三國志修正計画

三國志卷四十 蜀志十/劉彭廖李劉魏楊傳 (一)

劉封

 劉封者、本羅侯寇氏之子、長沙劉氏之甥也。先主至荊州、以未有繼嗣、養封為子。及先主入蜀、自葭萌還攻劉璋、時封年二十餘、有武藝、氣力過人、將兵倶與諸葛亮・張飛等泝流西上、所在戰克。益州既定、以封為副軍中郎將。

 劉封とは、本来は(長沙の)羅侯県の寇氏の子で、長沙劉氏[※]の外甥である。劉備は荊州に至った時には未だ継嗣が無かったので、劉封を養子とした。劉備が入蜀し、葭萌より還って劉璋を攻めるに及んだが、時に劉封は齢二十余で、武芸があって気力は常人に過ぎ、兵を率いて諸葛亮・張飛らと与に泝流(遡行)西上し、随所で戦い克った。益州が定まると、劉封を副軍中郎将とした。

※ 景帝の子/長沙定王発に始まる血統。王国自体は東漢初期に廃止されたものの、血統は臨湘県侯として同郡内に保たれた。
―― 東漢後期の順帝期に司空となった劉寿は臨湘の人なので、長沙劉氏に連なっている可能性が高く、霊帝期にも長沙人の劉囂が司空となっています。贔屓目で見れば劉封の母方はこうした名族に連なっている事になり、劉備が劉封を養子に迎えたのも、荊州の名族との関係構築を念頭に置いたものと思われ、従来の傭兵一辺倒から群雄へのシフトチェンジを示す一傍証ともなります。いずれは劉封に臨湘国を紹封させて長沙劉氏を呑みこむ心算でもあったんでしょうか。ちなみに、劉発の異母兄弟として劉備が祖とした中山靖王がおり、又た劉発の後裔に更始帝や光武帝がいます。

 初、劉璋遣扶風孟達副法正、各將兵二千人、使迎先主、先主因令達并領其衆、留屯江陵。蜀平後、以達為宜都太守。建安二十四年、命達從秭歸北攻房陵、房陵太守蒯祺為達兵所害。達將進攻上庸、先主陰恐達難獨任、乃遣封自漢中乘沔水下統達軍、與達會上庸。上庸太守申耽舉衆降、遣妻子及宗族詣成都。先主加耽征北將軍、領上庸太守員郷侯如故、以耽弟儀為建信將軍・西城太守、遷封為副軍將軍。自關羽圍樊城・襄陽、連呼封・達、令發兵自助。封・達辭以山郡初附、未可動搖、不承羽命。會羽覆敗、先主恨之。又封與達忿爭不和、封尋奪達鼓吹。達既懼罪、又忿恚封、遂表辭先主、率所領降魏。魏文帝善達之姿才容觀、以為散騎常侍・建武將軍、封平陽亭侯。合房陵・上庸・西城三郡〔為新城郡、以〕達領新城太守。遣征南將軍夏侯尚・右將軍徐晃與達共襲封。達與封書曰:
 古人有言:『疏不關e、新不加舊。』此謂上明下直、讒慝不行也。若乃權君譎主、賢父慈親、猶有忠臣蹈功以罹禍、孝子抱仁以陷難、種・商・白起・孝己・伯奇、皆其類也。其所以然、非骨肉好離、親親樂患也。或有恩移愛易、亦有讒闡エ閨A雖忠臣不能移之於君、孝子不能變之於父者也。勢利所加、改親為讎、況非親親乎!故申生・衞伋・禦寇・楚建稟受形之氣、當嗣立之正、而猶如此。今足下與漢中王、道路之人耳、親非骨血而據勢權、義非君臣而處上位、征則有偏任之威、居則有副軍之號、遠近所聞也。自立阿斗為太子已來、有識之人相為寒心。如使申生從子輿之言、必為太伯;衞伋聽其弟之謀、無彰父之譏也。且小白出奔、入而為霸;重耳踰垣、卒以克復。自古有之、非獨今也。
 夫智貴免禍、明尚夙達、僕揆漢中王慮定於内、疑生於外矣;慮定則心固、疑生則心懼、亂禍之興作、未曾不由廢立之間也。私怨人情、不能不見、恐左右必有以濶頼ソ中王矣。然則疑成怨聞、其發若踐機耳。今足下在遠、尚可假息一時;若大軍遂進、足下失據而還、竊相為危之。昔微子去殷、智果別族、違難背禍、猶皆如斯。今足下棄父母而為人後、非禮也;知禍將至而留之、非智也;見正不從而疑之、非義也。自號為丈夫、為此三者、何所貴乎?以足下之才、棄身來東、繼嗣羅侯、不為背親也;北面事君、以正綱紀、不為棄舊也;怒不致亂、以免危亡、不為徒行也。加陛下新受禪命、虚心側席、以コ懷遠、若足下翻然内向、非但與僕為倫、受三百戸封、繼統羅國而已、當更剖符大邦、為始封之君。陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛・ケ;若二敵不平、軍無還期。足下宜因此時早定良計。易有『利見大人』、詩有『自求多福』、行矣。今足下勉之、無使狐突閉門不出。
封不從達言。

