三國志修正計画

呉志卷四十八 呉書三/三嗣主傳 (三)

孫皓伝

 三年夏、郭馬反。馬本合浦太守脩允部曲督。允轉桂林太守、疾病、住廣州、先遣馬將五百兵至郡安撫諸夷。允死、兵當分給、馬等累世舊軍、不樂離別。晧時又科實廣州戸口、馬與部曲將何典・王族・呉述・殷興等因此恐動兵民、合聚人衆、攻殺廣州督虞授。馬自號都督交・廣二州諸軍事・安南將軍、興廣州刺史、述南海太守。典攻蒼梧、族攻始興。八月、以軍師張悌為丞相、牛渚都督何植為司徒。執金吾滕循為司空、未拜、轉鎮南將軍、假節領廣州牧、率萬人從東道討馬、與族遇于始興、未得前。馬殺南海太守劉略、逐廣州刺史徐旗。晧又遣徐陵督陶濬將七千人從西道、命交州牧陶璜部伍所領及合浦・鬱林諸郡兵、當與東西軍共撃馬。

 (天紀)三年(279)夏、郭馬が反いた。郭馬はもとは合浦太守脩允の部曲督だった。脩允は桂林太守に転じたが、疾病によって広州に住っており、先遣として郭馬に五百の兵を率いて郡に至って諸夷を安撫させた。脩允が死に、兵は(諸営に)分給されそうになった。郭馬らは旧軍にあること累世で、離別を楽しまなかった(嫌った)。孫皓は時に又た広州の戸口を科実(実数調査)させたが、郭馬は部曲将の何典・王族・呉述・殷興らとこれに乗じて兵民を恐動させ、人衆を合聚して広州督虞授を攻殺した。郭馬は自ら都督交・広二州諸軍事・安南将軍を号し、殷興を広州刺史、呉述を南海太守とした。何典は蒼梧を攻め、王族は始興を攻めた[21]
 八月、軍師張悌を丞相とし、牛渚都督何植を司徒とした。執金吾滕循(『晋書』では滕脩)を司空としたが、拝する前に鎮南将軍に転じ、節を仮して広州牧を領し、一万人を率いて東道より郭馬を討ち、王族と始興で遭遇して前進できなかった。郭馬は南海太守劉略を殺し、広州刺史徐旗を逐った。孫皓は又た(京口の)徐陵督陶濬に七千人を率いて西より道(進)ませ、交州牧陶璜には所領する部伍および合浦・鬱林の諸郡の兵にて東西の軍と共に郭馬を撃つ事を命じた。

 有鬼目菜生工人黄耈家、依縁棗樹、長丈餘、莖廣四寸、厚三分。又有買菜生工人呉平家、高四尺、厚三分、如枇杷形、上廣尺八寸、下莖廣五寸、兩邊生葉告F。東觀案圖、名鬼目作芝草、買菜作平慮草、遂以耈為侍芝郎、平為平慮郎、皆銀印青綬。

 鬼目菜が工人の黄耈の家に生えた。棗の樹に依縁し、長さは一丈余、茎の太さは四寸、(葉の)厚さは三分だった。又た買菜が工人の呉平の家に生えたが、高さ四尺、葉厚は三分で、枇杷の形に似て、上の広さは一尺八寸、下の茎の太さは五寸あり、両辺には緑色の葉が生えていた。東観で図画を調べた処、鬼目とは芝草(霊芝)であり、買菜は平慮草(慮=虜)だとし、かくて黄耈を侍芝郎とし、呉平を平慮郎とし、皆な銀印青綬とした。

 冬、晉命鎮東大將軍司馬伷向涂中、安東將軍王渾・揚州刺史周浚向牛渚、建威將軍王戎向武昌、平南將軍胡奮向夏口、鎮南將軍杜預向江陵、龍驤將軍王濬・廣武將軍唐彬浮江東下、太尉賈充為大都督、量宜處要、盡軍勢之中。陶濬至武昌、聞北軍大出、停駐不前。

 冬、晋が鎮東大将軍司馬伷を涂中に向わせ、安東将軍王渾・揚州刺史周浚には牛渚に向わせ、建威将軍王戎を武昌に向わせ、平南将軍胡奮を夏口に向わせ、鎮南将軍杜預を江陵に向わせ、龍驤将軍王濬・広武将軍唐彬には長江を東下させ、太尉賈充を大都督とし、宜しきを量って要所に処し、軍勢の中で尽く行なうよう命じた。陶濬は武昌に至ると北軍が大挙進出したと聞き、停駐して前進しなかった。

 ここで自白しますが、これまで司馬伷は全くノーマークでした。どれくらいかというと、平呉戦に司馬伷が参加している事を知らない位にノーマークでした。前線には出ていないっぽいんで賈充の輔佐、もしくはお目付けかと思われますが、何にしても司馬伷の事を調べるきっかけになりました。
 しかし伐蜀戦とのこの陣容の差はどうしたものか。単に兵数や兵団数の問題ではなく、将軍の顔ぶれ的に。晋の国内事情や意気込みに対するイメージ戦略もあるんでしょうが、やはり中原政権にとって蜀漢は地方の一反乱勢力に過ぎなかったという事でしょうか。毌丘倹討伐の方が伐蜀より陣容が厚かったですしねぇ。

