三國志修正計画

三國志卷三十二 蜀志二/先主傳 (二)

先主伝

 十六年、益州牧劉璋遙聞曹公將遣鍾繇等向漢中討張魯、内懷恐懼。別駕從事蜀郡張松説璋曰:「曹公兵彊無敵於天下、若因張魯之資以取蜀土、誰能禦之者乎?」璋曰:「吾固憂之而未有計。」松曰:「劉豫州、使君之宗室而曹公之深讎也、善用兵、若使之討魯、魯必破。魯破、則益州彊、曹公雖來、無能為也。」璋然之、遣法正將四千人迎先主、前後賂遺以巨億計。正因陳益州可取之策。先主留諸葛亮・關羽等據荊州、將歩卒數萬人入益州。至涪、璋自出迎、相見甚歡。張松令法正白先主、及謀臣龐統進説、便可於會所襲璋。先主曰:「此大事也、不可倉卒。」璋推先主行大司馬、領司隸校尉;先主亦推璋行鎮西大將軍、領益州牧。璋增先主兵、使撃張魯、又令督白水軍。先主并軍三萬餘人、車甲器械資貨甚盛。是歳、璋還成都。先主北到葭萌、未即討魯、厚樹恩德、以收衆心。

 十六年(211)、益州牧劉璋は曹操が鍾繇らを遣り、漢中に向わせて張魯を討とうとしていると遥かに聞き、内心に恐懼を懐いた。別駕従事である蜀郡の張松が劉璋に説くには 「曹公の兵の彊きこと天下に匹敵する者は無く、もし張魯の資財によって蜀土を取るなら、誰がこれを禦(ふせ)げましょうか?」 劉璋 「私もそれを強く憂えているのだが、未だに計りごとが無いのだ」 張松 「劉豫州は使君の宗室であり、曹公が深く讎としており、用兵に善く、もし張魯を討たせれば張魯はきっと破れましょう。張魯が破れれば益州は彊くなり、曹公が来攻しようとも何も出来ますまい」 劉璋はそうだとし、法正に四千人を率いて遣って先主を迎えさせ、前後して遣った賂(賜物)は巨億を以て計った。法正はこれに因り益州を取る為の策を陳べた[29]。先主は諸葛亮・関羽らを留めて荊州に拠らせ、歩卒数万人を率いて益州に入った。

 このとき、孫権との協働の体裁で事を進めていたらしい事が『呉書』等で確認できます。

(江州から遡上して)涪(綿陽市区)に至ると劉璋自ら出迎え、相い見(まみ)えて甚だ歓待した。張松が法正に対して先主に白(もう)すよう命じ、同時に謀臣の龐統に自説を進めるには、ただちに宴会で劉璋を襲撃すべきだと。先主 「これは大事であり、倉卒(慌しく)にしてはならない」 。劉璋は先主を行大司馬・領司隸校尉に推し、先主も亦た劉璋を行鎮西大将軍・領益州牧に推した。劉璋は先主の兵を増し、張魯を撃たせ、又た白水の軍を督させた。先主の軍は併せて三万余人となり、車甲・器械や資貨は甚だ盛んとなった。この歳、劉璋は成都に還った。先主は北のかた葭萌(広元市元壩区)に到り、未だ即座には張魯を討たず、恩徳を樹てる事で衆心を収攬した。

 明年、曹公征孫權、權呼先主自救。先主遣使告璋曰:「曹公征呉、呉憂危急。孫氏與孤本為脣齒、又樂進在青泥與關羽相拒、今不往救羽、進必大克、轉侵州界、其憂有甚於魯。魯自守之賊、不足慮也。」乃從璋求萬兵及資〔實〕、欲以東行。璋但許兵四千、其餘皆給半。張松書與先主及法正曰:「今大事垂可立、如何釋此去乎!」松兄廣漢太守肅、懼禍逮己、白璋發其謀。於是璋收斬松、嫌隙始構矣。璋敕關戍諸將文書勿復關通先主。先主大怒、召璋白水軍督楊懷、責以無禮、斬之。乃使黄忠・卓膺勒兵向璋。先主徑至關中、質諸將并士卒妻子、引兵與忠・膺等進到涪、據其城。璋遣劉璝・冷苞・張任・鄧賢等拒先主於涪、皆破敗、退保緜竹。璋復遣李嚴督緜竹諸軍、嚴率衆降先主。先主軍益強、分遣諸將平下屬縣、諸葛亮・張飛・趙雲等將兵泝流定白帝・江州・江陽、惟關羽留鎮荊州。先主進軍圍雒;時璋子循守城、被攻且一年。

 明年(212)、曹操が孫権を征伐し、孫権は救うよう先主を呼んだ。先主が使者を遣って劉璋に告げさせるには
「曹操が呉を征し、呉の憂いは危急です。孫氏と孤とはもとより脣歯であり、又た楽進は青泥にあって関羽と相い拒ぎ、今、関羽を救いに往かねば楽進はきっと大いに勝ち、転じて州界を侵し、その憂いは張魯より甚だしいものとなりましょう。張魯とは自衛する賊であり、憂慮する程ではありません」
かくして劉璋に万兵および兵糧・軍事物資を求め、東行しようとした。劉璋はただ兵四千ばかりと、その他は皆な半ばを給した[30]。張松は書を先主および法正に与え 「今、大事は立てられようとしているのに、どうして釈いて去ろうとするのか!」
張松の兄の広漢太守張粛は禍が己に逮(およ)ぶのを懼れ、劉璋に白してその謀事を発いた。こうして劉璋は張松を収捕して斬り、始めて(劉備と)嫌隙を構えた[31]。劉璋は関戍の諸将に文書で命じ、再びは先主を関に通す勿れと。先主は大いに怒り、劉璋の白水軍督楊懐を召し、無礼を責めて斬った。かくして黄忠・卓膺に兵を勒(ひき)いて劉璋に向わせた。先主は径(ただ)ちに関の中に至り、諸将と併せて士卒の妻子を質とし、兵を率いて黄忠・卓膺らと進んで涪(綿陽市区)に到り、その城に拠った。劉璋は劉璝・冷苞・張任[32]・鄧賢らを遣って涪で先主を拒がせたが、皆な破敗し、退いて緜竹(徳陽市綿竹)を保った。劉璋は復た李厳を遣って緜竹の諸軍を督させたが、李厳は手勢を率いて先主に降った。先主の軍は益々強く、諸将を分遣して属県を平らげ下させ、諸葛亮・張飛・趙雲らは兵を率いて泝流(遡上)して白帝・江州・江陽を定め、ただ関羽のみ留まって荊州に鎮した。先主は進軍して(広漢郡治の)雒(徳陽市広漢)を囲んだが、時に劉璋の子の劉循が城を守り、攻められてまさに一年になろうとしていた。

