三國志修正計画

三國志卷二 魏志二/文帝紀 (一)

文帝紀

 文皇帝諱丕、字子桓、武帝太子也。中平四年冬、生于譙。建安十六年、為五官中郎將・副丞相。二十二年、立為魏太子。太祖崩、嗣位為丞相・魏王。尊王后曰王太后。改建安二十五年為延康元年。

 文皇帝、諱は丕、字は子桓。武帝の太子である。中平四年(187)冬、譙で生まれた[1]。建安十六年(211)に五官中郎将・副丞相となり、二十二年に魏太子として立てられた[2]。太祖が崩じ、位を嗣いで丞相・魏王となった[3]。王后を尊んで王太后とした。建安二十五年(220)を改めて延康元年とした。

 元年二月壬戌、以大中大夫賈詡為太尉、御史大夫華歆為相國、大理王朗為御史大夫。置散騎常侍・侍郎各四人、其宦人為官者不得過諸署令;為金策著令、藏之石室。

 元年(220)二月[4]壬戌、大中大夫賈詡を太尉とし、御史大夫華歆を相国とし、大理王朗を御史大夫とした。散騎常侍・侍郎に各四人を置いた。宦人が官者として諸署令を越えないようにし、金属製の策に令を著して石室に収蔵した。

 初、漢熹平五年、黄龍見譙、光祿大夫橋玄問太史令單颺:「此何祥也?」颺曰:「其國後當有王者興、不及五十年、亦當復見。天事恆象、此其應也。」内黄殷登默而記之。至四十五年、登尚在。三月、黄龍見譙、登聞之曰:「單颺之言、其驗茲乎!」

 嘗て漢の熹平五年(176)に黄龍が譙に出見し、光禄大夫橋玄が太史令単颺に問うた 「これは何の前祥か?」 単颺 「その国に後に王者が興るのです。五十年もせずに復た出見しましょう。天の事には恒に象(しるし)があり、これはそれに応じたものです」 内黄の殷登は黙ってこれを記録した。四十五年して殷登は尚お健在だった。三月、黄龍が譙に出見し、殷登はこれを聞くと曰った 「単颺の言葉はここに験(あか)されたか!」[5]

 “見”を“あらわれる”とした場合、現象や事象に対して用いるそうです。龍などの霊獣は現象扱いです。孔子が亡骸を発見して歎くわけです。
それにしても、ここでも橋玄ですかー。曹操だけでなく時空を超えて曹丕にも恩を売るとは。曹操の名を世に知らしめた源とはいえ、曹魏にとって橋玄はどんだけの存在なのか。なぜここまで持ち上げられるのか。

 已卯、以前將軍夏侯惇為大將軍。濊貊・扶餘單于、焉耆・于闐王皆各遣使奉獻。
 夏四月丁巳、饒安縣言白雉見。庚午、大將軍夏侯惇薨。

 已卯(三日)、前将軍夏侯惇を大将軍とした。濊貊扶餘単于・焉耆・于闐王が皆な各々遣使して奉献した[6]
 夏四月丁巳、饒安県が白雉の出見を言上した[7]。庚午(二十五日)、大将軍夏侯惇が薨じた[8]

 五月戊寅、天子命王追尊皇祖太尉曰太王、夫人丁氏曰太王后、封王子叡為武コ侯。是月、馮翊山賊鄭甘・王照率衆降、皆封列侯。

 五月戊寅、天子が王に命じ、皇祖の太尉(曹嵩)を太王に、夫人丁氏を太王后と追尊し、王子曹叡を封じて武徳侯とした[9]。この月、馮翊の山賊の鄭甘・王照が手勢を率いて降り、皆な列侯に封じた[10]

 山賊とありますが、いきなり列侯に封じられてるので地元に影響力の強い地方豪族なのでしょう。朝廷に反抗する者は全て賊。

 酒泉黄華・張掖張進等各執太守以叛。金城太守蘇則討進、斬之。華降。

 酒泉の黄華、張掖の張進らが各々太守を執えて叛いた。金城太守蘇則が張進を討って斬った。黄華は降った[11]

 曹魏の河西に対する掌握度が決して高くない事を示す一件でした。ぶっちゃけ、臣従を表明した現地有力者に印綬を送り、守備兵から何から家兵や賓客で賄ってね、という方法を採っているんじゃないでしょうか。だから家同士の争いが簡単に郡レベルの紛争となり、他郡の紛争にも容易に介入できるんだと思われます。河西掌握はまだまだ先の事です。

 六月辛亥、治兵于東郊、庚午、遂南征。

 六月辛亥(7日)、東郊で治兵(閲兵)[12]、庚午(26日)に南征した[13]

 孫権の臣従宣言は継続中なので、南征する理由がありません。これは兵を率いて京師を離れる言い訳です。孫権にもきっと、交戦の意志が無い事は通達されている事でしょう。でないと色々と台無しになってしまいますから。

 秋七月庚辰、令曰:「軒轅有明臺之議、放有衢室之問、皆所以廣詢於下也。百官有司、其務以職盡規諫、將率陳軍法、朝士明制度、牧守申政事、縉紳考六藝、吾將兼覽焉。」
 孫權遣使奉獻。蜀將孟達率衆降。武都氐王楊僕率種人内附、居漢陽郡。
 甲午、軍次於譙、大饗六軍及譙父老百姓於邑東。八月、石邑縣言鳳皇集。

 秋七月庚辰(6日)、布令した 「軒轅(黄帝)の世に明台の議があり、放(堯帝)の世に衢室についての諮問があった。皆な下に広く詢(と)う為である[14]。百官・有司よ、その職に務めて規諫を尽くせ。将率は軍法を陳べ、朝士は制度を明らかにし、牧守は政治を申べ、縉紳(学官)は六芸を考究せよ。吾れはそれを兼覧するであろう」
 孫権が使者を遣って奉献してきた。蜀の将軍の孟達が手勢を率いて降った。武都氐の王の楊僕が種人を率いて内附し、漢陽郡に居留した[15]
 甲午(20日)、譙に駐軍し、邑東に大いに六軍および譙の父老・百姓を饗応した[16]
八月、石邑県が鳳皇の集いを言上した。

 冬十月癸卯、令曰:「諸將征伐、士卒死亡者或未收斂、吾甚哀之;其告郡國給槥櫝殯斂、送致其家、官為設祭。」丙午、行至曲蠡。

 冬十月癸卯(1日)、布令した 「諸将の征伐に於いて、士卒の死亡者で未だ収斂されていない者を吾れは甚だ哀しむ。郡国に告げる。槥櫝を給して殯斂し、その家に送致し、官は葬祭を設けよ」[17]
丙午(4日)、行軍は曲蠡に至った。

 漢帝以衆望在魏、乃召羣公卿士、告祠高廟。使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位、冊曰:「咨爾魏王:昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不于常、惟歸有コ。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大亂茲昏、羣兇肆逆、宇内顛覆。ョ武王神武、拯茲難於四方、惟清區夏、以保綏我宗廟、豈予一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光于乃コ、恢文武之大業、昭爾考之弘烈。皇靈降瑞、人神告徴、誕惟亮采、師錫朕命、僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之暦數在爾躬、允執其中、天祿永終;君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。」乃為壇於繁陽。庚午、王升壇即阼、百官陪位。事訖、降壇、視燎成禮而反。改延康為黄初、大赦。