 初め、劉璋は扶風の孟達に法正を副えて遣り、各々兵二千人を率いて劉備を迎えさせた。劉備はそこで孟達に命じてその軍兵を併領させ、江陵に留屯させた。蜀が平らいだ後、孟達を宜都太守とした。建安二十四年(219)、孟達に命じて秭帰より北のかた房陵を攻めさせ、房陵太守蒯祺は孟達の兵に殺害された。孟達が進んで上庸を攻めようとした時、劉備は陰かに孟達独りに任せる事の困難を恐れ、かくして劉封を遣って漢中より沔水に乗り下って孟達の軍を統べさせるべく、孟達と上庸で会同させた。上庸太守申耽は手勢を挙げて降り、妻子および宗族を遣って成都に詣らせた。劉備は申耽に征北将軍を加え、領上庸太守・員郷侯は以前通りとし、申耽の弟の申儀を建信将軍・西城太守とし、劉封を遷して副軍将軍とした。関羽は樊城・襄陽を囲んでより、連(つづ)けて劉封・孟達を呼び、兵を発して助けるよう命じていた。劉封・孟達の言辞は、山郡は帰附したばかりで、動揺させる事は出来ぬというもので、関羽の命令を承諾しなかった。たまたま関羽が覆敗したので、劉備はこれを恨んだ。又た劉封は孟達と忿争して不和であり、劉封は尋いで孟達の鼓吹を奪った。孟達は罪を懼れていた際で、又た劉封を忿恚し、かくて上表して劉備(の下)を辞し、所領を率いて魏に降った[1]。魏文帝は孟達の姿才に観るべきものがある事を善しとし、散騎常侍・建武将軍とし、平陽亭侯に封じ、房陵・上庸・西城の三郡を合わせて〔新城郡とし、〕孟達を領新城太守とした。征南将軍夏侯尚・右将軍徐晃を遣って孟達と共に劉封を襲わせた。孟達が劉封に与えた書に曰く:
 古人の言葉に、「疏は親を間(へだ)てず、新は旧を加(おさ)えず」とあります。これは上が公明で下が正直なら、讒慝は行なわれない事を謂います。権君譎主(あれこれ術策を用いる君主)や賢父慈親のような相手であっても、猶お忠臣が功を踏む事で禍いに罹り、孝子が仁を抱えながら難事に陥る事があります。文種商鞅白起・孝己・伯奇[※]は皆なその類いなのです。

※ 孝己は殷高宗の子。伯奇は周宣王の名臣尹吉甫の子。共に讒言で殺された。

そうなったのは、骨肉が離れるのを好んだり、親親が憂患を楽しんだからではありません。恩を移し愛を易えた者や、亦た讒言してその間を間(へだ)てた者がいたからで、忠臣といえど君(の恩愛)を移す事はできず、孝子でも父を変心させられないのです。勢利が加われば親は改まって讐となるもので、ましてや親親でなければどうか! ゆえに申生・衛伋(衛宣公の太子)・禦寇(陳宣公の太子)楚建は継ぐべき精気を稟受し、嗣立すべき正嫡でありましたが、猶おもかようになりました。今、足下は漢中王と道路の人(路ですれ違う人)に過ぎず、親族であっても骨血ではないのに勢権に拠っており、義は君臣でもないのに上位に位置し、征旅では偏軍を任される威があり、(平時に)居ては副軍将軍の称号があることは、遠近にも聞こえております。阿斗を立てて太子としてより以来、有識者は寒心を禁じ得ずにおります。申生を子輿の言葉に従わせれば、必ず太伯(の如き)になり[※]、衛伋がその弟の謀りごとを聴いておれば、(世人の)父への譏りが彰らかになる事が無かった様なものです。しかも小白は出奔した後、入国して霸者となり、重耳は垣を踰えた事で、ついには克復(復興)したのです。古えよりこうした事があり、今だけの事ではありません。