 十九年夏、雒城破、進圍成都數十日、璋出降。蜀中殷盛豐樂、先主置酒大饗士卒、取蜀城中金銀分賜將士、還其穀帛。先主復領益州牧、諸葛亮為股肱、法正為謀主、關羽・張飛・馬超為爪牙、許靖・麋竺・簡雍為賓友。及董和・黄權・李嚴等本璋之所授用也、呉壹・費觀等又璋之婚親也、彭羔又璋之所排擯也、劉巴者宿昔之所忌恨也、皆處之顯任、盡其器能。有志之士、無不競勸。

 十九年(214)夏、雒城を破り[33]、進んで成都を囲むこと数十日。劉璋が出て降った[34]。蜀中は殷盛豊楽の地で、先主は置酒して大いに士卒を饗応し、蜀城の中の金銀を取って将士に分賜し、穀帛を還した。先主は復た益州牧を兼領し、諸葛亮を股肱とし、法正を謀主とし、関羽・張飛・馬超を爪牙とし、許靖麋竺簡雍を賓友とした。同時に、董和黄権李厳らはもとは劉璋が用事を授けた者であり、呉懿費観らは又た劉璋の婚親であり、彭羕は又た劉璋が排擯(排斥)した者であり、劉巴は昔から忌恨していた者であったが、皆な顕職の任に置き、その器能を尽させた。志を持つ士で競って勧(つと)めない者は無かった。

 二十年、孫權以先主已得益州、使使報欲得荊州。先主言:「須得涼州、當以荊州相與。」權忿之、乃遣呂蒙襲奪長沙・零陵・桂陽三郡。先主引兵五萬下公安、令關羽入益陽。是歳、曹公定漢中、張魯遁走巴西。先主聞之、與權連和、分荊州・江夏・長沙・桂陽東屬、南郡・零陵・武陵西屬、引軍還江州。遣黄權將兵迎張魯、張魯已降曹公。曹公使夏侯淵・張郃屯漢中、數數犯暴巴界。先主令張飛進兵宕渠、與郃等戰於瓦口、破郃等、〔郃〕收兵還南鄭。先主亦還成都。

 二十年(215)、孫権は先主が已に益州を得た事から、使者に荊州を得る旨を報じさせた。先主が言うには 「涼州を得てから荊州を与えようと思う」 孫権は忿り、かくして呂蒙を遣って長沙・零陵・桂陽の三郡を襲奪させた。先主は兵五万を率いて公安に下り、関羽には益陽に入るよう命じた。この歳、曹操は漢中を定め、張魯は巴西に遁走した。先主はこれを聞くと孫権と連和し、荊州を分けて江夏・長沙・桂陽を東属とし、南郡・零陵・武陵を西属させ、軍を率いて江州に還った。

 南郡が劉備に確保された事が象徴的です。南郡・武陵はどちらも荊州の心臓部で、一見すると劉備有利のようですが、南北の係争地としては江夏より南郡の方が厳しいのも実情です。状況的にも劉備の方が大きく譲歩していて当然で、“孫権との傭兵関係”を継続して北防を担わされたとも見えます。ちなみにこの時、孫権も陸口(咸寧市嘉魚)まで出張っています。そして二十二年、孫権が曹操に臣従した事で劉備との提携は有名無実化します。

黄権を遣って兵を率いて張魯を迎えさせたが、張魯は已に曹操に降っていた。曹操は夏侯淵・張郃を漢中に駐屯させ、しばしば巴の界内を犯暴させた。先主は張飛に命じて宕渠(達州市渠県)に兵を進めさせ、張郃らと瓦口で戦わせ、張郃らを破り、張郃は兵を収めて南鄭に還った。先主も亦た成都に還った。

 二十三年、先主率諸將進兵漢中。分遣將軍呉蘭・雷銅等入武都、皆為曹公軍所沒。先主次于陽平關、與淵・郃等相拒。
 二十四年春、自陽平南渡沔水、縁山稍前、於定軍山勢作營。淵將兵來爭其地。先主命黄忠乘高鼓譟攻之、大破淵軍、斬淵及曹公所署益州刺史趙顒等。曹公自長安舉衆南征。先主遙策之曰:「曹公雖來、無能為也、我必有漢川矣。」及曹公至、先主斂衆拒險、終不交鋒、積月不拔、亡者日多。夏、曹公果引軍還、先主遂有漢中。遣劉封・孟達・李平等攻申耽於上庸。

 二十三年(218)、先主は諸将を率いて漢中に兵を進め、将軍の呉蘭・雷銅らを分遣して武都に入らせたが、皆な曹操の軍に没せられた。先主は陽平関に次(やど)り、夏侯淵・張郃らと相い拒いだ。
 二十四年(219)春、陽平より沔水を南渡し、山縁いを稍前(漸進)し、定軍山(漢中市勉県南郊)に営を作る形勢を示した。夏侯淵が兵を率いて来攻してその地を争った。先主は黄忠に命じて高所に乗って鼓譟しつつ攻めさせ、大いに夏侯淵の軍を破らせ、夏侯淵および曹操の署した益州刺史趙顒らを斬った。曹操が軍勢を挙げて長安より南征した。先主は遥かにこれを策(むちさ)し 「曹操が来たところでどうしようも出来ない。私はきっと漢川を所有しよう」 曹操が至ると先主は手勢を斂(おさ)めて険阻で拒ぎ、終に鋒を交えず、積月しても抜けず、(曹軍の)死亡者は日々に多くなった。夏、曹操は果たして軍を率いて還り、先主は遂に漢中を所有した。劉封・孟達・李平らを遣って上庸に申耽を攻めさせた。

