三國志修正計画

三國志卷十四 魏書十四/程郭董劉蔣劉傳 (二)

董昭

 董昭字公仁、濟陰定陶人也。舉孝廉、除廮陶長・柏人令、袁紹以為參軍事。紹逆公孫瓚于界橋、鉅鹿太守李邵及郡冠蓋、以瓚兵彊、皆欲屬瓚。紹聞之、使昭領鉅鹿。問:「禦以何術?」 對曰:「一人之微、不能消衆謀、欲誘致其心、唱與同議、及得其情、乃當權以制之耳。計在臨時、未可得言。」 時郡右姓孫伉等數十人專為謀主、驚動吏民。昭至郡、偽作紹檄告郡云:「得賊羅候安平張吉辭、當攻鉅鹿、賊故孝廉孫伉等為應、檄到收行軍法、惡止其身、妻子勿坐。」昭案檄告令、皆即斬之。一郡惶恐、乃以次安慰、遂皆平集。事訖白紹、紹稱善。會魏郡太守栗攀為兵所害、紹以昭領魏郡太守。時郡界大亂、賊以萬數、遣使往來、交易市買。昭厚待之、因用為間、乘虚掩討、輒大克破。二日之中、羽檄三至。

 董昭、字は公仁。済陰定陶の人である。孝廉に挙げられ、廮陶県長・柏人令に叙され、袁紹が参軍事とした。袁紹が公孫瓚を界橋に逆撃した時、鉅鹿太守李邵[※]および郡の冠蓋(冠服と車蓋=上級官吏)は、公孫瓚の兵が彊い事を以て皆な公孫瓚に属そうとした。袁紹はこれを聞くと董昭に鉅鹿太守を兼領させ、問うには 「どのような術(すべ)で防禦する?」 。対えて曰く 「一人は微力であり、多人数の謀りごとを消す事はできません。その心を誘致しようとするなら同議を唱え、その実情を得てから権宜で制するほかありません。計略は時に臨んで行なうもので、未だ言葉にはできません」 と。時に郡の右姓(大姓)の孫伉ら数十人が専ら謀主となり、吏民を驚かせ動揺させていた。董昭は郡に至ると、偽って袁紹の檄を作って郡に告げて云うには 「賊(公孫瓚)の羅候(斥候)である安平の張吉の辞述を得たが、鉅鹿を攻めるに当って、賊のもと孝廉の孫伉らが呼応すると。檄が到り次第収容して軍法を行ない、悪事はその身に止めて妻子を連坐させてはならない」 と。董昭は檄を案(おさ)えて告令し、皆なを即座に斬った。一郡が惶恐したので次第に安慰し、かくて皆な集い平静となった。事を訖(お)えて袁紹に白(もう)すと、袁紹は称善(称賛)した。折しも魏郡太守栗攀が兵に害され、袁紹は董昭に魏郡太守を兼領させた。時に郡界は大いに乱れており、賊は万を以て数え、(互いに)使者を遣って往来させ、交易・市買(売買)していた。董昭はこれを厚遇して用いて反間させ、虚に乗じて掩(やにわ)に討ち、そのつど大いに克破した。二日のうちに(勝報の)羽檄(急使)が三度至った。
 関東が兵乱を起こした時、もとの冀州刺史李邵は野王に家居していたが、山険に近かったので(南の)温に徙居しようとした。司馬朗が李邵に謂うには 「温と野王の関係も脣歯であり、今、彼を去ってこれに居るのは朝の亡びを(夕に)避けただけであります。しかも君は国人の名望であり、今、寇賊が至っていないのに先んじて徙れば沿山の県はかならず驚駭しましょう。これこそ民の心を動揺させて姦宄の原因を開く事になりましょう。竊かに郡内の為にこれを憂えるものです」 と。李邵は従わなかった。辺山の民は果して混乱し、内地に徙ったり、或いは寇鈔するようになった。 (司馬朗伝)

 昭弟訪、在張邈軍中。邈與紹有隙、紹受讒將致罪於昭。昭欲詣漢獻帝、至河内、為張楊所留。因楊上還印綬、拜騎都尉。時太祖領兗州、遣使詣楊、欲令假塗西至長安、楊不聽。昭説楊曰:「袁・曹雖為一家、勢不久羣。曹今雖弱、然實天下之英雄也、當故結之。況今有縁、宜通其上事、并表薦之;若事有成、永為深分。」 楊於是通太祖上事、表薦太祖。昭為太祖作書與長安諸將李傕・郭等、各隨輕重致殷勤。楊亦遣使詣太祖。太祖遺楊犬馬金帛、遂與西方往來。天子在安邑、昭從河内往、詔拜議郎。

 董昭の弟の董訪は張邈の軍中に在った。張邈は袁紹と隙があり、袁紹は讒言を受けて董昭を断罪しようとした。董昭は漢の献帝に詣ろうと考え、河内に至った処で張楊に留められた。張楊を介して印綬を上に還した処、騎都尉を拝命した。時に曹操は兗州を兼領しており、使者を遣って張楊に詣らせ、西のかた長安に至るために途を仮りようとしたが、張楊は聴許しなかった。

 当時、既に張楊は袁紹と対立状態にありましたので、曹操の行動を妨害するのは当然過ぎる措置です。

董昭が張楊に説くには 「袁紹・曹操は一家ではありますが、勢いとして久しく群れてはおりますまい。曹操は今は弱いとはいえ、実は天下の英雄であり、だからこそ結ぶべきです。ましてや今や縁ができたのです。その言上事を通じてやり、併せて上表して推薦してやるのが宜しいでしょう。もし事が成れば、永らく深分(深密な対等関係)を為しましょう」 と。張楊はここに曹操の言上事を通し、上表して曹操を推薦した。

 この時点で曹操に許遷都の構想があったとは思えませんが、献帝の正統性を否定している袁紹の庇護下にありながら献帝への通誼を図っていたというのは新発見です。兗州を領した曹操がどの時点で献帝に遣使したのかは定かではありませんが、恐らく袁術を撃退した直後ではないかと思われます。この時点で董昭が曹操を“天下の英雄”と呼んでいるのは史書のリップサービスなのか青州黄巾を懐柔した手腕を知ってのものなのかは判りませんが、この時の献帝サイドの狙いはあくまでも袁紹一家の分断でしょう。寧ろ兵力はあっても基盤を確立できていない曹操が献帝に通じようとした動機がハッキリしませんが、担ぐ神輿はイミテーションより錦製の方がやはり何かと効果が得られ易かったとかでしょうか。

董昭は曹操の為に書簡を作して長安の諸将である李傕・郭らに与え、各々の敬重に随って(それを)送致すること殷勤(慇懃)だった。張楊も亦た使者を遣って曹操に詣らせた。曹操は張楊に犬馬金帛を遺(おく)り、かくて西方と往来した。天子が安邑に在った時、董昭は河内より往き、詔によって議郎を拝命した。

 建安元年、太祖定黄巾于許、遣使詣河東。會天子還洛陽、韓暹・楊奉・董承及楊各違戻不和。昭以奉兵馬最彊而少黨援、作太祖書與奉曰: 「吾與將軍聞名慕義、便推赤心。今將軍拔萬乘之艱難、反之舊都、翼佐之功、超世無疇、何其休哉!方今羣凶猾夏、四海未寧、神器至重、事在維輔;必須衆賢以清王軌、誠非一人所能獨建。心腹四支、實相恃ョ、一物不備、則有闕焉。將軍當為内主、吾為外援。今吾有糧、將軍有兵、有無相通、足以相濟、死生契闊、相與共之。」 奉得書喜ス、語諸將軍曰:「兗州諸軍近在許耳、有兵有糧、國家所當依仰也。」 遂共表太祖為鎮東將軍、襲父爵費亭侯;昭遷符節令。

 建安元年(196)、曹操は許の黄巾を平定し、使者を遣って河東に詣らせた。折しも天子は洛陽に還っていたが、韓暹・楊奉・董承および張楊は各々が違戻(反目)して不和だった。董昭は楊奉の兵馬が最彊でありながら党援(支援者)が少ない事から、曹操の書簡を作って楊奉に与えて曰く:

「私は将軍と同じく名声を聞き義を慕う者として、赤心を推すものです。今、将軍は万乗の君を艱難から救抜して旧都に反り、翼佐の功は世を超えても疇(ならぶもの)は無く、何と休(よ)きことか! 現今、群凶は中夏を猾(みだ)し、四海は安寧しておりませんが、神器は至重であって、大事は維輔(輔弼)にかかっております。賢士を衆めて王軌を清める事が必須であり、一人が単独で建てられるようなものではありません。心腹や四肢は実際に恃頼し合うもので、一物でも備えてなければ闕(欠陥)があるというものです。将軍が内なる主となり、私が外援となりましょう。今、私には糧食があり、将軍には兵があり、有無を通じ合わせれば互いを救済するに足りましょう。死生・契闊(労苦)を相い共にいたしましょう」 。

楊奉は書簡を得て喜悦し、諸将軍に語るには 「兗州の諸軍が近き許に在り、兵と糧食を有している。国家が依仰すべき相手だ」 。かくて共に上表して曹操を鎮東将軍とし、父の爵の費亭侯を襲がせた。董昭は符節令に遷った。