※ 文王の父/季歴の長兄。父が季歴の子に期待している事を察し、季歴に位を嗣がせるべく弟の仲雍と共に江東に出奔し、呉の開祖となった。

 そも智では禍を免れるのを貴び、明でも夙達さが尚ばれます。僕が揆(はか)るに、漢中王の思慮は内心では定まってあり、外に対して疑いを生じております。思慮が定まれば心が固まり、疑いが生じれば心は懼れるもので、乱禍の興作は未だ曾て廃立の問題に由来せぬものはないのです。私怨や人情とは見(あらわ)れずにはおれず、恐らくは左右の者で漢中王と間(へだ)てる者が必ずありましょう。そうなれば疑いは成って怨みを聞き、事を発すること践機(バネ?)のようになるだけです。今、足下は遠きに在り、尚お一時の暇息が可能です。もし(魏の)大軍が進めば、足下は拠るべを失って(成都に)還る事になりますが、これを竊かに危ぶんでおります。昔、微子は殷を去り、智果は宗族と別れましたが、難に違え禍に背くには猶お皆なこうしたのです[2]。今、足下が父母を棄てて人の後継となったのは礼ではありません。禍が至ろうとしているのを知りながら留まっているのは智ではありません。正しきを見ながら従わずにこれを猜疑するのは義ではありません。自ら丈夫を号しながらこの三者を為すのは、何を貴んでの事でしょうか? 足下の才を以て身を棄てて東に来れば、羅侯を継嗣する事になって親に背いた事にはなりません。北面して君主に事える事で綱紀を正せば、旧知を棄てた事にはなりません。怒って乱を致さず、その事で危亡を免れれば、徒らな行為とはなりません。加えて陛下は新たに禅命を受けたばかりで、虚心に(賢者の為に)席を側(かたよ)せており、徳を以て遠きを懐(おも)っており、もし足下が翻然として内に向えば、ただ僕と倫(ともがら)となって三百戸の封を受けて羅国の統を継ぐだけではなく、更めて大邦の符が剖かれ、始封の君となる事でしょう。陛下の大軍は金鼓を震わせ、宛・ケに転都(行幸)しようとしており、二敵が平らがねば軍は還る期日とてありますまい。足下はこの時に因んで早々に良計を定めるのが宜しいでしょう。『易』に“利は大人に見(あらわ)る”とあり、『詩』に“自ら求めれば福多し”とあり、行なわれませ。今、足下はこれに勉め、(私に)狐突が閉門して出なかったようにはさせませぬよう[※]

※ 晋の人。太子申生の狄人討伐に御者となって随い、開戦を逸る申生に身を危うくする事を諫め、同時に退位による身命の全うと国内の混乱回避を説いた。帰国後、讒言を警戒して外出しなかった。

劉封は孟達の言葉に従わなかった。

 申儀叛封、封破走還成都。申耽降魏、魏假耽懷集將軍、徙居南陽、儀魏興太守、封員郷侯、屯洵口。封既至、先主責封之侵陵達、又不救羽。諸葛亮慮封剛猛、易世之後終難制御、勸先主因此除之。於是賜封死、使自裁。封歎曰:「恨不用孟子度之言!」 先主為之流涕。達本字子敬、避先主叔父敬、改之。

 申儀が劉封に叛くと、劉封は破走して成都に還った。申耽は魏に降り、魏は申耽に懐集将軍を仮して南陽に徙居させ、申儀を魏興太守として員郷侯に封じ、洵口に駐屯させた[3]。劉封が至ると、劉備は劉封が孟達を侵陵し、又た関羽を救わなかった事を責めた。諸葛亮は劉封が剛猛で、易世の後に終には制御が困難となるのを憂慮し、これに乗じて劉備に除く事を勧めた。ここに劉封に死を賜わり、自裁させた。劉封が歎じるには 「恨むらくは孟子度の言葉を用いなかった事だ!」 。劉備はこれが為に流涕した[4]
 孟達の本来の字名は子敬といい、劉備の叔父の劉敬を避けて改めたものである。
 
[1] 孟達が劉備を辞去する際の上表:「殿下は伊尹・呂尚・斉桓公・晋文公の功業を成そうとしておられる。殿下に有為の士が帰したのは、呉・楚の勢いを仮りた為なのです。臣には愆戻(罪咎)が山積しており、王朝が興った事で英俊が鱗集しており、身の置き所もありません。昔に范蠡が微かな兆候を識って五湖に逃れ、咎犯が(帰国目前に)謝罪して河上に逡巡したのは、どちらも去就を潔くしたかったからなのです[※]。臣のように卑鄙で、元勲の功も無ければ尚更です。

※ 范蠡は勾践の謀臣として越の再興を成功させたが、勾践の猜疑心が表面化する直前に棄官して水郷に退いた。咎犯は狐偃とも。重耳の亡命に随行した五賢の一人で、前出の狐突の子。重耳が晋君として入国する直前、道中の非礼を自劾して致仕を求めた。(これを論功行賞を確約させるための言質取りだと蔑み、同僚となるのを愧じて隠棲したのが介子推)