 漢帝は衆望が魏に在るとして、群公卿士を召集して[18]、高廟を祠って告げた。兼御史大夫張音に持節して璽綬を奉じさせて(魏に)位を禅(ゆず)った。冊に曰く
「ああ爾(なんじ)魏王よ。昔、帝堯は虞舜に禅位し、舜は亦た禹に命じた。天命は常ならず、ただ徳に帰すのだ。漢道は陵遅し、世々その秩序を失い、朕の躬に降るに及んで大乱してここに昏く、群兇は逆を肆(ほしいまま)にし、宇内は顛覆した。武王は神武によって四方の難を拯(すく)い、区夏(中華)を清め、我が宗廟を保綏した。どうして予一人が乂(英俊)を獲たといえようか、九服(天涯)がその賜物を受けたのである。今、王は欽(つつし)んで前緒を承け、徳を光(かがや)かせ、文武の大業を恢(ひろ)め、爾の考(父)の弘烈を昭かにした。皇霊は瑞を降し、人神は徴を告げ、誕惟亮采、師錫朕命。僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之暦數在爾躬、允執其中、天祿永終;君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。(終盤ダレました)[19]

 先取っておきますと、この[注19]は禅譲に先立っての遣り取りを補ったもので、「使者を何往復させれば気が済むんだよ!」 という、読み手としてはもう勘弁して下さいな内容です。

かくして(曲蠡の)繁陽亭[※]1に壇を為した。庚午(28日)、王は壇に昇って阼に即き、百官は位によって陪席した。事が訖(お)わって壇を降り、燎成の礼[※]2を視て返った。延康を改号して黄初とし、大赦した[20]

※1 繁陽亭は魏で繁昌県となります。安徽省蕪湖市繁昌には繁陽鎮が遺されています。
※2 燎は柴を焼いて天を祭る祭礼。

許でも洛陽でも鄴でもなく、開戦する気の無い遠征先で禅譲の遣り取りしていた事は新発見でした。禅譲の為に虎の子の中軍に護られたうえ首都圏を離れた、と見えます。京師の空気は必ずしも禅譲を是とするものではなかった、少なくとも曹氏サイドにはそう感じられたという事。名族でもないどころか、よりにもよって宦官の孫ごときが史上二度目の禅譲に臨むのですから、曹父子の心配は杞憂とは云えません。王莽・劉歆主従の考案した禅譲の手法を踏襲している点からも曹丕の不安は伺えます。踐阼後の曹丕が極度に面子を気にするのも本来の資質だけでは無い筈です。

 
[1] 帝の生まれた時、青く、車蓋のような圜い雲気が終日その上にあり、望気者は至貴の證であり人臣の気ではないとした。年八歳で属文を能くした。逸才があり、かくて古今の経伝・諸子百家の書に広く通じた。騎射に善く、撃剣を好んだ。茂才に挙げられたが、行かなかった。 (『魏書』)
―― 建安十三年(208)司徒趙温に辟された。太祖が上表した 「趙温は臣の子弟を辟しましたが、選挙は実を以て為されておりません」 侍中・守光禄勲郗慮を持節として策(詔書)を奉じさせ、趙温の官を免じた。 (『献帝起居注』)

 「不以実」 とは都合のいい玉虫色の表現ですが、どんな事を指すのでしょう。筑摩版では 「実質を無視している」=曹操への阿諛行為としています。『後漢書』趙典伝には 「忠臣を辟す事」 だとあり、補注には 「忠臣とは中朝の臣すなわち朝臣である」 とし、列伝五十三の李固伝を引いて 「(現職の)中臣の子弟を吏としたり選挙する事を禁ず」 とあります。朝廷内での朋党形成の回避策のようです。

[2] 太祖がなかなか立太子せず、太子は疑った。当時、高元呂という者があって観相に善く、これを呼んで問うに対えて 「その貴い事は言葉にできません」 問うた 「寿命はどれほどか?」 高元呂 「その寿命は四十歳で小さな苦難がありますが、それを過ぎれば憂いはありません」 この後、幾許もなく王太子に立てられ、四十歳で薨じた。 (『魏略』)
[3] 漢帝詔曰 「魏太子丕:昔皇天授乃顕考以翼我皇家、遂攘除羣凶、拓定九州、弘功茂績、光於宇宙、朕用垂拱負扆二十有余載。天不憖遺一老、永保余一人、早世潜神、哀悼傷切。丕奕世宣明、宜秉文武、紹熙前緒。今使使持節御史大夫華歆奉策詔授丕丞相印綬・魏王璽紱、領冀州牧。方今外有遺虜、遐夷未実、旗鼓猶在辺境、干戈不得韜刃、斯乃播揚洪烈、立功垂名之秋也。豈得脩諒闇之礼、究曾子・閔子蹇之志哉?其敬服朕命、抑弭憂懐、旁祗厥緒、時亮庶功、以称朕意。於戯、可不勉與!」 (袁宏『漢紀』)
[4] 庚戌(4日)の布令 「関津は旅商人を通過させるもので、池苑は災荒に備えるものである。入禁や重税を設けるのは民にとって利便とならない。池籞の禁を除去し、関津の税を軽減し、全て十分の一税に戻せ」
辛亥(5日)、諸侯王や将軍・相国以下将校に粟万斛・帛千匹を賜い、金銀は各々で差を設けた。使者を遣って郡国を巡行させ、法に違える暴虐者の罪を検挙させた。 (『魏書』)
[5] 王は殷登を召見して謂うには 「昔、(魯荘公の妾の)成風は(卜者)楚丘の繇(占辞)を聞いて季友に敬事し、ケ晨は少公の言を信じて光武帝と通婚した。殷登は篤老であり、占術を服膺して(胸に納めて)天道を記識した。彼らと同じといえよう!」 殷登に穀三百斛を賜い、家に帰した。 (『魏書』)
[6] 丙戌、史官に命じ、重黎・羲和の職を修め、歴象や日月星辰によって天の時を奉じさせた。 (『魏書』)
―― 裴松之が調べるに、『魏書』にこの記事はあるが、その職は聞かない。

 職名ではなく、太史官として職に励めということで伝説上の史官の名を出したに過ぎません。

丁亥に布令した 「故の尚書僕射毛玠、奉常王脩涼茂、郎中令袁渙、少府謝奐・万潜、中尉徐奕国淵らは皆な忠直で朝廷に在り、仁義を履踏したが、いずれも早く世を去った。しかも子孫は陵遅(衰微)しており、惻然としてこれを愍れむ。皆なの子弟を郎中に拝せ」
[7] 饒安に田租を、勃海郡の百戸ごとに牛・酒を賜い、三日の大酺(集宴)を認めた。太常が太牢を以て宗廟を祠った。 (『魏書』)

 漢の律では、無許可で三人以上が集宴すると罰金刑なんだそうな。パンもサーカスも無しかよ。

[8] 王は素服で鄴の東城門に行幸し、哀悼した。 (『魏書』)
―― 孫盛曰く、『礼』には、天子の哭礼は同姓なら宗廟の門の外で行なうとある。城門での哭礼は礼の義を失ったものである。

 この時点で天子の礼を持ち出している事がズレていますが、そもそもが曹氏が夏侯氏からの養子だというゴシップを基礎に据えているからこんな的外れな指摘になるわけで。曹氏と夏侯氏は異姓ですから礼義上は問題ありません。

[9] 侍中鄭称を武徳侯の傅役とし、布令した 「(宝剣とされる)龍淵・太阿は昆吾の金属から鋳出され、(宝玉とされる)和氏の璧は井里の田に由出した。砥礪によって礱(みが)き、他山によって磨き、そのため能く連城の価値に値し、命世の宝となった。学問は亦た人の砥礪であり、鄭称は篤学の大儒である。経学によって侯の輔弼に勉め、朝夕に入侍してその志を燿明せよ」 (『魏略』)
[10] 当初、鄭甘・王照および盧水胡が手勢を率いて来降した時、王は降書を得ると朝廷に示し、「前に吾れに鮮卑討伐を命じさせようとする者がおり、吾れは従わなかったが(鮮卑は)来降した。又た吾れに今秋に盧水胡を討たせようとする者がおり、吾れは聴かなかったが今又た来降してきた。昔、魏武侯は一謀が当っただけで自得の色を示し、李悝に譏られた。吾れが今、こう説くのは自ら誇る為ではなく、座してこれを降らせるのは、兵を動かして革める事より功が大きいと考えるからである」 (『魏書』)