 太祖朝天子於洛陽、引昭並坐、問曰:「今孤來此、當施何計?」昭曰:「將軍興義兵以誅暴亂、入朝天子、輔翼王室、此五伯之功也。此下諸將、人殊意異、未必服從、今留匡弼、事勢不便、惟有移駕幸許耳。然朝廷播越、新還舊京、遠近跂望、冀一朝獲安。今復徙駕、不厭衆心。夫行非常之事、乃有非常之功、願將軍算其多者。」 太祖曰:「此孤本志也。楊奉近在梁耳、聞其兵精、得無為孤累乎?」 昭曰:「奉少黨援、將獨委質。鎮東・費亭之事、皆奉所定、又聞書命申束、足以見信。宜時遣使厚遺答謝、以安其意。説『京都無糧、欲車駕暫幸魯陽、魯陽近許、轉運稍易、可無縣乏之憂』。奉為人勇而寡慮、必不見疑、比使往來、足以定計。奉何能為累!」 太祖曰:「善。」 即遣使詣奉。徙大駕至許。奉由是失望、與韓暹等到定陵鈔暴。太祖不應、密往攻其梁營、降誅即定。奉・暹失衆、東降袁術。三年、昭遷河南尹。時張楊為其將楊醜所殺、楊長史薛洪・河内太守繆尚城守待紹救。太祖令昭單身入城、告喩洪・尚等、即日舉衆降。以昭為冀州牧。

 曹操は洛陽で天子に参朝した時、董昭を招引して並んで坐ると、問うて曰く 「今、孤はここに来たが、どのような計策を施すべきか?」 。董昭曰く

「将軍は義兵を興して暴乱を誅し、入って天子に参朝して王室を輔翼すれば、これぞ五覇の功というものです。これら諸将は人が異なれば意心も異なり、必ずしも服従してはおらず、今(この地に)留まったまま匡弼するのは事勢として不便(不都合)です。惟うに駕を移して許に行幸するしかありますまい。しかし朝廷は播越(彷徨)して新たに旧京に還ったばかりで、遠近の跂望(待望)としてはひとえに朝廷が安寧を獲ることを冀っております。今復た駕を徙すのは衆心には厭(かな)いませんが、そも常ならぬ事を行なえばこそ常ならぬ功があるのです。願わくば将軍よ、その多きを算られますよう」 。

曹操曰く 「これぞ孤の本志だ。楊奉は近く梁の地に在るが、聞けばその兵は精強だとか。孤に累を為さぬよう出来るか?」 。董昭曰く

「楊奉には党援が少なく、独り委質(臣従)しようとしております。鎮東将軍・費亭侯の事は皆な楊奉が定めたものです。又た聞く処では、書命申束(文書命令による誓約)は信用されるに足るとか。頃合いを測って使者を遣って厚く答謝を遺(おく)り、その意心を安んじてやり、説くには“京都には糧食が無く、車駕を暫く魯陽に行幸させたい。魯陽は許に近いので転運はやや容易で、懸隔による欠乏の憂いは無い”と。楊奉の為人りは勇にして思慮は寡なく、必ずや疑いますまい。使者を往来させている期間で計を定めるに充分でありましょう。楊奉など何ぞ累を為せましょうや!」 。

曹操曰く 「善し」 。即時に使者を遣って楊奉に詣らせた。大駕を徙して許に至らせると、楊奉はこれによって望みを失い、韓暹らと(潁川の)定陵に到って鈔暴した。曹操は対応せず、密かに往って梁の(楊奉の)営を攻め、降・誅を併用して即座に平定した。楊奉・韓暹は軍兵を失い、東のかた袁術に降った。

 曹操が献帝に通誼するのを仲介したのは董昭・鍾繇ですが、曹操による献帝奉戴と許遷都を実現したのは紛れもなく董昭の手腕によるもので、曹操にとっての功績は荀ケ・荀攸に亜ぐと謂っても過言ではありません。『演義』ではどうも 「色白で肥えてる」 だとか、荀ケに対する間諜まがいの行為など余計な枝葉で眩まされますが、後の九錫の進言といい、曹魏の基盤を定め、それを発展させる上で非常に重要な役割を担った人物です。もう少し天下経綸に関する発言があれば賈詡伝と位置が入れ替わっていたかもしれません。

三年(198)、董昭は河南尹に遷った。時に張楊はその将の楊醜に殺され、張楊の長史の薛洪・河内太守繆尚は城を守って袁紹の救援を待っていた。曹操は董昭に単身で入城するよう命じ、薛洪・繆尚らに告喩させた処、即日に手勢を挙げて降った。董昭を冀州牧とした。

 太祖令劉備拒袁術、昭曰:「備勇而志大、關羽・張飛為之羽翼、恐備之心未可得論也!」 太祖曰:「吾已許之矣。」 備到下邳、殺徐州刺史車冑、反。太祖自征備、徙昭為徐州牧。袁紹遣將顏良攻東郡、又徙昭為魏郡太守、從討良。良死後、進圍鄴城。袁紹同族春卿為魏郡太守、在城中、其父元長在揚州、太祖遣人迎之。昭書與春卿曰: 「蓋聞孝者不背親以要利、仁者不忘君以徇私、志士不探亂以徼幸、智者不詭道以自危。足下大君、昔避内難、南游百越、非疏骨肉、樂彼呉會、智者深識、獨或宜然。曹公愍其守志清恪、離羣寡儔、故特遣使江東、或迎或送、今將至矣。就令足下處偏平之地、依コ義之主、居有泰山之固、身為喬松之偶、以義言之、猶宜背彼向此、舍民趣父也。且邾儀父始與隱公盟、魯人嘉之、而不書爵、然則王所未命、爵尊不成、春秋之義也。況足下今日之所託者乃危亂之國、所受者乃矯誣之命乎?苟不逞之與羣、而厥父之不恤、不可以言孝。忘祖宗所居之本朝、安非正之奸職、難可以言忠。忠孝並替、難以言智。又足下昔日為曹公所禮辟、夫戚族人而疏所生、内所寓而外王室、懷邪祿而叛知己、遠福祚而近危亡、棄明義而收大恥、不亦可惜邪!若能翻然易節、奉帝養父、委身曹公、忠孝不墜、榮名彰矣。宜深留計、早決良圖。」 鄴既定、以昭為諫議大夫。後袁尚依烏丸蹋頓、太祖將征之。患軍糧難致、鑿平虜・泉州二渠入海通運、昭所建也。太祖表封千秋亭侯、轉拜司空軍祭酒。

 曹操が劉備に袁術を拒ぐよう命じた時、董昭曰く 「劉備は勇将であって志は大きく、関羽・張飛を羽翼としており、劉備の心は恐らくはまだ結論すべきではございませんぞ!」 。曹操曰く 「已に之(ゆ)くのを許してしまったのだ」 。劉備は下邳に到るや、徐州刺史車冑を殺して反いた。曹操は自ら劉備を征伐し、董昭を徙して徐州牧とした。袁紹が将の顔良を遣って東郡を攻めさせたので、又た董昭を徙して魏郡太守とし、顔良を討つのに従わせた。顔良の死後、進んで鄴城を囲んだ。

 顔良の敗死から何の前置きも無く、いきなり歳月を飛ばして袁紹の死後の事を語り出しています。欠文があるのでなければ、陳寿の筆法からして何らかの意図がありそうですが、ちょっと想像できません。

袁紹の同族の袁春卿が魏郡太守として城中に在ったが、その父の袁元長が揚州に在るのを曹操は人を遣って迎えさせた。董昭は書簡を袁春卿に与えて曰く:
「孝者は親に背いてまで利を求めず、仁者は主君を忘れてまで私情に従わず、志士は乱を探ってまで僥倖を求めず、智者は危険を冒してまで詭道を行なわぬとか。足下の父君が百越の地に逃れたのはきっと理由があったのだろう。曹公はその孤高の清節を愍れまれ、特に江東に遣使して、(父君は)今や到着されようとしている。たとい足下が偏平(静寧)の地で徳義の君に仕えていようとも、道義の上では猶お彼に背いてこちらを向き、民を捨てて父に赴くのが当然なのだ。嘗て邾の儀父が始めて魯隠公と盟した時、魯人(『春秋』)はこれを嘉しつつも(儀父の)爵位を書かなかった。王が命じないうちは爵尊の位は成立しないというのが『春秋』の義だからだ。まして足下は危乱の国に身を託し、矯誣者の命令を受けている。それは孝とは言えず、忠とも言い難い。忠・孝ともに替(す)てるのは智とは言い難い。足下は嘗て曹公に礼辟された事がある。もし翻然として節を易え、帝を奉じて父を養い、身を曹公に委ねれば、忠孝はともに失墜せず、栄名はともに彰らかとなろう。深く計って早々に良図を決せられよ」 。
鄴を平定すると、董昭を諫議大夫とした。

 鄴城が陥落したのは審配の甥の内通によるもので、董昭が活躍した余地はなさそうです。そもそも本伝でも袁春卿が董昭に応じたとは書いておらず、せいぜい、曹操は鄴を陥すのに手数を惜しまず、董昭は嘗ての人脈を保持していた、という程度のお話でしょう。

後に袁尚が烏丸の蹋頓に依り、曹操はこれを征伐しようとした時、軍糧が送致し難いのを憂患し、平虜・泉州の二渠を開鑿して海に入れて運送を通じさせたが、董昭の建議したものである。曹操が上表して千秋亭侯に封じられ、転じて司空軍祭酒を拝命した。