昔、申生は至孝でありながら親に疑われ、伍子胥は至忠でありながら君に誅され、蒙恬は拓境の大功がありながら死刑に処され、楽毅は斉を破りながら讒佞に遭いました。臣は今、同様の境遇に在るのです。自らを罪人認定し、房陵・上庸を(北朝に)返上する事で自身を放逐いたします。臣は事毎に 「交際を絶てば悪声は無く、去臣には怨辞無し」 と耳にしております。臣はこの君子の教えを奉じておりますので、君王にもどうかこの事に勉めて頂きたい」 (『魏略』)
[2] 智宣子が智瑤を後継にしようとした処、智果曰く 「智霄に越した事はありません」 と。宣子 「霄は佷忤(独善的)だ」 。対えて曰く 「霄は佷が面上にある程度です。瑤が人より賢たる点は五つ、逮(およ)ばぬ点は一つです。美鬚が長大なのが賢であり、射術と御車術に充分な力が賢であり、技芸を畢給(皆備)しているのが賢であり、巧文能弁が賢であり、彊毅果敢なのが賢であり、この通りではありますが、甚だ不仁です。五賢によって人を凌ぎ、不仁によって行動する者を誰が待遇できましょう! もし瑤を立てるような事になれば、智氏の宗族は必ず滅びましょう」 。聴かなかった。智果は太史氏に求めて宗族と別れ、輔氏となった。智氏が亡ぶに及び、ただ輔果のみが生存した。 (『国語』)
[3] 申儀の兄は申耽、字を義挙といった。初め西平・上庸の間に在って数千家を聚め、後に張魯と通じ、又た使者を遣って曹操に詣らせた。曹操は将軍の号を加え、上庸都尉を兼領させた。建安末に至って蜀に攻められ、その郡を以て西蜀に属した。黄初中に申儀が復た来還したので、詔して兄の故号を申儀に加え、魏興太守に拝し、列侯に封じた。太和中、申儀は孟達と不和となり、しばしば孟達が蜀に通じて弐心を持っていると上言した。孟達が反くに及び、申儀は蜀道を絶ち、救援を到らせなかった。孟達の死後、申儀は宛に詣って司馬懿にまみえ、司馬懿は勧めて来朝させた。申儀が京師に至ると、詔で申儀を楼船将軍に転じ、在礼請中。 (『魏略』)

 最後の一句が不明。朝廷に在る時の儀礼は奉朝請に中った?

[4] 劉封の子の劉林は牙門将となり、咸熙元年(264)に河東に内移した。孟達の子の孟興は議督軍となり、この歳に扶風に徙還した。
 

彭羕

 彭羕字永年、廣漢人。身長八尺、容貌甚偉。姿性驕傲、多所輕忽、惟敬同郡秦子勑、薦之於太守許靖曰:「昔高宗夢傅説、周文求呂尚、爰及漢祖、納食其於布衣、此乃帝王之所以倡業垂統、緝熙厥功也。今明府稽古皇極、允執神靈、體公劉之コ、行勿翦之惠、清廟之作於是乎始、褒貶之義於是乎興、然而六翮未之備也。伏見處士緜竹秦宓、膺山甫之コ、履雋生之直、枕石漱流、吟詠縕袍、偃息於仁義之途、恬惔於浩然之域、高概節行、守真不虧、雖古人潛遁、蔑以加旃。若明府能招致此人、必有忠讜落落之譽、豐功厚利、建跡立勳、然後紀功於王府、飛聲於來世、不亦美哉!」

 彭羕、字は永年。広漢の人である。身長八尺、容貌甚偉。姿性は驕傲で(他人を)軽忽(軽侮)する事が多かったが、ただ同郡の秦子勑だけは敬い、これを太守許靖に薦めて曰く
「昔、殷高宗は傅説を夢にし、周文王は呂尚を求め、漢祖に及んでは布衣より酈食其を納れました。これぞ帝王が倡業(創業)して王統を垂れ、その功を緝熙(光輝)させた理由なのです。

 以下、綿々と続きますが、要は陳寿にとって師師とも謂うべき秦宓を讃える言葉に過ぎないので割愛。許靖が広漢太守だったのは劉璋の時代の建安十六年までですが、彭羕の進言で秦宓が挙用された形跡は特にありません。

今明府稽古皇極、允執神霊、体公劉之徳、行勿翦之恵、清廟之作於是乎始、褒貶之義於是乎興、然而六翮未之備也。伏見処士緜竹秦宓、膺山甫之徳、履雋生之直、枕石漱流、吟詠縕袍、偃息於仁義之途、恬惔於浩然之域、高概節行、守真不虧、雖古人潜遁、蔑以加旃。若明府能招致此人、必有忠讜落落之誉、豊功厚利、建跡立勲、然後紀功於王府、飛声於来世、不亦美哉!」

