三國志修正計画

三国志卷三十 魏志三十/烏丸鮮卑東夷傳 (三)

[1] 氐人には、従来より久しく王がいる。漢が益州を開いて武都郡を置き、その種人を排除してより、山谷の間に分れ逃竄し、或いは(武都郡の)福禄(隴南市成県)、或いは(右扶風の)汧(宝鶏市隴県)・(漢陽の)隴(天水市清水)の左右(近傍)にいる。その種族は単一ではなく、槃瓠[※]の後裔を称し、或る者は青氐と呼号され、或る者は白氐と呼号され、或る者は蚺氐と呼号される。これは恐らく蟲(人以外の生物)の類いとして中国に居り、人がその服の色から名としたのであろう。

※ 帝堯の先代である帝嚳(高辛氏)の飼い犬の名。主人の憂患である蛮族の首領を討ち取り、褒美に主人の娘を与えられて多くの子を得た事から、帝堯が対処に苦しんだ三苗や、東漢の南患となった武陵蛮など、南方異族の祖となったと伝えられる。三苗は雲夢文化の主人とも、の前身とも、ミャオ族の原種とも目される。

自身は盍稚と呼号し、各々に王侯がおり、多くは中国から封拝(封爵や叙任)を受けている。近くは去る建安中(196〜220)、興国氐王の阿貴・白項氐王の千萬は各々が部落万余を擁し、十六年(211)に至り、馬超に従って乱を為した。馬超が破れた後、阿貴は夏侯淵に攻滅され、千萬は西南の蜀に入ったが、その部落は去れずに皆な降った。国家はその前後の両端にいる者を分けて徙し、扶風・美陽に置いた。今の安夷・撫夷の二部の護軍が典領しているのがこれである。そのもとより善を守った者は、分れて天水・南安の界内に留まり、今の広魏郡が守領しているのがこれである。その習俗として、言語は中国とは同じでなく、羌や雑胡と同じで、各々には姓があり、姓(の有りようは)は中国の姓と同様である。衣服は青・絳(真紅)を尚ぶ。世俗は織布に能く、田種に善く、豕・牛・馬・驢・騾を畜養している。婦人が嫁す時は袵露を著せるが、縁飾の制は羌のものに似ており、袵露は中国の袍に似ている。皆な編髮している。多数が中国語を知っているが、中国と雑居しているからである。種人の帳落に還っている間は、氐語を用いる。嫁娶の制は羌に似ており、これは恐らく昔の所謂る西戎として街・冀・豲道にいた者達であろう。今は郡国に都統されているとはいえ、古くからの王侯がその虚落(集落)にいる。又た故の武都の地の陰平街の左右にも、亦た万余落がある。
 貲虜はもとは匈奴であり、匈奴は奴婢の名称を貲とする。始め建武年間(25〜56)、匈奴が衰えて奴婢を分去すると、(奴婢は)金城・武威・酒泉の北の黒水・西河の東西に亡匿し、水草を逐って畜牧し、涼州に鈔盜した。部落は次第に多くなって数万となった。東部鮮卑とは同じではない。その種人は単一ではなく、大胡がおり、丁令がおり、羌と雑居している者もいるが、その由来はもとは逃亡した奴婢だからである。漢・魏の交代期、その大人に檀柘がおり、死後、その枝分した大人が南下して広魏・令居の界隈の近傍におり、禿瑰がしばしば叛攻し、涼州に殺された。今は劭提がおり、或る者は降来し、或る者は遁去し、常に西州の道中の患となっている。
 燉煌・西域の南山の中、婼羌より西の葱領に至る数千里には、月氏の余種の葱茈羌・白馬羌・黄牛羌がおり、各々に酋豪がおり、北の諸国と接しているが、その道里の広狭は分らない。伝聞では、黄牛羌には各々の種類があり、孕むこと六月で生まれ、南は白馬羌と鄰接している。西域諸国は、漢初に道が開通し、その時は三十六があり、後に分れて五十余となった。建武より以来、更めて相い呑滅し、今は二十道[※]となっている。

