三國志修正計画

三國志卷二十七 魏志二十七/徐胡二王傳 (二)

王基

 王基字伯輿、東萊曲城人也。少孤、與叔父翁居。翁撫養甚篤、基亦以孝稱。年十七、郡召為吏、非其好也、遂去、入琅邪界游學。黄初中、察孝廉、除郎中。是時青土初定、刺史王淩特表請基為別駕、後召為祕書郎、淩復請還。頃之、司徒王朗辟基、淩不遣。朗書劾州曰:「凡家臣之良、則升于公輔、公臣之良、則入于王職、是故古者侯伯有貢士之禮。今州取宿衞之臣、留祕閣之吏、所希聞也。」淩猶不遣。淩流稱青土、蓋亦由基協和之輔也。大將軍司馬宣王辟基、未至、擢為中書侍郎。

 王基、字は伯輿。東萊曲城の人である。若くして孤となり、叔父の王翁と居住した。王翁は撫養すること甚だ篤く、王基も亦た孝を以て称えられた。齢十七のとき郡が召して吏としたが、その好む処ではなかったので去り、琅邪の界内に入って游学した。黄初中、孝廉に察(あ)げられて郎中に叙された。この時、青土(青州)は定まったばかりで、刺史の王淩は特に上表して王基を請うて別駕とした。後に召されて秘書郎とされても、王淩が復た請うたので還った。

 うっかりスルーする処でしたが、黄初中の事として 「青州が定まったばかり」 と申しております。王淩が青州刺史になったのは222年の洞浦の役の戦功によるものですが、王淩伝には 「是時海浜乗喪乱之後、法度未整。」 とあるだけで、青州混乱の具体例はありません。文帝紀の黄初六年(225)に 「利成郡兵蔡方等以郡反、殺太守徐質。遣屯騎校尉任福・歩兵校尉段昭與青州刺史討平之。」 とあり、この青州刺史は恐らく王淩で、王基が王淩に請われた直前の兵乱もこの利成の乱の後だったと思われます。ちなみに、利成の乱の指導者は、諸葛誕伝では唐咨となっています。

暫くして司徒王朗が王基を辟したが、王淩は遣らなかった。王朗は上書して青州を弾劾するには 「凡そ家臣の良き者は公輔に升(のぼ)り、公臣の良き者は王職に入るもの。これゆえ古えの侯伯には貢士の礼[※]があったのだ。今、青州は宿衛の臣を取り、秘閣の吏を留めているが、稀に聞くような行為だ」 。

※ 周代、諸侯が天子に人材を薦挙した事。貢は挙の同意。

王淩は猶おも遣らなかった。王淩は青土に称賛を流したが、さだめし亦た王基による協和の輔けに由来するのだろう。大将軍司馬懿が王基を辟し、至る前に抜擢して中書侍郎とした。

 明帝盛脩宮室、百姓勞瘁。基上疏曰:「臣聞古人以水喩民、曰『水所以載舟、亦所以覆舟』。故在民上者、不可以不戒懼。夫民逸則慮易、苦則思難、是以先王居之以約儉、俾不至於生患。昔顏淵云東野子之御、馬力盡矣而求進不已、是以知其將敗。今事役勞苦、男女離曠、願陛下深察東野之弊、留意舟水之喩、息奔駟於未盡、節力役於未困。昔漢有天下、至孝文時唯有同姓諸侯、而賈誼憂之曰:『置火積薪之下而寢其上、因謂之安也。』今寇賊未殄、猛將擁兵、檢之則無以應敵、久之則難以遺後、當盛明之世、不務以除患、若子孫不競、社稷之憂也。使賈誼復起、必深切于曩時矣。」

