劉封者、本羅侯寇氏之子、長沙劉氏之甥也。先主至荊州、以未有繼嗣、養封為子。及先主入蜀、自葭萌還攻劉璋、時封年二十餘、有武藝、氣力過人、將兵倶與諸葛亮・張飛等泝流西上、所在戰克。益州既定、以封為副軍中郎將。
※ 景帝の子/長沙定王発に始まる血統。王国自体は東漢初期に廃止されたものの、血統は臨湘県侯として同郡内に保たれた。
―― 東漢後期の順帝期に司空となった劉寿は臨湘の人なので、長沙劉氏に連なっている可能性が高く、霊帝期にも長沙人の劉囂が司空となっています。贔屓目で見れば劉封の母方はこうした名族に連なっている事になり、劉備が劉封を養子に迎えたのも、荊州の名族との関係構築を念頭に置いたものと思われ、従来の傭兵一辺倒から群雄へのシフトチェンジを示す一傍証ともなります。いずれは劉封に臨湘国を紹封させて長沙劉氏を呑みこむ心算でもあったんでしょうか。ちなみに、劉発の異母兄弟として劉備が祖とした中山靖王がおり、又た劉発の後裔に更始帝や光武帝がいます。
初、劉璋遣扶風孟達副法正、各將兵二千人、使迎先主、先主因令達并領其衆、留屯江陵。蜀平後、以達為宜都太守。建安二十四年、命達從秭歸北攻房陵、房陵太守蒯祺為達兵所害。達將進攻上庸、先主陰恐達難獨任、乃遣封自漢中乘沔水下統達軍、與達會上庸。上庸太守申耽舉衆降、遣妻子及宗族詣成都。先主加耽征北將軍、領上庸太守員郷侯如故、以耽弟儀為建信將軍・西城太守、遷封為副軍將軍。自關羽圍樊城・襄陽、連呼封・達、令發兵自助。封・達辭以山郡初附、未可動搖、不承羽命。會羽覆敗、先主恨之。又封與達忿爭不和、封尋奪達鼓吹。達既懼罪、又忿恚封、遂表辭先主、率所領降魏。魏文帝善達之姿才容觀、以為散騎常侍・建武將軍、封平陽亭侯。合房陵・上庸・西城三郡〔為新城郡、以〕達領新城太守。遣征南將軍夏侯尚・右將軍徐晃與達共襲封。達與封書曰:
古人有言:『疏不關e、新不加舊。』此謂上明下直、讒慝不行也。若乃權君譎主、賢父慈親、猶有忠臣蹈功以罹禍、孝子抱仁以陷難、種・商・白起・孝己・伯奇、皆其類也。其所以然、非骨肉好離、親親樂患也。或有恩移愛易、亦有讒闡エ閨A雖忠臣不能移之於君、孝子不能變之於父者也。勢利所加、改親為讎、況非親親乎!故申生・衞伋・禦寇・楚建稟受形之氣、當嗣立之正、而猶如此。今足下與漢中王、道路之人耳、親非骨血而據勢權、義非君臣而處上位、征則有偏任之威、居則有副軍之號、遠近所聞也。自立阿斗為太子已來、有識之人相為寒心。如使申生從子輿之言、必為太伯;衞伋聽其弟之謀、無彰父之譏也。且小白出奔、入而為霸;重耳踰垣、卒以克復。自古有之、非獨今也。
夫智貴免禍、明尚夙達、僕揆漢中王慮定於内、疑生於外矣;慮定則心固、疑生則心懼、亂禍之興作、未曾不由廢立之間也。私怨人情、不能不見、恐左右必有以濶頼ソ中王矣。然則疑成怨聞、其發若踐機耳。今足下在遠、尚可假息一時;若大軍遂進、足下失據而還、竊相為危之。昔微子去殷、智果別族、違難背禍、猶皆如斯。今足下棄父母而為人後、非禮也;知禍將至而留之、非智也;見正不從而疑之、非義也。自號為丈夫、為此三者、何所貴乎?以足下之才、棄身來東、繼嗣羅侯、不為背親也;北面事君、以正綱紀、不為棄舊也;怒不致亂、以免危亡、不為徒行也。加陛下新受禪命、虚心側席、以コ懷遠、若足下翻然内向、非但與僕為倫、受三百戸封、繼統羅國而已、當更剖符大邦、為始封之君。陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛・ケ;若二敵不平、軍無還期。足下宜因此時早定良計。易有『利見大人』、詩有『自求多福』、行矣。今足下勉之、無使狐突閉門不出。
封不從達言。