 だったら 「吾れは〜」 とか云わなければいいのに…とは禁句ですか? どう見ても自ら誇っています。翌々年の猇亭の役でも同じような自慢をしているので、我慢できずツッコんでしまいました。

[11] 黄華は後に兗州刺史となった。王淩伝に見える。

 王淩が将軍の楊弘を遣って廃立の事を兗州刺史黄華に告げさせた処、黄華・楊弘は連名で太傅司馬懿に言上した。司馬懿は中軍を率いて水道に乗って王淩を討った。 (中略) 楊弘・黄華の爵位を進めて郷侯とした。 (王淩伝より)

[12] 公卿が義礼を輔け、王は華蓋車を御し、金鼓の節(による閲兵)を視た。 (『魏書』)
[13] 王が出征しようとした時、度支中郎将の新平の霍性が上疏して諫めた
「臣は文王が紂王を討つ際の事として、天下は括嚢(のように才知を隠)して咎を免れ、凡百の君子は応諮を肯んずる者が莫かったと聞いております。今、大王は乾坤を体現し、四聴を広く開き、賢愚を各々適所に建てておられます。伏して惟(おもんみる)に、先王の功業は比類なく、しかし(戦ばかりで)当今の能く言辞を為す輩もその徳を称えません。古の聖人は“百姓の歓心を得る”と、兵書は“戦とは危事である”としています。だから六国の力戦の弊を彊秦が承けたのであり、豳王は争わずに周の道が興されたのです。

 秦による統一が近い過去で、周の興隆が遠い過去であるため変な順序になっています。当初は秦の後に周由来の勢力が興ったのかと錯覚しました。だから上奏詔勅関係は嫌いなんです。文頭・文末だけでなく随所に美辞麗句をぶちまけているのも、難解な表現が多用されるのも嫌いです。

愚臣が思いますに、大王は重きを本朝(漢)に委ねて雌伏し、威を揚げて虎臥すれば功業は成りましょう。しかし今、剏基(創業したて)で直ちに復た兵を起されています。兵は凶器であり、きっと凶擾があります。擾は乱を思い、乱は不意に発生します。臣はこれを危ぶみ、危うさは累卵のようです。昔、夏啓(禹王の嗣子)は(服喪中の)三年間精神を休めました。『易』に『遠からずして復る』とあり、『論語』に『(過失があれば)憚らずに改む』とあります。まことに願わくば大王よ。古きを量り今を察し、深謀遠慮して三事大夫(三公)と与にその長短を算られん事を。臣は先王の知遇に沐浴し、又た(王が)改政を初めるにあたり、復た重任を受けました。言辞が龍鱗に触れ、阿諛が福に近い事を知るとはいえ、竊い感じる所を誦べ、危うきを待たぬものであります」
 上奏が通じられると王は怒り、刺奸(軍中の糾問官)を遣って拷案に就かせ、終にはに殺した。程なく悔い、追って赦したが及ばなかった。 (『魏略』)

 曹丕の心中を一言で表すなら 「空気読めよ!」 でしょう。今回の出征は戦争ではありません。色々とお膳立てが進行しているんだから察してくれても良さそうなのに、君がそんな諫言をしてしまうと孫権が勘違いして混ぜるな危険になってしまうじゃないか! …全て解った上で嫌がらせとして諫めたんなら大したものです。

[14] 黄帝が明台の議を立てたのは、上は兵を観る為であり、堯が衢室を諮問したのは、下は民を聴く為である。舜帝には(民が)善事を告げる為の旌があって君主はこれを隠蔽せず、禹王は朝廷に鼓を立建して訴訟用として備えた。成湯には総街の廷(?)があって民の非行を観察し、武王には霊台の囿があって賢者を進挙した。これは古えの聖帝・明王が保有して失わなかった理由であり、忘れてはならないものである。 (『管子』)
[15] 魏王自らの手筆による布令 「先日に遣使して国の威霊を宣揚したところ、孟達がたちまち来降した。吾れは『春秋』が儀父[※]を褒称している事を念い、孟達を封じ拝し、領新城太守に還そう。近ごろ復た老人を扶け幼児を攜えて王化(の地)に首向する者があるとか。吾れは夙沙の民は自らその君主を縛って神農に帰し、豳国の衆人はその子を襁褓に負って豊・鎬に入ったと聞く。これらはどうして駆掠迫脅したものであるといえようか?風化はその情を動かし、仁義がその衷心を感応させ、歓心が内に発した結果に他ならない。この事から推測すれば、西・南は万里であっても外地ではなく、孫権・劉備はいったい誰と守死しようというのか?」 (『魏略』)

※ 邾儀父は『左伝』隠公元年三月に魯隠公と会盟し、後に王命で邾子に封じられる人物です。何を以てここで引用されたのかはよく解りません。

 孟達の来降は曹丕にとって狂喜乱舞に近いものでした。世が世なら、自室で歓喜の舞をやって下駄の歯が折れても気付かない状況です。孟達の厚遇については明帝紀に詳しいです。

[16] 伎楽・百戯を設け、布令した 「先王は皆な生地を楽しみ、礼としてその根本を忘れないものである。譙は霸王の邦であり、真人を本より出した。譙の租税を二年除く」 三老・吏民は上を寿ぎ、夕刻になって宴を罷めた。丙申、親しく譙陵を祠った。 (『魏書』)
―― 孫盛曰く、三年の服喪は天子から庶民まで服するのが礼の基本で、国を全うに保つ万世不易の法典である。そのため礼が衰微した時代でも葬礼は疎かにされなかった。漢文帝が古制を改変して人倫は瞬く間に廃れ、忠孝は地に墜ちた。道が薄れ、教化が頽れる出発点となったのだ。魏はそんな漢制を承け、さらに大礼を替えて喪中にも饗宴の楽(譙での宴会と漢室との通婚)を設け、子孫への教化を蔑ろにし、王化の基を失墜させた。天の御心を喪う所業である。これによって王が短命に終り、魏の世が短かったことが知れるのである。
[17] 『漢書』高祖八月令 「士卒で従軍死した者には槥を為せ」 ―― 応劭注 「槥とは小棺である。今の櫝である」
―― 応璩の百一詩 「槥車道路に在り、征夫休むを得ず」 ―― 陸機の大墓賦 「細木を観て遅きに悶え、洪櫝を観て槥を念う」
[18] 漢帝詔曰:「朕在位三十有二載、遭天下蕩覆、幸頼祖宗之霊、危而復存。然仰瞻天文、俯察民心、炎精之数既終、行運在乎曹氏。是以前王既樹神武之績、今王又光曜明徳以応其期、是暦数昭明、信可知矣。夫大道之行、天下為公、選賢與能、故唐堯不私於厥子、而名播於無窮。朕羨而慕焉、今其追踵堯典、禅位于魏王。 (袁宏『漢紀』)

(ご先祖の守護霊のお陰で32年間やってこれたけど、天命は曹氏に移っているっぽい。そもそも天下は私物ではなく、有徳者に譲るのが筋なので、堯帝に倣って魏王に禅位したい)