 明帝が盛んに宮室を修築し、百姓は労瘁した。王基が上疏するには 「臣の聞く処では、古人は水を民に喩えて “水は舟を載せるものであり、亦た舟を覆すものである”と。ゆえに民の上に在る者は、戒懼せずにはおれないものです。民は安逸なら易(安寧)を思慮し、苦しければ難(騒乱)を思うもの。これによって先王は約倹に暮らし、患を生じるに至りませんでした。昔、顔淵が云うには“(馭者の)東野子の御し方は、馬の力が尽きても進むを求めて已まぬ。これを以て敗れることを知った”と。今、力役は労苦であり男女は離曠(離隔)しております。願わくば陛下、深く東野子の弊を察し、舟水の喩えに留意し、奔駟(駟は馬車曳き用の馬)が力尽きぬうちに息ませ、力役を困憊せぬうちに節制されん事を。昔、漢は天下を有し、孝文帝の時に至ってただ同姓の諸侯だけがありましたが、賈誼は彼らを憂えて “積薪の下に火を置いてその上で寝み、これを安泰だと謂う”と。今、寇賊は未だ殄(つ)きず、猛将は兵を擁しておりますが、これを検察すれば敵に対応する者が無くなり、これが久しければ後に難事を遺す事になりましょう。盛明の世に患を除く事に務めないまま、もし子孫が競(つと)めなくなれば、社稷の憂いとなります。(その時になって)賈誼が再び起きれば、必ず曩時(往時)より深く切責しましょう」

 散騎常侍王肅著諸經傳解及論定朝儀、改易鄭玄舊説、而基據持玄義、常與抗衡。遷安平太守、公事去官。大將軍曹爽請為從事中郎、出為安豐太守。郡接呉寇、為政清嚴有威惠、明設防備、敵不敢犯。加討寇將軍。呉嘗大發衆集建業、揚聲欲入攻揚州、刺史諸葛誕使基策之。基曰:「昔孫權再至合肥、一至江夏、其後全j出廬江、朱然寇襄陽、皆無功而還。今陸遜等已死、而權年老、内無賢嗣、中無謀主。權自出則懼内釁卒起、癰疽發潰;遣將則舊將已盡、新將未信。此不過欲補定支黨、還自保護耳。」後權竟不能出。時曹爽專柄、風化陵遲、基著時要論以切世事。以疾徴還、起家為河南尹、未拜、爽伏誅、基嘗為爽官屬、隨例罷。

 散騎常侍王粛は諸経の伝解(注釈)を著し、同時に朝廷儀礼を論じ定め、鄭玄の旧説を改易したが、王基は鄭玄の義を拠持し、常に(王粛と)抗衡(対抗)した。安平太守に遷り、公事によって官を去った。
 安平太守王基は管輅と共に『易』を論じること数日に達し、大いに喜楽して管輅に語って言うには 「倶に卜に善いと聞いていたが、共に清論を定められた。君は一時代の異才であり、きっと竹帛に(名を)上らせよう」 。又た曰く 「私は若い頃より『易』を読むのを好み、これを玩味すること久しかったが、神明の天数の妙なる事がこれほどとは思わなかった」 。ただちに管輅に従って『易』の天文からの推論を学んだ。管輅は変化の象を開陳し、吉凶の兆を演繹する毎に、未だ嘗て纖微・委曲(詳細)にその精神(精妙神秘)を説き尽くさぬ事はなかった。王基曰く 「君の言葉を聞き始めた時は、どうにか得られそうだったが、終には皆な混乱してしまう。これは天授のもので、人力ではない」 と。ここに『周易』を蔵(しま)い、(『易』への)思慮を絶ち、再びは卜筮の事を学ばなかった。 (管輅伝注『管輅別伝』)
大将軍曹爽が請うて従事中郎とし、転出して安豊太守となった。郡は呉寇に接しており、為政は清厳にして威恵があり、防備を明確に設けたので、敵は犯そうとしなかった。討寇将軍を加えられた。
 呉が嘗て大いに軍兵を徴発して建業に集め、揚州に攻め入らんと揚声(喧伝)した時、揚州刺史諸葛誕が王基に対策させた。王基 「昔、孫権は両度合肥に至り、一度江夏に至り、その後に全jが廬江に出戦し、朱然が襄陽に寇しましたが、皆な功無く還りました。今、陸遜らは已に死に、孫権も年老い、内に賢嗣は無く、中に謀主はありません。孫権自ら出戦すれば内なる釁がにわかに起り、癰疽が潰れるのを懼れる事になりましょう。将軍を遣ろうにも旧将は已に尽きており、新将には未だ信頼性がありません。これでは支党を補い定め、還って自身を保護(守備)するほか無いでしょう」 。後に孫権は竟に出戦できなかった。時に曹爽が権柄を専らにし、風化(風俗教化)は陵遅(漸衰)し、王基は『時要論』を著して世事を切誡した。疾によって徴還され、家で起用されて河南尹となったが、未だ拝さぬうちに曹爽が誅に伏し、王基は嘗て曹爽の官属だったので例に随って罷免された。