 羕仕州、不過書佐、後又為衆人所謗毀於州牧劉璋、璋髠鉗羕為徒隸。會先主入蜀、泝流北行。羕欲納説先主、乃往見龐統。統與羕非故人、又適有賓客、羕徑上統牀臥、謂統曰:「須客罷當與卿善談。」統客既罷、往就羕坐、羕又先責統食、然後共語、因留信宿、至于經日。統大善之、而法正宿自知羕、遂並致之先主。先主亦以為奇、數令羕宣傳軍事、指授諸將、奉使稱意、識遇日加。成都既定、先主領益州牧、拔羕為治中從事。羕起徒歩、一朝處州人之上、形色囂然、自矜得遇滋甚。諸葛亮雖外接待羕、而内不能善。屡密言先主、羕心大志廣、難可保安。先主既敬信亮、加察羕行事、意以稍疎、左遷羕為江陽太守。

 彭羕は州に出仕したものの書佐に過ぎず、後に又た衆人によって州牧の劉璋に謗毀され、劉璋は彭羕を髠鉗(髪切りと首枷)のうえ徒隸とした。たまたま劉備が入蜀し、泝流(溯流)北行した。彭羕は劉備に説いて受納されようと思ったので、往って龐統に見(まみ)えた。龐統は彭羕とは故人(旧知)ではなく、又た適時に賓客があったが、彭羕は径(ただち)に龐統の牀に上って臥し、龐統に謂うには 「客が罷むのを須(ま)ってから卿と善く談じようではないか」 と。龐統は客が罷むと、往って彭羕の坐に就(おもむ)いたが、彭羕は又た先ず龐統に食事を責(もと)め、しかる後に共に語らったが、そのまま留まって信宿(二泊)し、日を経るに至った。龐統は大いにこれを善しとし、法正がかねて彭羕を知っていたので、揃って劉備に致した。劉備も亦た奇才だとし、しばしば彭羕に命じて軍事を宣伝させ、諸将に指授させ、使命を奉じて意に称(かな)い、識遇(知遇)は日々に加わった。成都が定まると劉備は益州牧を兼領し、彭羕を抜擢して治中従事とした。彭羕は徒歩(の身分)より起ち、一朝にして州人の上に置かれ、形色は囂然であり、待遇を矜(ほこ)ること滋(ますます)甚だしくなった。諸葛亮は外面では彭羕を接待していたとはいえ、内心では善く思う事ができなかった。しばしば密かに劉備に言うには、彭羕は心大志広で、安寧秩序を保っていくのは困難だと。劉備は既に諸葛亮を敬信しており、加えて彭羕の行事(行状)を観察し、意中にしだいに疎んじるようになり、彭羕を左遷して江陽太守とした。

 きました。劉封に続いて諸葛亮の陰口攻勢です。これはもう、訴えれば勝てるレベルです。諸葛亮の人間らしい一面と謂えなくもありませんが、それにしても卑劣・陰険と謗られても仕方ありません。諸葛亮の手法を専横と呼ぶ場合、劉禅の時代の北伐の繰り返しより、寧ろ自分の感情の好悪と相手への君主の支持を秤にかけて自分好みの人事に近付けた事ではないでしょうか。

 羕聞當遠出、私情不ス、往詣馬超。超問羕曰:「卿才具秀拔、主公相待至重、謂卿當與孔明・孝直諸人齊足並驅、寧當外授小郡、失人本望乎?」羕曰:「老革荒悖、可復道邪!」又謂超曰:「卿為其外、我為其内、天下不足定也。」超羈旅歸國、常懷危懼、聞羕言大驚、默然不答。羕退、具表羕辭、於是收羕付有司。

 彭羕は遠方に出される事になったと聞き、私かに情として不悦(不快)であり、往って馬超に詣った。馬超が彭羕に問うには 「卿の才具(才能)は秀抜で、主公が待遇すること至重であり、卿は諸葛孔明・法孝直の諸人と足を斉しく並び駆けるものだと謂(おも)っていたのに、寧ろ外地の小郡を授かるとは。人の本望(意旨)を失われたか?」 。彭羕 「老革めが荒悖(耄碌)しおった[1]。再びは道(かた)れん!」 。又た馬超に謂うには 「卿がその外を為し、私がその内を為せば、天下は定める相手として不足なほどだ」 と。馬超は羈旅(彷徨)のすえ国に帰順した身で、常に危懼を懐いており、彭羕の言葉を聞くと大いに驚き、黙然として答えなかった。彭羕が退席すると具さに彭羕の言辞を上表し、ここに彭羕を収捕して有司に付した。

