阿布思 〜753
鉄勒の有力首長。東突厥の西面にあって大可汗に亜ぐ勢威があり、東突厥が瓦解すると唐に帰順して李献忠と賜名され、奉信王に封じられて朔方節度使の下で部衆を安堵された。
天宝8年(749)に哥舒翰の吐蕃遠征に従い、兼朔方節度使李林甫の薦挙もあって朔方節度副使に進んだが、東隣の安禄山と権勢を争い、同11年に安禄山が起した契丹遠征の真意を猜疑して離叛し、回紇や安禄山に敗れて西奔した。
以後もしばしば北辺を侵し、北庭都護に応じたカルルクに攻滅された。
このため李林甫は朔方節度使を辞し、死後に通謀を誣されて一切の官爵を剥奪された。
韋堅 〜746?
京兆万年の人。準外戚として仕官して開元25年(737)に長安令となり、漕運の手腕を認められて天宝元年(742)に陝郡太守・水陸転運使に進み、渭南に運河を開鑿して嘉賞された。
李林甫とは妻女同士が姉妹でありながらその政敵の李適之とも親しく、妹婿の太子も李林甫と不和だった為、玄宗の寵任も相俟って李林甫に忌まれ、天宝3年に刑部尚書に叙されると多くの使職が除かれた。
同5年に太子との謀叛が誣されて江夏員外別駕に貶され、太子が韋氏の離縁を求めた事もあって嶺南に流謫された上で自殺を命じられた。
このとき李林甫に承旨する者が絶えずに一種の疑獄となり、李林甫の死まで続いたという。
于志寧 588〜665
雍州高陵の人。字は仲謐。西魏の八柱国于謹の曾孫。
隋末の戦乱で棄官したのち長安を占拠した李淵に投じ、李世民に随って秦王府十八学士に数えられ、太宗が即位すると中書侍郎に進んで太子・事を兼ねた。
しばしば太宗を諫めて勲貴の刺史世襲などを断念させ、太子承乾を諫める事も多かった為に廃太子の際にも処分を免れて侍中に進んだ。
高宗が即位すると宰輔に列して燕国公に進封され、間もなく尚書左僕射・同中書門下三品に進み、659年には三品のまま太子太師に転じた。皇后問題では沈黙を貫いて官職を保ったが、長孫無忌の処刑に連坐して栄州刺史に遷され、華州刺史に転じた翌年に歿した。
王縉 700〜781
太原祁の人。字は夏卿。王維の弟。夙に王維と共に文名が高く、科挙に及第したのち侍御史・武部員外郎などを歴任し、安史の乱では太原少尹として李光弼を輔けて憲部侍郎を加えられた。
764年には同中書門下平章事・弘文崇賢館大学士とされたが、間もなく李光弼が歿した為に陝東の3節度使を兼ねて東都留守に転じた。
その後も節度使の死に応じて幽州節度使や河東節度使に任じられて混乱を収拾し、大暦5年(770)に魚朝恩が誅されると門下侍郎・同中書門下平章事に直されて宰相に列した。
不空に帰依して代宗にも仏教を勧めるなど篤信家だった一方で権勢と才知を恃んで倨傲でもあり、又た元載との結託や国政を等閑にした仏教への傾斜は多くの史書で批難されている。
大暦12年(777)に元載に連坐して江南の括州刺史に出され、楊炎の復帰と伴に太子賓客・留司東都に直された。
温大雅 〜629
幷州祁の人。字は彦弘。夙に薛道衡に卿相の才と称されて東宮学士に列し、隋末の戦乱を避けて隠棲したが、李淵の挙兵に参じて記室参軍とされ、文書の事を典った。
李淵が登極した際の儀礼を制訂して黄門侍郎に叙され、陝東道大行台・工部尚書などを歴任し、太宗が即位すると礼部尚書・黎国公とされた。
温彦博 573〜636 ▲
幷州祁の人。字は大臨。温大雅の弟。
隋末、幽州総管羅芸に属して総管府長史とされ、李淵の即位後に中書侍郎に進んだ。
突厥防衛に失敗して罷免されたが、太宗が即位すると登用されて630年には中書令・虞国公とされ、636年に尚書右僕射に転じた。