 秋、羣下上先主為漢中王、表於漢帝曰: 「平西將軍都亭侯臣馬超・左將軍長史〔領〕鎮軍將軍臣許靖・營司馬臣龐羲・議曹從事中郎軍議中郎將臣射援・軍師將軍臣諸葛亮・盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽・征虜將軍新亭侯臣張飛・征西將軍臣黄忠・鎮遠將軍臣賴恭・揚武將軍臣法正・興業將軍臣李嚴等一百二十人上言曰:昔唐堯至聖而四凶在朝、周成仁賢而四國作難、高后稱制而諸呂竊命、孝昭幼沖而上官逆謀、皆馮世寵、藉履國權、窮凶極亂、社稷幾危。非大舜・周公・朱虚・博陸、則不能流放禽討、安危定傾。伏惟陛下誕姿聖德、統理萬邦、而遭厄運不造之艱。董卓首難、蕩覆京畿、曹操階禍、竊執天衡;皇后太子、鴆殺見害、剥亂天下、殘毀民物。久令陛下蒙塵憂厄、幽處虚邑。人神無主、遏絶王命、厭昧皇極、欲盜神器。左將軍領司隸校尉豫・荊・益三州牧宜城亭侯備、受朝爵秩、念在輸力、以殉國難。覩其機兆、赫然憤發、與車騎將軍董承同謀誅操、將安國家、克寧舊都。會承機事不密、令操游魂得遂長惡、殘泯海内。臣等毎懼王室大有閻樂之禍、小有定安之變、夙夜惴惴、戰慄累息。昔在虞書、敦序九族、周監二代、封建同姓、詩著其義、歴載長久。漢興之初、割裂疆土、尊王子弟、是以卒折諸呂之難、而成太宗之基。臣等以備肺腑枝葉、宗子藩翰、心存國家、念在弭亂。自操破於漢中、海内英雄望風蟻附、而爵號不顯、九錫未加、非所以鎮衞社稷、光昭萬世也。奉辭在外、禮命斷絶。昔河西太守梁統等値漢中興、限於山河、位同權均、不能相率、咸推竇融以為元帥、卒立效績、摧破隗囂。今社稷之難、急於隴・蜀。操外呑天下、内殘羣寮、朝廷有蕭牆之危、而禦侮未建、可為寒心。臣等輒依舊典、封備漢中王、拜大司馬、董齊六軍、糾合同盟、掃滅凶逆。以漢中・巴・蜀・廣漢・犍為為國、所署置依漢初諸侯王故典。夫權宜之制、苟利社稷、專之可也。然後功成事立、臣等退伏矯罪、雖死無恨。」 遂於沔陽設壇場、陳兵列衆、羣臣陪位、讀奏訖、御王冠於先主。

 秋、群下が上奏して先主を漢中王とし、漢帝に上表するには

「平西将軍・都亭侯の臣馬超、左将軍長史・領鎮軍将軍の臣許靖、営司馬の臣龐羲、議曹従事中郎・軍議中郎将の臣射援[35]、軍師将軍の臣諸葛亮、盪寇将軍・漢寿亭侯の臣関羽、征虜将軍・新亭侯の臣張飛、征西将軍の臣黄忠、鎮遠将軍の臣頼恭・揚武将軍の臣法正、興業将軍の臣李厳ら一百二十人が上言します。昔、唐堯は至聖であったのに四凶が朝廷に在り、周成は仁賢であったのに四国が乱を為し、高后が称制すると諸呂が天命を窺い、孝昭の幼沖に乗じて上官氏が逆謀しました。皆な世寵を恃んで社稷を危うくしたものです。大舜・周公・朱虚博陸でなければ対処できませんでした。陛下は聖徳で万邦を統理しているとはいえ、厄運に遭って艱難しております。董卓が始め、曹操が乗じたものです。 左将軍・領司隸校尉豫・荊・益三州牧の宜城亭侯劉備は頑張っています。車騎将軍董承との謀りごとは失敗し、海内を残泯(転覆)させてしまいましたが。臣らは閻楽・定安の変事[36]を懼れ、どうにかしたいと考えてはいます。
呂氏を失敗させたのは漢が子弟を割土封王したからです。臣らが考えるに、劉備も肺腑(宗室)の枝葉であり、曹操を漢中で破った事で海内の英雄は風を望んで蟻の如く附していますが、爵号すら顕かではなく、九錫も未だ加えられていません。これでは社稷を鎮衛して万世を照らす事ができません。昔、河西太守梁統らは漢の中興に遭遇しながら山河に隔てられ、位権も同均であった為、咸なで竇融を推して元帥とし、ついに隗囂を摧破しました。現状は当時の隴・蜀より厳しく、曹操が好き放題なのに朝廷が禦侮(侮りを防ぐ為の藩屏)を建てないのはどうした事でしょう。臣らは旧典に依って劉備を漢中王に封じ、大司馬に拝して六軍を統斉し、同盟を糾合して凶逆を掃滅させる所存です。漢中・巴・蜀・広漢・犍為を漢中王国とし、漢初の諸侯王の故典に依って諸官署を置くものです。権宜の制(臨機の権謀)は社稷に利があれば専らにしても許されるとか。この後に事が成功するならば臣らは刑誅されても恨みはございません」

