍すと。善を積む者が栄え、悪を積む者が亡ぶのは古今の常数である。湯・武が徳を修めて王となり、桀・紂が暴を極めて亡んだのもこの為である。漢祚が衰えて法網から凶慝が漏れ、董卓が難を為し、曹操が混乱に拍車をかけて海内を残剥し、曹丕簒奪した。昭烈皇帝は明叡の徳を体現して文武を輝かせ、難を平らげる為に身を挺して祖業を存続再興したが、天下を定めないままに早々に殂(みまか)った。朕は幼く、まだ充分な教育も受けていないのに、重責を負ってしまった。今後の事を考えるととても懼ろしく、朝早くから夜遅くまで緊張しっぱなしだ。日頃の行いのせいか、こちらが行動を起す前に曹丕が勝手に死んでくれた。こちらの薪を燃やす前に自焚したというものだ。残類余醜は未だに河・洛で兵を恃んでいる。
諸葛丞相は弘毅忠壮で身を忘れて国を憂え、先帝が天下を託して朕の躬を勖(はげ)ますものだ。今、旄鉞を授けて専断の権を付し、歩騎二十万の軍勢を統領して統督・元帥とする。天罰を龔行し、患を除き乱を寧んじて旧都を克復するのはこの行動に在る。 昔、無敵と思われた項羽が垓下で敗れて族滅され、千載の笑い者となっているのも、義に依らずに上を凌ぎ下を虐げた為である。今、賊も咎に倣って天人にともに怨まれており、速やかに時を奉じるべきである。呉王孫権も掎角の一端を担い、涼州(?)の諸王も月支・康居の胡侯の支富・康植ら二十余人を派遣して節度を受けさせて来た。天命と人事を尽し、師は正義と勢いを併せて無敵であろう。
そもそも王者の兵とは出征しても戦わないもので、尊と義を兼ねて抗う者が莫いからである。古えの鳴条の役では軍は刃を血塗らさず、牧野の師では商人は戈を倒したのだ。今、我が軍も軍事を極めようとは思わない。邪を棄てて正に従うなら、国の常典によって恩賞を加え、魏の宗族や支葉であっても来降した者は皆な赦そう。輔果が智氏との親縁を絶って一族を全うし、微子が殷を去り、項伯が漢に帰し、何れも封侯されたという前世の明験がある。もし迷沈したまま乱人を助けて王命に従わないなら、刑戮は妻孥(妻子)に及び、赦す事は無いだろう。他は詔書・律令の通りにし、丞相は天下に露布して朕の意を唱えよ」 (『諸葛亮集』)
[6] 冬十月、江陽より江州にかけて、江南より江北に飛渡する鳥があったが、渡りきれずに水に墮ちて死んだものが千を以て単位とした。 (『漢晋春秋』)
[7] 裴松之が調べた処、湔とは県名である。蜀郡に属し、音は翦である。

 『続漢書』での湔氐道(阿壩自治州松潘)の事かと思われます。黄龍や九寨溝まで行ったのかなぁ。

[8] 蔣琬が卒し、劉禅はかくして自ら国事を摂った。(『魏略』)
[9] 後主がまさに譙周之の策に従おうとした時、北地王劉ェが怒りつつ 「もし理を窮めて力が屈し、禍敗が必至となったなら、父子君臣は城を背に一戦し、社稷と死を同じくして先帝にまみえるだけです」 後主は納れず、かくて璽緩を送った。この日、劉ェは昭烈の廟で哭し、先に妻子を殺し、その後に自殺した。左右の者で涕泣せぬ者は無かった。 (『漢晋春秋』)
[10] ケ艾の報書 「結局は真主に帰すのは天命というものです。古えの聖帝以来、受命の王者は悉く中原に在りました。黄河が河図を出し、洛水が洛書を出し、聖人はこれによって洪業を興し、これに依らなかった者は悉く失敗しました。隗囂・公孫述などは鑑とすべきです。周に帰して上賓とされた微子に倣うのです。輿櫬の礼は前哲の典儀に則っり、国を全うする上策にも合致するもので、通明智達の者でなければどうして行なえましょう!」
劉禅は又た太常張峻・益州別駕汝超を遣ってケ艾の節度を受けさせ、太僕蔣顕を遣って姜維に敕を命じさせた。又た尚書郎李虎を遣って士民の簿籍を送らせた。領するところの戸は二十八万、男女の人口は九十四万、帯甲の将士は十万二千、吏は四万人、糧米は四十余万斛、金銀は各々二千斤、錦綺綵絹は各々二十万匹、余物もこの類いだった。 (王隠『蜀記』)
[11] 劉禅は騾車に乗ってケ艾に詣り、亡国の礼を具えてはいなかった。 (『晋諸公賛』)
[12] 司馬昭が劉禅の為に宴を開き、これの為に旧蜀の歌舞を作らせ、傍人が皆な感愴している処で劉禅は喜笑して自若としていた。司馬昭が賈充に謂うには 「人の無情とはこうにも至るものか! 諸葛亮が存命だったとしても久しく全うすることを輔弼するする事はできなかったであろう。ましてや姜維では」 賈充 「こうでなければ殿下はどうして併呑できたでしょう」
 他日、司馬昭が劉禅に問うた 「少しは蜀の事を思わないか?」 劉禅 「ここは楽しく、蜀を思う事はありません」 郤正がこれを聞き、通見を求めて劉禅に 「もし晋王に後に問われたら、泣いて 『先人の墳墓が遠く隴・蜀にあり、心は西を悲しんで思わぬ日はありません』と答え、その目を閉ざすのが宜しいでしょう」
おりしも晋王が復た問うたので、答えてそのようにした処、晋王は 「何と郤正の言葉に似ていることか!」 劉禅は驚いて視 「誠に尊命の通りです」。左右の者は皆な笑った。 (『漢晋春秋』)
[13] 諡して思公とし、子の劉恂が嗣いだ。 (『蜀記』)
 