※ 国ではなく道なのは、曲りなりにも中国の羈縻支配下にある為かと思われます。道の規模は県と同じで、異民族が多かったり軍政を行なっている地に設けられました。

燉煌の玉門関より西域に入り、前むには二道があり、今は三道ある。玉門関より西出し、婼羌を経て西に転じ、葱領を越え、県度を経て大月氏に入るのが南道とされる。玉門関より西出し、都護井を発して三隴沙の北頭を回り、居盧倉を経て、沙西井より西北に転じ、龍堆を過ぎ、故楼蘭に到り、西に転じて亀茲に詣り、葱領に至るのを中道としている。玉門関より西北に出て、横杭を経て、三隴沙および龍堆を避けて五船の北に出て、車師の界内の戊己校尉の治める高昌に到り、西に転じて亀茲で中道に合するのを新道とする。凡そ西域が産出するのは、前史が已に具詳しており、今はゆえに略説(省略)する。南道を西行した且志国・小宛国・精絶国・楼蘭国は皆な鄯善に併属している。戎盧国・扞彌国・渠勒国・皮山国は皆な于ゥに併属している。罽賓国・大夏国・高附国・天竺国は皆な大月氏に併属している。

 各ルートのイメージが掴めたでしょうか?未知の地名が多すぎて私は掴めませんでした。崑崙山脈の北麓沿いが南道、玉門関から真直ぐ西進して鄯善を経由して亀茲に至るのが中道、トゥルファンを経て天山山脈南麓沿いに進むのが新道かと。

 臨児国は、浮屠の経云ではその国王が浮屠(仏陀=釈迦)を生んだ。浮屠は太子だった。父は屑頭邪、母は莫邪と云った。浮屠は身に黄衣を服し、髮は青きこと青絲の如く、乳(産毛)は青く、蛉(瞳)の赤きこと銅の如し。始め莫邪は白象を夢に見て孕み、生まれるに及んでは母の左脅(左脇)より出で、生まれた時には髪が結われ、地に堕ちるや七歩を行けた。この国は天竺城の中にある。天竺には又た神人がおり、名は沙律。昔、漢哀帝の元寿元年(B1)、博士弟子の景盧が大月氏王の使者の伊存から浮屠経を口受されたが、復立という者がその人である。浮屠が記載する臨蒲塞・桑門・伯聞・疏問・白疏閨E比丘・晨門は皆な弟子の呼号である。浮屠の記載と中国の老子経とは相い出入(重複)しているが、恐らく老子が西へ出関し、西域を過ぎて天竺で胡人に教えたのだ。浮屠に属する弟子の別号には、合わせて二十九あり、詳しくは載せられず、ゆえにこの様に略載した。
 車離国は一名を礼惟特、一名を沛隸王といい、天竺の東南三千余里にあり、その地は卑溼(低湿)かつ暑熱である。その王は沙奇城で治め、別城として数十あり、人民は怯弱。月氏・天竺が撃って服属させた。その地は東西南北が数千里で、人民は男女とも皆な身長一丈八尺、象・橐駞(駱駝)に乗って戦い、今は月氏が使役・徴税している。
 盤越の一名は漢越王で、天竺の東南数千里にあり、益州とは相い近く、国人の小ささは中国人と等しく、蜀人の賈(商人)が至っているらしい。南道は西を極めてから、東南に転じた処で尽きる。
 中道を西行した処の尉梨国・危須国・山王国は皆な焉耆に併属し、姑墨国・温宿国・尉頭国は皆な亀茲に併属している。髓国・莎車国・竭石国・渠沙国・西夜国・依耐国・満犂国・億若国・楡令国・損毒国・休脩国・琴国は皆な疏勒に併属している。これより以西は、大宛・安息・条支・烏弋である。烏弋の一名は排特。この四国は次々と西にあり、もとよりの国であって増損していない。前世では誤謬して条支は大秦の西に在りとしていたが、今や実際には東にある。前世では又た誤謬して安息より彊いとしたが、今や更めて役属(隷属)しており、安息西界と呼号されている。前世では又た誤謬して弱水は条支の西に在りとしたが、今、弱水は大秦の西にある。前世では又た誤謬して条支より西行すること二百余日が日の入る所に近いとされたが、今は大秦より西方が日の入る所に近い。
 大秦国(ローマ帝国)の一号(一名)は犂靬で、安息・条支(シリアもしくはメソポタミア)の西の大海の西にあり、安息の界内の安谷城より乗船し、海を西に直截(直進)し、風利(順風)に遇えば二月で到り、風遅なら或いは一歳、無風なら或いは三歳かかる。その国は海の西に在り、ゆえに俗にこれを海西国と謂う。その国に出源する大河があり、西にも又た大海がある。海西国には遅散城があり、(その)国下(城下)より直北して烏丹城に至り、西南して又た一大河を渡るが、乗船すること一日で通過する。西南して又た一大河を渡り、(これも)一日で通過する。凡そ大都が三つあり、卻(ところが)安谷城より陸道を真直ぐ北行して海北に之(ゆ)き、復た真直ぐ西行して海西に之き、復た真直ぐ南行して烏遅散城を経由し、一大河を渡るが、乗船すること一日にして通過する。海を繞って周迴し、凡そ大海を渡ること六日にしてその国(海西国)に到る。