 初、晧毎宴會羣臣、無不咸令沈醉。置黄門郎十人、特不與酒、侍立終日、為司過之吏。宴罷之後、各奏其闕失、迕視之咎、謬言之愆、罔有不舉。大者即加威刑、小者輒以為罪。後宮數千、而採擇無已。又激水入宮、宮人有不合意者、輒殺流之。或剥人之面、或鑿人之眼。岑昬險諛貴幸、致位九列、好興功役、衆所患苦。是以上下離心、莫為晧盡力、蓋積惡已極、不復堪命故也。

 これまで孫皓は群臣との宴会の毎に咸なに命じて沈酔しない者が無いようにさせ、そして黄門郎十人を置き、特に酒を与えずに終日侍立させ、司過(過失を監督)の吏とした。宴を罷めた後、各々がその闕失を上奏し、迕視(直視)の咎、謬言(失言)の愆など挙げないものは罔(無)かった。大なる者には即座に威刑を加え、小なる者も例外なく罪とした。後宮には数千人があったが、それでも採択は已めなかった。又た激水を宮に流し入れ、宮人で意に合わぬ者がいると殺してこれに流した。或る者の面皮を剥ぎ、又た或る者の眼を鑿(抉)った。
岑昬は険諛によって貴幸され、官位は九卿に列するに致った。功とする為に力役の事を興す事を好み、人々に患苦とされた。このため上下の心は離れ、孫皓の為に尽力しようという者が莫くなったのは、積悪が既に極まり、天命に堪えられなくなっていたからであろう[22]
 正月、鮮卑の禿髪樹機能が涼州を攻陥。討虜護軍の武威太守馬隆が討った。 三月、飢饉により御膳を半減した。 十月、汲郡の人が魏襄王の墓を発き、竹簡十余万言を得た。
 十一月、伐呉を興した。全軍凡そ二十余万人。大都督は太尉賈充。 十二月、馬隆が禿髪樹機能を大破して斬った。 (『晋書』)

 呉志に直接は関係ありませんが、当時の晋が決して和平を謳歌していたわけではない事が解ります。禅譲後はしばらくは削軍に励んで太平を喧伝していましたが、鮮卑・匈奴が不穏になると軍縮を放棄している点から、呉が脅威とは見做されていなかった事が解ります。平呉の頃にはさらに皇太子問題と門閥問題が絡んで、国内外に問題が山積していたのが晋の実態です。特に関中・隴西の異民族問題は深刻で、平呉のタイミングは決して時宜に適っていた訳ではなさそうです。

 四年春、立中山・代等十一王、大赦。濬・彬所至、則土崩瓦解、靡有禦者。預又斬江陵督伍延、渾復斬丞相張悌・丹楊太守沈瑩等、所在戰克。

 四年(280)春、中山王・代王ら十一王を立て、大赦した。王濬・唐彬の至る所で(呉軍は)土崩瓦解し、防禦する者は靡(莫)かった。杜預は又た江陵督伍延を斬り、王渾も復た丞相張悌・丹楊太守沈瑩らを斬り、所在で戦い勝った[23]

 二月庚申、王濬・唐彬らが西陵城を抜き、西陵都督・鎮軍将軍留憲らを殺した。壬戌、王濬が夷道の楽郷城を抜き、夷道監陸晏・水軍都督陸景を殺した。甲戌、杜預が江陵を抜いた。乙亥、王濬を都督益梁二州諸軍事とした。王渾・周浚が呉の丞相張悌を大破して斬った。孫皓が窮して請降し、璽綬を司馬伷に送った。 (『晋書』)

 三月丙寅、殿中親近數百人叩頭請晧殺岑昬、晧惶憒從之。
 戊辰、陶濬從武昌還、即引見、問水軍消息、對曰:「蜀船皆小、今得二萬兵、乘大船戰、自足撃之。」於是合衆、授濬節鉞。明日當發、其夜衆悉逃走。而王濬順流將至、司馬伷・王渾皆臨近境。晧用光祿勳薛瑩・中書令胡沖等計、分遣使奉書於濬・伷・渾曰:「昔漢室失統、九州皆分裂、先人因時、略有江南、遂分阻山川、與魏乖隔。今大晉龍興、コ覆四海。闇劣偸安、未喩天命。至于今者、猥煩六軍、衡蓋路次、遠臨江渚、舉國震惶、假息漏刻。敢縁天朝含夕光大、謹遣私署太常張夔等奉所佩印綬、委質請命、惟垂信納、以濟元元。」

 三月丙寅、殿中で親しく近侍する数百人が叩頭して孫皓に岑昬を殺す事を請い、孫皓は惶憒(恐竦)してこれに従った[24]
 戊辰、陶濬が武昌より還った。即座に引見し、水軍の消息を問うた処、対えるには 「蜀船は皆な小さく、今、二万の兵を得て大船に乗って戦えば、撃つのに充分でしょう」 ここに軍兵を合し、陶濬に節鉞を授けた。明日に進発する事になったが、その夜に軍兵は悉く逃走した。
しかも王濬は流れに順って至ろうとし、司馬伷・王渾は皆な境内の近くに臨んでいた。孫皓は光禄勲薛瑩・中書令胡沖らの計を用い、書を奉じた使者を王濬・司馬伷・王渾に分遣して曰わせた

「昔、漢室が統治を失い、九州は皆ば分裂し、先人は時に因って江南を略有し、かくて山川を分阻として魏とは乖隔しました。今、大晋は龍興し、徳は四海を覆っています。闇劣は安寧を偸み、未だ天命を喩りませんでした。今に至って猥りに六軍を煩わせ、衡蓋(兵車)を路に次(宿)らせ、遠きより江渚に臨ませました。国を挙げて震惶し、仮息漏刻(仮の命で僅かな時を刻んでいる状況)しております。敢えて天朝の含夕光大に縁り、謹んで私設の太常張夔らを遣って佩びている印綬を奉じ、質として委ねて生命を請うものです。惟垂信納、以済元元」[25]