牛仙客 675〜742
州鶉觚の人。
軍事や幹事の才に長じて河西節度使の下僚として累進し、開元16年(728)頃には河西節度使に進んだ。
物資の整備や用度の節減などで能名があり、開元24年には李林甫の薦挙もあって工部尚書・同中書門下三品に任じられ、これを強諫した張九齢は宰相を罷免された。
李林甫への追従で保身を図って自ら決裁する事がなく、翌年にも監察御史周子諒・刑部尚書李適之から非器として該奏されたが、周子諒は廷杖で殺され、周を長安尉から抜擢した張九齢も連坐して荊州に流され、牛仙客は侍中・兵部尚書に進められた。
高力士が罷免を進言した事もあったと伝えられるが、天宝元年(742)には左相(侍中)に至った。
許遠 709〜757
杭州塩官の人。許敬宗の曾孫。
事務に通じて軍旅の経験もあり、安禄山が叛くと睢陽(河南省商丘)太守・本州防禦使とされた。
張巡らと10ヶ月の篭城の末に尹子希に敗れて擒われ、安慶緒が洛陽を放棄する際に殺された。
厳武 726〜765
華州華陰の人。字は季鷹。8歳の時、父が寵愛する妾を鉄槌で撃ち殺したという。
安史の乱では玄宗に随って入蜀して諫議大夫とされ、給事中・剣南節度使・京兆尹を歴任したが、宰相には進めず、再び剣南節度使に転じたときに吐蕃の侵攻を撃退した。倨傲厳酷で上下と和すことができなかったが、四川に流浪してきた杜甫を庇護する一面もあった。
蕭穎士 717〜768
蘭陵の人。字は茂挺。梁武帝の弟/鄱陽忠烈王恢の裔と称した。開元23年(735)に科挙に及第したが、李林甫に忤って広陵参軍に遷され、天宝末期に致仕して嵩山の太室山に隠遁した。安禄山が叛くといちじ官軍に加わったものの仕官はせず、汝南で歿した。
韓愈に先行する古文運動の嚆矢と評価されている。
張柬之 625〜706
襄陽の人。字は孟将。太学で経史を学んで三礼に精通し、689年に賢良方生科の第一等として監察御史に就き、武氏と突厥との通婚を諫めて合蜀二州刺史に出された後、狄仁傑の薦挙で司刑少卿・秋官侍郎に直され、鳳閣(中書)侍郎に進んだ。
705年に武后の病臥に乗じて廬陵王(中宗)を東宮に入れ、張易之兄弟を斬った後に武后に退位を逼り、中宗の復辟を成功させて中書令・監修国史・漢陽郡王とされた。
間もなく武三思に排斥され、新州司馬として歿した。
張旭
蘇州呉県の人。字は伯高。草書・楷書に長じ、長安で顔真卿・杜甫・賀知章らと交わり、王羲之の書風のみを絶対視する時流に異を唱え、公孫大娘の剣舞に接して“狂草”を創始したと伝えられる。
飲酒して酔う毎に号呼狂走して書を為し、その奇矯な行動から世に“張顛”と呼ばれ、神筆と自称したものの時人には認められなかったが、後代の文宗からは李白の詩、裴旻の剣舞と共に“三絶”と絶賛された。
陳希烈 〜757
宋州の人。
老荘学への通暁を以て玄宗に進講して開元19年(731)に集賢院学士となり、李林甫の薦挙で天宝5年(746)に同中書門下平章政事とされ、次いで左丞相兼兵部尚書に進んで許国公に封じられた。
李林甫の死後はその追誣にも加わったが、太子太師に遷されて知政事から除かれ、長安を陥した安禄山に降って宰相とされた。
翌年(757)に洛陽が回復されると百官を率いて謝罪し、旧臣として自殺が認められた。
杜審言 645〜708
襄州襄陽の人。字は必簡。西晋の杜預の裔。
670年に進士に及第し、後に武后に詩を絶賛されて蘇味道らと共に“文章四友”と称された。