 よー解らないので、敢えて現行の原文の句読点を踏襲しました。まず国都と遅散城と烏丹城それぞれがどう絡むのかが解りません。そして安谷城から北上した場合のルートも後半が特にややこしい。筑摩本では安谷城をシリア西岸のアンティオキア、遅散城をアナトリア南岸のタルソス、烏丹城をその北東のアダナとしていますが、これに従うと却って混乱します。実際、パルティアには地中海岸に支配を確立した実績が無いので、安谷城は中国の百度百科が比定するイラクのユーフラテス河口の方が正しいかもです。因みに遅散城と烏遅散城が同じなのかどうかも不明。現在の地図を参照すると、安谷城からの海路は紅海ルート、陸路は黒海ルートの様に思え、情報提供者がわざと短距離ルートを隠したようにも感じます。

国には小城邑が合わせて四百余あり、東西南北は数千里。その王は河海の浜側で治め、石を以て城郭としている。その土地には松・柏・槐・梓・竹・葦・楊柳・梧桐・百草がある。民俗は田に五穀を種え、乗騎として馬・騾・驢・駱駝を畜う。桑蚕(養蚕)する。世俗には奇幻の士が多く、口中から火を出し、自ら縛って自ら解き、十二の丸を跳ねること巧妙である。その国には常主はおらず、国中に災異があると、ただちに更めて賢人を立てて王とし、もとの王を生かして放逐し、王も亦た怨もうとはしない。人の身長は大きく平正(均整)で、中国人に似てはいるが胡服している。自ら本来は中国と一別し、常に中国に使者を通じたいが、安息が(仲介交易の)利を図るので通過できないと云っている。人々は胡の書法に能い。その制度は、公私宮室とも屋を重ね、旌旗や撃鼓、白蓋の小車、郵駅(駅伝)の亭を置くのは中国と同様である。安息より海北を繞ってその国に到るが、人民は相い属(つら)なり、十里で一亭、三十里で一置を設け、終に盗賊はいない。ただ猛虎・獅子の害があり、道行きは群れねば通過できない。その国では小王数十を置き、その王の治める城は周回すること百余里、官曹や公文書がある。王には五宮あり、一宮ごとの間隔は相い去ること十里。王は平旦(明け方)に一宮で事を聴き、日暮に至って一宿し、明日に復た(別の)一宮に至り、五日で一周する。三十六将を置き、議事では毎(つね)に一将でも至らねば会議しない。王の出行には常に従者に一韋嚢を持って随わせ、建白する者がいれば、その辞述を受けて嚢中に投じ、宮に還ってから省みて決理する。水晶で宮柱および器物を作る。弓・矢を作る。別枝(分家)を封じた小国に、澤散王・驢分王・且蘭王・賢督王・復王・于羅王などがあり、その他の小国は甚だ多くて一々詳細にはできない。細絺を産出する。金銀で銭を作り、金銭一は銀銭十に相当する。織成(紋様織)の細布を産し、水羊(アワシ羊?)の毳(柔毛)を用いると言い、海西布と名付ける。この国では六畜は皆な水に産出し、或いは羊毛を用いるだけでなく、木皮や野繭を用いて糸を作るとも云い、織成の氍毹・毾登毛・罽帳の属(たぐい)も皆な好く、その色は又た海東の諸国が作ったものより鮮やかである。