 後昭建議:「宜脩古建封五等。」 太祖曰:「建設五等者、聖人也、又非人臣所制、吾何以堪之?」 昭曰: 「自古以來、人臣匡世、未有今日之功。有今日之功、未有久處人臣之勢者也。今明公恥有慚コ而未盡善、樂保名節而無大責、コ美過於伊・周、此至コ之所極也。然太甲・成王未必可遭、今民難化、甚於殷・周、處大臣之勢、使人以大事疑己、誠不可不重慮也。明公雖邁威コ、明法術、而不定其基、為萬世計、猶未至也。定基之本、在地與人、宜稍建立、以自藩衞。明公忠節穎露、天威在顏、耿弇牀下之言、朱英無妄之論、不得過耳。昭受恩非凡、不敢不陳。」 後太祖遂受魏公・魏王之號、皆昭所創。

 後に董昭が建議するには 「古えに修(なら)って五等の封爵を建てるべきであります」 と。曹操曰く 「五等爵を建設したのは聖人であり、又た人臣の制定したものではない。私がどうして堪えられよう?」 。董昭曰く:

「古えより以来、人臣で世を匡した者で、未だ今日の様な功を有した者はおりません。今日の功を有した者で、未だ人臣の立場に居続けた者はおりません。今、明公は慚徳として未だ善を尽くしていない事を恥じており、名と節とを保って大過ないことを楽(ねが)い、その徳の美(おお)きなこと伊尹・周公以上であり、これぞ至徳の極致であります。しかし太甲成王に遭遇できるとは限らず、今、民の教化が困難なこと殷・周より甚だしく、大臣の立場にいれば人に大事を起す事を疑われ、誠に重ねて思慮しなければなりません。明公は威徳に邁進し、法術に明るいとはいえ、その基礎は定まっておらず、万世の計を為す状態には猶お未だ至ってはおりません。基礎を定める根本は土地と人とに在り、次第に(諸侯を)建立して藩屏となされるが宜しいでしょう。明公の忠節は穎(ほさき)を露わし、天威は顔貌に現れており、耿弇の牀下の言葉、朱英の無妄(不測の事態)の論[※]は耳に入る事もできますまいが、私は平凡ならぬ恩を受けており、陳べずにはおられません」[1]

※ 耿弇は光武帝の代表的な将軍。河北を平定した劉秀が更始帝からの帰還命令に応じようとした時、これを諫めて自立を勧めた。
 朱英は戦国楚の宰相/春申君の食客。楚王が危篤になった時、望外の僥倖として簒奪を奨めた。

後に曹操は遂に魏公・魏王の号を受けたが、皆な董昭の創案したものである。
[1] 董昭は列侯・諸将と討議し、丞相の爵位を国公に進め、九錫を備えて殊勲を彰らかにするべきであると。書簡を荀ケに与えて曰く: 「昔、周旦・呂望は姫氏の盛世に当り、二聖の事業に因り、成王の幼きを輔翼し、功勲があの通りだったので上爵を受け、土地を錫(たま)わって宇(くに)を開きました。(姫氏の)末世の田単は強斉の軍兵を駆って弱燕への怨みに報じ、収めた城は七十、襄王を迎えて復国しましたが、襄王が田単に加えた賞は、東は掖邑の封であり、西は菑上の虞[※]でありました。

※ 虞の意味として 「心配」の他に 「愉しみ」「山林薮沢の管理官名」 というものもあり、筑摩本は 「楽しみ」 と訳しています。この一文は『説苑』では“菑上之寶”となっているそうで、だとしたら“虞”は管理官の事を指していると思われます。

前世の功を録すること、濃く厚いことはこの通りでありました。今、曹公は海内の傾覆や宗廟の焚滅に遭い、躬ずから甲冑を擐(つ)けて征伐に周旋し、風に櫛り雨に沐すること三十年、群凶を芟夷(刈除)し、百姓の為に害毒を除き、漢室を再び存続させ、劉氏に祭祀を奉じさせております。これを過去の数公と比べた場合、泰山を丘垤(蟻塚)に比べるようなもので、どうして同日に論じられましょう? 今は徒らに列将・功臣と与に揃って一県の侯でありますが、これがどうして天下の望みでありましょうか!」 。 (『献帝春秋』)

 及關羽圍曹仁於樊、孫權遣使辭以「遣兵西上、欲掩取羽。江陵・公安累重、羽失二城、必自奔走、樊軍之圍、不救自解。乞密不漏、令羽有備。」太祖詰羣臣、羣臣咸言宜當密之。昭曰:「軍事尚權、期於合宜。宜應權以密、而内露之。羽聞權上、若還自護、圍則速解、便獲其利。可使兩賊相對銜持、坐待其弊。祕而不露、使權得志、非計之上。又、圍中將吏不知有救、計糧怖懼、儻有他意、為難不小。露之為便。且羽為人彊梁、自恃二城守固、必不速退。」 太祖曰:「善。」 即敕救將徐晃以權書射著圍裏及羽屯中、圍裏聞之、志氣百倍。羽果猶豫。權軍至、得其二城、羽乃破敗。

 関羽が樊城に曹仁を囲むに及び、孫権が使者を遣って辞べるには 「兵を遣って西上させ、関羽を掩(やにわ)に取りたく思います。江陵・公安は累重の存在で、関羽は二城を失えば必ず自ら奔走し、樊の包囲は救わずとも自ずと解けましょう。乞う、密かにして漏らされませぬよう。関羽に備えさせてしまいます」 と。曹操は群臣を詰(いまし)め、群臣も咸なこれを密(かく)すべきだと言った。董昭曰く:
「軍事とは権謀を尚び、(時に応じた)期に合わせるもの。孫権には密すと応じ、内部にはこれを露わにするのです。関羽が孫権の溯上を聞き、もし還って自衛すれば包囲は速やかに解け、たちまち勝利を獲られましょう。両賊に相い対峙して(恨みを)銜ませ、坐してその疲弊を待つのです。秘して露わさなければ孫権に志を得させてしまい、上計ではありません。又た、包囲の中の将吏は救援がある事を知らず、糧食を計って怖懼し、儻(ある)いは他意を生じ、その難を為すこと小さくはありますまい。露わすのが好都合です。しかも関羽の為人りは彊梁(強剛)で、二城の守備の堅固を恃んで必ずや速やかには退きますまい」 。
曹操曰く 「善し」 。即座に救援の将の徐晃に命じて孫権の書状を包囲の裡および関羽の屯中に射させ、包囲の裡はこれを聞くと志気百倍し、関羽は果して猶おも猶予した。孫権の軍が至ってその二城を得、関羽はかくして破敗した。

 文帝即王位、拜昭將作大匠。及踐阼、遷大鴻臚、進封右郷侯。二年、分邑百戸、賜昭弟訪爵關内侯、徙昭為侍中。三年、征東大將軍曹休臨江在洞浦口、自表:「願將鋭卒虎歩江南、因敵取資、事必克捷;若其無臣、不須為念。」 帝恐休便渡江、驛馬詔止。時昭侍側、因曰:「竊見陛下有憂色、獨以休濟江故乎? 今者渡江、人情所難、就休有此志、勢不獨行、當須諸將。臧霸等既富且貴、無復他望、但欲終其天年、保守祿祚而已、何肯乘危自投死地、以求徼倖? 苟霸等不進、休意自沮。臣恐陛下雖有敕渡之詔、猶必沉吟、未便從命也。」 是後無幾、暴風吹賊船、悉詣休等營下、斬首獲生、賊遂迸散。詔敕諸軍促渡。軍未時進、賊救船遂至。

 曹丕が王位に即くと、董昭は将作大匠を拝命した。踐阼するに及び、大鴻臚に遷り、右郷侯に進封された。黄初二年(221)、食邑百戸を分け、董昭の弟の董訪に爵関内侯を賜わり、董昭を徙して侍中とした。三年(222)、征東大将軍曹休は長江に臨む洞浦口に在って自ら上表するには 「願わくば鋭卒を率いて江南を虎歩したく存じます。敵の資財を取れば、事は必ず克捷しましょう。もし臣が亡くなっても念う必要はございません」 と。帝は曹休がただちに長江を渡るのを恐れ、駅馬を用いて止まる詔を出した。時に董昭が側に侍っており、因って曰く:
「竊い見るに、陛下には憂色がありますが、曹休が長江を済(わた)る事だけによるものでしょうか? 今、長江を渡るのは、人の情として困難で、たとい曹休にその志図があっても、勢いとして独行できず、諸将を須(ま)つ必要があります。臧霸らは既に富貴であり、これ以上の望みとて無く、ただ天寿を終えて禄祚(俸禄と家門)を保守せんと欲しており、どうして危難に乗って自ら死地に投じる事で僥倖を求める事を肯んじましょう? 苟くも臧霸らが進まねば、曹休の意思は自ずと沮喪いたしましょう。臣は陛下が渡江の詔を命じられましても、(諸将が)猶お必ずや沉吟(沈吟)してただちには命令に従わぬ事を恐れております」 。
こののち幾許も無く暴風が賊船を吹き、悉くが曹休らの営下に詣ったので斬首獲生し、賊はかくて迸散(逃散)した。詔して諸軍に渡江を促したが、軍が未だ進まぬうちに賊の救援船が至った。