※ 孝己は殷高宗の子。伯奇は周宣王の名臣尹吉甫の子。共に讒言で殺された。
そうなったのは、骨肉が離れるのを好んだり、親親が憂患を楽しんだからではありません。恩を移し愛を易えた者や、亦た讒言してその間を間(へだ)てた者がいたからで、忠臣といえど君(の恩愛)を移す事はできず、孝子でも父を変心させられないのです。勢利が加われば親は改まって讐となるもので、ましてや親親でなければどうか! ゆえに申生・衛伋(衛宣公の太子)・禦寇(陳宣公の太子)・楚建は継ぐべき精気を稟受し、嗣立すべき正嫡でありましたが、猶おもかようになりました。今、足下は漢中王と道路の人(路ですれ違う人)に過ぎず、親族であっても骨血ではないのに勢権に拠っており、義は君臣でもないのに上位に位置し、征旅では偏軍を任される威があり、(平時に)居ては副軍将軍の称号があることは、遠近にも聞こえております。阿斗を立てて太子としてより以来、有識者は寒心を禁じ得ずにおります。申生を子輿の言葉に従わせれば、必ず太伯(の如き)になり[※]、衛伋がその弟の謀りごとを聴いておれば、(世人の)父への譏りが彰らかになる事が無かった様なものです。しかも小白は出奔した後、入国して霸者となり、重耳は垣を踰えた事で、ついには克復(復興)したのです。古えよりこうした事があり、今だけの事ではありません。※ 文王の父/季歴の長兄。父が季歴の子に期待している事を察し、季歴に位を嗣がせるべく弟の仲雍と共に江東に出奔し、呉の開祖となった。
そも智では禍を免れるのを貴び、明でも夙達さが尚ばれます。僕が揆(はか)るに、漢中王の思慮は内心では定まってあり、外に対して疑いを生じております。思慮が定まれば心が固まり、疑いが生じれば心は懼れるもので、乱禍の興作は未だ曾て廃立の問題に由来せぬものはないのです。私怨や人情とは見(あらわ)れずにはおれず、恐らくは左右の者で漢中王と間(へだ)てる者が必ずありましょう。そうなれば疑いは成って怨みを聞き、事を発すること践機(バネ?)のようになるだけです。今、足下は遠きに在り、尚お一時の暇息が可能です。もし(魏の)大軍が進めば、足下は拠るべを失って(成都に)還る事になりますが、これを竊かに危ぶんでおります。昔、微子は殷を去り、智果は宗族と別れましたが、難に違え禍に背くには猶お皆なこうしたのです[2]。今、足下が父母を棄てて人の後継となったのは礼ではありません。禍が至ろうとしているのを知りながら留まっているのは智ではありません。正しきを見ながら従わずにこれを猜疑するのは義ではありません。自ら丈夫を号しながらこの三者を為すのは、何を貴んでの事でしょうか? 足下の才を以て身を棄てて東に来れば、羅侯を継嗣する事になって親に背いた事にはなりません。北面して君主に事える事で綱紀を正せば、旧知を棄てた事にはなりません。怒って乱を致さず、その事で危亡を免れれば、徒らな行為とはなりません。加えて陛下は新たに禅命を受けたばかりで、虚心に(賢者の為に)席を側(かたよ)せており、徳を以て遠きを懐(おも)っており、もし足下が翻然として内に向えば、ただ僕と倫(ともがら)となって三百戸の封を受けて羅国の統を継ぐだけではなく、更めて大邦の符が剖かれ、始封の君となる事でしょう。陛下の大軍は金鼓を震わせ、宛・ケに転都(行幸)しようとしており、二敵が平らがねば軍は還る期日とてありますまい。足下はこの時に因んで早々に良計を定めるのが宜しいでしょう。『易』に“利は大人に見(あらわ)る”とあり、『詩』に“自ら求めれば福多し”とあり、行なわれませ。今、足下はこれに勉め、(私に)狐突が閉門して出なかったようにはさせませぬよう[※]。※ 晋の人。太子申生の狄人討伐に御者となって随い、開戦を逸る申生に身を危うくする事を諫め、同時に退位による身命の全うと国内の混乱回避を説いた。帰国後、讒言を警戒して外出しなかった。