 ちなみに王粛は曹爽らによる執政をあからさまに批判していたので、曹爽が王基の取り込みを図ったのは 「敵の敵は味方」 の発想によるのでしょう。王基と王粛は学問思想でこそ対立していましたが、国政を担うのはどの層かという点についての乖離は少なかったようです。

 其年為尚書、出為荊州刺史、加揚烈將軍、隨征南王昶撃呉。基別襲歩協於夷陵、協閉門自守。基示以攻形、而實分兵取雄父邸閣、收米三十餘萬斛、虜安北將軍譚正、納降數千口。於是移其降民、置夷陵縣。賜爵關内侯。基又表城上昶、徙江夏治之、以偪夏口、由是賊不敢輕越江。明制度、整軍農、兼脩學校、南方稱之。時朝廷議欲伐呉、詔基量進趣之宜。基對曰:「夫兵動而無功、則威名折於外、財用窮於内、故必全而後用也。若不資通川聚糧水戰之備、則雖積兵江内、無必渡之勢矣。今江陵有沮・漳二水、漑灌膏腴之田以千數。安陸左右、陂池沃衍。若水陸並農、以實軍資、然後引兵詣江陵・夷陵、分據夏口、順沮・漳、資水浮穀而下。賊知官兵有經久之勢、則拒天誅者意沮、而向王化者益固。然後率合蠻夷以攻其内、精卒勁兵以討其外、則夏口以上必拔、而江外之郡不守。如此、呉・蜀之交絶、交絶而呉禽矣。不然、兵出之利、未可必矣。」於是遂止。

 その年に尚書となり、転出して荊州刺史となり、揚烈将軍を加えられ、征南将軍王昶に随って呉を撃った。王基は別れて夷陵に歩協を襲い、歩協は門を閉じて守った。王基は攻撃の形勢を示し、実際には兵を分けて雄父の邸閣(備蓄庫)を取り、米三十余万斛を収め、安北将軍譚正を捕虜とし、投降者数千口を納れた。ここにその降民を移し、夷陵県を置いた。爵関内侯を賜った。
 王基は又た上表して上昶(湖北省孝感市安陸西北)に築城し、江夏の治所をこれに徙し、こうして夏口に偪り、これによって賊は軽々しくは長江を越えようとしなくなった。制度を明らかにし、軍と農を整え、同時に学校を修め、南方はこれを称えた。時に朝廷は討議して呉を伐とうと考え、詔して王基に進赴の宜しきを量らせた。王基が対えるには
「兵を動かしても功が無ければ、外に対する威名は折れ、国内では財用(経済)が窮するもの。ゆえに万全を確定させた後に(軍を)用いるのです。川を通し糧を聚めるといった水戦の備えをしなければ、兵を江内に積んだところで必ず渡江できるという形勢にはなりません。今、江陵には沮・漳の二水があり、膏腴(肥沃)の田を灌漑すること千を以て数えています。安陸の左右は陂池によって肥沃です。もし水陸両軍が揃って農耕し、軍資を充実させ、然る後に兵を引率して江陵・夷陵に詣り、分隊が夏口に拠り、沮水・漳水に順って水路を資源に穀糧を浮かべて下れば、賊は官兵に経久の形勢があると知り、天誅を拒む者は意気を沮喪し、王化に向う者は益々固くなりましょう。然る後に蛮夷を合わせ率いてその内部を攻め、精卒勁兵で外から討てば、夏口より上流は必ず抜け、江外(江南)の郡は守れますまい。この様になれば呉・蜀の交通は断絶し、交通が絶たれれば呉は禽となりましょう。そうしなければ、出兵の利が必ずあるとは限りません」
こうして中止された。