[19]以下、他書に載せる禅譲の進行劇です。既定路線で茶番しているのでほぼ以下略です。
 禅代衆事曰:左中郎将李伏表魏王曰:「昔先王初建魏国、在境外者聞之未審、皆以為拝王。武都李庶・姜合羈旅漢中、謂臣曰:『必為魏公、未便王也。定天下者、魏公子桓、神之所命、当合符讖、以応天人之位。』臣以合辞語鎮南将軍張魯、張魯亦問合知書所出?合曰:『孔子玉版也。天子暦数、雖百世可知。』是後月余、有亡人来、写得冊文、卒如合辞。合長于内学、関右知名。魯雖有懐国之心、沈溺異道変化、不果寤合之言。後密與臣議策質、国人不協、或欲西通、張魯即怒曰:『寧為魏公奴、不為劉備上客也。』言発惻痛、誠有由然。合先迎王師、往歳病亡於鄴。自臣在朝、毎為所親宣説此意、時未有宜、弗敢顕言。殿下即位初年、禎祥衆瑞、日月而至、有命自天、昭然著見。然聖徳洞達、符表予明、実乾坤挺慶、万国作孚。臣毎慶賀、欲言合験;事君尽礼、人以為諂。況臣名行穢賤、入朝日浅、言為罪尤、自抑而已。今洪沢被四表、霊恩格天地、海内翕習、殊方帰服、兆応並集、以揚休命、始終允臧。臣不勝喜舞、謹具表通。」

 (王の禅譲の事は関中でも有名な予言者の姜合が太鼓判を捺したもので、その場に同席した鎮南将軍張魯も目が覚め、「魏公の奴隷となっても劉備の上客になどならぬ」 と申しました。瑞兆が続いている今、ようやくこの事を言上する機会がやって来たので申し上げます)」

王令曰:「以示外。薄徳之人、何能致此、未敢当也;斯誠先王至徳通於神明、固非人力也。」

 李伏の表を外に示して薄徳の自分の事ではなく、諸々の瑞兆は先王に応じたものだと周知させろと申しております。だったら示さなくていいじゃん。

―― 魏王侍中劉廙・辛毗・劉曄、尚書令桓階、尚書陳矯・陳羣、給事黄門侍郎王・董遇等言:「臣伏読左中郎将李伏上事、考図緯之言、以效神明之応、稽之古代、未有不然者也。故堯称暦数在躬、璇璣以明天道;周武未戦而赤烏銜書;漢祖未兆而神母告符;孝宣仄微、字成木葉;光武布衣、名已勒讖。是天之所命以著聖哲、非有言語之声、芬芳之臭、可得而知也、徒懸象以示人、微物以效意耳。自漢徳之衰、漸染数世、桓・霊之末、皇極不建、曁於大乱、二十余年。天之不泯、誕生明聖、以済其難、是以符讖先著、以彰至徳。殿下踐阼未朞、而霊象変於上、群瑞応於下、四方不羈之民、帰心向義、唯懼在後、雖典籍所伝、未若今之盛也。臣妾遠近、莫不鳧藻。」

 文書関係のエキスパートが参戦し、ここから本番です。伝説時代の瑞兆を引合いに出し、漢の衰えを述べ、踐阼一年足らずでの瑞兆の連続で曹丕を称えています。伝説時代に勝るとの論調も加わってきました。

王令曰:「犂牛之駮似虎、莠之幼似禾、事有似是而非者、今日是已。覩斯言事、良重吾不徳。(仔虎と斑猫は似ているもんだよ)」 於是尚書僕射宣告官寮、咸使聞知。
―― 辛亥(9日)、太史丞許芝条魏代漢見讖緯于魏王曰:「易伝曰:『聖人受命而王、黄龍以戊己日見。』七月四日戊寅、黄龍見、此帝王受命之符瑞最著明者也。又曰:『初六、履霜、陰始凝也。』又有積虫大穴天子之宮、厥咎然、今蝗虫見、応之也。又曰:『聖人以徳親比天下、仁恩洽普、厥応麒麟以戊己日至、厥応聖人受命。』又曰:『聖人清浄行中正、賢人福至民従命、厥応麒麟来。』春秋漢含孳曰:『漢以魏、魏以徴。』春秋玉版讖曰:『代赤者魏公子。』春秋佐助期曰:『漢以許昌失天下。』故白馬令李雲上事曰:『許昌気見于当塗高、当塗高者当昌於許。』当塗高者、魏也;象魏者、両観闕是也;当道而高大者魏。魏当代漢。今魏基昌于許、漢徴絶于許、乃今效見、如李雲之言、許昌相応也。佐助期又曰:『漢以蒙孫亡。』説者以蒙孫漢二十四帝、童蒙愚昏、以弱亡。或以雑文為蒙其孫当失天下、以為漢帝非正嗣、少時為董侯、名不正、蒙乱之荒惑、其子孫以弱亡。孝経中黄讖曰:『日載東、絶火光。不横一、聖聡明。四百之外、易姓而王。天下帰功、致太平、居八甲;共礼楽、正万民、嘉楽家和雑。』此魏王之姓諱、著見図讖。易運期讖曰:『言居東、西有午、両日並光日居下。其為主、反為輔。五八四十、黄気受、真人出。』言午、許字。両日、昌字。漢当以許亡、魏当以許昌。今際会之期在許、是其大效也。易運期又曰:『鬼在山、禾女連、王天下。』臣聞帝王者、五行之精;易姓之符、代興之会、以七百二十年為一軌。有徳者過之、至于八百、無徳者不及、至四百載。是以周家八百六十七年、夏家四百数十年、漢行夏正、迄今四百二十六歳。又高祖受命、数雖起乙未、然其兆徴始于獲麟。獲麟以来七百余年、天之暦数将以尽終。帝王之興、不常一姓。太微中、黄帝坐常明、而赤帝坐常不見、以為黄家興而赤家衰、凶亡之漸。自是以来四十余年、又熒惑失色不明十有余年。建安十年、彗星先除紫微、二十三年、復掃太微。新天子気見東南以来、二十三年、白虹貫日、月蝕熒惑、比年己亥・壬子・丙午日蝕、皆水滅火之象也。殿下即位、初踐阼、徳配天地、行合神明、恩沢盈溢、広被四表、格于上下。是以黄龍数見、鳳皇仍翔、麒麟皆臻、白虎效仁、前後献見于郊甸;甘露醴泉、奇獣神物、衆瑞並出。斯皆帝王受命易姓之符也。昔黄帝受命、風后受河図;舜・禹有天下、鳳皇翔、洛出書;湯之王、白鳥為符;文王為西伯、赤鳥銜丹書;武王伐殷、白魚升舟;高祖始起、白蛇為徴。巨跡瑞応、皆為聖人興。観漢前後之大災、今茲之符瑞、察図讖之期運、揆河洛之所甄、未若今大魏之最美也。夫得歳星者、道始興。昔武王伐殷、歳在鶉火、有周之分野也。高祖入秦、五星聚東井、有漢之分野也。今茲歳星在大梁、有魏之分野也。而天之瑞応、並集来臻、四方帰附、襁負而至、兆民欣戴、咸楽嘉慶。春秋大伝曰:『周公何以不之魯?蓋以為雖有継体守文之君、不害聖人受命而王。』周公反政、尸子以為孔子非之、以為周公不聖、不為兆民也。京房作易伝曰:『凡為王者、悪者去之、弱者奪之。易姓改代、天命応常、人謀鬼謀、百姓與能。』伏惟殿下体堯舜之盛明、膺七百之禅代、当湯武之期運、値天命之移受、河洛所表、図讖所載、昭然明白、天下学士所共見也。臣職在史官、考符察徴、図讖效見、際会之期、謹以上聞。」

 いよいよ気合が入ってまいりました。まずは有名な 「代漢者当塗高」 に代表される讖緯の解説から。次に天文現象をこれでもかと出して新王朝の出現を力説。魏が漢に代る為の客観的風味な理由づけは概ねこの許芝の上表に述べられているように思います。面倒なので訳しません。