申儀叛封、封破走還成都。申耽降魏、魏假耽懷集將軍、徙居南陽、儀魏興太守、封員郷侯、屯洵口。封既至、先主責封之侵陵達、又不救羽。諸葛亮慮封剛猛、易世之後終難制御、勸先主因此除之。於是賜封死、使自裁。封歎曰:「恨不用孟子度之言!」 先主為之流涕。達本字子敬、避先主叔父敬、改之。
※ 范蠡は勾践の謀臣として越の再興を成功させたが、勾践の猜疑心が表面化する直前に棄官して水郷に退いた。咎犯は狐偃とも。重耳の亡命に随行した五賢の一人で、前出の狐突の子。重耳が晋君として入国する直前、道中の非礼を自劾して致仕を求めた。(これを論功行賞を確約させるための言質取りだと蔑み、同僚となるのを愧じて隠棲したのが介子推)
昔、申生は至孝でありながら親に疑われ、伍子胥は至忠でありながら君に誅され、蒙恬は拓境の大功がありながら死刑に処され、楽毅は斉を破りながら讒佞に遭いました。臣は今、同様の境遇に在るのです。自らを罪人認定し、房陵・上庸を(北朝に)返上する事で自身を放逐いたします。臣は事毎に 「交際を絶てば悪声は無く、去臣には怨辞無し」 と耳にしております。臣はこの君子の教えを奉じておりますので、君王にもどうかこの事に勉めて頂きたい」 (『魏略』)最後の一句が不明。朝廷に在る時の儀礼は奉朝請に中った?
彭羕字永年、廣漢人。身長八尺、容貌甚偉。姿性驕傲、多所輕忽、惟敬同郡秦子勑、薦之於太守許靖曰:「昔高宗夢傅説、周文求呂尚、爰及漢祖、納食其於布衣、此乃帝王之所以倡業垂統、緝熙厥功也。今明府稽古皇極、允執神靈、體公劉之コ、行勿翦之惠、清廟之作於是乎始、褒貶之義於是乎興、然而六翮未之備也。伏見處士緜竹秦宓、膺山甫之コ、履雋生之直、枕石漱流、吟詠縕袍、偃息於仁義之途、恬惔於浩然之域、高概節行、守真不虧、雖古人潛遁、蔑以加旃。若明府能招致此人、必有忠讜落落之譽、豐功厚利、建跡立勳、然後紀功於王府、飛聲於來世、不亦美哉!」
以下、綿々と続きますが、要は陳寿にとって師師とも謂うべき秦宓を讃える言葉に過ぎないので割愛。許靖が広漢太守だったのは劉璋の時代の建安十六年までですが、彭羕の進言で秦宓が挙用された形跡は特にありません。
今明府稽古皇極、允執神霊、体公劉之徳、行勿翦之恵、清廟之作於是乎始、褒貶之義於是乎興、然而六翮未之備也。伏見処士緜竹秦宓、膺山甫之徳、履雋生之直、枕石漱流、吟詠縕袍、偃息於仁義之途、恬惔於浩然之域、高概節行、守真不虧、雖古人潜遁、蔑以加旃。若明府能招致此人、必有忠讜落落之誉、豊功厚利、建跡立勲、然後紀功於王府、飛声於来世、不亦美哉!」羕仕州、不過書佐、後又為衆人所謗毀於州牧劉璋、璋髠鉗羕為徒隸。會先主入蜀、泝流北行。羕欲納説先主、乃往見龐統。統與羕非故人、又適有賓客、羕徑上統牀臥、謂統曰:「須客罷當與卿善談。」統客既罷、往就羕坐、羕又先責統食、然後共語、因留信宿、至于經日。統大善之、而法正宿自知羕、遂並致之先主。先主亦以為奇、數令羕宣傳軍事、指授諸將、奉使稱意、識遇日加。成都既定、先主領益州牧、拔羕為治中從事。羕起徒歩、一朝處州人之上、形色囂然、自矜得遇滋甚。諸葛亮雖外接待羕、而内不能善。屡密言先主、羕心大志廣、難可保安。先主既敬信亮、加察羕行事、意以稍疎、左遷羕為江陽太守。
きました。劉封に続いて諸葛亮の陰口攻勢です。これはもう、訴えれば勝てるレベルです。諸葛亮の人間らしい一面と謂えなくもありませんが、それにしても卑劣・陰険と謗られても仕方ありません。諸葛亮の手法を専横と呼ぶ場合、劉禅の時代の北伐の繰り返しより、寧ろ自分の感情の好悪と相手への君主の支持を秤にかけて自分好みの人事に近付けた事ではないでしょうか。