かくて沔陽(漢中市勉県)に壇場を設け、兵と人々を陳列し、群臣は位階によって陪席し、上奏を読み訖(お)えると先主に王冠を御(すす)めた。

 先主上言漢帝曰: 「臣以具臣之才、荷上將之任、董督三軍、奉辭於外、不得掃除寇難、靖匡王室、久使陛下聖教陵遲、六合之内、否而未泰、惟憂反側、疢如疾首。曩者董卓造為亂階、自是之後、羣兇縱橫、殘剥海内。賴陛下聖德威靈、人神同應、或忠義奮討、或上天降罰、暴逆並殪、以漸冰消。惟獨曹操、久未梟除、侵擅國權、恣心極亂。臣昔與車騎將軍董承圖謀討操、機事不密、承見陷害、臣播越失據、忠義不果。遂得使操窮凶極逆、主后戮殺、皇子鴆害。雖糾合同盟、念在奮力、懦弱不武、歴年未效。常恐殞沒、孤負國恩、寤寐永歎、夕惕若厲。今臣羣寮以為在昔虞書敦敍九族、庶明勵翼、五帝損益、此道不廢。周監二代、並建諸姫、實賴晉・鄭夾輔之福。高祖龍興、尊王子弟、大啓九國、卒斬諸呂、以安大宗。今操惡直醜正、寔繁有徒、包藏禍心、簒盜已顯。既宗室微弱、帝族無位、斟酌古式、依假權宜、上臣大司馬漢中王。臣伏自三省、受國厚恩、荷任一方、陳力未效、所獲已過、不宜復忝高位以重罪謗。羣寮見逼、迫臣以義。臣退惟寇賊不梟、國難未已、宗廟傾危、社稷將墜、成臣憂責碎首之負。若應權通變、以寧靖聖朝、雖赴水火、所不得辭、敢慮常宜、以防後悔。輒順衆議、拜受印璽、以崇國威。仰惟爵號、位高寵厚、俯思報效、憂深責重、驚怖累息、如臨于谷。盡力輸誠、奬厲六師、率齊羣義、應天順時、撲討凶逆、以寧社稷、以報萬分、謹拜章因驛上還所假左將軍・宜城亭侯印綬。」 於是還治成都。拔魏延為都督、鎮漢中。時關羽攻曹公將曹仁、禽于禁於樊。俄而孫權襲殺羽、取荊州。

 先主が漢帝に上言するには

「臣は愚臣の才のまま上将の任を荷って三軍を統督し、未だに寇難を掃除して王室を靖匡できず、頭の痛い毎日です。董卓が乱を為してより群兇が跳梁して海内を残剥しました。陛下の聖徳威霊によって暴逆は氷解するように殪れ、独り曹操のみが恣心極乱しております。臣は昔、車騎将軍董承と組んで失敗し、遂には主后が戮殺され、皇子が鴆害されました。同盟を糾合したものの、未だにどうにもできずに歎惕しております。今、臣の群寮は『虞書』の“敦敍九族、庶明励翼[37]”に依り、同姓の藩屏が歴朝を扶けた事を挙げております。今、曹操は徒党を繁くして簒盜の心は顕かなのに、宗室は微弱で帝族に官人はおらず、古式を斟酌して権宜によって、上書して臣を大司馬・漢中王としたものです。臣は三省して分不相応かと考えますが、群寮は道義を称えて逼迫して参ります。更めて考えるに、臣は現状に対して碎首の責を負わねばならず、もし非常の措置で打開できるのなら水火をも辞せず、常道を考慮しつつ後悔を防ぐ所存です。よって衆議に順って印璽を拝受し、国威を崇めたいと存じます。ここに謹んで仮されていた左将軍・宜城亭侯の印綬を奉還するものです」

こうして還って成都で治めた。魏延を抜擢して都督とし、漢中に鎮守させた[38]。時に関羽は曹操の将軍の曹仁を攻めており、于禁を樊で禽えた。俄かに孫権が関羽を襲って殺し、荊州を取った。

 二十五年、魏文帝稱尊號、改年曰黄初。或傳聞漢帝見害、先主乃發喪制服、追諡曰孝愍皇帝。是後在所並言衆瑞、日月相屬、故議郎陽泉侯劉豹・青衣侯向舉・偏將軍張裔・黄權・大司馬屬殷純・益州別駕從事趙笮・治中從事楊洪・從事祭酒何宗・議曹從事杜瓊・勸學從事張爽・尹默・譙周等上言: 「臣聞河圖・洛書、五經讖・緯、孔子所甄、驗應自遠。謹案洛書甄曜度曰:『赤三日德昌、九世會備、合為帝際。』洛書寶號命曰:『天度帝道備稱皇、以統握契、百成不敗。』洛書録運期曰:『九侯七傑爭命民炊骸、道路籍籍履人頭、誰使主者玄且來。』孝經鉤命決録曰:『帝三建九會備。』臣父羣未亡時、言西南數有黄氣、直立數丈、見來積年、時時有景雲祥風、從璿璣下來應之、此為異瑞。又二十二年中、數有氣如旗、從西竟東、中天而行、圖・書曰『必有天子出其方』。加是年太白・熒惑・塡星、常從歳星相追。近漢初興、五星從歳星謀;歳星主義、漢位在西、義之上方、故漢法常以歳星候人主。當有聖主起於此州、以致中興。時許帝尚存、故羣下不敢漏言。頃者熒惑復追歳星、見在胃昴畢;昴畢為天綱、經曰『帝星處之、衆邪消亡』。聖諱豫覩、推揆期驗、符合數至、若此非一。臣聞聖王先天而天不違、後天而奉天時、故應際而生、與神合契。願大王應天順民、速即洪業、以寧海内。」

 二十五年(220)、魏文帝が尊号を称し、改年して黄初といった。或る者が漢帝が害されたと伝聞し、先主はかくして喪制に服す事を発し、追諡して孝愍皇帝といった。この後、在所は揃って衆(おお)くの瑞祥を言い、日月に相い属(つら)なり、旧の議郎の陽泉侯劉豹・青衣侯向挙、偏将軍張裔・黄権、大司馬属掾の殷純、益州別駕従事趙笮、治中従事楊洪、従事祭酒何宗、議曹従事杜瓊、勧学従事張爽・尹默・譙周らが上言した