 司馬景王新統政、基書戒之曰:「天下至廣、萬機至猥、誠不可不矜矜業業、坐而待旦也。夫志正則衆邪不生、心靜則衆事不躁、思慮審定則教令不煩、親用忠良則遠近協服。故知和遠在身、定衆在心。許允・傅嘏・袁侃・崔贊皆一時正士、有直質而無流心、可與同政事者也。」景王納其言。

 司馬師が新たに政事を統べると、王基が書状でこれを戒めるには 「天下は至って広大で、万機は至って猥雑(煩雑)で、まことに矜矜業業(小心謹慎)として坐して朝日を待たねばならぬほどです。そも志が正しければ諸邪は生じず、心が静寧なら諸事は躁がず、思慮を審らかに定めれば教令は煩繁とならず、忠良を親しく用いれば遠近とも協和し服するもの。ゆえに知る、遠きと和するのはその身に在り、人々を定めるのはその心に在りと。許允傅嘏袁侃崔賛は皆な当代の正士であり、直しい気質があって時流に流される心は無く、政事を同じくすべき者であります」 。司馬師はその言葉を嘉納した。

 高貴郷公即尊位、進封常樂亭侯。毌丘儉・文欽作亂、以基為行監軍・假節、統許昌軍、適與景王會於許昌。景王曰:「君籌儉等何如?」基曰:「淮南之逆、非吏民思亂也、儉等誑脅迫懼、畏目下之戮、是以尚羣聚耳。若大兵臨偪、必土崩瓦解、儉・欽之首、不終朝而縣於軍門矣。」景王曰:「善。」乃令基居軍前。議者咸以儉・欽慓悍、難與爭鋒。詔基停駐。基以為:
 「儉等舉軍足以深入、而久不進者、是其詐偽已露、衆心疑沮也。今不張示威形以副民望、而停軍高壘、有似畏懦、非用兵之勢也。若或虜略民人、又州郡兵家為賊所得者、更懷離心;儉等所迫脅者、自顧罪重、不敢復還、此為錯兵無用之地、而成姦宄之源。呉寇因之、則淮南非國家之有、譙・沛・汝・豫危而不安、此計之大失也。軍宜速進據南頓、南頓有大邸閣、計足軍人四十日糧。保堅城、因積穀、先人有奪人之心、此平賊之要也。」
基屡請、乃聽進據㶏水。既至、復言曰:
 「兵聞拙速、未覩工遲之久。方今外有彊寇、内有叛臣、若不時決、則事之深淺未可測也。議者多欲將軍持重。將軍持重是也、停軍不進非也。持重非不行之謂也、進而不可犯耳。今據堅城、保壁壘、以積實資虜、縣運軍糧、甚非計也。」
景王欲須諸軍集到、猶尚未許。基曰:「將在軍、君令有所不受。彼得則利、我得亦利、是謂爭城、南頓是也。」遂輒進據南頓、儉等從項亦爭欲往、發十餘里、聞基先到、復還保項。時兗州刺史ケ艾屯樂嘉、儉使文欽將兵襲艾。基知其勢分、進兵偪項、儉衆遂敗。欽等已平、遷鎮南將軍、都督豫州諸軍事、領豫州刺史、進封安樂郷侯。上疏求分戸二百、賜叔父子喬爵關内侯、以報叔父拊育之コ。有詔特聽。