羕聞當遠出、私情不ス、往詣馬超。超問羕曰:「卿才具秀拔、主公相待至重、謂卿當與孔明・孝直諸人齊足並驅、寧當外授小郡、失人本望乎?」羕曰:「老革荒悖、可復道邪!」又謂超曰:「卿為其外、我為其内、天下不足定也。」超羈旅歸國、常懷危懼、聞羕言大驚、默然不答。羕退、具表羕辭、於是收羕付有司。
羕於獄中與諸葛亮書曰:「僕昔有事於諸侯、以為曹操暴虐、孫權無道、振威闇弱、其惟主公有霸王之器、可與興業致治、故乃翻然有輕舉之志。會公來西、僕因法孝直自衒鬻、龐統斟酌其間、遂得詣公於葭萌、指掌而譚、論治世之務、講霸王之義、建取益州之策、公亦宿慮明定、即相然贊、遂舉事焉。僕於故州不免凡庸、憂於罪罔、得遭風雲激矢之中、求君得君、志行名顯、從布衣之中擢為國士、盜竊茂才。分子之厚、誰復過此。羕一朝狂悖、自求葅醢、為不忠不義之鬼乎! 先民有言、左手據天下之圖、右手刎咽喉、愚夫不為也。況僕頗別菽麥者哉!所以有怨望意者、不自度量、苟以為首興事業、而有投江陽之論、不解主公之意、意卒感激、頗以被酒、侻失『老』語。此僕之下愚薄慮所致、主公實未老也。且夫立業、豈在老少、西伯九十、寧有衰志、負我慈父、罪有百死。至於内外之言、欲使孟起立功北州、戮力主公、共討曹操耳、寧敢有他志邪? 孟起説之是也、但不分別其閨A痛人心耳。昔毎與龐統共相誓約、庶託足下末蹤、盡心於主公之業、追名古人、載勳竹帛。統不幸而死、僕敗以取禍。自我墮之、將復誰怨! 足下、當世伊・呂也、宜善與主公計事、濟其大猷。天明地察、神祇有靈、復何言哉!貴使足下明僕本心耳。行矣努力、自愛、自愛!」羕竟誅死、時年三十七。
※ 塩漬けの肉。古代、大逆や怨敵に対して行なわれた死後処理で、見せしめの意味が強かった。漢初、梁王彭越は謀反の嫌疑で殺されるとその肉は葅醢とされて諸侯王に配られた。
私には菽(まめ)と麦を見分ける程度の分別はありますが、自らの度量も図らずに興業の首勲になったと勘違いし、そこに江陽への異動を耳にしたので、酒の勢いで侻(うっかり)“老”と失言してしまったのです。これは僕の下愚薄慮が招いたもので、主公は未だ老いてはおりません。しかも創業には老若は問題ではなく、西伯は九十になっても志は衰えなかったとか。私が慈父に負(そむ)いた罪は百死にあたります。(馬超に対して)内だの外だのと言った事に至っては、孟起に北方で功を立てさせ、(私は帷幄で)主公に戮力(合力)し、共に曹操を討とうと考えただけなのです。孟起が説いた言葉は正しいのですが、ただその行間を分別しなかったので世の人の心を痛ませただけなのです。廖立字公淵、武陵臨沅人。先主領荊州牧、辟為從事、年未三十、擢為長沙太守。先主入蜀、諸葛亮鎮荊土、孫權遣使通好於亮、因問士人皆誰相經緯者、亮答曰:「龐統・廖立、楚之良才、當贊興世業者也。」建安二十年、權遣呂蒙奄襲南三郡、立脱身走、自歸先主。先主素識待之、不深責也、以為巴郡太守。二十四年、先主為漢中王、徴立為侍中。後主襲位、徙長水校尉。
立本意、自謂才名宜為諸葛亮之貳、而更游散在李嚴等下、常懷怏怏。後丞相掾李邵・蔣琬至、立計曰:「軍當遠出、卿諸人好諦其事。昔先帝不取漢中、走與呉人爭南三郡、卒以三郡與呉人、徒勞役吏士、無益而還。既亡漢中、使夏侯淵・張郃深入于巴、幾喪一州。後至漢中、使關侯身死無孑遺、上庸覆敗、徒失一方。是羽怙恃勇名、作軍無法、直以意突耳、故前後數喪師衆也。如向朗・文恭、凡俗之人耳。恭作治中無綱紀;朗昔奉馬良兄弟、謂為聖人、今作長史、素能合道。中郎郭演長、從人者耳、不足與經大事、而作侍中。