 壬申、王濬最先到、於是受晧之降、解縛焚櫬、延請相見。伷以晧致印綬於己、遣使送晧。晧舉家西遷、以太康元年五月丁亥集于京邑。四月甲申、詔曰:「孫晧窮迫歸降、前詔待之以不死、今晧垂至、意猶愍之、其賜號為歸命侯。進給衣服車乘、田三十頃、歳給穀五千斛、錢五十萬、絹五百匹、緜五百斤。」晧太子瑾拜中郎、諸子為王者、拜郎中。五年、晧死于洛陽。

 壬申、王濬が最も先んじて到り、ここに孫皓の降伏を受け、縛を解いて櫬を焚き、延請(招致)して会見した[26]。司馬伷は孫皓が己に印綬を致した事から遣使して孫皓を(洛陽に)送らせた。孫皓は家を挙げて西遷し、太康元年五月丁亥(1日)に京邑に集った。

 戦後間もなく、論功行賞を巡って王濬王渾の対立を軸に、晋の陣営で悶着があります。もともと出征計画を巡ってもダラダラ悶着してたので、戦後のコレもその延長に過ぎません。どっちにしても『三國志』とは別の話なので割愛します。

四月甲申、詔 「孫皓は窮迫して帰降した。前の詔ではこれ(降伏)を待って殺さぬとしたが、今、孫皓が至ってみると意として憐憫を禁じえない。賜号して帰命侯とする。衣服車乗、田三十頃、歳給穀五千斛、銭五十万、絹五百匹、緜五百斤を進給する」 孫皓の太子孫瑾を中郎に拝し、諸子の王である者を郎中に拝した[27]
五年(284)、孫皓は洛陽で死んだ[28]
[21] これより前、呉には讖緯を説く著作があり 「呉が敗れる時、兵が南裔に起る。呉を滅ぼすのは公孫である」 孫皓はこれを聞き、文武の在官者から卒伍に至るまで公孫を姓とする者を皆な広州に徙し、命じて長江沿岸に停まらせなかった。郭馬が反いた事を聞くに及び、大いに懼れて 「これは天が亡ぼすのだ」 (『漢晋春秋』)
[22] 呉が平らいだ後、晋の侍中庾峻らが孫皓の侍中李仁に問うた 「聞けば呉主は人面を破り、人の足を刖(斬)ったというが、これらはあった事なのか?」 李仁 「告げたものの過ちです。君子が下流に居る事を嫌悪するのは、天下の悪事が皆な帰せられてしまうからです。この事がもし信用できるものだったとして、どうして怪しむに足りましょう。昔、唐堯・虞舜には五刑があり、夏殷周の三代には七辟があり、肉刑の制は酷虐とはされませんでした。孫皓は一国の主となり、殺生の柄を秉り、罪人を法に陥し、これに懲罰を加えた事をどうして罪が多いとするのでしょう! 堯に誅された者が怨まなかったとは限らず、桀に賞された者が慕わなかった訳ではありません。これが人の情というものです」
又た問うた 「帰命侯は人が横睛(目を逸らす)・逆視(直視)する事を嫌悪し、その眼を鑿ったとか。これはどうか?」 李仁 「これも亦た無い事で、伝えた者の誤謬です。『礼』の曲礼には『天子を視るのは袷より以下、諸侯を視るのは頤より以下、大夫を視るのは平衡より。士を視るのは面を平らかにし、五歩の内で目を游がせても良い』とあり、視線を上げて衡らにするのは傲慢であり、帯に下げるのは(悪心を)憂えているとあります。『礼』では視瞻(視線)の高下を慎まねばならないものとしています。ましてや人君に対してなら尚更では? 人君の顔を迕視しするなど『礼』が傲慢とする所です。傲慢とは無礼であり、無礼とは不臣であり、不臣とは犯罪であり、犯罪とは不測に陥るものです。このこと(鑿眼)があったとしても過失と云えましょうか?」 凡そ李仁の回答を庾峻らは皆な善しとした。文は多く悉くは載せられない。