 高貴郷公が尊位に即くと、常楽亭侯に進封された。毌丘倹・文欽が乱を作すと、王基は行監軍・仮節となり、許昌の軍を統べ、適(い)って司馬師と許昌で会同した。司馬師 「君が籌(はか)るに毌丘倹らはどうなるか?」。王基 「淮南の叛逆は吏民が乱を思っての事ではなく、毌丘倹らが誑脅迫懼し、目下の殺戮を畏れてのもので、このため尚(いま)だに群聚しているだけです。もし大兵で臨み偪れば必ず土崩瓦解し、毌丘倹・文欽の首は朝のうちに軍門に懸けられましょう」。司馬師 「善し」 。かくして王基に命じて前軍に居らせた。議者が咸な、毌丘倹・文欽は慓悍で、鋒を争うのは困難だとしたので、詔して王基に停駐させた。王基が思うには

「毌丘倹らが軍を挙って深入しながら久しく進まないのは、その詐偽が已に露れ、衆心が猜疑から沮喪しているからだ。今、示威の形勢を示して民の望みに副おうともせずに軍を停止して塁を高くしているのは、畏懦するに似ており、兵を用いる態勢とはいえない。もし虜略された民人や、又は州郡の兵家で賊に得られた者がいれば、更めて離心を懐くだろうし、毌丘倹らに迫脅された者は、自ら罪の重さを顧み、再びは還ろうとはすまい。これは兵を用(はたら)けぬ地に錯(お)き、姦宄の源を形成させるようなものだ。呉寇がこれに乗ずれば、淮南は国家の保有でなくなり、譙・沛・汝・豫は危殆に瀕して安定しなくなり、この計略は大いなる失策となる。軍は速やかに進んで南頓(河南省周口市淮陽)に拠るべきだ。南頓には大邸閣があり、計るに軍人四十日分の糧に足りる。堅城に保(こも)り、積穀に因り、人に先んじて人の戦意を奪う事。これこそ賊を平らげる要諦である」

王基がしばしば請願したので、進んで㶏水に拠ることを聴許した。至った後に復た上言するには

「兵事には拙速を聞いた事はあっても、未だ巧遅を久しくしたのは覩た事がありません。まさに今、外には彊寇があり、内には叛臣があり、もしすぐに決しなければ、事態の深浅は測る事ができません。議者の多くは将軍に持重(自重)させようとしています。将軍が持重するのは構いませんが、軍を停めて進まないのはいけません。持重とは行なわない事の謂いではなく、進んでも犯してはならないという事なのです。今、堅城に拠って壁塁に保り、積材を賊虜の資(かて)とし、軍糧を懸運(遠輸)するのはまったく計略といえるものではありません」

司馬師は諸軍の集到を須(ま)ちたく思ったので、猶おも許認しなかった。王基は 「将は軍に在っては君令であっても受けない事がある。彼が得れば利となり、我が方が得ても亦た利となる、これを争城の地と謂い、南頓とはこれである」 。かくてただちに進んで南頓城に拠った。毌丘倹らは項より亦た争って往こうとしたが、進発すること十余里で王基が先に到ったと聞き、復た還って項に保った。時に兗州刺史ケ艾が楽嘉に駐屯しており、毌丘倹は文欽に兵を率いてケ艾を襲わせた。王基はその勢力が分れたと知ると、兵を進めて項に偪り、毌丘倹の軍兵はかくて敗れた。文欽らが平定されると、鎮南将軍に遷り、都督豫州諸軍事・領豫州刺史となって安楽郷侯に進封された。上疏して二百戸を分け、叔父の子の王喬に爵関内侯を賜わる事で叔父による拊育の徳に報いる事を求めた。詔があって特に聴許された。