王令曰:「昔周文三分天下有其二、以服事殷、仲尼歎其至徳;公旦履天子之籍、聴天下之断、終然復子明辟、書美其人。吾雖徳不及二聖、敢忘高山景行之義哉?若夫唐堯・舜・禹之蹟、皆以聖質茂徳処之、故能上和霊祇、下寧万姓、流称今日。今吾徳至薄也、人至鄙也、遭遇際会、幸承先王余業、恩未被四海、沢未及天下、雖傾倉竭府以振魏国百姓、猶寒者未尽煖、飢者未尽飽。夙夜憂懼、弗敢遑寧、庶欲保全髮歯、長守今日、以没於地、以全魏国、下見先王、以塞負荷之責。望狭志局、守此而已;雖屡蒙祥瑞、当之戦惶、五色無主。若芝之言、豈所聞乎?心慄手悼、書不成字、辞不宣心。吾間作詩曰:『喪乱悠悠過紀、白骨縦横万里、哀哀下民靡恃、吾将佐時整理、復子明辟致仕。』庶欲守此辞以自終、卒不虚言也。宜宣示遠近、使昭赤心。」

 お決まりの、「自分の徳が古えの聖王・聖人に達していない」 というパターン。こうなると勧進する側は対論として曹丕が如何に優れているかを陳べるので、かったるいお追従の羅列に陥ります。それを如何に美辞麗句で修飾するかが腕の見せどころ。

於是侍中辛毗・劉曄、散騎常侍傅巽・衛臻、尚書令桓階、尚書陳矯・陳羣、給事中博士騎都尉蘇林・董巴等奏曰:「伏見太史丞許芝上魏国受命之符;令書懇切、允執謙讓、雖舜・禹・湯・文、義無以過。然古先哲王所以受天命而不辞者、誠急遵皇天之意、副兆民之望、弗得已也。且易曰:『観乎天文以察時変、観乎人文以化成天下。』又曰:『天垂象、見吉凶、聖人則之;河出図、洛出書、聖人效之。』以為天文因人而変、至于河洛之書、著于洪範、則殷・周效而用之矣。斯言、誠帝王之明符、天道之大要也。是以由徳應録者代興于前、失道数尽者迭廃于後、伝譏萇弘欲支天之所壊、而説蔡墨『雷乗乾』之説、明神器之存亡、非人力所能建也。今漢室衰替、帝綱墮墜、天子之詔、歇滅無聞、皇天将捨旧而命新、百姓既去漢而為魏、昭然著明、是可知也。先王撥乱平世、将建洪基;至於殿下、以至徳当暦数之運、即位以来、天応人事、粲然大備、神靈図籍、兼仍往古、休徴嘉兆、跨越前代;是芝所取中黄・運期姓緯之讖、斯文乃著於前世、與漢並見。由是言之、天命久矣、非殿下所得而拒之也。神明之意、候望禋享、兆民顒顒、咸注嘉願、惟殿下覧図籍之明文、急天下之公義、輒宣令外内、布告州郡、使知符命著明、而殿下謙虚之意。」
令曰:「下四方以明孤款心、是也。至于覧余辞、豈余所謂哉?寧所堪哉?諸卿指論、未若孤自料之審也。夫虚談謬称、鄙薄所弗当也。且聞比来東征、経郡県、歴屯田、百姓面有飢色、衣或短褐不完、罪皆在孤;是以上慚衆瑞、下愧士民。由斯言之、徳尚未堪偏王、何言帝者也!宜止息此議、無重吾不徳、使逝之後、不愧後之君子。」
―― 癸丑(11日)、宣告群寮。督軍御史中丞司馬懿、侍御史鄭渾・羊祕・鮑・武周等言:「令如左。伏読太史丞許芝上符命事、臣等聞有唐世衰、天命在虞、虞氏世衰、天命在夏;然則天地之霊、暦数之運、去就之符、惟徳所在。故孔子曰:『鳳鳥不至、河不出図、吾已矣夫!』今漢室衰、自安・和・沖・質以来、国統屡絶、桓・霊荒淫、禄去公室、此乃天命去就、非一朝一夕、其所由来久矣。殿下踐阼、至徳広被、格于上下、天人感応、符瑞並臻、考之旧史、未有若今日之盛。夫大人者、先天而天弗違、後天而奉天時、天時已至而猶謙讓者、舜・禹所不為也、故生民蒙救済之恵、群類受育長之施。今八方顒顒、大小注望、皇天乃眷、神人同謀、十分而九以委質、義過周文、所謂過恭也。臣妾上下、伏所不安。」令曰:「世之所不足者道義也、所有余者苟妄也;常人之性、賤所不足、貴所有余、故曰『不患無位、患所以立』。孤雖寡徳、庶自免于常人之貴。夫『石可破而不可奪堅、丹可磨而不可奪赤』。丹石微物、尚保斯質、況吾託士人之末列、曾受教于君子哉?且於陵仲子以仁為富、柏成子高以義為貴、鮑焦感子貢之言、棄其蔬而槁死、薪者譏季札失辞、皆委重而弗視。吾独何人?昔周武、大聖也、使叔旦盟膠鬲于四内、使召公約微子於共頭、故伯夷・叔斉相與笑之曰:『昔神農氏之有天下、不以人之壞自成、不以人之卑自高。』以為周之伐殷以暴也。吾徳非周武而義慚伯夷・叔斉、庶欲遠苟妄之失道、立丹石之不奪、邁於陵之所富、踏柏成之所貴、執鮑焦之貞至、遵薪者之清節。故曰:『三軍可奪帥、匹夫不可奪志。』吾之斯志、豈可奪哉?」
―― 乙卯(13日)、冊詔魏王禅代天下曰:「惟延康元年十月乙卯、皇帝曰、咨爾魏王:夫命運否泰、依徳升降、三代卜年、著于春秋、是以天命不于常、帝王不一姓、由来尚矣。漢道陵遅、為日已久、安・順已降、世失其序、沖・質短祚、三世無嗣、皇綱肇虧、帝典頽沮。黄于朕躬、天降之災、遭无妄厄運之會、値炎精幽昧之期。変興輦轂、禍由閹宦。董卓乗釁、悪甚澆・豷、劫遷省御、火撲宮廟、遂使九州幅裂、彊敵虎争、華夏鼎沸、蝮蛇塞路。当斯之時、尺土非復漢有、一夫豈復朕民?幸頼武王徳膺符運、奮揚神武、芟夷兇暴、清定区夏、保乂皇家。今王纉承前緒、至徳光昭、御衡不迷、布徳優遠、声教被四海、仁風扇鬼区、是以四方效珍、人神響応、天之暦数実在爾躬。昔虞舜有大功二十、而放勲禅以天下;大禹有疏導之績、而重華禅以帝位。漢承堯運、有伝聖之義、加順霊祇、紹天明命、釐降二女、以嬪于魏。使使持節行御史大夫事太常音、奉皇帝璽綬、王其永君万国、敬御天威、允執其中、天禄永終、敬之哉?」

 群臣では埒が明かないので献帝の登場です。とはいえ魏王サイドに云わされているんでしょうが、それでも当時の献帝の立ち位置とか状況とかを考えると、意外と陳舜臣氏の謂うように 「譲りたくて仕方が無い」 のかもしれません。実際に針のムシロ状態ですし。新時代を与にしたい群臣は、魏の受禅が正当かつ当然かを力説します。対して譲る側の象徴である献帝は、如何に漢がもう駄目で、随分前から死に体で今や亡骸に過ぎない事を主張しなければなりません。