 わりと詭弁っぽく感じますが、純粋な討論としてオッケーって事のようです。これもどっから引っ張り出した資料なんだか…。

[23] 呉の丞相軍師張悌・護軍孫震・丹楊太守沈瑩は三万の軍勢を帥いて長江を渡り、成陽都尉張喬を楊荷橋に囲んだ。手勢は才(僅)か七千で、柵門を閉じて自衛し、白旗を挙げて降伏を告げてきた。呉の副軍師諸葛靚は屠殺を欲したが、張悌は 「彊敵が眼前に在り、小敵の事を先とするのは妥当ではない。それに降る者を殺すのは不祥だ」 諸葛靚 「これらは救兵がまだ来ず戦力も少ないので、偽降して我らを緩めようというもので、来伏するものではありません。その無戦の心に因って尽く邟殺すれば三軍の士気は成りましょう。もしこれを捨てて前進すれば、きっと後患となりましょう」 張悌は従わず、(張喬らを)慰撫して進み、討呉護軍張翰・揚州刺史周浚と布陣して相対した。
沈瑩は所領する丹楊の鋭卒たる刀楯兵五千を“青巾兵”と号し、前後してしばしば堅陣を陥していた。このとき淮南の軍に馳せたが、三衝して動かせず、退き引いて乱れた。薛勝・蔣班がその乱に因ってこれに乗じ、呉軍は次々と土崩し、将帥は止める事が出来ず、張喬も又たその背後に出撃した。版橋で呉軍を大いに敗り、張悌・孫震・薛瑩らを獲えた。 (干宝『晋紀』)
―― 張悌、字は巨先。襄陽の人である。若年より道理によって名を知られ、孫休の時に屯騎校尉となった。魏が蜀を伐った時、呉人が張悌に問うた 「司馬氏は大政を得て以来も、大難がしばしば生じています。智力が豊かとはいえ、百姓は未だに心服していません。今、又たその資力を竭(尽)して巴蜀に遠征し、兵民とも疲労して恤(愍)れむ事を知りません。失敗は目前であり、どうして達成などできましょう? 昔、夫差は斉を伐ち、勝てなかった訳ではないのに危亡に至ったのは、その根本を憂慮しなかったからです。ましてや(司馬氏は)彼方で地を争っているのですから!」
張悌 「そうではない。曹操の功は中夏を蓋い、四海を威震させたとはいえ、詐りを崇び術に杖り、征伐は已まず、民はその威を畏れたのであり、その徳に懐いたのではない。曹丕・曹叡がこれを承けて慘虐をも継ぎ、内に宮室を興し、外に雄豪を懼れ、東西に馳駆して歳が安寧を獲る事は無かった。彼が民心を失って既に久しいのだ。司馬懿父子は自ら権柄を握り、累ねて大功があり、その煩苛を除いて平恵を布政し、謀主として民の疾患を救い、民心がこれに帰して亦た既に久しい。だから淮南の三叛でも腹心は騒擾せず、曹髦が死んでも四方は動かず、堅敵を摧くこと枯木を折る如くで、異を討つこと掌を反すのと同じなのだ。賢を任じ能を使い、各々その心を尽させている。智勇を兼ねた人でなければ誰がこの様な事を出来ただろう? その威武は張り、本根は固く、群情は服し、姦計も立っている。今、蜀は閹宦が朝廷を専らにし、国には政令が無く、しかも軍事を玩んで武を涜し、民は疲労し士卒は疲弊し、外に利を競って守備を修めていない。両者の彊弱は同じではなく、智算も亦た(司馬氏が)勝り、(蜀の)危難に因って伐つのだ。ほぼ勝っているようなものだ! もし勝てなかったとしても功が無かっただけの事で、退北の憂・覆軍の慮などでは無く、どうして(伐蜀が)駄目だと云うのか? 昔、楚の険阻の利を秦の昭王は懼れ、孟明を用いる事を晋人は憂えた。彼がその志を得るのを大いに患えたのだ」
呉人はその言葉を笑ったが、蜀は果たして魏に降った。
 晋が呉に来伐し、孫皓は張悌に沈瑩・諸葛靚を督させ、軍勢三万を率いて渡江して逆撃させた牛渚に至り、沈瑩が曰った 「晋が蜀で水軍を習練して久しい。今、国を傾けて大挙し、万里の力を斉しくしている。きっと益州の兵を悉く長江に浮かべて下ってくるだろう。我が上流の諸軍には軍事の備えが無く、名将は皆な死んでおり、幼少が任に当っている。辺江の諸城には防禦に長けた者が全く莫い事を恐れている。晋の水軍はきっとここに至るだろう! 軍勢の力を蓄え、来攻を待って一戦するのが妥当であろう。もし勝てば江西は自ずと清められ、上流が壊滅しようとも取り還すことが出来ます。今、渡江して逆戦すれば勝っても保持できず、もし摧喪するような事があれば大事は去ってしまいましょう」
張悌 「呉が亡びかかっている事は賢愚とも知っており、今日の事ではない。私が恐れるのは蜀兵がここに到達すれば人々の心がきっと駭懼し、復た整える事が出来なくなる事だ。今は長江を渡り、力争して決戦する事が妥当なのだ。もし敗喪しても、それは社稷と同死する事で、復た恨む事など無い。もし克勝すれば、それは北敵が奔走する事で、兵の勢いは万倍し、直ちに威に乗じて南から上って中途にて逆撃すれば、破れないという憂いは無いのだ。もし卿の計策の通りにすれば、恐らく行程と共に散じ尽し、坐して敵の到来を待つ事になり、君臣ともに降って、難に死ぬ者が一人もいない事になるだろう。辱ずかしい事ではないか!」
かくて渡江して戦い、呉軍は大敗した。諸葛靚は五・六百人と退走し、道すがら張悌を迎えさせたが、張悌は肯んぜずに去った。諸葛靚は自ら往って牽曳し、「巨先よ、天下の存亡は多いなる暦数であり、どうして卿一人の知る所であろう。自ら死を択ぼうとはどうした事か?」 張悌は垂涕しつつ 「仲思よ、今日この時が私の死日なのだ。しかも私が児童だった時に卿の家の丞相に抜擢されてより、常に死に場所を得られずに名賢の佑顧に負くことを恐れていた。今、身を以て社稷に殉じようというのに、復たどうして遁げようか? この様に牽曳する事は莫しにしてくれ」 諸葛靚は流涕しつつこれを放ち、百余歩去った処で晋軍に殺されているのを見た。  以上、大変良く出来たお話でした。
 『呉録』によれば、張悌は若年より名を知られたが、大任に就くに及んで時趣に希合し、(帝の)左右を擁護したので清論はこれを譏ったという。 (『襄陽記』)
―― 臨海松陽人柳栄従張悌至楊府、柳栄病死船中二日、時軍已上岸、無有埋之者、忽然大呼、言「人縛軍師!人縛軍師!」声激揚、遂活。人問之、柳栄曰:「上天北斗門下卒見人縛張悌、意中大愕、不覚大呼、言『何以縛張軍師。』門下人怒栄、叱逐使去。栄便去、怖懼、口余声発揚耳。」其日、張悌戦死。柳栄至晋元帝時猶在。 (『捜神記』)