 評曰:後主任賢相則為循理之君、惑閹豎則為昬闇之后、傳曰「素絲無常、唯所染之」、信矣哉!禮、國君繼體、踰年改元、而章武之三年、則革稱建興、考之古義、體理為違。又國不置史、注記無官、是以行事多遺、災異靡書。諸葛亮雖達於為政、凡此之類、猶有未周焉。然經載十二而年名不易、軍旅屡興而赦不妄下、不亦卓乎!自亮沒後、茲制漸虧、優劣著矣。

 評に曰く、後主は賢相に任せれば循理の君となり、閹豎に惑えば昬闇の后となり、伝の 「素糸(白糸)は常ならず、ただ染まるだけである」 とは尤もである!
礼では国君が継体した場合は踰年して改元するとあるが、章武三年に建興と革称しており、古えの義を考えれば理に違えている。又た国は史官を置かず、注記の官も無く、このため行事の多くが遺漏し、災異も書に靡(無)い。諸葛亮は為政に達しているとはいえ、凡そはこの類いであり、猶おも周到ではなかった。しかし載(年)を経ること十二にしても年名を易えず、軍旅を屡々興しながらも赦を妄りに下さず、亦た卓(非凡)していたのだ! 諸葛亮が歿してより後、茲(いよい)よ制度も漸く欠き、優劣は著しい[1]
[1] 丞相諸葛亮の時、公が赦を惜しんでいると言う者があった。諸葛亮が答えるには 「治世とは大徳を以てし、小恵を以てせず。だから匡衡・呉漢は赦を願わなかったのだ。先帝も亦た、“吾れが陳元方(陳紀)・鄭康成(鄭玄)の間を周旋していた折、都度に啓告されて治乱の道を悉くしたが、曾て赦について語った事が無かった”と。もし劉景升や劉季玉父子のように歳々に赦宥したとて、どうして治世に益す事があろうか!」 (『華陽國志』)
―― 裴松之が考えるに、「赦不妄下」とは誠に称えるに相応しいが、「年名不易」については猶お充分には理解できない。調べた処、建武・建安の年号は皆な久しくして改まらなかったが、前史が美談としたとは未だに聞いたことが無い。「経載十二」などと云う必要があるだろうか? それとも別に他意があって、訴求している事に(自分が)未だ至ってないのだろうか! 諸葛亮の歿後、延熙の年号は数えて二十に盈ちており、「茲制漸欠」との指摘も又た当っていない。

 三朝の君主の中で最も在位が長い割に、とても内容の薄い後主伝でした。実際、劉禅の治世は丞相や大将軍が実務を主導しているように書かれているので、諸葛亮と蔣琬および、費禕・姜維伝を差し込みつつ再構築しないと、行事の背景や経緯などが見えません。
 注[8]の「琬卒、禅乃自摂国事」で、『魏略』出典とはいえ、諸葛亮ではなく蔣琬の死を蜀漢の歴史の大きな転機と捉えている点は注目に値します。 確かにそれまで丞相なり大将軍なりの一頭体制だったのが、蔣琬が失脚した後は多頭体制となり、皇帝親政でないと実現しない尚書令や宦官の活動が活発化します。
 蔣琬と費禕は蜀志の同じ巻に収録されていて、諸葛亮が後継候補に名を挙げたとする『益部耆旧雑記』の説が敷延した事もあって同類と見られがちですが、『三國志』本文では諸葛亮が後継指名したのは蔣琬のみであり、又た諸葛亮の属官としてキャリアを積んだ蔣琬と、劉禅の近侍として立身した費禕では、劉禅や朝廷との付き合い方も含め、政治姿勢がかなり違っていたのかも知れません。


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