於是尚書令桓階等奏曰:「漢氏以天子位禅之陛下、陛下以聖明之徳、暦数之序、承漢之禅、允当天心。夫天命弗可得辞、兆民之望弗可得違、臣請会列侯諸将・群臣陪隸、発璽書、順天命、具礼儀列奏。」
令曰:「当議孤終不当承之意而已。猶猟、還方有令。」
尚書令等又奏曰:「昔堯・舜禅於文祖、至漢氏、以師征受命、畏天之威、不敢怠遑、便即位行在所之地。今当受禅代之命、宜会百寮群司、六軍之士、皆在行位、使咸覩天命。営中促狭、可於平敞之処設壇場、奉答休命。臣輒與侍中常侍会議礼儀、太史官択吉日訖、復奏。」
令曰:「吾殊不敢当之、外亦何予事也!」
―― 侍中劉廙・常侍衞臻等奏議曰:「漢氏遵唐堯公天下之議、陛下以聖徳膺暦数之運、天人同歓、靡不得所、宜順霊符、速踐皇阼。問太史丞許芝、今月十七日己未直成、可受禅命、輒治壇場之処、所當施行別奏。」
令曰:「属出見外、便設壇場、斯何謂乎?今当辞譲不受詔也。但於帳前発璽書、威儀如常、且天寒、罷作壇士使帰。」 既発璽書、王令曰:「当奉還璽綬為譲章。吾豈奉此詔承此貺邪?昔堯譲天下於許由・子州支甫、舜亦譲于善巻・石戸之農・北人無択、或退而耕潁之陽、或辞以幽憂之疾、或遠入山林、莫知其処、或攜子入海、終身不反、或以為辱、自投深淵;且顔燭懼太樸之不完、守知足之明分、王子捜楽丹穴之潜処、被熏而不出、柳下恵不以三公之貴易其介、曾参不以晋・楚之富易其仁:斯九士者、咸高節而尚義、軽富而賤貴、故書名千載、于今称焉。求仁得仁、仁豈在遠?孤独何為不如哉?義有踏東海而逝、不奉漢朝之詔也。亟為上章還璽綬、宣之天下、使咸聞焉。」己未(17日)、宣告群僚、下魏、又下天下。
―― 輔国将軍清苑侯劉若等百二十人上書曰:「伏読令書、深執克譲、聖意懇惻、至誠外昭、臣等有所不安。何者?石戸・北人、匹夫狂狷、行不合義、事不経見者、是以史遷謂之不然、誠非聖明所当希慕。且有虞不逆放之禅、夏禹亦無辞位之語、故伝曰:『舜陟帝位、若固有之。』斯誠聖人知天命不可逆、暦数弗可辞也。伏惟陛下応乾符運、至徳発聞、升昭于天、是三霊降瑞、人神以和、休徴雑沓、万国響応、雖欲勿用、将焉避之?而固執謙虚、違天逆衆、慕匹夫之微分、背上聖之所踏、違経讖之明文、信百氏之穿鑿、非所以奉答天命、光慰衆望也。臣等昧死以請、輒整頓壇場、至吉日受命、如前奏、分別写令宣下。」
王令曰:「昔柏成子高辞夏禹而匿野、顔闔辞魯幣而遠跡、夫以王者之重、諸侯之貴、而二子忽之、何則?其節高也。故烈士徇栄名、義夫高貞介、雖蔬食瓢飲、楽在其中。是以仲尼師王駘、而子産嘉申徒。今諸卿皆孤股肱腹心、足以明孤、而今咸若斯、則諸卿遊于形骸之内、而孤求為形骸之外、其不相知、未足多怪。亟為上章還璽綬、勿復紛紛也。」
―― 輔国将軍等一百二十人又奏曰:「臣聞符命不虚見、衆心不可違、故孔子曰:『周公其為不聖乎?以天下譲。是天地日軽輕去万物也。』是以舜嚮天下、不拝而受命。今火徳気尽、炎上数終、帝遷明徳、祚隆大魏。符瑞昭ル、受命既固、光天之下、神人同応、雖有虞儀鳳、成周躍魚、方今之事、未足以喩。而陛下違天命以飾小行、逆人心以守私志、上忤皇穹眷命之旨、中忘聖人達節之数、下孤人臣翹首之望、非所以揚聖道之高衢、乗無窮之懿勲也。臣等聞事君有献可替否之道、奉上有逆鱗固争之義、臣等敢以死請。」
令曰:「夫古聖王之治也、至徳合乾坤、恵沢均造化、礼教優乎昆虫、仁恩洽乎草木、日月所照、戴天履地含気有生之類、靡不被服清風、沐浴玄徳;是以金革不起、苛慝不作、風雨応節、禎祥触類而見。今百姓寒者未煖、飢者未飽、鰥者未室、寡者未嫁;孫権・劉備尚存、未可舞以干戚、方将整以斉斧;戎役未息於外、士民未安於内、耳未聞康哉之歌、目未覩撃壤之戯、嬰児未可託於高巣、余糧未可以宿於田畝:人事未備、至於此也。夜未曜景星、治未通真人、河未出龍馬、山未出象車、蓂莢未植階庭、萐莆未生庖厨、王母未献白環、渠捜未見珍裘:霊瑞未效、又如彼也。昔東戸季子・容成・大庭・軒轅・赫胥之君、咸得以此就功勒名。今諸卿独不可少仮孤精心竭慮、以和天人、以格至理、使彼衆事備、群瑞效、然後安乃議此乎、何遽相愧相迫之如是也?速為譲章、上還璽綬、無重吾不コ也。」

 これまでは古人の謙譲の美を讃えてきました。今回は現状認識からの反論です。撃壌だの河未出龍馬だのといった儒者が喜びそうな表現も混入していますが、民の生活は安定していないし、何より劉備と孫権が残っていることに言及しているのが現実的です。

―― 侍中劉廙等奏曰:「伏惟陛下以大聖之純懿、当天命之暦数、観天象則符瑞著明、考図緯則文義煥炳、察人事則四海斉心、稽前代則異世同帰;而固拒禅命、未踐尊位、聖意懇惻、臣等敢不奉詔?輒具章遣使者。」
奉令曰:「泰伯三以天下譲、人無得而称焉、仲尼歎其至徳、孤独何人?」
―― 庚申(18日)、魏王上書曰:「皇帝陛下:奉被今月乙卯璽書、伏聴冊命、五内驚震、精爽散越、不知所処。臣前上還相位、退守藩国、聖恩聴許。臣雖無古人量徳度身自定之志、保己存性、実其私願。不寤陛下猥損過謬之命、発不世之詔、以加無徳之臣。且聞堯禅重華、挙其克諧之徳、舜授文命、采其斉聖之美、猶下咨四嶽、上観璿璣。今臣徳非虞・夏、行非二君、而承暦数之諮、応選授之命、内自揆撫、無徳以称。且許由匹夫、猶拒帝位、善巻布衣、而逆虞詔。臣雖鄙蔽、敢忘守節以当大命、不勝至願。謹拝章陳情、使行相国永壽少府糞土臣毛宗奏、并上璽綬。」

 ここで漸く献帝に対する返書です。これが一譲になります。

―― 辛酉、給事中博士蘇林・董巴上表曰:「天有十二次以為分野、王公之国、各有所属、周在鶉火、魏在大梁。歳星行歴十二次国、天子受命、諸侯以封。周文王始受命、歳在鶉火、至武王伐紂十三年、歳星復在鶉火、故春秋伝曰:『武王伐紂、歳在鶉火;歳之所在、即我有周之分野也。』昔光和七年、歳在大梁、武王始受命、於時将討黄巾。是歳改年為中平元年。建安元年、歳復在大梁、始拝大将軍。十三年復在大梁、始拝丞相。今二十五年、歳復在大梁、陛下受命。此魏得歳與周文王受命相応。今年青龍在庚子、詩推度災曰:『庚者更也、子者滋也、聖命天下治。』又曰:『王者布徳於子、治成於丑。』此言今年天更命聖人制治天下、布徳於民也。魏以改制天下、與詩協矣。顓頊受命、歳在豕韋、衛居其地、亦在豕韋、故春秋伝曰:『衛、顓頊之墟也。』今十月斗之建、則顓頊受命之分也、始魏以十月受禅、此同符始祖受命之験也。魏之氏族、出自顓頊、與舜同祖、見于春秋世家。舜以土徳承堯之火、今魏亦以土徳承漢之火、於行運、会于堯舜授受之次。臣聞天之去就、固有常分、聖人当之、昭然不疑、故堯捐骨肉而禅有虞、終無恡色、舜発隴畝而君天下、若固有之、其相受授、間不替漏;天下已伝矣、所以急天命、天下不可一日無君也。今漢期運已終、妖異絶之已審、階下受天之命、符瑞告徴、丁寧詳悉、反覆備至、雖言語相喩、無以代此。今既発詔書、璽綬未御、固執謙譲、上逆天命、下違民望。臣謹案古之典籍、参以図緯、魏之行運及天道所在、即尊之験、在于今年此月、昭晰分明。唯階下遷思易慮、以時即位、顕告天帝而告天下、然後改正朔、易服色、正大号、天下幸甚。」