又た常に中国の中国の絹糸を得て利とし、解いて胡綾とし、ゆえにしばしば安息の諸国と海中で交市する。海水は苦く食めず、ゆえに往来する者がその国に到るのは稀である。山では玉石に次ぐ九色の石を産出し、一に青、二に赤、三に黄、四に白、五に黒、六に緑、七に紫、八に紅、九に紺である。今、伊吾の山中が九色の石を産出しているが、その類いである。陽嘉三年(134)の時、疎勒王の臣槃が海西の青石・金帯の各々一つを献上した。又た今、『西域旧図』も「罽賓・条支の諸国はg石を産出する」と云っているが、即ち玉石に次ぐものである。大秦には金・銀・銅・鉄・鉛・錫・神亀・白馬・朱髦・駭雞犀・瑇瑁・玄熊・赤螭・辟毒鼠・大貝・車渠・瑪瑙・南金・翠爵・羽翮・象牙・符采玉・明月珠・夜光珠・真白珠・虎珀・珊瑚・赤白黒緑黄青紺縹紅紫の十種の流離・璆琳・琅玕・水精・玫瑰・雄黄・雌黄・碧・五色玉・黄白黒緑紫紅絳紺 金黄 縹留黄の十種の氍毹・五色の毾登毛・五色や九色の首下毾登毛・金縷の繍・雑色の綾・金塗布・緋持布・発陸布・緋持渠布・火浣布・阿羅得布・巴則布・度代布・温宿布・五色の桃布・絳地の金織帳・五色の斗帳・一微木・二蘇合・狄提・迷迷・兜納・白附子・棊、・鬱金・芸膠・梠趨リの十二種の香を多く出す。大秦の道途は海北より陸を通り、又た海に循って南し、交趾七郡の外夷とは比(ちか)く、又た水道があって益州・永昌に通じ、ゆえに永昌は異物を産出する。前世ではただ水道がある事だけを論じて陸道の存在は知られず、今、その大略はこの通りだが、その民の人戸の数は称述できない。葱嶺より西ではこの国が最大で、諸小王を置くこと甚だ多く、ゆえに所属する大国を載録する。

 澤散王は大秦に属し、その治所は海の中央に在り、北のかた驢分に至るには水行すること半歳で、風が疾い時には一月で到る。最も安息の安谷城と相い近く、西南の大秦の都に詣る里数は不明である。驢分王は大秦に属し、その治所は大秦の都を去ること二千里。驢分城より西に之き、大秦に渡海する飛橋の長さは二百三十里で、渡海して道を西南に行き、海を繞って真直ぐ西行する。且蘭王も大秦に属す。思陶国より真直ぐ南に渡河し、それから真直ぐ西行して且蘭に之くこと三千里。道は河の南に出、それから西行し、且蘭より復た真直ぐ西行して復国に之くこと六百里。(西域)南道に復国で会同し、それから西南して賢督国に之く(南道会復、乃西南之賢督国)。且蘭・復の真直ぐ南には積石があり、積石の南には大海があり、珊瑚・真珠を産出する。且蘭・復・斯賓阿蛮の北には一つの山があり、東西に連行している。大秦海西東各有一山、皆南北行[※]

※ 中国版では「大秦・海西東」。筑摩訳では「大秦海の東西に」。大秦海とかいきなり出されても困りますが、かといって大秦と海西国はイコールなので、中国版の句読点も難ありです。よって、あちらの山脈は概ね「南北行している」程度の認識で宜しいかと。個人的にはこの全文は、東夷伝倭人条や『史記』西域伝とは違って中国人による実際の見聞録を基にしておらず、あくまで伝聞形式なので、割とファジーに解釈すればいいのでは?と考えています。