 大駕幸宛、征南大將軍夏侯尚等攻江陵、未拔。時江水淺狹、尚欲乘船將歩騎入渚中安屯、作浮橋、南北往來、議者多以為城必可拔。昭上疏曰: 「武皇帝智勇過人、而用兵畏敵、不敢輕之若此也。夫兵好進惡退、常然之數。平地無險、猶尚艱難、就當深入、還道宜利、兵有進退、不可如意。今屯渚中、至深也;浮橋而濟、至危也;一道而行、至狹也:三者兵家所忌、而今行之。賊頻攻橋、誤有漏失、渚中精鋭、非魏之有、將轉化為呉矣。臣私慼之、忘寢與食、而議者怡然不以為憂、豈不惑哉! 加江水向長、一旦暴掾A何以防禦? 就不破賊、尚當自完。奈何乘危、不以為懼? 事將危矣、惟陛下察之!」 帝悟昭言、即詔尚等促出。賊兩頭並前、官兵一道引去、不時得泄、將軍石建・高遷僅得自免。軍出旬日、江水暴長。帝曰:「君論此事、何其審也!正使張・陳當之、何以復加。」 五年、徙封成都郷侯、拜太常。其年、徙光祿大夫・給事中。從大駕東征、七年還、拜太僕。明帝即位、進爵樂平侯、邑千戸、轉衞尉。分邑百戸、賜一子爵關内侯。

 (同じころ)大駕は宛に行幸し、征南大将軍夏侯尚らが江陵を攻めたが、未だ抜けなかった。時に(乾期で)江水は浅く狭く、夏侯尚は歩騎を率いて乗船し、渚中(中洲)に入って軍屯を安置し、浮橋を作って南北往来したく考え、議者の多くも城を必ず抜けると考えた。董昭は上疏して曰く:
「武皇帝の智勇は常人を超え、しかも用兵は敵を畏れさせましたが、このように敵を軽視しようとはしませんでした。そも兵事で進むを好んで退くを悪むのは当然の道理でありますが、平地で険阻が無くとも猶お艱難であり、もし深入する場合は還道を確保しておくべきで、兵事には進退があって意の如くにはならないものです。今、渚中に屯しているのは深みの極みであり、浮橋で済(わた)ろうとは危険の極みであり、一道で行くのは狭隘の極みであります。三者は兵家の忌むものですが、今、これを行なっております。賊は頻りに橋を攻めており、誤って漏失があれば渚中の精鋭は魏の保有ではなくなり、転化して呉の為になりましょう。臣は私(ひそ)かにこれを慼(うれ)え、寝食を忘れるほどですが、議者は怡然(欣々)として憂える様子も無く、どうして昏惑していないといえましょう! 加えて江水は膨張に向かっており、一旦暴増すれば、どうやって防禦できましょう? もし賊が破れずとも、尚おこちらを完うすべきであります。危険に載りながら懼れないとはどうした事でしょう? 事はまさに危殆に瀕しております。どうか陛下には推察されん事を!」 。
帝は董昭の言葉で悟り、即座に詔して夏侯尚らに退出を促した。賊は両頭を揃って進ませたが、官兵は一道から引き去ったのですぐには退泄できず、将軍石建・高遷が僅かに免れられた。軍が退出して旬日(十日)もすると江水が暴長した。帝曰く 「君がこの事を論じたのは何と審らかな事か! 張良・陳平に当事させようともこれ以上には加えられまい」 。五年(224)、成都郷侯に徙封され、太常を拝命した。その年、光禄大夫・給事中に徙された。大駕が東征するのに従い、七年(226)に還ると太僕を拝命した。明帝が即位すると楽平侯に進爵され、食邑は千戸となり、衛尉に転じた。食邑百戸を分ち、一子に爵関内侯を賜わった。

 太和四年、行司徒事、六年、拜真。昭上疏陳末流之弊曰: 「凡有天下者、莫不貴尚敦樸忠信之士、深疾虚偽不真之人者、以其毀教亂治、敗俗傷化也。近魏諷則伏誅建安之末、曹偉則斬戮黄初之始。伏惟前後聖詔、深疾浮偽、欲以破散邪黨、常用切齒;而執法之吏皆畏其權勢、莫能糾擿、毀壞風俗、侵欲滋甚。竊見當今年少、不復以學問為本、專更以交游為業;國士不以孝悌清脩為首、乃以趨勢游利為先。合黨連羣、互相褒歎、以毀訾為罰戮、用黨譽為爵賞、附己者則歎之盈言、不附者則為作瑕釁。至乃相謂『今世何憂不度邪、但求人道不勤、羅之不博耳;又何患其不知己矣、但當呑之以藥而柔調耳。』又聞或有使奴客名作在職家人、冒之出入、往來禁奧、交通書疏、有所探問。凡此諸事、皆法之所不取、刑之所不赦、雖諷・偉之罪、無以加也。」 帝於是發切詔、斥免諸葛誕・ケ颺等。昭年八十一薨、諡曰定侯。子冑嗣。冑歴位郡守・九卿。

 太和四年(230)、司徒の事を代行させ、六年(232)、真官を拝授した。董昭は上疏して末流(末世)の弊害を陳べて曰く:

「凡そ天下を有する者で、敦樸忠信の士を貴尚せぬ者、虚偽不真の人を深く疾まぬ者が莫いのは、(彼らが)教化を毀ち治を乱し、風俗を敗り政化を傷うからであります。近くは魏諷が建安の末に誅に伏し、曹偉が黄初の始めに斬戮されました。伏して前後の聖詔を惟みるに、浮華虚偽を深く疾み、邪党を破散せんと常に切歯しておりますが、執法の吏は皆なその権勢を畏れて糾擿する者も莫く、風俗を毀壞すること浸(しだい)にいよいよ甚だしくなっております。竊かに当今の年少者を見るに、学問を以て本幹と為さず、専ら更めて交游を以て世業としており、国士は孝悌・清修を以て第一とせず、権勢に趨り利権に游ぶ事を優先させる始末です。合党連群して互いに相い褒歎し、毀訾(誹謗中傷)を以て罰戮とし、党人への称誉を用いて爵賞とし、己に附す者に対しては言葉を盈たして歎じ、附さぬ者に対しては瑕釁を造作しております。かくして“今の世にどうして渡れぬ事を憂えようか。ただ人道を求める事に勤めず、羅(あみ)の博くない事を憂えるだけだ。又たどうして己が知られぬ事を憂患しよう。ただ呑ませるに薬を以てして柔調(懐柔)するだけだ。”と相い謂うに至っております。又た聞く処では、或る者は奴客をして官職に在る者の家人だと作名(詐称)させ、その冒名によって出入りして禁中・宮奥を往来させ、書疏や交通(交際)を探問させているとか。凡そこれら諸事は、皆な法の認めぬ事、刑の赦さぬ事で、魏諷・曹偉の罪でもこれに加えるものはありますまい」 。

帝はここに厳切な詔を発し、諸葛誕・ケ颺らを排斥・罷免した。董昭が齢八十一で薨じると、定侯と諡した。子の董冑が嗣いだ。董冑は郡守・九卿を歴任した。
 
 

劉曄

 劉曄字子揚、淮南成悳人、悳音コ。漢光武子阜陵王延後也。父普、母脩、産渙及曄。渙九歳、曄七歳、而母病困。臨終、戒渙・曄以「普之侍人、有諂害之性。身死之後、懼必亂家。汝長大能除之、則吾無恨矣。」 曄年十三、謂兄渙曰:「亡母之言、可以行矣。」 渙曰:「那可爾!」 曄即入室殺侍者、徑出拜墓。舍内大驚、白普。普怒、遣人追曄。曄還拜謝曰:「亡母顧命之言、敢受不請擅行之罰。」 普心異之、遂不責也。汝南許劭名知人、避地揚州、稱曄有佐世之才。

 劉曄、字は子揚。淮南成悳の人で(悳の音は徳)、漢の光武帝の子である阜陵王劉延の後裔である。父の劉普、母の脩から劉渙および劉曄が産まれた。劉渙が九歳、劉曄が七歳のとき母が病に困(くる)しんだ。臨終に際して劉渙・劉曄に戒めるには、「父に親侍している人には諂害の性があります。私が死んだ後、きっと家を乱すのではないかと懼れています。汝らが成長してからこれを除く事ができれば、私に悔恨はありません」 と。劉曄は齢十三になると兄の劉渙に謂うには 「亡母の言葉を実行すべきです」 。劉渙曰く 「どうしてそのような事ができよう!」 。劉曄は即座に入室して親侍する者を殺し、径(ただ)ちに出て墓に参拝した。舎内は大いに驚き、劉普に白(もう)した。劉普は怒り、人を遣って劉曄を追わせた。劉曄は還ると拝謝して 「亡母の顧命の言葉です。請わずに擅(ほしい)ままに行なった事の罰なら敢えて受けましょう」 。劉普は心中でこれを異とし、かくて責めなかった。汝南の許劭は人を知る事を名声としており、揚州の地に避難すると劉曄には佐世の才があると称えた。