 今回は木星の運行から魏への禅譲の正当性を説いています。木星は約12年で天を一周し、その軌道上は12の星宿で区画されています。周の区画は鶉火、魏の区画は大梁。周が興隆する時には木星は必ず鶉火に位置した。曹操の黄巾討伐(184)、大将軍就任(196)、丞相就任(208)のとき木星は大梁にあり、今も復た大梁にあるから天命です。木星が対応している事は曹丕の徳が文王に等しい証明だから徳の面でも問題なーし、という事です。他にも曹氏の出自が禹と同じ顓頊で、顓頊が帝王となった当時と天文が同じだから顓頊と同じに十月に禅譲されましょうとも云っています。

令曰:「凡斯皆宜聖徳、故曰:『苟非其人、道不虚行。』天瑞雖彰、須徳而光;吾徳薄之人、胡足以当之?今譲、冀見聴許、外内咸使聞知。」
―― 壬戌(20日)、冊詔曰:「皇帝問魏王言:遣宗奉庚申書到、所称引、聞之。朕惟漢家世踰二十、年過四百、運周数終、行祚已訖、天心已移、兆民望絶、天之所廃、有自来矣。今大命有所厎止、神器当帰聖徳、違衆不順、逆天不祥。王其体有虞之盛徳、応暦数之嘉会、是以禎祥告符、図讖表録、神人同応、受命咸宜。朕畏上帝、致位于王;天不可違、衆不可拂。且重華不逆堯命、大禹不辞舜位、若夫由・巻匹夫、不載聖籍、固非皇材帝器所当称慕。今使音奉皇帝璽綬、王其陟帝位、無逆朕命、以祗奉天心焉。」
―― 於是尚書令桓階等奉曰:「今漢使音奉璽書到、臣等以為天命不可稽、神器不可涜。周武中流有白魚之応、不待師期而大号已建、舜受大麓、桑蔭未移而已陟帝位、皆所以祗承天命、若此之速也。故無固譲之義、不以守節為貴、必道信於神霊、符合於天地而已。易曰:『其受命如響、無有遠近幽深、遂知来物、非天下之至賾、其孰能與於此?』今陛下応期運之数、為皇天所子、而復稽滞於辞譲、低回於大号、非所以則天地之道、副万国之望。臣等敢以死請、輒敕有司修治壇場、択吉日、受禅命、発璽綬。」
令曰:「冀三譲而不見聴、何汲汲于斯乎?」
―― 甲子(22日)、魏王上書曰:「奉今月壬戌璽書、重被聖命、伏聴冊告、肝胆戦悸、不知所措。天下神器、禅代重事、故堯将禅舜、納于大麓、舜之命禹、玄圭告功;烈風不迷、九州攸平、詢事考言、然後乃命、而猶執謙譲于徳不嗣。況臣頑固、質非二聖、乃応天統、受終明詔;敢守微節、帰志箕山、不勝大願。謹拝表陳情、使并奉上璽綬。」

 二譲目の上書です。上の桓階らに対する返答で 「三譲」 と云っていますが、何か見落としましたかね。

―― 侍中劉廙等奏曰:「臣等聞聖帝不違時、明主不逆人、故易称通天下之志、断天下之疑。伏惟陛下体有虞之上聖、承土徳之行運、当亢陽明夷之会、応漢氏祚終之数、合契皇極、同符両儀。是以聖瑞表徴、天下同応、暦運去就、深切著明;論之天命、無所與議、比之時宜、無所與争。故受命之期、時清日晏、曜霊施光、休気雲蒸。是乃天道悦懌、民心欣戴、而仍見閉拒、于礼何居?且群生不可一日無主、神器不可以斯須無統、故臣有違君以成業、下有矯上以立事、臣等敢不重以死請。」
王令曰:「天下重器、王者正統、以聖徳当之、猶有懼心、吾何人哉?且公卿未至乏主、斯豈小事、且宜以待固譲之後、乃当更議其可耳。」
―― 丁卯(25日)、冊詔魏王曰:「天訖漢祚、辰象著明、朕祗天命、致位於王、仍陳暦数於詔冊、喩符運於翰墨;神器不可以辞拒、皇位不可以謙譲、稽於天命、至於再三。且四海不可以一日曠主、万機不可以斯須無統、故建大業者不拘小節、知天命者不繋細物、是以舜受大業之命而無遜譲之辞、聖人達節、不亦遠乎!今使音奉皇帝璽綬、王其欽承、以答天下嚮応之望焉。」
―― 相国華歆・太尉賈詡・御史大夫王朗及九卿上言曰:「臣等被召到、伏見太史丞許芝・左中郎将李伏所上図讖・符命、侍中劉廙等宣敍衆心、人霊同謀。又漢朝知陛下聖化通于神明、聖徳参于虞・夏、因瑞応之備至、聴暦数之所在、遂献璽綬、固譲尊号。能言之倫、莫不抃舞、河図・洛書、天命瑞應、人事協于天時、民言協于天敍。而陛下性秉労謙、體尚克讓、明詔懇切、未肯聽許、臣妾小人、莫不伊邑。臣等聞自古及今、有天下者不常在乎一姓;考以コ勢、則盛衰在乎彊弱、論以終始、則廃興在乎期運。唐・虞暦数、不在厥子而在舜・禹。舜・禹雖懐克譲之意迫、群后執玉帛而朝之、兆民懐欣戴而帰之、率土揚歌謡而詠之、故其守節之拘、不可得而常処、達節之権、不可得而久避;是以或遜位而不恡、或受禅而不辞、不恡者未必厭皇寵、不辞者未必渇帝祚、各迫天命而不得以已。既禅之後、則唐氏之子為賓于有虞、虞氏之冑為客于夏代、然則禅代之義、非独受之者実応天福、授之者亦與有余慶焉。漢自章・和之後、世多変故、稍以陵遅、洎乎孝霊、不恒其心、虐賢害仁、聚斂無度、政在嬖豎、視民如讐、遂令上天震怒、百姓従風如帰;当時則四海鼎沸、既没則禍発宮庭、寵勢並竭、帝室遂卑、若在帝舜之末節、猶択聖代而授之、荊人抱玉璞、猶思良工而刊之、況漢国既往、莫之能匡、推器移君、委之聖哲、固其宜也。漢朝委質、既願礼禅之速定也、天祚率土、必将有主;主率土者、非陛下其孰能任之?所謂論徳無與為比、考功無推譲矣。天命不可久稽、民望不不可久違、臣等慺慺、不勝大願。伏請陛下割ヒ謙之志、脩受禅之礼、副人神之意、慰外内之願。」

 とうとう満を持したかのように魏国の重鎮の登場です。普通はここで折れるものですが、まだ二譲しかしていないので折れません。それとも全員の勧進を一通り断った後に受けるのが美徳の形式でしょうか?