 張悌に従軍していた柳栄が行軍中に死んだが、冥府で張悌が縛られているの見て叫ぶと叱られて蘇生しましたとさ。

[24] 孫皓の殿中の親近数百人が叩頭して孫皓に請うには 「北軍は日々近づいているのに兵は刃を挙げません。陛下はどうするおつもりか!」 孫皓 「どうしてだ?」 「岑昬がいるからです」 孫皓は独語した 「もしそうなら、あ奴を以て百姓に謝らねばな」 人々 「唯!」 かくて揃って起って岑昬を収捕した。孫皓は駱駅として追って止めさせたが、既に屠られていた。 ([干宝『晋紀』)
[25] 孫皓が敗れる寸前に舅の何植に与えた書 「昔、大皇帝は三千の兵で江南に割拠し、交州・広州を席捲して国基を開いた。孤は不徳で黎元(民衆)を懐けられず、失敗の連続で天に違えた。譴責の徴を吉祥と考え、南蛮の逆乱を招いてしまった。これを片づけないうちに晋が来た。民は疲弊し、軍は摧退し、しかも張悌は返らず、軍の過半を喪ったという。陶濬からの上表で、武昌以西もダメだという。兵が戦を放棄したからとてどうして兵を怨もうか? 孤の罪である。天が呉を亡ぼすのではなく、孤が招いたことなのだ。もう四帝に会わせる顔が無い! 何か奇計はないものか」
孫皓が群臣に遣った書 「孤は不徳で失政を累ね、社稷は傾覆し、宗廟には主が無くなった。慚愧は山積して、歿しても余罪がある。分不相応だったのだ。宮室に居してよりしばしば篤疾し、計策は足りておらず思慮は的を外れ、多くを荒廃させてしまった。小人を近づけた為に酷虐となり、忠順を被害させた。闇昧なために覚らず、事は覆水を返せない処まで来てしまった。今、大晋は四海を平定して賢良の抜擢に心を砕いている。嘗ての仇の管仲を桓公は用いたのだし、張良・陳平を不忠とする者はいない。君たちも志を充分に展ばしてくれ。私もそれを嘉してその動静を愛敬しよう。投筆而已!」 (『江表伝』)
[26] 王濬は呉の図籍を収め、そこには領州四、郡四十三、県三百一十三、戸五十二万三千、吏三万二千、兵二十三万、男女口二百三十万、米穀二百八十万斛、舟船五千余艘、後宮五千余人とあった。 (『晋陽秋』)

 蜀漢は降伏時に23万戸、94万口、兵10万、吏4万でした。参考までに。吏が突出しています。

[27] 呉以草創之国、信不堅固、辺屯守将、皆質其妻子、名曰保質。童子少年、以類相與嬉遊者、日有十数。永安二年三月、有一異児、長四尺余、年可六七歳、衣青衣、来従群児戯、諸児莫之識也。皆問曰:「爾誰家小児、今日忽来?」 答曰:「見爾群戯楽、故来耳。」 詳而視之、眼有光芒、爚爚外射。諸児畏之、重問其故。児乃答曰:「爾悪我乎?我非人也、乃熒惑星也。将有以告爾:三公鉏、司馬如。」 諸児大驚、或走告大人、大人馳往観之。児曰:「舍爾去乎!」竦身而躍、即以化矣。仰面視之、若引一匹練以登天。大人来者、猶及見焉、飄飄漸高、有頃而没。時呉政峻急、莫敢宣也。後五年而蜀亡、六年而晋興、至是而呉滅、司馬如矣。 (『捜神記』)

 熒惑星が子供に化けて、司馬氏が征服するぞと予言した事があったぞ、と。

―― 王濬が蜀で船を建造していた頃、吾彦が流着した柹(柿の木)を孫皓に上呈し 「晋にはきっと攻呉の計がありましょう。建平の兵を増されん事を。建平が下らなければ終には長江を渡れますまい」 孫皓は従わなかった。陸抗が歩闡に勝つと孫皓の意はいよいよ張り、かくして尚広に天下併合の事を筮(うらな)わせ、“遇同人之頤”の卦が出た。対えるには 「吉。庚子の歳に青蓋が洛陽に入るでしょう」 そのため孫皓は政事を修めず、恒に北上の志を窺った。この歳は実に庚子であった。 (干宝『晋紀』)
[28] 孫皓は大康四年十二月に死に、時に齢四十二であり、河南県の界内に葬られた。 (『呉録』) 
 
 本伝だけで孫皓を読んだ結果、従来の暴君孫皓像がえらく希釈されてしまいました。悪印象の原因になった強権の発動も、孫権の時代を再現しようと過剰に頑張った事が原因のような印象です。孫皓と陸凱が、どちらも孫権の再現を理由に非難の応酬をしているのもこの為か。要再評価対象です。
 

 評曰:孫亮童孺而無賢輔、其替位不終、必然之勢也。休以舊愛宿恩、任用興・布、不能拔進良才、改絃易張、雖志善好學、何益救亂乎?又使既廢之亮不得其死、友于之義薄矣。晧之淫刑所濫、隕斃流黜者、蓋不可勝數。是以羣下人人惴恐、皆日日以冀、朝不謀夕。其熒惑・巫祝、交致祥瑞、以為至急。昔舜・禹躬稼、至聖之コ、猶或矢誓衆臣、予違女弼、或拜昌言、常若不及。況晧凶頑、肆行殘暴、忠諫者誅、讒諛者進、虐用其民、窮淫極侈、宜腰首分離、以謝百姓。既蒙不死之詔、復加歸命之寵、豈非曠蕩之恩、過厚之澤也哉!