 羕於獄中與諸葛亮書曰:「僕昔有事於諸侯、以為曹操暴虐、孫權無道、振威闇弱、其惟主公有霸王之器、可與興業致治、故乃翻然有輕舉之志。會公來西、僕因法孝直自衒鬻、龐統斟酌其間、遂得詣公於葭萌、指掌而譚、論治世之務、講霸王之義、建取益州之策、公亦宿慮明定、即相然贊、遂舉事焉。僕於故州不免凡庸、憂於罪罔、得遭風雲激矢之中、求君得君、志行名顯、從布衣之中擢為國士、盜竊茂才。分子之厚、誰復過此。羕一朝狂悖、自求葅醢、為不忠不義之鬼乎! 先民有言、左手據天下之圖、右手刎咽喉、愚夫不為也。況僕頗別菽麥者哉!所以有怨望意者、不自度量、苟以為首興事業、而有投江陽之論、不解主公之意、意卒感激、頗以被酒、侻失『老』語。此僕之下愚薄慮所致、主公實未老也。且夫立業、豈在老少、西伯九十、寧有衰志、負我慈父、罪有百死。至於内外之言、欲使孟起立功北州、戮力主公、共討曹操耳、寧敢有他志邪? 孟起説之是也、但不分別其閨A痛人心耳。昔毎與龐統共相誓約、庶託足下末蹤、盡心於主公之業、追名古人、載勳竹帛。統不幸而死、僕敗以取禍。自我墮之、將復誰怨! 足下、當世伊・呂也、宜善與主公計事、濟其大猷。天明地察、神祇有靈、復何言哉!貴使足下明僕本心耳。行矣努力、自愛、自愛!」羕竟誅死、時年三十七。

 彭羕が獄中で諸葛亮に与えた書に曰く
「過去に諸侯に仕えましたが、曹操は暴虐、孫権は無道、振威(劉璋)は闇弱で、ただ主公には霸王の器があり、期待をかけて翻然として軽挙(軽捷飛翔)の志を持ちました。たまたま公が西に来たので、法孝直に自ら衒鬻(売り込む)し、龐統に斟酌(仲介)してもらい、葭萌で会う事ができました。治世の務を論じ、霸王の意義を講じ、益州を取る策を建てた処、公も亦たかねてからの思いを定め、即座に賛同されて事を挙げたのです。州郡で燻っていた挙句に処罰されていた私は風雲に遭遇でき、求めていた君主を得て国士にまで抜擢されました。分子之厚は誰が復た私以上でありましょうか[2]。私が一朝に狂悖し、自ら葅醢[※]されるのを求め、不忠不義の鬼(亡者)となりましょうか!

※ 塩漬けの肉。古代、大逆や怨敵に対して行なわれた死後処理で、見せしめの意味が強かった。漢初、梁王彭越は謀反の嫌疑で殺されるとその肉は葅醢とされて諸侯王に配られた。

私には菽(まめ)と麦を見分ける程度の分別はありますが、自らの度量も図らずに興業の首勲になったと勘違いし、そこに江陽への異動を耳にしたので、酒の勢いで侻(うっかり)“老”と失言してしまったのです。これは僕の下愚薄慮が招いたもので、主公は未だ老いてはおりません。しかも創業には老若は問題ではなく、西伯は九十になっても志は衰えなかったとか。私が慈父に負(そむ)いた罪は百死にあたります。(馬超に対して)内だの外だのと言った事に至っては、孟起に北方で功を立てさせ、(私は帷幄で)主公に戮力(合力)し、共に曹操を討とうと考えただけなのです。孟起が説いた言葉は正しいのですが、ただその行間を分別しなかったので世の人の心を痛ませただけなのです。
 嘗て私は事毎に龐統と誓約するには、足下の足跡の端に連なるのを庶(こいねが)い、主公の事業に心を尽くして竹帛に勲功を載せたいものだと。龐統は不幸にして死に、僕は敗れて禍を得ました。我から墮ちたのであり、いったい誰を怨みましょうや! 足下は当世の伊尹・呂尚であり、主公と善く事を計り、大猷(大略)を済(と)げられますよう。天は明らかに地は察し、神祇には霊(みたま)があり、復た何をか言わんや! どうか足下が僕の本心を明らかにされん事を。行矣努力、自愛、自愛!」
彭羕は竟に誅死した。時に齢三十七だった。
 
[1] 揚雄の『方言』によれば、悈・鰓・乾・都・耇・革は“老”を意味する。郭璞の注に曰く、皆な老いた者の皮毛が枯瘁する形容である、と。
―― 裴松之が考えるに、皮の毛が去ったものが革である。古えには革を兵器とし、ゆえに兵革と称し、革とは兵器に他ならない。彭羕が劉備を罵って老革と言ったのは、老兵と言ったようなものだ。
[2] 裴松之が考えるに、「分子之厚」 と彭羕が言っているのは、劉備が児子に分つ厚恩を己に施したというもので、ゆえに書簡の後方で語って 「負我慈父、罪有百死」 と云っているのだ。
 

廖立

 廖立字公淵、武陵臨沅人。先主領荊州牧、辟為從事、年未三十、擢為長沙太守。先主入蜀、諸葛亮鎮荊土、孫權遣使通好於亮、因問士人皆誰相經緯者、亮答曰:「龐統・廖立、楚之良才、當贊興世業者也。」建安二十年、權遣呂蒙奄襲南三郡、立脱身走、自歸先主。先主素識待之、不深責也、以為巴郡太守。二十四年、先主為漢中王、徴立為侍中。後主襲位、徙長水校尉。