 諸葛誕反、基以本官行鎮東將軍、都督揚・豫諸軍事。時大軍在項、以賊兵精、詔基斂軍堅壘。基累啓求進討。會呉遣朱異來救誕、軍於安城。基又被詔引諸軍轉據北山、基謂諸將曰:「今圍壘轉固、兵馬向集、但當精脩守備以待越逸、而更移兵守險、使得放縱、雖有智者不能善後矣。」遂守便宜上疏曰:「今與賊家對敵、當不動如山。若遷移依險、人心搖蕩、於勢大損。諸軍並據深溝高壘、衆心皆定、不可傾動、此御兵之要也。」書奏、報聽。大將軍司馬文王進屯丘頭、分部圍守、各有所統。基督城東城南二十六軍、文王敕軍吏入鎮南部界、一不得有所遣。城中食盡、晝夜攻壘、基輒拒撃、破之。壽春既拔、文王與基書曰:「初議者云云、求移者甚衆、時未臨履、亦謂宜然。將軍深算利害、獨秉固志、上違詔命、下拒衆議、終至制敵禽賊、雖古人所述、不是過也。」文王欲遣諸將輕兵深入、招迎唐咨等子弟、因釁有蕩覆呉之勢。基諫曰:「昔諸葛恪乘東關之勝、竭江表之兵、以圍新城、城既不拔、而衆死者太半。姜維因洮上之利、輕兵深入、糧餉不繼、軍覆上邽。夫大捷之後、上下輕敵、輕敵則慮難不深。今賊新敗於外、又内患未弭、是其脩備設慮之時也。且兵出踰年、人有歸志、今俘馘十萬、罪人斯得、自歴代征伐、未有全兵獨克如今之盛者也。武皇帝克袁紹於官渡、自以所獲已多、不復追奔、懼挫威也。」文王乃止。以淮南初定、轉基為征東將軍、都督揚州諸軍事、進封東武侯。基上疏固讓、歸功參佐、由是長史司馬等七人皆侯。
 是歳、基母卒、詔祕其凶問、迎基父豹喪合葬洛陽、追贈豹北海太守。

 諸葛誕が反くと、王基を本官のまま行鎮東将軍・都督揚豫諸軍事とした。時に大軍は項(周口市)に在ったが、賊兵が精鋭であるとして、詔して王基には軍を斂めて塁を堅くさせた。王基は累ねて啓(もう)して進討せん事を求めた。折しも呉が朱異を遣って諸葛誕を救援に来させ、安城(河南省駐馬店市平輿)に駐軍した。王基が又た詔を被るには、諸軍を引率して転じて北山に拠るようにと。王基が諸将に謂うには 「今、囲塁は一層堅固となり、兵馬は集まりつつあり、但だ守備を精修してここで逃逸を待つべきなのだ。更めて兵を移して険要を守り、(敵の)放縦を可能にしては、智者であろうと善後策は施せぬ」 。かくて現状維持の便宜を上疏するには 「今、賊家と敵対し、動かざること山の如くあるべきです。もし遷移して険要に依拠すれば人心は揺蕩(動揺)し、大勢の上でも大いなる損いとなりましょう。諸軍が揃って(現在の)深溝高塁に拠れば衆心は皆な定まり、傾動しません。これぞ兵を御す要諦です」 。書状が上奏されると、報書にて聴許された。
大将軍司馬昭は丘頭に進屯し、部隊を分けて囲を守らせ、各々に統御を置いた。王基は城東城南二十六軍を督しており、司馬昭は軍吏に命じて鎮南将軍の属界に入らせても、一切の独断をさせなかった。(賊軍は)城中の糧食が尽きると昼夜に亘って塁を攻めたが、王基はそのつど拒ぎ撃って破った。寿春が抜けた後、司馬昭は王基に書状を与えて 「当初は議者が云云として(軍を)移す事を求める者が甚だ衆く、未だ臨履(臨場)していない時で、(私も)亦たそうすべきだと考えた。将軍は深く利害を計算し、独り固く志を秉り、上は詔命に違え、下は衆議を拒んだが、終には制敵禽賊するに至った。古人が(諸書で)述べたものでもこれ以上のものはあるまい」 。
 司馬昭は諸将を遣って軽装兵で深入させて唐咨らの子弟を招迎し、釁に乗じて呉の国勢を蕩覆したく思った。王基が諫めるには 「昔、諸葛恪は東関の勝利に乗じ、江表の兵を竭くして合肥新城を囲みましたが、城は抜けず、軍兵の大半が死にました。姜維は洮上での勝利に乗じて軽兵で深入しましたが、糧餉が継続せずに軍は上邽で覆滅しました。大捷の後というのは上下とも敵を軽んじるもので、敵を軽んじれば難事への配慮は深くならぬもの。今、賊は国外で敗れたばかりで、又た(魏の)内患も未だ弭(や)まず、これぞ備えを修めて思慮を設けるの時であります。しかも出兵して踰年(越年)し、人には帰志が生じております。今、俘虜と馘耳[※]は十万であり、罪人(諸葛誕)を得、歴代の征伐でも未だ兵を全うして独克(一方的勝利)すること今回より盛大なものはありません。武皇帝が官渡で袁紹に克った時、自ら獲たものが已に多いとして再びは奔る者を追わなかったのも、武威が挫かれるのを懼れたのです」 。