 評に曰く、孫亮は童孺であって賢臣の輔弼が無く、替位して終えなかったのも必然の勢いであった。孫休は旧愛宿恩によって濮陽興・張布を任用し、良才を抜擢・昇進して改絃易張しなかった。志善・好学であっても乱を救うのに何の益があろうか? 又た既に廃されていた孫亮に死に場所を与えなかったのは、友于の義(兄弟の親密さ)が薄かったのだ。
孫皓は刑に淫して濫用し、隕斃流黜(殺害・流謫)した者は数える事ができない。このため群下の人々は惴恐し、皆な日々に(生存を)冀い、朝にも夕の事は謀れなかった。熒惑・巫祝が交々祥瑞を致したのも緊急である事を示したものだった。昔、舜・禹は躬ずから稼ぎ、至聖の徳でも猶お衆臣と矢誓して 「予が違えたら汝らが弼けよ」 とし、或いは昌言を拝し、常に及ばないようであったという。ましてや孫皓は凶頑で、肆(ほしいまま)に残暴を行ない、忠諫者を誅し、讒諛者を昇進させ、その民を虐用し、淫を窮め奢侈を極め、腰首を分離して百姓に謝すのが妥当だった。不死の詔を蒙り、復た帰命侯の寵を加えられたのは、曠蕩の恩ではなくて過厚の恩沢ではなかろうか![1]
[1]孫盛曰く、古えに君主を立てたのは、群黎(万民)を司牧(領導)する為であり、そのため必ず仰いでは乾坤に適い、覆っては万物を寿ぐのだ。もし淫虐をほしいままにして群生に酷虐を被らせれば、天はこれを殛(誅)し、その祚を剿絶し、南面の尊位を奪い、独夫としての刑戮を加えるのだ。そのため湯・武の抗鉞には不順を犯したとの譏りは無く、漢高の奮剣にも失節の議は無かったのだ。何故か? (時の君主は)まことに四海に酷讐とされ、人神ともに斥ける所だったからである。。ましてや孫皓は罪として逋寇を為し、虐は辛・癸(桀・紂)以上で、素旗に梟首しても猶お寃魂に謝すには足りず、洿室荐社して暴迹を紀してもなお足りないのである。しかし顕命によって優待し、寵錫を頻りに加えた事は、どうして天罰を龔(謹)んで行なう伐罪弔民の義だと云えようか? これによって僭逆は懲らされず、凶酷が戒められる事が莫いと知れるのである。『詩』は云っている 「かの譖人を取って、豺虎に投畀(投与)せん」 と。譖ですら猶おこうなのである。まして僭虐ならどうか? しかも神旗が電掃し、兵が偽窟に臨み、理として窮し勢いに迫られてから命を請うたのである。不赦の罪である事は既に彰らかで、三駆(三度の釈放)の義も又た通用せず、権道の極みからしても亦た認められるものではない。(要約すると「孫皓殺せ!」)
辨亡論
陸機著辨亡論、言呉之所以亡、其上篇曰:「昔漢氏失御、奸臣竊命、禍基京畿、毒徧宇内、皇綱弛紊、王室遂卑。於是羣雄蜂駭、義兵四合、呉武烈皇帝慷慨下國、電發荊南、權略紛紜、忠勇伯世。威稜則夷羿震蕩、兵交則醜虜授馘、遂掃清宗祊、蒸禋皇祖。於時雲興之將帶州、飆起之師跨邑、哮闞之羣風驅、熊羆之族霧集、雖兵以義合、同盟戮力、然皆包藏禍心、阻兵怙亂、或師無謀律、喪威稔寇、忠規武節、未有若此其著者也。武烈既沒、長沙桓王逸才命世。弱冠秀發、招攬遺老、與之述業。神兵東驅、奮寡犯衆、攻無堅城之將、戰無交鋒之虜。誅叛柔服而江外厎定、飭法修師而威コ翕赫、賓禮名賢而張昭為之雄、交御豪俊而周瑜為之傑。彼二君子、皆弘敏而多奇、雅達而聰哲、故同方者以類附、等契者以氣集、而江東蓋多士矣。將北伐諸華、誅鉏干紀、旋皇輿於夷庚、反帝座于紫闥、挾天子以令諸侯、清天歩而歸舊物。戎車既次、羣凶側目、大業未就、中世而隕。用集我大皇帝、以奇蹤襲於逸軌、叡心發乎令圖、從政咨於故實、播憲稽乎遺風、而加之以篤固、申之以節儉、疇咨俊茂、好謀善斷、東帛旅於丘園、旌命交于塗巷。故豪彦尋聲而響臻、志士希光而影騖、異人輻輳、猛士如林。於是張昭為師傅、周瑜・陸公・魯肅・呂蒙之疇入為腹心、出作股肱;甘寧・淩統・程普・賀齊・朱桓・朱然之徒奮其威、韓當・潘璋・黄蓋・蔣欽・周泰之屬宣其力;風雅則諸葛瑾・張承・歩隲以聲名光國、政事則顧雍・潘濬・呂範・呂岱以器任幹職、奇偉則虞翻・陸績・張温・張惇以諷議舉正、奉使則趙咨・沈珩以敏達延譽、術數則呉範・趙達以禨祥協コ、董襲・陳武殺身以衞主、駱統・劉基彊諫以補過、謀無遺算、舉不失策。故遂割據山川、跨制荊・呉、而與天下爭衡矣。魏氏嘗藉戰勝之威、率百萬之師、浮ケ塞之舟、下漢陰之衆、羽楫萬計、龍躍順流、鋭騎千旅、虎歩原隰、謀臣盈室、武將連衡、喟然有呑江滸之志、一宇宙之氣。而周瑜驅我偏師、黜之赤壁、喪旗亂轍、僅而獲免、收迹遠遁。漢王亦馮帝王之號、率巴・漢之民、乘危騁變、結壘千里、志報關羽之敗、圖收湘西之地。而我陸公亦挫之西陵、覆師敗績、困而後濟、絶命永安。