令曰:「以徳則孤不足、以時則戎虜未滅。若以群賢之霊、得保首領、終君魏国、於孤足矣。若孤者、胡足以辱四海?至乎天瑞人事、皆先王聖徳遺慶、孤何有焉?是以未敢聞命。」
―― 己巳(27日)、魏王上書曰:「臣聞舜有賓于四門之勲、乃受禅於陶唐、禹有存国七百之功、乃承禄於有虞。臣以蒙蔽、徳非二聖、猥当天統、不敢聞命。敢屡抗疏、略陳私願、庶章通紫庭、得全微節、情達宸極、永守本志。而音重復銜命、申制詔臣、臣実戦タ、不発璽書、而音迫于厳詔、不敢復命。願陛下馳伝騁駅、召音還台。不勝至誠、謹使宗奉書。」

 三譲目です。 「四方から諸侯が来朝していない」 という具体例を出してきましたよ。異国の朝貢があれば禅譲されてもイイヨという伏線でしょうか。あ、伏線ってのは種明かしされて初めて思い当たるような、本線とは無関係な小さな仕込みでしたね。この場合は何て云うんでしたっけか?

―― 相国歆・太尉詡・御史大夫朗及九卿奏曰:「臣等伏読詔書、於邑益甚。臣等聞易称聖人奉天時、論語云君子畏天命、天命有去就、然後帝者有禅代。是以唐之禅虞、命在爾躬、虞之順唐、謂之受終;堯知天命去己、故不得不禅舜、舜知暦数在躬、故不敢不受;不得不禅、奉天時也、不敢不受、畏天命也。漢朝雖承季末陵遅之余、猶務奉天命以則堯之道、是以願禅帝位而帰二女。而陛下正於大魏受命之初、抑虞・夏之達節、尚延陵之譲退、而所枉者大、所直者小、所詳者軽、所略者重、中人凡士猶為陛下陋之。没者有霊、則重華必忿憤于蒼梧之神墓、大禹必鬱悒于会稽之山陰、武王必不悦于高陵之玄宮矣。是以臣等敢以死請。且漢政在閹宦、禄去帝室七世矣、遂集矢石於其宮殿、而二京為之丘墟。当是之時、四海蕩覆、天下分崩、武王親衣甲而冠冑、沐雨而櫛風、為民請命、則活万国、為世撥乱、則致升平、鳩民而立長、築宮而置吏、元元無過、罔于前業、而始有造于華夏。陛下即位、光昭文徳、以翊武功、勤恤民隠、視之如傷、懼者寧之、労者息之、寒者以煖、飢者以充、遠人以徳服、寇敵以恩降、邁恩種徳、光被四表;稽古篤睦、茂于放、網漏呑舟、弘乎周文。是以布政未朞、人神並和、皇天則降甘露而臻四霊、后土則挺芝草而吐醴泉、虎豹鹿兔、皆素其色、雉鳩燕雀、亦白其羽、連理之木、同心之瓜、五采之魚、珍祥瑞物、雑遝於其間者、無不畢備。古人有言:『微禹、吾其魚乎!』微大魏、則臣等之白骨交横于曠野矣。伏省群臣外内前後章奏、所以陳敍陛下之符命者、莫不条河洛之図書、拠天地之瑞応、因漢朝之款誠、宣万方之景附、可謂信矣著矣;三王無以及、五帝無以加。民命之懸於魏邦、民心之繋於魏政、三十有余年矣、此乃千世時至之会、万載一遇之秋;達節広度、宜昭於斯際、拘牽小節、不施於此時。久稽天命、罪在臣等。輒営壇場、具礼儀、擇吉日、昭告昊天上帝、秩群神之礼、須禋祭畢、会群寮於朝堂、議年号・正朔・服色当施行、上。」
復令曰:「昔者大舜飯糗茹草、将終身焉、斯則孤之前志也。及至承堯禅、被袗裘、妻二女、若固有之、斯則順天命也。羣公卿士誠以天命不可拒、民望不可違、孤亦曷以辞焉?」

 曹丕が折れた! 堯舜には徳が全く及ばないと云いつつ、結局は舜がやったから自分もいいよね、です。

―― 庚午(28日)、冊詔魏王曰:「昔堯以配天之徳、秉六合之重、猶覩暦運之数、移於有虞、委譲帝位、忽如遺跡。今天既訖我漢命、乃眷北顧、帝皇之業、実在大魏。朕守空名以竊古義、顧視前事、猶有慚徳、而王遜譲至于三四、朕用懼焉。夫不辞万乗之位者、知命達節之数也、虞・夏之君、処之不疑、故勲烈垂于万載、美名伝于無窮。今遣守尚書令侍中衛覬喩、王其速陟帝位、以順天人之心、副朕之大願。」
―― 於是尚書令桓階等奏曰:「今漢氏之命已四至、而陛下前後固辞、臣等伏以為上帝之臨聖徳、期運之隆大魏、斯豈数載?伝称周之有天下、非甲子之朝、殷之去帝位、非牧野之日也、故詩序商湯、追本玄王之至、述姫周、上録后稷之生、是以受命既固、厥徳不回。漢氏衰廃、行次已絶、三辰垂其徴、史官著其験、耆老記先古之占、百姓協歌謡之声。陛下応天受禅、当速即壇場、柴燎上帝、誠不宜久停神器、拒億兆之願。臣輒下太史令択元辰、今月二十九日、可登壇受命、請詔王公群卿、具条礼儀別奏。」
令曰:「可。」 (『献帝伝』)
[20] 辛未(29日)、魏王登壇受禅、公卿・列侯・諸将・匈奴単于・四夷朝者数万人陪位、燎祭天地・五嶽・四瀆、曰:「皇帝臣丕敢用玄牡昭告于皇皇后帝:漢歴世二十有四、踐年四百二十有六、四海困窮、三綱不立、五緯錯行、霊祥並見、推術数者、慮之古道、咸以為天之暦数、運終茲世、凡諸嘉祥民神之意、比昭有漢数終之極、魏家受命之符。漢主以神器宜授於臣、憲章有虞、致位于丕。丕震畏天命、雖休勿休。群公庶尹六事之人、外及将士、洎于蛮君長、僉曰:『天命不可以辞拒、神器不可以久曠、群臣不可以無主、万幾不可以無統。』丕祗承皇象、敢不欽承。卜之守亀、兆有大横、筮之三易、兆有革兆、謹択元日、與群寮登壇受帝璽綬、告類于爾大神;唯爾有神、尚饗永吉、兆民之望、祚于有魏世享。」
三公に制詔した 「上古の始めの君主は必ず崇恩によって美しく風俗を教化し、百姓は政教に従順となって刑の実施は厝(お)かれた。今、朕は帝王の緒を承け、延康元年を黄初元年とする。正朔を改制し、服色を易え、徽号を殊にし、律と度量を同じくし、(五行の)土行を承ける事を議せよ。天下に大赦して殊死以下より、諸々の赦免に該当しないものも皆な赦して除け」 (『献帝伝』)
―― 帝は昇壇して礼を畢え、顧みて群臣に謂った 「舜・禹の事を吾れは知ったぞ」 (『魏氏春秋』)

 両王の行なった儀式の内容を理解したのか、その気持ちを理解したのか。

―― 宋の大夫の邢史子臣は天道に明るく、周敬王の三十七年に宋景公に問われた 「天道にはどんな祥兆があるか?」 対えた 「五年後の五月丁亥に臣は死にましょう。死後五年の五月丁卯に呉は滅び、その五年後に君は終えましょう。その後四百年して邾王の天下となります」 全てその言葉通りになった。邾王の天下とは魏の興起を謂うものである。邾は曹姓であり、魏も亦た曹姓で、皆な邾の後裔である。その年数は錯誤しているが、邢史がその数を知らなかったのか、年代が久遠であって注記者の相伝に誤謬があったのかは分らない。 (干宝『捜神記』)
 


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