※ 馘/カク。斬首の証明として携行する為に斬った左耳の事。

司馬昭はかくして止めた。淮南を初めて平定した事で王基を転じて征東将軍・都督揚州諸軍事とし、東武侯に進封した。王基は上疏して固く謙譲し、功を参佐に帰し、これによって長史・司馬ら七人が皆な封侯された。

 諸葛誕伝では、速攻を主張する輿論に反して司馬昭は専守防衛を実行し、これが結果的に叛乱を長期化させず、損害も最小限に抑えられたとして司馬昭の突出した判断力を讃えています。司馬昭にこの戦略を採らせた王基は諸葛誕平定の首勲者であり、戦後に敢えて行賞の一部を辞退したのは謙譲の美徳というより保身なのでしょう。

 この歳、王基の母が卒し、詔してその凶問(凶報)を秘匿させ、王基の父の王豹の喪を迎えて洛陽に合葬させ、王豹に北海太守を追贈した。

 甘露四年、轉為征南將軍、都督荊州諸軍事。常道郷公即尊位、摎W千戸、并前五千七百戸。前後封子二人亭侯・關内侯。
 景元二年、襄陽太守表呉賊ケ由等欲來歸化、基被詔、當因此震蕩江表。基疑其詐、馳驛陳状。且曰:「嘉平以來、累有内難、當今之務、在于鎮安社稷、綏寧百姓、未宜動衆以求外利。」文王報書曰:「凡處事者、多曲相從順、鮮能確然共盡理實。誠感忠愛、毎見規示、輒敬依來指。」後由等竟不降。
 是歳基薨、追贈司空、諡曰景侯。子徽嗣、早卒。咸熙中、開建五等、以基著勳前朝、改封基孫廙、而以東武餘邑賜一子爵關内侯。晉室踐阼、下詔曰:「故司空王基既著コ立勳、又治身清素、不營産業、久在重任、家無私積、可謂身沒行顯、足用勵俗者也。其以奴婢二人賜其家。」

 甘露四年(259)、(王昶の死によって)転じて征南将軍・都督荊州諸軍事となった。常道郷公が尊位に即くと食邑千戸を増し、前と併せて五千七百戸となった。前後して子の二人が亭侯・関内侯に封じられた。
 景元二年(261)、襄陽太守が上表するには、呉賊のケ由らが来て帰化を欲していると。王基が被った詔には、これに乗じて江表を震蕩すべしと。王基は詐術を疑い、駅馬を馳せて実状を陳べ、加えて 「嘉平以来、内難が累なり、当今の務めは社稷を鎮め安んじ、百姓を綏寧する事に在ります。未だ軍兵を動員して利を外に求めるのは妥当ではありません」 。司馬昭の報書(返書)には 「凡そ事に対処する者とは、多くが(意を)曲げて従順となってしまい、理と実とを共に尽して確然とできる者は鮮(少)ない。まことに忠と愛に感動し、規範と訓示を見る毎に、そのたび敬んで旨に依るものである」 と。後にケ由らは竟に降らなかった[1]
 この歳に王基が薨じると、司空を追贈して景侯と諡した。子の王徽が嗣いだが、早くに卒した。咸熙中(264〜65)に五等爵が開建されると、王基の前朝での勲が顕著だった事から、王基の孫の王廙を改封し、東武侯の残余の食邑を一子に賜り爵関内侯とした。晋室が踐阼すると、詔を下して 「故司空王基は徳を著し勲を立て、又た自身を清素に治め、産業を営まず、久しく重任に在りながら家には私積とて無く、身を没して行ないを顕したと謂うべきで、用きは世俗の者を励ますに充分だった。奴婢二人をその家に賜うものである」
 