矜持が強く尊大だった一方で権勢に対しては低頭し、中宗が復辟すると張易之の党人としてベトナムの峰州に流され、赦免の後に国子館主簿・修文館直学士となった。
五言律詩を得意とし、宋之問らを措いて当代の冠たるを自任した。
裴耀卿 681〜743
絳州聞喜の人。字は煥之。
神童と称されて8歳で童子試に応じ、20歳で任官してより睿宗・玄宗に信任された。
開元21年(733)に黄門侍郎・同中書門下平章事とされて創設された江淮河南転運使を兼ね、翌年には洛陽への漕運を直達法から転搬法に改めた。
同24年に尚書左丞・参知政事に転じ、天宝元年(742)に尚書左僕射に至った。
武恵妃 〜737
貞順皇后とも。玄宗の寵妃。武則天の従弟/武攸止の娘。父の死後に後宮に入り、玄宗の寵を独占した。
開元12年(724)に王皇后が廃されると恵妃に昇され、玄宗の求めで一時は立后の議もあったが、武氏の再興を厭う廷臣の反対で廃議された。
高力士と結んで人事にも容喙し、李林甫の抜擢にも力があり、開元24年には実子の寿王瑁の為に李林甫らと結んで太子瑛ら諸王を誣して粛清する事に成功したが、程なく病死した。
李瑁 〜775 ▲
寿王。玄宗の第18子。武恵妃の子。諸兄が夭逝していた為に寧王(玄宗の兄)宅で養育された。
開元13年(725)に寿王に封じられると益州大都督・剣南節度大使を遙領し、同23年に開府儀同三司を加えられて瑁と改名した。
李瑁の立太子を謀る武恵妃らによって太子が廃黜されたが、恵妃の急死と高力士らの反対で異母兄の李璵が立てられ、又た開元28年には王妃の楊玉環が玄宗の後宮に納れられた。安史の乱が生じると玄宗に随って蜀に逃れた。
封常清 〜755
蒲州猗氏の人。祖父の配流で安西に遷り、貧苦の後に都知兵馬使高仙芝の従者となって軍才を認められ、高仙芝が安西四鎮節度使に叙された天宝6年(747)に節度判官とされ、四鎮の実務を統轄して出征の毎に後事を託された。
軍律を重んじて高仙芝に厚く信任され、高仙芝が河西節度使に転じた翌年(752)に安西副大都護・安西四鎮節度使に叙され、次いで北庭都護・伊西節度使に転じた。
安禄山が叛くと范陽・平盧節度使とされて洛陽に進駐したが、新兵での防戦を託されて惨敗し、後続の高仙芝と共に潼関に退いたのち敗戦を問責されて高仙芝と共に処刑された。
李恪 〜653
呉王。太宗の第3子。煬帝の外孫にあたる。文武に秀でて益州大都督・斉州都督を歴任し、太子が廃された際には継嗣にも擬されたが、長孫無忌の反対で実現しなかった。
高宗が即位すると司空・梁州都督に叙されたものの長孫無忌に忌避され、房遺愛・高陽公主らに連坐して処刑された。
660年に鬱林王に追封され、705年に司空を追贈された。
高陽公主 〜653 ▲
太宗の娘。長孫皇后に養育され、長じて房遺愛(房玄齢の次子)に降嫁したが、嫡嗣の房遺直を敵視し、遺産分配の際の横恣や暴言を以て太宗に叱責された。
淫通していた僧侶を殺した太宗を怨恚していたとも伝えられ、高宗の即位後に房遺愛に随って房州に遷り、荊王元景(太宗の弟)の擁立に参画したものの房遺直を誣告した為に逆に告発されて謀叛が露見し、承旨して呉王恪の参与を証言したが、翌年に李元景・李恪らとともに自殺を命じられた。後に合浦公主に追封された。
李係 〜762
越王。代宗の異母弟。759年に天下兵馬元帥とされて安史の乱に対処した。粛宗が不予になると太子の廃黜を謀る張皇后と通じて李輔国粛清の兵変を謀ったが、露見して殺された。
李弘 651?〜675
高宗の廃太子。高宗と武后との長子。異母兄の李忠が廃嫡された後に太子とされた。