 廖立、字は公淵。武陵臨沅の人である。劉備は荊州牧を兼領すると辟して従事とし、齢三十未満で抜擢して長沙太守とした。劉備が入蜀すると諸葛亮が荊土を鎮守したが、孫権が使者を遣って諸葛亮に通好させ、士人のうちで誰が経緯(経綸)する者か問うた処、諸葛亮は答えて曰く 「龐統・廖立は楚の良才で、まさに世業を興すのを翼賛する者です」 。建安二十年(215)、孫権が呂蒙を遣って奄(たちま)ちに南三郡を襲わせると、廖立は脱身して逃走し、劉備に帰した。劉備は素より識待(知遇)していたので深くは責めず、巴郡太守とした。二十四年(219)、劉備は漢中王になると、廖立を徴して侍中とした。後主が位を襲ぐと、長水校尉に徙された。

 立本意、自謂才名宜為諸葛亮之貳、而更游散在李嚴等下、常懷怏怏。後丞相掾李邵・蔣琬至、立計曰:「軍當遠出、卿諸人好諦其事。昔先帝不取漢中、走與呉人爭南三郡、卒以三郡與呉人、徒勞役吏士、無益而還。既亡漢中、使夏侯淵・張郃深入于巴、幾喪一州。後至漢中、使關侯身死無孑遺、上庸覆敗、徒失一方。是羽怙恃勇名、作軍無法、直以意突耳、故前後數喪師衆也。如向朗・文恭、凡俗之人耳。恭作治中無綱紀;朗昔奉馬良兄弟、謂為聖人、今作長史、素能合道。中郎郭演長、從人者耳、不足與經大事、而作侍中。今弱世也、欲任此三人、為不然也。王連流俗、苟作掊克、使百姓疲弊、以致今日。」邵・琬具白其言於諸葛亮。亮表立曰:「長水校尉廖立、坐自貴大、臧否羣士、公言國家不任賢達而任俗吏、又言萬人率者皆小子也;誹謗先帝、疵毀衆臣。人有言國家兵衆簡練、部伍分明者、立舉頭視屋、憤咤作色曰:『何足言!』凡如是者不可勝數。羊之亂羣、猶能為害、況立託在大位、中人以下識真偽邪?」於是廢立為民、徙汶山郡。立躬率妻子耕殖自守、聞諸葛亮卒、垂泣歎曰:「吾終為左袵矣!」後監軍姜維率偏軍經汶山、詣立、稱立意氣不衰、言論自若。立遂終徙所。妻子還蜀。

 廖立の本意として、自ら才名は諸葛亮の弐であると謂っていたが、游散(閑職)に更められて李厳らの下に置かれた事で常に怏怏たる心を懐いた。後に丞相掾の李邵・蔣琬が至った時、廖立が計るには
「軍が遠征しようとしているが、卿ら諸人はその事をよく諦(つまび)らかにしておくのだ。昔、先帝は漢中(張魯)を攻め取らず、奔走して呉人と南三郡を争い、ついには三郡を呉人に与え、徒らに吏士を労役し、無益のまま還った。漢中を亡くした後、夏侯淵・張郃を巴に深入させ、一州を喪うところだった。後に漢中に至ったが、関侯を死なせて孑(ひと)りも遺らせず、上庸は覆敗し、徒らに一方面を失った。これは関羽が勇名に怙恃して軍の法規を無くさせ、ただ意のままに猪突したせいで、ゆえに前後にしばしば師衆(軍兵)を喪ったのだ。向朗・文恭[※]の如きは凡俗なだけである。文恭は治中となってからも綱紀は無く、向朗は昔に馬良兄弟を奉じて聖人だと謂っていたが、今や長史となってしまい、素より道理に合する事ができようか。中郎の郭演長(郭攸之)は人に従うだけの者で、与に大事を経(はか)るには不足なのに侍中となっている。

※ 文恭って誰よ!? 話の流れ的に要人なのは解るけど、立伝されていないのは仕方ないとして、陳寿の但し書きや裴注でも追えません。そんな人物が蜀には多すぎ。郭攸之とか。筑摩本の索引によれば杜微伝にも出てくるそうで、調べてみると、諸葛亮が杜微に出仕要請をした文書の中に、王謀・李伯仁・王連・楊洪・丁君幹・李邵兄弟と共に杜微を讃えている人物として“文仲宝”とあるのが文恭なんだそうな。杜微を讃えているのは何れも益州の人なので、文仲宝も益州の人なんでしょう。楊戯の『季漢輔臣讃』にも名前が無い以上、名士ではあっても大した実績は遺せなかったんでしょう。