今弱世也、欲任此三人、為不然也。王連流俗、苟作掊克、使百姓疲弊、以致今日。」邵・琬具白其言於諸葛亮。亮表立曰:「長水校尉廖立、坐自貴大、臧否羣士、公言國家不任賢達而任俗吏、又言萬人率者皆小子也;誹謗先帝、疵毀衆臣。人有言國家兵衆簡練、部伍分明者、立舉頭視屋、憤咤作色曰:『何足言!』凡如是者不可勝數。羊之亂羣、猶能為害、況立託在大位、中人以下識真偽邪?」於是廢立為民、徙汶山郡。立躬率妻子耕殖自守、聞諸葛亮卒、垂泣歎曰:「吾終為左袵矣!」後監軍姜維率偏軍經汶山、詣立、稱立意氣不衰、言論自若。立遂終徙所。妻子還蜀。
※ 文恭って誰よ!? 話の流れ的に要人なのは解るけど、立伝されていないのは仕方ないとして、陳寿の但し書きや裴注でも追えません。そんな人物が蜀には多すぎ。郭攸之とか。筑摩本の索引によれば杜微伝にも出てくるそうで、調べてみると、諸葛亮が杜微に出仕要請をした文書の中に、王謀・李伯仁・王連・楊洪・丁君幹・李邵兄弟と共に杜微を讃えている人物として“文仲宝”とあるのが文恭なんだそうな。杜微を讃えているのは何れも益州の人なので、文仲宝も益州の人なんでしょう。楊戯の『季漢輔臣讃』にも名前が無い以上、名士ではあっても大した実績は遺せなかったんでしょう。
今は衰弱の世であり、この三人に任せようとするのは妥当ではないと考える。(丞相長史の)王連は流俗(俗物)であり、苟くも掊克(誅求)を作して百姓を疲弊させた事で今日を招来している」「長水校尉廖立は坐して自らを貴大とし、群士を臧否(批評)し、公言するに国家は賢達に任せずに俗吏に任せているとし、又た言うには万人を率いる者は皆な小子であると。先帝を誹謗し、衆臣を疵毀しております。国家の兵衆は簡抜・訓練されており、部伍(部隊統制)は分明であると言う者がありましたが、廖立は頭を挙げて屋上を視て、憤咤して色を作しつつ“言う程の事か!”と。凡そこのような事は勝げて数えられません。羊が群を乱しても、猶おも害となります。ましてや廖立は大位を託されており、中人以下の者が真偽を識別できましょうか?」[1]。
ここに廖立を廃して庶民とし、汶山郡に徙した。廖立は躬ずから妻子を率いて耕殖して自守(自活)していたが、諸葛亮が卒したと聞くと垂泣しつつ歎じて曰く 「私は終には左袵してしまうのか![※]」 と。※ 着物を左前で着用する、非中華人の習俗を指す。汶山郡には氐・羌族が多く居住していた。
後に監軍の姜維が偏軍を率いて汶山を経た時に廖立に詣ったが、廖立の意気が衰えておらず、言論が自若としていた事を称えた。廖立はかくて徙所で終った。妻子は蜀郡に還った。「廖立は先帝に奉仕しながら忠孝の心が無く、長沙を守っては開門して敵に就き、巴郡を兼領しては職事に闇昧闟茸(愚昧盲目)であり、大将軍に随っては誹謗譏訶し、梓宮(霊柩)に侍しては刃を手挟み梓宮の側で人頭を断ちました。陛下が即位して後、普く職号を増し、廖立は比(ためし)に随って将軍になると、面と向かって臣に語るには“私がどうして諸将軍の中にいるのが妥当なのか! 私を卿とする上表をせず、五校程度に置いたのか!”と。臣が答えるには“将軍としたのは大勢の比較に随っただけだ。卿に至るにしても、正方(李厳)も亦た未だ卿となっていないのだ➤。しばらくは五校にいるのが宜しかろう”と。これより後、怏怏として恨みを懐いておりました」
詔して曰く 「三苗が政を乱した時、有虞(虞舜)は流刑によって宥めた[※]。廖立は狂惑であり、朕は処刑するに忍びない。亟(すみ)やかに不毛の地に徙せ」 (『諸葛亮集』)※ 『史記』五帝本紀より。堯の時代、摂政となった舜が肉刑五刑(黥・劓・刖・宮・死)を宥めて放逐刑を定めた事による。