 揚士多輕侠狡桀、有鄭寶・張多・許乾之屬、各擁部曲。寶最驍果、才力過人、一方所憚。欲驅略百姓越赴江表、以曄高族名人、欲彊逼曄使唱導此謀。曄時年二十餘、心内憂之、而未有縁。會太祖遣使詣州、有所案問。曄往見、為論事勢、要將與歸、駐止數日。寶果從數百人齎牛酒來候使、曄令家僮將其衆坐中門外、為設酒飯;與寶於内宴飲。密勒健兒、令因行觴而斫寶。寶性不甘酒、視候甚明、觴者不敢發。曄因自引取佩刀斫殺寶、斬其首以令其軍、云:「曹公有令、敢有動者、與寶同罪。」 衆皆驚怖、走還營。營有督將精兵數千、懼其為亂、曄即乘寶馬、將家僮數人、詣寶營門、呼其渠帥、喩以禍福、皆叩頭開門内曄。曄撫慰安懷、咸悉ス服、推曄為主。曄覩漢室漸微、己為支屬、不欲擁兵、遂委其部曲與廬江太守劉勳。勳怪其故、曄曰:「寶無法制、其衆素以鈔略為利、僕宿無資、而整齊之、必懷怨難久、故相與耳。」 時勳兵彊于江・淮之間。孫策惡之、遣使卑辭厚幣、以書説勳曰:「上繚宗民、數欺下國、忿之有年矣。撃之、路不便、願因大國伐之。上繚甚實、得之可以富國、請出兵為外援。」 勳信之、又得策珠寶・葛越、喜ス。外内盡賀、而曄獨否。勳問其故、對曰:「上繚雖小、城堅池深、攻難守易、不可旬日而舉、則兵疲於外、而國内虚。策乘虚而襲我、則後不能獨守。是將軍進屈於敵、退無所歸。若軍必出、禍今至矣。 」勳不從。興兵伐上繚、策果襲其後。勳窮踧、遂奔太祖。

 揚州の士人は多くが軽侠・狡桀(狡猾兇暴)で、鄭宝・張多・許乾の属(ともがら)があり、各々が部曲(私兵)を擁していた。鄭宝が最も驍勇果断で、才力は人に過ぎ、一地方で憚られた。百姓を駆略して江表に越赴しようとしており、劉曄が高貴な一族の名人(名士)である事から、劉曄に彊逼してこの謀りごとを唱導させようとした。

 鄭宝には曹操に従ったという実績が無いまま殺されたせいで、ヤクザの親分が人民を脅して移住しようとした風に書かれていますが、これは指導力のありそうな人物を民衆が押し立てて安住の地を求めた“行”を指している様です。地元名士を行主とするのが一般的だったので、劉曄に白羽の矢を立てようとしたのだと思われます。

劉曄は時に齢二十余であり、心内でこれを憂えたが、縁(すが)る先が無かった。たまたま曹操が使者を遣って州に詣らせ、案問(実態調査)してきた。劉曄は往って見(まみ)え、事勢を論じ、与に帰らん事を要(もと)め、駐止すること数日に及んだ。鄭宝は果して数百人を従えて牛酒を齎して使者に伺候しに来た。劉曄は家僮に命じてその人々を率いて中門の外に坐らせ、酒飯の席を設けさせ、鄭宝と門内で宴飲した。密かに健児を勒(ととの)え、行觴(酌)に乗じて鄭宝を斫(き)らせようとした。鄭宝の性は酒を甘(うま)しとせず、(そのため)視候したところ甚だ明晰で、觴者は発しようとはしなかった。劉曄はそこで自ら佩刀を引き取って鄭宝を斫殺し、その首を斬ってその軍に命じるには 「曹公の命令である。動こうとする者があれば鄭宝と同罪である」 と。

 劉曄は魯粛に送った手紙の中で 「近在の鄭宝は巣湖にあって万余の手勢を擁し、その土地は肥沃で、廬江一帯の者が依就している」 と評しています。又た同じ手紙の中で 「周瑜には仕えず、鄭宝に仕えたらどうか」 とも云っていますが、“ともに”との表現は使っていません。これを読み解くと 「僕は高貴の出だから鄭宝なんぞに協力したくないけれど、君ならお似合いだし、僕の代りに鄭宝を扶けてみないかい?」 となり、割と腹黒い劉曄サンであります。

人々は皆な驚怖し、逃走して営に還った。営には督将がいて精兵数千を率いており、それが乱を為すのを懼れ、劉曄は即座に鄭宝の馬に乗り、家僮数人を率いて鄭宝の営門に詣り、その渠帥を呼ばわって禍福を喩すと、皆な叩頭して開門し、劉曄を内に入れた。劉曄は撫慰して懐(おも)いを安んじたので、咸な悉く悦服し、劉曄を推して主帥とした。劉曄は漢室が漸微するのを覩(み)、己れが支属である事から兵を擁するのを欲せず、かくてその部曲を廬江太守劉勲に委ねた。劉勲がその理由を怪しむと、劉曄曰く 「鄭宝には法度・制約が無く、その手勢は素より鈔略を以て利と為していました。僕にはかねての資産とて無く、これを整斉すれば必ず怨みを懐(いだ)かれて久(なが)らえるのは困難でしょう。だから与えるだけです」 と。
時に劉勲の兵は江淮の間で彊かった。孫策はこれを悪み、使者を遣って辞を卑(ひく)くして幣物を厚くし、書簡で劉勲に説くには 「上繚の宗民はしばしば下国(孫策)を欺き、これを忿恚すること積年であります。これを撃とうにも路が不便なので、願わくば大国にこれを伐って頂きたい。上繚は甚だ実っており、これを得れば国を富ませられましょう。請う。出兵して外援とならん事を」 。劉勲はこれを信じ、又た孫策の珠宝・葛越(越布)を得て喜悦した。外内尽く慶賀したが、劉曄だけはそうではなかった。劉勲がその理由を問うと、対えて曰く

「上繚は小なりといえども城は堅固で溝池は深く、攻めるに難く守るに易く、旬日(短期間)で(成果を)挙げられねば、兵は国外で疲れ、国内は空虚となってしまいます。孫策が虚に乗じてこちらを襲えば、後背の者だけで守る事はできません。これでは将軍は進んでは敵に屈し、退こうにも帰る場所が無くなります。もし軍をどうあっても出すのなら、禍いは今にも至りましょう」 。

劉勲は従わなかった。兵を興して上繚を伐った処、孫策は果たしてその後背を襲った。劉勲は窮踧(困窮)し、かくて曹操に奔った。

 太祖至壽春、時廬江界有山賊陳策、衆數萬人、臨險而守。先時遣偏將致誅、莫能禽克。太祖問羣下、可伐與不?咸云:「山峻高而谿谷深隘、守易攻難;又無之不足為損、得之不足為益。」 曄曰:「策等小豎、因亂赴險、遂相依為彊耳、非有爵命威信相伏也。往者偏將資輕、而中國未夷、故策敢據險以守。今天下略定、後伏先誅。夫畏死趨賞、愚知所同、故廣武君為韓信畫策、謂其威名足以先聲後實而服鄰國也。豈況明公之コ、東征西怨、先開賞募、大兵臨之、令宣之日、軍門啓而虜自潰矣。」 太祖笑曰:「卿言近之!」 遂遣猛將在前、大軍在後、至則克策、如曄所度。太祖還、辟曄為司空倉曹掾。

 曹操が寿春に至った当時、廬江の界内には山賊の陳策がおり、手勢の数万人は険要に臨んで守っていた。先時に偏将軍を遣って誅しようとしたが、禽克できなかった。曹操が群下に伐てるかどうか問うた処、咸なが云うには 「山は峻高で谿谷は深く狭隘で、守るに易く攻めるに難く、又たこれを無くした処で損失とする程ではなく、これを得た処で有益とする程ではありません」 と。劉曄曰く:
「陳策らの小豎は乱に乗じて険阻に赴き、かくて相い依拠して彊くなったに過ぎず、爵命や威信によって折伏したのではありません。嘗ての偏将軍は資格が軽く、しかも中国は未だ夷(たいら)がず、ゆえに陳策は敢えて険要に拠って守ったのです。今、天下は略(あらま)し定まり、後れて伏した者が先んじて誅されるのです。そも死を畏れて賞に趨るのは、愚者も知者も同様で、ゆえに広武君は韓信の為に画策し、名声を先にして実態を後にすればその威名は隣国を屈服させるに足ると謂(かんが)えたのです[※]。ましてや明公の徳は東を征すれば西が(後手にされた事を)怨むほどで、先んじて賞募を開き、(ついで)大兵で臨めば、軍令を宣(の)べた日に軍門を啓いて賊虜は自ら潰えましょう」 。

※ 広武君は井陘口の役で禽われた李左車の事。新兵を率いての燕・斉の攻略を不安視する韓信に対し、井陘での武名を利用して燕に服従を迫り、次いで斉に進むことを奨めた。

曹操は笑いつつ 「卿の言は近切(合致)している!」 と。かくて猛将を遣って前鋒とし、大軍を後続とした処、至るや陳策に克つこと劉曄が度った通りだった。曹操は還ると劉曄を辟して司空倉曹掾とした[1]
[1] 曹操は劉曄および蔣済・胡質ら五人を徴したが、皆な揚州の名士だった。亭伝(駅舎)に舎(やど)る毎に、重視している点で講談せぬ事はなく、内は国邑の先賢や賊を禦ぐ固い守り、行軍の際の進退の便宜を論じ、外は敵の変化、彼我の虚実、戦争の術策を料り、夙夜(朝から晩まで)にも懈(う)まなかった。劉曄は独り車中に臥し、終に一言も発しなかった。

※ 下線部の原文は 「毎舍亭伝、未曾不講、所以見重」 。“曹操が常に談話に加わる事が五人に対する重視の証”的に訳しそうになりましたが、その後の曹操との謁見での流れが不自然なので、駅舎では五人が謁見に備えて思う処を談じ合ったと解釈しました。「見重」 は“重んじられる”ではなく、“重視”かと。そもそも辟徴に応じながら曹操を交えた談話を蹴って車中で独臥するような非礼はあり得ません。