今は衰弱の世であり、この三人に任せようとするのは妥当ではないと考える。(丞相長史の)王連は流俗(俗物)であり、苟くも掊克(誅求)を作して百姓を疲弊させた事で今日を招来している」
李邵・蔣琬は具さにその言葉を諸葛亮に白(もう)した。諸葛亮が廖立について上表するには

「長水校尉廖立は坐して自らを貴大とし、群士を臧否(批評)し、公言するに国家は賢達に任せずに俗吏に任せているとし、又た言うには万人を率いる者は皆な小子であると。先帝を誹謗し、衆臣を疵毀しております。国家の兵衆は簡抜・訓練されており、部伍(部隊統制)は分明であると言う者がありましたが、廖立は頭を挙げて屋上を視て、憤咤して色を作しつつ“言う程の事か!”と。凡そこのような事は勝げて数えられません。羊が群を乱しても、猶おも害となります。ましてや廖立は大位を託されており、中人以下の者が真偽を識別できましょうか?」[1]

ここに廖立を廃して庶民とし、汶山郡に徙した。廖立は躬ずから妻子を率いて耕殖して自守(自活)していたが、諸葛亮が卒したと聞くと垂泣しつつ歎じて曰く 「私は終には左袵してしまうのか![※]」 と。

※ 着物を左前で着用する、非中華人の習俗を指す。汶山郡には氐・羌族が多く居住していた。

後に監軍の姜維が偏軍を率いて汶山を経た時に廖立に詣ったが、廖立の意気が衰えておらず、言論が自若としていた事を称えた。廖立はかくて徙所で終った。妻子は蜀郡に還った。
 姜維が同郷でも旧知でもなく著明な名士とも言い難い罪人を、蔣琬の存命中にわざわざ訪ねたのは何故か? というのが率直な疑問です。廖立に対する諸葛亮の初期の評価は、「荊州の人では龐統と双璧」 というものでした。蔣琬や馬謖をさし措いて、そして龐統と並べている点を考えると、軍略家として期待されていたものと考えられます。廖立の戦略構想がどのようなものだったかは不明ですが、諸葛亮の意向が反映されていたと思われる正攻法の益州攻略を批判している以上は、やはり龐統同様に電撃作戦を支持していたのでしょう。そこでは自身は荊州牧として関羽らを督し、劉備らが漢中を制圧した後は漢中と東西呼応して北上する構想を持っていたのではないでしょうか。襄陽が危難に陥れば中原が動揺するのは関羽の例でも明らかですし、関中攻略との並行によって黄河以南から曹氏勢力を駆逐できる可能性を計算していたとしても不思議はありません。
 廖立の罪状は謂わば諸葛亮体制に対する誹謗ですが、李厳や楊儀に比べれば罪に対する量刑が過重です。イエスマン大好きな諸葛亮が廖立を忌避していたのは、劉備が死ぬやさっさと侍中から長水校尉という閑職に廻した事でも明らかですが、その戦略家としての才能を危険視していなければ辺境の太守に飛ばして身辺から遠ざけたのに……というジレンマを感じ取れなくもありません。ともあれ、北伐直前というタイミングもあるんでしょうが、廖立の発言に一定の支持を集めうる説得力があったからこその処置ではないでしょうか。姜維が訪ねたのも、廖立の戦略構想が諸葛亮のそれより魅力的で、蜀漢の現状に対応した新戦略に 「お智恵を拝借」 しに往ったのかもしれません。まぁ、あくまでも廖立伝からの妄想ですよ?
 
[1] 諸葛亮の上表

「廖立は先帝に奉仕しながら忠孝の心が無く、長沙を守っては開門して敵に就き、巴郡を兼領しては職事に闇昧闟茸(愚昧盲目)であり、大将軍に随っては誹謗譏訶し、梓宮(霊柩)に侍しては刃を手挟み梓宮の側で人頭を断ちました。陛下が即位して後、普く職号を増し、廖立は比(ためし)に随って将軍になると、面と向かって臣に語るには“私がどうして諸将軍の中にいるのが妥当なのか! 私を卿とする上表をせず、五校程度に置いたのか!”と。臣が答えるには“将軍としたのは大勢の比較に随っただけだ。卿に至るにしても、正方(李厳)も亦た未だ卿となっていないのだ。しばらくは五校にいるのが宜しかろう”と。これより後、怏怏として恨みを懐いておりました」

詔して曰く 「三苗が政を乱した時、有虞(虞舜)は流刑によって宥めた[※]。廖立は狂惑であり、朕は処刑するに忍びない。亟(すみ)やかに不毛の地に徙せ」 (『諸葛亮集』)

※ 『史記』五帝本紀より。堯の時代、摂政となった舜が肉刑五刑(黥・劓・刖・宮・死)を宥めて放逐刑を定めた事による。

 

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