續以濡須之寇、臨川摧鋭、蓬籠之戰、孑輪不反。由是二邦之將、喪氣摧鋒、勢衂財匱、而呉藐然坐乘其弊、故魏人請好、漢氏乞盟、遂躋天號、鼎峙而立。西屠庸蜀之郊、北裂淮漢之涘、東苞百越之地、南括羣蠻之表。於是講八代之禮、蒐三王之樂、告類上帝、拱揖羣后。虎臣毅卒、循江而守、長戟勁鎩、望飆而奮。庶尹盡規於上、四民展業于下、化協殊裔、風衍遐圻。乃俾一介行人、撫巡外域、臣象逸駿、擾於外閑、明珠瑋寶、輝於内府、珍瑰重跡而至、奇玩應響而赴、輶軒騁於南荒、衝輣息於朔野、齊民免干戈之患、戎馬無晨服之虞、而帝業固矣。大皇既歿、幼主蒞朝、奸回肆虐。景皇聿興、虔修遺憲、政無大闕、守文之良主也。降及歸命之初、典刑未滅、故老猶存。大司馬陸公以文武熙朝、左丞相陸凱以謇諤盡規、而施績・范慎以威重顯、丁奉・鍾離斐以武毅稱、孟宗・丁固之徒為公卿、樓玄・賀劭之屬掌機事、元首雖病、股肱猶良。爰及末葉、羣公既喪、然後黔首有瓦解之志、皇家有土崩之釁、暦命應化而微、王師躡運而發、卒散於陳、民奔于邑、城池無藩籬之固、山川無溝阜之勢、非有工輸雲梯之械、智伯灌激之害、楚子築室之圍、燕子濟西之隊、軍未浹辰而社稷夷矣。雖忠臣孤憤、烈士死節、將奚救哉?夫曹・劉之將非一世之選、向時之師無曩日之衆、戰守之道抑有前符、險阻之利俄然未改、而成敗貿理、古今詭趣、何哉?彼此之化殊、授任之才異也。」
其下篇曰:「昔三方之王也、魏人據中夏、漢氏有岷・益、呉制荊・揚而奄交・廣。曹氏雖功濟諸華、虐亦深矣、其民怨矣。劉公因險飾智、功已薄矣、其俗陋矣。呉桓王基之以武、太祖成之以コ、聰明睿達、懿度深遠矣。其求賢如不及、恤民如稚子、接士盡盛コ之容、親仁罄丹府之愛。拔呂蒙於戎行、識潘濬于係虜。推誠信士、不恤人之我欺;量能授器、不患權之我逼。執鞭鞠躬、以重陸公之威;悉委武衞、以濟周瑜之師。卑宮菲食、以豐功臣之賞;披懷虚己、以納謨士之算。故魯肅一面而自託、士燮蒙險而效命。高張公之コ而省游田之娯、賢諸葛之言而割情欲之歡、感陸公之規而除刑政之煩、奇劉基之議而作三爵之誓、屏氣跼蹐以伺子明之疾、分滋損甘以育淩統之孤、登壇慷慨歸魯肅之功、削投惡言信子瑜之節。是以忠臣競盡其謀、志士咸得肆力、洪規遠略、固不厭夫區區者也。故百官苟合、庶務未遑。初都建業、羣臣請備禮秩、天子辭而不許、曰:『天下其謂朕何!』宮室輿服、蓋慊如也。爰及中葉、天人之分既定、百度之缺粗修、雖醲化懿綱、未齒乎上代、抑其體國經民之具、亦足以為政矣。地方幾萬里、帶甲將百萬、其野沃、其民練、其財豐、其器利、東負滄海、西阻險塞、長江制其區宇、峻山帶其封域、國家之利、未見有弘於茲者矣。借使中才守之以道、善人御之有術、敦率遺憲、勤民謹政、循定策、守常險、則可以長世永年、未有危亡之患。或曰、呉・蜀脣齒之國、蜀滅則呉亡、理則然矣、夫蜀蓋藩援之與國、而非呉人之存亡也。何則?其郊境之接、重山積險、陸無長轂之徑;川阨流迅、水有驚波之艱。雖有鋭師百萬、啓行不過千夫;軸艫千里、前驅不過百艦。故劉氏之伐、陸公喩之長虵、其勢然也。昔蜀之初亡、朝臣異謀、或欲積石以險其流、或欲機械以御其變。天子總羣議而諮之大司馬陸公、陸公以四瀆天地之所以節宣其氣、固無可遏之理、而機械則彼我之所共、彼若棄長技以就所屈、即荊・楊而爭舟楫之用、是天贊我也、將謹守峽口以待禽耳。逮歩闡之亂、憑保城以延彊寇、重資幣以誘羣蠻。于時大邦之衆、雲翔電發、縣旌江介、築壘遵渚、襟帶要害、以止呉人之西、而巴漢舟師、沿江東下。陸公以偏師三萬、北據東坑、深溝高壘、案甲養威。反虜踠跡待戮、而不敢北闚生路、彊寇敗績宵遁、喪師大半、分命鋭師五千、西禦水軍、東西同捷、獻俘萬計。信哉賢人之謀、豈欺我哉!自是烽燧罕警、封域寡虞。陸公沒而潛謀兆、呉釁深而六師駭。夫太康之役、衆未盛乎曩日之師、廣州之亂、禍有愈乎向時之難、而邦家顛覆、宗廟為墟。嗚呼!人之云亡、邦國殄瘁、不其然與!易曰『湯武革命順乎天』、玄曰『亂不極則治不形』、言帝王之因天時也。古人有言、曰『天時不如地利』、易曰『王侯設險以守其國』、言為國之恃險也。又曰:『地利不如人和』、『在コ不在險』、言守險之由人也。呉之興也、參而由焉、孫卿所謂合其參者也。及其亡也、恃險而已、又孫卿所謂舍其參者也。夫四州之氓非無衆也、大江之南非乏俊也、山川之險易守也、勁利之器易用也、先政之業易循也、功不興而禍遘者何哉?所以用之者失也。故先王達經國之長規、審存亡之至數、恭己以安百姓、敦惠以致人和、ェ沖以誘俊乂之謀、慈和以給士民之愛。是以其安也、則黎元與之同慶;及其危也、則兆庶與之共患。安與衆同慶、則其危不可得也;危與下共患、則其難不足卹也。夫然、故能保其社稷而固其土宇、麥秀無悲殷之思、黍離無愍周之感矣。」
 