蔣済が怪しんで問うた処、劉曄が答えるには 「明主に対するには精彩な神気でなければ接しないもの。神気の精彩な状態は学んで得られるものだろうか?」 。曹操にまみえるに及び、曹操は果して揚州の先賢や賊の形勢を問うた。四人は争って対え、順次を待って発言し、再見でもこの通りだった。曹操は毎(つね)に和み悦んだが、劉曄は終には一言も発さず、四人はこれを笑った。後にある通見で曹操の質問が無くなって止めた処、劉曄はそこで深遠な言葉で曹操の心を動かし、曹操が認知するとたちまち止めた。この様な事が三度。その趣旨は、深遠な言葉は精彩なる神気より徴され、単独での会見でその機微を尽くすもので、猥坐で説くのは妥当ではないと。曹操は已にその心底を探見して坐を罷め、尋いで四人を県令とし、劉曄には腹心の任を授けた。疑事がある毎に、そのつど封緘して劉曄に問い、一夜で数十通が至る事もあった。 (『傅子』)

 太祖征張魯、轉曄為主簿。既至漢中、山峻難登、軍食頗乏。太祖曰:「此妖妄之國耳、何能為有無?吾軍少食、不如速還。」 便自引歸、令曄督後諸軍、使以次出。曄策魯可克、加糧道不繼、雖出、軍猶不能皆全、馳白太祖:「不如致攻。」 遂進兵、多出弩以射其營。魯奔走、漢中遂平。曄進曰: 「明公以歩卒五千、將誅董卓、北破袁紹、南征劉表、九州百郡、十并其八、威震天下、勢慴海外。今舉漢中、蜀人望風、破膽失守、推此而前、蜀可傳檄而定。劉備、人傑也、有度而遲、得蜀日淺、蜀人未恃也。今破漢中、蜀人震恐、其勢自傾。以公之神明、因其傾而壓之、無不克也。若小緩之、諸葛亮明於治而為相、關羽・張飛勇冠三軍而為將、蜀民既定、據險守要、則不可犯矣。今不取、必為後憂。」 太祖不從、大軍遂還。曄自漢中還、為行軍長史、兼領軍。延康元年、蜀將孟達率衆降。達有容止才觀、文帝甚器愛之、使達為新城太守、加散騎常侍。曄以為「達有苟得之心、而恃才好術、必不能感恩懷義。新城與呉・蜀接連、若有變態、為國生患。」文帝竟不易、後達終于叛敗。

 曹操は張魯を征伐する時、劉曄を転じて主簿とした。漢中に至ると、山は峻険で登るのは困難で、軍食は頗る欠乏した。曹操曰く 「これは妖妄の国だ。どうして勝敗をつけられよう? 吾が軍は糧食が少なく、速やかに還るに越した事は無い」 と。ただちに自ら引き揚げて帰り、劉曄に命じて後続の諸軍を督させ、順次に脱出させた。劉曄の計策では張魯には克てるし、しかも糧道が継続しないので、脱出しても軍は猶お皆なを全うはできぬというもので、馳せて曹操に白(もう)すには 「攻めるに越した事はありません」 と。
かくて兵を進め、多く弩を出して張魯の営を射た。張魯は奔走し、漢中はかくて平らいだ。劉曄が進言するには:
「明公は歩卒五千を以て董卓を誅伐しようとし、北は袁紹を破り、南は劉表を征伐し、九州百郡の十のうち八を併せ、威は天下を震わせ、勢いは海外をも慴(おそ)れております。今、漢中を挙(と)った事で蜀人は風を望み、胆は破れて守(よるべ)を失い、このまま推して前めば蜀は檄を伝えるだけで定める事ができましょう。劉備は人傑でありますが、度量はあっても遅鈍で、蜀を得て日は浅く、蜀人が恃むには至っておりません。今、漢中が破れた事で蜀人は震え恐れており、その勢いとして自ら傾覆しつつあります。公の神明を以てその傾覆に乗じてこれを圧すれば、克てぬ道理はありません。もし少しく緩めれば、諸葛亮は統治に明るく宰相となっており、関羽・張飛の勇は三軍に冠たるものとして将となっており、蜀民が定まって険阻に拠って要害を守れば犯す事はできなくなります。今取らねば、必ず後の憂いとなりましょう」 。
曹操は従わず[2]、大軍は遂に還った。劉曄は漢中より還ると、行軍長史となって領軍を兼ねた。

 出仕前の劉曄には、曹操の将来性を見通すような言葉がありません。それもその筈で、劉曄が曹操に臣事したのは“已むを得ない状況”に流されたせいで、例えば鄭宝の時、劉曄が曹操の使者に接触したのは鄭宝を避ける為のダシにしただけで、その後は劉勲に附き、劉勲に随ってようやく曹操に行き着いています。
 次に 「曹操至寿春」 は早くとも209年の事で、曹操に投じてから10年してやっと認知された事になり、[注1]の『傅子』のような事は無かったようです。張魯遠征では軍糧担当の倉曹掾から側近とも言うべき主簿に遷ったとはいえ、その進言は軍糧関連が絡み、更に帰還後には領軍という要官に遷った点を見ると、曹操軍は当時にあっても軍糧の運用に腐心していたのではないかと思えてなりません。

 延康元年(220)、蜀将の孟達が手勢を率いて降った。孟達には容姿・挙措・才幹に観るべきものがあり、文帝は甚だ器重してこれを愛し、孟達を新城太守とし、散騎常侍を加えた。劉曄が考えるにには 「孟達には苟得の心(目先の利益に走る心)があり、しかも才を恃んで術策を好み、必ずや恩に感じて義を懐くような事はできますまい。新城は呉・蜀と接連しており、もし変化の事態が生じれば国にとっての憂患を生じましょう」 と。文帝は竟に易えず、後に孟達は終には叛いて敗れた[3]
[2] (漢中に)居ること七日、蜀からの降者が説くには 「蜀の城内では一日に数十度も驚き、劉備はその者らを斬りはしたものの(城内を)安んずる事ができていません」 。曹操が劉曄を延(まね)いて問うには 「今なら撃てるかどうか?」 。劉曄曰く 「今や已にやや定まり、撃つべきではありません」 。 (『傅子』)
[3] 嘗て曹操の時代、魏諷には重い名声があり、卿相より以下は皆な心を傾けてこれと交際した。その後、孟達が劉備を去って文帝に帰すと、論者の多くが楽毅の器量があると称えた。劉曄は魏諷・孟達を一見するとどちらも必ず反くと云い、卒(つい)にその言葉の通りだった。 (『傅子』)

 黄初元年、以曄為侍中、賜爵關内侯。詔問羣臣令料劉備當為關羽出報呉不。衆議咸云:「蜀、小國耳、名將唯羽。羽死軍破、國内憂懼、無縁復出。」 曄獨曰:「蜀雖狹弱、而備之謀欲以威武自彊、勢必用衆以示其有餘。且關羽與備、義為君臣、恩猶父子;羽死不能為興軍報敵、於終始之分不足。」 後備果出兵撃呉。呉悉國應之、而遣使稱藩。朝臣皆賀、獨曄曰:「呉絶在江・漢之表、無内臣之心久矣。陛下雖齊コ有虞、然醜虜之性、未有所感。因難求臣、必難信也。彼必外迫内困、然後發此使耳、可因其窮、襲而取之。夫一日縱敵、數世之患、不可不察也。」 備軍敗退、呉禮敬轉廢、帝欲興衆伐之、曄以為「彼新得志、上下齊心、而阻帶江湖、必難倉卒。」帝不聽。
 五年、幸廣陵泗口、命荊・揚州諸軍並進。會羣臣、問:「權當自來不?」咸曰:「陛下親征、權恐怖、必舉國而應。又不敢以大衆委之臣下、必自將而來。」 曄曰:「彼謂陛下欲以萬乘之重牽己、而超越江湖者在於別將、必勒兵待事、未有進退也。」 大駕停住積日、權果不至、帝乃旋師。云:「卿策之是也。當念為吾滅二賊、不可但知其情而已。」