「河図・洛書、五経の讖・緯は孔子の甄(と)いたもので、遠(ふる)きより験に応じるものと聞いております。謹んで調べたところ『洛書甄曜度』には“赤三日徳昌、九世会備、合為帝際”、『洛書宝号命』には“天度帝道備称皇、以統握契、百成不敗”、『洛書録運期』には“九侯七傑争命民炊骸、道路籍籍履人頭、誰使主者玄且来”、『孝経鉤命決録』には“帝三建九会備”とあります。臣の父の羣が存命の時、西南にしばしば黄気があり、直立すること数丈、出見してより積年、時々に景雲祥風があり、璿璣(北斗の枡)から下り来てこれに応じ、これを異瑞としておりました。又た(建安)二十二年にしばしば旗の如き気があり、西より東の竟(はて)に、中天を経て行き、河図・洛書の“必有天子出其方”というものです。加えてこの年に太白(金星)・熒惑(火星)・塡星(土星)が常に歳星に従って追走しました。近きは漢が初めて興る時、五星が歳星に従った事があり、謀ると、歳星とは主君の意義で、漢の位は西に在り、これは上方を意味し、そのため漢の法では常に歳星で人主を候(うらな)うのです。(建安二十二年の天象は)まさに聖主がこの州に起ち、中興を致すというものです。当時は許には帝が尚お存り、そのため群下は敢えて漏言しませんでした。近ごろでは熒惑が復た歳星を追い、胃宿(おひつじ座尾部)・昴宿(おうし座の昴)・畢宿(おうし座頭部)に現れています。昴・畢は天街であり、経には“帝星処之、衆邪消亡”とあります。聖なる諱の預言が合致するのはこの一事に限ったものではありません。聖王が天に先んじても天は違えず、天に後れれば天の時を奉じ、そのため際に応じて生じ、神と合契する、と聞いております。願わくば大王は天に応じ民に順い、速やかに洪業に即いて海内を寧んぜん事を」

 太傅許靖・安漢將軍糜竺・軍師將軍諸葛亮・太常賴恭・光祿勳〔黄柱〕・少府王謀等上言: 「曹丕簒弑、湮滅漢室、竊據神器、劫迫忠良、酷烈無道。人鬼忿毒、咸思劉氏。今上無天子、海内惶惶、靡所式仰。羣下前後上書者八百餘人、咸稱述符瑞、圖・讖明徴。閒黄龍見武陽赤水、九日乃去。孝經援神契曰『德至淵泉則黄龍見』、龍者、君之象也。易乾九五『飛龍在天』、大王當龍升、登帝位也。又前關羽圍樊・襄陽、襄陽男子張嘉・王休獻玉璽、璽潛漢水、伏於淵泉、暉景燭燿、靈光徹天。夫漢者、高祖本所起定天下之國號也、大王襲先帝軌跡、亦興於漢中也。今天子玉璽神光先見、璽出襄陽、漢水之末、明大王承其下流、授與大王以天子之位、瑞命符應、非人力所致。昔周有烏魚之瑞、咸曰休哉。二祖受命、圖・書先著、以為徴驗。今上天告祥、羣儒英俊、並進河・洛、孔子讖・記、咸悉具至。伏惟大王出自孝景皇帝中山靖王之冑、本支百世、乾祇降祚、聖姿碩茂、神武在躬、仁覆積德、愛人好士、是以四方歸心焉。考省靈圖、啓發讖・緯、神明之表、名諱昭著。宜即帝位、以纂二祖、紹嗣昭穆、天下幸甚。臣等謹與博士許慈・議郎孟光、建立禮儀、擇令辰、上尊號。」即皇帝位於成都武擔之南。 為文曰:「惟建安二十六年四月丙午、皇帝備敢用玄牡、昭告皇天上帝后土神祇:漢有天下、歴數無疆。曩者王莽簒盜、光武皇帝震怒致誅、社稷復存。今曹操阻兵安忍、戮殺主后、滔天泯夏、罔顧天顯。操子丕、載其凶逆、竊居神器。羣臣將士以為社稷墮廢、備宜脩之、嗣武二祖、龔行天罰。備惟否德、懼忝帝位。詢于庶民、外及蠻夷君長、僉曰『天命不可以不答、祖業不可以久替、四海不可以無主』。率土式望、在備一人。備畏天明命、又懼漢阼將湮于地、謹擇元日、與百寮登壇、受皇帝璽綬。脩燔瘞、告類于天神、惟神饗祚于漢家、永綏四海!」

 太傅許靖・安漢将軍糜竺・軍師将軍諸葛亮・太常頼恭・光禄勲黄柱・少府王謀らが上言した

「曹丕が簒弑して漢室を湮滅し、神器を盗んで忠良を劫迫し、酷烈無道であり、人鬼とも忿毒して咸な劉氏を思っております。今、天子は不在で海内は恐慌しております。群下で前後して上書した者は八百余人。咸な符瑞や図讖の徴候を述べています。近頃も『孝経援神契』の“徳至淵泉則黄龍見”に応じた象がありました。又た以前に関羽が樊・襄陽を囲んだ時、襄陽の張嘉・王休が玉璽を献上しましたが、漢水の淵に沈んでいながら霊光は天に達するほど輝いていたそうです。漢とは高祖が起った所に由来する国号であり、大王は先帝の軌跡を襲(つ)ぎ、亦た漢中に興りました。天子の象たる玉璽が輝きつつ漢水で出た事は、大王が漢の下流として承け、大王に天子の位を授けるものです。瑞命符応は人力の及ぶ所ではありません。昔、周には烏魚の瑞があり、二祖(高祖と光武帝)が受命する時には河図・洛書が先ず現れ、これを徴験としました。今、天は吉祥を告げ、群儒英俊は揃って河図・洛書や孔子の讖・記を進呈しております。大王は孝景皇帝の中山靖王の裔であり、今日の事は霊図や讖・緯にも明らかです。帝位に即いて二祖を纂(つ)ぎ、昭穆(宗廟)を嗣ぐ事が天下の幸甚なのです。臣らは謹んで博士許慈・議郎孟光と礼儀を建立し、令辰(吉日)を択んで尊号を上呈するものです」