文学を愛好し、性も寛和だった為に人望が篤かったが、精神に変調をきたして素行が乱れ、高宗が天皇の称号を用いた翌年に頓死した。
蕭淑妃の両娘の降嫁を武后に勧めて嚇怒されてより病んだとも伝えられる。
李承乾 618〜645
字は高明。太宗の嫡長子。太宗の即位と伴に太子とされたが、次第に逸楽に傾いたために疎まれ、実弟の魏王泰と嗣位を争った。魏王暗殺に失敗した後、謀叛が露見して貞観17年(643)に除籍のうえ黔州(重慶市彭水)に流された。
李泰 619〜652 ▲
魏王。字は恵褒。太宗の第4子(嫡出の第2子)。
揚州大都督、雍州牧・左武候大将軍などを歴任した。
文学を好み、又た実兄でもある太子が素行を損った事もあって太宗に殊遇された結果、太子とは互いに朋党を以て諍い、太子が廃嫡されると後継に推されたものの外叔父の長孫無忌らに争権の質を危ぶまれ、実弟の晋王(高宗)が太子とされた。
間もなく順陽王に改封されて均州に遷され、貞観21年(647)に濮王に進封され、高宗が即位すると開府が認められた。
李重潤 683〜701
中宗の嫡長子。生誕直後に皇太孫とされたが、中宗と共に廃され、後に邵王に封じられた。
妹夫婦(永泰郡主・武延基)と張易之兄弟の亶権を批判した事が密告されて謀叛に枉陥され、自殺を命じられた。復辟した中宗によって懿徳太子と追諡された。
李重俊 707
中宗の第3子。中宗復辟の翌年(706)に太子とされたが、韋后の実子ではなく、又た安楽公主・武三思らに廃黜を謀られ、挙兵して武三思の殺害には成功したものの玄武門で敗れ、終南山で殺された。
李重茂 697〜710/〜713
殤帝とも。中宗の末子。中宗が暗殺されると温王から迎立された。
韋后への譲位の準備に立てられたもので、1ヶ月程で太平公主・臨淄郡王らの兵変が成功した為に廃され、温王として歿した。
李貞 627〜688
越王。太宗の第8子。
騎射に長じただけでなく文史にも通じ、徐州都督・揚州都督・相州刺史などを歴任し、高宗の時に太子太傅・豫州刺史とされた。
中宗が廃されると韓王・魯王ら宗室諸王と結んで奪権を図ったが、688年に露見して諸王の多くが捕縛され、挙兵して上蔡の攻略には成功したものの月余で平定されて自殺した。
李元嘉 619〜688 ▲
韓王。高祖の第11子。生母(宇文昭儀/宇文述の子)の門地によって寵遇され、潞州刺史・右領軍大将軍を歴任し、た。好学で万巻の蔵書を有し、蒐集した古碑から古文字の異同を解析したという。
高宗の死後に太尉に進位されて絳州刺史に遷され、越王の謀叛に与したが、挙兵前に洛陽で捕縛されて自殺を命じられた。
李霊夔 〜688 ▲
魯王。高祖の第19子。
好学で草書・隸書に巧みで、音律にも通じて夙に声望があり、同母兄の韓王と殊に親しかった。幽州都督・兗州都督・隆州刺史・絳州刺史などを歴任し、邢州刺史の時に越王らの謀叛に与したものの、失敗を予見した子の范陽王李藹に告発され、振州に流されて自殺した。
李璘 〜757
永王。玄宗の第16子。
幼時に母と死別して異母兄の忠王(粛宗)に養われた。
安禄山が叛くと江陵郡大都督とされて山南東路・嶺南・黔中・江南西路の四道節度使を兼ねたが、江淮の賦税を截留して私兵を募るなど自立の形勢を強め、成都への帰覲の勅にも遵わず、756年に呉郡の江南東路採訪使李希言と衝突して挙兵した。
李璘を牽制する為に淮南節度使とされていた高適ら3節度使が安陸に進駐し、翌年には河北招討判官李銑も揚子県に南下した為に恐懼して潰走し、大庾嶺で洪州刺史の江西採訪使皇甫侁に殺された。