 黄初元年(220)、劉曄を侍中とし、爵関内侯を賜わった。詔で群臣に問い、劉備が関羽の為に出征して呉に報復するかどうか料らせた。衆議で咸なが云うには 「蜀は小国にすぎず、名将は関羽だけでした。関羽が死に軍は破れ、国内は憂懼しており、復た出征する縁(よすが)はありません」 。劉曄は独り 「蜀は狭弱とはいえ、劉備の謀りごとは威武によって彊くなる事であり、勢いとして必ず軍兵を用いて余力を示しましょう。しかも関羽と劉備とは、義は君臣でも恩愛は猶お父子のようなもの。関羽が死んでも軍を興して敵に報復できねば、終始の分(終始一貫の誓い)として足りていない事になります」 。
後に劉備は果して出兵して呉を撃った。呉は国の悉くでこれに対応し、(魏に)使者を遣って称藩させた。朝臣は皆な慶賀したが、独り劉曄は曰く
「呉は江・漢の表(そと)に隔絶し、内臣の心を無くして久しいものがあります。陛下は虞舜と斉しい徳があるとはいえ、しかし醜虜の性として未だ感応しておりますまい。難に因って臣たるを求めたものであり、間違いなく信じ難いものです。彼の者は必ず外に迫られて内心で困じ、しかる後にこたびの使者を発したに過ぎず、その窮状に乗じて襲えば取る事ができましょう。一日敵を縱てば数世の患いとなるもの。察していただかぬ訳には参りません」 。
劉備の軍が敗退すると、呉は礼敬を一転して廃し、帝は軍兵を興してこれを伐とうとした。劉曄が言うには 「彼の者は新たに志を得、上下とも心を斉しくし、しかも江湖を帯びている事を阻(たの)んでおり、必ずや倉卒(突発的)に(平定するの)は困難であります」 。帝は聴かなかった[4]
 (翌)五年(224)、広陵の泗口に行幸し、荊・揚州の諸軍に並進を命じた。群臣と会同して問うには 「孫権は自ら来るかどうか?」 。咸なは曰く 「陛下の親征で孫権は恐怖し、必ずや国を挙って応じましょう。又た大軍を臣下に委ねようとはせず、必ずや自身で率いて来るでしょう」 。劉曄 「彼の者の謂(かんが)えとして、陛下は万乗の重きを以て己を牽制しようとしており、江湖を超越するのは別将であろうと。必ずや兵を勒(ととの)えて事態を待ち、未だ進退はいたしますまい」 。大駕が停駐すること積日、孫権は果して至らず、帝はかくして師を旋した。「卿の策が正しかった。我が為に二賊を滅ぼす事を念(おも)ってくれ。ただその実情を察知するだけではいかん」 。
 文帝が受禅した後、鮑は文帝の游猟を諫めたが、帝は手ずからその上表を破って出猟し、休憩中に侍臣に問うには 「猟の楽しさは礼楽と比べてどうか?」 と。侍中劉曄が対えるには 「猟は音楽に勝りましょう」 。鮑が上奏するには 「劉曄は佞諛不忠の者で、陛下の誤った戯言に阿諛しており、遄台で斉景公に媚びた梁丘拠の同類であります。請う。有司に罪を議させて皇廟を清められん事を」 。 (鮑伝)
[4] 孫権が遣使して降服を求めると、帝は劉曄に問うた。劉曄が対えるには:
「孫権がゆえなく降服を求めたからには、必ず内部に急迫の事態が生じたのです。孫権は以前に関羽を襲って殺し、荊州四郡を取っており、劉備は怒り、必ずや大いに師を興してこれを伐つでしょう。外に彊寇があれば人々の心は安んぜず、又た中国がその釁(すき)を承けて伐つ事を恐れたので地を委ねて降服を求めたのです。一つには中国の兵で敵を却け、二つには中国の支援を仮りてその軍兵を強くし、敵人を狐疑させようとしているのです。孫権は用兵に善く、策を見て変を知り、その計は必ずやここから出たものでしょう。今、天下は三分され、中国は十のうち八を有しております。呉・蜀は各々一州を保ち、山を恃み水に依り、急迫事があれば相い救い、これが小国の利点です。今、却って自ら相い攻めているのは、天がこれを亡ぼすものです。大いに師を興し、ただちに長江を渡ってその国内を襲われますよう。蜀がその外を攻め、我が方がその内を襲えば、呉を亡ぼすには旬月(ひと月)を超えますまい。呉が亡べば蜀は孤立します。もし呉の半ばを割いたとしても、蜀はとうてい久しくは存続できません。ましてや蜀はその外を得るに過ぎず、我が方はその内を得るのですから!」 。
帝曰く 「人が称臣して降ったのを伐てば、天下の来降しようとする者の心は猜疑し、必ずや懼れるであろう。それはとうてい駄目だ! 孤がどうして呉の降服を受けてから蜀の背後を襲ってはいかんのか?」 。対えて曰く
「蜀は遠く呉は近く、又た中国がこれを伐つと聞けばたちまち軍を還し、止める事はできません。今、劉備は怒りに任せて兵を興して呉を伐っておりますが、我が方が呉を撃つと聞けば呉が必ずや亡ぶと知り、間違いなく喜んで進軍し、我らと争って呉の地を割くでしょう。間違っても計画を改め怒りを抑えて呉を救うような事が無いのは、必然の勢いです」 。

 他人の窮状に乗じて征服するのは、群雄なら可でも帝王が採るべき方途ではないというのが曹丕の主旨で、「劉曄は大局が見えない対症療法的な策士」 という大方の評価の最大の原因が、恐らくこの進言でしょう。本伝での蜀攻略の進言の顛末を焼き直したものとも思われますが、あれも兵站の問題や占領後政策、本国の状況などを慮外視しています。進言に従わなかった曹操・曹丕が失敗したり後悔したという記述を附さない事で、暗に劉曄を批判していますが、他にも呉討伐を進言をしている者が散見されるのも事実です。

帝は聴かず、かくて呉の降服を受け、即日に孫権を拝して呉王とした。劉曄は又た進言するには:
「なりません。先帝は征伐して天下の八割を兼併し、威は海内を震わせました。陛下は受禅して真位に即き、徳は天地を合わせ(たに斉しく)、名声は四遠に曁(およ)んでおります。これは実然(現実)の勢いであり、卑臣の頌言(讃美)ではありません。孫権には雄才があるとはいえ、もとは漢の驃騎将軍・南昌侯に過ぎず、官は軽く勢威は卑しく、士民には中国を畏れる心があり、強迫して謀りごとを成就する事ができません。已むを得ずその降服を受けたからには、その将軍号を進位させて十万戸の侯に封じようとも、王に即けてはなりません。そも王位とは天子を去ること一階梯だけであり、その礼秩服御(儀礼と序列、服飾と車駕)は(天子と)相い錯綜しております。彼の者がただ侯であるうちは、江南の士民とは君臣の義はございません。当方がその偽降を信じて封殖してやり、その位号を崇(たか)め、君臣の義を定めれば、これは虎に翼を伝(つ)ぐ事になります。孫権が王位を受けて蜀兵を却けた後、外面では礼を尽くして中国に臣事しましょうが、内実は無礼を為して陛下を怒らせましょう。陛下が赫然として発怒されて兵を興してこれを討てば、徐ろにその民に告げるには“私は身を委ねて中国に事え、珍貨重宝を愛(お)しまずに時節に随って貢献し、臣礼を失うような事はしなかった。ゆえ無くして私を伐つのは、きっと我が国家を殲滅し、我が民人の子女を俘虜として僮隸僕妾にするのだ”と。呉の民にはその言葉を信じぬ縁(よすが)は無く、その言葉を信じれば感情を怒らせ、上下が心を同じくして戦さには十倍の力を加えるでありましょう」 。
又た従わなかった。かくて即日に孫権を拝して呉王とした。孫権の将の陸議(陸遜)は劉備を大いに敗り、その兵八万余人を殺し、劉備は僅かに身を以て免れた。孫権の外面の礼は愈々卑(ひく)く、しかし内実の行動は順わぬもので、果たして劉曄の言葉の通りとなった。 (『傅子』)

 明帝即位、進爵東亭侯、邑三百戸。詔曰: 「尊嚴祖考、所以崇孝表行也;追本敬始、所以篤教流化也。是以成湯・文・武、實造商・周、詩・書之義、追尊稷・契、歌頌有娀・姜嫄之事、明盛コ之源流、受命所由興也。自我魏室之承天序、既發迹於高皇・太皇帝、而功隆于武皇・文皇帝。至于高皇之父處士君、潛脩コ讓、行動神明、斯乃乾坤所福饗、光靈所從來也。而精神幽遠、號稱罔記、非所謂崇孝重本也。其令公卿已下、會議號諡。」 曄議曰: 「聖帝孝孫之欲褒崇先祖、誠無量已。然親疏之數、遠近之降、蓋有禮紀、所以割斷私情、克成公法、為萬世式也。周王所以上祖后稷者、以其佐唐有功、名在祀典故也。至於漢氏之初、追諡之義、不過其父。上比周室、則大魏發迹自高皇始;下論漢氏、則追諡之禮不及其祖。此誠往代之成法、當今之明義也。陛下孝思中發、誠無已已、然君舉必書、所以慎於禮制也。以為追尊之義、宜齊高皇而已。」 尚書衞臻與曄議同、事遂施行。

 明帝が即位すると東亭侯に進爵され、三百戸を食邑とした。詔に曰く: 「父祖を尊ぶのは孝行の表れであり、源流を敬うのは教化を流行らせるためである。だから成湯・文王・武王が商・周の創建者であっても、『詩』・『書』は稷・契を追尊し、有娀・姜嫄の事を歌い頌(たた)えたのだ[※]。魏室の事は高皇・太皇帝(曹騰・曹嵩)に発し、武皇・文皇帝のとき隆盛した。高皇の父である処士に至っては徳と謙譲を潜かに修め、行動は神明であり、福禄・光霊の源泉である。しかし精神(心魂)は遠く幽(かく)れ、号称(名号と評判)は記されず、これは孝を崇び本源を重んじる事に背いている。公卿已下に命ず。号諡の事を会議せよ」 。