 勧進関連に名を連ねた閣僚で、射援については裴松之が補い、龐羲については劉二牧伝で疎述され、頼恭・黄柱・王謀については『季漢輔臣賛』で、「資料が亡佚して立伝されなかったんだろう」 とあります。頼恭は恐らく、荊南征服に成功した劉表が置き、後に呉巨に逐われた交州刺史と同一人物かと思われます。

成都の武担の南で皇帝位に即いた[39]

「建安二十六年四月丙午、皇帝備は玄牡を用いて、皇天上帝と后土神祇に告げるものです。王莽の簒盜を光武皇帝が誅して社稷は復存しましたが、曹操が再び乱し、その子の曹丕が凶逆にも神器を盗みました。備は辞退しようにも群臣将士に迫られ、蛮夷の君長にも勧められ、率土の望みを担ってしまいました。漢阼が堕ちるのも忍びなく、吉日を択んで皇帝の璽綬を拝受しました。燔瘞(天地の祭祀)を修めて天神に告げるものであります」[40]

 章武元年夏四月、大赦、改年。以諸葛亮為丞相、許靖為司徒。置百官、立宗廟、祫祭高皇帝以下。五月、立皇后呉氏、子禪為皇太子。六月、以子永為魯王、理為梁王。車騎將軍張飛為其左右所害。初、先主忿孫權之襲關羽、將東征、秋七月、遂帥諸軍伐呉。孫權遣書請和、先主盛怒不許、呉將陸議・李異・劉阿等屯巫・秭歸;將軍呉班・馮習自巫攻破異等、軍次秭歸、武陵五谿蠻夷遣使請兵。

 章武元年(221)夏四月、大赦して(章武と)改年した。諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とした。百官を置き、宗廟を立て、高皇帝以下を祫せ祭った[41]。五月、呉氏を皇后に立て、子の劉禅を皇太子とした。六月、子の劉永を魯王とし、劉理を梁王とした。車騎将軍張飛が左右の者に害された。かねて先主は孫権が関羽を襲った事に忿って東征せんとしており、秋七月、遂に諸軍を帥いて呉を伐った。孫権は書簡を遣って和を請うたが、先主は盛怒して許さず、呉将の陸議・李異・劉阿らが巫・秭帰に駐屯しているのを将軍呉班・馮習が巫より攻めて李異らを破った。軍は秭帰に次(やど)り、武陵の五谿蛮夷が遣使して兵を請うた。

 二年春正月、先主軍還秭歸、將軍呉班・陳式水軍屯夷陵、夾江東西岸。二月、先主自秭歸率諸將進軍、縁山截嶺、於夷道猇亭駐營、自佷山通武陵、遣侍中馬良安慰五谿蠻夷、咸相率響應。鎮北將軍黄權督江北諸軍、與呉軍相拒於夷陵道。夏六月、黄氣見自秭歸十餘里中、廣數十丈。後十餘日、陸議大破先主軍於猇亭、將軍馮習・張南等皆沒。先主自猇亭還秭歸、收合離散兵、遂棄船舫、由歩道還魚復、改魚復縣曰永安。呉遣將軍李異・劉阿等踵躡先主軍、屯駐南山。秋八月、收兵還巫。司徒許靖卒。冬十月、詔丞相亮營南北郊於成都。孫權聞先主住白帝、甚懼、遣使請和。先主許之、遣太中大夫宗瑋報命。冬十二月、漢嘉太守黄元聞先主疾不豫、舉兵拒守。

 二年(222)春正月、先主は軍を秭帰に還し、将軍呉班・陳式の水軍は夷陵に駐屯し、東西の岸で長江を挟んだ。二月、先主は秭帰より諸将を率いて進軍し、山縁いに嶺を截ち、夷道の猇亭に駐屯して設営した。佷山より武陵を通り、侍中馬良を遣って五谿の蛮夷を安慰させ、咸な相い率いて饗応(呼応)した。鎮北将軍黄権は江北諸軍を督し、呉軍と夷陵道で相い拒いだ。夏六月、黄気が秭帰の十余里圏に出見し、広さは数十丈。十余日の後、陸議が猇亭で先主の軍を大破し、将軍馮習・張南らは皆な歿した。先主は猇亭より秭帰に還り、離散兵を収合し、かくて船舫を棄て、歩道によって魚復に還り、魚復県を改めて永安といった。呉は将軍李異・劉阿らを遣って先主の軍に踵躡(追撃)させ、南山に駐屯した。
司徒許靖が卒した。冬十月、丞相諸葛亮に成都で南北郊の祭祀場を造営させた。孫権は先主が白帝に住(とど)まったと聞くと甚だ懼れ、遣使して和を講じた。先主はこれを許し、太中大夫宗瑋を遣って報命(返答)させた。
冬十二月、漢嘉太守(治所の漢嘉は現在の雅安市区)黄元が先主が疾んで不予だと聞き、兵を挙げて拒守した。

 黄元が外来なのか土着なのか不明ですが、恐らくはこれが南中大乱の嚆矢かと思われます。

 三年春二月、丞相亮自成都到永安。三月、黄元進兵攻臨邛縣。遣將軍陳㫚討元、元軍敗、順流下江、為其親兵所縛、生致成都、斬之。先主病篤、託孤於丞相亮、尚書令李嚴為副。夏四月癸巳、先主殂于永安宮、時年六十三。