賢督王も大秦に属し、その治所を東北に去ること復まで六百里(賢督王属大秦、其治東北去復六百里)。復王も大秦に属し、その治所は于羅を東北に去って渡海すること三百四十里。于羅も大秦に属し、その治所は復の東北にあり、渡河し、于羅の東北より又た渡河し、斯羅の東北で又た渡河する。斯羅国は安息に属し、大秦と接している。大秦の西には海水があり、海水の西には河水がある。河水の西には南北に連なる大山があり、(その)西には赤水があり、赤水の西には白玉山があり、白玉山には西王母があり[※]、西王母の西には修(なが)い流沙があり、流沙の西には大夏国・堅沙国・属繇国・月氏国があり、四国の西には黒水があり、伝聞では西の極みだと。

※ 原文では「有西王母」であって「在西王母」ではないので、地名としての西王母だと思われます。
 それにしても元来、西王母の居所は中国の極西の崑崙山でしたが、中国人の見聞が広がると伴に、設定が広がった格好の例なのでしょう。大夏や月氏は本来はバクトリアを指すもので、中国と大秦の中間に在った筈ですが、両国を遠方に設定する事で、中華の境域を更に拡大させる意図が滲み出ています。


 北の(西域)新道を西行し、東且彌国・西且彌国・単桓国・畢陸国・蒲陸国・烏貪国に至り、皆な車師後部王に併属する。(車師後部)王は頼城で治め、魏はその王の壱多雑に守魏侍中を賜わり、大都尉を呼号させ、魏の王印を受けさせた。西北に転じれば烏孫康居であり、本国は(これまで)増損が無い。北烏伊別国は康居の北に在り、又た柳国があり、又た巖国がある。又た奄蔡があって一名を阿蘭とし、皆な康居と習俗を同じくする。(これらは)西は大秦と、東南は康居と接している。その国には名品たる貂が多く、水草を逐って畜牧して大沢に臨み、ゆえに時には康居に羈属するが、今は属していない。
 呼得国は葱嶺の北、烏孫の西北、康居の東北に在り、勝兵(戦兵)は万余人。畜牧に随い、好い馬を産出し、貂がいる。堅昆国は康居の西北にあり、勝兵は三万人。畜牧に随い、亦た貂が多く、好い馬がいる。丁令国は康居の北にあり、勝兵は六万人。畜牧に随い、名品たる鼠皮や白昆子・青昆子の皮を産出する。これら三国は堅昆が中央で、倶に匈奴単于庭である安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居の界を去ること三千里、西の康居王の治所を去ること八千里。或る者はこの丁令が匈奴の北丁令だとするが、北丁令は烏孫の西におり、その別種であろうか。又た匈奴の北には渾窳国があり、屈射国があり、丁令国があり、隔昆国があり、新梨国がある。(このように)北海の南に復た丁令があり、この烏孫の西の丁令がそうでないのは明白である。烏孫の長老が言うには 「北丁令には馬脛国があり、その人の音声は雁・騖に似ている。膝より以上の身・頭は人で、膝より以下には毛が生えて馬脛・馬蹄で、騎馬せずとも走ること馬のように疾く、その為人りは勇健で果敢に戦う」 と。短人国は康居の西北にあり、男女は皆な身長三尺。人衆は甚だ多く、奄蔡諸国を去ること甚だ遠い。康居の長老の伝聞では、常(とき)にこの国に渡る商人がおり、康居を去ること万余里ほどだと。 (『魏略』西戎傳』)
―― (編者の)魚豢が議すには:俗に営廷(宮中)の魚は江海の大なるを知らず、浮游(蜉蝣)の物は四季の気を知らぬと。これは何故か? その場所が小さく、その生命が短いからである。私は今、外夷や大秦諸国を氾覧(博覧)し、猶おも曠く啓蒙された如くである。ましてや鄒衍が推出したり、大易・太玄が測度する世界はどうか! 牛蹄の涔の場所に限られ、又た彭祖の様な寿命も無く、景風(薫風)に託して迅く游覧し、騕褭に載って遐観(遠望)する縁も無く、ただ労(なぐさめ)に三辰(日月星辰)を眺め、思いを八荒(八方の最果て)に飛ばすだけである。

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