※ 稷は周の始祖。その生母が帝嚳の正妃の姜嫄。契は殷の始祖。その生母が帝嚳の次妃の有娀氏。稷・契は帝堯の異母兄弟でもある。

劉曄が議すには:
「陛下の御心は量るに余りあります。しかし親疏・遠近の分別は礼によって定められており、それは私情を割断して公法を完成させる為で、万世の公式であります。周王が后稷に溯上したのは、唐堯を輔佐する功績が祀典にも載せられていたからです。漢氏の初めの追諡の義は、その父を超えるものではありませんでした。周室と比べると、大魏の迹は高皇より始まり、漢氏に倣って論ずれば、追諡の礼は祖父には及ばぬものです。これは歴代の成法、当今の明かな大義であります。陛下が孝心を発せられたのは誠に万已むを得ぬ事ではありますが、君主の挙動は必ず記されるもので、礼制について慎重である理由です。追尊の義は高皇までとすべきであります」 。
尚書衛臻も劉曄と議旨を同じくし、事はかくて施行された。

 遼東太守公孫淵奪叔父位、擅自立、遣使表状。曄以為公孫氏漢時所用、遂世官相承、水則由海、陸則阻山、故胡夷絶遠難制、而世權日久。今若不誅、後必生患。若懷貳阻兵、然後致誅、於事為難。不如因其新立、有黨有仇、先其不意、以兵臨之、開設賞募、可不勞師而定也。後淵竟反。

 遼東太守公孫淵が叔父の位を奪い、擅(ほしい)ままに自立し、使者を遣って実状を上表させた。劉曄が考えるに、公孫氏は漢の時の用(はたら)きによって世々に官を相い継承してきた。水路は海に由り、陸路は山を阻(たの)み、ゆえに胡夷は絶遠にして制し難く、世々の権(仮措置)が日々久しくなった。今もし誅さねば、後に必ず憂患を生じよう。もし弐心を懐いて兵を阻めば、然る後に誅殺しようにも事態は困難であろう。その新たに立ったばかりで党派や仇敵があるのに乗じ、その意(おも)わざるに先んじて兵を以て臨むに越した事はなく、賞募を開設すれば師を労せずして定められようと。後に公孫淵は竟に反いた。

 曄在朝、略不交接時人。或問其故、曄答曰:「魏室即阼尚新、智者知命、俗或未咸。僕在漢為支葉、於魏備腹心、寡偶少徒、於宜未失也。」 太和六年、以疾拜太中大夫。有閨A為大鴻臚、在位二年遜位、復為太中大夫、薨。諡曰景侯。子㝢嗣。少子陶、亦高才而薄行、官至平原太守。

 劉曄は朝廷に在ってはほぼ同時代の人とは交接しなかった。或る人がその理由を問うた処、劉曄が答えるには 「魏室は阼に即いたばかりで、智者は天命を知っていようが、俗人の咸ながそうとは限らぬ。僕は漢の支葉であり、魏では腹心の立場に備わり、寡偶少徒(偶・徒とも“ともがら”)は妥当性の上での失(そこな)いではないのだ」 と。太和六年(232)、疾病のため太中大夫を拝命した。しばらくして大鴻臚となり、在位二年で位を遜(ゆず)り、復た太中大夫となった、薨じると、景侯と諡した。子の劉㝢が嗣いだ[5]。少子の劉陶も亦た高才だったが徳行は薄く、官は平原太守に至った[6]
[5] 劉曄は明皇帝に臣事し、又た大いに親重された。帝が蜀を伐たんとした時、朝臣や内外の者は皆な 「不可」 とした。劉曄は参内すると帝と議し、そこで曰く 「伐つべし」 と。退出して朝臣と交言した際には 「伐ってはならぬ」 と。劉曄には胆力・智力があり、その言葉はどちらも形(具体性)があった。中領軍楊曁は帝の親臣(寵臣)で、又た劉曄を重んじており、伐蜀を不可とする議を最も堅持しており、宮内より退出する毎に、そのつど劉曄を訪ね、劉曄は不可とする真意を講じた。後に楊曁が駕に従って天淵池に行った折、帝が伐蜀の事を論じたので、楊曁は切諫した。帝曰く 「卿は書生に過ぎぬ。どうして兵事が分ろうか!」 。楊曁は謙恭に謝しつつ 「臣は儒生の末流の出で、陛下は誤って、臣を群萃(群衆)の中から抜擢して六軍の上に立つ事を聴許されました。臣は微心(些細な意見)であっても言葉を尽くさずにはおれません。臣の言葉は誠に採るに足りませんが、侍中劉曄は先帝の謀臣であり、常に蜀を伐ってはならぬと申しております」 。帝曰く 「劉曄は私とは蜀を伐つべしと言っておる」 。楊曁曰く 「劉曄を召して質すべきでありましょう」 。 詔で召した劉曄が至ると、帝は劉曄に問うたが、終には発言しなかった。後に一人で通見すると、劉曄は帝を責めるには

「国を伐つというのは大いなる謀りごとであります。臣は大いなる謀りごとを聞いてしまえば、常に眯(みだ)りに夢で漏泄して臣の罪を益すのではないかと恐れております。どうして敢えて人に向ってこれを言いましょう? そも兵事とは詭道であり、軍事を発しないうちは秘密にするのを厭わぬものです。陛下は顕然としてこれを露わしてしまわれました。臣は敵国に已に聞こえているのではと恐れております」 。

ここに帝は陳謝した。劉曄は退出すると楊曁を責めるには 「そも釣り人は大魚に中ると、放縦してその意に随い、制すべき時を須(ま)ってから牽くもので、得られぬ事が無いのだ。人主の威とは、どうして大魚程度で済もうか! 子は誠に直臣であるが、計策は採るに足りず、精思(熟慮)しない訳にはいかぬぞ」 。楊曁も亦た陳謝した。劉曄が変に応じて両端を持せるのはこの通りだった。
 或る者が劉曄を帝に悪口するには 「劉曄は忠を尽くしておらず、上意を伺って迎合に趨るのに善いだけです。陛下は試しに劉曄と語らい、皆な意に反した事で問うてみて、もし皆な質問に反しておれば、劉曄が常に聖意と合致しているという事であります。復た問う毎に皆な同意すれば、劉曄の実情はどうあっても逃れられぬものとなります」 。帝が言葉の通りに験すと、果してその実情を得、これより疏遇した。劉曄はかくて発狂したので大鴻臚に転出され、憂いを以て死んた。諺に曰く 「巧詐は拙誠に及ばぬ」 と。信言である。劉曄の明智権計を以て、もし徳義を以て身を処し、忠信を以て行なっておれば、古えの上賢とて何を加えるものがあろう? ただ才智に任せ、世の士と相い経緯せず、内には心を推して上に臣事せず、外は世俗に困じ、ついには天下に安んじる場所を失ったのは惜しまずにおれようか! (『傅子』)

 『傅子』が劉曄の計策を記すのに熱心で、特に否定や批判の言葉を述べてこなかったのは、全てはこの最後の一節を語りたいが為の演出でした。どれほど能力が優れていても、人としての品格に欠けていてはダメだという、実に模範的な儒学者の見解ではあります。素行不良という点では郭嘉の方が上ですが、『傅子』で郭嘉は絶賛されています。この差違を生じた理由は次の[注6]で明かになります。

[6] 淮南の人である劉陶は、縦横家然とした論に善く、当時の世に推賞された。 (『王弼伝』)
―― 劉陶、字は季冶。名声称賛が善く、大弁(大言壮語)した。曹爽の時に選部郎となり、ケ颺の徒党はこれを称えて伊尹・呂尚とした。当時、この人の意志は青雲を凌ぎ、に謂うには 「仲尼は聖人ではない。どうして分るかって? 智者とは国を図るもので、天下の群愚を掌中で一丸を弄ぶようでなければ天下は得られませんよ」 と。はその言葉に大いに惑い、再びは詳しく論難せず、これに謂うには 「天下の本質は変じて常態が無いもの。今に卿は窮されよう!」 。曹爽が敗れると退いて里舍に居住し、かくしてその言葉の過ちを陳謝した。 (『傅子』)

 “玄”を筑摩訳は夏侯玄としています。『傅子』の前後の文章を知らないので断言はできませんが、これ、傅玄との会話じゃないのかなぁ。両者は学説の上でも敵同士だし。
 傅玄の学説は鄭玄によって完成の域に達した古文学で、辺境の呉でこそ持て囃されていましたが、中原では時代遅れになりつつありました。当時の中原では鄭玄説の否定からスタートした清談的経学=正始の音が最先端で、その発信源は曹爽のお抱えサロンでした。当然、劉陶もその一員です。正始由来の老荘経学は西晋に至って古文学を抑えて国学となるので、傅玄の屈託はさらに強いものになっていた事でしょう。しかも傅玄は偏執的な頑固者です。同じような傾向の郭嘉と劉曄を、一方を絶賛して一方を批判したのは、自分たちの思想上の対立を親の世代に遡らせて劉曄を筆殺しようとしたように思えてなりません。となると、傅玄は郭嘉の子や孫と友好な関係を築いていたとも考えられますが果して。

―― 毌丘倹が起兵すると、大将軍は劉陶に問うたが、劉陶の答えは依違(曖昧)だった。大将軍は怒り 「卿は平生より私と天下の事を論じてきた。今日に至って更めて尽くさぬのか?」 。かくして転出させて平原太守とし、又た追って殺した。 (干宝『晋紀』)

 毌丘倹伝に 「かねて毌丘倹は夏侯玄・李豊らと親善であり、揚州刺史・前将軍の文欽は曹爽と同邑の人だった」 とあります。司馬師の問いは、嘗ての仲間を伐てるかどうかの踏み絵に他なりません。それでも無辜を殺すというのはどうにも過剰反応で、劉陶の本籍が造叛の本拠/寿春に隣接している事も原因の一つだったのかもしれません。

 

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