 三年(223)春二月、丞相諸葛亮が成都より永安に到った。三月、黄元が兵を進めて臨邛県(成都市邛崍)を攻めた。将軍陳㫚を遣って黄元を討たせた。黄元の軍は敗れ、流れに順って江を下ったが、その親兵に捕縛され、生きたまま成都に送致され、これを斬った。先主の病は篤く、丞相諸葛亮に託孤し、尚書令李厳を副とした。夏四月癸巳、先主は永安宮で殂(みまか)った。時に齢六十三だった[42]

 亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹德、覆燾無疆、昊天不弔、寢疾彌留、今月二十四日奄忽升遐、臣妾號咷、若喪考妣。乃顧遺詔、事惟大宗、動容損益;百寮發哀、滿三日除服、到葬期復如禮;其郡國太守・相・都尉・縣令長、三日便除服。臣亮親受敕戒、震畏神靈、不敢有違。臣請宣下奉行。」五月、梓宮自永安還成都、諡曰昭烈皇帝。秋、八月、葬惠陵。

 諸葛亮が後主に上言するには 「伏して惟るに、大行皇帝は仁に邁進して徳を樹て、(天下を)覆い燾(て)らすこと疆(くま)無し。昊天は弔(あわれ)まず、寝疾すること弥留(長引く)であり、今月二十四日に俄かに升遐(崩御)され、臣妾は号咷し、考妣(父母)の喪のようでした。遺詔を顧みれば、大宗(皇統)を惟(おも)い、損益を測って行動し、百寮は哀悼を発すること三日を満たせば喪服を除き、埋葬の期日が到れば復た礼の通りにせよ。郡国の太守・相・都尉・県令・県長は、三日で喪服を除け、と。臣亮は親しく敕戒を受け、神霊を震畏し、違える事はありません。臣は下々に宣べて奉行されんことを請うものです」
五月、梓宮(霊柩)が永安より成都に還り、諡して昭烈皇帝といった。秋八月、恵陵に葬った[43]
 
[29] 劉備は前に張松に会い、後に法正を得、皆な厚く恩意を以て接納し、尽く慇懃に歓待した。そのおりに蜀中の闊狭(広狭)や兵器・府庫・人馬の衆寡および諸々の要害への道里の遠近を問い、張松らは具さに言い、又た山川の在り処を地図に画き、これに因って益州の虚実を尽く知った。 (『呉書』)
[30] 劉備はこれに因ってその手勢を激怒させようと 「俺が益州の為に強敵を征し、師徒(軍兵)は勤瘁し、寧居の暇も無い。今、帑藏(金蔵)の財を積んで賞功を恡(吝)しもうとは、士大夫が死力を出して戦わせようと望んでも、出来るものか!」 (『魏書』)
[31] 張粛には威儀があり、容貌は甚だ雄偉だった。張松の為人りは短小で、放蕩にして節操を治めず、しかし見識に達して果断であり、才幹があった。劉璋が遣って曹操に詣らせた処、曹操は甚だしくは礼遇しなかった。曹操の主簿楊脩が深くこれを器重し、曹操に張松を辟すよう白したが、曹操は納れなかった。楊脩は曹操が撰述した兵書を張松に示した処、張松は宴飲の間に一たび看てたちまち闇誦した。楊脩はこれによって益々これを異とした。 (『益部耆旧雑記』)
[32] 張任は蜀郡の人で、家は歴世の寒門だった。若くして胆勇があり、志節を有し、州に仕えて従事となった。 (『益部耆旧雑記』)
[33] 劉璋は張任・劉璝を遣って精兵を率いて先主を涪で拒捍させ、先主に破られると退いて劉璋の子の劉循と雒城を守らせた。張任は兵を勒(ひき)いて雁橋に出撃し、戦って復た敗れた。張任を禽えた。先主は張任の忠勇を聞いており、軍には降すよう命じていた。張任は声を励まし 「老臣は終には復た二主には事えないものだ」 かくしてこれを殺した。先主は歎じ惜しんだ。 (『益部耆旧雑記』)
[34] 劉備が蜀を襲った当初、丞相掾趙戩は 「劉備に遂げられようか? 用兵は拙く、戦えば敗れ、奔亡に暇が無い。どうして人を図れよう? 蜀は小区ではあっても、険固が四方を塞ぎ、独守の国である。俄かに併せるのは難事だ」 徴士傅幹 「劉備は寬仁で度量があり、人の死力を得るのに長けている。諸葛亮は治法に達して応変を知り、正直でありつつ策謀もあり、しかも宰相となっている。張飛・関羽の勇は皆な万人の敵たる意義を有し、しかもその将軍となっている。此の三人は皆な人傑である。劉備の雄略を三傑が佐けているのに、どうして済げられないと云うのか?」 (『傅子』)

 『傅子』の著者/傅玄は傅幹の子で、傅幹は魏に仕えましたが、傅玄は司馬氏派でした。お父さんを持ち上げる為なら、司馬氏の禁忌に触れない限りは自由です!