[1] 司馬彪の『戦略』に王基のこの事が載っているが、本伝より詳細である。
―― 景元二年春三月、襄陽太守胡烈が上表するには 「呉賊のケ由・李光ら及び同謀の十八屯が帰化を欲し、将の張呉・ケ生を遣り、併せて質任を送って参りました。期日を定めて郡の軍に命じて長江に臨んで迎抜したく存じます」 。大将軍司馬昭が啓聞(上聞)した。征南将軍王基への詔には 「諸軍を分け、王烈には万人を督させて直ちに沮水に往かせよ。荊州は義陽の南に駐屯する宜城の兵は、書状を承けて夙に進発している。もしケ由ら期日通りに到るなら、これによって江表は震蕩するに違いない」 と。王基は賊が詐降して官兵を誘致するのではと疑い、駅馬を馳せて司馬昭を制止し、ケ由らには疑うべき実状があると説き 「しばらくは清澄にし、重兵を挙げてこれに応じて深入するのは適宜ではありません」 と。又た
「夷陵の東道は車を御さねばならず、赤壁に至ってようやく沮水を渡れます。西道は箭谿口に出てから平土に赴けます。皆な山地で険峻かつ狭隘で、竹木は叢蔚(鬱蒼)とし、にわかに要害が出現しても弩も馬も陳列でません。今の季節は筋角(の湿化)によって弩は弱く、水は潦として降っております。(このたびの事は)盛農の務めを廃して確実を期し難い利を徼(もと)めており、これは危うい事であります。昔の(曹爽の)子午の役では、兵は行くこと数百里にして霖雨に遇い、橋閣が破壊したので後続の糧は腐敗し、前軍は懸隔の地で欠乏しました。姜維は深入して輜重を待たなかったので士衆は飢餓し、軍は上邽で覆滅しました。文欽・唐咨は呉の重兵を挙りながら寿春で昧利(貪利)し、身は没して返れませんでした。これらは皆な近ごろの鑒戒たる事です。嘉平以来、内難が累なっており、当今の宜しきは社稷を鎮安して上下を撫寧し、農事に力めて本業に務め、百姓を懐柔する事で、未だに軍兵を動かして国外に利を求めるべきではありません。これを得ても多しとするに足らず、これを失えば威重を損傷する事になりましょう」。
司馬昭は累ねて王基の書状を得た事で心中に疑念を生じた。尋いで諸軍のうち已に途上にある者に、一時的に所在で停駐して後の節度を待つよう命じた。王基は又た司馬昭に上言するには 「昔、漢高祖は酈生の説を納れて六国の裔を封じようとしましたが、張良の謀議によって悟り、追って印章を銷鎔しました。私の謀慮は浅短で、まことに留侯には及びませんが、亦た襄陽太守にも酈食其の誤謬があることを懼れるのです」 。司馬昭はここに遂に軍の戒厳を罷め、後にケ由らは果して降らなかった。
 

 評曰:徐邈清尚弘通、胡質素業貞粹、王昶開濟識度、王基學行堅白、皆掌統方任、垂稱著績。可謂國之良臣、時之彦士矣。

 評に曰く:徐邈は清尚にして弘通の士で、胡質の平素の業は貞粋。王昶は見識と度量で開済(始めた事を達成)し、王基は学・行とも堅実清白だった。いずれも方面の任を掌統し、称賛を垂れ業績は顕著だった。国の良臣、時の彦士(俊才)と謂ってよかろう。

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