 
孫皓を再考してみたい
 『三國志』孫皓伝を本伝だけで読んだところ、孫皓のイメージが思いのほかマイルドになったので、これまで“南朝型暴君”の先駆者としてしか意識してこなかった孫皓を再評価してみました。あくまでも印象にそれっぽい説明を付けただけに過ぎません。

■ 孫皓の政治姿勢 ■

 為政者を語る上で、これが無いと始まりません。無い人もいますし、諸書の孫皓もその様に扱われています。しかし諸王としての評判は悪くなく、即位した後の自意識の強さを見るに、少なくとも孫権の嫡孫である事を強く意識していた事は予想でき、その後の言動を見るに孫権時代の再現を理想としていたように思えます。諸王として評判が良くても、孫亮・孫休時代には孫皓が帝位に即ける可能性は限りなく低かったので、猫を被っていたという評価は当りません。
 孫皓が孫権を強く意識していた事は、陸凱との書簡の遣り取りに顕著に出ています。


■ 当時の政治情勢 ■

 孫皓は、蜀漢の滅亡と交州の離叛に孫休の急死という、なかなか厄介な事態に直面して迎立されました。「国難には年長者」という、一見当然そうに見える理由も確かにあった事でしょうが、他に、孫氏の一強という孫権以来の政策の修正が指導層の間で確認された結果かと思われます。 事態は挙国挙国体制を必要とし、その為には土着大姓の全面的な協力が不可欠だったからです。
 例えば孫亮・孫休の時代、著姓の活動の場は地方にほぼ限定されていますが、孫皓の時代になると一転して大政にも口出しをしてきます。特に陸凱などは正面切って孫皓に噛みついています。これは濮陽興ら指導部が著姓と協議して連合政体への回帰を確認し、その象徴として孫和の嫡子を奉迎したのではないかと思われます。孫和は二宮の変では著姓側に支持されていましたから。まあ、この点はもっと傍証を集めなきゃです。
 兎も角、指導部が旧体制への回帰を確認したのに、迎立された孫皓が大帝の時代を理想としたんですから、衝突は必至です。案外、濮陽興と張布の処刑も、著姓との妥協を図った事が原因だったのかも知れません。孫皓としては一旦大人しくなっていた大姓を威圧する必要もあり、年齢的な引け目もありって強権的に進めてしまい、結果として“暴君孫皓”像が出来てしまったのではないかと考えてしまいます。


■ 暴君像の創造 ■

 歴史の素材としての孫皓は、どの史書にとっても孫呉の末主として暴君であった方が好都合です。特に晋以降の史書にとって、孫呉は初の江南政権であると同時に、最期が不甲斐無かったばかりに社会的に北人の優位を確立してしまった困った政権でもありました。江南人にとっては、「我らのご先祖様は頑張ったけど孫皓が台無しにした」 というシナリオが一番好都合です。幸い、孫皓には暴君に加工できる逸話が多く、非難しすぎても咎める人はいません。諸史の孫皓伝は例えるなら、曹芳や曹髦の伝記を、両者を廃する際に上呈された勧進表を元に構築したようなものです。孫皓に狂気を感じるとすれば、瑞祥に対する脊髄反射的な改元と大赦の連発ですが、当時の政体としての孫呉のヤバさを示す以上のものではありません。
 孫皓は集権体制の再構築に強引さはありましたが、放恣で無責任な暴君ではなく、政治の理想を追求して著姓と対立した結果として暴君になってしまったのではないかと思われます。


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