―― 趙戩、字は叔茂。京兆長陵の人である。質朴で学問を好み、言葉は『詩』『書』を唱え、人を愛恤し、疎密を論じなかった。公府に辟され、入台して尚書選部郎(人事担当)となった。董卓が私親によって台閣を充たそうとした時、趙戩は拒んで聴かなかった。董卓は怒り、趙戩を召して殺そうとし、観る者は皆な趙戩の為に懼れたが、趙戩は自若としていた。董卓に通見すると、辞を引いて色を正し、是非を陳べ説いた。董卓は凶戻とはいえ、屈して謝した。平陵令に遷った。故将(薦挙者)の王允が害されると、近づこうとする者が莫かったが、趙戩は棄官して収斂した。三輔が乱れると趙戩は荊州に客居し、劉表に賓客とされた。曹操は荊州を平定すると、趙戩の手を執りつつ 「何ぞ相いまみえる事の晩き事か!」 かくて辟して掾とした。後に五官将司馬や相国鍾繇の長史となり、齢六十余で卒した。 (『典略』)
[35] 射援、字は文雄。扶風の人である。その祖宗の本姓は謝であり、北地の諸謝と同族である。始祖の謝服が将軍となって出征し、天子は謝服が麗名ではないとして改めて射とし、子孫が氏とした。兄の射堅、字は文固は若くから美名があり、公府が辟して黄門侍郎とした。献帝の初めに三輔が饑えて乱れると、射堅は官を去り、弟の射援と南のかた蜀に入って劉璋に依り、劉璋は射堅を長史とした。劉備が劉璋に代ると射堅を広漢・蜀郡太守とした。射援も亦た若くから名行があり、太尉皇甫嵩はその才を賢として娘を娶らせ、丞相諸葛亮は射援を祭酒とした。従事中郎に遷り、官として卒した。 (『三輔決録』注)
[36] 趙高は閻楽に二世皇帝を殺させ、王莽は孺子を廃して定安公とした。
[37] 鄭玄の注に曰く、庶とは衆である。励とは作である。敍とは序列である。九族を序列してこれに親しみ、衆の明らかなる者を羽翼の臣と為すものである。
[38] 劉備は館舍を起工し、亭と障壁を築き、成都より白水関に至るまでを四百余区とした。 (『典略』)
[39] (嘗て)武都に丈夫が化して女子となった者があり、顔の容色は美好で、山精だったのであろう。蜀王が娶って妻としたが、水土に慣れず、疾を病んで帰国したがったが、蜀王は留め、幾許もなく物故した。蜀王は士卒を発して武都の土を担がせ、成都城の郭中に葬った。面積は数畝、高さ十丈。号して武擔といった。 (『蜀本紀』)
―― 裴松之が調べた処、武担とは山の名であり、成都の西北に在る。乾の方位は西北で、そのためこれに就いて阼に即いたのであろう。
[40] 劉備は曹操が薨じたと聞き、掾の韓冉を遣って書簡にて弔意を奉じさせ、併せて賻贈の礼を致した。文帝は喪によって好誼を求めた事を憎悪し、荊州刺史に命じて韓冉を斬らせ、使命を絶たせた。 (『魏書』)
―― 劉備は軍謀掾韓冉を遣って書簡にて弔意を齎し、併せて錦布を朝貢した。韓冉は疾を称して上庸に留まった。上庸よりその書を致し、たまたま受禅の終了に会い、詔による報答があってこれを引見した。劉備は報書を得、かくて称制した。 (『典略』)

 本来、使節を拒まないのが礼で、弔問使なら尚更です。曹叡以降の事ならまだしも、曹丕の行ないとして『魏書』が載せているなら弔問使殺害命令の信憑性は高いと思います。『典略』も前半だけならアリなんですが。

[41] 裴松之が考えるに、先主の出自が孝景帝にあるとはいえ、世数は悠遠であり、昭穆は明らかにし難い。既に漢祚を継ぎ、誰を元祖として親廟を立てたのかも判らない。時の英賢が輔弼し、儒生が官に在り、宗廟の制度にはきっと憲章があったのだろう。載記が闕略しているのは惜しいではないか!
[42] 先主の後主への遺詔 「朕の初めの疾はただ下痢だけだったが、後に一転して雑他の病となり、殆ど助かりそうにない。人は五十では夭逝とは称さない。年は已に六十有余であり、何を復た恨もうか。復た自身を傷むことも無いが、ただ卿の兄弟だけが心残りだ。射君が到って説くには、丞相は卿の智量に歎じ、甚だ大いに増修すること望みを越えていると。その通りであれば私は復た何を憂おう! 勉めよ、勉めよ! 悪は小であっても為す勿れ、善は小であっても為さざる勿れ。ただ賢と徳とが能く人を帰服させるのだ。汝の父は徳薄く、これを効(見本)としてはならない。『漢書』『礼記』を読み、間暇には諸子および『六韜』『商君書』を歴観し、智慧を益す事を意識せよ。聞けば丞相は『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を一通り写し終え、送る前に途中で亡くしたという。自ら更に求めて聞達せよ」
臨終の時、魯王を呼んで語るには 「私が亡くなった後、汝ら兄弟は丞相に父事し、令卿與丞相共事而已。」 (『諸葛亮集』)

 最後の一節、筑摩訳では「ただただ諸卿には丞相と共に事に当るよう命じよ」 ですが、前節の父事との対応を考えると、“令卿”は「卿に命じ」 ではなく「令兄」 で、「令兄と共に丞相に事えよ」 と念押ししているような気がします。父が子の兄に対して“令兄”だなんて発言するかは疑問ですが。

[43] 仙人李意其、蜀人也。傳世見之、云是漢文帝時人。先主欲伐呉、遣人迎意其。意其到、先主禮敬之、問以吉凶。意其不答而求紙筆、畫作兵馬器仗數十紙已、便一一以手裂壞之、又畫作一大人、掘地埋之、便徑去。先主大不喜。而自出軍征呉、大敗還、忿恥發病死、衆人乃知其意。其畫作大人而埋之者、即是言先主死意。 (葛洪『神仙伝』)

 仙人の李意其に戦の吉凶を尋ねたが、兵馬・武器の絵を黙々と描いては破り、最後に巨人の絵を埋めて去った。巨人は先主だと死後に噂された。

 

 評曰:先主之弘毅寬厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉。及其舉國託孤於諸葛亮、而心神無貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機權幹略、不逮魏武、是以基宇亦狹。然折而不撓、終不為下者、抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。

 評に曰く、先主は弘く毅く寬く厚く、人物を見分けて士を待遇し、高祖の風、英雄の器があるようだった。諸葛亮に国を挙げて託孤し、心神に二心(疑念)が無かった事は、誠に君臣の至公というもので、古今の盛軌である。機権幹略(権謀と才幹)は魏武に逮(およ)ばず、そのせいで基宇も亦た狭かった。しかし折れても撓まず、終には下者とはならなかったのは、つまるところ彼の器量が必ず己を容れないと揆(はか)ったからで、ただ利を競ったのではなく、加えて害を避けようとしたものに他ならない。

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